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2018/04/30

オウムガイ(松森胤保「両羽(りょうう)博物図譜」より)

 

[やぶちゃん注:画像は酒田市立図書館が「慶応義塾大学HUMIプロジェクト」の協力によって全五十九冊をデジタル化した同図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」のものを用いた(以下の理由から、トリミングや補正は一切、行っていない)。当該「両羽博物図譜の世界」には本画像の使用についての注意書きがどこにも書かれておらず、ネット検索を掛けると、個人ブログやSNSの投稿に多数使用されており、それらが同図書館から削除要請された形跡がないこと、文化庁のパブリック・ドメインの平面的作物をそのまま写した写真には著作権は発生しないという見解があること等から、画像を掲げて翻刻することにした。万一、同図書館から削除要請があれば、画像は削除する。翻刻は私が行った。因みに、上記「両羽博物図譜の世界」ではかなりの図について電子化翻刻がなされて付随してあるが、本図については行われていないので、私のオリジナルである。なお、私は一九八八年八坂書房刊の磯野直秀先生の解説になる「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」(抄録で約百四十図を載せる)を所持しており、その図版解説や巻末にある詳細な「松森胤保と『両羽博物図譜』」の解説を参考にさせて戴いた。

 松森胤保(たねやす 文政八(一八二五)年~明治二五(一八九二)年)は博物学者で、もとは庄内藩支藩の松山藩付家老であった。ウィキの「松森胤保」(二重鍵括弧部分はその引用)及び上述の磯野先生の解説、また、酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の「松森胤保の人物像」によれば、庄内藩士長坂市右衛門治禮(読み不明。「はるゆき」「はるのり」「はるあき」などとは読める)の長男として鶴岡二百人町(現在の鶴岡市)に出生した。『幼少時より』、『自然観察に優れ、海岸で綺麗な石を採集したり』、『小鳥を飼育したほか、鉱物や昆虫、化石、石器、土器等に関心を寄せ』、十二歳頃からは、『鳥の絵を数多く描いた』、十三歳で『藩校致道館に入り、儒学の素養に励むとともに書道にも才能を発揮』した。十四歳頃に『描いた鳥の図が「大泉諸鳥写真画譜」に残』っている。十六歳で『藩士・旅河平次兵衛から大坪本流の馬術を習い、この年の夏元服して名前を「胤保」と改め』ている。十八歳で『宝蔵院の槍術を学び、加えて居合、砲術、水練も習得』、二十二歳で『結婚するもまもなく離婚』、三十二歳で『藩医・松山道任知剛の長女鉄井と再婚』し、五男六女に恵まれた。文久二(一八六二)年、三十八歳で『長坂家を相続、翌年』六月には『出羽松山藩付家老に任ぜられ』た。元治元(一八六四)年には『江戸詰めとなり、市中警備に当たる一方、小鳥屋や見世物小屋、書籍店などを回り、見聞を広め』た。『家老職だけに許された猟銃も使えた』。慶応元(一八六五)年五月に松山に戻ったが、その年から慶応三(一八六七)年初冬までの二年半余は銃猟に明け暮れて過ごした。同年十二月四日には命を受けて江戸へ上り、江戸市中の警護に当たったが、折しも大政奉還(慶応三年十月十四日(一八六七年十一月九日)直後で、江戸は騒然としており、それに乗じて薩摩藩が浪人等を使って、騒擾を起していた。その挑発に乗った幕府が十二月二十五日、幕府兵並びに庄内藩等に命じて三田の薩摩藩邸を焼き討ちさせた(戊辰戦争の端緒となった事件。ここの部分は概ね、磯野氏解説に拠った)。この時、胤保は『庄内藩先鋒として松山藩兵の指揮を執っ』ている。慶応四(一八六八)年)四月には『軍務総裁に任ぜられ』、五『月には奥羽越列藩同盟結成に当たり、七月に『庄内戦争が勃発すると、松山藩一番隊長兼庄内藩一番大隊参謀として出征、新庄』、中村、横手、花楯、角館、上淀川『を転戦、いずれも勝利を収めた。この間の軍功により松山藩主から「松守」姓を賜る』。その時は固辞したが、辞退は許されず、明治三(一八七〇)年になって、漸く「松森」に変えて名乗るようになったという(磯野氏解説)。『戊辰敗戦後の』明治二(一八六九)年、『松山改め松嶺藩の執政、公儀人に任ぜられる。東京で写真機や顕微鏡を入手したの』は、この頃であった。その後』、『同藩大参事、松嶺区長、旧松嶺藩校里仁館惣管兼大教授、松嶺開進中学校長等を歴任、多難な戦後処理と新体制移行業務全般を司』った。明治一二(一八七九)年に鶴岡に戻り、明治一四(一八八一)年には山形県会議員、次いで明治十七年四月に『酒田町戸長とな』ったが、翌明治十八年七月、病のため、六十一歳で総ての公職を辞した。『晩年は研究著述に専念』し、『奥羽人類学会会長として尽力』、その間、長年かけて綴ってきたこの「両羽博物図譜」や、「南郊開物径歴」(これは『洋式築城方式の設計、自転車理論、水陸両用車、飛行機、綿縫器(ミシン)等のアイデアを披瀝』したもので、『発明家としても面目躍如ぶりをみせ』たものである)の完成に尽力したが、明治二五(一八九二)年四月、鶴岡にて逝去した。享年六十九。『胤保は公職に精励する一方、動植物学、物理学、化学、工学、歴史学をはじめ』、『音響学、建築学、民族学、考古学、人類学等多面的な研究に没頭、生涯に三百冊を超える膨大な著述を成した。どんな物事についても』、『文章で表現するとともに、細密な自筆の絵を加えているのが』、特徴で、『酒田市立光丘文庫所蔵の松森文庫』百八十七『冊はその主なものだが、特に』この「両羽博物図譜」は『圧巻で、その分類法において』、『近代のそれに迫るものがある』とする。『慶應義塾大学名誉教授で理学博士の磯野直秀は「日本を飛び越えて大英博物館から目をつけられても不思議ではない」と言っており、また植物学の権威牧野富太郎理学博士も』昭和五(一九三〇)年八月、光丘文庫を訪れ、「両羽博物図譜」を見て、『感嘆の言葉を述べ』ている。胤保は、その著「求理私言」(明治八(一八七五)年四月著の地学・宇宙論)で、『「太古世上には微細な生物が化生によって出現し、これは子生によって代を継ぎ進化によって複雑化し、動物では偶生変、交接変が行われたと考え、植物では子生変、交接変、尾生変、枝生変によるものとする」と記して一種の進化論を説い』ているが、これは明治十年にエドワード・S・モースがお雇い外国人として来日し、東京大学で『チャールズ・ダーウィンの進化論を紹介する以前のことである』とある(因みに私はブログ・カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳でモースの日本での体験記録の全電子化注を完成させている)。酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の「松森胤保の人物像」の最後には、『松森胤保は、動物学、植物学、考古学、物理学、天文学、民俗学など多彩な調査と研究に取り組み、合わせて政治家としても活躍した。小さなものはミジンコから大宇宙にわたり、飛行機の発想までも考え残した人物胤保は、西洋のレオナルド・ダビンチにも匹敵する博物学者であった』とある。

「両羽博物図譜」(兩羽博物圖譜)は「酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の松森胤保の「著作一覧」及び上記の「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」の磯野直秀先生の解説によれば、「両羽博物図譜」は天保一三(一八四二)年九月から逝去に至るまで、実に半世紀にも亙って書かれたもので、「両羽獣類図譜」二冊(動物分類・名称・発生・人類の起源等の上巻と、下巻の哺乳類図譜六十点)・「両羽禽類図譜」十四冊(鳥類。最初の二冊が総論、残りが図譜で六百五十六点)・「両羽爬虫図譜」一冊(爬虫類。三十五点)・「両羽魚類図譜」四冊(魚類ほか。哺乳類七種、魚類約百四十五種、円口類二種)・「両羽貝螺図譜」二冊(貝類他。洋書からの模写と思われるものを除いて四百十七点。海産動物は貝類二百四十八点、頭足類九点、甲殻類五十六点、腕足類三点、棘皮動物二十五点、腔腸動物六点、海鞘(ホヤ)類二点などで、淡水動物は貝類二十五点、甲殻類二十点。陸生貝類が十四点。陸生扁形動物一点のほかに化石十八点を所載する)・「両羽飛虫(とびむし)図譜」八冊(昆虫類ほか。第一冊から第三冊まではミツバチを、第五冊と第六冊に蝶蛾を当て、残りの三冊で多足類や蜘蛛を含む虫類四百二十一点)・「両羽植類図譜」二十八冊(植物類(十七点の珊瑚等の腔腸動物とコケムシを含む)。総論一冊、キノコ類一冊、海藻類を含む「水植物」一冊。全二千九百点弱)の全五十九冊(八帙に分納)に及ぶ、膨大な図譜群の総称である。]

 

019

 

□翻刻1(原典そのまま)

〈右頁〉

裁断圖

 

〈左頁〉

真物臨寫

 明治二十二年

  四月一日

 

一小物ノ

上頭ヲ切去テ少シク其内

部ヲ見ル青色ノ所ハ青

白光

 

□翻刻2(カタカナをひらがなにし、諸記号を加え、一部に読み易さを考えて( )で歴史的仮名遣で読みと送り仮名や、語を添えた整序版)

〈右頁〉

裁断圖

 

〈左頁〉

真物(しんぶつ)の臨寫。

 明治二十二年四月一日

 

一(ひと)つの小さき物の、上の頭を切り去りて、少しく、其の内部を見る。青色の所は、青白く光れり。

 

[やぶちゃん注:底本とした酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」では「魚類図譜 貝螺変部」の中の一図(冒頭注で示した「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」では「兩羽貝螺圖譜」の中の一図とする)。右頁最下段の図はイカで本図とは無関係。何故、松森がこれをここに描いたかは不明。にしても、この巻貝のようなものが、頭足類のであることを、どこからか聞き伝えしていて想像でこんなものが、この貝の中にいたかも、という想像図を描いたのではないかと思われてならない(従って私はこのイカの種同定をする気になれないのである。悪しからず。


 ここに描かれた四つの図は、言わずもがな、「生きた化石」とも称される、

頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属オウムガイ
 Nautilus pompilius

である。「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」でも磯野先生は同種に確定同定されておられ(但し、同書の掲載図は左頁の二図のみ)、その解説で『生息地はフィリピンや南太平洋だが、死後もガスの浮力で殻は海面を漂い、黒潮に乗って北上、対馬海流に入ったものが時折酒田辺までたどりつく』と言い添えておられる。但し、右上の二つの図は別種の可能性を否定出来ない左の松森が実際に観察して描いた個体と、右の図のそれは同一物でないことは、殻口部の形状の違いからはっきりしており、そもそも左の下図では殻の巻いた奥の箇所を水平にカットしているのだから、右のような断面図は描けないことから考えても(複数個体を入手したとなれば可能ではある。「一(ひと)つの小さき物」と言っているところはその可能性を高めてはいる)、別個体であることは明白で、私は右の二図は他の博物画(洋書である必然性はない。私の毛利梅園の「梅園介譜」の「鸚鵡螺」を見よ。但し、裁断図があるのは洋書の方が可能性は高いかも知れぬ)から転写したものではないかと思っており、或いはその書にとんでもない噓の軟体部として最下部のイカの図が添えられていたのではないか? とも疑っているのである。何故なら、そう考えたときに初めて、この唐突なイカの絵の意味が私には腑に落ちるからである

 ウィキの「オウムガイ」によれば、『殻に入った頭足類で、南太平洋〜オーストラリア近海に生息し、水深およそ』百メートルから六百メートル『に棲む。深海を好むというイメージもあるが、水深が』八百メートル『を超えた所では』、『殻が水圧に耐えきれず』、『壊れてしまう。その祖先(チョッカクガイ』(頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱直角石(オルトセラス)目† Orthocerida。古生代のオルドビス紀中期(本種はその示準化石)に繁栄した)『に近い)は』四億五千万年前~五億年前に誕生しており、本種はその時の『原始的性質を色濃く残した生物とされる』。『餌を捕食するために』九十『本ほどの触手を使い、触手にあるたくさんの皺で』、『ものに付着する。触手のうち、上面にある二つの触手の基部が分厚くなって融合し、帽子のような形状を作り殻の口に蓋をする働きを持つ。何かに付着する以外には、触手を運動に使わない』。『眼は短い柄の先に付いて、外側が平らになった独特の形を持つものであるが、これはピンホールカメラ方式である。すなわち、タコやイカのカメラ眼とは異なり、レンズの構造がないため、視力はよくない』が、『水の中に落ちた化学物質には素早い動きを見せる』。『イカやタコと同じく漏斗(ろうと)と呼ばれる器官から噴き出す水を推進力にして、体を軽く揺すりながらゆっくりと運動する。主な餌は死んだ魚介類や脱皮した殻などである。俊敏に移動できないので、イカやタコのように生きた魚介類を捕まえて食べることができない。イカやタコとは異なり、墨汁の袋は持っていない』。『また、タコやイカが一年、もしくは数年で死んでしまうほど寿命が短いのに対し、オウムガイの寿命は長く、十数年~二十年近くも生きるといわれるが、それは殻の生成による時間がかかることによる成長の遅さが起因しており、それは殻を完全に退化させ、成長速度を速めたタコやイカと対照的である』。『オウムガイの殻は、巻き貝のそれによく似て見えるが、内部の構造は大きく異なる。巻き貝の殻は、奥までが一続きでほとんど奥まで肉が入っているのに対し、オウムガイの殻の内部には規則正しく仕切りが作られ、細かく部屋に分けられている。もっとも出口に近い部屋が広く、ここに体が収まり、それより奥は空洞である』。『この空洞の部分にはガスと液体が入っており、浮力をそこから得ている。このガスと液体の容積の比率を調節することによって』、『自分自身の全体としての比重を変化させて浮力の調整をしている。ガスと液体の容積の調整は弁のような機構的な構造によるものではなく』、『液体の塩分濃度を変化させることによる浸透圧の変化によって水分を隔壁内外へ移動させる事で行う。そのために海水中での深度調整の速度は他の海洋生物に比べると遅い』。『死んで肉が無くなると』、『殻が持つ浮力のために浮かびやすく、海流に乗って長距離を流される事もあり、日本沿岸にもよくその殻が漂着する』。『頭足類であるから、タコやイカに近いことになるのだが、イカとタコには多くの類似点が認められるのに対してオウムガイは異なるところが多い。そのため独立した亜綱に分類されている』。『殻の形態や構造は中生代のアンモナイト』(頭足綱アンモナイト亜綱†Ammonoidea)『にも似ているが、むしろそれより古く、古生代のチョッカクガイなどと共通の祖先を持つ(アンモナイトはイカやタコに近縁とされる)。チョッカクガイ』は『現生のオウムガイと違い、殻は槍の先のように真っ直ぐに伸びていた。因みに、オウムガイがチョッカクガイの直系の子孫にあたるという説もあったが、現在では否定されている』。『現在オウムガイの仲間として確認されている種はオウムガイ』の他、パラオオウムガイ(Nautilus belauensis)・ヒロベソオウムガイ(Nautilus crobiculatus)・コベソオウムガイ(Nautilus stenomphalus)・オオベソオウムガイ(Nautilus macromphalus)『等である。基本的に、名前の呼び方はオウムガイだが、たまに、「オオムガイ」と呼ぶこともある』。『日本語のオウムガイは、殻を正位置に立てた場合、黒い部分(生息時は、ここに「ずきん」が被っている)がオウムの嘴に似ている為にこの名がついたものである。英名はノーチラス(Nautilus)で、ギリシャ語』の“nautilos”、「水夫・船舶」の意である。

「真物」本物。

「明治二十二年」一八八九年。]


 

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