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2018/03/12

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(4)

 

 異國神渡來の説は、古くからあつてもやはり歷史と認めがたいことは、『長寛勘文』にもある熊野の王子神、播州廣峰から出たらしい牛頭天王の王子神の事、或は大隅正八幡の古緣起と傳へた七歳の王子とその御母の話の如き、何れも其證據である。是は單に靈威の最も旺盛なる神が突如として顯れ祟る場合に、之を遠い國から移り臨みたまふものと考へる傾向が大昔から我々の中に在つたと云ふことを示す迄で、決して元を辿り乃至今風の考證をして後に、言ひ傳へたものでは無い。殊に之を何の某の靈とまで斷定することは、後作に非ざれば僞作である。陸前千貫松山の東平王の故跡談の如きは、話の古いだけに取止めも無いのが却つて大なる興味である。この附近の街道の傍に、昔旅の空で死んだ唐人の塚があつて、其唐人の名はトウヘイワイ[やぶちゃん注:ママ。つくま文庫版全集では「トウヘイオウ」とあるから、或いは「トウヘイワウ」の誤植の可能性が極めて高い。]であつたと云ふことが五百數十年前の著という宗久紀行にあるので、今に學者だけが之を忘れることが出來ない。處が此は一種の謎みたやうなもので、單に故郷を思慕した旅人の墓の松が、悉く西に向つて靡いて居るのを見て、文選卷四十三の中の名句に、東平の樹咸陽を望みて西に靡くとあるを聯想し、誰かゞ之を言つたのが其人の墓のやうに傳へられた元であつた。而も後には塚の跡も不明になり、千貫松山の千貫松が、これも多分は同じ原因、卽ち東の風が多い爲に、著しく西の方へ靡いて居るのを見て、東平王の墓處を此處に在る如く推測し、しかも日本の東平王とは、大野東人(おほのあづまびと)のことだとか又は惠美朝獦(えみのあさかり)だとか云ふ類の、一種の古墳攷證をした人もあつたのである(地名辭書四〇七五頁)。此なども前代の好事家が、容易に來由の知れるやうな名を附けて置いた爲に、幸にして所謂史蹟の中に網羅せられる事も無かつたが、塚の神を遠來の靈として祀つて居れば、程も無く貴人流寓の口碑となつて行くのは、至つて自然の變化であつたので、塚の上の古木が元來た都の方に片靡きをすると云ふのも、かの西行法師の見返り松の如く、東西には數多い説明傳説の例であつた。

[やぶちゃん注:「長寛勘文」平安康熙の長寛年間(一一六三年~一一六四年)に編纂された勘文(かんもん:朝廷から諮問された学者などが由来・先例等の必要な情報を調査して報告(勘申)を行った文章のこと。主に外記・神祇官・検非違使などの官人及び大学寮・陰陽寮に属する諸道の学者などが行い上奏した)。勘文中に「熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)」が引用されていることでも知られる。熊野社領である甲斐国八代荘で発生した八代荘停廃事件を機にまとめられたもので、平安後期に於ける国衙と荘園の対立を物語ると同時に、熊野と伊勢との祭神が異なることが公式に確認された文書でもある(詳しくは参照したウィキの「長寛勘文」を見られたい)。

「熊野の王子神」ここに出た「王子」や後の「天王」が、内外の皇族や王の子の意などではないことは既に注した。

「播州廣峰」現在の兵庫県姫路市の広峰山山頂にある廣峯神社(ここ(グーグル・マップ・データ))。全国にある牛頭天王の総本宮(但し、京都の八坂神社も牛頭天王総本宮を主張している)。別称も「廣峯牛頭天王」と名乗る。天平の昔から名の見える古社。

「大隅正八幡」鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある大隅国一宮である鹿児島神宮。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「鹿児島神宮」によれば、『欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは』、「八幡愚童訓」の中に、『「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうように』、『と大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う」との記載』に基づき、柳田國男はここでこの「流され王」伝承を指して言っているのである。『八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと』「今昔物語集」巻十二の「於石淸水行放生會語第十」(石淸水にて放生會(はうじやうゑ)を行ふ語(こと)第十)にも『記載されている』。最後のその原文は「やたがらすナビ」のこちらを参照されたい。

「是は單に靈威の最も旺盛なる神が突如として顯れ祟る場合」所謂、御霊(ごりょう)である。

「陸前千貫松山の東平王」個人サイト「武隈の里」の「東平王塚古墳」がよい。上部にグーグル・マップ・データへのリンクもあり、解説の中に、『往古、古墳時代』に『この地方に来たのは卑弥呼に通じる鮮卑系新羅の人達だった』かも知れぬとある。

「トウヘイワイ[やぶちゃん注:ママ。つくま文庫版全集では「トウヘイオウ」とあるから、或いは「トウヘイワウ」の誤植の可能性が極めて高い。]」「故郷を思慕した旅人の墓の松」「東平王松」「大野東人(おほのあづまびと)」前に出した「東平王塚古墳」に、『名跡志 いわく』、『千貫待峰より東、山の下に古い塚あり。青松』十二『株』、『相伝』、『異邦人東平王が山の下で客死、郷里を偲び上に植える草木は西にたなびく』。『宗久紀行もまた異邦人とする』。『東平王は按察使の尊称なりや?』 「続日本記」に、『大野東人、神亀元』(七二四)『年、東国節度使』、同三年、『東海東山節度使兼鎮守府将軍』。『国分式しだいいわく』、『東平王はこれなり、あるいは記いわく、大野東人』。『恵美朝』? 『東平王と称す。橘諸兄が葛城王というように』、『按察使』、『この地で亡くなり墓を作る。郷俗これを知らず』、『異邦人という』。『宗久』、また、『古書を知らず』、『郷俗の説を踏まえた』とある(失礼ながら、少し読み難いが、サイト主の言わんとするところはだいたい伝わってはくるので、なるべく、そのまま引用した)。ここに出る、柳田も言う「宗久紀行」(そうきゅうきこう)は南北朝時代の僧で歌人の宗久の紀行「都のつと」の異名。宗久は俗名を大友頼資と言い、豊後(現在の大分県)大友氏の一族かとも考えられている。貞治っじょうじ)五/正平二一(一三六六)年の「年中行事歌合」に参加しており、応安四/建徳二(一三七一)年には、九州探題となった今川貞世を周防に訪ね、以後は貞世の使僧を勤めた。「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」などに四首所載する。Takeo Wakatsuki 氏のサイト「蝦夷 陸奥 歌枕」の「東平王墓」も必見。その解説には宗久の

 故郷はげにいかなれば夢となる後さへなほも忘れざるらん

一首が掲げられ、『この墓は朝鮮か唐の帰化人らしい』。『東山道が名取の里岩沼で浜街道と交わる驛玉前(現南長谷玉崎)柵にある』。現在の県道三十八号線が『東北本線を横切った所にある前方後円墳と言う(千貫神社宮司)』。『大和朝廷の支配が未だ及ばぬ時代に』、『外国人がこの地に住み着くとは信じ難い。火のない所に煙は立たないから』、『きっと朝鮮半島からの帰化人なのかも知れない。そう言えば』、『ここより山を西北に越えた川崎町に新羅の郷の地名がある』。『支倉六右衛門常長の生まれた所だが、ここは後三年の役で新羅三郎義光が新羅の帰化人』三十七『人を連れて来て』、その内の二十人を『槻木の入間田に』、十七人『を川崎町に住まわせたと言う』とあり、何と!昭和四五(一九七〇)年十月には、突然、『韓国からその末裔が祖先を訪ねて来て』、『地元の人を驚かせたという。堺の商人・茶人宗久がその紀行文の中で』、[やぶちゃん注:以下、宗久の「都のつと」の原文引用であるが、一部の漢字を正字化し、表記を改めさせて貰った。]

   *

……逢隈川の舟より下りて行く道の邊りに、一つの塚あり。往來の人の所爲と覺えて、あたりの木に詩歌など多數書き付けたり。昔、「とうへいわう」と云ひける唐人の墓なり。故郷を戀ひつつ、此處にて身まかりけるが、その思ひの末にや、塚の上の草木も皆、西へかたむく、と申しならはせり、と語る人ありしかば いと哀れに覺えて……

   *

『と記して上の歌を詠んでいる。どんな事情でここにあるのか知る由もないが』、『一人の悲しい運命がこの藪の中に眠っている』とある(但し、これは幾つかの書からの引用らしい)。

「文選卷四十三の中の名句に、東平の樹咸陽を望みて西に靡くとある」「重答劉秣陵沼書」の「冀東平之樹、望咸陽而西靡。蓋山之泉、聞絃歌而赴節」を指す。

「惠美朝獦(えみのあさかり)」奈良時代の公卿藤原朝狩(?~天平宝字八(七六四)年)のこと。ウィキの「藤原朝狩」によれば、『氏姓は藤原朝臣』、後、『藤原恵美朝臣。藤原南家、大師・藤原仲麻呂の四男。母は新田部親王の娘・陽候女王(一説では藤原宇比良古)。官位は従四位下・参議』。『父の仲麻呂は孝謙天皇の信任厚く、天平宝字元年』、『仲麻呂の推す大炊王が皇太子になり、紫微内相(大臣に准じる)に任ぜられると、朝狩は従五位下・陸奥守に叙任され』た。『その後は、父の立身とともに朝狩ら兄弟も昇進してい』き、天平宝字二年に『孝謙天皇が譲位して、大炊王が即位(淳仁天皇)すると、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ』、『恵美押勝の名を与えられ、朝狩ら兄弟も同様に藤原恵美朝臣姓に改姓する。天平宝字』三年、『朝狩は二階昇進して正五位下へ進み、陸奥鎮守将軍も兼ねる』。天平宝字四年、『仲麻呂が太師(太政大臣)に任ぜられると、朝狩も陸奥国において、荒蝦夷を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城を完成させた功績が認められ』、『従四位下に叙され、同年には仁部卿・東海道節度使に任ぜられる。そして、天平宝字』六年、『仲麻呂が正一位に昇叙されると、朝狩は兄の真先・訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子』四『人が同時に公卿に列する異例の事態になった』。『栄耀栄華を誇った仲麻呂一族だが、孝謙上皇が道鏡を寵愛するようにな』り、『仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところ、上皇が激怒して天皇から政権を奪い、孝謙上皇・道鏡派と淳仁天皇・仲麻呂派の対立が起きる』。天平宝字八年九月、『仲麻呂は反乱を計画』したが、『密告により発覚』、『孝謙上皇側に先手を打たれたために仲麻呂一族は平城京を脱出し、朝狩もこれに従う。仲麻呂が長年国司を務めた勢力地盤である近江国の国衙に入って再起を図ろうとするが、官軍に先回りされ』、『これを阻まれた。やむなく』、『仲麻呂一族は八男・辛加知』(しかち)『が国司を務める越前国を目指すが、官軍が越前国衙へ急行して、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、国境の関を固めてしまう。やむなく』、『仲麻呂一族は近江国高島郡に退き、三尾の古城に拠って官軍に抵抗』したが、『敗れ、朝狩を含む仲麻呂一族はことごとく殺された(藤原仲麻呂の乱)』とある。

「千貫松山の千貫松」附近(グーグル・マップ・データの航空写真)の尾根にあった松群らしいが、現在は枯れてしまったらしい。

「地名辭書」「大日本地名辭書」明治後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された。]

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