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2018/04/19

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 厄月の五月

 

     厄月の五月

 

 居士の容態は春を過ぎてもよくならず、厄月の五月に至って最も悪くなった。『ホトトギス』及『日本人』には四月以降居士の執筆にかかるものが見えなくなり、たまたまあるものは若干の俳句に過ぎぬ。『日本』紙上にも「俳句と漢詩」の稿を了え、「吉野拾遺の発句」を掲げた後、「俳人蕪村」を連載しはじめたが、五月中病のために中絶した。前々年松山滞在中鳴雪翁に宛てた手紙に、世人が居士の一派を目して蕪村派と称することをいい、「小生歸京後都合によれば一篇の「蕪村論」を書くつもりに御座候」とあったが、その後執筆の機を得ず、この時に至ったのである。

[やぶちゃん注:「厄月の五月」正岡子規個人の思い込みで、暦占上の厄月とは無関係。先行する「明治二十八年 喀血遼東海」(かっけつりょうとうかい)に、「本郷台及遼東海における大喀血がいずれも五月であったのは、後来五月を厄月とする因をなすもの」とあった。

「俳句と漢詩」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」ので読める。

「吉野拾遺の発句」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のこちらで読める。なお、「吉野拾遺」は、南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集であるが、ウィキの「吉野拾遺によれば、『跋文と本文によると、かつて南朝の廷臣であり、後醍醐天皇の崩御に際して出家・遁世した松翁(しょうおう)という人物が』正平一三(一三五八)年に『自らの見聞を記したものという』が、説話の中に元中元/至徳元(一三八四)年撰の「新後拾遺和歌集」『所収の和歌が含まれることから、成立はこれ以降の室町期に下るとみられ、また、作者松翁の正体に関しても』『諸説があってはっきり』せず、『近年では、松翁に仮託して室町後期に偽作されたとする説が有力である。成立年代の下限は』天文二一(一五五二)年と推定されているとある。]

 

 三月二十八日虚子氏宛の手紙に「小生前日來ある人より芭蕉傳を草しくれよとたのまれ居(をり)、尤(もつとも)頻りに辭退して洒竹(しやちく)などをすゝめたれど聽かれず、已むなく紀行をちゞめたる傳記(評論はなし)を草し候。其節花屋日記(芭蕉死時の日記)を取り出し見たるところ讀むに從ひて淚とゞまらず、殊に去來が狀を見たる其場より立ちて急ぎ來り芭蕉と對面の場に至り鳴咽不能讀(よむあたはず)、少し咽喉をいため申候」とあり、また「小生神戸入院以後淚もろくて病床にある時も傍に人なき折は時々泪を浮べ申候、古白を想ひ出したる時など多く候。花屋日記をよめばいつにても少し泣き居候へどもこの度の如く咽のいたくなり候事は無之(これなく)候」ともいっている。この芭蕉伝を依頼した「ある人」なる者は誰であるかわからぬが、この原稿は居士生前には発表されず、歿後金尾文淵堂の手に入って、原稿のまま木版にして刊行された。行脚俳人芭蕉』がそれである。「吾れ日本二千餘年間を見わたして、詩人の資格を備ふること芭蕉が如きを見ず。只彼がために今十年の命を長うせざるを惜むのみ」というのがその結語であった。居士が「俳人蕉村」と前後して『行脚俳人芭蕉』を草しているのは、慥に注目すべき事実である。蕪村のために多くの言辞を費したに反し、芭蕉の方を簡単に片付けてしまったのは、評論を省いた関係もあるが、蕪村は居士によって新な評価を与えられたので、世人の多く顧みぬ点を顕揚(けんよう)する必要があったためであろう。一方に偏したわけではない。

[やぶちゃん注:「花屋日記」真宗僧で俳人の文暁(ぶんぎょう 享保二〇(一七三五)年~文化一三(一八一六)年:俗姓は藁井(わらい)。肥後八代の真宗仏光寺派正教(しょうきょう)寺(熊本県八代市本町に現存)住職。蕉風俳諧の復興に尽力した僧蝶夢らと親交があり、小林一茶は彼を慕って寛政四(一七九二)年暮から三ヶ月に渡って同寺に滞在したという)の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)は上下二巻。上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、芥川龍之の「枯野抄」の正秀(せいしゅう)の如く慟哭した正岡子規には非常に悪いのだが、現在では、多量の先行資料を組み合わせて文暁が創作した偽書であることが判っている。但し、私は正岡子規の感涙の気持ちは、よく判る。それほど、この創作は上手いのである。私は実はブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で「花屋日記」の全電子化注釈を完遂しており(タイトルは『偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」』で全十二回)、サイト「鬼火」の心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇で、その一括PDF縦書も公開しているので参照されたいが、ブログ版で指示すると、「去來が狀を見たる其場より立ちて急ぎ來り芭蕉と對面の場」は、である。]

                               

 『花屋日記』の事は「芭蕉雑談」の中にもあった。居士自身もかつて旅に病んで、碧、虚両氏の看護を受けた経験があり、今また大患の牀(とこ)に橫(よこた)わりつつある。『花屋日記』が異常に居士を動かしたのは、単に境遇の相通ずるためというよりも、病者にしてはじめて会する消息があるものと思われる。

[やぶちゃん注:「芭蕉雑談」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のこちらで読める。当該箇所は(右頁)であるが、そこでも子規は『實に世界の一大奇書なり』とし、『芭蕉死後百數十年間人の筐底にありて能く保存せらたるは我等の幸福にして芭蕉の名譽なり』と大絶賛している。]

 

 虚子氏宛の手紙にはこうも書いてある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

小生は感情の上にては百年も二百年も生きられるやうに思ひ居候故に病氣のために遠大の事業をやめる抔申すことは無之候。

併し道理の上よりは明日にも死ぬるかと存候。淚もろきも衰弱の結果にして死期の近づきたるものと斷定致候。但いくら道理で斷定しても自分は明日や明後日にはとても死ぬ事などは思ひもよらずと存候。

感情が正しきか道理が正しきかといはゞいふ迄もなく道理正しく候。それにも拘はらず感情正しきやうに思ふは卽ち凡夫の凡夫たる所以に候。人間が凡夫でなかつたら樂もへちまもあつたものには無く候。

 

 四月に入ってからは縁側に出て萩や芒の芽を眺め、屋根越に加賀邸の桜を望んだりして、「萩の芽が三寸位になれば去年の例に従ひ少しは心よくなるべきかと樂(たのしみ)居候」といい、「腫物なくば車にていでましものをと存候」と大原恒徳氏宛に申送った位であったが、それは空恃(そらだの)みに過ぎなかった。五月末は最も工合が悪く、四、五日間も九度以上の熱が続いて一向下らない。「先づ小生覺えてより是程の苦みなし」というほどの状態に陥ってしまった。松山で極堂氏らが協議して、誰か看護のために上京させようとしたが、手のぬける人がないので実現されなかったのはこの時である。在京の知友門下は相次いで見舞い、交代して病牀に侍することになった。六月十日から十五日まで、その看護者によって記された日記が残っているが、居士はその辺から漸(ようよ)う快方に向い、看護日誌は幸に『花屋日記』にならずに済んだ。

 「病來殆ど手紙を認めたることなし。今朝無聊輕快に任(まか)せくり事申上候。蓋し病牀に在りては親など近くして心弱きことも申されねば却て千里外の貴兄に向つて思ふ事もらし候」といって、熊本の漱石氏宛にかなり長い手紙をしたためたのは、看護日誌のなくなった六月十六日であった。

 

 余命いくぼくかある夜短し

 障子あけて病間あり寄薇を見る

 

の二句がその末に記されている。

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