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2018/03/17

御伽百物語卷之二 桶町の讓の井

 

    桶町(おけてう)の讓(ゆづり)の井(ゐ)

Yuzurunoi

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。本話は、前世応報譚とは言え、登場人物は現世で総て善人であるが故に。読後、頗る不快で、後味は極めて悪い。覚悟されたい。]

 

 江戸に名井と名の付きたる所々(しよしよ)あまたあり。牛込の堀かねの井。源介橋(げんすけばし)の油の井。神田の宮の小路町(こうじまち)の井。四谷の策の井。須田町の龜の井。權太原(ごんたはら)の鱏(うなぎ)の井。湯嶋に柳の井。谷中に野中の井。自性院(じしやうゐん)の蜘蛛の井。小石河の極樂の井。龜井戸の藤の井。玉水の井。御福の井。封(ふう)の井。新井(あらゐ)などすべて十八ケ所ありといへども、多くは國守城主諸旗本、軒をならべ、甍をつらね、草より出でて草に入りしと聞く、名にしあふむさし野の月も破風(はふ)より出でて破風にかたぶき、出でさ、入りさも立てこつみたる繁華の比(ころ)は、築地(ついぢ)の内に井の心をすましめ、廣間のさきに名を汲むのみなるも多かりける中(なか)に、桶町の讓の井と聞えしは、そのかみ、此町(まち)をひらきて住みそめける者を桶屋太郞作(たらうさく)といひしとかや、此もの、生得(しやうとく)、情ふかく慈悲にして、他のためよき事といへば身を捨て、家職をとゞめても、是れをとり持つ氣ありて、常に人の事のみ世話をやきけるが、惣じて此地は水の不足したる所ゆへ、多波河(たはがは)の流れに樋(ひ)をふせて、町小路に支(えだ)を分(わか)ち、水道と號(なづけ)けて、朝夕(てうせき)の用水とする。然るに、此太郞作が家の井、ひとり淸潔して、夏はひやゝかに、冬あたゝかにして、鐵氣(かなけ)く、地脈、京都の水にかはらざるを愛し、近邊五町十町が程には家ごとに汲ませ、遠き所には、みづからも汲みはこびて、人の役に立てるを悦びける程、「桶町の冷水(ひやみづ)」とて誰(たれ)しらぬものもなく、殊に夏の日の炎熱に行きかふ人の汗を冷(すゞ)しめ、咽(のど)をうるひさしむるためとて、終日(ひねもす)見せに汲み出だして、攝待(せつたい)をなしなんど、萬(よろづ)、心づきたる心底なり。

[やぶちゃん注:「桶町(おけてう)の讓(ゆづり)の井」桶町は現在の東京都中央区八重洲にあった町名。私は現在の「八重洲ブックセンター」附近と推測する。「讓(ゆづり)の井」とは、以下に見る通り、井戸の持ち主である桶屋太郎作が人に惜しみなく水を譲り分け与えたことに由来する作中の井戸の名であろう。

「牛込の堀かねの井」サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「逢坂|市谷船河原町」に、新宿区市谷船河原町九番地(ここ(グーグル・マップ・データ))にある東京都新宿区教育委員会の史跡「掘兼の井」の解説の電子化がある。それによれば、『掘兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある』。『昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという』とあり、次に昭和四四(一九六九)年刊の「新宿と伝説」で新宿区教育委員会は、『「掘兼の井」とは、井戸を掘ろうとしても水が出ない井戸とか、水が出ても掘るのに苦労した井戸という意味である。中でも有名なのは、埼玉県狭山市入曽の「掘兼の井」である。有名な俊成卿の歌に』「むさしには掘かねの井もあるものをうれしく水にちかづきにけり」『とある。「御府内備考」によると船河原町には、“その井戸はない”と書いてある。しかし逢坂下の井戸はそれだとも云い伝えられ、後世そこを掘り下げて井戸にした。それは』昭和一〇(一九三五)年頃までは』旧来の掘り抜き形式の井戸として残っていたらしい。『戦時中はポンプ井戸になり』、昭和二〇(一九四五)年五月二十四日の『空襲のあと、使用しなくなった。今は、わずかにポンプの鉄管の穴がガードレール下に残っている』とある。記事記載者は後に続けて、『なお、船河原町築土神社によれば、「この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられるが、昭和』二十年、『戦災で焼失し今はない」』とあって、貴重なかつての「堀兼の井戸」の写真が添えられてある(必見)。さらに、『若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では「逢坂の下(現・東京日仏学院の下)にある「堀兼の井」は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていたようです。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来たという事です」と書いています。また『紫の一本』には「堀兼の井 牛込逢坂の下の井をいふといへり。此水は山より出る清水を請けて井となす。よき水なるゆへ遠き方よりも茶の水にくむ。よごれたる衣を洗へばあかよく落て白くなるといふ」と書いています』とある。この『飲料水の乏しい武蔵野での名水』というところが肝心で、実は鎌倉も「鎌倉五名水」や「鎌倉十井」などの名数があるが、これは実は如何に鎌倉が飲用に適した水利に乏しかったかという不便さの裏返しなのであり、江戸のこの名数も本質的にはそれと同じだということに気づく必要がある

「源介橋(げんすけばし)の油の井」不詳。

「神田の宮の小路町(こうじまち)の井」東京都千代田区外神田の神田明神の境内周辺に接した町(グーグル・マップ・データ)と考えねばなるまい。「江戸名所図会」や切絵図も調べたが、見当たらない。なお、現在の正式名称は神田神社である。

「四谷の策の井」「策」は「むち」と訓じておく。但し、以下の引用でも全くルビを振らないということは、「サク」と音読みしているという有力な証左にはなるとは思うが、私は意味が判然とするように「むち」と読んでおきたい。「新宿観光振興協会」公式サイト内のこちらに、『もとは、新宿西口の「新宿エルタワービル」付近にありましたが、現在は蓋をされて、同ビル西南隅の植栽にモニュメントが建てられています』。『この井戸が『策の井』といわれるゆえんは、徳川家康が鷹狩りの帰途、汚れた「策」を洗ったという伝承によります(『江戸砂子』より)。家康は、晩年は駿府へと隠退し、「大御所」と称されていましたが、年に何度かは江戸城に滞在して将軍秀忠に進言していました。江戸城にいるときは頻繁に鷹狩りに出ていたため、このような伝承も根拠のある言い伝えといえるでしょう』。『『策の井』は、四谷の松平摂津守の下屋敷の庭内にあり、「名井」・「名湧水」との噂を聞きつけた家康が』、『わざわざ立ち寄ったともいわれています』とある。旧所在地はこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「須田町の龜の井」「須田町」は現在、千代田区神田須田町一丁目及び神田須田町二丁目が現存する。秋葉原駅の南西の神田川を挿んだ右岸一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。井戸は不詳。

「權太原(ごんたはら)の鱏(うなぎ)の井」「權太原」は港区元赤坂、赤坂御用地の北西の交差点に名が残る。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「湯嶋に柳の井」東京都文京区湯島にある湯島聖天心城院に現存同寺公式サイトの解説に、『当山には、江戸名水「柳の井」があることから、「柳井堂(りゅうせいどう)心城院」と称されて』おり、江戸時代「江戸砂子」「御府内備考」「紫の一本(ひともと)」「江戸志」などの「柳の井 男坂下」の項にも『「この井は名水にして女の髪を洗えば如何やうに結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」と記されてい』るとある(表記はママ)。『「柳の井」は古来より水枯れもなく、数滴髪に撫でれば水が垢を落とすが如く、髪も心も清浄になり降りかかる厄難を拂ってくれると伝えられて』おり、『この霊水の美髪・厄除けのご利益を求め』、今も参詣人が多いとある。『また、関東大震災の時には、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の生命を守った唯一の水として、当時の東京市長から感謝状を受け』、『文京区防災井戸』に指定されているという。但し、『この水は飲料可能で』ある『が、持ち帰って飲む場合は、なるべく煮沸してから』飲むようにという注意書きがある。

「谷中に野中の井」かつて旧谷中三崎町(恐らくこの附近(グーグル・マップ・データ))にあった法受寺(それ以前は豊島郡下尾久にあった。恵心僧都正暦三(九九二)年開山)の名水として知られたらしい。現在は合併移転して足立区東伊興で普賢山新幡随院法受寺となっている。たまたま、玉林晴朗の「下谷と上野」(昭和七(一九三二)年東台社刊)という本をグーグルブックスで視認したところ、「江戸砂子」には『野中の井、又、柏木の井とも云、三崎の内町屋の裏にあり』とあって、また「江戸惣鹿子名所大全」には、『正保のころかとよ、柏木と云、遊女、つれし夫に離れ、此所に庵を結び、尼に成て、住たり。その跡の井なり、その頃は、あたり近きに人家もなく、野の中なれば、かく云なり、此女、死して後、里人、そのからをいづみてそとはに一首の歌をかく

 かひなきぞ野中の淸水あさければ消てあとなきいもが俤

墓しるしに櫁(しきみ)を植たりしが、大木となりて、近き頃までありとや、今は石塔のみ殘れり』とあって、この野中の井戸は江戸初期の正保(一六四五年~一六四八年)当時は、野原の中に現存していたと言っている。その所在を訪ねて「江戸砂子」は当地を訊ねて見たものの、既に井戸も墓も見当たらず、ただ土地の古老から、あった当時は『三崎溝口家の屋敷の片側町大溝より半町ほど南の方』にあった清水と伝えられていると記す。また、「遊歴雑記」(文化・文政期に隠居僧十方庵大浄敬順が記した江戸内外の名所旧跡記)には『去し明和年間の頃は野中の淸水にて製したる心太(ところてん)を名産として、野中の心太とて門前に住むもの鬻(ひさぎ)しが、近年は心太を止め、三浦屋安兵衞とかや號して、提灯屋となりにけり』とある、とあった。何か、この話、私にはしんみり、きた。

「自性院(じしやうゐん)の蜘蛛の井」東京都新宿区西落合にある自性院か。

「小石河の極樂の井」小石川伝通院の辺りにあったという名水。「江戸名所図会」には松平播磨侯の屋敷内にあるものとする。小林古径の明治四五(一九一二)年の作に、この井戸の情景を夢想して描いた「極楽井」がある(リンク先は「文化遺産オンライン」)。

「龜井戸の藤の井」江東区亀戸にある亀戸天神社は江戸時代から「亀戸の五尺藤」「亀戸の藤浪」と呼ばれて、藤の花の名所であったから、この井戸も同神社の境内内にあったものであろう。ウィキの「亀戸天神社」によれば、「亀井戸跡」がある。これか。先に「須田町の龜の井」を挙げたから、意識的に名をダブらないように変えたものとも思われる。

「玉水の井」不詳。識者の御教授を乞う。

「御福の井」湯島天神に同名の井戸があったという記載があるが、これは先の「柳の井」の別名であるから、鷺水は別なものとして挙げていると考えねばならない。しかし、彼は京都の人間で江戸には不慣れであったから、或いは「柳の井」異名を別なものと勘違いして数えてしまった可能性もないではない

「封(ふう)の井」不詳。識者の御教授を乞う。

「新井(あらゐ)」東京都中野区新井か。よく判らぬ。

「すべて十八ケ所あり」不審。この「讓(ゆづり)の井」を算入しても、十六井しかない。「柳の井」がダブりで、この「讓の井」を追加した名数外とすると(私はそちらが正しい、則ち、旧来の十八井に加えられるべき、正直者の引いた名水の井戸として鷺水は述べていると思う)、十四になってしまい、四井も足りない

「草より出でて草に入りしと聞く」ただ、人知れず、自然に叢から湧き出し、人知れず(人に使われることなく)叢へとまた、沁み戻っていうのであろうそれは。

「破風(はふ)」切妻造りや入母屋造りの屋根の妻の三角形の部分。また、切妻屋根の棟木や軒桁(のきげた)の先端に取り付けた合掌型の装飾板(破風板)を指す。要は、月が昇りし沈むという自然のサイクルをそれで表象し、前の水の自然の濫觴と流失を譬えている。

「出でさ、入りさ」自然、湧き出す時も、沁み込んで消えてゆく際も。

「立てこつみたる」人が多く住むようになって、民屋や屋敷がすっかり立ち罩めるような。

「築地(ついぢ)の内に井の心をすましめ、廣間のさきに名を汲むのみなるも多かりける中(なか)に」私は以下のように解釈した「大名さま方の御屋敷の築地の中の井戸として、静謐清浄な井戸としてその水の面を鏡のように美しく澄ませ、或いは、豪邸の広間の奥方にあって、そんじょそこらの者はとても汲み掬すことも叶わず、名ばかりの「幻しの井戸」となってしまったものも多かった中でも」

「桶屋太郞作」不詳。

「多波河(たはがは)」多摩川(厳密には、そこから引いた玉川上水道の、そのまた、支流の分岐河川。上水自体は厳しく管理されていたから、私的に本上水から「流れに樋(ひ)をふせて、町小路に支(えだ)を分(わか)」つことなどは到底、許されなかったはずであるからである)の謂いと思われる。但し、このような表記は私は見たことはない。現在の我々の馴染みの玉川上水開削が、幕命によって江戸の飲料水不足を解消するために計画着手されたのは、本「御伽百物語」刊行(宝永三(一七〇六)年)の五十四年前の承応元年(一六五二)年十一月のことである。工事の総奉行には老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後を嫡男忠克が継いだ)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負っている。資金として公儀からは六千両が拠出されている。幾多の困難を経、翌承応二年十一月、玉川上水は完成、翌承応三年六月から江戸市中への通水が開始されたという。しかし、参照したウィキの「玉川上水」によれば、『工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところで』、『ついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという』とある。

「見せ」当初、「店」(「見せ」は同語源)であろうと思ったが、ここは文字通り、通行の人々の目に触れるところに何時も汲み出しておき、金を貰ったりせず、自由に飲ませて「攝待」(接待)に用いた、の謂いと判断した。]

 

 孝養の事ありて水と茶の攝待をつとめ、追善の心持したりしが、猶、心ゆかずや思ひけん、子二人ありけるを兄は太郎市とて廿一、弟は太郞次郞とて一六になりしを、手わけして冷水を持たせ、攝待をさせける所に、太郞次郞、晝過ぎて宿に還り、父にむかひていふやう、

「けふ、我、數寄屋橋邊(へん)を通りけるに、十六、七の娘、あり。腹をいためてありかれぬ[やぶちゃん注:「步りかれぬ」。]よしにて、我に水を乞ひて、『藥を呑まん』といふ。水にて、藥、呑まば、猶、病の強るべき事を恐れて、こゝまで、つれ歸りたり。」

といふに、太郞作、もとより慈悲ふかき者なれば、

「健氣(けなげ)にも仕(し)たるもの哉(かな)。」

と悦び、彼(かの)娘をよび入れけるに、とりあげ髮にして、下に白むく、上には無地の花色なる小袖を着たり。

 さて、さまざま介抱しつゝ、

「何處より何方へゆき給ふや。」

と問ふに、彼のむすめのいふやう、

「みづからは、元、そだちし所は芝の增上寺前にて菅野(すげの)何がしといひし者の娘なり。去年(こぞ)の冬、神田の臺所町(だいどころまち)に緣をむすび、我を彼の所へ送りて後(のち)、父母、相つゞいて死なせ給ひぬ。重服(ちようふく)、いまだあきさぶらはぬに、夫にさへ死して別れ、子ある身にあらねば、夫の家にも、あられず、今は浮世に住みうかれし身のはて、尼にもならばや、と思ふにつけても、故鄕に行きて兄を賴み、とにもかくにもなしはてんの心ざしにて、けさより、宿を出で侍りしが、頻りに腹のいたく覺しかば、假初(かりそめ)に水を乞ひ侍りしも、不思議の緣となりて、かく迄いたはらせ給ふ御心ざし、露(つゆ)わするべき事かは。報ずべき道をだに知らず侍らふ。」

といひて、さめざめとなきける物いひよりはじめ、爪(つま)はづれ、如何樣(いかさま)、よのつねの人のやうにもあらず。立ちふるまひも、よしありげなる人がらの哀れにいたはしく覺えければ、太郞作夫婦も念比(ねんごろ)にいたはり、

「よしや。さもあらば、いそぐべき道にもあらず。けふは爰(こゝ)に住居(とゞまり)て腹をも療治し、しづかにおはせよ。」

と、町家の習ひ、綴(つゞり)さし、洗濯しなどするを、此娘も、かいかいしく襷(たすき)引きかけ、ともに縫張(ぬひはり)のたすけをなし、紡苧(うみそ)・縡卷(ぬきまき)、さまざまの事に手きゝにて、猶、よみ書きにさへ達者に、しかも人に勝れしかば、太郞作もひたすら大切におもひ、妻も又、

「いとおしと思ひ入りつる上は。」

とて、心見(こころみ)にいふやう、

「何と。さほどまで便りなき身となりても、人を撰(えら)み、夫をえらむ心おはしまさんか。もし、さもなくて何方(いづかた)にもさそふ水さへあらば、夫婦のかたらひをなして、偕(とも)に世を渡らんとは、おぼしめさずや。くるしからず思ひ給はゞ、我がために花新婦(はなよめ)となりて、たびてんや。しからば、幸ひ、兄むすこ、太郞市にあはせ、けふよりすぐに、此世帶ことごとく讓りまいらせん。」

とかたれば、娘すこしも辭退のていなく、

「誠に、かくまでおぼしめし寄られ侍る御心ざし、たとひ、死したりとも報ずべき道なし。ましてや、浮草のよるべさだめぬ身となり侍れば、さそふ水あらばとおもふ我にしも侍るぞかし。もし、さもおぼしめし寄らせ給はゞ、いかやうとも、仰せにしたがひ侍るべし。」

といふに、夫婦も悦びて、太郞市に娶(めあは)せ、祝言(しうげん)の心もち、かたのごとく、とりつくろひ、

「夜もいたく更けにたり、早いりて休み給へ。」

と、太郞作夫婦も心よく醉ひ、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「神田の臺所町」神田神社の裏手の旧神田明神下御台所町(だいどころまち)。附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「重服」相次いで亡くなった実の父母の二人の重なった喪の期間。近世でも孰れも一年が普通。

「綴(つゞり)さし」つづれさし。衣類の傷んだ個所を繕うこと。

「かいかいしく」「甲斐甲斐しく」。

「紡苧(うみそ)」麻を細く裂いて、紡(つむ)いで、糸として縒(よ)って麻糸にすること。

「縡卷(ぬきまき)」染め上げた緯糸(よこいと/ぬきいと)を管(くだ)に巻き取ること。この緯糸を杼(ひ)に装着して経糸に挿入して機で織る。

「たびてんや」「給びてむや」。「なっては下さらぬか?」。]

 

 娘は太郞市と寢屋(ねや)に入る。

 折しも暑さ堪がたく、窓も障子もあけ放ちて

「臥さん。」

とせしを、娘、いさめて、

「などや、此(この)ほどは盜人(ぬすびと)の愁(うれひ)ありと聞き侍るぞ。門・背戸(せど)をも、よく、さしかため、障子には、尻さし、したまへ。」

などゝ、萬(よろづ)心づかひして、臥しぬ。

[やぶちゃん注:「背戸」家の裏口。

「知りさし」「尻刺(差)ざし」。戸障子・遣戸(やりど)などの戸締まりとするために、その後部に指す掛け金や、外部からの開閉を出来ないようにするための心張り棒。]

 

 はや、夜も九つ[やぶちゃん注:午前零時。]にや過ぎぬらんとおもふころ、太郞作が妻、けしからず、魘(おそ)はれて[やぶちゃん注:魘(うな)されて。]うめきける程に、太郞作、目をさまし、

「いかにぞや、是(こ)れ、是れ。」

と起こされ[やぶちゃん注:ここは主語が新妻に変換されている。]、しばし、ためらひ、人心(ひとごゝ)ちつきていふやう、

「扨も、我(われ)、しばらく臥したる夢心に太郞市を見侍りしが、髮、おしみたき[やぶちゃん注:「振り乱し」の意か。]、帷子(かたびら)も引きさき、希有(けう)かる[やぶちゃん注:凡そあり得ないような。]體(てい)にて來たりいふやう、『我が父太郞作の親は、そのかみ、無二の狩人にて殺生を業(わざ)とし、禽獸(きんじう)の命を奪ひ、または、山賊追剝の張本なりしが、大きさなる獸の、毛色は火の如く赤きが、その餘殃(よわう)[やぶちゃん注:先祖の行った悪事の報いが災いとなってその子孫に残ることを指す。]、今、なを、ありて父が一生を貧(ひん)に生まれたり。しかれども、生得、慈悲を行ひ、佛道を信ずるが故に、子にいたりて、災をなす事、あたはず。貧を轉じて立身の時いたれり。爰におゐて、今、なを、前世の怨敵、三年の間に報の崇、ありといへども、此福力、すみやかなるが故に、そのむくひを我におほせて、鬼、こよひ、吾をとりてくらふ。我が身を捨つるは、親への孝也。此後(のち)、永く、家に崇をなすもの、あらじ』と、さめざめと泣きて、我に語る、と見て、夢、さめたり。あまり、心にかゝる夢なれば、いざ、心みに太郞市を起こして見ばや。」

といふを、太郞作、さらに、信ぜず。

「夢は五臟のしつらい[やぶちゃん注:古い婚儀の表現。「室禮」「補理」とも書く。平安時代に宴・移転・女御入内などの「晴れ」の日に寝殿の母屋や庇 (ひさし) に調度類を配置して室内の装飾としたことから生じた謂い。]にて、さまざまの事も見る物ぞ。世帶(せたい)を渡す事はじめ[やぶちゃん注:新しい夫婦の初夜相当のこの事始め。]、いまいましき事[やぶちゃん注:不吉極まりない、縁起でもないこと。]、ないひそ。」

と、いさめて臥しけるに、引き繼ぎて、又、同じ夢を見ければ、今は母の親もこらへかねて、夫婦とも、太郞市が寢間に行きけるに、襖(ふすま)も戸も、けしからず堅めて、開かず。

「太郞市。」

と呼べども、答へず。

 婦(よめ)を呼べども、返事なし。

 今は、いよいよ心がゝりになりけるまゝに、戸・建具をこぢはなし、窓の戸、打ちやぶりなどして、寢間にかけいりて見れば、さもおそろしき鬼の兩眼(りやうがん)は日月(じつげつ)とかゞやき、口は耳のきわまできれたるが、振袖のかたひらしどけなく着なし、太郞作夫婦を見て、大きにおどろき、天井を蹴やぶり、失せさりぬ。

 蚊帳(かや)の内には、太郞市が首のほね・手あしなど、やうやう殘りて、あさましきありさまなりけるを、なくなく取りおさめてけるとぞ。

 

 

御伽百物語卷之二終

 

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