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2018/03/17

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(6)

 

 諸國にひろく分布している王神・王塚の口碑のごときは、すでに其數において後代の紹運錄などを震駭せしめて居る。世を隔てること遠ければ遠い程、信じ易くなることは勿論であるが、しかも單に皇子とばかりでは、固有名詞を卽ち歷史と思ふ人に容れられぬ爲か、但馬においては日下部氏の始祖と傳ふる孝德天皇の御子表米親王と説き、其東隣の丹後に於ては聖德太子の御弟とて金麿親王を稱へて居る上に、猶出來るならばずつと後代の史書に見えて居る貴人を推戴せんとして居るのは、卽ち一般に神を人の靈を祀るものとした時代の説であることを推定せしめる。例へば會津越後の山村に於て、各村往々にして兩立せぬ舊話を傳へて居るのは、高倉宮以仁王の御事蹟である。此の宮は玉葉などを見ても、何年かの間御生死が明白でなかつた故に、田舍人の物語の中に、永く御隱れがを求めたまふことも出來たのである。

[やぶちゃん注:「紹運錄」「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」。天皇・皇族の系図。ウィキの「本朝皇胤紹運録」より引く。『後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて』応永三三(一四二六)年に『成立した。当初』、『おそらくは称光院までの系譜が編纂され、また』、『本来は満季の祖父の公定編纂』の「尊卑分脈」と『併せて一対とししていたらしい。名の由来は、中国南宋の』「歴代帝王紹運図」である。『内容は神代に始まり、天照大神以下の』五『代を掲げ、神武天皇以下の歴代をそれに続ける。歴代天皇を諡号または院号とともに中心に据え、代数・生母・諱・在位年数や立太子』・『践祚』・『即位』・『譲位』・『崩御の年月日・御陵などの事項を列記する。その他父子 ・兄弟などの皇族も続柄で系線で結び、右から左に綴る横系図の形式を採用し、生母・略歴・極位・極官・薨年などの注記(尻付)を施している』。『後世には』、文亀二(一五〇二)年に『三条西実隆による増補が行われたのをはじめ、書写・刊行されるたびごとに当時の天皇・皇族まで増追補が行われ、写本や刊本の間でも内容に異同が多いが、数ある皇室系図の中で権威があるものとされる。刊本では群書類従本が最も著名で、昭和天皇までの系譜が書き継がれている』。但し、『現在の皇統譜と異なり、神功皇后を天皇に準じた扱いとする一方、廃帝の弘文天皇や仲恭天皇、南朝の後村上院・長慶院・後亀山院を歴代外とするなど、当時の足利政権を頂く政庁下の北朝正統論に依拠している。現在の皇統譜は、明治維新後に再び南北朝正閏論が活発化して以降に、南朝正統論に基づく南朝天皇を歴代に加えている』とある。

「日下部氏」ウィキの「日下部氏」によれば、『起源にはいくつかの説があ』り、「古事記」「大日本史」によれば、『開化天皇の孫・狭穂彦王』(さほひこのみこ)『に始まる、但馬国造の日下部君の後裔』とし、「朝倉始末記」ではここに出る通り、『孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)』(「表米」は「うわよね」或いは「ひょうまい」と読む。次注参照)『に始まる、日下部宿禰の後裔』が大きな二説であるが、『いずれの説も表米以降の系譜はほぼ同じであるが、部民制度の成立を考えた場合にとくに後者は疑問点が多いとされる』。『また、雄略天皇の皇后であり』、『仁徳天皇の皇女でもある草香幡梭姫』(くさかのはたびひめのひめみこ)『が生活する資用に充てられた料地の管理等に携わった部民が、この皇后の名に因む(いわゆる名代部)とする説がある。そして、この部民は各地に配置されて屯田兵のような軍事集団の性格を持つものでもあったとされる』。『くさかべ(日下部)の表記は、和歌の枕詞、「日の下の草香(ひのもと の くさか)」より生じた表記と言われる。同様の表記には「長谷の泊瀬」、「春日の滓鹿」、「飛ぶ鳥の明日香」などがある』とある。

「表米親王」日下部表米(生没年不詳)はウィキの「日下部表米」によれば、『飛鳥時代の日下部宿禰あるいは表米宿禰』または、『孝徳天皇の後裔とする系図では表米親王』『とも記される。日下部氏の始祖とされる人物。官職は養父郡大領』『あるいは朝来郡大領』。『開化天皇の皇子である彦坐王』(ひこいますのみこ)『を出自とする但馬国造家の一族とする』。「続群書類従」所収の『系図等一般に流布されている系図では、孝徳天皇の皇子・有間皇子の子』『または弟』『とするが、これは信頼できないとされる』。『また、日下部表米を孝徳天皇と結びつける説は、日下部氏が大化の改新前後に従来の但馬国造家であった但馬君氏に代わって国造の地位に就いたことを示していると考えられている』。『兵庫県朝来市の赤淵神社』(兵庫県朝来市和田山町枚田。(グーグル・マップ・データ))『には以下の伝説が伝わっている』。大化三(六四七)年、表米は『但馬国に攻めよせた新羅の軍船を丹後国与佐郡白糸浜で迎え撃って勝利する。逃げる敵を海上で追撃した際、嵐に遭い船が沈没しそうになるが、海底から無数の鮑が浮き上がり、危機を救った』。『その後、表米は敵を隠岐国まで追い払』い、『凱旋途中に逆風が吹くが、再び無数の鮑が船を持ち上げ、さらに美しい船が現れ、その船の先導で丹後国与佐郡浦島港に入った。表米が大船に行くと』、『誰もおらず、竜宮に住むといわれる大鮑が光っていた』。『表米は危機を逃れ』、『勝利したことを海神の加護と悟り、鮑を丁寧に衣服で包んで鎧箱に納め、持ち帰り』、『赤淵神社を建てて篤く祀った』。『以後、日下部氏の子孫は鮑を大事にし、決して食べないといわれる』。『赤淵神社には、同社の裏の久世田加納丘に墓所があるとの伝承がある』。『また、兵庫県朝来市の表米神社や赤淵神社に祭神として祀られている』とある。この表米なる男に興味はないが、この鮑伝承と禁忌には非常に興味がある。ちゃサイト赤淵神社も参照されたい。

「金麿親王」ちくま文庫版全集にもルビがないので「かなまろしんのう」と読んでおく。サイト「丹後の地名」の筆石(ふでし) 京丹後市丹後町筆石に、「丹後國竹野郡誌」の「犬ヶ岬」の条に、

   *

「丹後一覽集」、府城の乾方十二里竹野ノ浦にあり、俚俗に曰く、昔金麿親王當國へ下向ありて三鬼退治の時、鏡を掛けたる神化の犬あり、其軍治て後に岩に成りたりとて、犬の蹲りたる形狀をなせる岩あり、此金麿親王は何れの御代の皇子といふことを知らず、用明天皇第三の皇子麿子親王、比地へ下向の事を誤るなるべし。

   *

とあるという。聖徳太子の弟とあるが、私は聴いたこともない。

「高倉宮以仁王」(もちひとおう 仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年)は後白河天皇の第三皇子。治承四(一一八〇)年四月に「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促したことで知られる。邸宅が三条高倉にあったことからかく呼ばれた。ウィキの「以仁王によれば、『自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れ』、五月十五日、『平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され』、『「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。その日の夜、検非違使の土岐光長と源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた』。16日になると、『以仁王が園城寺に逃れていることが判明』、二十一日に『平氏は園城寺への攻撃を決定する。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていたと思われる』。『頼政は』、『その日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り』、『以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることができず、また』、『園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は』、『南都の寺院勢力を頼ることに決めた』。治承四(一一八〇)年五月二十六日、『頼政が宇治で防戦して時間を稼いでいる間に』、『以仁王は興福寺へ向かったが、同日中に南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた』。「平家物語」では、『飛騨守景家に軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする』。『しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。なお朝廷は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが事実の疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった』。平家が滅び、乱から十六年が経過した建久七(一一九六)年に『なっても』、『以仁王は「刑人」と呼称されて』、『謀反人としての扱いを受けている』(「玉葉」の建久七年正月十五日の条)。『第一王子の北陸宮は義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ、また』、『第二王子の若宮は平氏に捕まり、道尊と名乗って仏門に入った。八条院三位局(高階盛章の娘)が産んだ王女である三条宮姫宮は』、建久七(一一九六)年に『八条院より安楽寿院・歓喜光院などを一期分として譲与されている』とある。なお、『新潟県長岡市(旧小国町)には、以仁王が平氏から逃れる際に越後国小国郷に辿り着き、そこで生活したという言い伝えがあ』り、『福島県南会津郡下郷町の大内宿にも潜行伝説があ』って『以仁王を祀る高倉神社が存在する』。『長野県木曽郡上松町の小川一帯には、以仁王の姫宮に関する伝承がある。姫宮は以仁王が木曽谷に潜伏していると聞いて密かに木曽谷を目指すが、上松で平家に見つかってしまう。姫宮は小川の上流へ逃げるが、持っていた麝香袋の匂いで見つかってしまい、深い淵に身を投げて果てる。小川には「麝香沢」「姫渕」などの地名が残されているほか、麝香沢近くには姫宮神社(高倉八幡社)が祀られている』とある(下線やぶちゃん)。

「玉葉」平安末期から鎌倉前期の公卿九条兼実の日記。 現存する部分は長寛二(一一六四)年から建仁二(一二〇二)年まで。]

 

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