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2018/03/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(7)

 

 しかも無謀なる確信家たちは、單に一人の皇族では滿足し得ずに、曾て又高倉天皇の行幸を説いた者もあつたやうであるが、今では到頭讓步し得るだけの讓歩をして、略高倉宮説に統一せられて居る。處が此類の歷史との調和が、したくとも迚も出來ない古傳がなお若干ある。その中の最も甚しい二三を擧げると、甲州の西山卽ち南巨摩郡の奈良田附近には、いつの頃からか孝謙天皇を説いて居る。神の御名の奈良王であつたことの外に、今一つの原因らしいものは、畏(かしこ)いから茲には公表せぬ。若くして御かくれなされた文武天皇も、二三の地にその御遺跡を傳へて居るが、是は簡單に大寶天王と云ふ神の名から誤つたので、其名が今尚現實の信仰に生きて居る大梵天王の轉訛であることは、自分等には殆ど些しの疑も無い。上總君津郡の俵田、及び其附近一帶の村々には、弘文天皇の御跡を傳へ、今では鼻であしらふことも些し憚る程に、御陵と稱する古墳などさへも指示せられて居る。これはバルバロサ實は死せずの傳説などとも少し異なり、正統の天つ日嗣が、さう凡人と同じやうな御最後を遂げたまふ道理が無いと云ふ、一種しをらしい春秋的論理も下に含まれ、甚だ珍重すべき口碑とは思ふが、しかも何が故にかゝる東國の果の一地域に限つて、此迄の發達を見たかということは研究の値がある。又信ぜられぬの一言を以て解決すべき問題でも無い。此地方で注意すべき點は、所謂大友皇子の話には必ず蘇我殿の名が之に伴ひ更に又田の神祭の由來談の存することである。蘇我は上總の古い郷名であるが、俵田などでは皇子の隨從に蘇我大炊と云ふ人物を説き、田植の時に入日を招き返したと言ふ話などもあつて、村に依つては四月十六日又は五月一日、俵田では五月七日を、蘇我殿の田植日と謂つて忌んで居る。卽ち蘇我の方が一段と古い固有名詞で、其から王子の神の名が出たやうでもある。村岡氏などは大伴の族人此地方に蕃衍して、其祖神を天皇に附會したやうに辯じて居られるが、それも亦一説である。日吉神社の創立とともに説かれる近江湖南の大友與多王の如きも、漠然たることに掛けては上總と弟兄するに拘らず、土地が偶然に前朝の宮址にも、又御最後の地にも近かつたばかりに、吉田博士の如きすら略之を信ぜられんとした。併し御諱を忌まなかつたと云ふことが、既に此傳説の新しいことを證して居る。名古屋の市内撞木町とかに、或は大友皇子の古墳かとも謂つたオトモ塚の有つたなども(名古屋市史地理篇六四七頁)、やはり其附會説の古くないことは同じである。而もそのオトモと云ふ語に、何等か信仰又は儀式と關係の有る意味があつて、特に此天子の口碑を發達させる緣となつたのでは無いかと思はせる。四國では伊豫喜多郡の粟津森神社に、王子吉良喜命及び其御妃來たつて牛頭天王を祀り、後に己も祭神の中に列したまふと云ふ傳へがあつて、王子は大友皇子の十世の孫と舊記に見えて居るそうだが(明治神社誌料)、十世とはあまりに謙遜であつた。次に九州でも南端大隅薩摩の數箇所に、大友皇子を祀つた社があるが、是は何れも主神を天智天皇と傳へるために、其王子の神として御名を掲げたこと、八幡の若宮と云ふ所から仁德天皇菟道稚郎子を説くのと同じである。天智天皇は暫く御駐輦なされた筑後川右岸の朝倉の外、土佐の朝倉にも盛んに御遺跡を主張して居るが、鹿兒島縣のは又更に別樣の事情が有るやうで、或は彦火々出見尊の御事を誤り傳へたのだと、斷定した國學者さへもあつた。是も亦一種の妥協である。

[やぶちゃん注:「南巨摩郡の奈良田」山梨県南巨摩郡早川町奈良田。ここ(グーグル・マップ・データ)。珍しく。私が行き、遙か山上の農家に一泊したことがあるところである。「日本一自然人口の少ない町」として知られる。二〇一七年十月現在で推計人口は千四十八人である。そこには非常に背の高い凛々しい老農夫と、その抜けるように肌の白い彼の美しい老婦人、そして生まれたばかりの八匹の子猫がいたのが忘れられない。不思議な一夜であった。

「孝謙天皇」重祚して称徳天皇(養老二(七一八)年~神護景雲四(七七〇)年)は第四十六代及び第四十八代天皇。女帝。『日本経済新聞』の中川内克行氏の記事「山梨・早川町 女帝が愛した秘湯」から引く。『孝謙天皇は聖武天皇の皇女で、史上唯一の女性皇太子を経て』、七四九『年に即位。権謀術数の渦巻く奈良の都の権力闘争を勝ち抜き』、一旦、『退位した後も第』四十八『代称徳天皇として再び即位した』(七六四年)。『生涯独身だったが、側近の僧、道鏡と恋仲になり、皇位を譲ろうとしたとされる古代史最大のスキャンダルの主人公としても知られる』。『そんな古代有数の女帝がなぜ、都から遠く離れた山梨県の奥深い山里に移り住んだ』とする伝承が伝わるのか? 『謎を解くカギは、西山温泉の伝統旅館「慶雲館」にある。慶雲館は』慶雲二(七〇五)年に『創業した日本最古の旅館。この地に流れてきた藤原真人(藤原鎌足の長男)により温泉が発見され、創建されたとい』い、『ギネスブックから「世界最古の旅館・ホテル」に認定され』てもいる。『この慶雲館に』七五八『年、病を得た孝謙天皇が湯治に訪れ』、二十『日間、湯につかって全快したという。伝承によると、退位して吉野で伏せっていた孝謙天皇の夢枕に白ひげのおきなが立ち』、『「甲斐の国、白鳳の深山に、諸病に効ある霊泉あり」と告げた。孝謙天皇は』七十~八十『人のお供を連れて今の山梨県を目指し、慶雲館にたどり着いたという』。『女帝伝説がより色濃く残るのが、さらに奥まったところにある奈良田だ』。『この辺りは「秘境中の秘境」といわれ、山の緑と早川の清流が絶妙な美しさを織りなす。とりわけ新緑の季節は目にしみる。伝承によると、霊泉を求めて険しい山道を進んだ孝謙天皇は、奈良田の集落に差し掛かったところで「おお、奈良の都は七条なるが、この地は七段。ここも真に奈良だ」と驚いた』と伝える。『この地をいたく気に入った女帝は、集落の最上部に御殿を建てて数年遷居』し、『以来、一帯は「奈良田」と呼ばれるようになり、地元の人々は女帝を「奈良王様」と呼んで敬愛したという。御殿跡とされる場所には孝謙天皇を祭神とする「奈良法王神社」が建立されている』。『女帝にまつわる言い伝えも数多く、古来「奈良田の七不思議」として語り継がれている。また』、『奈良田の言葉は甲州弁(山梨方言)とは異なる独特の方言で、「同じ早川町内であっても他の集落の人には通じない」(奈良田在住で郷土史に詳しい深沢実さん)。国語学者の金田一春彦はかつて「奈良田言葉は京言葉」と評し、地元で奈良田温泉「白根館」を営む深沢守社長も「アクセントは確かに関西風で、女帝伝説をしのばせる」と言う』。『慶雲館と奈良田の間は、徒歩で』一『時間弱の距離。早川の瀬音と鳥の鳴き声以外は何も聞こえず、すれ違う人もいない。女帝も行き来したであろう』、『この山深い細道を歩いていると、天平の都の政争から身を潜め、再即位の策と時期を探るのに絶好の地と女帝には映ったのだろうと、ふと思いついた』とある。

「今一つの原因らしいものは、畏(かしこ)いから茲には公表せぬ」恐らくは孝謙天皇が湯治で治したとするのが婦人科系疾患であったこと、更には、そこに湯治を名目に道教と逃避行したとか、或いは、それ以外の男性との放埓な生活をここで送ったというような下世話な話であろう(ネットを探れば容易に出てくるが、私は興味がないので多くを語るつもりはない)。そもそも一旦、太上天皇となった彼女が奈良田に八年も滞在したという話は、道鏡や藤原仲麻呂の乱とに史実の時系列の中で、余りに無理がある。ただ、あそこで出逢ったあの老夫婦は、凡そ、ただ者ではないという強い印象を持った。不思議な思い出である。

「文武天皇」(天武天皇一二(六八三)年~慶雲四(七〇七)年)は第四十二代天皇。在位は文武天皇元(六九七)年~ 慶雲四年)。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。天武天皇第二皇子の草壁皇子(母は持統天皇)の長男。当時としては異例の十四歳の若さで即位したが、祖母持統太上天皇(史上初の太上天皇)が事実上の政務を執っており、後の院政形式の始まりとなった。藤原不比等の宮子娘 (みやこのいらつめ)を夫人とし、首皇子(おびとのみこ:後の聖武天皇)をもうけた。そのたった十年の治世は外戚たる不比等の勢力が大きかったが、「大宝律令」制定など、律令制度の完備期としては注目される。経史に通じ、射芸もよくしたと伝えられる。陵墓は奈良県明日香村に比定されている。

「大寶天王」これは恐らくは神仏習合に入ってから素盞鳴尊を牛頭天王と別称したこと、後には「大梵天」や「梵天帝釋」を「大寶天王」と書き換えたことなどによるものであろう(後者は柳田國男の後の「日本の祭」(昭和一七(一九三二)年弘文堂刊。内容は前年東京帝大教養部特殊講義の講演)の中の「祭場の標示」の「一二」に出る)。文武天皇はその短い十年の治世に大宝年間(七〇一年~七〇四年)があり、それまで僅かしか残されていない元号の正式な制度化が整ったのもこの元年と思われ、しかも同元年八月三日には「大宝律令」が完成、翌年に公布されていること、都城としての藤原京の成立、遣唐使派遣といった国家制度の整備がこの大宝年中にあったことから、その実質的な初元号を冠して彼を「大宝天皇」と呼んだことはごく自然に腑に落ちる。

「大梵天王の轉訛」前注参照。仏法守護の神で娑婆世界の主「マハーブラフマン」の漢訳(元のバラモン教では万物根源の法である「梵」の神格化されたものとされ、宇宙の造物主として崇拝された)。単に「大梵」「梵天」とも称する。色界四禪天中の初禪天の王で、淫欲を離れていることを「梵」が示す。仏が出世して法を説く時に出現し、帝釈天とともに、仏の左右に列なって仏法を守護するという。

「上總君津郡の俵田」房総半島中央部の現在の千葉県君津市俵田。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「弘文天皇」(大化四(六四八)年~天武天皇元(六七二)年)は第三十九代天皇(在位:天智天皇一〇(六七二)年~天武天皇元(六七二)年)であるが、明治三(一八七〇)年になって諡号が贈られ、天皇として認められたものの、即位したかどうかも定かでなく、「大友(おおとも)皇子」と表記されることが多い。諱は大友又は伊賀(いが)。言わずもがな、天智天皇の第一皇子で、天智の後継者であったが、壬申の乱で叔父大海人皇子(後の天武天皇)に敗北、首を吊って自害した。参照したウィキの「弘文天皇」によれば、『壬申の乱の敗戦後、弘文天皇は妃・子女を伴って密かに東国へ逃れたとする伝説があり、愛知県や神奈川県や千葉県に弘文天皇に関連する史跡が幾つか残っている』とある。

「御陵と稱する古墳などさへも指示せられて居る」『千葉大学教育学部研究紀要』(第五十二巻・二〇〇四年発行)の井上孝夫氏の論文「房総・弘文天皇伝説の研究」(PDF)に詳しい。

「バルバロサ」神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(Friedrich I. 一一二二年~一一九〇年)の別名。歴史上、西ヨーロッパの歴代ローマ皇帝の中で最も有能とされ、後世には英雄とも称された。赤みを帯びたブロンドの髭を蓄えていたことから、「赤髭王」(Barbarossa:バルバロッサ)と呼ばれた。参照した同人のウィキによれば、史実上は、一一八九年の第三回『十字軍の総司令として出征』、『翌年にイコニウムの戦いでアイユーブ朝軍を打ち破るという大戦果を収めた。しかし翌年』六『月、小アジア南東部、キリキアのサレフ河にて溺死するという意外な最期を遂げた』『(これには諸説があり』、『卒中のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。この意外な最期によって、多くの人はこの皇帝の死を信じられず、そのため』、『中世の民間信仰では、帝国が再び彼を必要とする時まで』、『赤髭王は生き続けている』、『とされている。トリフェルス城内で、キーフホイザーで、ウンタースベルクで、と諸説あるが、帝国が危機に陥ると、カラスがその上を飛び回って知らせ、彼は永い眠りから』目覚めて、『起ち上がり』、『国にふたたび』、『栄華と平和をもたらすのだと言われている』とある。

「天つ日嗣」「あまつひつぎ」。皇位を継承すること或いはその正統な皇位継承保持者。

「春秋的論理」四書五経の「春秋」の思想。「春秋」自体は極めて簡潔な編年形式のストイックな文体で書かれていて、一見、そこには特段の思想の介入はないように見えるが、後世には孔子の思想が本文の様々な所に隠されているとする見方が一般的になった(後には、また、この解釈は否定される)。ここはそうした旧「春秋」学的な君子思想を指しているか。

「蘇我大炊」「そがのおほい」。サイト「和漢百魅缶」の「そがどののたうえ(蘇我殿の田植)」に、「蘇我殿の田植」とは、『上総につたわるもので』、五月六日には『田植えをしてはいけないといわれた』伝承とし、『むかし、大友皇子が上総へのがれて来たときに蘇我大炊[そがおおい]という豪族が美女たちを大量に集めて田植えをする光景を御覧に入れたのですが、植え終わらないうちに日が暮れだしてしまったので扇をつかってお日様を招き戻したところ、お日様が逆にのぼったのですが突然あたりが暗くなり、大きな雷がズドン。蘇我大炊を焼き殺してしまったといいます』。『それが』五月六日のこと『だったので、この日には田植えをしちゃいけないと言われるようになったんだソウナ』とある。「大炊」は大炊頭(おおいのかしら)由来か。大炊寮(律令制で宮内省に属して諸国からの米や雑穀を収納し、また、それを諸官庁に分配することなどを司った役所)の長官。従五位下相当。大化の改新で曽我入鹿が暗殺され、蝦夷が自害して蘇我氏宗本家は滅亡したが、蝦夷の弟蘇我倉麻呂は命脈を保った。しかし、その子蘇我赤兄(あかえ)とその弟蘇我果安(はたやす)は壬申の乱で大友皇子について敗れ、それぞれ流罪・自害となっているから、この「大炊」もその辺りから派生した名前か。赤兄の別な弟蘇我連子(むらじこ)の流れが蘇我系石川朝臣として曽我の血脈を保っている。

「村岡氏」法制学者・地理学者であった村岡良弼 (りょうすけ 弘化二(一八四五)年~大正六(一九一七)年:下総香取郡(千葉県)出身。昌平黌明法(みょうぼう)科に学び、司法省・宮内省などで初期の法制整備を担当。、退官後は地誌・国史を研究した)の全七十二巻の大作「日本地理志料」の記載を指すか。

「蕃衍」「はんえん」。茂り蔓延(はびこ)ること。殖え広がること。

「日吉神社」滋賀県大津市坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「創立とともに説かれる近江湖南の大友與多王」「大友與多王」は弘文天皇(大友皇子)の皇子与多王(よたのおおきみ 生没年不詳)。日吉神社の南方にある園城寺(三井寺)の開基とされる伝承的人物。ウィキの「与多王に、『三井寺の伝承によれば』朱鳥元(六八六)年、『与多王は父の菩提を弔うため自らの「田園城邑(田畑屋敷)」を投げ打ち寺の建立を発願し、天武天皇は「園城寺」の勅額を与えたとされる』。彼の名は「日本書紀」には見られないが、「本朝皇胤紹運録」に『「大友皇子与多王(大友賜姓)都堵牟麿』(つとむまろ)『黒主」との系図を掲げるほか、大津市内の神社の祭神、寺院の古伝、古墳の被葬者の伝承などにその名が伝わる。大友氏は近江国滋賀郡の渡来系豪族であり、大友皇子の資養氏族と考えられ、与多王の子孫を称するなど伝承に深くかかわったものと思われる』とあり、日吉大社にある中七社の一つである早尾神社を勧請した三井寺関連の神社に同名の早尾神社があり、個人サイト「M. Yagi's Family Home Page」の「早尾神社と山上不動堂」の解説によれば、『本殿の左は、大友皇子の子という大友与多王を祀る児大友社。園城寺は与多王が荘園を献じて建立したという伝承だが、このあたりの渡来系氏族である大友氏の箔付けという感じがする』。『七世紀第四半期・天武・持統・文武朝の頃の寺院建立ブーム時に氏族(多分、大友氏)が建てた寺院が衰退し、そこを智証大師円珍が中興したというのが妥当な推測ではないだろうか』とあるのが、この部分の読解の参考になる。

「弟兄する」「おととえする」或いは「おとといする」で、強い親和性を持つの意。

「前朝の宮址」近江大津宮の旧蹟。天智・弘文天皇二代の都で、天智天皇六(六六七)年に遷都したが、弘文天皇元(六七二)年に壬申の乱で荒廃した。大津市内にあったとされるが、正確な位置は不明である。

「御最後の地」弘文天皇(大友皇子)の、の意。

「吉田博士」歴史学者・地理学者で、「大日本地名辞書」の編纂者として知られる吉田東伍(とうご 元治元(一八六四)年~大正七(一九一八)年:新潟県出身)のことであろう。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人で明治四二(一九〇九)年に文学博士となっている。当時、既に早稲田大学で教鞭を執っていたが、彼は新潟学校(後の新潟英語学校)中学部中退で、以後、正規の学校教育を受けておらず、無学歴の博士号であった。

「略之を」「ほぼ、これを」。

「御諱」「おんいみな」。弘文天皇の諱は大友(別に伊賀とも。母の伊賀采女宅子娘(いがのうねめ/やかこのいらつめ)由来)。

「名古屋の市内撞木町」現在の愛知県名古屋市東区橦木町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大友皇子の古墳かとも謂つたオトモ塚の有つた」「エリア行く」氏のブログ「愛知限定 歴史レポ」の『壬申の乱(じんしんのらん)と「おとも塚」』に非常に詳しい(写真豊富)。それによれば、この『尾張地方の那古野台地の丘陵の東山口の地、今の東区主税町・撞木町・赤塚町から山口町の一帯』は『壬申の乱の戦場とな』ったが、『このとき、尾張の国、初代の国司であった少子部連錯鉤(ちいさこべむらじさびち)は二千の兵をひきつれて美濃の国に進み、大海人の軍勢に合流』、『美濃地方で戦った』。『尾張地方では那古野台の山口の地域が激戦地となり、大海人の軍勢が、この山口の地を通りかかった大友軍をことごとく切り殺し、丘陵の多い荒野であったが、流血で山野を染めた』。『各地で行われた戦闘は、大海人の皇子軍の勝利となり、大友皇子は近江の国で自害して戦いは終わった』『が、勝ち軍の将、少子部連錯鉤は』、何故か、『山中で自害した』という。『江戸時代名古屋の撞木町の尾張藩士、河原忠三郎・甚三郎という中級の武家の屋敷内に「おとも塚」と呼ばれる塚があり、これが壬申の乱に戦死した大友皇子の将兵を弔った塚と伝えら』れてあり、『河原家では毎月、一日と十五日には神酒を供えるならわしが伝えらていた。江戸時代この塚は小山の様な塚で樹木が多く茂っていたと伝わるが』、昭和五三(一九七八)年当時には『河原宏氏の裏に』『僅かに残存す』だけであった(引用元に当時の写真有り)。『近年は、ネットで探索すると、もっと小さくな』ってしまい、『庭の植え込みの様になり、塀に閉ざされ、表からうかがう事もままならず、付近住民でも存在を知るものは少ない』(リンク先に当該民家の外壁写真があるが、塚の存在は全く見えない)。『また以前、高岳町の高岳院の門前に「少子部塚」という塚が有ったが』、『現在は全く見当たらない。また、杉の町や武平町付近一帯地下からも、宝篋印塔が多く発見され』、『これを「チイサベの塔」と呼んでいたと云う』。『名古屋の市中の一地区が千三百年前の流血の激戦地で』あ『ったことは現在では、すべて、忘却のかたに消えうせ、語り告ぐ人も少なく』、『「おとも塚」だけが千古の歴史を裏庭で、黙して語ら』ぬ、とある。

「名古屋市史地理篇」大正五(一九一六)年刊。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。そこには、『或記には大友の皇子の古墳にて、おほともの塚の云』(いひ)『ならんか、今はた崩れ、其塚の形もなく、柹の木を植て、跡の印とす』という幕末に書かれた地誌的随筆の引用を載せるから、最早、原型を全く留めていないと考えてよかろう

「そのオトモと云ふ語に、何等か信仰又は儀式と關係の有る意味があつて、特に此天子の口碑を發達させる緣となつたのでは無いかと思はせる」「オトモ」という名称が、「大友」ではない、何らかの、今では全く廃れた土着の古い「信仰又は儀式」と関係のあるものであって、それを大友皇子の名に付会させたに過ぎないのではないか? という謂いで、柳田國男がその古形原型の「オトモ」に強く惹かれていることが判る。私もそれには共感するものである。

「伊豫喜多郡の粟津森神社」現在の愛媛県大洲市八多喜町甲にある祇園神社の旧新称。「愛媛県神社庁」公式サイト内の同神社のページを参照(地図有り)。それによれば、『古書に曰く、朱雀天皇の』天慶二(九三九)年、『伊予の掾藤原純友』、『任満ちて還らず』、『平将門と共に反乱せしとき』、『朝廷は大伴吉良喜を喜多郡の大領に任じ』、『暴徒を追捕せしめたり。吉良喜命、命を受け』、『京都出発に当たり』、『日頃』、『御信仰の祇園神(官幣大社八坂神社)の御分霊を奉持し、当所八多喜村岩津大門河原に上陸せられ』、『此の粟津の森に御殿を建て奉斎し、祇園宮と称へ奉り近郷を治め』、『御神徳を広め』、『薨去せられしにより』、『当社に合祀せられたり』。『爾来』、『大洲藩主代々参勤交代の時、海上安全諸祈願をせられ、又屡々奉幣を受け』、文政一一(一八二八)年、『十一代大洲藩主加藤泰幹公の寄進を賜り、又近郷の崇敬者多数協力奉仕し』、十三年の歳月をかけて天保一一(一八四〇)年、『現在の社殿、桜門等を完成した』。『明治元年』、『太政官布告により』、『粟津森神社と改称し』たが、後、昭和二五(一九五〇)年に『祇園神社に復した』とある。

「王子吉良喜命」前の祇園神社の解説から、「大伴」が「大友」と読み換えられてしまい、それが大友王子(皇子)に付会されたことが見てとれる。この大伴吉良喜というのは、大伴氏が遠祖としていた高皇産霊尊(たかむすびのみこと)から数えて三十二代目の四国大伴初代の人物らしいが、大友皇子とは関係がない。

「明治神社誌料」「府県郷社明治神社誌料」の略称。明治四五・大正元(一九一二)年明治神社誌料編纂所編・刊。全三巻。詳細はウィキの「府県郷社明治神社誌料」に詳しい。

「八幡の若宮と云ふ所から仁德天皇菟道稚郎子を説く」第十六代天皇「仁德天皇」は八幡神応神天皇の御子神である。「菟道稚郎子」「うぢのわきいらつこ」と読む。記紀等に伝わる、第十五代応神天皇皇子(「日本書紀」では皇太子とする)で仁徳天皇の異母弟であるから、やはり「八幡の若宮」に当たる。

「御駐輦」「ごちゆうれん」。「輦」は天子の乗り物。天子が行幸の途中で車を止めること。駐蹕(ちゅうひつ)とも呼ぶ。天智天皇(当時は皇太子)は、斉明天皇六(六六〇)年に百済が唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済の王子で通好のために来日していた扶余豊璋(ふよ ほうしょう)を送り返して百済復興を図ったが、その際、百済救援を指揮するため、実際に筑紫に滞在している

「筑後川右岸の朝倉」福岡県の中南部の筑後地域に位置する朝倉市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土佐の朝倉」現在の高知県高知市朝倉。ここ(グーグル・マップ・データ)。この附近には天智天皇がこの地を通行したという伝承があるらしい。

「彦火々出見尊」「ひこほほでみのみこと」は一般に「山幸彦(やまさちひこ)」の名で知られる、神武天皇の祖父とされる人物である。]

 

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