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2018/03/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二

 

     二

 

 卽ち二つの話の少なくとも一方だけは、誰かゞ所謂換骨奪胎したことが、もう聽く人々にも認められて居たのである。江戸には此頃風説の流布といふことを、殆ど商賣にして居たかと思ふやうな人が何人もいた。たとへば兎園小説其他の隨筆に、盛んに書いて居る常陸國藤代(ふじしろ)村の少女、八歳にして男の兒を生んだという話もウソであつた。其地の領主が特に家臣をやつて確めた所が、さういふ名前の家すらもなかつたと、鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある。同じ書物には、ある夜二十騎町の通りを、鳶職體の暑が二人提灯を下げて、女の生首の話をしながら、通つて行くのに逢つたといふ記事がある。今市ケ谷の燒餅坂の上で、首を前垂に包んで棄てに來た者がある。番人に咎められて何れへか持ち去つたが、門先に棄首があつては迷惑なので、はや方々の屋敷でも見張りの者を出して居ると言つた。辻番所の者も之を聽いて、それは油斷がならぬと夜明しをして騷いだが、翌朝尋ねてみると丸ウソであつた。さうして小石川巢鴨本郷から、淺草千住王子在までも、一晩のうちに其噂が傳はつて居たといふことである。板谷桂意といふ御繪師などは、どうかして一度此ウソを流布させてみたいと思つて、永い間心がけて居たさうである。彼が或人から梅の鉢植を貰ひ、それを二三年も過ぎて後に栽ゑ換えようとすると、其根の下から五寸ばかりの眞黑な土のかたまりの如きものが現れた。其形が魚に似て居るので、よく見て居ると少しづゝ動き、眼口髭なども段々にわかり、水へ入れてみると全くの鯉であつた。之を櫻田あたりの濠内に放したと言つて、御手のものゝ見取圖が、方々に寫し傳へられたさうな。是などは大よそ成功の部であつたといふが、しかも其思ひ付きたるや、少しばかり有りふれて居たのである。盆栽の土の底に珍とすべき一物あるを知つて、わざと植木が氣に入つた樣な顏をして値(ね)をつける。さうして明日また來ると言つて還つて行く。持主はなんにも知らないから、御化粧をさせた積りで別の立派な鉢へ栽え換へておく。あの鉢の土はどうした。もう何處へかぶちまけてしまつた。實は欲しかつたのは此木の根に在つたこれこれの品物なのである。あつたら稀世の珍寶を種無しにしたと、足摺りをして殘念がる。これがわが邦では長崎の魚石の話として弘く行はれ、又最近には胡商求寶譚の名の下に、石田幹之助氏などが徹底的に研究しておられる、途法もなく古い昔話の系統に屬するものであつた。江戸の落語の天才が精々苦心をして、是に新たなる衣裳を着せようとしたのが、猿と南蠻鐵との話などであつたかと思ふ。海道の、とある掛茶屋の柱に、きたない小猿が二匹繋いである。その鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]の三四尺ほどのものが、南蠻鐵であることを知つた男、一計を案じてこれを猿ぐるみ安く買い取ろうとする。或は母親が此猿に生まれかはつて居るといふ夢を見たとも謂いひ、若くは死んだ我兒に似て居ると稱して泣いて見せるなどの、可笑味を添へても話すのである。結局賣り渡す段になつて茶屋の亭主が、新しい紐を持つて來て結はへ直すので、これこれどうして其鏈を附けて置かぬかといふと、いや是は又次の猿を繋いで、賣らなければなりませんといふのが下げになつて居る。しかも是などもまだ人によつては、曾て其頃藤澤小田原あたりの松並木の蔭に於て、實際あつたことの樣にも考へて居た人があるのである。

[やぶちゃん注:「兎園小説其他の隨筆に、盛んに書いて居る常陸國藤代(ふじしろ)村の少女、八歳にして男の兒を生んだという話」「其他の隨筆」は例えば、前に出た「耳囊」。私の「耳囊 卷之十 幼女子を産し事」を参照されたい。地名にやや齟齬があるが、完全に同一の話である。「常陸國藤代村」は現在の牛久沼の南方、茨城県取手市藤代周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここに語られているのは、滝沢馬琴の編に成るアンソロジー随筆「兎園小説」(文政八(一八二五)年成立。同年、滝沢解・山崎美成を主導者として屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書。三百話に近い怪談奇談が語られ、当時の人々の風俗史を語る上でも貴重な資料と言える)の第二集(文政八年二月八日開催の兎園会での報告集)の中の海棠庵(書家関其寧の孫の関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号)の発表の一篇であるが、実はその「耳囊 卷之十 幼女子を産し事」の注で、当該部分を電子化し、私の上申書の書き下し文と詳細な語注も添えてあるので、ここでは繰り返さない。そちらを参照されたい。

『鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある』儒者鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年:名は成虁(せいき)。幕府書物奉行であった鈴木白藤(はくとう)の子。天保一〇(一八三九)年には昌平坂学問所教授となった。射術を好み、画にも優れた)の書いた随筆「反古(ほご)のうらがき」の「卷之一」の三番目に載る「〇八歳の女子(こ)を産む」である。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)の朝倉治彦氏校訂のそれを用いた。一部に〔 〕で推定で歴史的仮名遣で読みを足した。

   *

 松平冠山老公の采地〔さいち〕は常州とか聞〔きき〕し、百姓何某が娘、八歳にて子を産みたるよし、江戸にての評判甚し、板木〔はんぎ〕となして市〔いち〕に責るものも有〔あり〕けり。老公家臣を召して尋〔たづね〕給ひしに、さだかに此事あるよし、知行のもの語りたれば、疑ふべくもなしといひけり、老公獨り信じ給はず、或日駿足を命じ、一騎乘りにて家を出〔いで〕、三十里計〔ばかり〕の路程を一日に馳付〔はせつけ〕、名(な)所(ところ)の如く尋行〔たづねゆき〕て、家を求めしに、絶〔たえ〕て其人なし、況や其事をや。世の風説は大體ケ樣〔かやう〕なるものなるべし、幸に三十里の所なれば、卽時に實否をしることを得たり、若〔もし〕數百里の外の事ならば、疑を解くに緣(よし)なく、終生疑ひおもふべし、人々多く疑ひて、後に實〔げ〕に恠〔あや〕しきことも有者也〔なり〕といはれしよし、老公は予が翁と同〔おなじく〕甲子生〔うまれ〕にて、同庚會(どうこうくわい)に合(がう)せし人也、其後も余が祖母八十の賀詩を惠まれし也。

   *

「松平冠山老公」は因幡国鳥取藩の支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)。この場合の「采地」とは若桜藩の現地の藩領とは別に飛び地として拝領している領地を指す。「甲子」ここは干支の意。「同庚會」は底本の朝倉氏の注に『父白藤と同年齢を以てした集会』とあり、全部で六名からなるものであった旨の記載がある。

 また、後に続く同書からの話は、やはり「卷之一」に載る「○訛言」(くわげん(かげん):「誤って伝えられた評判」の意)。前と同じ仕儀で以下に示す。

   *

 文政の中年、さる屋敷より病人を釣臺にのせて持出〔もちいだ〕し事ありしに、何者か申出〔まうしいだ〕しけん、此へんに死人を釣臺にのせて、人なき所に捨〔すつ〕る者あり、人々用心し給へといゝけること、市谷柳町へんより初〔はじま〕りしよし。江戸中大體一面に行渡り、本所・濱町・麻布・靑山へん迄、皆屋敷々々に番人を出〔いだ〕し、高張り挑燈にて守りしに、二三日にして止〔やみ〕けるとなん。其後一二年過〔すぎ〕て秋の末つかた、月殊に明らかなりし夜、予門外に出で、舍弟と供に月を賞し居〔をり〕しに、四つ頃と思ふ頃、向ふより高聲に語りて來〔きた〕る人あり、音羽と書〔かき〕たる永挑燈〔ながぢやうちん〕をともし、とびの者體(てい)なる人二人也。其(その)語(かたる)に、世には殘忍なる人も有る者かな、あの女の首はいづこにて切〔きり〕たるか、前だれに包みたれば、親しきものゝ妻にてもあるべし、切たるは定〔さだめ〕て其夫なるべし、間男などの出入と覺へたり、今捨〔すて〕んとして咎められ、又持去〔もちさ〕りしが、何〔いづ〕れへか捨つべし、其所〔そのところ〕は迷惑なる者なりといふ語〔かたり〕なり。予是を聞て呼留〔よびと〕め、何(いづ)こにての事と問へば、扨は未だ知り玉はずや、こゝより遠からず、市ケ谷燒餅坂上なり、夜深〔よふけ〕て門外に立(たち)玉ふは、定て其捨首の番人かと思ひしに、左〔さ〕にはあらざりけり、こゝより先は皆家々に門外に出で番をするぞかしといゝて、打連〔うちつれ〕てさりけり。予もおどろきて前なる辻番所に右の趣〔おもむき〕申付〔まうしつけ〕、よく番をさせ置〔おき〕、入〔いり〕て眠りたりしが、兎角心にかゝる上に、辻番所に高聲に右の物語りなどするが耳に入て寢られず、立出〔たちい〕で見れば、最早九つ今の拍子木を打〔うち〕、番所の話を聞けば、組合より申付られたれば眠る事能はず、左ればとていつはつべき番とも覺へず、もし油漸して捨首にてもある時は、申分に辭〔ことば〕なし、如何にせましといひあへり、予も餘りにはてし無き事なれば、最早程も久し、捨首あらば是非なし、先〔まづ〕休むべしと申渡し、入て寢けり。明〔あく〕る日あたりを聞〔きく〕に、其事絶〔たえ〕てなし、口惜哉〔きちをしや〕あざむかれぬといゝてやみけり。此訛音も小石川・巢鴨へん、本郷より淺草・千住・王子在などの方に廣がりて、北の方いづこ迄かしらねども、大〔おほい〕におどろきさわぎたるよし、予親しく聞〔きき〕たれども、誰〔たkれ〕にも告〔つげ〕されば[やぶちゃん注:「告げざれば」であろう。]、此あたりは却〔かへつ〕てしる人なし、音羽といへる挑燈なれば、是水へかへりかへり申觸たるか、其先迄申傳へたるなるべし。

   *

「文政の中年」文政は一八一八年から一八三一年までだから、中頃は文政六(一八二三)年前後となる。しかし、これ、或いは「申年」かも知れぬ。とすれば、文政七年に特定出来るのだが。「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。「市谷柳町」現在の東京都新宿区市谷柳町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。「濱町」東京都中央区日本橋浜町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の朝倉氏の注に『武家地で藩の中・下屋敷が多く』あった、とある。「市ケ谷燒餅坂」底本の朝倉氏の注に『いまの新宿区市ヶ谷甲良町のうち。幅四間』(七メートル強)『ほど、高さ四〇間』(七十二・七二メートル)で、『山伏町から柳町へ下る坂で、甲良町との境。附近は武家地』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。「九つ今」だいたい午前一時丁度。「音羽」東京都文京区音羽町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。「是水」不詳。識者の御教授を乞う。

「板谷桂意といふ御繪師などは、どうかして一度此ウソを流布させてみたいと思つて、永い間心がけて居たさうである。彼が或人から梅の鉢植を貰ひ、それを二三年も過ぎて後に栽ゑ換えようとすると、其根の下から五寸ばかりの眞黑な土のかたまりの如きものが現れた。其形が魚に似て居るので、よく見て居ると少しづゝ動き、眼口髭なども段々にわかり、水へ入れてみると全くの鯉であつた。之を櫻田あたりの濠内に放したと言つて、御手のものゝ見取圖が、方々に寫し傳へられたさうな」この「板谷桂意」(板谷広長(宝暦一〇(一七六〇)年~文化一一(一八一四)年:江戸中・後期の大和絵住吉派の幕府御用絵師。同じ御用絵師板谷慶舟の次男であったが、住吉派板谷家第二代を継いだ)の大嘘にマンマと騙された人物がいる。江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)である。彼の代表作で動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を蒐集した、全五巻から成る「想山著聞奇集」(没年の嘉永三(一八五〇)年に板行。私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇の電子化注を終えている)の「卷の壹」の「菖蒲の根、魚と化する事」に、ご丁寧に板谷の絵を忠実に模写した絵も添えて出る。ちょっと誠実な想山が可哀想だが、参照されたい。

「長崎の魚石の話として弘く行はれ」私の「耳囊 卷之三 玉石の事」(注で木内石亭の奇石書「雲石志」の「生魚石(せいぎよいし) 九」も電子化してある)、或いは、『柴田宵曲 妖異博物館 「魚石」』を参照されたい。

「胡商求寶譚」かの「石田幹之助」(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四):東京帝国大学文科大学史学研究室の後身である財団法人「東洋文庫」の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。因みに彼は芥川龍之介とは一高時代の同級生である)が「徹底的に研究して」いる「途法」(ママ)「もなく古い昔話の系統に屬するもの」とすれば、「胡商」とは中国人にとっての西方のシルク・ロードの彼方の西洋の商人という意味になり、「今まで見たこともない異国の商人が宝を求めてやって来る話群」としての胡商求宝譚(こしょうぐほうたん)の原型は当然、中国が濫觴と考えてよい。柴田宵曲も『妖異博物館 「魚石」』では最後に、『「長崎の魚石」の原産地は支那であらう。話の中の登場人物に、唐人や紅毛人が出て來るのでも、その消息は推せられる。石を四方から磨り減らし、赤魚の遊ぶのを見て、養心延壽を樂しむなども、支那人の理想にぴつたり當て駿まるやうな氣がするが、さういふ原話はまだ見付からない。「金華子雜編」に徐彦なる者、海を渡るに先立つて、淺瀨の中で小さな琉璃瓶を發見した。大きさは赤子の掌ぐらゐ、長さ一寸ばかりの龜の子がゐて、瓶の中を往來旋轉し、暫時もぢつとして居らぬ。瓶の口は極めて小さいので、その龜がどうして入つたものかわからぬが、とにかく珍しいと思つて、拾つて自分のものにした。然るにその夕方から、何かの重みが船にかかるやうなので、起きて見たら、幾百とも知れぬ龜が、船に上つて來る。徐彦は恐ろしくなつて、これから大海を渡らうとするのに、どんな事が起らぬでもないと、例の瓶を取り上げて、海の中へ拗り込んだ。龜はそれを見て、皆どこへか行つてしまつた。後にこの話を多年航海を續けてゐる胡人に話したところ、それは龜寶といふもので、まことに稀世の靈物である、たまたまこれにめぐり合つても、福分の薄い者は仕方がない、もしこの寶を家に藏し得たら、無限の富を有するところであつたのに、と頻りに殘念がつた。魚でなしに龜であり、外からその動くのが見えるあたり、魚石とは趣を異にするけれど、一たびこれを手に入れれば無限の富に住し得るといふのだから、似たところがないでもない。魚石譚の特色は、まさにこれを所有しようとして失ふ點に在る。徐彦の龜寶もそこに此較對照すべきものがあるやうに思はれる』と述べている。

「猿と南蠻鐵との話」個人の落語のページの『古今亭志ん生の噺、「猫の皿」(ねこのさら)』の注で、この話を元ネタとし、元話は意外に古く、文化年間(一八〇四年~一八一七年)刊行の『滝亭鯉丈「大山道中膝栗毛」に「猿と南蛮鎖」として出てくる』とある。「大山道中膝栗毛」は弥次喜多ならぬ徳郎兵衛と福七の二人旅を描いた滑稽道中記で、イネガル氏のブログ「芸の不思議、人の不思議」の「猫の皿」の原話などに詳細な記載と原文(画像)があるので是非、参照されたい。]

 

 世間話の新作といふことも愉快な事實だが、それよりも自分たちの興味を抱くのは、隱れて絲を引いて居つた傳統なるものゝ力である。ウソをつく氣ならば思ひ切つて、新機軸を出した方が自由であつたらうに、何故に斯く際限なく前代の滑稽に纏綿[やぶちゃん注:「てんめん」。絡みついて離れないでいること。]し、忠實に唯一つの話の種を守らうとしたのであらうか。古人の根氣は幾らでも新たに創造するに足り、後人の技能は僅かに追隨踏襲を限度として居たのであらうか。或は西洋で謂ふインデイヤニストのように、根源を求めて或一團の種族の、特殊の才分に感謝して居ればよいのであらうか。乃至は又ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか。此疑問を一通り解決してからで無いと、我々は到底明日の文學を豫言することが出來ぬのである。奇妙なことではあるが我々の大事にして保存して居た話、時々取出して人を驚かして居た話には、魚に關したものがどういうものか多い。前に掲げた長崎の魚石もそれであるが、別に尚一つ有名なる物を言ふ魚の話がある。是がグベルナチスなどの夙に注意した笑ふ魚の系統に屬することは比較を進めて行くうちには判つて來るやうに思ふが、餘り長くなるから他の機會まで殘して置く。差當り自分の集めて見たいと思ふのは、飯を食つて歸つたといふ魚の話の、内外の多くの例である。現在私はまだほんの僅かしか聽いて居ない。併し斯うして話して居ると、それならば今少し搜して見ようといふ人が、追々出て來るだらうといふことだけは信ずるのである。

[やぶちゃん注:「世間話の新作といふことも愉快な事實だが、それよりも自分たちの興味を抱くのは、隱れて絲を引いて居つた傳統なるものゝ力である。ウソをつく氣ならば思ひ切つて、新機軸を出した方が自由であつたらうに、何故に斯く際限なく前代の滑稽に纏綿し、忠實に唯一つの話の種を守らうとしたのであらうか」「ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか」私はここに非常な興味を惹かれる。柳田國男が定義した「噂話」――比較的新しい近過去に起こったとされること、或いは近未来に起こるであろうされることで、内容の一部或は大部分に事実らしさが感じられる話――が、何故、ある種、周期性を持って、核心に於いては全く同一の話柄内容(それは当然、事実らしさをプラスするために、今現在前後の新しい風俗的或は学術的科学的知見や技術によって粉飾・武装されてはいるが)として、長い歴史のサイクルの中で繰り返し再発生するのかという問題である。これは今現在の「噂話」である「都市伝説(アーバン・レジェンド)」の属性としても、全く本質的には変化していないからである。ここで柳田の言う「ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか」というところに秘鑰(ひやく)はある。ユングが「集団的無意識」と仮称した冥い深層にこそ、私はその真意があると考えている人間である。

「インデイヤニスト」不詳。“Indianist”か。所謂、本来の南アメリカの原住民であるアメリカ・インディアンの文化復興運動支持者の謂いか。

「グベルナチス」イタリアの詩人で民族学者であったアンジェロ・デ・グベルナーティス(Angelo de Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)。「笑ふ魚」というのはよく判らぬが、南方熊楠がよく彼の作品として引用する一八七二年の著Zoological Mythology(「動物学的神話」)か。なお、本章「魚王行乞譚」の終わった次は「物言ふ魚」であるが、少なくとも柳田國男は、そこでは、グベルナーティスの話を全く挙げていない。

 

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