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2018/03/28

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 六

 

     六

 

 それから今度はずつと土地をかへて、是が沖繩縣の方ではどうなつて居るかと見ると、前年故佐喜眞興英君の集めた南島説話の中に、中頭郡美里村大字古謝(こじや)の出來事として、次のやうな口碑が採錄せられて居る。昔此村に一人の鹽燒男があつて、海水を汲みに出て一尾の魚を捕り、それを籠に入れて我家の軒につるして置いた。するとやがて其籠の中から「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」といふ聲がする。不思議に思つて覗いて見ても、魚より他には何物も居ない。斯んな魚は放す方がよいと思つて家を出ると、途中に知合ひの無賴漢に出逢つた。放すよりは私にくれと言つて、持つて行つて料理をして食べようとして居ると、ちやうど其時に大海嘯で、満潮の際に、潮流の前面が垂直の壁となって砕けながら、川の上流へ溯る現象を指すが、昭和期までは地震による大津波の意で用いられた。ここは後者。]がやつて來て、近隣の人畜悉く押し流してしまつたといふのである。

[やぶちゃん注:「佐喜眞興英」(さきま こうえい 明治二六(一八九三)年~大正一四(一九二五)年)は沖縄県宜野湾市出身の民俗学者。大正元(一九一二)年に沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業、その後、上京して大正四(一九一五)年に第一高等学校独法科を卒業して、東京帝国大学独法科に入学した。在学中から柳田國男に目をかけられた。大正一〇(一九二一)年に帝大を卒業すると、裁判官になり、福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任、最後の任地の津山で肺結核のために三十一歳で亡くなった(以上はウィキの「佐喜眞興英」に拠った)。

「南島説話」佐喜眞興英が大正一一(一九二二)年に郷土研究社から「炉辺双書」の一冊として刊行した宜野湾村地方の口碑採集集。

「中頭郡」(なかがみぐん)「美里村」(みさとそん)「大字古謝(こじや)」現在の沖縄県沖縄市古謝(こじゃ)。

「大海嘯」「だいかいせう(だいかいしょう)」。現行、狭義には、通常の自然現象としての「潮(しお)津波」を指し、満潮の際に、潮流の前面が垂直の壁となって砕けながら、川の上流へ溯る現象を言う語であるが、本邦では、昭和初期までは、地震による大津波の意でも用いられた。ここは巨大な台風の襲来と満潮がシンクロした前者とも、或いは、実際の地震のそれとも採れる。次段落では『大津波』と言っているが、これは地震ではないケースのそれも意味していると思われるからである。]

 

 此話も傳承者の幾階段を重ねて、よほど破損したらしい形跡はあるが、それでも若干は原[やぶちゃん注:「もと」。]の姿を髣髴することが出來る。卽ち物をいふ靈魚を害しようとした者が、大津波によつて罰せられたということは、同時に一方の之を放さうとした者の助命を意味し、この鹽燒男が生き殘つた故に、怖ろしい誡めの話は後に傳はつたことになつて居るのである。話が是まで來れば類型は決して乏しくない。奧州でよくいふ黃金坑埋沒の話、もしくは木曾川流域に數多い「やろか水」の洪水などの如く、小賢しく且つ不注意なる者は災を受けて死に、愚直にして靈異を畏るゝ者が助かつて其見聞を述べたといふのは、昔話の最も普通の、しかも由緒ある一つの樣式であつた。

[やぶちゃん注:「奧州でよくいふ黃金坑埋沒の話」平泉や奥州藤原氏を支えてきた黄金文化(事実、平泉のある岩手の県南地方や岩手と秋田の県境の山脈には良質な金山があった)に纏わる恣意的に、或いは歴史的自然的に忘れ去られて埋没した黄金鉱脈(に掘った坑道跡)や埋蔵「金」伝説の類い。

『木曾川流域に數多い「やろか水」の洪水』ウィキの「ヤロカ水」より引く。『ヤロカ水(やろかみず)とは、江戸時代、尾張国、美濃国に出現した妖怪。遣ろか水、ヤロカの水、ヤロカの大水ともいう』『柳田國男の「妖怪談義」に記述されている』。『愛知県、岐阜県の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域一帯、特に木曽川流域で伝承される』。『激しい雨の夜、川が増水するとやがて、「ヤロカヤロカ」(欲しいか欲しいか)という声が川の上流から聞こえてくる。この声に答えて「ヨコサバヨコセ」(貰えるのなら頂戴)と叫ぶと、瞬く間に川の水が増し、その答えた村人のいる村は一瞬のうちに水に飲み込まれるという。また、川面に赤い目や口が見えることもあるという』。『推定できる現象として、河川の洪水の初期段階は浸食が主体であるため、川岸や川底が濁流に洗われ』、『大きな石が流れ転がる際の音を「ヤロカヤロカ」と表現し、終盤には上流で発生した土石流に伴う土砂が堆積し、水が溢れる際の状況を「ヨコサバヨコセ」と表現したものと考えられる。あるいは暴風雨の夜、暴風による風の音が、「ヤロカヤロカ」と聞こえた為とも推測される。木曽三川流域は、常に洪水の危険性があり、洪水に対する人々の不安から、若しくは後世への注意喚起のため創られたともいう。鉄砲水がその正体である、という説もある』。『このヤロカ水に該当する洪水は、実際に発生している』江戸前期慶安三(一六五〇)年九月に、『尾張国、美濃国で発生した大洪水である。この時、堤防は殆どが決壊し、木曽三川流域は海のようになったという。記録によれば、大垣藩及びその周辺での死者は』三千『人以上だと伝えられている。この洪水で、木曽川沿いの尾張国丹羽郡上般若村が完全に流出し、村民は全滅に近い被害を出したと伝えられている。ヤロカ水で「ヨコサバヨコセ」と叫んだ村民は、この村の村民と伝えられている』(『なお、尾張国丹羽郡上般若村とは現在の愛知県江南市の一部である。現在も、中般若町(旧:中般若村)、般若町(旧:下般若村)は存在するが、上般若の地名は無くなっている』)。貞享四(一六八七)年八月二十六日、『木曽川が雨で増水した際には』、『淵から「ヤロカヤロカ」と声が聞こえ、川を警戒していた者が「ヨコサバヨコセ」と叫ぶと川はさらに増水し、大洪水が発生したとい』い、近代に至っても、明治六(一八七三)年、『愛知県犬山町(現・犬山市)で洪水が起きたときも、実際に「ヤロカヤロカ」と声が聞こえたといわれる』とある。柳田國男のそれは「妖怪談義」(初出は昭和一一(一九三六)年三月発行の『日本評論』。本「物言ふ魚」はその四年前の昭和七年一月発行の『方言と國文學』初出)の「七」の後半に出る。その部分を引く(ちくま文庫版全集第六巻を底本とした)。

   *

……薩摩の阿久根近くの山の中に、半助がオツと称するが崖がある。地名の起りは明治十年頃の出来事だというそうだが、四助と三助という二人の友だちがあった。ある日四助は山に入って雨に遭い、土手の陰みたような処に休んでいると、どこからともなく「崩(く)ゆ崩ゆ」という声が聞え、あたりを見まわしても人はいない。四助はこの声に応じて「崩ゆなら崩ゆてみよ」というと、たちまちその土手がくずれて、たくさんの山の薯(いも)が手もかけずに取れた。三助はこの話を聴いて大いに羨み、やはり同じ山に往(い)って松の木の下を通ると、またどこからともなく「流る流る」という声がする。「流るるなら流れてみよ」と答えたところが、今度は松脂がどっと流れて来て、三助がからだを引き包んで動けなくなった。三助の父の半助、炬火(たいまつ)を持って山へ捜しに来て、おーいと喚(よ)ばわるとおーいと答えるので、近寄って松の火をさしつけたら、たちまち松脂に火が移って三助は焼けてしまい、父の半助は驚いて足を踏みはずして落ちた。それが半助がオツと称するというのは歴史のように見えるが、疑いなく改造せられたる昔話である。これと下半分だけ似通うた話は、濃尾の境には伝説となって多く残っている。いずれも木曽の川筋にあるから、源流はすなわち一つであろう。尾張の犬山でもヤロカ水、美濃の太田でもヤロカ水といって、大洪水のあったという年代は別々でも、この名の起こりは全く同じであった。大雨の降り続いていた頃の真夜中に、対岸の何とか淵のあたりから、しきりに「遣(や)ろうか遣ろうか」という声がする。土地の者は一同に気味を悪がって黙っていたのに、たった一人が何と思ったか、「いこさばいこせ」と返事をしたところが、流れは急に増してきて、見る間に一帯の低地を海にしたというのである。これと同様の不思議は明治初年に、入鹿池(いるかいけ)の堤の切れた時にもあったというが、それも一種の感染としか思えない。木曽の与川(よがわ)の川上では古い頃に、百人もの杣(そま)が入って小屋を掛けて泊まっていると、この杉林だけは残しておいてくれという、山姫様の夢の告(つげ)があった。それにもかかわらず伐採に取り掛かると、やがて大雨が降って山が荒れ出した。そうしてこれも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」としきりに声をかけた。小屋の者一同が負けぬ気で声を合せ、「来いよー」とやり返すとたちまち山は崩れ、残らず押し流されてたった一人、この顚末(てんまつ)を話し得る者が生き残った。話はこういう風にだんだんと怖ろしくなって来るのである。

   *]

 

 南の島々の古くからの災害として、所謂シガリナミ(海嘯)の記憶の最も印象強く殘つて居るのは自然であるが、是がたゞ僅か一尾の魚を尊敬するかせぬかによつて、さういふ怖ろしい結果を生じた如く傳へるのは、考えて見れば不思議なことである。尋ねたら必ず他の多くの離れ[やぶちゃん注:ここは後の表現から古謝から離れた本島の地域ではなく、本島の「離れ」としての島嶼群の意。]にもあることゝ思ふが、この沖繩本島の珍しい例なども、早くから決して孤立のものでは無かつた。寛延元年(西曆一七四八)に出來た宮古島舊史という記錄は、當時この群島の稗田阿禮[やぶちゃん注:「古事記」の編者の一人で口承伝授者であった人物と同じような人々という比喩。]たちによつて、口で傳へて居たアヤゴを國文にしたものらしく、中にも魚が物言うた一つの話が、今少し具體的に記されている。見ぬ人が多かろうと思つて是れだけは原文のまゝ轉載すると、

[やぶちゃん注:底本では、以下は全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

むかし伊良部(いらぶ)島の内、下地(しもぢ)といふ村ありけり。ある男漁に出でゝヨナタマといふ魚を釣る。この魚は人面魚體にして能くものいふ魚となり。漁師思ふやう、かゝる珍しきものなれば、明日いづれも參會して賞翫せんとて、炭を起してあぶりこにのせて乾かしけり。其夜人靜まりて後、隣家にある童子俄かに啼きをらび、伊良部村へいなんといふ。夜中なれば其母いろいろこれをすかせども止まず。泣き叫ぶこと愈〻切なり。母もすべきやうなく、子を抱きて外へ出でたれば、母にひしと抱きつきわなゝきふるふ。母も恠異の思ひをなす所に、遙かに聲を揚げて[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに柳田國男によると思われる『(沖の方より?)』という注らしきものが追記されている。]

    ヨナタマヨナタマ、何とて遲く歸るぞ

といふ。隣家に乾かされしヨナタマの曰く、

[やぶちゃん注:以下のヨナタマの応答は底本では連続した一文であるが、ブログ・ブラウザ上の不具合を考えて、三つに分かち書きした。]

    われ今あら炭の上に載せられ

    灸り乾かさるゝこと半夜に及べり、

    早く犀をやりて迎へさせよ

と。こゝに母子は身の毛よだつて、急ぎ伊良部村にかへる。人々あやしみて、何とて夜深く來ると問ふ。母しかしかと答へて、翌朝下地村へ立ちかえりしに、村中殘らず洗ひ盡されて失せたり。今に至りて其村の跡形はあれども村立はなくなりにけり。かの母子いかなる隱德ありけるにや。かゝる急難を奇特にのがれしこそめずらしけれ。

 

[やぶちゃん注:「シガリナミ(海嘯)」首里・那覇方言で、「津波」或いは「高潮」を指す語。現在は「シガラナミ」という。

「宮古島舊史」「宮古島舊記」の誤り。広義には「御嶽由来記」「雍正旧記」「乾隆旧記」という編纂年の異なる古資料群を総称するものである。これらは、宮古島平良(ひら)を拠点とした、宮古随一の豪族仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ 一四五七年から一四六四年の間の生まれ~十六世紀初期の死去)が宮古島の歴史を纏めたもので、仲宗根家文書として伝わるもの及びその写本に当たる。

「アヤゴ」沖縄県宮古列島に於ける歌謡の総称名。当地の方言では「アヤグ」「アーグ」などと発音し、その文章語表記が「あやご」である。小学館の「日本大百科全書」の記載によれば、「綾言(あやごと)」の意というが、よく判らないとする。『伝統的なアヤゴは、対句形式を基調にした詞章で、大別して、節一つで歌意を完結させる詠嘆的な短詩形式と、節を重ねて叙述を展開させる長詩形式とがある。前者は叙情的な小歌(こうた)で、即興的に謡われることも多い。同じ小歌でも、琉歌(りゅうか)が対句を用いないのと』、『対照的である』。『アヤゴの特色は、後者のような神伝、史伝、世間話などを詠み込んだ叙述的な詞章が発達していることにある。珍しい様式の詩で、今日なお、現代の事件、感懐を歌い上げる力を失っていない。宮古列島では説話を』「ユガタリ」『(「世語り」か)と総称し、神話、伝説、昔話、世間話などが豊富に語られているが、叙述的なアヤゴは、ユガタリと表裏をなしている場合もある。古く』「宮古島旧記」に九首の『叙述的アヤゴがみえるが、これも史伝の本文に添えて記されている』。八重山列島の古記録(一七〇五年(宝永二年))にも、『叙述的な長詩形式のアヤゴがある。この種の歌謡をアヤゴと称したのが古意かもしれない』とある。

「伊良部(いらぶ)島の内、下地」伊良部島は宮古列島の島の一つで、現在は全島が沖縄県宮古島市に属する。二〇〇五年に宮古島の周辺自治体と合併して宮古島市になるまでは、西側に隣接する下地島とともに宮古郡伊良部町を形成し、同島は、その中心であった。下地島との間は幅四十メートルから百メートルほどの入江(水路)で隔てられているが、幅が狭いため、航空写真などではあたかも間に川が流れる一つの島のように見える。この入江にはマングローブがある。また、南東直近の宮古島との間には二〇一五年一月に伊良部大橋(本橋部分三千五百四十メートル)が開通して、繋がっている。(以上はウィキの「伊良部島」に拠る)。グーグル・マップ・データを参照。

「ヨナタマ」海の霊或いは魚の霊又は海の妖怪の名。「人面魚體にして能くものいふ魚」という特徴から直ちに想起されるのは、しばしば人魚のモデルともされる儒艮(じゅごん)、哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon である(一属一種。なお、ジュゴンは小鳥のように「ピヨピヨ」「ピョーピョー」「ピーピー」と鳴き、現在の研究では「チャープ(chirp)音」と「トリル(trill)音」の二種類があることが比較的最近になって判明している。但し、これらをどのように使い分けているのかは、未だよく分かっていない)。喜山荘一氏のブログ「与論島クオリア」の「ヨナタマ伝承」では、柳田國男の以上の引用部分を引いた上で、

   《引用開始》

 ヨナタマとは何だろうか。後藤明は、南太平洋の伝承も引いたうえで、書いている。

   [やぶちゃん注:喜山氏の引用開始。]

 南太平洋では、捕まえた鰻や蛇を食べた人は皆、毒にあたるか洪水で死んでしまうが、壺の仲から鰻の頭が話しかけるのを聞いて、その肉を食べなかったり、頭を水に返した母子は助かる、という展開になっている。そしてこれらの事例はたいてい、人類、氏族あるいは村などの始祖伝承となっている。そして日本の南島や、中国そして東南アジア各地で見られるような、必ずしも「物言う魚」を立寝たのが原因ではないが、洪水が起こり、生き残った兄妹間の近親婚から始祖が生まれるという兄妹始祖型創世神話と通ずるのである。

 これをみれば、「人面漁体」といっても、すぐにジュゴンと結びつくとは限らず、蛇や鰻も同位相にあることが分かる。実際、本土の昔話でも魚が僧侶に姿を変えるという伝承では、人間に化けるのは鰻や岩魚であることが多いと後藤は指摘している。柳田は、大鰻は耳があるからという説に言及している。また、後藤は上記では触れていないが、鰐でも同様の伝承があるから、ヨナタマは蛇、鰻、鰐であり得ることになる。

   [やぶちゃん注:喜山氏の引用終了。]

 ただ、石垣島では、ザンと呼ばれるジュゴンが、ザンの名前で同様の伝承に登場することからすると、ヨナタマをジュゴンと見なしていいのかもしれない。

 また、東南アジア大陸部やインドネシアには、ジュゴンは人間の化身だという考えが見られ、東南アジアやオセアニアでは、鰐が人間の化身だと見られている。しかし、琉球弧ではザンは、ザンが人間になることはあっても、人間がザンにはならならいから、ジュゴンは、鰐ではなく、蛇や鰻に近い存在として捉えられていることになる。

 ここでヨナタマの伝承に戻ると、ヨナタマを食べることが禁忌であることに触れていることや、ヨナタマと子を近い存在と見なしていることから、ヨナタマを祖先とする観念に行き着きそうに見える。しかし、ヨナタマ伝承は、それが創世神話に結びついていない。ザンの伝承でも、ある家の始まりにはなっても、島や村の始祖伝承とのつながりは消えている。ということは、ヨナタマを祖先とすることは、個別的にはあえりえても、普遍的ではないことを示していると思える。

   《引用終了》

とある。しかし、ウィキの「ジュゴン」によれば、『日本では南西諸島で、「ざん」「ざんのいお」「ざんのいよ」「ざんのいゆ」「あかんがいゆ」などの方言名があ』り、『宮古列島では「よなたま」「よないたま」、西表島で「ざの」、新城島で「ざぬ」といった方言名がある』とし、『有史以前から狩猟の対象とされた』。『聖櫃を包んでいたのは本種の皮だったと考えられて』おり、『肉が不老不死や媚薬になると信じられたこともあり、骨で作った装飾品も刃物や鉄砲に対するお守りになると信じられていた』。ジュゴンの流した涙を『相手に付けることで恋愛成就の効能があると信じられていた』。『日本では琉球王朝時代に新城島では年貢として本種の肉を納めていた』とある。また、『西洋における人魚のモチーフとなったとする説もあるが、初めに上半身が人間・下半身が魚や海獣といった人魚のイメージができあがり、後になって本種と結びつけられたと推定されている』。『本種と結びつけられた理由としては本種は胸鰭の基部に』一『個ずつ乳頭があり、これが隆起し』、『乳房のように見えるためとする説もある』。『日本の琉球地方ではニライカナイの神の現世への乗り物とされたり』、『助けたジュゴンに津波の襲来を教えられ』、『恩返しされるといった伝承やジュゴン漁に関する民謡などがある』とあるから、ジュゴン・フリークの私はジュゴンが「ヨナタマ」の主要な核心的モデルであると考えるものである。]

 

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