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2018/04/09

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 餅白鳥に化する話 三

 

      三

 

 そこでこの餅が化して飛立つたと云ふ白い鳥の、白鷺では無かつたかと云ふことを、少しばかり考へてみる。宮古島では荷川取(にかどり)村の百姓、湧川(わくがは)のまさりやなる者、曾て釣に出でて大なる鱏(えひ)の魚を娶つたことがあつた。後日再び海の滸に遊ぶとき、自ら其子なりと名乘る小兒三人、彼を誘ひて海の宮に到り其母に會はしめたるに、氣高い美女であつた。樂しみ留まること三日三夜、別れに臨んで贈るに一箇の瑠璃の壺を以てす。之を携へて里に還れば、すでに人間の三年三月を過ぎて居た。壺の中には味甘露の如き酒が有つて、呑めども盡ること無く、一家之を服して長壽と爲る。島中の人之を聞傳へ、壺を見に來る者引きも切らず主人あまり煩はしさに虛誕(うそ)を吐(つ)いて、此神酒はいつも同じ味で、もう飮みたくも無いのだと謂ふや否、忽ちにして白鳥に化して飛び去る。群衆の者之を見て、何れも地に伏して我が方へ飛んで來よと招いたが、鳥は東の方へ翔つて、宮原村のしかほやと云ふ家の庭の木に下りて姿を消したとある。それから後の事は傳はらぬが、勿論まさりやは次第に貧しくしかほやは新たに富んだことは確かであつたらう。さうして沖繩の島に於ては、鷺を神の使としたが別に傳はつて居るのである。

[やぶちゃん注:この説話は瀬藤禎祥氏のサイト「神奈備」の「湧川マサリヤ御嶽(バクガーマサリャ御嶽)」に載る。そこでは釣り上げた鱏がその場で美女と化して契りを結んだとあり、別系統のやや似た説話も載るので必見である。

「宮古島」「荷川取(にかどり)村」現在の沖縄県宮古島市平良荷川取(ひららにかどり)の内。恐らくは、瀬藤氏が地図で指示する、ここら辺りであろう。

「湧川(わくがは)のまさりや」これで通称名。

「大なる鱏(えひ)の魚を娶つた」「娶(めと)つた」で、「性交渉を持った」の意。瀬藤氏の記す伝承ではエイの変じた美女と交合(つる)んだことになっているが、実はエイ、特にアカエイ(軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajeiの総排出腔はヒトの女性の陰部に似るとされ、「傾城魚」の別名さえある。実際に古く、漁師は、毒棘を除去した後、これで欲求を処理したとも伝えられるから、この「鱏とまぐわう」というのは私にはすこぶる腑に落ちるのである。

「滸」「ほとり」と読む。

「宮原村」宮古島には「宮原村」は確かにあった。現在の沖縄県宮古島市宮原地区で、この中央付近である(グーグル・マップ・データ)。しかし、瀬藤氏の伝承には「宮国村」とあり、またちくま文庫版全集でも『宮国村』と書き換えられている。しかも宮古島には「宮國村」もあったのである。宮古島の南端地区、現在の宮古島市上野宮国である(ここ(グーグル・マップ・データ))。神性を持った鳥がそれなりに有意に飛び翔けるには相応しい距離であるとは私も思う。しかし、柳田國男はわざわざ『鳥は東の方へ翔つて』と述べている。宮原は確かに荷川取の東であり、宮国では南と言わないとおかしい或いは、現在の宮原地区も古くは宮国の内であったものかも知れない。郷土史研究家の御教授を乞うものである。]

 

 例へば宇治拾遺物語の、博打(ばくち)の聟入と同系の昔話で、我々の中では『隣の彌太郎を聟に取れ』というのが、南の島では次良(じら)の聟入の物語として、民間にもてはやされて居た。次良は長老の信心に附け込み、夜潛かに一羽の白鷺を抱へて、庭の木の茂みに攀ぢ登り、娘の聟に次良を迎へよと、神の作り聲をして命令した後に、そつと、其鷺を放したので、うまうまと長者は騙されてしまつた。卽ち神が鷺の姿で天に還りたまふと信じたものである。

[やぶちゃん注:「宇治拾遺物語の、博打(ばくち)の聟入」「宇治拾遺物語」巻九の第八話(陽明文庫本)の「博打(ばくち)の子、聟入(むこいり)の事」。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。

「次良(じら)の聟入」私は不詳。]

 

 鷺を靈物とする信仰は、舊日本の方でも例が多かった。攝津の住吉、越前の氣比(けひ)、共に此鳥を神使としたまひ、諏訪にも白山にも鷺を祀つた末社が有つた。尾張の熱田でも同じことで、神領の民は鷺を白鳥と呼んで、忌み且つ崇んだ[やぶちゃん注:「たふとんだ(とおとんだ)」。]。信長が桶狹間に義元を討ち取つた時も、豫て[やぶちゃん注:「かねて」。]祈願の效空しからず、白鳥ありて社殿を飛び出し、今川の陣場に近づき森の樹に羽を休めた。其故迹と稱して鷺が森の地あり、古木は今枯れて石塚に記念の碑が立つて居る。關東其他には是等の大社とは獨立して、尚無數の鷺の森明神或は鷺の宮が有る。祭神も信仰も、今では區々になって居るだらうが、初めて此鳥を齋き[やぶちゃん注:「いつき」。]祀つた人の心持は、さうさう變つて居たものとは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「越前の氣比(けひ)」福井県敦賀市曙町にある氣比(けひ)神宮。式内社(名神大社)で越前国一宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「氣比神宮」によれば、『敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった』とある。

「鷺が森」「とよあけ桶狭間ガイドボランティア」製作のサイト「国指定史跡 桶狭間古戦場 伝説地」のこちらのページに詳しい(詳細地図有り)。そこに「鷺之森碑」として、『信長が桶狭間への進軍途中、熱田神宮で戦勝祈願したところ、白鷺が飛び立ち』、『進路を導き、石塚(桶狭間)の森の大木で羽を休めた。』明治九(一八七六)年、有松の住人山口正義氏が、『この伝承に基づき』、『碑を建立した』とある。]

 

 馬琴の化競丑滿鐘[やぶちゃん注:「ばけくらべうしみつのかね」。]などを見ると、白鷺は化物界の家老格にたてられて居る。鷺が化けたと云ふ話は隨分聞くが、それは古くから言ふ事ではないらしい。一つには聲の怖ろしい五位鷺との混同もあろうし、一つには苗代をよく荒らして追はれることゝ、人間ならばまことに感心せぬ眼つきをして居ることなどが、此説を助けたものであらう。

[やぶちゃん注:「化競丑滿鐘」寛政一二(一八一〇)年に耕書堂蔦屋重三郎から刊行された浄瑠璃正本形式を模した滑稽本。妖怪オール・スター物。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので読める。

「白鷺」 鳥綱ペリカン目サギ科 Ardeidae の内で、ほぼ全身が白いサギ類の総称。「シラサギ」という和名のサギはいない。

「五位鷺」サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax。詳しくは私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)を参照されたいが、上面は青みがかった暗灰色、下面は白い羽毛で被われ、翼の色彩は灰色を呈する。眼の虹彩は赤く、眼先は羽毛が無く、青みがかった灰色の皮膚が露出する。全身が白化した個体はまず見ない。]

 

 しかも其擧動がいつも落付いて居て、來往の場所や食物を求める習性に特色があり、殊に其形と羽の色の著しい爲に、宵曉の神の杜の出入が、夙に農民たちの注意を惹き、時として異常の場所に集まることなどがあれば、何かの兆候として警戒せられたのが、轉じて一種の惡評にもなつたのであらう。豐後の人たちは例の餠が爲つたと云ふ白い鳥を、白鷺のことゝきめて居たらしい。三浦梅園の豐後事跡考には餅白鷺と化して飛んで大分郡河南の庄内に止ると記し、豐薩軍記には白鷺は朝日長者の福神にてありけるが、飛去りたまひて後は長者の威光次第に減少したと述べて居る。此國の長者譚には、宇佐信仰の影響が最も強く、八幡は本來農作の愛護者であつて、今も諸國の田植歌の中に、白鷺のとまりはどこぞ八幡山(やはたやま)云々といふのが、盛んに歌はれて居ることを考へると、所謂田野の荒れたる水草原に立つて、行きて歸らぬ神の御姿を慕うたのも、誠に無邪氣な昔人の心であつたとうなづかれる。武藏の府中の六所樣では、今でも五月五日の大祭の翌日に、御田植と名づけて神田の中で祭の式がある。楓(かへで)の若葉を以て飾つた傘鉾の上に、白鷺の形を造り添へて田の邊に建て、之を囘つて古風な歌を唱へ、太鼓を打つて囃すと云ふ。卽ち神の森から神の田へ、曉に出ては夕に還る此鳥の習慣を、やはり神靈の去來の如く此地方の人々も感じて居たらしいのである。

[やぶちゃん注:「三浦梅園」(享保八(一七二三)年~寛政元(一七八九)年)は医者で博物学的自然哲学者。豊後国(現在の大分県国東(くにさき)市安岐町(あきまち)富清(とみきよ))の出身。諱は晋(すすむ)。。儒学と洋学の思想を調和させて宇宙の構造を説明する条理学を提唱。その論ずるところは、哲学・宗教・歴史・文学・経済を始めとして、天文・医学など自然科学にも及んだ。医業を生業(なりわい)とする傍ら、家塾を開き、常時二十人ほどの寄宿生がいたという。彼の一生は、何の波乱もなく、伊勢参りに一度、長崎へ二度、旅行したのみで、杵築(きつき)侯その他から出仕の招聘を受けたものの、総て辞退し、郷里を離れたことは一度もなかった。その人となりは温厚篤実で、「安分知足」(高望みをせず、自分の境遇に満足すること)をモットーとし、「豊後聖人」の称があった。

「豐後事跡考」「豐後跡考」が正しい。梅園が宝暦五(一七五五)年、三十三歳の時、「豊後國風土記」を参考にして豊後八郡の口碑を中心に、その事跡を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該部分(「寳陀山淨水寺 玖珠」)を視認出来る。

「大分郡河南の庄内」ちくま文庫版全集もこうなっているが、上記リンク先を見ると、原文は『大分郡阿南の庄内』とあり、大分県大分郡には「河南」という村や広域地名はない。これはどう考えても、現在の大分県由布市庄内町庄内(旧庄内村)の誤りであろう(附近(グーグル・マップ・データ))。現在の全集にあっても訂されていない、とんでもない誤りと思われる。

「豐薩軍記」長林樵隠著の九州地方全域に及ぶ戦乱と諸豪族の興亡盛衰記。詳細な筆者や書誌は不詳。

「武藏の府中の六所樣」(ろくしよさま)は現在の東京都府中市宮町にある武蔵国総社である大國魂(おおくにたま)神社の別名。武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮までを合わせ祀ることから「六所宮」とも呼ばれることに由来。創建は景行天皇四十一年と伝えられるが、源頼義・義家父子が奥州戦に向かう際に戦勝を祈願したという伝承があり、源頼朝が妻政子の安産祈願をしたことや、隣接する同神社の管理となっている武蔵国府八幡宮は「六所八幡神社」とも称するなど、八幡神との親和性が強い。大國魂神社の例大祭は「五月五日」に行われ、関東三大奇祭の一つである「くらやみ祭り」(かつてはハレの時空間としての祭りの際の神社の境内に於いて、その闇に紛れて乱交的な男女の交合が許された)として知られる。但し、その翌日に「御田植と名づけて神田の中で祭の式がある」というのは、同神社の公式サイトを見ても、残念ながら、現在はやっている形跡が窺えない。]

 

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