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2018/04/14

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 五 一夜富士の物語

 

     五 一夜富士の物語

 

 話が長くなるから東海道だけは急いで通らう。此方面でも地名などから、自分が見當を付けて居る場處は段々あるが、實はまだ見に行く折を得ないのである。遠州の袋井在では高部の狐塚の西の田圃に、大ダラ法師と稱する涌水の地があるのを、山中共古翁は往つて見たと言はれる。見附の近くでは磐田原の赤松男爵の開墾地の中にも、雨が降れば水の溜まる凹地があつて、それは大ダラ法師の小便壺と謂つて居たさうである。尾張の呼續町の内には大道法師の塚といふものがあることを、張州府志以後の地誌に皆書いて居る。日本靈異記の道場法師は、同じ愛知郡の出身である故に、彼と此と一人の法師であらうといふ説は、主として此地方の學者が聲高く唱へたやうであるが、それも辨慶百合若同樣の速斷であつて、到底一致の出來ぬ途法もない距離のあることを、考へて見なかつた結果である。

[やぶちゃん注:「遠州の袋井在」「高部」静岡県袋井市(グーグル・マップ・データ)であるが、「高部」も「狐塚」も不詳。識者の御教授を乞う。

「山中共古」既出既注。リンク先の「共古日錄」の注を参照されたい。

「磐田原の赤松男爵の開墾地」「磐田原」は現在の静岡県磐田市内の磐田原(いわたはら)台地。静岡県南西部の天竜川東方の洪積台地で、対岸の三方原台地と同じように、天竜川の古い扇状地の隆起したもの。東西約 四キロメートル、南北十三キロメートルで、磐田原礫層と赤土層から成り、地下水面が深く、開拓は遅れた。現在は東名高速道路が通り、磐田原パーキングエリアが設置されている。台地南端には多くの大小古墳群が散在するほか、遠江国国府の所在地や東海道の宿駅の見付があり、その付近の中泉には遠江国分寺跡がある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「赤松男爵」は「日本造船の父」と呼ばれる旧幕臣で軍人政治家で貴族院議員であった赤松則良(天保一二(一八四一)年~大正九(一九二〇)年)。戊辰戦争が勃発すると、幕府海軍副総裁となった榎本釜次郎と合流し、江戸脱走を試みるたが果たせず、徳川家臣らとともに静岡藩へ移った。静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方として徳川家のために尽くした。明治元(一八六八)年、徳川家所縁の地であった磐田原の払い下げを受け、その開墾に力を注いだ。その後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進、主船寮長官・横須賀造船所長・海軍造船会議議長を歴任し、明治二二(一八八九)年には開庁した佐世保鎮守府の初代長官ともなった。明治二〇(一八八七)年に男爵を叙爵、貴族院議員も務め、大正六(一九一七)年に辞職した。明治二六(一八九三)年に予備役となった後は、現在の静岡県磐田市見付へ本籍を移し、終の住家として旧赤松家を建造した(以上はウィキの「赤松則良」及び「静岡県観光協会」の「ハローナビしずおか」のこちらを参照した)。旧赤松邸はここ(グーグル・マップ・データ)。

「大ダラ法師の小便壺」位置不詳。

「尾張の呼續町」現在の愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。関係ないが、私の妻のかつての実家のそばである。

「張州府志」元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に編集され、宝暦二(一七五二)年に完成した尾張藩最初の藩撰地誌で、それ以降の地誌に大きな影響を与えた。

「日本靈異記の道場法師」上巻の「第三 得雷之憙令生子強力在緣」(「雷(かみ)の憙(むかしび)を得て生ましめし子、強き力(ちから)在る緣」。「憙(むかしび)」とは好意)に出る道場法師(どうじょうほうし 生没年不詳)。原典はこちら(但し、漢文で全白文)にあり、こちらに全現代語訳がある。ウィキの「道場法師」から引いておくと、飛鳥時代の僧で「日本霊異記」に於いて「道場法師」の名で登場する。『尾張国愛知郡の出身』。六『世紀後半敏達天皇の代、農夫であった父親が農作業の途中落ちてきた雷の命を助け、その結果、強力(ごうりき)の子として生まれた』。十『歳の頃、上洛して皇居の北東隅に住んでいた力のある王族と力比べをして勝った。その後元興寺(飛鳥寺)の童子となり、鐘楼堂にすむ人食い鬼(がごぜ)を退治した。このときの鬼の髪の毛が元興寺に伝わっている。その童子は元興寺の優婆塞(うばそく=在家のまま仏道修行をするもの)となった。王族が元興寺が所有する田に引水するのを妨害したが、童子はこの妨害を排除し』、『衆僧に出家・得度することを許され、道場法師と称されるようになったという』。「今昔物語集」には、『道場法師の孫娘の話が記述されており、道場法師の怪力は男には伝わらず、女方に伝わったことが語られている』。同書では『孫娘も愛知郡出身と記述されており、少なくとも聖武天皇の時代まで一族は愛知郡で暮らしていたものとみられる(ただし、氏名の記述はない)』とある。]

 

 例へば丹羽郡小富士に於ては、やはり一箕(き)[やぶちゃん注:「み」。穀物の選別や運搬に使う農具で、竹皮・藤皮・桜皮などを編んで平らな容器状にし、周囲に竹や細木を結んでU字状の縁をつけたもの。]の功を缺いた昔話があり、木曾川を渡つて美濃に入れば、いよいよ其樣な考證を無視するに足る傳説が、もう幾らでも村々に分布して居るのである。通例其巨人の名をダヾ星樣と呼んで居るといふことは、前年「民俗」といふ雜誌に藤井治右衞門氏が書かれたことがある。此國舊石津郡の大淸水、兜村とかの近くにも大平(だゞひら)法師の足跡といふものがあると、美濃古鏡考から多くの人が引用して居る。里人の戲談に此法師、近江の湖水を一跨ぎにしたと謂ふとあることは有名な話である。

[やぶちゃん注:「丹羽郡小富士」旧丹羽郡富士村のことか。現在の愛知県犬山市には尾張富士がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「前年」本「ダイダラ坊の足跡」は昭和二(一九二七)年四月の『中央公論』初出。

「藤井治右衞門」岐阜県出身か在住の研究者か。こちらの『岐阜県教育会雑誌』の(大正四(一九一五)次の目次に複数回、同名が見える。

「石津郡の大淸水、兜村」石津郡は岐阜県にあった旧郡。ウィキの「石津郡」によれば、『多芸郡を挟んで東西で飛地状態となっていた。のちに西部が上石津郡を経て養老郡、東部が下石津郡を経て海津郡となった』。『現在の以下の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない』として、大垣市の一部・海津市の一部・養老郡養老町の一部とする。但し、「大淸水」及び「兜村」は不詳。識者の御教授を乞う。

「美濃古鏡考」不詳。]

 

 奇談一笑といふ書物には何に依つたか知らぬが、その近江の昔話の一つの形かと思ふものを載せて居る。古[やぶちゃん注:「いにしへ」。]大々法師(だゞぼふし)といふ者あり。善積郡の地を擧げて悉く掘りて一箕となし、東に行くこと三步半にして之を傾く。その掘る處は卽ち今の湖水、其委土(すてつち)[やぶちゃん注:「捨て土」。]は今の不二山なりと。而うして江州に在る所の三上(みかみ)鏡岩倉野寺等の諸山は、何れも箕の目より漏り下るものといふとある。孝靈天皇の御治世に、一夜に大湖の土が飛んで、駿河の名山を現出したといふことは、隨分古くから文人の筆にする所であつたが、それが單に噴火の記事を傳へたのなら、恐らく此樣には書かなかつたであらう。卽ち神聖なる作者の名を逸したのみで、神が山を作るといふことは當時至つて普通なる信仰であつた故に、詳しい年代記として當然に之を錄したといふに過ぎなかつた。日本紀略には天武天皇の十三年十月十四日、東の方に皷[やぶちゃん注:「つづみ」。鼓に同じ。]を鳴らすが如き音が聞えた。人ありて曰ふ、伊豆國西北の二面、自然に增益すること三百餘丈、更に一島を爲す。則ち皷の音の如きは神此島を造りたまふ響なりと。伊豆の西北には島などは無く、大和の都まで音が聞える筈も無いのに、正史に洩れて數百年にして此事が記錄に現れた。しかも日本の天然地理には、斯う感じてもよい實際の變化は多かつた。乃ち山作りの神の、永く足跡を世に遺すべき理由はあつたのである。

[やぶちゃん注:「奇談一笑」西田維則 (いそく ?~明和二(一七六五)年:江戸中期の儒者。近江の人であるが、京都に住み、中国の白話小説を翻訳。漢文の用例集なども著わしている。訳書に「通俗西遊記」等)の作。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここにある「江州湖水」の最終行から次の頁の話。漢文であるが、訓点が打たれているので読み易い。

「善積郡」「よしづみのこほり/よしづみぐん」。但し、「奇談一笑」では『善澄郡』である。また、このような旧郡は古代の記載にはないようである。「古事類苑」の「地部十五」「近江國」の「郡」にある「近江國輿地志略」では(リンク先の本文を少しいじった)、

   *

近世俗間の軍記に【「江源江鑑」「淺井三代記」「織田軍記」「太閤記類」】善積郡を多く載す。近江の土俗も亦これをいふものおほし。ともに虛僞孟浪の言なり。「三正史」「六國史」「諸實錄」、善積郡の名をあぐるものをみず。「拾芥抄」に『十二郡』としるし、その十二郡の名の下に、『勢多・善積』としるす。是をもつて郡名とおもへるにや。勢多・善積は郷の名にして、「順和名抄」に、勢多は栗本郡の下にのせ、善積は高島郡の下にしるせり、是を正説とすべし。「東鑑」のごとき中世の實紀なり、是亦、善積の庄をのせて、善積郡をしるさず。是、善積郡なきこと、あきらかなり。ことごとく書を信ぜば、書なきにはしかず。正史實録を除て、稗雜の書をとらんや。いはずして明なり。

   *

「三上(みかみ)」現在の滋賀県野洲(やす)市三上にある、「近江富士」として知られる標高四百三十二メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鏡岩」甲賀市土山町の巨岩。鈴鹿峠を三重県側に少し下ったところにあると「甲賀市」の「土山町」のページにある。ここは坂上田村麻呂の鬼退治で知られるところらしい。その話もリンク先にある。

「倉野寺」不詳。現在の滋賀県や三重県内にはこんな名の山はない。識者の御教授を乞う。

「孝靈天皇の御治世」治世は不確か。「日本書紀」にあるものを機械的に西暦当てはめると、紀元前二九〇年から二一五年。

「日本紀略」平安後期の歴史書。全三十四巻。編者・成立年ともに未詳。神代から後一条天皇までの歴史を漢文の編年体で記したもの。神代は「日本書紀」、神武天皇から光孝天皇までは「六国史」からの抄録、それ以降は各種の日記・記録に拠っているが、「六国史」の欠を補う重要史料とされる。

「天武天皇の十三年十月十四日」ユリウス暦六八四年十一月二十六日。例えば、この年に富士山が噴火した古記録はない。

「三百餘丈」三百丈で九百九メートル、三百五十丈で凡そ一キロメートル。]

 

 琵琶湖の附近に於て、此信仰が久しく活きて居たらしいことは、白髭明神の緣起などが之を想像せしめる。木内石亭は膳所の人で、石を研究した篤學の徒であつたが、その著雲根志の中に次の如く記して居る。甲賀郡の鮎河(あいが)と黑川との境の山路に、八尺六面ばかりの巨石があつて、石の上に尺ばかりの足跡が鮮かである。寶曆十一年二月十七日、此地を訪ねて之を一見した。土人いふ、これは昔ダヾ坊といふ大力の僧あつて、熊野へ通らうとして道に迷ひ、此石の上に立つた跡であると。ダヾ坊は如何なる人とも知らず、北國諸所には大多(おほた)法師の足跡といふものがあつて、是も如何なる法師かを知る者は無いが、思ふに同じ人の名であらうと述べて居る。自分の興味を感ずるのは、ダヾ坊といふ樣な奇妙な名は是ほど迄弘く倶通して居りながら、却つて其證跡たる足形の大さばかり、際限もなく伸縮して居ることである。

[やぶちゃん注:「白髭明神の緣起」滋賀県高島市鵜川にある白鬚神社。全国にある白鬚神社の総本社とされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「白鬚神社」公式サイト内で「白鬚大明神縁起絵巻原文」が読める。同神社の祭神は猿田彦命で、縁起に彼が『其鼻長七咫、背丈七尋、亦口もかくれ所も赤くてれり。眼は八咫の鏡をかけたらんやうにてりかゝやく事、赤かゝちに似たり』という巨魁であったことを指すのであろう。「七咫」(ななあた)の「咫」(音「シ」)は日本の上代の長さの単位で、開いた手の親指の先から中指の先までの長さに当たるから、「一咫」は凡そ十七センチメートルに当たるとして一メートル二十センチメートルの鼻。「七尋」(ななひろ)は通常は一尋が六尺とされるから、十二メートル七十三センチメートル弱。

「木内石亭」「著雲根志」木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)は本草学者で奇石収集家。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)生まれ。捨井家に生まれたが、母の生家である木内家の養子となった。養子先の木内家は栗太郡山田村(現在の草津市)にあり、膳所藩郷代官を務める家柄であった。幼い時から珍奇な石を好み、宝暦(一七五一年~一七六四年)の頃から、物産学者津島如蘭に本草学を学び、京坂・江戸その他各地の本草家や物産家と交流、物産会でも活躍した。「弄石社」を結成して奇石を各地に訪ね、収集採集も盛んに行った。これら収集歴訪をもとに、独自に鉱石類を分類して発刊したのが奇石博物誌として名高い「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)であった。当時流行の弄石の大家ではあるが、その態度はすこぶる学究的で、「石鏃人工説」を採るなど、実証的見解を示し、我が国の鉱物学・考古学の先駆的研究を果たしたと評される。シーボルト著の「日本」(Nippon:一八三二年~一八八二年)の中の石器・勾玉についての記述は彼の業績の引用である。津島塾では大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった木木村蒹葭堂と同門であり、宝暦六(一七五六)年に江戸に移って田村藍水(栗本丹洲の実父)に入門した時には、同門下の一人であった平賀源内らとも交流している。以上の話は「雲根志」(私の愛読書である)の「後編卷之三」巻頭にある「足跡石(あしあといし)」に所収する。

「甲賀郡の鮎河(あいが)と黑川との境」現在の滋賀県甲賀市土山町鮎河と南で接する土山町黒川との間。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「寶曆十一年」一七六一年。]

 

 そこで試みにこの大入道が、果して何れの邊まで往つて引返し、若しくは他の靈物に其事業を讓つて去つたかを、尋ねて見る必要があるのだが、京都以西はしばらく後𢌞はしとして北國方面には自分の知る限り、今日はもうダイダ坊、或は大田坊の名を知らぬ者が多くなつた。併し三州奇談といふ書物の出來た頃までは、加賀の能美郡の村里にはタンタン法師の足跡といふ話が傳はり、現に又其足跡かと思はれるものが、少なくも此國に三足だけはあつた。所謂能美郡波佐谷の山の斜面に一つ、指の痕まで確かに凹んで、草の生えぬ處があつた。其次に河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡といふ田の中に、是も至つて鮮明なる足跡が殘つて居た。下に石でもある爲か、一筋の草をも生ぜず、夏は遠くから見てもよくわかつた。今一つは越中との國境、有名なる栗殼[やぶちゃん注:「くりから」。倶利伽羅(峠)。]の打越にあつた。何れも長さ九尺幅四尺ほどゝあるから、東京近郊のものと比べものにならぬ小さゝだが、其間隔は共に七八里もあつて、或は加賀國を三足に步いたのかと考へた人もある。勿論其樣な細引[やぶちゃん注:「ほそびき」。麻などを縒(よ)って作った細い繩。細引き繩。]の如き足長は、釣合ひの上からも到底之を想像することを得ないのである。

[やぶちゃん注:「三州奇談」俳人楚雀なるものが蒐集した北陸三国の奇談集を元に御用商人の次男堀麦水が筆録したもの。宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃には世人に知られた書であったことが判っている。正編五巻・続編四巻。全百四十九話。これは正編の「卷之四」の「大人足跡」の前段部。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(左頁)から視認出来る。迷亭ブログ「下町じゅ現代語訳がある。

「加賀の能美郡」石川県能美郡は川北町(かわきたまち)のみであるが、旧郡域は能美市・小松市の大部分・白山市の一部を含む。

「能美郡波佐谷」石川県小松市波佐谷町(はさだにまち)。(グーグル・マップ・データ)。

「河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡」石川県金沢市木越町(きごしまち)(グーグル・マップ・データ)。「光林寺の跡」は不詳だが、同地区に光蓮寺という似た名前の寺は現存する。]

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