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2018/03/02

御伽百物語卷之一 石塚のぬす人

 

   石塚(いしつか)のぬす人

 

Isitukanonusubito

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。視覚的怪異の最たるシークエンスを絵にしている。いいね。]

 

 往昔(いにしへ)、神功皇后(じんぐうくわうごう)を葬り奉りし狹城(さき)の盾列(たけなみ)の陵(みさゝぎ)は、今の和州歌姫(うたひめ)の地にして、上古(そのかみ)、成務天王(せいむてんのう)を治め奉りし池後(いけのうしろ)の陵と相並(ならべ)り。俗、呼(よん)で、皇后の陵を「大宮」と名づけ、成務の陵を石塚とす。猶、そのころの凶官(けうかん)、大連(たいれん)の住みける跡も、土師村(はしむら)・陵村(みさゝぎむら)と名に殘りて、千歳(〔せん〕ざい)の今に及べども、失せず。百王の世々を動きなく遠く見そなはし給ふとの神慮も、いちじるく、成務・神功・孝謙三代の陵墓、親々としてつらなり、雨、土くれを動かさず、風、枝をならさずして、松は年每(としごと)の綠ふかく、雲は石塚より出でて、慶びの色をたなびけりとぞ。

[やぶちゃん注:「神功皇后(じんぐうくわうごう)を葬り奉りし狹城(さき)の盾列(たけなみ)の陵(みさゝぎ)は、今の和州歌姫(うたひめ)の地」第十四代天皇仲哀天皇(父は第十二代天皇景行天皇の子日本武尊とされる)の皇后で三韓征伐を指揮したとする伝承で知られる神功皇后の陵墓は、現在も宮内庁によって奈良県奈良市山陵町(みささぎちょう:「山陵町」三字でかく読む)にある狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)に治定されている(五社神古墳:前方後円墳で墳丘長は二百七十五メートル。ここ(グーグル・マップ・データ))。現在、歌姫の地名はその東直近に奈良市歌姫町として残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに、「歌姫」という地名は平城京の時代の女官がこの辺りに住んだことが由来とされる。

「成務天王(せいむてんのう)を治め奉りし池後(いけのうしろ)の陵」第十三代天皇成務天皇(景行天皇の子)。位置は先の神功皇后陵墓の地図画面の南にある。但し、ウィキの「神功皇后」の「陵」によれば、神功皇后の陵について「古事記」では『「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」』とし、「日本書紀」では『「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している』。しかし、承和一〇(八四三)年に『盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が』「続日本後紀」にあるとする。その後、『「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験あり』、『として多くの人が参拝していた』という。『その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより』、『神功皇后陵が五社神古墳とされ』、文久三(一八六三)年に『五社神古墳が神功皇后陵に治定され、現在に踏襲されている』とある。本話の舞台は、まさにこちらの成務天皇の陵墓に治定されている石塚で現行では「狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」と呼んでいる。考古学名は「佐紀石塚山古墳」で前方後円墳、墳丘長は二百十八メートルである。参照したウィキの「成務天皇」の「陵」によれば、「扶桑略記」によれば、康平六(一〇六三)年三月、『興福寺の僧静範らが山陵を発掘して宝器を領得し』たが、二ヶ月後の五月、『山陵使が遣わされて宝器は返納され、事件に座した』十七『人は伊豆国その他に配流された。他にも勾玉などが盗掘される被害を受けている』とする。『平安初期の承和』(八三四年から八四八年)の頃には、『すでに神功皇后陵とされていた。これは陵号のうち』、『後の文字をシリと読むことを忌み、カミといって、神功皇后陵陵号とまぎれたものか』とも言う。『のちに陵の所在を失ったが、元禄以後、多くの説が成務陵に現在の地を推し、幕末の修陵の』際に大々的に『修治が加えられ、竣工に際しては』慶応元(一八六五)年、『広橋右衛門督が遣わされ、奉幣が行なわれた』とある。

「凶官(けうかん)」不詳。原典もこれだが、フラットな意味での、こんな熟語は私は見たことがない。この場合の「凶」は「おそれる」で、畏れ敬うべき高位の官職という意味であろう。

「大連(たいれん)」本来は「おほむらじ」で、大和朝廷における最高執政官の称。連(むらじ:古代の姓(かばね)の一つ。大和朝廷から神別(しんべつ)の氏族の首長に与えられた。臣(おみ)と並ぶ最高の家柄で、「連」姓の内の有力者は「大臣(おおおみ)」とともに大連と称して政権を担当した)の姓(かばね)の最有力者が任ぜられ、大伴・物部の二氏が世襲したが、大伴金村失脚後、物部氏が独占したものの、六世紀末には物部守屋が蘇我馬子に殺されたため、消滅している。ここは単に高位で政治勢力を持った一族の謂いであろう。

「土師村(はしむら)」「土師」は土師(はじ)を氏(うじ)の名とする氏族で、天穂日命(あめのほひのみこと)の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第十一代天皇垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて「土師連(はじのむらじ)」姓を与えられたとされる。その一族の末裔が領した或いは住む村ということであろう。但し、現在の奈良県内には地名としては残らない模様である。

「陵村(みさゝぎむら)」神功皇后の注で示した通り、同陵一帯の町名は現在も山陵町(みささぎちょう)である。

「百王の」「の」は主格の格助詞。

「孝謙」第四十六代天皇孝謙天皇で、重祚して第四十八代天皇称徳天皇(養老二(七一八)年~神護景雲四(七七〇)年)。女帝。陵墓は、現在、宮内庁によって奈良県奈良市山陵町にある高野陵(たかののみささぎ)に治定されている。佐紀高塚古墳(前方後円墳・墳丘長百二十七メートル)。先の神功皇后の注のリンク地図の成務天皇陵の南に接するように存在する。但し、本古墳は佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳の一つであって、『その比定は疑問視されている』とウィキの「孝謙天皇」にある。]

 こゝに「火串(ほくし)の猪七」と云ひしは、吉備中山に隱れ住みて、年久しき盜賊の張本なり。彼がすむ山は備前備中に跨りたれば、兩國の支配たる故、制禁も疎かなるを賴みて、ある時は武藏野の草に臥して江戸の繁榮に欲をおこし、又は北國船(ほくこくぶね)に身をひそめては津々浦々の旅客をなやめ、命を幾度か虎の口に遁れて立ち歸る。春は都の町々に窺ひありき、花の名殘りを大和路にかゝり、故郷の空なつかしく急ぎけるに、此歌姫の宿泊り迄、組下の與力ども二十人ばかりを引き具し、こゝかしことおびやかし、伐り取り強盜に心をくだくといへども、上方の邊(へん)は、人、賢(さか)しく、安きに居れども、危きを忘れず。常にたのしめども、萬(よろづ)に心をくばりて、用心、きびしき所なれば、此程、さまざまと手を盡しつるも、徒(いたづ)らになり、うちつゞきたる不仕合せに、

「いでや、祝ひなをして、道すがら、歸りがけの設(まふけ)せん。」

と、猪七が一黨、酒のみ、あかしける。

 序(ついで)に猪七、いひけるは、

「いざや、者ども、此むらにありといふ陵を掘りかへし、樣子よくば、今よりして東國北國に指しつかはす眷屬どもの宿りにもすべし。且(かつ)は予が出張(でばり)の地にも可然(しかるべ)き所ぞかし。幸ひ、此陵山(みさゝぎやま)は三代帝王の墳墓なり。中にも大宮は神功皇后の陵にて、四方にから堀を構へたるも、要害のたより、すくなからず。與力の者ども、面々に力をはげまし、掘りかへせ。」

といへば、

「我も我も。」

と鋤鍬(すきくわ)をたづさへ、先づ、石塚に取りかゝりぬ。

[やぶちゃん注:「火串(ほくし)の猪七」不詳。「火串」(ほぐし)とは夏山における狩猟の際、鹿などを誘(おび)き寄せるための、燈火(ともし)の松明(たいまつ)を挟んでおく木の名称、或いは、狼煙(のろし)の土台に立てる杭(くい)が原義である。盗賊の通称としてはなかなか、いい。

「吉備中山」岡山市西部にある吉備津神社(現在の岡山市北区吉備津)の後方の山。ここ(グーグル・マップ・データ)。歌枕でもある。また、地図を見て判る通り、この山は石室を持った古墳群がある。火串の猪七がここを根城としていたからには、古墳を暴くなんぞは平気の平左であったろう

「備前備中」「備前」は現在の岡山県東部、「備中」は岡山県の西部に当たる。

「北國船(ほくこくぶね)」一六世紀頃から十七世紀末にかけて、北陸地方を中心に日本海海運の主力となって活躍した廻船のこと。大きさは三百石積みから二千石積み級の大型船まであるが、特に千石(米一千石相当。約百五十トン積み)以上の大型船の船を指し、主として秋田・青森地方の材木輸送に使用された。これは帆走性能は存外に悪く、人力航行を併用するために多数の乗組員を必要としたから、こういった不逞の輩が潜り込むにはもってこいだったわけである。

「組下の與力」盗賊団の配下。

「伐り取り強盜」強殺強盗。

「うちつゞきたる不仕合せ」上方の人間が、余りに用心深いために、強盗が一向に働けない、未遂に終ってまるで金にならないことを言っている。

「いでや、祝ひなをして、道すがら、歸りがけの設(まふけ)せん」「さあ! 野郎ども! 仕事が上手くいかねえから、一つ、道すがら、盗賊の神さまを祝う『晴れ』の祭りをやらかし、故郷の吉備の中山に帰りがけの上手い獲物に遇えるよう、酒宴を張ろうぜ!!」。

「宿り」中継ぎの隠れ家。

「出張(でばり)の地にも可然(しかるべ)き所ぞかし」「吉備の中山の本拠から、東国北国へと盗みの触手を伸ばすにゃあ、格好の場所じゃねえか!」。

「要害のたより、すくなからず」盗賊の一拠点とするに、守るに易く、攻めらるるに難い、格好の結構であるということを言っている。]

 比(ころ)は卯月のはじめの七日、宵月(よひつき)いりてより、胴(どう)の火さし上げ、手每(てごと)にいどみて掘りけるに、始(はじめ)の程は四方ともに石を以て築きこめたるを、漸(やうやう)として此石を掘りすてしかば、何所(いづく)ともなく、鉄(かね)の汁(しる)、湧き出でしを、猪七、下知して、土砂を持ち、かけさせ、泥となして、かへほしたれば、其おくは、大きなる石の門ありて、鉄(くろがね)の鎖(でう)をおろしたるを、胴突(どうつき)をもつて打ちはづし、門をひらいて込みいらんとする所に、何ものゝ射るとはしらず、門の内より矢を射出す事、雨のごとくにみだれかゝれば、いさみすゝみし盜賊ども、七、八人、やにはに、たふれ死する者もありければ、此ふしぎ氣をとられ、しばし、しらけてひかへたるを、猪七は、もとより不敵ものにて、かやうの怪異にあへども、事とせず、餘黨どもを叱りて云ふやう、

「死して久しき人を治め、年、また、いくばくの月日を積みたる、ふる塚(つか)なり。狐狸の臥處(ふしど)にもあらねば、是れ、しばらく、上古(じやうこ)の人の、塚を守らんために仕かけ置きし操(からくり)ぞや。皆、立ち退きて、石を投げよ。」

と、聲をかくれば、手每(てごと)に礫(つぶて)を以て投げいるゝに、石に隨ひて矢を射だす事、數刻(すこく)にして、やがて矢種も盡きぬと見えし時、

「入れや者ども。」

と、一同に、こみ重(かさな)り、胴の火、ふき立てて、第二の門にとりかゝり、石の扉(とびら)をはねあぐれば、又、甲冑(かつちう)を對(たい)せし武者、門の左右に立ちふさがり、打ち物のさやをはづし、眼(まなこ)をいらゝげ、面(おもて)もふらず、無二無三に切りまはるを、猪七、是れにも猶、恐れず、

「鍬の柄・鋤の柄を取りのべ、敲(たゝ)きおとせ。」

と、下知せられ、盜賊ども、かけふさがり、橫ざまに薙ぎたつれば、太刀・長刀、ことぐく持ちもこたへず、落されたり。

[やぶちゃん注:「胴(どう)」強盗提灯(がんどうぢょうちん)のことであろう。銅板やブリキ板などで釣鐘形(胴状)の枠を作り、中に自由に回転する蠟燭立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすため、持つ人物の顔は相手に見えない。「忍び提灯」「龕灯(がんどう)」とも言うから、「がんどう」の「どう」(本来は「灯」)に、釣鐘状の「胴」体を掛けて、かく表記したものと思われる。

「手每(てごと)にいどみて」各人が競い合って。

「鉄(かね)の汁(しる)」金気(かなっけ)の水。強い金属臭の赤茶けた水。因みに、始皇帝の墳墓には盗掘防止用に水銀が湧き出て、盗掘者を溺れさせるシステムがあったという。

「泥となして、かへほしたれば」水分を吸収させて泥に変えて、通路(古墳の羨道)を乾燥させたところ。

「鎖(でう)」「錠」に同じい。

「胴突(どうつき)」地盤を突き固めたり、杭を打つのに用いる用具。土突き。

「しらけてひかへたるを」配下の連中は、意想外の事態に蒼白となって後じさりしたが。

「治め」納め。納棺し。

「しばらく」「ちょっとの間」で、盗掘防止のためのその装置が機能する時間を指していると読んでおく。

「上古(じやうこ)の人の、塚を守らんために仕かけ置きし操(からくり)」やはり、始皇帝の墳墓には同じく盗掘者防止用に自働的に矢が射出される装置が仕掛けられていたともいう。

「皆、立ち退きて、石を投げよ」自動装置であるからには、人か物体かは判別せずに、動体に対して矢を射出するのであろうと推したのである。火串の猪七、なかなかの策士である。

「數刻(すこく)」一刻は定時単位では三十分相当。]

 よくよりて見るに、悉く、木にて刻(きざみ)たる兵の人形なり。

「時こそ移れ。」

と、みだれ入り、殿上(てんじやう)とおぼしき所に着き、大床(おほゆか)に走りあがり、其あたりを見まはせば、中央の床(ゆか)に臥し給ふは、傳へきく成務帝(せいむてい)と見えて、七寶の襖(ふすま)に珠玉の褥(しとね)、衣冠たゞしくして、東首(とうしゆ)したまふ。四面に、おのおの、卿相雲客(けいしやううんかく)、次第に居ならび、威儀おごそかなるありさま、生ける人に少しも、たがはず。

[やぶちゃん注:「木にて刻(きざみ)たる兵の人形」木ではあるが、後の描写も、これはもう、まさに兵馬俑の雰囲気、充満! 但し、兵馬俑(実物)の発見は現代も現代、一九七四年のことではあるけれど。

「東首」東枕。これは天照大神の太陽神崇拝(再生信仰)の表われか。陰陽五行説では、東は「陽」の方角とされ、「陽」の「気」を受けられ、再生の意味があることにもなるのだが、これが事実、成務天皇の墳墓であるとすれば、仏教の伝来もまだまだであるからして、これは無効な説明とはなる。

「卿相雲客」狭義には公卿と殿上人で、「卿相」は三位以上の公卿、「雲客」は宮中での昇殿を許された殿上人(四位と五位及び、六位の蔵人(くろうど)で殿上の間に昇殿を許された者)。但し、広義に高い身分の人々の意もある。]

 身の毛よだちて覺へたるに、玉(たま)の床の後(うしろ)にあたりて、大きなる黑漆(こくしつ)の棺(くわん)あり。鉄(くろがね)の鎖(くさり)をもつて石の桁(けた)に穴をゑり、八方へ釣りかけたり。其したに、金銀・珠玉・衣服・甲胃、さまざまの寶をつらねて、心も詞(ことば)も及ばれず、見も馴れざる古代の道具什物(じうもつ)、うづ高く積みあげたるに、盜人ら、是れを見て、おもひの外に德つきたる心地して、我よ人よと、あらそひ取らんとする所に、彼の釣りたる棺の内より、白銀(しろがね)にて作りたる鼠壹疋、猪七が懷に落ちかゝりけるが、たちまち、棺の兩角(りやうかど)より吹きいづる風の音、さながら、秋の田面(たのも)に渡る野分(のわき)の風ともいひつべく、吹きしこるにつれて、細かなる砂を吹きおろす事、雲霧(くもきり)か、しぐれの雨かと、袖を拂ひ、頭(かしら)をふるふ程に、松明(たいまつ)を吹き消し、鋤鍬をふりうづみ、見あぐる眼(まなこ)をくらまかし、矢をつくばかりに、風につれて、とやみなく降る砂に、盜人らも途(と)を失ひ、とやかくと身もだへせし内、すでにふりつみて、膝節(ひざふし)も隱るゝ程なりしかば、さしもの猪七も、そらおそろしく、後(うしろ)がみにひかれて逃げ出でしかば、殘る者ども、我さきと命をおしみ、轉び走り、門の外にかけ歸れば、石の扉、おのれと打ちあひ、もとの如くにさし堅まる。

[やぶちゃん注:この後半の変異(インディ・ジョーンズ張り!)が、聴覚的にも視覚的にもすこぶる映像的である。

「桁(けた)」ここは棺の下に複数渡した石製の水平材。

「おもひの外に德つきたる心地して」想像以上の財宝の山に、とんでもない儲けものをしたという狂喜乱舞する気持ちを指す。

「彼の釣りたる棺の内より」ということは、この黒漆で塗られた吊り下げられた正体不明の棺(と言っているが、これは櫃(ひつ)と採るべきものである)には蓋がされていなかったことになる。その櫃の下に財宝がこれ見よがしに山積みされているというのは、怪しい。これもやはり盗掘防止用の装置であると考えるべきだったね、猪七さん。事実、そのように何かが装置が作動するじゃないですか。

「白銀(しろがね)にて作りたる鼠」後の展開を見ると、表面に何らかの毒物が塗られていた可能性が高い。

「吹きしこる」「しきる」ではないかと原典を見たが、ママ。「しこる」は「凝る・痼る」で、動詞の連用形に付いて、「しきりに~する」の意と採っておく。]

 猪七は、彼の鼠の落ちかゝりける跡、その折ふしは何とも思はず、周章(あはて)て、そこを遁れ出でしが、ほどなく癰(よう)といふ物をわづらひ、故郷(こきやう)に歸りて死しけるとぞ。

[やぶちゃん注:「癰(よう)」悪性の腫れ物で「癰」は浅く大きいものとされる(深く狭いそれは「疽(そ)」)るが、医学事典を調べると、「癰」も「疽」も恐らくは、所謂、皮膚感染症の中でも、化膿が進行してしまった重症の皮膚膿瘍(のうよう)のことで、最も一般的な原因菌は黄色ブドウ球菌及び連鎖球菌である。狭義には、応急処置としては最早、切開して排膿するしかない、極度に悪化した状態のものを指すと考えてよい。]

 

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