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2018/04/17

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 熊谷彌惣左衞門の話 一~三

 

   熊谷彌惣左衞門の話

 

     一

 

 私の小さな野心は、これまで餘程の𢌞り路をしなければ、遊びに行くことの出來なかつた不思議の園――この古く大きく又美しい我々の公園に、新たに一つの入口をつけて見たいといふことであります。吾々は彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]がまことによい安息所であることは昔から知つて居るけれども、そこへ踏み入るためには今日ではいろいろの手數があつて煩はしい。型と名づくるものゝ澤山を承認しなければなりませぬ。

 幽靈は井戸のほとり、いつも柳の下に出るといふのは、泥鰌のやうでをかしな話、狸の小僧の酒買ひなどは、粉雪のちらちらとする寒い晩を待たなければならぬ。東京で怪譚を夏の夜のものと致したのは、多分白小袖と散らし髮の聯想でありましようが、これも亦不自由な話であります。第一に不思議を夜の世界に限るものとし、それを更に際立たせる爲に、丑三つの鐘がゴーンなどと、餘計な條件を設けることになつて、却つてその他の時刻、眞晝間や宵の口には、得體の知れぬものが飛び𢌞る結果を見るのであります。

 吾々の不思議の園は荒れました。一筋の徑(こみち)は雜草に蔽はれて、もはやプロムナードに適しなくなりました。鏡花先生のことに愛せられる靑い花のありかゞ、愈〻不明にならうとして居るのであります。これはまことに大なる人生の疲れでなければなりませぬ。そこで私どもは今一度、あらゆるこれまでの樣式から脱け出して、自在に且つ快活に、所謂靑天白日下の神祕を求めなければならぬのでありますが、それには殘されたるもう一つの入口、卽ち、丁度この吾々の社會の方へ向いた、まだ開かれない大通りがあるやうに私は思ひます。今回の催しは言はゞそのための土地測量のやうなものであります。

 それ故にもし諸君の中に、今時そんな問題に苦勞をしてゐる人間があらうとは「不思議な話」だという人が、もしあったならば、もうそれだけでも道が切り開かれたことになるのであります。少なくとも差當つて、今晩の目的は達せられたわけであります。

 

     二

 

 しかし理窟を言ふことは、不思議な話には甚だ似つかはしくない。不思議はたゞ感ずべきものであります。だから私はこゝに型を破つて、試みに出來るだけ事實材料ばかりを敍べてみたいと思ひます。

 話は吾々が尊敬する泉鏡花氏の御郷里から始まります。加賀國は鏡花門徒の吾々にとつて、又一個のジエルサレム[やぶちゃん注:「エルサレム」のこと。]の如き感があるが、この地方の舊いことを書いたものに、三州奇談といふ一書があつて、既に活版になつてをります。その中に金澤城外淺野山王權現境内のお稻荷さまのことが書いてあります。これは元前田家の家中の小幡宮内といふ人の屋敷にありましたのを、後に爰へ移して今以て繁昌して居るのであります。その起原をかいつまんで申すと、明曆年中のこと、前田侯の家來に熊谷彌惣左衞門[やぶちゃん注:「くまがひさうざゑもん(くまがいそうざえもん)」。ちくま文庫版のルビから。しかし「くまがい」はやや問題がある。後注参照。]、本姓は渡邊といふ人があつた。知行は三百石、弓の達人でありました。或年の山科高雄(そんな處は無い)の御狩の日に、この渡邊彌惣左衞門御供をして、孕める一匹の白狐を見つけ、あまりの不便さにわざと弓を射損じて、其命を助けてやりました。それ故に殿の不興を蒙つて彌惣左衞門、浪人となつて隣國の越前に行つて住みました。ところが前に助けてやつた牝狐が恩返しに、彼を武州秩父に棲むところの夫の狐のところへ紹介し、それから段々手蔓を得て江戸に出て淺草邊に侘住居をしてをると、白狐は之に授くるに奇術を以てし、能く諸々の病を治すことが出來た。仙臺の殿樣の御簾中[やぶちゃん注:「ごれんぢゆう(ごれんじゅう)」(濁らなくてもよい)。公卿・将軍・大名などの正妻を敬っていう語。]、彼が名を聞いて召して其異病を加持させられたところ、卽座に效を奏して祿五百石に取り立てられ、子孫を渡邊三右衞門といふとあります。その渡邊氏がお禮のために、淺草觀世音の境内に熊谷稻荷といふのを建立したといふのであります。金澤の方では右申す渡邊の舊友小幡正次なるもの、その話を聞いて、自分もその稻荷を祀つて同樣の利益にあづからうといふので、淺草觀世音境内の稻荷を勸請して邸内に祀つて居た。小幡宮内はその正次の子孫でありましたが、狐を祀るといふなどは馬鹿げてゐると、その稻荷の祠を取り潰したところ、さつそく祟を受けて小幡の家は斷絶、それで本家小幡氏の領地淺野村の百姓たちが、その事あつてから約五十年の後、寶永四年四月に、再び祀つたのがこの山王權現社のお稻荷さまだといふことになつてをります。

 まるつきり跡形の無いことでは無い證據には、確かに近い頃まで淺草觀音の境内に熊谷稻荷がありました。唯今では他の社と合祀せられて千勝神社[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「千勝」に『せんしょう』とルビする。しかしこの神社、いろいろと問題がある。後注参照。]となりましたが、江戸名所圖會その他には熊谷稻荷、一名安左衞門稻荷――彌惣左衞門ではなく安左衞門稻荷と出て居るのであります。

[やぶちゃん注:「三州奇談」俳人楚雀なるものが蒐集した北陸三国の奇談集を元に御用商人の次男堀麦水が筆録したもの。宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃には世人に知られた書であったことが判っている。正編五巻・続編四巻。全百四十九話。これは正編の「卷之四」の「淺野の稻荷」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「明曆年中」一六五五年~一六五八年。

「高雄」私の所持する「三州奇談」ではこの二字に『タユ』とルビする。

「寶永四年」一七〇七年。

「千勝神社」柳田國男の言う通りに調べてみたが、現在は千勝神社は見当たらぬ。そこで、ネット検索を掛けて行くうちに、sunekotanpako 氏のブログ『スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語』の「奴伊奈利神社 その3」に出逢った。そこには『浅草寺境内にあったという熊谷稲荷はその後どうなってしまったのだろうか』と、sunekotanpako 氏が調べてみたところが、『地図で浅草寺一帯を隈なく探しても千勝神社は見つからなかった。また、浅草三社神社に千勝神社が合祀されたという事実があるわけでもなく、いろいろ調べた結果』、この熊谷稲荷は『同じ台東区の寿2丁目、地下鉄銀座線田原町駅近くにある日蓮宗の長瀧山本法寺に移転していることがわかった』とされ、現地を訪ねておられる。そこで熊谷稲荷の由来についての解説を転写され、『《江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である当本法寺に勧請した』。『この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸誌に参詣頗る多しと書かれているように世に名高い稲荷である』。『稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありそのなかでも人間に福徳をわかつ福狐(ふっこ)として白狐(びゃっこ)だけが稲荷大明神の御眷属にえらばれる資格があると云われている』。『白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語りつがれているが』、『熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前の津軽藩公が祀った二箇所だけしかない』、『きわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。》』とあり、『柳田のいう千勝神社に合祀された話など微塵もない』し、『それにしても、なんだか妙な内容の案内文だ』とされ(同感)、『《稲荷を祀った狐》とはなにか。「狐を祀った稲荷」、あるいは「稲荷に祀られた狐」というべきなのではないのか。その後の文面から考えると後者が正しいと思われる。ところが、白狐だけが稲荷大明神の眷属に選ばれる資格がある、という文章が続くとなると、祀られているのが狐なのか、それとも稲荷大明神――おそらく倉稲魂命――なのかどちらかわからなくなってくる。思うに、稲荷神とともに眷属である白狐を祀った神社と考えればよいのだろう』。『それはいいとして、一方では、常々疑問に思っていたことが氷解した案内でもあった。その疑問とは、世間一般の稲荷神社に奉納されている狐の置物のことで、これがいわゆる狐色をしたものをわたしは一度も見たことがなかったからにほかならない』と語られておられる。sunekotanpako氏の「奴伊奈利神社」は実に全六回に及ぶ実地探訪に拠る考証記事で、熊谷市熊谷字仲町の熊谷(ゆうこく)寺境内にある伊奈利(いなり)神社、通称「奴伊奈利(やっこいなり)」を訪問する「その1」に始まり、ここで柳田國男の本「熊谷彌惣左衞門の話」が引かれる。引かれるのは、この「二」章よりも後も含まれている)、ここで引用させて戴いた、そして『熊谷弥三左衛門とは何者か』で始まる・6と続く。最後にはタタラ製鉄へと結ばれていく、非常に興味深い考察で、全文を読まれんことを強くお薦めするものである(ブログは全部を続けて読めるようにはなっていないので、上記のリンク・クリックで読まれた方が楽かとは思う)。【2018年4月18日:上記注の一部を削除し、以下を追記する。】以上を公開した翌日である今日、いつも不明点や誤りを指摘して下さるH・T氏が千勝神社(「千勝」は「せんしょう」ではなく「ちかつ」と読むようである。以下のリンク先参照)が浅草寺内に実際に存在していたことをお伝え下さった。一つは、国立国会図書館デジタルコレクションにある「南無觀世音 金龍山緣起正傳」(「金龍山」は浅草寺の山号)で、これは明四五(一九一二)年四月芳林堂刊の浅草寺の詳細な解説書なのであるが、その一〇〇頁目(国立国会図書館デジタルコレクションの画像では75コマ目。ここ)で、そこには(読みは一部に留めた。句読点を独自に補った。下線太字は私が附した)、

   *

    千勝神社

榧木(かやのき)八幡宮の左側(さそく)に、千勝社(ちかつしや)あり。千勝明神、琴平神(ことひらじん)、天滿宮、愛宕社(あたごしや)、淡島社(あはしましや)、姥宮(うばみや)、姫宮、一之大神(いちのだいじん)、西宮稲荷(にしみやいなり)、熊谷稲荷(くまがやいなり)の十社を合祀(がふき[やぶちゃん注:ママ。])し奉る。千勝大神(ちかちだいじん)と稱し奉るは、猿田彦命にして、道祖神だうそしん)にまします。又、琴平神社は大巳貴神(おほなもちのかみ[やぶちゃん注:ママ])、金山彦神(かなやまひこがみ)、崇德天皇を稱(たゝ)へまつる神號にて、天滿宮は菅原道眞卿を祭り、愛宕社は火産靈神(ほむすびのかみ)、大巳貴神(おほなむちのかみ[やぶちゃん注:これは正しい。])、又、粟島神社は大巳貴(おほなむち)少、彦名神(すくなひこなのかみ)にましまし、姥宮姫宮は、彼(か)の淺茅ケ原の一ツ家(や)の姥の親子なり。一之大神は所謂、一の權現にして、西の宮、熊谷(くまがや)と稱へまつる稻荷の大神は、倉稻魂神(さうとうこんじん)にして、豐受姫(とようけひめ)の別の御名と知り奉るべし此中にて、姥宮、西宮稻荷、熊谷稻荷に就ては、昔よりの緣起あれば、之を左に記し奉るべし

   *

とあるのである。因みに、頭に出る「榧木八幡宮」が浅草寺境内にあった「御府内寺社備考」の「御府内備考續編卷之二十八」の「寺院部四 天台宗 金龍山淺草寺」の中に列挙された社名の中に、

   *

○榧木八幡宮 壱間四方

 八幡太郎義家卿榧ヲ立給フト申傳候。此後ニ榧之木有之。

   *

とある(但し、こちらからの孫引き(一部を恣意的に正字化))から、まず間違いない。更に、国立国会図書館デジタルコレクションの「南無觀世音 金龍山緣起正傳」の次の76コマ目77コマ目には、熊谷稲荷の縁起が載り、そこにはまさに柳田國男が本記載の中で語っている内容がみっちりと纏めて書かれているのである。

 また、H・T氏は別に、文学散歩系の個人サイト「東京紅團」(実はここはお恥ずかしいことに私が毎日必ず巡回するサイトである)の「川端康成の「浅草紅団」を歩く-5-」にアップされてある「昭和14年の浅草絵図(一部)」の中に「千勝神社」ある(浅草寺の本堂に向かって左にある二天門の北側直近)のであった(当該サイトはトップ・ページにしかリンクを許していないので、そこにある目次を探されたい)。そこに書かれた解説によって、千勝神社は第二次世界大戦の戦災によって焼失し、再建されなかったことも判った。

 なお、以上によって sunekotanpako 氏の〈千勝神社浅草寺内非在説〉は誤りであったことになるが、sunekotanpako 氏の検証探訪の意義の重要さは聊かも減じていない。

 ともかくも、御指摘下さったH・T氏に改めて御礼申し上げたい

「江戸名所圖會その他には熊谷稻荷、一名安左衞門稻荷――彌惣左衞門ではなく安左衞門稻荷と出て居る」「江戸名所圖會」の「卷之六 開陽之部」の「淺草寺」の条(流石に長い)の中に(【 】は二行割注部)、

   *

熊谷稻荷(くまがやいなり)祠【本堂の後(うしろ)の方(かた)にあり。熊谷(くまがや)安(やす)左衞門といへる人、勸請す。來由(らいゆ)ハ繁(しげ)きいとひてこ〻に畧(りやく)す。内陣(ないぢん)に狩野周信(かのちかのぶ)の筆(ふで)の橋弁慶(はしべんけい)の掛繪(かかけゑ)あり。】

   *

とある。]

 

     三

 

 私は今からもう十數年も前に、早川孝太郎君と協力して「おとら狐の話」といふ書物を世の中に出したことがあります。おとらは三州長篠の古城のほとりに棲んで、今でもあの附近の農村に非常な暴威を逞しうする[やぶちゃん注:「たくましうする(たくましゅうする)」。]老狐であります。老狐が暴威を振ふといふことはさもあるべしとしても、それにおとらなどゝいふ名のあるのは不思議では無かろうか。私は物ずきな話でありますが、之を問題にして大いに苦勞しました。しかし不思議には相違ないけれども、さういふ例は諸國に至つて多いのであります。例へば三河の隣の尾張小牧山の吉五郎、山中藪の藤九郎、同じくその近所の御林のおうめにおりつなど、これがみな男女の狐であります。中でも殊に有名なのは、大和の源九郎狐、これは諸國里人談にも出ておりまして、その女房は伊賀の小女郎という牝狐だといつて、色々の優しい話がある。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎」(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)は民俗学者で画家。ウィキの「早川孝太郎」によれば、愛知県出身で、『画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し』、昭和一九三〇五年には「花祭」を『刊行。農山村民俗の実地調査を行った』とある。

「おとら狐の話」大正九(一九二〇)年玄文社の『炉辺叢書』の二として早川孝太郎との共著として出版されている。本「熊谷彌惣左衞門の話」は昭和四(一九二九)年七月に、朝日新聞社主催の「民衆講座夏季特別講演会「不思議な話の夕」で講演したもので、翌八月発行の『變つた實話』に載ったものが初出であるらしい。ちくま文庫版全集第六巻ではたまたま、本「一つ目小僧その他」の後に、同書の柳田國男執筆部分のみが収録されている。但し、私は電子化するつもりはない。悪しからず。

「諸國里人談」俳人菊岡沾凉(せんりょう)著になる随筆。寛保三(一七四三)年刊。次の段で紹介される「源九郎狐」は、「諸國里人談」の「卷之五」の「九 氣形部」の二番目にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

○源九郎狐(小女郎狐)

延寶のころ、大和國宇多に源五郎狐といふあり。常に百姓の家に雇はれて農業をするに、二人三人のわざを勤む。よつて民屋これをしたひて招きける。何國より來り、いづれへ歸るといふをしらず。或時關東の飛脚に賴まれ、片道十餘日の所を往來七八日に歸るより、そのゝち度々往來しけるが、小夜中山にて犬のために死せり。首にかけたる文箱を、その所より大和へ屆けゝるによりて此事を知れり。又同じ頃、伊賀國上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺に、小女郎狐といふあり。源五郎狐が妻なるよし、誰いふとなくいひあへり。常に十二三ばかりの小女の貌にして、庫裡にあつて世事を手傳ひ、ある時は野菜を求めに門前に來る。町の者共此小女狐なる事をかねて知る所なり。晝中に豆腐などとゝのへ歸るに、童どもあつまりて、こぢよろこぢよろとはやしけるに、ふり向て莞爾、あへてとりあへず。かくある事四五年を經たり。其後行方しらず。

   *

最後の「莞爾」は「につこり」と読んでおく。おきたい。]

 

 この源九郎狐は人に賴まれて、飛脚となつて江戸との間を始終往來してをつたところ、ある年小夜の中山で犬に食はれて死んだ。けれどもその持つていた狀箱ばかりは完全に先方へ屆いたともいふのであります。甲府には今はなくなつてゐるらしいが、曾て浪人の姿をして伊勢詣りをしたといふ庄の木の八右衞門といふ狐が稻荷に祀られ、信心者の澤山詣つて來る御社でありました。それから陸前松島の雄島の稻荷さま、これは新右衞門樣と申して現在でも信心せられてをりますことは、松島見物にお出でのお方は多分御承知であらう。非常に靈驗のあらたかなお稻荷さまで、久しく江戸へ出て歸つて來た、留學の狐でありました。私は既に二三年前の朝日新聞に、記者として報告をしておいたことがあります。

[やぶちゃん注:「甲府には今はなくなつてゐるらしいが、曾て浪人の姿をして伊勢詣りをしたといふ庄の木の八右衞門といふ狐が稻荷に祀られ、信心者の澤山詣つて來る御社でありました」この部分、ちくま文庫版全集では「甲府には今はなくなつてゐるらしいが、」が完全にカットされている。或いは、なくなっておらず、実在したことを知った柳田國男が単行本化(講演から五年後の昭和九(一九三四)年六月小山書店刊)した際に削除したものか。しかし、本当に当時、現存したのだろうか? 調べてみると。現在、甲府城跡の南東の角に似たような名の「庄城稲荷大明神」がある(第二次世界大戦の戦災で焼失後に移設)が、この稲荷の由来を調べても、ここに書いてあるような奇譚はなく、約八百年の昔、甲斐源氏の祖一条次郎忠頼が、一条の庄小山の地(現在の舞鶴城)に館を築いた際に守護神として祀った社で、忠頼亡き後、武田時代を経て、貴賤の隔てなく厚い信仰を得、徳川時代となり、家康が新城をこの地と定めた折りに庄城神社の一部を「稲荷曲輪(くるわ)」と命名、維新後も庶民の信仰の念厚く、その先達として、地元桜盛会(現在の桜北自治会)が明治以来、今日まで崇敬してきた、と個人サイト武田家史跡探訪」ページにある。しかし、これだけ創建とその後の信仰や庇護の経緯が明らかになっていては、逆にここで柳田國男が言うような奇譚が入り込む余地は逆になくなると思うから、私はこの稲荷は違うと思う。或いは、柳田國男が講演した際、甲府在住或いは出身の来場者が、この稲荷がそれだと考えて(誤認して)、「今もある」と柳田國男に強く抗議したのかも知れない。厭になった柳田が、それをろくに検証せずにカットした可能性もあるように思われる。「いや! この庄城稲荷大明神にここに書かれた話がある!」と言われる方は是非とも御教授下されたい。

「陸前松島の雄島の稻荷」松島湾東奥の松島港の南方に浮かぶ雄島(架橋で陸と接続する。私の好きな島である)にある新右衛門稲荷。江戸後期の頃、江戸からの便船が暴風に巻き込まれ、乗り合わせていた白狐に救われたという話から、海難防止の守り神として知られる。

「私は既に二三年前の朝日新聞に、記者として報告をしておいたことがあります」不詳。発見したら追記する。]

 

 是はきつと何かの理由のあることゝ思ひますが、それを論究して居るとお約束に背く。先づ今囘は省略しておきますが、兎に角に祀つてもらふことの出來るほどの狐ならば、名が有り時としては苗字があるのは、言はゞ當世の當然であります。

 たゞ一つの不思議は、この場合においては熊谷彌惣左衞門は、祀られる狐の名ではなくして、これを祀つた人の名前と認められることであります。この點だけが他の例と違つてゐる。それがど何處まで他の色々の狐の信仰と、一致するかといふことが問題であります。

 加賀の隣の福井縣では、南條郡南日野村大字淸水といふ、北國街道の傍の村に、同じく熊谷彌惣左衞門稻荷といふのがありました。その由緒を記したものはいろいろありますが、越前國名蹟考に書いているのは、加州藩の浪人で苗字は不明、通稱を彌惣左衞門といふ者夫婦、この村に來たつて高木某といふ村の舊家に、二三年厄介になつて居ました。その後夫婦は江戸へ出て行くことになつて、途中武州熊谷の堤にさしかゝつたとき、一匹の白狐に出逢ひ、その白狐の依賴を受けて、淺草の觀世音の境内に、新たに建立して祀つたのが今の熊谷稻荷である。後年前の高木の主人次左衞門が江戸へ出て來て、兼て世話をしたことのある加州浪人彌惣左衞門を訪ねたところが、その稻荷のために大分工面がよくなつている。それならば自分も祀りたいと、勸請して歸つたのがこの越前淸水村の熊谷彌惣左衞門稻荷であるといふのであります。このとき高木氏が國へ歸る途すがら、二匹の白狐が後先になつて附いて來たが、その一つがやはり途中で犬にくはれて死んだ。それだから今のは後家だといふことも書いてあります。

[やぶちゃん注:「南條郡南日野村大字淸水」現在の福井県南条郡南越前町西大道附近と思われるが((グーグル・マップ・データ))、熊谷彌惣左衞門稻荷(「彌惣左衞門」は「やそゑもん」と読むのであろう)というのは現存しない模様である。

「越前國名蹟考」福井藩右筆井上翼章の編になる越前地誌。文化一二(一八一五)年完成。]

 

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