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2018/03/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 五

 

     五

 

 但し國民としてそれをどの程度までに意識して居たかは、又別箇の問題に屬する。自分等だけでは全く新しい出來事かと思ひ、或は極端な場合にはウソをつく積りで話された話でも、それが偶然に國民の兼て信ぜんと欲した條件に合致すれば、意外な力を以て保存せられ、傳承せられる例はいつの世にもある。誰がしたとも知れぬ傳説の部分的改訂、風土と歷史に調和させようとする新らしい衣裳附け、それから又アタビズム[やぶちゃん注:atavism。先祖返り。生物学上の進化や遺伝の用語から、比喩的に一度は廃(すた)れた思想や現象(ここでは広義の信仰形態や風俗習慣)が再び取り上げられることを意味する。]に類した各地方の分布狀態なども、何れもこの隱れたる我々の趣味傾向、もしくは鑑別標準とも名くべきものを認めなければ、之を解説することが恐らくは出來なかつたのである。殊に物語を昔々の其昔の、物蔭多き曉闇の中に留め置かずして、強ひて暴露の危險ある我々の眼前まで、持つて出て樂しまうとした態度に至つては、是を國柄とまでは言ふことが出來ずとも、少なくとも近世日本の一つの時代風であつた。支那はどうあるか知らぬが、他の多くの文明民族には、さういふ例は有りさうにも思はれない。前に引用した木曾と惠那との岩魚なども、現にたゞ一人を仲に置いて、共に山で働いて居た者の集まり見た話になつて居るが、次に述べようと思ふ山口縣豐浦郡瀧部村の一例の如きも亦、つい近頃の事件のやうに傳へられて居るのである。瀧部では一夏非常な大旱魃があつて、村を流れる栗野川の骨(こつ)ケ淵(ふち)の水を、いよいよしやくつて田に入れるということに評議一決し、村民總掛りになつて汲み上げて居ると、やはり中食の時に一人の見知らぬ坊主が遣つて來て、どうか賴むから淵の水をかへ出すのを止めてくれと言つた。必死の場合だから一同はうんと言はなかつたが、其中の一人が辨當の小豆飯を分けて與へると、僧は默つてそれを食べてしまふと、突如として骨ケ淵の水中に飛び込んで見えなくなつた。不思議に思いつつも尚水を汲んで行くと、追々に澤山の川魚が捕れたが、坊主の姿はどうしても見付からず、後に其魚類を片端から料理して行くうちに、いちばん大きな怖ろしい鰻があつて、その腹を割いてみると先刻の小豆飯が現れた。此鰻もまた淵の主が化けて出て來たのであつたことが、是で明らかになつたと謂つて居る。

[やぶちゃん注:以上の収録元は不明。民俗学関連雑誌の民話・噂話の採録集に載るものか。

「山口縣豐浦郡瀧部村」「瀧部村」は滝部村(たきべそん)。現在の下関市豊北町滝部。ここ(グーグル・マップ・データ)。この滝部地区を通って、東北方へ流れる川があり、これが東で「栗野川」(水源は下関市豊田町金道の勇山から南へ伸びる丘陵部)に合流し、日本海に注いでいる。この場合、この支流が旱魃で干上がってしまい、東隣りの村(現在の下関市豊北町)の許可を得て、実測で村から三キロメートルほど離れた粟野川の水を汲み取ったものであろう。「骨(こつ)ケ淵(ふち)」は不詳であるが、私の以上の推理が正しいとすれば、現在の下関市豊北町のこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真)ではなかろうか?]

 

 鰻は他の民族にも氣味惡がつて之を食はぬ習はしが多い。最近耳にした例は臺灣紅頭嶼の島民であるが、單にその形のぬらぬらと長い爲ばかりで無く、別に其習性に對する精微なる觀察が、何か容易ならぬ俗信を發生せしめて居るらしく感ぜられるが、まだ確實で無い限りは、それを説いて蒲燒屋の怨みを買ふにも當らない。日本では盛んに食つて居るにも拘はらず、群の中のすぐれたる只一つだけは、靈物として屢〻其奇瑞を説かれて居た。神が鰻に騎して年に一度來往したまふ話なども、豐後の由布院(ふゆゐん)には傳はつて居る。或は年功を經た大鰻のみは、耳を生じて居るといふこともよく聞くが、それは生物學上に説明し得ることであらうかどうか。久しく日本に駐まつて學問をしたニコライ・ネフスキイ君は、曾て南海の諸島を歷遊して後に、斯んな意見を發表した。日く支那では虹を蛇[やぶちゃん注:正確には「龍蛇」である。]の屬に入れて居るが、日本各地の虹の語音は最も鰻に近い。例へば羽後の一部では虹をノギ、琉球の諸島も中央部のヌーヂ、ノージから、端々に向へばノーギ、ノーキ又はモーギ等になつて居て、鰻を意味するウナジ・ウナギと似て居る。蛇も本土の古語にはノロシ、ナフサがあるから、二者はもと差別しなかつたのかも知らぬが、兎に角に水底の靈怪のヌシという語を以て呼ばるゝものが、蛇とよく似た又別種の大動物と想像せられていたのは、少なくとも基づく所は鰻であつたらうと云ふのである。アナゴとウナギの本來は一語であつたことだけは成程もう誰にも承認せられる。宮城縣の上部には鱧(ハモ)をアナゴ、穴子をハモと謂ふ海岸があることは私も知つて居る。何にもせよNGとの子音を用いて、表示しなければならぬ水中の靈物があつたことは、我々がまだ池沼の岸を耕さず、山川の淵の上に家居せざる前から、既に此世には知られて居たので、それが坊主になつて近頃又出て來たのである。

[やぶちゃん注:「臺灣紅頭嶼」「たいわんこうとうしよ(しょ)」は台東県蘭嶼郷に属する、台湾本島の南東沖合にある周囲約四十キロメートルの孤島蘭嶼(らんしょ)の旧称。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「其習性に對する精微なる觀察が、何か容易ならぬ俗信を發生せしめて居るらしく感ぜられるが、まだ確實で無い限りは、それを説いて蒲燒屋の怨みを買ふにも當らない」私が思うに、ここで柳田國男が言葉を濁してその理由を語らないのは、それを語ると、「蒲燒屋の怨みを買ふ」ほどに日本人が皆、鰻を食わなくなるような、おぞましい話であることを意味していると考えてよい。さらに、後で述べている通り、古く本邦でもそうであったならば、周辺の中国・台湾でも同じであったと考えられる、ウナギ(条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla に属する種。本邦で元来食されているのはニホンウナギ Anguilla japonica。日本・朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布している。なお、近年、中国発で安価なことで本邦でも広がっている(時にニホンウナギとして偽って)のは、中国が日本の市場をターゲットとしてヨーロッパから輸入して養殖している Anguilla Anguilla で別種であり、味は数段劣る)と同じウナギ目Anguilliformes のアナゴ(ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科 Congridae のアナゴ類。一般にはアナゴ科クロアナゴ亜科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster を指すことが殆んど)やハモ(ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus)の混同が柳田國男も言うように、昔から、そして現在でも日本各地で事実、行われている(例えば、私が羅臼へ行った時に料理屋で食った美味い「ハモ丼」であったが、これは現地では実は「黒アナゴ」と称する大型のアナゴの蒲焼であった。私の「忘れ得ぬ人々22 ウトロの純」を読まれたい)ことを考えると、私は高い確率で水死体を彼ら(アナゴは実際に食うことは知られている)が食うことを指していると考える。

「神が鰻に騎して年に一度來往したまふ話なども、豐後の由布院(ふゆゐん)には傳はつて居る」大分県由布市には宇奈岐日女(うなぐひめ/うなきひめ/うなぎひめ)神社があるが、ウィキの「宇奈岐日女神社」によれば、「延喜式」『神名帳に記される社名は「宇奈岐日女神社」であり、かつ六国史における神階奉叙は「宇奈岐比咩神(宇奈支比咩神)」に対して行なわれていることから、当初の祭神は「ウナグヒメ(ウナギヒメ、ウナキヒメ)」であったと考えられている』(現在は別な六柱を祀る)。『「ウナグヒメ」の名について、「うなぐ」とは勾玉などの首飾りを意味するとし、こういった呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたと推測されている』『一方、「ウナギ(鰻)」に由来するとする説もある』とし、『由布院盆地が古くは湖であったという伝承に基づき、ウナギ(鰻)を精霊として祀ったことに始まって、のちに由布岳の神と習合したという推測もある』とあるので、その古伝承を指しているように私には感じられる。

「年功を經た大鰻のみは、耳を生じて居るといふこともよく聞くが、それは生物學上に説明し得ることであらうかどうか」鰻料理の名所と知られる静岡県三島の三島大社の池には耳のある鰻が神の使いとして住んでいたという伝承があり、東京都練馬区にも同じような話が残る。江戸後期の博物学者高木春山(?~嘉永五(一八五二)年)の名著「本草図説」に載る以下の図がよく知られている(画像は原版不詳のQ&Aサイトに張られたものを使用した。キャプションは『一種』『耳あるもの』)。荒俣宏監修の「本草図説 水産」(一九八八年リブロポート刊)の解説には『阿波の国の母川』(ははがわ:徳島県海部郡海陽町を流れる河川。一部流域では、最大全長二メートル、体重二十キログラムにも達する天然記念物オオウナギ(ウナギ属オオウナギ Anguilla marmorata)がその棲息北限として保護されている)『には大きなウナギが住み、多くは耳が生えていたという』とある。生態学上はオオウナギ Anguilla marmorata や他のウナギ類でも、このような耳状の突出物は観察されない。一部の記載では体外寄生虫の誤認或いは体内寄生虫による異常な腫物とも、また、オオサンショウウオ(両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus)の誤認とする記載もあった

 

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「ニコライ・ネフスキイ」ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者であったニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ネフスキー(Николай Александрович Невский/ラテン文字転写:Nikolai Aleksandrovich Nevsky 一八九二年~一九三七年)。ウィキの「ニコライ・ネフスキー」によれば、ロシアの『ヤロスラヴリ出身』で一九一四年、『ペテルブルク大学東洋学部中国・日本学科卒業後、日本に留学するが、ロシア革命によって帰国を断念して小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)・大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)で教鞭を執る。その間、柳田國男・折口信夫・中山太郎・石浜純太郎らと親交を結び、日本民俗学・アイヌ語・宮古島方言・ツォウ語・西夏語などの研究を行った』大正一四(一九二五)年に北海道出身の萬谷イソと結婚』した。本論文初出(『改造』昭和五(一九三〇)年発表)の前年の昭和四年に、『ソビエト連邦共和国となった祖国に帰国し、レニングラード大学(旧ペテルブルク大学)の教授とな』ったが、一九三七年十月四日、『日本のためにスパイ活動を行ったとして妻とともに逮捕され、翌月』、『レニングラードにおいて夫妻は「国家叛逆罪」により粛清(銃殺刑)された』。『その後のスターリン批判によって』、一九五七年十一月、『夫妻の名誉回復がなされ』、一九六二年には『生前の業績に対してレーニン賞が授与され』ている。]

 

 岩魚は鰻とは違つて必ずしも薄暗い淵の底にのみは居らず、時あつて淺瀨にも姿を現はすであらろうが、其代りには擧動の猛烈さ、殊に老魚の眼の光の凄さを認められて居た。鳥や獸に比べると成長したものゝ形に、非常な大小の差のあることが、恐らく魚の親方の特に畏敬せられた理由かと思ふが、よくよくの場合でないとさういふ偉大なものゝ目に觸れることは無い爲に、是も常には深い淵の底に、一意の龍宮を構へて居るものと考へたのであらう。水の神の信仰の基調をなしたものは怖畏である。人は泉の惠澤を解する前、既に久しく其災害を體驗して居た。水の災の最初のものは奪掠[やぶちゃん注:「だつりやく」。掠奪に同じい。]であつて、就中物の命の失はれた場合に、其事件の場處近く姿を見せた動物を、あらゆる水の威力の當體[やぶちゃん注:「たうたい(とうたい)」仏教用語。ありのままの本性。本体。]と信じたのでは無からうか。兎に角に古く我々が畏れ又拜んだのは、水その物では無く水の中の何物かであり、それが又常に見る一類の動物の、想像し得る限りの大いなるもの、又は強力なるものであつたのである。岩魚とよく似た川魚で怪をなすものを、紀州などではコサメといつて居る。大蛇で知られた日高川の水域にも、コサメが僧になつた話が幾つもあつたが、生憎其參考書を人に借りられて引くことができぬ。紀の川支流の一たる野上川の落合に近く、また同類の話があつてこれは鯉であつた。前の半分は會津只見川の昔語に近くたゞ其期日が一方は盆であり、是は五月の節供であつた。紀州の殿樣が端午の日に大川狩をしようと企てたところ、前の晩の夜更けて、其奉行の宿へ、白衣の一老翁あつて訪ひ來ると言つて居る。私は山崎の淵の主であります。此度の御漁には所詮殿樣の網は免れ難い。願はくば一族の小魚を助けたまへと謂つた。何故に夜の内に遠く遁れて、此厄難を避けぬのかと問ふと、私が遁れると外の小魚が皆捕はれるからと答へたというのは、早くも近世道義律の潤色を見るのである。併し相手の奉行のみは依然として古風に、別れに臨んでボロソ餅といふ團子を食はしめて歸して居る。ボロソは此邊の五月節供の晴の食物で、小麥を粒のまゝに交へた特色ある團子であつた。翌日の川狩には果して一尾の小魚もかからなかつたが、最後に野上川の山崎の淵に於て、長さ六尺にも餘る大鯉を獲て、試みに體内を檢すれば昨夜のボロソ餅が出て來たといふ。是は城龍吉氏の報告によつて知つたのであるが、今でも淵の上の小倉といふ村に、鯉の森と稱する小さな社がある。當時この奇恠に感動した人々が、鯉を葬つて供養した遺跡といふさうで、卽ち是などは明白に一つの傳説となつて保存せられて居るのである。

[やぶちゃん注:「コサメ」ウィキの「コサメ小女郎」によれば、『小女郎(コサメこじょろう)は、紀州日高郡龍神村(現・和歌山県日高郡田辺市)に伝わる妖怪。龍神村小又川の二不思議といわれる怪異の一つで、南方熊楠の著書』「南方閑話」『に記述がある』。『龍神村にあるオエガウラ淵という淵に住む妖怪であり、何百年という歳月を経たコサメ(魚)が妖怪と化したもの。人間の美女に化け、山に入って来たり淵に近づいたりする人間を誘惑し、水中に誘い込んで殺して食らっていたという』。ある時、『小四郎という男に出会ったコサメ小女郎が、薪の灯りのもとで』七『年間飼い続けた鵜には敵わないと漏らしたため、小四郎がそのような鵜に淵を探らせたところ、目を抉られた大きなコサメの死体が浮かび上がった。その腹を割いたところ、中には木こりの鉈が』七『本あったため』、七『人の木こりがすでにコサメ小女郎に食べられ、すでに溶けてしまっていたことがわかったという』。江戸後期の本草学者で紀州藩藩医であった畔田伴存(源伴存 みなもとともあり 寛政四(一七九二)年~安政六(一八五九)年)の「水族志」には、『コサメとは紀州安宅(現・和歌山県西牟婁郡白浜町)でアメノウオ(ビワマス)』(脊椎動物亜門条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ) 亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus であるが、本種は現在、琵琶湖にのみに棲息する固有種の和名であり、当時の紀州に本種がいた可能性はゼロであるから、この部分は問題がある)『を指す方言とあることから、熊楠はコサメ小女郎のコサメもアメノウオのことと推測しているが』、『近年の文献ではコサメ小女郎の正体をヤマメ』(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou)『としているものもある』(この方が正しいと私は思う)『類話として和歌山県熊野川町(現・新宮市)で、淵に住む大きなアメノウオが人間に化け、村人たちに毒入りの酒や食べ物をすすめて人々を困らせていたが、ある者が長年飼いならされた鵜に淵を探らせて退治したという話がある』とある。以上の話は大体、大正一五(一九二六)年二月坂本書店刊の「南方閑話」の「巨樹の翁の話」(原論文は大正一二(一九二三)年二月発行の『土の鈴』十七輯に纏められたもので、初出時の当該箇所は『土の鈴』十三輯であり、そこでは「巨樹の叟」の題で初出している)の冒頭の「一」の部分に出るもの。「南方閑話」は電子化されていないようなので、その「一」パートだけ(後半は関係のない伝承だが、面白いので電子化しておく)を平凡社の選集を底本として、以下に示す。

   *

 紀州旦高郡上山路村大字丹生川の西面導氏より大正九年に聞いたは、同郡竜神村小又川の二不思議なることあり。その地に西のコウ、東のコウとて谷二つあり。西のコウに滝あり、その下にオエガウラ淵あり。むかしこの淵にコサメ小女郎という怪あり。何百年経しとも知れぬ大きな小サメあって美女に化け、ホタ(薪)山へ往く者、淵辺へ来るを見れば、オエゴウラ(一所に泳ぐべし)と勧め水中で殺して食う。ある時小四郎なる男に逢って、運の尽きにや、七年通(とお)スの鵜をマキの手ダイをもって入れたらわれも叶(かな)わぬと泄(もら)した。小四郎その通りして淵を探るに、魚大きなゆえ鵜の口で噉(くわ)ゆるあたわず、嘴もてその眼を抉る。翌日大きなコサメが死んで浮き上がる。その腹を剖くとキザミナタ七本あり。樵夫が腰に挿したまま呑まれ、その身溶けて鉈のみ残ったと知れた、と。

 畔田伴存の『水族志』に、紀州安宅(あたぎ)の方言アメノ魚をコサメと言う、と見ゆ。ここに言うところもアメノ魚であろう。七年通スの鵜とは七年通しの鵜で、すべてこの鳥陽暦の六月初より九月末まで使い、已後は飼い餌困難ゆえ放ち飛ばす。されど絶好の逸物は放たず飼い続く。しかし、七年も続けて飼う例はきわめて少なし。マキの手ダイはマキの手炬(てだいまつ)で、マキを炬に用ゆれば煙少なくはなはだ明るし。キザミナタは樵夫が樹をハツルに用ゆる鉈である。

 第二の不思議というは、東のコウ(谷)のセキ(谷奥で行き尽きるところ)に大ジャという地に、古え数千年の大欅(けやき)あり。性根のある木ゆえ切られぬと言うたが、ある時やむをえずこれを伐るに決し、一人の組親(くみおや)に命ずると八人して伐ることに定めた。カシキ(炊夫)と合して九人その辺に小屋がけして伐ると、樹まさに倒れんとする前に一同たちまち空腹で疲れ忍ぶべからず。切り果たさずに帰り、翌日往き見れば切疵もとのごとく合いあり。二日ほど続いてかくのごとし。夜往き見ると、坊主一人来たり、木の切屑を一々拾うて、これはここ、それはそこと継ぎ合わす。よって夜通し伐らんと謀れど事協(かな)わず。一人発議して屑片を焼き尽すに、坊主もその上は継ぎ合わすことならず、翌日往き見るに樹は倒れかかりてあり。ついに倒しおわり、その夜山小屋で大酒宴の末酔い臥す。

 夜中に炊夫寤(さ)めて見れば、坊主一人戸を開いて入り来たり、臥したる人々の蒲団を一々まくり、コイツは組親か、コイツは次の奴かと言うて手を突き出す。さてコイツはカシキ(炊夫)か、置いてやれと言うて失せ去る。翌朝、炊夫朝飯を調え呼べど応ぜず、一同死しおったので、かの怪憎が捻(ひね)り殺しただろうという。今に伝えてかの欅は山の大神様の立て木または遊び木であったろうという。(以上、西面氏直話)

   *

「大蛇で知られた日高川の水域にも、コサメが僧になつた話が幾つもあつたが、生憎其參考書を人に借りられて引くことができぬ」柳田國男にしては不親切で書名が記されていないので、当該書が何であるかも判らぬ。識者の御教授を乞う。

「野上川の落合」「野上」は「のかみ」と清音で読み、和歌山県北部の旧海草(かいそう)郡にあった旧町名でもある(野上町(のかみちょう)で、現在は紀美野(きみの)町の西部を占める地域)。この地域は紀ノ川の支流野上川(貴志(きし)川)上流域を占め、旧町名はこれに由る。生石ヶ峰(おいしがみね)北麓から貴志川北岸にわたる山間地であり、中世の頃は石清水八幡宮領であり、その別宮である野上八幡神社がある。「落合」は海草郡紀美野町のバス停として残る。(マピオン・データ)であろう。

「ボロソ餅」語源は不詳。紀州以外では、奈良県葛城市太田の海積(わだつみ)神社の記載に見られる程度(「葛城市」公式サイト内の海積神社のボロソを参照されたい。そこには『小麦餅を酢で練ったもの』とある)であるが、葛城のそこは怪猿人身御供伝承のあった地であり、この「ボロソ餅」は紀州で「五月節供の晴の食物」であったように、何らかの神聖なもの、神人共食の食物であると推察出来る。

「山崎の淵」不詳。先の「落合」周辺には見当たらない。

「城龍吉」不詳。

「淵の上の小倉」不詳。]

 

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