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2018/03/08

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 神戸病院の二カ月

 

     神戸病院の二カ月

 

 神戸病院の生活は五月二十三日から七月二十三日まで、満二カ月にわたった。はじめて釣台で運ばれて、二階の一室に入った時は、白壁は綺麗だし、天井は二間ほどの高さがあるし、今まで三尺ばかりの高さしかない船室に寝ていた居士に取っては非常に愉快であった。「殊に既往一ケ月餘り、地べたの上へ黍稈(きびわら)を敷いて寢たり、石の上、板の上へ毛布一枚で寢たりといふ境涯であつた者が、俄かに、浦團や藁蒲團の二、三枚も重ねた寢臺の上に寝た時は、丸で極樂へ來たやうな心持で、これなら死んでも善いと思ふた」と居士はいっている。賄(まかない)が悪いので梅干船と呼ばれた佐渡国丸の船室から、神戸病院の寝台に移った時の感懐は正にこの通りだったであろう。居士が遼東の海で喀血するに至ったのも、実は従軍以来の無理な生活の祟(たたり)に外ならぬのである。

[やぶちゃん注:引用は先の「病」から。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここをから次頁を用いて校訂した。

「二間」三メートル六十四センチメートル弱。

「三尺」九十一センチメートルほど。]

 喀血は入院後も容易に止らなかった。二十七日、京都にあった虚子氏が羯南翁からの電報を受取って直に駈付ける。福本日南氏も見舞に来る。日南氏が主治医に尋ねたところによると、談話が最もよくない、喀血はもう二日もたったら止むだろうということであったが、二十八日は喀血数回に及び、主治医は家族親戚に電報を打った方がいいといい出した。この日が恐らく峠だったのであろう。喀血はなお止まぬけれども、病勢はいくらか減退せんとするものの如くであった。

 六月三日に至り居士は

 

 卯の花の里を氷のやけどかな

 露あかしいちご畑の山かつら

 もりあげて病うれしきいちごかな

 

などの句を詠じ、午後には自ら談話を試みるようになった。これらの句は居士の精神が先ず回復し来ったことを示すものであるが、「寒山落木」には採録されていない。「氷のやけど」というのは、喀血を止めんがために胸部を氷で冷したところ、遂に凍傷を生じた、それをいったものらしい。

[やぶちゃん注:「卯の花の里を氷のやけどかな」後で宵曲も言い添えているが、「やけど」は凍傷のこと。前にも引用した松本島春主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらの「子規の俳句(三七)」の本句の解説に、虚子が見舞った時、『子規は激しい咳漱と共にコップ半分位の血を一日に数回吐くという症状で、喀血は止まらなかった』。そこで虚子に、自分勝手な療法として肺部を氷嚢で冷してはどうかと提案し、『大量の氷を氷嚢に入れて、カーゼも当てないで直接皮膚に当てて胸部を冷しづめにしたために、夏であるのに』、『凍傷を起すという失敗をしてしまった。一人の若い医師』がそれを見て、「こんな馬鹿をしては凍傷を起こすのは当然だ。いくらあせったって止まる時が来なけりゃ、血はとまりゃしない。出るだけ出して置けば止まる時に止まる」『(高浜虚子「子規居士と余」)と言った言葉が頗る子規の気にかなったようで、自らの発意に基く凍傷に苦笑しながら、病の重さを納得したのであった』。『掲出の句は、このようなエピソードを踏まえて、やや回復してから虚子に書き留めさせた句である』という解説で腑に落ちる。

「露あかしいちご畑の山かつら」中川みえ氏の前掲の文章内に、ここにある通り、『二十八日は喀血が数回に及び、主治医から家族、親戚に電報を打った方かよいだろうとまで言われたが、この日がおそらく峠であったようで、不安な一夜を通り越すことが出来てからは喀血もやや間遠になり、病状も序々に回復に向った』。同時に、宵曲が次の段で述べるように、『子規は栄養物摂取を心がけ、東京から碧梧桐が子規の母を伴って到着した六月四日頃には、血色も次第によくなっていた』。子規は、「『余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソップも飲む事が出来なんだ。そこで医者の許しを得て、少しばかりのいちごを食う事を許されて、毎朝これはかりは闕かした事がなかった』」と述べている。その後、『病人の慰めと栄養摂取のため、虚子と碧梧桐は毎朝共に、あるいは交替に、苺を摘みに行くのが日課となった』(これも宵曲は次で綴っている)として、この句が掲げられている。「山かつら」は「山鬘」で「やまかづら」とも読み、暁方、山の端に懸かる白雲を指す。其角の句に「明星や櫻さだめぬ山かづら」がある。]

 碧梧桐氏が母堂を伴って来著(らいちゃく)したのは六月四日である。苦悩甚しくしばしば悪夢に襲われたりしている一面、牛乳を嫌って粥を求めるようになった。居士の「くだもの」という文章にこの時のことを回顧して「余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソツプも飲む事が出來なんだ。そこで醫者の許しを得て、少しばかりのいちごを食ふ事を許されて、每朝こればかりは闕(か)かした事がなかつた」と書いてあるが、その苺は碧、虚両氏が一日代りに苺畑へ行って取って来たものであった。三日に詠んだ「いちご畑の山かつら」の句は、その苺畑を想いやって詠んだものであろう。七日の日にはまた俳句が二句ある。

[やぶちゃん注:「くだもの」国立国会図書館デジタルコレクションの「子規遺稿 第二編 子規小品文集」(明治三八(一九〇五)年俳書堂刊)の画像のここから全文を視認出来る。引用本文はそれで校訂した。

「ソツプ」スープ。オランダ語「sop」由来。]

 

 杜若(かきつばた)尼寺あれて人もなし

 涼しさや吾ねる上に牛の面

 

 これも「寒山落木」には採録してない。「杜若」の句は碧梧桐氏が花菖蒲を花瓶に挿したのから思いついたのであるが、後の句は苺を食うことによって、「はてしらずの記」旅行の時の経験を思い浮べたのではないかと思う。六郷から湯田へ出るまでの山路で、路傍の棘(いばら)の中でがさがさいうから見ると牛がいる、頭の上の崖の方でもがさがさいう、それも牛である。こういう山路において居士は突然木いちごの林に逢着し、日暮近くなるまで貪り食った。「吾ねる上に牛の面」はこの時の事ではあるまいかという気がするのである。

 六月十日に至って血痰を見ないようになった。二十日あたりは頻に句を作り、医師の許を得て半身を牀上(しょうじょう)に起している。

 二十二日には夏目漱石氏及東京の令妹宛に書状をしたためた。入院以来最初のものであるが、この手紙は二通とも今伝わっていない。漱石氏は居士の従軍よりやや遅れて、居士の郷里松山の中学教師になった。居士が広嶋滞在中松山に赴いた時は、まだ著任していなかったのである。『漱石全集』を見ると五月二十八日附で神戸県立病院内の居士に宛てた手紙があり、「首尾よく大連灣より御歸國は奉賀候へども神戸縣立病院はちと寒心致候。長途の遠征舊患を喚起致候譯にや心元なく存候」と書いてある。また「當地著後直ちに貴君へ書面差上候ところ最早淸國御出發の後にて詮方なく御保養の途次一寸御歸國は出來惡く候や」ということも見える。当時居士は生死の境を彷徨しつつあった。二十二日の書状はこれに対する返事だったのであろう。

[やぶちゃん注:「漱石氏は居士の従軍よりやや遅れて、居士の郷里松山の中学教師になった」漱石の愛媛県立尋常中学校嘱託教員の辞令(着任)は明治二八(一八九五)年四月十日に発令されており、それに合わせて三日前の四月七日に新橋を出発、九日午後二時頃に松山の旅館「城戸屋(きどや)」に到着している。一ヶ月後の五月十日以前には松山一番町にあった松山地方裁判所の裏手の城山の山腹にあった骨董商津田保吉方の愛松亭(後に久松伯爵邸となる)に下宿を決めて移っている。

「居士が広嶋滞在中松山に赴いた」のは同年三月二十五日と推定され、そこから子規が広島に戻って、宇品から海城丸で出航したのは四月十日であるから、すれ違いであった。

「五月二十八日附で神戸県立病院内の居士に宛てた手紙があり」岩波旧全書簡番号四八。松山市一番町愛松亭発信、神戸市神戸縣立病院内正岡常規宛で、本文末尾の日付は五月二十六日。当該書で校訂した。

「寒心」不安。県立の総合病院で、結核の専門病院でなく、当然、療養施設もないと考えての謂いであろう。]

 六月二十五日には羯南翁宛に相当長い手紙をしたためた。羯南翁はこの後における居士の健康問題を憂慮し、いっそ須磨あたりに移住したらどうかという意見を洩し、令妹からこれを居士に手紙でいって来たものと見える。居士はこの問題について「罪なくして配所の月まことに歌人の本懷ながら何分朋友なく書物なくてはそれも無覺束(おぼつかなく)存候。數十日の御暇ハ頂戴致度(いたしたく)存候得共、それ迚も遲し九月には歸京の積りニ御坐候」ということを羯南翁まで申述べている。次いで二十八日鳴雪翁宛の手紙にも「肝心な事書落し候。陸説(くがせつ)の須磨移住案は誠に親切なる事なれども何分小生の如き頭顱(鬼も佛も此中より出申(いでまうし)候)を持ちては半年一年を僻地(へきち)にボンヤリと暮らす事むつかしく候故、九月中には歸京可致旨(いたすべきむね)陸迄申送候」とあるのを見ると、鳴雪翁からも須磨移住案について何事か申送られたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「頭顱」は底本では傍点「○」。「とうろ」と読み。頭・脳髄の意。]

 事実居士の雄心は已に甦(よみがえ)らんとしていたらしく、二十七日には『珍本全集』(帝国文庫)の上巻などを購(あがな)わしめたりしている。七月五日に他の病室へ移った時は、碧梧桐氏の肩を借りて三十間ほど歩いたけれども、疲労を感ぜぬ位であった。母堂はこの経過を見て、一度松山に赴き、七月六日に虚子氏と共に故山から帰ったが、同九日碧梧桐氏に伴われて帰京した。

[やぶちゃん注:「『珍本全集』(帝国文庫)の上巻」同文庫の第三十一編「珍本全集 上巻」(明治二八(一八九五)年博文館刊)で、内容は井原西鶴の「懐硯」「西鶴名残之友」、北条団水の「一夜船」、八文字屋自笑と江島其磧の「正月揃」「梅若丸一代記」、自笑の「傾城色三味線」「寛濶役者気質」、錦紋流の「熊谷女編笠」、自笑らの「鎌倉諸芸袖日記」、亀友の「大和言葉風俗俳人気質」「諸国武道容気」「赤烏帽子都気質」といったラインナップである。

「三十間」五十四メートル五十四センチ。]

 七月十日以後は多く椅子におり、読書に耽るようになった。足の方も先ず庭前散歩にはじまり、二十日の早朝には虚子氏をその下宿に訪ねて驚かした。入院以来最初の外出で、下山手通から病院の本門を廻って帰ったが、呼吸がやや苦しいに過ぎなかった。この頃雲百句を作っている旨が碧梧桐氏宛の手紙に見える。

 居士が神戸病院を去って須磨保養院に移ったのは七月二十三日である。病院の訪問者は相当多かったが、最も頻繁に見舞ったのは竹村黄塔氏であった。黄塔氏は師範学校の教官として、二十五年以来神戸におったのである。

[やぶちゃん注:「竹村黄塔」古くから親しかった詩文仲間の竹村錬卿(たけむられんきょう)。既出既注。]

 

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