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2018/04/12

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 二 デエラ坊の山作り

 

     二 デエラ坊の山作り

 

 松屋筆記には又斯んな話を書いて居る。著者は前の煎茶僧と略同じ時代の人である。曰く、武相の國人常にダイラボツチとて、形大なる鬼神がいたことを話する。相模野の中に在る大沼といふ沼は、大昔ダイラボツチが富士の山を背負つて行かうとして、足を踏張つた時の足跡の窪みである。又此原に藤といふものゝ少しも無いのは、彼が背負繩にするつもりで藤蔓を搜し求めても得られなかつた因緣を以て、今でも成長せぬのだと傳へて居る云々。自分は以前何囘もあの地方に散步して此事を思ひ出し、果して村の人たちが今ではもう忘れて居るか否かを、確かめて見たい希望を持つて居たが、それを同情して八王子の中村成文君が、特に我々のた爲に調べてくれられた結果を見ると、中々どうして忘れてしまふどころでは無かつた。

[やぶちゃん注:「松屋筆記」「まつのやひつき(ひっき)」と読む。江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風の随筆。元は全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えてある。その語句は約一万に及び、国語・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、膨大なので探していない。但し、サイト「Shonan Walk」の「湘南の昔話」の「15.でいらぼっちのお話 /(相模原市)」に、デイラボッチが地団駄踏んで出来た沼を「鹿沼(かぬま)」と「菖蒲沼(しょうぶぬま)」とし、両方で「じんだら沼」と呼ばれたこと、犢鼻褌(ふんどし)を引きずりながら藤蔓を探すために相模野中を歩き回った結果出来た窪地を「ふんどし窪(くぼ)」と名づけたということが昔話に出るとある。また、鹿沼と菖蒲沼は『JR横浜線の淵野辺駅前にあり』、「松屋筆記」に『相模野の大沼として紹介されているのが、この沼のことと言われてい』るとある。また、「ふんどし窪」が『あったのは、下溝の県立相模原公園の付近にあたり、 藤づるを切るために、鎌(カマ)を研いだというので、鎌とぎ窪とも言われてい』たともある。『このほか、相模原には、矢部の村富神社付近、旭中学校(橋本)の西側、 向陽小学校(向陽町)の北側に、でいらぼっちの足跡と伝えられるくぼ地が』かつてあり、神奈川『県内には、横浜市磯子区・鶴見区・神奈川区、逗子市沼間、横須賀市長沢などに、でいらぼっちの尻餅(しりもち)をついた跡や、足跡といわれるくぼ地が』存在したともある。鹿沼の方は、神奈川県相模原市中央区鹿沼台の鹿沼公園ここ(グーグル・マップ・データ))、県立相模原公園(神奈川県相模原市南区下溝)はそこから四キロメートル弱南に位置する(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「中村成文」「せいぶん」と読み、八王子の民俗研究家と思われる(『郷土研究』等に投稿論文が多数ある)。大正四(一九一五)年には文華堂から「高尾山写真帖」を出版しており、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。]

 

 右の大沼とは同じで無いかも知れぬが、今の橫濱線の淵野邊停車場から見える處に、一つの窪地があつて水ある時には之を鹿沼と謂つて居る。それから東へ寄つて是も鐵道のすぐ傍に菖蒲沼があり、二つの沼の距離は約四町[やぶちゃん注:四百三十六メートル。]である。デュラボッチは富士山を背負はうとして、藤蔓を求めて相模野の原ぢうを搜したが、どうしてもないので殘念でたまらず、ぢんだら(地團太)を踏んだ足跡が、この二つの沼だといふ。又此原の中程には幅一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり、南北に長く通つた窪地がある。デエラボツチが犢鼻褌を引きずつてあるいた跡と稱し、現にその地名をふんどし窪ととなへて居る。境川を北に渡つて武藏の南多摩郡にも、之と相呼應する傳説は幾らもある。例へば由井村の小比企といふ部落から、大字宇津貫(うつぬき)へ越える阪路に、池の窪と呼ばるゝ凹地がある。長さは十五六間[やぶちゃん注:二十八~二十九メートル。]に幅十間[やぶちゃん注:十八メートル。]ほど、梅雨の時だけは水が溜つて池になる。これもデエラボツチが富士の山を背負はんとして、一跨ぎに踏張つた片足の痕で、今一方は駿河の國に在るさうだ。成ほど足跡だといへばさうも見えぬことはない。又同郡川口村の山入といふ部落では、繩切と書いてナギレと訓む字(あざ)に、附近の山から獨立した小山が一つある。これはデエラボツチが背に負うてやつて來たところ、繩が切れて爰へ落ちた。その繩を繋ぐ爲にふぢ蔓を探したが見えぬので、大にくやしがつて今から此山にふぢは生えるなと言つたさうで、今日でも山は此地に殘り、ふぢは成長せぬと傳へて居る。但し其ふぢといふのは葛のことであつた。巨人なればこそ其樣な弱い物で、山でも擔いで持ち運ぶことが出來たのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

「鐵道のすぐ傍に菖蒲沼があり」距離を測って航空写真で探したが、最早、そのような沼はないようである。

「由井村の小比企といふ部落から、大字宇津貫(うつぬき)へ越える阪路」神奈川県南多摩郡にあった旧由井村は現在、東京都八王子市に編入しており、東京都八王子市小比企町(こびきまち)としてここ(グーグル・マップ・データ)にある。後者も同じく東京都八王子市宇津貫町(うつぬきまち)として編入して現存しており、前者の南東である(ここ(グーグル・マップ・データ)。現行の同地域は近いが、接触はしていない)。

「同郡川口村の山入」神奈川県南多摩郡の旧川口村(上と下があった)は、やはり現在は東京都八王子市に編入されている。「山入」は不詳だが、八王子市川口はここ(グーグル・マップ・データ)。南北に丘陵があるのが判る。

ふぢといふのは葛のこと」通常の「藤」はマメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda であるが、「葛」はマメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属 Pueraria montana 変種クズ Pueraria montana var. lobata である。葛の蔓は真っ直ぐに横に伸びるので、採取や使い易さでは葛蔓であるが、強靱さでは、より太くなる藤蔓か。]

 

 甲州の方ではレイラボツチなる大力の坊主、麻殼(をがら)の棒で二つの山を擔ひ、遠くへ運ばうとしてその棒が折れたという話が、日本傳説集にも甲斐の落葉にも見えて居る。東山梨郡加納岩村の石森組には、其爲に決して麻は栽ゑなかつた。栽ゑると必ず何か惡い事があつた。其時落ちたといふ二つの山が、一つは鹽山であり他の一つは石森の山であつた。或知人の話では、藁の莖で二つの土塊を荷なつて行くうちに、一つは拔け落ちて鹽山が出來たと謂ひ、其男の名をデイラボウと傳へて居た。デイラボウは其まゝ信州の方へ行つてしまつたといふことで、諸處に足跡があり又幾つかの腰掛石もあつた。

[やぶちゃん注:「レイラボツチ」山梨に於けるダイダラボッチの異名。YAMANASHI DESIGN ARCHIVEを参照。「鹽山」(広域地名としては「えんざん」であるが、山名としては現行では「塩ノ山」で「しおのやま」のようである)の地図もある。

「麻殼(をがら)」通常は「皮を剥いだ麻の茎」(盂蘭盆の門火をたくときなどに用いるあれ)を指すが、ここは植物種を言っているから、古くから植物繊維を採るために広く栽培された「苧麻(ちょま)」で知られるイラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea を指すように私には感じられる或いは、狭義の植物種としてのツツジ目エゴノキ科アサガラ属アサガラ Pterostyrax corymbosus であるが、ここは前者でよかろう。前者は「紵(お)」「青苧(あおそ)」「山紵(やまお)」「真麻(まお)」「苧麻(まお)」など、異名も多い。

「日本傳説集」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)の名著。大正二(一九一三)年郷土研究社刊。当該記載は同書の「巨人傳説及兩岳背競傳説第二」の(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。高木は熊本県生まれで、東京帝国大学文学部独文科卒業、第五高等学校教授・東京高等師範学校教授・愛媛師範学校教授・大阪外国語大学教授を歴任した。大正元(一九一三)年から翌年にかけては柳田国男とともに雑誌『郷土研究』を編集、欧米、特にドイツの研究方法に拠った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した(以上はウィキの「高木敏雄高木敏雄に拠る)。

「甲斐の落葉」山中共古(きょうこ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年:本名・笑(えむ))の日記。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した。日記「共古日録」は正続六十六冊に及ぶ彼の蒐集資料集ともいうべきものである。以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)の著。ウィキの「山中によれば、明治一九(一八八六)年に山中は甲府教会(現在の甲府市中央。旧桜町)の牧師となって山梨県各地で伝道活動を行う一方、当地の庶民生活史を見聞、その成果を『東京人類学会雑誌』へ発表、それを後に纏めたもので、『山梨県の道祖神祭りや山梨独自の節供人形である』「かなかんぶつ」(甲斐国の郷土玩具で江戸後期から明治中期頃までに流行した端午の節句に於ける節供人形(節供飾り)。通称は「おかぶと(さん)」と呼び、別称で「甲斐(甲州)かなかんぶつ」または単に「面」や「兜面」とも呼ばれた。現在では廃絶した。詳しくは参照したウィキの「を見られたい)など、『同時代に廃れつつあった民俗事例を記録しており、山梨県民俗史研究の嚆矢として評価されている』とある。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」で自筆本(明治三四(一九〇一)年序)が読める。]

「東山梨郡加納岩村の石森組」現在の山梨県山梨市下石森周辺の旧村名と思われる。「石森組」は石森山のことで、(グーグル・マップ・データ)。塩ノ山はここから東北へ四・七五キロメートル離れるYAMANASHI DESIGN ARCHIVE」のこちらも参照。]

 

 我々の祖先はいつの世からとも無く、孤山の峯の秀麗なるものを拜んで居た。飯盛山といふのが、その最も普遍した名稱であつた。御山御嶽として特に禮拜する山だけは、此通り起原が尋常で無いものゝ如く、説明せられて居たやうに思はれる。後には勿論之を信ずる能はざる者が、所謂大話(おほばなし)の着想の奇に興じたことは確かだが、最初に重きを置いたのは麻殼葛[やぶちゃん注:「をがら・くづ」。]の蔓の點では無かつたらう[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに「か」が入る。それが正しいと私も思う。実利上の「麻殼(おがら)」が何故育たぬか・育てることが禁忌かということを伝承上で合理化することが最初の出発点であろう。]と思ふ。六かしく言ふならば此種巨人譚の比較から、どの位まで精密に根原の信仰が辿つて行かれるか。それを究めてみたいのが此篇の目的である。必ずしも見かけほど呑氣な問題では無いのである。

 

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