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2018/03/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(9) / 流され王~了

 

 薩摩・大隅の天智天皇にも、豐後の玉世姫とよく似た玉依姫の話が傳つて居る。是と同時に王子の神を主として祭つた場合には、或は牛根郷の居世(こせ)神社には欽明天皇の第一皇子と謂ひ(地理纂考卷二一)、佐多郷の十三所大明神では忍熊王子と傳へて、何れも神船漂著の口碑の存することは、北海岸で半島の國王を説くものに近い(三國神社傳記卷中)。忍熊王子は越前丹生郡にもあるが、十三所と謂ふに至つては略其起源の熊野權現なることを示して居る。而も熊野には限らず越前では氣比白山、東國では香取鹿島、さては西州の阿蘇も宇佐も、王子卽ち苗裔神を以て遠國を經略せられた神々は、指を屈するも猶足たらず、三輪と賀茂とは申す迄も無く、播磨の荒田里、常陸の哺時臥山(くれふしやま)の如き、或は又美濃の伊那波神、上總の玉前神(たまさき)等、神が御子を産ませられて神德を永く傳へたまふと云ふ話は殆ど日本國教の第一の特色と謂つてもよい。それが我國の民心に浸染したことは、後世の佛徒も之を無視することが出來ず、如何に謙遜なる念佛聖の宗旨でも、御一方くらゐは無名の皇族を我本山にかくまひ申さぬは無く、思ひ掛けぬ田舍の寺にも每に流され王の物語は釀成せられつゝあつたのである。自分は古風土記に記された世々の天皇の御遺趾乃至は國史の綾を爲す英邁なる皇子の御事蹟まで、祖先民人が信仰の美しい夢であつたとは言はぬが、少なくとも今日尚我々を迷はしめる國々の平家谷、小松寺や惟盛後裔の舊記の類だけは、斯う云ふ立場から一應精細なる比較研究をして後に、それがどう云ふ意味で、我々も史料なるかを決定してみたいと思ふのである。そつとして置いて次第に忘れさせようとか、又はごく内々で手を振るとか云ふ態度が、之に由つて行く行く改まつたら、それこそ武州の高麗王等が、無意識に世に遺す所の大なる恩惠である。

        (大正九年七月、史林)

[やぶちゃん注:「玉依姫」例えば、鹿児島県志布志市志布志町安楽(やすら)にある安楽神社の由緒について、「鹿児島県神社庁」公式サイト内の同神社の解説に、『天智天皇の大后倭姫が大津の宮で崩御された後、天皇大后に供奉した臣等が、和銅年間』、『此所に姫の霊を勧請して霊社を創建した』。『また』、『天智天皇が当所より頴娃』(えい:鹿児島県(離島部を除く)の南部にあった地名。現在、南九州市頴娃町(ちょう)。開聞岳の西方)『の里へ行幸され、五ヶ月御滞留の後当安楽へ還御されたが、舟磯の宿主の老翁老婆の世話により』、『ここに仮殿を営み置かれ、御心安楽であったため』、『地名を安楽という。天皇が頴娃へ御滞留中、二の后玉依姫は妊娠され、翌年当所にて女子が御降誕、乙姫と名付けられた。玉依姫は故郷の頴娃へ帰られたが、姫の崩御の後、和銅年間』、『此所に霊社を建立した』とある。

「牛根郷の居世(こせ)神社」鹿児島県垂水(たるみず)市牛根麓(うしねふもと)にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「垂水市観光協会」公式サイト内の「居世神社」によれば、『神社帳には欽明天皇の皇子である敏達天皇が祭神として書かれて』おり、『その関わりを示すとされる金箔で覆われた菊の御紋が、社殿の梁に飾られて』ある。『源氏に敗れた安徳天皇をお祭りしているという説もあ』るとする。『居世(こせ)と読むが』、『伊勢とも読める。平家は伊勢神宮を崇拝し』、『権威を誇ってきたが、都を追われた身ゆえ、公に伊勢とはなのれなかったので』、『隠語を用いたのではないか』とも『言われている。他にも』この辺りには、『都を偲ばせる地名が多く残っている。宮崎大路、東大路、中大路御所の尾,御前,おぜん原いつかは都へ帰れると信じて』、『山深いこの地に名づけたのだろうと言われ』ているとある。

「欽明天皇の第一皇子」実は欽明天皇には渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと:後の敏達天皇)の前に第一子として、同母(石姫皇女(いしひめのひめみこ:宣化天皇の皇女))兄の箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ:八田王)がいる。欽明天皇一三(五五二)年に薨去している。死因は不詳。柳田國男が言っているのは、欽明天皇皇子敏達天皇ではなくて、この謎の若死にを遂げた「第一皇子」である。

「地理纂考」既出既注であるが、再掲しておく。明治四(一八七一)年に刊行された鹿児島県私立教育会編「薩隅日地理纂考」(さつぐうにちちりさんこう)。本格的な最初の鹿児島県地誌。

「佐多郷の十三所大明神」現在の肝属郡南大隅町佐多辺塚(へっか)にある邊塚神社に合祀されて今は存在しない。参考にしたのは、細谷章夫著(一九九六年)とする「第六章 佐多町の信仰風土」と称するPDF文書で、そこの「第3節 その他の神社」に、この合祀は戦後の昭和二四(一九四九)年に行われたとあり、合祀されたのは、この十三所大明神の他に、枝若宮(若宮)・厳島神社(弁財天)・鹿児島神社(八幡様)・鎮守神社(熊之細家氏神)の五社である。最早、それらの元の由緒縁起は全く不詳となっているらしく、リンク先には『野田千尋氏』、『その著書「佐多岬」で「辺塚川の上流にズゴラ(洞ケ原)というところがある。ここへ行く途中の中腹に高さ』二『メートル以上もある二つの供養石と元禄の年号のある高野山』『真言宗系の僧侶のお墓が二』、『三十基ある。」と記している。そしてこの墓に「小石に経文を一字ずつ書いて(一字一石経)埋めたという」こと』、『その墓は』、『むかし』、『流行病で死んだ平家の落人たちの墓だといわれている』、『と記している。真言宗系の僧侶と平家の落人との関係』、『僧侶の墓地が二』、『三十基もあるとするなら』、『寺があったとみるほうが常識。それらすべて不明である』と擱筆されてある。

「忍熊王子」「おしくまわうじ」。ウィキの「忍熊皇子」によれば、生年不詳で没したのは神功皇后元年三月とする、『記紀に伝わる古代日本の皇族』とする。「日本書紀」では「忍熊皇子」「忍熊王」、「古事記」では「忍熊王」、他文献では「忍熊別皇子」とも表記されるとあり、第十四代『仲哀天皇皇子で』第十五代『応神天皇との間での対立伝承で知られる』とする。「日本書紀」に『よれば、新羅征討(三韓征伐)中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を出産する。それを聞いた麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした』。『皇子らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(現在の兵庫県明石市』『)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが』、『菟餓野(とがの、比定地未詳)で反乱の成否を占う狩を行った際に、麛坂皇子が猪に襲われて薨去したため、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した』。『一方、神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ:宇治)に陣立てし、武内宿禰と武振熊』(たけふるくま:和珥(わに)臣の祖)『を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果てに逢坂(現・滋賀県大津市の逢坂)にて敗れた』とする(「古事記」では戦闘場面で武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績としている)。『逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという』。『以上の反乱伝承は』「日本後紀』「新撰姓氏録」「住吉大社神代記」など『でも言及されている』。『一般には、上記の内乱伝承は神功皇后・応神天皇の集団と麛坂王・忍熊王の集団との政治的な対立抗争といわれる。これに対し』、四『世紀後半のヤマト王権中枢である佐紀(奈良県北部:佐紀古墳群)の正統な後継者が麛坂王・忍熊王であったと見て、実際に反乱を起こしたのは神功皇后・応神天皇の側(元は山城南部の佐紀政権支持勢力か』『)で、勝利後に応神勢力によって佐紀から河内(大阪府東南部:古市古墳群・百舌鳥古墳群)に中枢が移されたとする説がある』。『また』、『忍熊皇子らが播磨赤石(明石)に御陵造営と偽って陣地を構築したという伝承は、五色塚古墳(兵庫県神戸市)に基づくと見られ』、『この五色塚古墳は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)の相似形で佐紀政権とのつながりを示す大型古墳であるが、一帯での古墳築造は』五『世紀代に停止する』四『世紀代勢力の衰退は』、『同じく佐紀陵山古墳相似形の網野銚子山古墳(京都府京丹後市)を含む丹後地方でも見られることから、ヤマト王権の中枢が佐紀から河内に移動する』四『世紀末において、在地首長層の盛衰をも引き起こす内乱が生じていた可能性が考古学的にも示唆されている』とある。『福井県丹生郡越前町の劔神社(式内社論社、伝越前国二宮)では、忍熊皇子が「劔御子神」の神名で同地開拓の祖として祀られている。劔神社に関しては』宝亀二(七七一)年という『全国でも早い段階で神階奉叙の記事が見えるが、これは祟る性質を持つ「敗者の霊」として祭神の忍熊皇子が重要視されたため』、『とする説がある。また、劔神社では早い時期に神宮寺も設置されており(』八『世紀初頭と推定)、やはり仏道の面から忍熊皇子の霊を慰撫する必要があったとも考えられている』とある。御霊扱いの部分に非常に興味が惹かれる。

「三國神社傳記」文化五(一八〇八)年成立。よく判らぬが、一之宮神社・鹿児島神社・川上天満宮の「鹿児島三社」についての書ではないかと推察する。

「越前丹生郡」福井県丹生(にゅう)郡。現在は越前町一町であるが、旧郡域はウィキの「丹生郡」を参照されたい。

「十三所と謂ふに至つては略其起源の熊野權現なることを示して居る」通常、熊野三所権現以外の神々を含めて「熊野十二所権現」と称し、各地の十二所神社の名もそれに由来するが、熊野那智大社では「瀧宮」を第一殿として、以下、一殿ずつ、繰り下げとして、中四社・下四社の八神を第六殿(八社殿)に祀り、合わせて「十三所権現」として祀っている

「氣比」福井県敦賀市曙町にある氣比(けひ)神宮。式内社(名神大社)で越前国一宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「氣比神宮」によれば、『敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった』とある。

「播磨の荒田里」「あらたのさと」。現在の兵庫県多可町中区及び加美区辺りを指す広域地名だったらしい。この附近(グーグル・マップ・データ)。参照したのは「播磨広域連携協議会」公式サイト内の「はりま風土記紀行」の「古の播磨を訪ねて~多可町 編」で、そこには、「播磨国風土記」には、『「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約』七『ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」とあります』。「播磨国風土記」には、何故、『田が荒れてしまったかは記載されていません』。『しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです』。『現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があり』、『また、隣の区の多可町加美区的場には』、『見るからに荘厳な式内社』であった『荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています』。『したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます』とある。久々に本単行本のメイン・テーマだった「一つ目」が出てきた

「常陸の哺時臥山(くれふしやま)」底本は実は「ねふしやま」であるが、ちくま文庫版全集は『くれふしやま』となっており、現行でも「くれふしやま」が正しいので誤植と断じて特異的に訂した。ウィキの「晡時臥山より引く。「常陸国風土記」の『那珂郡の条に記された山。この山について』は『いくつかの民話・伝承が残されている。茨城県水戸市、笠間市および、城里町に跨る朝房山』(茨城県笠間市池野辺。ここ(グーグル・マップ・データ))『であるとされる』。『常陸の国学者である中山信名編の』「新編常陸国誌」には『晡時臥山について「茨城郡牛伏村の北ニアリ、(中略)、今アサボウ山ト云フ、牛伏ハ即晡時臥也」と記され』ている。「常陸国風土記」の「晡時臥山伝承」は以下の通り。『茨城の里の北にある高い丘に晡時卧山があり、努賀毗古(ぬかびこ)と努賀毗咩(ぬかびめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀毗咩の元にだれとも分からない求婚者が夜毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀毗古も努賀毗咩も神の子ではないかと驚き、清めた坏』(つき:古代の飲食物を盛る器で、椀よりも浅く、皿よりも深いもので蓋を持つものもあった)『に蛇を入れ』、『祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいにまで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀毗咩は蛇に自分では養いきれないので』、『父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれるよう頼んだ。努賀毗咩がここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀毗古を殺し、天に上ろうとした。驚いた努賀毗咩が盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより』、『天に上ることができなくなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている』(以下、リンク先には「常陸国風土記」原文が載る)。『この夜毎に現れて求婚をする正体不明な男や、生まれた子が問題となる伝承は、古事記に伝わる三輪山の伝承や』、「山城国風土記」逸文に『伝えられる賀茂の伝承』(賀茂神社の縁起譚で、山城の賀茂建角身(かもたけつのみ)命には玉依日子(たまよりひこ)・玉依姫の二子があったが、玉依姫のが瀬見(せみ)の小川(賀茂川の異称)の畔りに遊んだ時、丹塗りの矢が川上より流れ下り、これを取って床の辺(べ)に挿し置くうち、遂に孕んで男子を産んだ。長ずるに及び、七日七夜の宴を張り、建角身がこの子に「汝が父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」と言ったところ、酒杯を捧げて天に向かって祭りをなし、屋根を突き破って昇天したというもの。ここは平凡社の「世界大百科事典」に拠った)『など類似するものが多い』。また、「肥前国風土記」の褶振山の伝承でも夜毎に通う蛇の説話が伝えられる』。『水戸市大足では晡時臥山はダイダラボウ伝説とも結びついて』おり、『これは、かつては西南にあったこの山が日陰を作って日暮れが早く、これに困りダイダラボウに山を動かしてもらったというもので、クレフシの名はすなわち、日暮れを防ぐことを意味するというものである』という。

「美濃の伊那波神」岐阜県岐阜市伊奈波通りにある伊奈波(いなば)神社。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「伊奈波神社によれば、『垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を主祭神とし、妃の淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)、母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)、外祖父の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)、臣下の物部十千根命(もののべのとちねのみこと)を配祀する。これらの神を伊奈波大神と総称する』。『社伝によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという』とある伝承を、柳田國男は指しているのであろう。

「上總の玉前神(たまさき)」千葉県長生郡一宮町一宮玉前(たまさき)神社。(グーグル・マップ・データ)。同神社公式サイト由来・由緒」神」に、『玉依姫命(たまよりひめのみこと)』とし、「古事記」には『海神・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が夫・日子火火出見命(ひこほほでみのみこと)の故郷の海浜で御子・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産の後、妹の玉依姫命に』、『その御子の養育を託して海へ去られたことが記されています』。彼女は、

 赤玉は緒さへ光れど白玉の君が裝ひし貴くありけり

という『祝いの歌を添えて』、『御子を玉依姫命に託されました。玉依姫命は陰となり日向となって赤ちゃんを守りお育てになる乳母(老いては姥)神様となられました』とある。因みにここは、ああ、あの芥川龍之介の若き日の思い出の地だ。

「小松寺」不詳。前後から見ると、以下の平維盛が行き着いたとされる伝承を持つ寺のことらしい。

「惟盛」平重盛の嫡子で小松中将を称した平維盛(平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年?)。の別表記。平家一門の嫡流として出世したが、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際、追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」では、夜、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った情けなさで知られる。翌年三月の「尾張墨俣の戦い」では源氏を撃破し、その功により、右近衛権中将・従三位となったが、翌寿永元(一一八二)年、木曾義仲追討では「倶利伽羅合戦」で大敗、義仲が上京し、平家一門が西国に没落した折りには、一時は都落ちしたらしいが、その後、消息不明となった。物語類では「屋島の戦い」の最中に平家の陣を抜け出し、高野山で出家し、熊野灘へ舟を出して、入水して果てたとされる。享年二十八。

「大正九年」一九二〇年。

「史林」史学研究会会誌。大正五(一九一六)年創刊。]

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