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2018/04/21

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 思う事あり蚊帳に泣く

 

      思う事あり蚊帳に泣く

 

 はじめ佐藤三吉氏の診察を受けるに先って、居士は漱石氏宛の手紙に「いよいよ外科的の刅物三昧に及ばなければならぬといつたら、僕も男だから直樣(すぐさま)入院して切るなら切つて見ろと尻をまくるつもりに候。尤も切り開いたら血も出ることと存候。膿汁も出ることと存候。痛いことも痛いことと存候。切つたために足の病氣が直つたらしめこのうさうさだけれど少くもびつこになる位のことはあろと覺悟してゐる」と書いた。この手術によって疾患を除去し得ると信ぜぬまでも、うまく行ったらという点に万一の希望を懐いていたことは想像に難くない。然るに手術の結果は居士の苦痛を軽減せず、五月の大半は病牀に呻吟して、筆硯を廃せざるを得なくなった。前年「此病(やまひ)は僂麻質斯(ロイマチス)[やぶちゃん注:既出既注。]にあらず」という宣告を受けた時と、今年佐藤氏の手術を受ける時とでは、その病勢は固(もと)より同日の談でないが、手術後の居士は「小生の病氣には快復といふことなく、やられる度に步を進めるばかり故、此度も一層衰弱し復前日の小生にあらず」と歎じている。この時の病を境として、回復に関する希望は擲(なげう)つより外なくなったのである。

[やぶちゃん注:「しめこのうさうさ」は「占(し)め子(こ)の兎(うさぎ)」の略した言い方。「上手(うま)くいった」の意の「しめた」を、「兎」を「絞める」に掛けた洒落で、物事が思い通りに上手く運んだ際の言葉。]

 

 六月二十八日虚子氏宛の手紙には「秋山米國へ行く由聞きし處、昨夜小生も亦渡行に決したることを夢に見たり。元気いまだ消磨せず、身體老いたり。一噱(いつきやく)」ということが書いてある。秋山というのは後に日本海海戦の参謀として知られた秋山真之(あきやまさねゆき)氏のことで、居士とは松山以来の親友であった。健康な友人の活動を想いやるにつけ、病魔に捉われた自己の姿を憐まざるを得なかったであろう。秋山氏渡米と聞いて、自分もまた渡行の夢を見る。「元氣未だ消磨せず、身體老いたり」という所以はここにある

 

  送秋山眞之米国行(あきやまさねゆきべいこくゆきをおくる)

 君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く

 

の一句は、居士の心境を知る上から看過すべからざるものである。

[やぶちゃん注:「一噱」(いつきゃく)は「一笑」に同じい。「噱」は「大笑(たいしょう)」の意。

「秋山真之」(慶応四(一八六八)年~大正七(一九一八)年)はここにある通り、海軍軍人。最終階級は海軍中将。ウィキの「秋山真之によれば、『松山城下の中徒町(現在の愛媛県松山市)に松山藩の下級武士・秋山久敬の』五『男として生まれ』、『地元の漢学塾に学び、和歌なども習う。親友の正岡子規の上京に刺激され、愛媛県松山中学校(現在の松山東高校)を中学』五『年にて中退』、明治一六(一八八三)年には、『将来の太政大臣を目指すために東京へ行き』、『受験準備のために共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学』、『大学予備門では帝国大学進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古』(陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。「日本騎兵の父」と称された。この当時は陸軍騎兵中尉)『に学費を頼っていたため、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む子規らとは道を異にし』、明治一九(一八八六)年に海軍兵学校に第十七期生として入校、明治二三(一八九〇)年に『海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね』、明治二五(一八九二)年には海軍少尉となった。『日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には巡洋艦「和泉」分隊士』となり、明治二十九年には『横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生』となって『水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第』二『水雷隊付になる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる。同年』十一月『には軍令部諜報課員として中国東北部で活動』している。明治三一(一八九八)年に『海軍の留学生派遣が再開されると』、『派遣留学生に選ばれるが、公費留学の枠に入れず』、『はじめは私費留学』として、前年の、この明治三十年に『アメリカへ留学した』。渡米後は『ワシントンに滞在』、『海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。このとき』、『米西戦争を観戦武官として視察し』、『報告書「サンチャゴ・デ・クーバの役」(後に「極秘諜報第百十八号」と銘うたれる)を提出する。サンチャゴ・デ・キューバ海戦の一環としてアメリカ海軍が実施したキューバのサンチャゴ港閉塞作戦を見学しており、このときの経験と報告』『が日露戦争における旅順港閉塞作戦の礎となったとも指摘されている』。翌明治三二(一八九九)年『末にイギリス駐在を命じられ、視察を行い』、翌年の八月に帰国した。この年には『海軍省軍務局第』一『課員、常備艦隊参謀になり』、明治三十四年に海軍少佐となり、翌年『には海軍大学校の教官となる』。明治三六(一九〇三)年六月、『宮内省御用掛・稲生真履の三女である季子と築地の水交社で結婚。対露開戦論者として湖月会のメンバーとなって日露開戦を積極的に推進した。翌』明治三七(一九〇四)年には海軍中佐に昇進し、『第一艦隊参謀(後に先任参謀)』となった。この頃、『朝鮮半島を巡り』、『日本とロシアとの関係が険悪化し、同年からの日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第』一『艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。ロシア海軍旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅と封鎖のための旅順口攻撃と旅順港閉塞作戦においては先任参謀を務め、機雷敷設などを行う。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた』。明治三八(一九〇五)年十二月の『連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第』一『艦隊の参謀長を経て』(明治四十一年には海軍大佐となっている)、大正元(一九一二)年十二月一日からは『軍令部第』一『班長(後の軍令部第』一『部長)に任ぜられる』。となり、大正二(一九一三)年には『海軍少将に昇進』した。翌大正三(一九一四)年に発生した『軍艦建造を巡る疑獄事件であるシーメンス事件』では、調査委員会の『委員の一人に指名され』ている。『軍務局長時代には、上海へも寄港する巡洋艦「音羽」に乗艦して中国を実地見聞し、留学生の受け入れなどを提言している。また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に革命運動を援助。小池張造らと同志を集め、革命運動を支援する“小池部屋”を結成。久原房之助など実業家に働きかけ』などをしているが、『その後、軍令部転出となったため、対中政策からは離れ』た、などとある。]

 

 七月に入って居士は徐に元気を取戻した。三日、十八日の両度に俳句会を催しているのをはじめ、『日本』に「病牀苦吟」を掲げ、『ホトトギス』には「試問」を寄せて答を募ることになった。「病んで雨ふる。筆をとらんとすれば詩想既に消えて復尋ぬべからず。生きて諸君に負(そむ)くこと多し。いさゝか問題を掲げて一考を煩す。蓋し余が消閑の惡戲のみ」とあるけれども、実は前年の「俳句問答」と反対に、居士の方から問題を出して、後進の指導誘掖(ゆうえき)を図ろうとしたものである。この「試問」は『ホトトギス』が松山で出ている間、あとから次々に課され、前号の答と併せて誌上に掲げられた。『ホトトギス』にはこの外になお『日本』に出た「俳人蕪村」が転載されるようになった。

[やぶちゃん注:「誘掖」力を貸して導いてやること。]

 

 八月二日、山本木外氏から台湾の筆と帳面とを贈られたのを機会に、居士は珍しく日記をつけはじめた。居士はあれだけ筆まめであったにかかわらず、二十五年秋から翌二十六年秋までの分の外、あまり伝わっているものがない。木外氏所贈(おくることろ)の帳面は、上欄にその日の事を記し、下の罫のところに俳句を書きつけているが、その第一日の条に病状その他が詳記してあるから、ここに挙げて置く。

[やぶちゃん注:「山本木外」不詳。なお、この病床日記の一部の画像が「虚子記念文学館報」(二〇一七年十月第三十四号)に載り、説明文にこの名があり、そこには筆と帳面は『台湾土産』とある。

 以下、底本では二字下げ。前後を一行空けた。]

 

頃日(けいじつ)用フル所ノ藥餌

一炭酸クレオソート二粒宛三度(食後)

一散藥(興奮剤)一日四包

一水藥三度

一ブランデー十グラム位宛三度(食時)

一朝飯 雞卵半熟一個、牛乳一合半位、多ク珈琲ヲ加ヘテ飮ム

一午餐 隔日牛肉(淡路町中川ノロース二十錢)牛肉ナラヌ日ハ魚肉三椀位、野菜一皿

一晩餐 魚肉、粥、野菜             ゆ烹

一牛乳三合、其内半ハ朝飮ミ殘リヲ二分シテ午後三時頃ト八九時頃トニ飮ム(湯煎)

一牛肉スープ隔日(一斤十八錢位ナルヲ湯煎ニス)

此外間食スルヿ多シ、医師ハ隔日位ニ來リ背ノ繃帶ヲ更ヘ膿ヲ絞ル。近日體ヲ動カスヿ多キヲ以テ膿ハ自ラ押シ出サレ、故(ことさ)ラニ絞ルモ出ヌ事多シ。体温ハ朝六度位、夕七度四五分位ナルヲ例トス。左足引キツケテ立ツコト能ハズ、左ノ腰ナホ痛ム。仰向(あほむけ)ニ臥シ又ハ左ヲ下ニシテ寐(い)ヌルトキハ咳嗽(ガイソウ)[やぶちゃん注:咳(せき)。]ヲ發ス。每日浣腸ス。

 

 三十年大患後の状態について、これほど委しく記されたものは他に見当らない。食事の分量に関する記載が少いけれども、已に健啖(けんたん)[やぶちゃん注:盛んに食べるさま。]人を驚かすものがあったのではないかと思われる。

 

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