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2018/03/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 七 / 魚王行乞譚~了

 

     七

 

 話が長くなり過ぎたから議論の方を省略する。私の説いて見たかつた一事は一國民の文藝技術が、終始書卷の外に於て成育しつゝあつたといふことである。本は只單なる記錄者に過ぎなかつたといふことである。是より以上に昔を問ふ途のなかつた場合に限つて、始めて助力を之に求むべしといふことである。ハナシといふ日本語は古い字引の中には見付からない。是は語りごとの樣式方法の、今は昔と大いに異なつて居ることを意味するかと思ふ。さうして軍陣羈旅の殊に盛んであつた時代になつて、咄の衆なる者は世に現れて活躍したのである。咄又は噺といふ文字が新案せられ、此語の頻りに用ゐられたのが、ハナシの技術の急に進化した時代と見てよかろう。技術は進んでも内容ほもと外部からの、自然の供給に仰がなければならなかつた。卽ち話は上手になつても話の種は乏しかつた。そこで近代の話し家同樣の、いとも熱心なる搜索と、稍無理なる變形とが始まつたのである。所謂武邊咄(ぶへんばなし)の流行が略下火(したび)になると、御伽這子(おとぎはうこ)一流の新渡[やぶちゃん注:「しんと」。新しく外国から渡来したこと。]小説の燒直しが始まつて居る。ウソにも亦一種の社會需要があつた。世間話の種の常に缺乏して、目先を變へる爲に傳説緣起の境まで、あさり步かなければならなかつたのは、驚くべく幸福なる太平無事ではあつたが、聽く者の側からいふと、自分等の生活慣習とは打合はない、翻案の痕の生々しいものよりは遙かによかつた。昔の讀者は少なくとも自主であつた。少なくとも今よりはナシヨナルであつた。作者は努めて此要求に追隨して居たことは、曾我が三百年もの間、每年初春の芝居であつたのを見てもわかる。

[やぶちゃん注:「曾我が三百年もの間、每年初春の芝居であつた」特に延宝四(一六七六)年正月、初代市川團十郎が「壽曾我對面(ことぶきそがのたいめん)」を初演(彼が演じたのは曽我五郎)が大当りした後は、この演目が正月興行には欠かせない出し物となり、初春を言祝ぐ祝祭劇として一番目の大詰に必ず演じられるようになった。江戸歌舞伎の正月興行に曽我兄弟の仇討を素材にした曽我狂言を行う仕来たりは享保年間(一七一六年から一七三六年)には出来ていたようである。また、それ以降も更にさまざまな演出や改作が行われるようになり、遂には一千種ともされる派生型の曾我物が生まれたのであった。本論文は昭和五(一九三〇)年一月の『改造』初出であるから、延宝四(一六七六)年は二百五十四年前になる。]

 

 以前京都の地に今日の東京の如く、話の問屋のあつたことは大よそ疑ひの無い證據がある。自分等のゆかしく思ふのは、彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]の番頭等の見本鑑定眼、それを全國的に捌いて行く品柄見立ての腕前であつた。那津(なのつ)堺津の貿易の頃から、外國の文藝の次々に舶載せられたことは、事情も之を推測せしめ、痕跡も顯著に殘つて居る。それを我々國民が手傳つて遣つて、今では立派な國産品にしたのである。私は魚が僧になつて來て飯を食つた話の、必ずもと輸入であることを信じて、今でも色々の方面を搜して居る。法苑珠林[やぶちゃん注:「はうをんじゆりん(ほうおんじゅりん)」、後注参照。]などは索引が無い爲に、有りさうに見えてまだ資料を見付けない。南方熊楠氏のような記憶のよい人に助けて貰ふの他は無いと思つて居る。しかし太平廣記の中には少なくとも二つの例があつた。次に引いて置くものが卽ちそれである。其一つは同書卷四百六十九に、廣古今五行記を引いて斯う記して居る。但し私の持つ本は新刻の惡本であるが、大要だけは多分ちがふまい。曰く晉安郡の民、溪を斷じて魚を取る。忽ち一人の白[やぶちゃん注:底本は「白恰」であるが、おかしい、ちくま文庫版全集で見ると『白袷(しろあわせ)』で意味は通るが、しかしこれもどうも違和感がある。原本(後掲)を見たところ、「白」が中国で男性が髪を纏めた絹製の白い帽子のことであった。原典によって訂した。]靑練の單衣を着て來たり詣る有り。卽ち飮饌[やぶちゃん注:「いんせん」。饗応のための飲食物。]を同じくす。供し畢りて語りて曰ふ。明日魚を取るに、まさに大魚の甚だ異なるが最も前に在るを見ん。愼みて殺す勿れと。明日果して大魚あり。長七八丈(尺?)、逕ちに[やぶちゃん注:「ただちに」。]來たりて網を衝く。その人すなわちこれを刻(?[やぶちゃん注:私の見た原文では「賴」だから「まうけとして」(利益・幸いとして)の意であろうか。])殺す。腹を破きて見るに、食ふところの飯悉くあり。其人の家死亡して略盡くとある。その二も同書同卷に朝野僉載[やぶちゃん注:「てうやせんさい(ちょうやせんさい)」。]を引いて、唐の齋州に萬頃陂[やぶちゃん注:「ばんけいは」。無論、固有地名であるが、「陂」は堤(つつみ)である。]という處あり。魚鼈水族有らざる所無し。咸亨[やぶちゃん注:底本は「感享」であるが、孰れも誤植と見て文庫本全集及び原典(後掲)で特異的に訂した。咸亨(かんこう)は唐の高宗の治世に使用された元号。六七〇年から六七四年まで。]中忽ち一僧の鉢を持して村人に乞食するあり。長者施すに蔬供[やぶちゃん注:「そく」。蔬菜(青物)の供物。]を以てす。食し訖つて[やぶちゃん注:「おはつて」。終わって。]去る。時に漁網して一魚を得たり。長六七尺。緝鱗[やぶちゃん注:「しうりん(しゅうりん)」。意味は後注参照。]鏤甲[やぶちゃん注:「らうこう(ろうこう)」。同前。]錦質[やぶちゃん注:「きんしつ」。同前。]寶章[やぶちゃん注:「ほうしやう(ほうしょう)」。同前。]あつて、特に常の魚に異なれり。齋して[やぶちゃん注:「もたらして」。]州に赴きて餉遺[やぶちゃん注:「しようい」。食べ物を贈ること。ここは州の太守に、であろう。]せんと欲するに村に至りて死す。共に剖いて[やぶちゃん注:「さいて」。割(さ)いて。]之を分つに、腹中に於て長者施すところの蔬食を得たり。儼然として[やぶちゃん注:「げんぜん」。厳(おごそ)かで動かしがたい事実に。]竝びに在り。村人ついに陂中において齋を設け[やぶちゃん注:「齋」は「とき」。「齋を設ける」というのは「神として祀る」ことを指す。]過度(?[やぶちゃん注:「過度なりとして齋を設く」で、「あまりに節度を欠いた所業であったとして祭祀した」の謂いではあるまいか?])す。これより陂中に水族なし。今に至つて猶然りとある。

[やぶちゃん注:ここで柳田國男が引いている原文は以下。前の話は「水族六 水族爲人」の「晉安民」、後のそれは同じ「水族六 水族爲人」の「萬頃陂」。私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「鰻」 附 小泉八雲A Matter of Custom原文及び田部隆次訳』で電子化しているが、新ためて示す。

   *

晉安郡民斷溪取魚、忽有一人著白、黃練單衣、來詣之、即同飮饌。饌畢、語之曰、「明日取魚、當有大魚甚異、最在前、愼勿殺。」。明日、果有大魚、長七八丈。逕來衝網。其人卽賴殺之。破腹、見所食飯悉有。其人家死亡略盡。出「廣古今五行記」。

   *

唐齊州有萬頃陂。魚鼈水族。無所不有。咸亨中。忽一僧持鉢乞食。村人長者施以蔬供、食訖而去。於時漁人網得一魚。長六七尺、緝鱗鏤甲、錦質寶章、特異常魚。欲齎赴州餉遺、至村而死、遂共剖而分之。於腹中得長者所施蔬食、儼然並在。村人遂於陂中設齋過度、自是陂中無水族、至今猶然絶。出「朝野僉載」。明鈔本作出「五行記」。

   *

前話の「晋安郡」晋代から隋初にかけて置かれた旧郡名。現在の福建省東部の福建省福州市晋安区。ここ(グーグル・マップ・データ)。後者の「緝鱗」はびっしりと「集まった」「光り輝く」(「緝」には以上の二義がある)鱗(うろこ)。「鏤甲」飾られたような煌びやかな背甲部(亀なら甲羅であるが、魚形であるから、超巨大個体も珍しくないチョウザメのような魚で。硬い背面(硬化して突き出た鱗)を有していたのかも知れぬ)を有していたらしい。「錦質」全体がくすんだ部分がなく、錦を織りなしたような極彩色であったらしい。「寶章」目出度い宝を表わすような文様をも皮膚に有していたようだ。

「法苑珠林」唐代に道世が著した仏教典籍・類書。全百巻。六六八年成立。引用する典籍は仏教のみならず、儒家・道教・雑書など四百種を超え、また現在は散逸してしまった「仏本行経」「菩薩本行経」「観仏三昧経」「西域誌」「中天竺行記」などを引用しており、インドの歴史地理研究の上で重要な史料となっている。

「廣古今五行記」唐の竇維(とうい)の撰になる志怪小説集。

「長七八丈(尺?)」唐代のスケールは一丈は三・一一メートルであるから、二十二~二十五メートル弱となり、余りにも巨体過ぎる。柳田國男の「?」も腑に落ちる。

「朝野僉載」「遊仙窟」の作者として知られる唐の文人張鷟(ちょうさく)の伝奇小説集。]

 

 此話が直接に日本へ移植せられた元の種で無いことは想像し得られる。さうして現に又二國以外の民族の間にも行はれて居るのである。何か總論の書で頭を養はれた人は、必ず待ち兼ねて居たやうにして、源は印度と言はんとすることであろう。勿論それも亦決して不自然なる推量では無かつた。何にしても斯ういふ現實に遠い話は、非常に古く始まり且つ弘く旅行をして居たものと見なければ、第一に人の信じたことを説明し得ないのである。しかも果して天竺の雲の彼方より、漂泊して爰に到つたものと假定すれば、更に日本以外の古い一國に於ても、人に説話を傳説化せしめんとする傾向あり、珍聞を我地に固著させ、努めて之を信じ易い形にして信じようとする無意識の希望があつたことを、明瞭にした結果になつて面白いのである。我々の昔話は信じ得ないのを一つの特徴にして居る。ウソの最も奔放なるものならんことを、寧ろ要求さへしたのである。それが流傳の間に何度と無く、傳説を欲する人々、卽ち郷土を由緒あるものにしたい念慮ある者に執らへられて、恰かも歷史の一部を構成するかの如く、取扱はれようとして居たのは奇異であるまいか。是をしも旅の藝術家の説話の妙に歸して、土人はたゞ均しく之に欺かれ了り[やぶちゃん注:「おはり(おわり)」。終り。]たるものと解する説には、自分一人は斷乎として與[やぶちゃん注:「くみ」。]しない。發育する者には食物の自然の要求がある。さうして教へられずして養分の何れに在るかを知つて居る。國土山川は廣く連なり、浮説は數限りも無く其上を去來して居た中に、獨りその或一つが斯うして或一處と結合したといふのには、もつと特別な原因が無くてはならぬ。古人は之を察してしかも名くるの途を知らず、たゞ漫然として因緣と稱して居た。我々の新たなる學問は是非とも其因緣を精確にすべきである。魚の人間に化けて飯を食つた話は、又サンチーヴの聖母論(Les Vierges Mères kes Naissances Miraculeuses ; P. 116)にも一つ出て居ることを、近頃松本信廣君によつて注意せられた。ランドの安南傳説集(一八八六年)に、昔一人あり兒無し。或大川の落合に棲む鰻魚を捕りて食はんとす。そこに來合せたる僧あつて、切に助命を乞ふも肯ぜず。去るに臨んで佛法の式によつて調理せられた無鹽の蔬食を供した。後に愈〻此流れに毒揉みをして其大魚を捕殺し、腹を割いて見たところが、前に法師に供したる食物が其儘にあつたので、僧は卽ち鰻の假形[やぶちゃん注:「げぎやう(げぎょう)」と読んでおく。]なることを知つたと云ふ。しかも此男が鰻を食うて程無く、妻身ごもりて男兒を産み、それが彼の家の沒落の原因となつたことは、下總銚子の垣根長者と同じであつて、人は是を鰻の亡靈の報讎に出でたものと認めたと言つて居る。鰻の精分と生誕との關係、殊に此魚の形態が男子の或生理機關を聯想せしめることが、果して最初からの此話の本意であつたかどうか。此問題を外國の學者と共に論ぜんことは、到底私などの趣味では無い。爰には單に我々の搜索が、まだまだ進んでより古き民族に及び得ること、さうして必ずしも一つの大陸の間には限らず、或は猶遠く洋海の地平の外まで、分布して居ないとは極められぬことを説きたいのである。日本だけでさへもこゝにははや十に近い變化が算へ得られた。今後さらに頻々たる類例の發見に逢うても、猶最初の一定説を固守するまでに、西洋の學者は普通には頑陋ではない。それ故にその學説の早期の受賣は日本の爲に有害である。我々は其前に先づ十分に、自分の中の事實を知るべきである。

        (昭和五年一月、改造)

[やぶちゃん注:「サンチーヴ」民俗学者でその系列の出版社も経営していたエーミール・ヌリー(Émile Nourry 一八七〇年~一九三五年のペン・ネーム、ピエール・サンティーヴ(Pierre Saintyves)。

「聖母論(Les Vierges Mères kes Naissances Miraculeuses ; P. 116)」一九〇八年刊行。「聖母の奇跡の誕生」。

「松本信廣」(明治三〇(一八九七)年~昭和五六(一九八一)年)は民俗学者・神話学者。沖縄・東南アジア研究の先覚者としても知られ、伊波普猷・柳田國男・上田万年・新村出・折口信夫・金田一京助らと共に「南島懇話会」を組織した。戦後は日本民族学協会理事長・日本歴史学協会委員長・東南アジア史学会会長・日本学術会議会員などを歴任した。参照したウィキの「松本信廣によれば、『日本人の東洋学者として最初の文学博士の国家学位を受けた人物である』とある。

「ランド」フランスの民俗学者・中国学者(インドシナを専門とした)アントニー・ランズ(Antony Landes 一八五〇年~一八九三年)。

「安南傳説集(一八八六年)」恐らくは原題はContes et légendes annamites(「安南(現在のベトナム)のコント(昔の小話)と伝説」) である。

「昭和五年」一九三〇年。]

 

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