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2018/04/12

進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(1) 序 / 一 野生動植物の通性

 

    第十四章 生態學上の事實

 

 第九章より前章に至るまでの間に述べたことは、生物進化の證據ともいふべき事實、竝に生物進化の實際の事蹟であるが、孰れも生物種屬は永久不變のものではなくて、漸々進化し來つたものであることを明瞭にするだけで、生物の進化は何によつて起つたかといふ問題に關しては、以上の事實だけではまだ何等の手掛を得ることも出來ぬ。ダーウィンの自然淘汰説によれば、生存競爭の結果、代々少數の適者のみが生存して子を遺すから、この自然の淘汰によつて生物種屬は漸々進化して行くといふのであるが、之は單に理窟だけを考へてもさうありさうな上に、動物の生活狀態を調べると、その證據ともいふべき事實が殆ど無限にある。之を逐一述べると、そればかりでも一册の大きな生態學書となる程故、こゝには單にその中から最も著しいものを若干だけ選んで説明するに止めるが、これらを見れば、生物進化の原因は生存競爭であることが明に解る。尤もこの以外に生物進化の原動力はないといふ證據にはならぬが、兎に角自然淘汰が進化の主なる原因であつたことは十分に推察することが出來る。それ故、本章に於て述べる所は、先づ自然淘汰説の論據とも名づくべきものである。

 

     一 野生動植物の通性

 

 野生動植物といへば、範圍が極めて廣いから、その中には如何なる形狀を有するものも、如何なる生活を營むものもあるが、これら總べてに通じて見出すことの出來る點はたゞ一つある。それは卽ち各種屬に於て發達せる構造・性質は悉くその持主である動植物に有用なものばかりで、一として他の動植物に都合好きために態々[やぶちゃん注:「わざわざ」。]存するものがないといふことである。人間が長い間飼養した動植物では、各々人間に都合の好い性質が發達し、乳牛は自分に不必要な多量の乳汁を人間のために分泌し、綿羊は自分に不必要な多量の毛を人間のために生じ、八重櫻は生殖の役に立たぬ美麗な花を人間のために咲かせ、溫州蜜柑は種子のない果實を人間のために熟させるなど、一として人間のためならざるはない。之は人爲の淘汰により代々人間に利益ある點を標準として選擇した結果故、斯くあるべきが至當であるが、さて野生の動植物は如何と見るに、この方ではたゞ自然の淘汰によつて進化するばかり故、各々一種屬の秀でた點は、たゞ生存競爭上、その持主自身に取つて都合の好いもののみで、甲の動物のみに利益ある性質が乙の動物に具はつてあるといふやうな場合は決してない。若し一つでも確にかやうな例があつたならば、自然淘汰の説は全く取消さねばならぬ理窟であるが、實際今日まで斯かる例が一つとして發見せられぬ所を見れば、これだけでも、自然淘汰の説は餘程眞らしく思はれる。

 生物の增加する割合を計算して見れば、實に盛なもので、若し生れた子が總べて生長し、生殖したならば、忽ち地球上には乘り切らぬほどになる譯であるが、食物その他の需要品には各々制限がある故、同種内にも異種間にも、常に劇烈な競爭の絶えることはない。その次第は既に第七章に於て述べたが、斯く競爭が行はれて居る以上は、一の動物に有益な構造・性質は、之と利害の相反する敵に取つては頗る不利であるは無論のことで、例へば鶴の嘴や頸の長いのは、鶴白身が水中から餌を拾ふに當つては至極使利であるが、食はれる泥鰌の方からいへば、之程不利益なことはない。また甲の鳶の眼の鋭いことは、その鳶自身に取つては極めて有益であるが、同一の食物を搜して之と競爭の位置に立つ乙・丙等の鳶に取つては、決して有難くないことである。總べてかやうな理窟で、生物の各種屬・各個體には皆自分だけの利益になり、多數の他の生物種屬及び個體の迷惑になるやうな點が特に發達して居るが、生物は皆生存競爭の結果、自然淘汰によつて進化し來つたものとすれば、之は素より當然のことである。若し之に反して、西洋諸國で從來いひ傳へたやうに、天地創造の際に全智全能の神が、動植物の各種を一々別に造つたものとしたならば、同一の手になつた製造品が各々斯く相互に迷惑になるやうな性質を具へて居ることは、何ともその意を解することが出來ぬ。實際生物界の有樣を見るに、猫の方に鼠を捕へて食ふための鋭い爪、尖つた齒、敏い鼻などが、十分に具はつてあれば、鼠の方にはまた猫に捕へられぬために活潑な足、鋭い耳などが發達してあるから、如何に猫でも怠けて居ては鼠を飽食することは出來ぬ。また大に勞力を費しても、鼠が小い穴に入つてしまへば、之を捕へることが出來ず、折角の骨折も全く無益に終ることも屢々あるから、鼠の運動・感覺の發達は、猫に取つてはこの上もない不利益である。之は最も卑近な例に過ぎぬが、凡そ地球上にある生物の生活の有樣は、總べてこの通りで、如何なる種類を取つても、皆他を殺すため、他に殺されぬため、他を食ふため、他に食はれぬための性質が發達し、その競爭によつて自然界の平均が暫時保たれて居るのである。若し之が同一の神の手によつて造られたものとしたならば、その神の所行(しわざ)は恰も一方の動物に矛を授け、一方の動物に楯を授けて、之を以て互に烈しく相戰へと命じたと同樣なわけに當り、從來詩人などの屢々歌つた自然の調和といふものは、矛の鋭さと楯の堅さとが相匹敵したために、暫時勝負の附かぬその間の睨み合の有樣を指すことになる。著者が、曾て東京の或る基督教會の説教を聞きに行つたときに、「エホバの智慧」とかいふ題で、牧師が種々の動物のことに就いて述べた中に、「猫の鬚は左右合はせると丁度身體の幅だけあるから、鼠を追うて狹い處に飛び込むとき、之によつて自分の身體がそこに入るか否かを直に知ることが出來る。之は猫に取つては極めて便利なことで、若し之がなかつたならば、狹い處に知らずに飛び込んで挾まつてしまふ筈であるが、鬚がある故、そのやうな心配もなく鼠を捕へることが出來る」とか、「鮫の口は頭の尖端にはなく、頭の腹面にあるから、人の泳いで居るのを食ふには、先づ腹を上へ向けるために體を轉じなければならぬが、その隙に人間が逃げることが出來る」とかいふて、之を基として、神は斯の如く智慧と慈悲とに富んであらせられるとの結論に及んだが、事實の眞僞はさておき、若し神が猫に都合よき性質を與へたとしたならば、鼠に取つては之ほど迷惑なことはない。また鮫の方もその通りで、餌を食ふに當り一々體を轉じなければならず、その間に餌が逃げてしまふやうな仕掛に造られては、鮫は、そのため往々餓死することなどもあつて、定めて神を恨んで居るであらう。これらは素より強いて駁すべき程のことでもないが、少數の事實を取つてその半面だけを見ると、或は斯かる考が起らぬとも限らぬから、例に擧げたに過ぎぬ。

 前にも述べた通り、野生の動植物は如何なる種類を取つて見ても、生存競爭の際にその持主に都合の好い構造・性質が發達して居るものであるが、その有樣は本章に於て之より説く如く、實に人工の到底及ばぬ程の巧妙なものが澤山にあり、また全く意表に出た面白い仕組のものも種々ある。それ故、たゞ之だけを見ると、全智全能の神でも造つたのであらうといふ考が起るかも知れぬが、その動物と利害の相反する敵である動物の側から見ると、斯かる構造・性質が巧妙に出來て居るだけ益々不利益なもの故、あれとこれとを合はせ考へれば、同一の意志に隨ひ、同一の手によつて兩方が造られたとは、どうしても信ぜられぬ。また他の動植物の利益になるばかりで、その持主には何の役にも立たぬやうな構造・性質は今日まで一つも例がないというたが、一種の動植物の有する性質を、他の種類が利用することは素より有るべきことで、例へば海岸に澤山住んで居る寄居蟹[やぶちゃん注:「やどかり」。節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類。]は、卷貝類の空いた殼を拾ひ、之を以て體の後部を保護して居る。倂し介殼は貝類の生活上最も必要なもので、たゞその不用に歸して捨てられたものを寄居蟹が拾つて利用するに過ぎぬから、斯くの如き例は自然淘汰の反對の證據とはならぬ。若し介殼が之を生ずる貝類には何の役にも立たず、たゞ後に寄居蟹に便利を與へることを目的として出來たものならば、之は自然淘汰説の豫期する所と正反對な事實であるから、たとひ一つでもかやうな例が發見せられたならば、自然淘汰説は全くその根柢を失つたと論じて宜しい。

 また生存競爭といふことがある以上は、生物各種屬が皆自己の生存のために勉めて居る働きが、偶然他の種屬に利益を與へることは無論あるべき筈である。何故といふに、一種の動物があれば必ずその敵があり、敵である動物にも亦その敵があつて、順次その先の相手がある故、一種の動物を攻めることは、卽ちその動物と利害の相反する敵を助けることに當り、一種の動物を助けることは、卽ちその敵である動物を攻めることに當るから、若し今甲なる動物が、生存の必要上常に乙なる動物を搜して食ふ場合には、乙の敵である動物、乙の敵の敵の敵である動物は、自然に甲のために利益を得ることになる。一例を擧げていへば緣(えん)の下の如き雨の降り掛らぬ乾いた地面には、摺鉢形の小な穴が幾つもあるが、その底に或る蟲の幼蟲が隱れて居て、蟻が來ると、捕へて食はうと待ち構へて居る。穴が摺鉢形故、こゝに來た蟻は皆底へ落ちて忽ち食はれるに極まつて居るから、俗に之を「蟻地獄」と名づけるが、鷄は地面の蟲を搜して步くもの故、蟻地獄の蟲を見付ければ、容赦なく之を啄(つゝ)いて食ふてしまふ。鷄には素より蟻を助ける心はないが、たゞその餌とする蟲が丁度蟻の敵に當るから、結果からいへば、蟻に大きな利益を與へることになる。通常我々が益鳥とか益蟲とか名づけるものは皆この理[やぶちゃん注:「ことわり」。]で、我々に偶然利益を及ぼすものである。

[やぶちゃん注:「蟻地獄」昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部のウスバカゲロウ類の幼虫を指す。但し、ここで丘先生の言っているニワトリがアリジゴクを本当に餌として摂餌するかどうかは私にはやや疑問がある。何故なら、彼らアリジゴクは体内にグラム陰性桿菌の一種である、プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱腸内細菌目腸内細菌科エンテロバクター属エンテロバクター・アエロゲネス Enterobacter aerogenes などの昆虫病原菌をアリジゴク自身の嗉嚢(そのう)などに多数共生させており、それに由来する強い毒物質を含むからで、例えば、殺虫活性はフグ毒テトロドトキシンの百三十倍もあるとされているからで、確かに、啄み行動でアリジゴクを突き殺すことはあっても、それを好んで多量に食うとはちょっと思われないからである。識者の御判断を俟つ。]

 

 自然界に於て、一種の動物が他の種屬に利益を與へる場合は、總べて斯くの如き次第で、他に利益を與へることは、何時も偶然の結果に過ぎぬ。益鳥と名づけ、益蟲と名づけるのも、單に我々に對する利害を標準として、結果から打算したもの故、若し標準とする所が變ずれば、今日の益蟲も明日は害蟲と名づけられるに至るかも知れぬ。芋蟲・毛蟲の類は我々の培養する野菜に大害を及ぼすから、今日は害蟲と名づけられ、之に卵などを産み附けて殺す寄生蜂は益蟲と稱せられて居るが、萬一、芋蟲・毛蟲等の利用の道が開け、野菜よりも芋蟲の方が價が貴(たか)くなるやうなことでもあらば、今日の害蟲は忽ち明日の益蟲と變じ、今日益蟲と呼ばれる寄生蜂類は忽ち害蟲の部に編入せられてしまふ。現に蠶の如きは桑に取つてはこの上もない大害蟲であるが、人間から見れば、その産物である絹絲が桑よりも數十倍も價が貴いから、一種の芋蟲でありながら、日本第一の益蟲と稱せられて居る。つまる所、益鳥も益蟲もその時々の標準により、その時々の結果から附ける名で、決して最初から、如何なる事情の下に於ても、必ず人間に利益を與へるといふやうな性質を具へて居る次第ではない。それ故、態々人間のために造られたものであるといふやうな説は到底信ぜられぬ。益鳥・益蟲に限らず、若し地球上に他の種屬に利益を與へるためにのみ生存して居る野生動物が、たとひ一種でもあつたならば、自然淘汰の説は全く潰れる道理であるが、かやうな例は今日まで一つも發見になつたこともなく、尚この後發見せらるべき望もないのである。

 

 

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