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2018/04/18

御伽百物語卷之四 有馬富士

 

御伽百物語卷之四

 

     有馬富士

 

Arimahujil

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のもの(左右二枚)を合成、原画自体が上手く合わないので、上下左右の枠その他を消去して違和感を最小限に留めたつもりである。本文中の唄は、ブラウザでの不具合を考え、切れると思われるところで改行し、前後を一行空けた。なお、標題の「有馬富士」は現在の兵庫県三田市にある標高三百七十四メートルの山である(グーグル・マップ・データ)。後半の舞台がここということなのであるが、題名とのストーリーには親和性は殆んどないと言ってよい。]

 

 攝州有馬郡(ありまごほり)塩原山(しほばらやま)の溫泉は世に有馬の湯と稱して、都鄙遠境の人、あしをはこび、馬にまたがりて、日夜にむらがり、虛勞冷痰疝氣等(とう)、おもひおもひに恙(つゝが)ある時は、湯文(ゆふみ)のおしへにまかせ、こゝに浴するに、百發百中の驗(しるし)すみやかなるがゆへ、人皇三十五代舒明天皇三年に始めて行幸ましましけるより、千歳の今にいたる迄、所の繁榮、綿々として絶えず。されば、此湯坪にやしなはれ、病者を導きて、作業(なりはひ)をする者また少からず。去(さり)し建久の比より、土地をならし、構(かまへ)を改むる事ありてより、十二坊、軒をつらね、湯槽(ゆぶね)を、一、二に分ち、湯治往返(たうぢわうへん)の人の、先をあらそひ、功を貪るの邪(よこしま)なきためとて、大湯女(〔おほ〕ゆな)小湯女と名付け,坊每(ごと)に女を抱へ、五畿七道の旅客をあつかはしむる事なりしに、いつとなく色を媚(こ)び、情(なさけ)をつくりて、戀慕愛執の絆(きづな)をなす媒(なかだち)となりぬれば、春の夜の一刻、價千金を用ひ盡しても、はかなき夢の私語(さゝめごと)をたのみ、就中(なかんづく)、膓(はらわた)を斷つといふなる秋の暮に、月待ち顏の戸ぼそは、かならずといひしかね言(ごと)をたのむならひとぞなりわたりける。

[やぶちゃん注:有馬温泉は旧摂津国、現在の兵庫県神戸市北区有馬町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある日本三古湯の温泉で、古くは清少納言の「枕草子」の「三名泉」(第百十七段に『湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯』とある。「ななくり」は「七栗」で現在の三重県の榊原温泉とする説の他に、和歌山県の「湯の峰温泉」や長野県の「別所温泉」を指すとする説がある。また玉造も島根県の玉造温泉とする以外に、宮城県の鳴子温泉の旧称としてそこに当てる説もある)、江戸前期の林羅山の「日本三名泉」(他の二つは群馬県の草津温泉と岐阜県の下呂温泉。但し、これは室町時代の僧万里集九が既にこれらを三名泉と書き残していたものを、羅山が漢詩にして読み込んだのが人口に膾炙しただけのもので彼の命数ではない)にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされていた。有馬温泉の歴史については「有馬温泉観光協会」公式サイトのこちらに詳しい。江戸時代より前はそちらを読んで戴くとして、本話のシークエンスの映像化に役立ちそうな、江戸時代の様子の解説部を引いておく。『江戸時代に入ってからの有馬は、さらに繁栄の一途をたどり、江戸時代の有馬は幕府の直轄領であ』った。『しかし、当時は現在のように各旅館内に内湯があったわけではなく、町内に元湯がひとつあるだけで、湯治客はすべてこの元湯に出かけるシステムになっ』ており、また、『温泉の湧出量もさほど多くなく、秀吉の入湯、そして泉源の本格的な改修工事により』、『温泉としての知名度が高まって訪れる人は増加したものの、当時の入湯の様子を調べてみると、現在の姿とはかなり異なっていた』らしい。『この頃の元湯は、南北に七間』(十二・七二メートル)、『東西に三間』(五・四五メートル)『ほどの建物が』一『棟あったにすぎず、その中に設置されていた浴槽も、南北に』二丈余り、東西一丈余り[やぶちゃん注:一丈は三・〇三メートル。]で『中央に板仕切りがあり、一辺一丈の小さな正方形のもので』、『その南側は「一の湯」北側は「二の湯」と呼ばれ、深さはいずれも三尺七、八寸』(約九十一センチメートル強)『であったと伝えられてい』るという。仁西(にんさい:ここに先行する部分に、平安末期の承徳元(一〇九七)年に有馬で洪水が発生し、人家を押し流して温泉も壊滅したとされ、これ以後、実に九十五年もの間、有馬は殆ど壊滅状態のままに推移したと考えられているとあり、源平合戦によって平家が滅亡した直後の建久二(一一九一)年、吉野山麓にあった高原寺(現在の奈良県吉野郡川上村大字高原)の住職であった仁西という僧が有馬の再興を果たした、とある)が開いた十二『の坊は、秀吉が大改修工事をしたころには』、二十『坊に増え』、『旅館として機能しており、一の湯には十坊、二の湯に十坊がそれぞれ入るように決められて』おり、各坊には二人の『湯女が配属されて』いた。『その後も湯治客の増加にあわせて、坊の下に「小宿」と称する宿舎が作られるようになり、宿泊施設も充実してい』った。『また、江戸時代後半になると、庶民も社寺参詣や、湯治に出かけるようになり』、『このような庶民の旅の手助けをしたのが道標で』、『有馬温泉にもこれらの道標がいくつか現存しており、有馬の街で見かけるけることができ』る、とある。なお、有馬温泉は怪奇談の舞台になり易いらしく(温泉は所謂、湧き出すところが「地獄」と呼ばれるから、有馬に限らず、総じて怪談との親和性は強い)私の既に電子化したものの中でさえ、「諸國百物語卷之一 二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事」の外、柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)の中の「雲萍雜志」所収のそれなどがある。

「虛勞」疾患を原因とする全身性衰弱。

「冷痰」漢方では幾つかの意があるようであるが、陽気の不足によって脾胃が衰弱し、胸部に冷たい痰が結ぼれる状態を言うようである。

「疝氣」下腹部の痛む病気。

「湯文(ゆふみ)」不詳。各地の温泉案内書にある効能書き(適応症)か。

「人皇三十五代舒明天皇三年」現行の序数では第三十四代天皇で、生年は推古天皇元(五九三)年(?)で没年は舒明天皇一三(六四一)年、在位は舒明天皇元(六二九)年から没年までで、推古天皇の次代。当時の政治の実権は蘇我蝦夷にあった。

「建久」一一九〇年から一一九八年まで。

「かね言(ごと)」「兼言」「予言」。前もって言っておいたこと、約束の言い交し。客と湯女が将来を契った約束である。]

 

 こゝに玉笹(たまさゝ)の仙助といひける男は、そのかみ、越後の高田にて名ある武士なりけるが、さる子細ありて延寶年中に一族を引きぐし、年比(としごろ)すみ馴れたる高田を立ちのき、丹州雲原(くものはら)といふ所に田地を求め、はじめて歸隱退耕の逸民の心をなし、明暮れ、碁(ご)・將棊(しやうぎ)・連歌の席、または琴・三味線・尺八のあそび、さまざまの遊興に飽きける餘り、此程は一向に色をおもんじ、妻妾(さいせう)にほこり、彼(か)の揚國忠[やぶちゃん注:「揚」はママ。]が肉陣(にくぢん)とかやいひけるは、冬の夜、我が座したるあたりに、美人をあまた居ならばせ、寒きあらしを防がせける、といふ本文を聞きはつり、京・江戸・大坂はいふにおよばず、國々所々に人をつかはし、繪圖を以て姿形(すがたかたち)より目つき物ごし迄、同じやうなる美女を十人抱え、肉陣の遊びをなすべしとおもひたち、方々より呼びあつめ、千金を憎まず尋ねもとめけるに、纔か七人にいたりて世に女なきがごとく、繪にあひたる者なくて、

「いかゞ。」

と思ひわづらひける所に、此比(ごろ)、ある人の語りけるは、

「攝州有馬の湯本大藏町といふあたりに、高町無三(たかまちむ〔さん〕)とかやいへる針の醫(い)あり。常は此邊近郷の村に療治を業(わざ)とし、多くは貧家(ひんか)の娘、便(たより)なき嬬(やもめ)の一人子(ひとり〔ご〕)などを引き取りてかくまへ、此村の湯女または京・江戸・大坂の色を賣る里、あるひは大名高家に茶の間お湯殿の宮仕へ、それぞれに仕立て、はかなき勤(つとめ)に今日の命(めい)を繼がしむるの人あり。」

と聞きて、

「さらば、彼を尋ねても此望(のぞみ)は足(たり)ぬべし。」

と、おもひたちけるより、早(はや)首途(かどで)して、一つは湯治の養生をも心にかけつゝ、自身、旅におもむき、夜を日にそひて急ぎ彼(か)の大藏町(おほくらてう)にたづね入りて、無三を宿とし、心中の程を語りければ、無三もまた、仙助が富貴(ふうき)と心ざしに折れて心やすく領狀(れうでう)しぬ。

「しからば、いついつの日、御とも申すべし。當所は國法の御制禁(ごせいきん)ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、さやうのものを養ひ置き候ふ所は程を隔てて侍る。」

よし、細かにかたり聞かせ、四、五日もすぎぬと思ふ比(ころ)、仙助と兩人、しのびやかに宿を出で、北をさして行く事、三里ばかりして、三田村とかやいふ里に着きぬ。無三、こゝより駕籠を歸し、仙助と只二人、二本松のかたへ行きけるに、程なく大きなる門がまへあり。いかさま往昔(そのかみ)は名高(なだか)かりし寺などにやと見えて、庫裏(くり)・客殿(きやくでん)・室(しつ)の間(ま)など、むかし覺えたるかまへながら、軒(のき)破れ、瓦、落ちて、狐・梟(ふくろう)のすみかともいひつべし。本堂とおぼしき所は片はし崩れて、雨もたまらねばにや、本尊と覺しき丈六の佛を客殿の廣庇(ひろひさし)にすえたり。

[やぶちゃん注:「玉笹(たまさゝ)の仙助」不詳。

「延寶」一六七三年から一六八一年。徳川家綱・綱吉の治世。

「丹州雲原(くものはら)」現在の京都府福知山市雲原(くもばら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。有馬温泉の北北西七十六キロメートルに位置する。古くは丹後国与謝郡に属した。奥深い山中ではあるが、北にある与謝峠は西国三十三所観音霊場の巡礼道であったから、人の行き来は以外にあって関所もあった。本来は宮津藩領であるが、玉笹仙助が移り住んだ時期が微妙で、延宝八(一六八〇)年から天和元(一六八一)年の間は幕府領であった(以上は、何故かしばしばお世話になるサイト「丹後の地名」のこちらの記載に拠った)。

「妻妾(さいせう)にほこり」妻や妾(めかけ)に自慢して。この男の神経が判らぬ。

「揚國忠」「揚」はママ。親族(又従兄)であった楊貴妃の地位を利用して玄宗に取り入り、宰相となった「楊國忠」(?~七五六年)の誤記。「肉陣(にくぢん)」は本話のややエロチックなニュアンス(彼は「美女」を選んでおり、「肉陣の遊び」と称し、「七人」まで探し遂せたものの、残りの三人がどうしても見つからず、「世に女なきがごとく、繪にあひたる者なくて」と言っている辺りはそうした雰囲気が濃厚である)とは異なり、彼が冬には常に太った侍女たちを前に歩かせてそれを「肉陣」と言ったことに由来する。権勢を誇った彼も、楊貴妃が縊り殺された馬嵬(ばかい)(現在の陝西省興平市)で、先だって兵士に殺されている。

「聞きはつり」この「はつる」は「削る・斫る」で「少しだけ削り取る」の意であるから、まともにちゃんと読んだのではなく、それこそ誰かから聴き齧(かじ)って、の意であろう。

「攝州有馬の湯本大藏町」現在の有馬町にはこの地名は残っていない。兵庫県神戸市北区大蔵があるが、ここは有馬から十二キロメートルも西南西で、有馬の村域とするのには無理がある。

「高町無三(たかまちむ〔さん〕)」不詳。

「夜を日にそひて」昼夜兼行で。

「仙助が富貴(ふうき)と心ざしに折れて」算盤勘定をして、専ら「富貴」に折れたに違いのがよく判るように前に出してある。

「領狀(れうでう)」(りょうじょう)は「仰せを承諾すること」の意。

「當所は國法の御制禁(ごせいきん)」当時の有馬温泉の表面上の公的意味での風紀(客と湯女との性的交渉という内実は措いて)は厳しかったことが判る。

ゆへ、さやうのものを養ひ置き候ふ所は程を隔てて侍る。」

「北をさして行く事、三里ばかり」「三田村とかやいふ里」有馬温泉から北北西十キロメートルほどの位置に、現在、兵庫県三田市がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「二本松」三田市にこの地名はない。或いは、そうした非合法の置き屋であるから、山の中の目印の一般名詞としての「二本松」なのかも知れぬ。現在でも三田市中心部の北東部は丘陵や山岳地帯で、幾つかの山寺も地図で確認出来る。

「室(しつ)の間(ま)」寺院で住職一人のための居間に当たる「方丈」のことであろう。因みに「庫裏」(くり)は寺の台所及び、そこから転じて、住職や弟子及び家族が使用するプライベートな居室を広汎に指す語である。ここはこれとダブるから「台所」でよいであろう。

「むかし覺えたるかまへ」相応の格式と規模の寺であったことを想像させる結構であることを指す。

「本堂とおぼしき所は片はし崩れて、雨もたまらねばにや、本尊と覺しき丈六の佛を客殿の廣庇(ひろひさし)にすえたり」ここは、「本堂と思しき所は既に屋根の片端が崩れてしまっていて、さんざんな状態でひどく雨漏りしている様子で、されば、『ここならば、雨も溜まらない』と考えたものか、本堂の仏壇から、本尊と覚しき丈六の仏像を下ろして、客殿の前にあって幸い損壊を免れている広庇(ひろびさし)の下に据え置いてあった」という意味であろう。因みに「丈六」とは仏像の背丈の一つの基準で、如来の身長が一丈六尺(約四・八五メートル)あると伝えられることから、仏像もそれ)=丈六)を基本的な標準値としたもの。実際には、祀る場所や建造物によって、その五倍・十倍或いは二分の一などで造像された。なお、坐像の場合の丈六像は半分の約八尺(二メートル四十三センチメートル)で作り、ただ「半丈六像」と称した場合は約八尺の立像を指す。]

 

 仙助は、見馴れぬ事どもに心おかれ[やぶちゃん注:気が落ち着かず。]、

『いかにや。』

と思ひ居たるを、無三は事もなげに此ほとけの膝につい登り、佛像の左の乳くびをとりて引きあぐれば、大きなる穴あきたり。

 仙助をまねきて、ともに此あなより這(はひ)いりけるに、ふしぎや、此佛の腹中に、又、廣き道ありて、行く事、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ばかりもあらんとおもふに、大きなる門がまへあり。

 始め見たるには違ひて、棟門(むねかど)玉をみがき、金銀をちりばめ、心も詞(ことば)もおよびがたき事、一とせ、太閤秀吉の伏見の御殿御普請のありさまもかくやと思ひ、金閣の東山殿ともいひつべき構と見えたり。

[やぶちゃん注:「太閤秀吉の伏見の御殿御普請のありさま」現在の京都市伏見区桃山地区にあった秀吉が建てた原伏見城。ウィキの「伏見城」によれば、『伏見城の原形ともいえる施設は豊臣秀吉が』天正一九(一五九一)年に『関白の位と京都における政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った際に、自らの隠居所として伏見の地に築いた屋敷である。この屋敷は』文禄元(一五九二)年八月十一日に『秀吉が平安時代より観月の名所と知られる指月周辺を散策して同月』十七『日に場所を決定し』、二十日には『着工が決められ』た。『この際、聚楽城下から多くの町民が移住したと考えられ、現在も「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」などの地名が伏見地区に遺る』。この『隠居屋敷は』文禄二(一五九三)年九月には『伊達政宗との対面や徳川家康・前田利家との茶会に用いられるなど、概ね完成したと思われ』ている。しかし、同年、『明との講和交渉が動きはじめ、明の使節を迎え』、『日本の国威を見せつける目的と』、同年八月三日に『拾丸(豊臣秀頼)が産まれ、拾丸に大坂城を与える』ことを『想定したこと』から、『隠居屋敷は大規模な改修が行われることになった』。文禄三(一五九四)年十月頃より、『宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導き城の外濠とするとともに、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池には小倉堤を築き』、『その上に街道を通して新たな大和街道とするなど大規模な土木工事が行われた。また宇治橋を移して指月と向島の間に架け豊後橋としたとの伝えもあり、都から大和・伊勢及び西国への人の流れを全て城下に呼びこもうとした意図が伺え』、ここに『大坂城に付随する隠居用の屋敷から秀吉の本城へと意図を変えたと考えられる』。築城は文禄三(一五九四)年から『本格的に始まり、普請奉行に佐久間政家が任命され、石材は讃岐国小豆島から、木材は土佐国、出羽国からも調達され、同年』四『月には淀古城から天守、櫓が移建された。同年』十『月には殿舎が完成し』、翌文禄四年に秀次切腹事件が起きると、同年七月には、『破却された聚楽第からも建物が移築され、宇治川の対岸にある向島にも伏見城の支城、向島城が築城された』とある。なお、豊臣秀吉は大の温泉好きで、有馬温泉との縁も深く、彼はここに御殿も造営している。先の「有馬温泉観光協会」公式サイトのこちらにも詳しいが、ここは「大坂城 豊臣石垣公開プロジェクト」のこちらから引いておく。彼は例えば、『中国攻め途中の』天正七(一五七九)年には有馬温泉一帯を領地として』おり、『秀吉本人やその縁者も何度も有馬に湯治に訪れ、災害で寂れていた有馬の復興に力を注いでいます。このことから温泉寺』『を建立した奈良時代の僧行基、有馬十二坊と称される浴舎を建て、温泉を再興した平安時代末から鎌倉時代の僧、仁西上人』『と共に「有馬の三恩人」と言われてい』る。当初、『秀吉は有馬を訪れる際には現在の天神源泉近くにあった「阿弥陀堂」を利用してい』たが、文禄三(一五九四)年には『自身のための湯治施設として「湯山(ゆのやま)御殿」』『を建設』、『建設するにあたって』は、六十五軒もの『家屋を強制撤去して』おり、相当に『規模の大きなものであった』ことが判る。この御殿は』慶長元(一五九六)年に発生した『伏見大地震によって倒壊し』たが、二年後には『再建されて』いる。無論、現存しないが、『湯山御殿の位置は愛宕山の山腹にある現在の極楽寺あたりと考えられて』おり『極楽寺の庫裏(くり)の床下には「湯殿あと」と伝えられる遺構が保存されてい』たとあり、リンク先には遺稿の画像も出る。必見。]

 

 無三、先づ門に入りて案内しけるに、年の比(ころ)、十四,五なる童子,六,七人,水色の直垂(ひたたれ)に小結(こゆひ)のえぼし着(き)たるが、出(で)むかひ、無三を見て、おのおの、手を拱(こまね)きていふやう、

「主人、此ほど、君の御出でを待ち給ふ事、久し。はや、御通り候へ。」

と、いざなひ行く所に、主人と見えつる人は、五十にもあまりけんと見えて、折(をり)えぼしに水干(すいかん)なよやに着こなし、八ツ藤のさしぬき靴(くわ)の沓(くつ)をはきたるが、螺細(らでん)の椅子に靠(よりかゝ)り給ひしありさま、仙助、心まどひ、魂(たましひ)を失ふばかり、戰慄(わなゝ)きてひかへたるを、無三は、何ともなき顏(かほ)やうして、しづかに步み出づれば、此主人、おそれたる氣色にて、倚子(いす)より立ちてむかひに出で、一禮をなしける時、無三、仙助がかたを見かへりて、いふやう、

「此人は、これ、高田の何某(なにがし)にて弓馬に名ある御(お)かたなるぞ。よく饗應參(もてなし)らせよ。」

と、いひて引き合はせ、

「我、けふは、こゝに來たる事、此君をいざなひ奉らんためのみ也。今、急に用の事ありて、歸るぞ。かまへて、此御客、おろそかにすべからず。彼(か)のかゝえ置きつる女ども、みな、めし出だして、もてなし參らせよ。」

と、いひて歸ると見えしが、たちまちに姿を見うしなひぬ。

[やぶちゃん注:「小結(こゆひ)のえぼし」「小結」は本来は、折烏帽子 の巾子 こじ:「こんじ」の撥音の無表記。本来は冠の頂上後部に高く突き出ている部分を指す。髻(もとどり)を入れ、その根元に笄(こうがい)を挿して冠が落ちないようにする。元はこれをつけてから前部の覆いである幞頭(ぼくとう)を被ったが、平安中期以後は冠の一部として作り付けになった) の下部左右に穴をあけ、髻に結んだ小紐を引き出し、烏帽子が落ちないように後部で結ぶ作業を言うが、ここは「小結烏帽子」で小結の組紐を長く垂らした侍烏帽子のこと。]

 

 仙助、いよいよ怪しくおぼえながら、貴人なる人に、なれなれしくとふべきやうもなければ、只かしこまり居たるに、彼の主人仙助をいざなひ、奥のてい[やぶちゃん注:「亭」(屋敷)の意で採っておく。]に行きけるに、唐織(からをり)の深緣(ふかへり)さしたる二疊(でうだい)紫檀(したん)の倚子に古金襴(こきんらん)の帳(とばり)して、仙助を座せしめ、其身は引きさがりて、錦(にしき)の深緣さしたる二疊臺白檀(びやくだん)の倚子になをりける時、十八、九より卅四、五迄と見えつる女の、姿かたち、いときよげに玉をつらねて作りたらんやうなるが、廿人ばかり行きかよひ、さしつどひて、さまざまの肴とゝのへ、いろいろの膳部、心をつくし、酒をすゝめ、諷(うた)ひ舞ひなどする程に、仙助、つくづくと此ありさまどもを見るに、

『我が國もとにて、繪姿に物數寄(ものすき)し、あつぱれの美人とおもひしを、此所(このところ)のすがたに思ひくらぶれば、花のかたはらの枯木か孔雀のまへの梟。』

とのみ、見ゆるにぞ。

 いつとなく心いさみ、興に乘じて、あまたゝび、酒をくみかはしける比(ころ)、中にも「花川(はなかは)」とかやきこえし女は、年、すこしさかりに過ぎたりと見えたれど、聲よくうたひ、器量もひとしほに勝れたりければ、是れに目うつりて、宵より、仙助も人しれずしのび目に、ひたと見おこせたるに、女もまた、心ありげなりけるが、仙助、いさゝか盃(さかづき)をひかへて、いたく醉ひたり、と見えつゝ、吞みかたげなりし時[やぶちゃん注:「吞み難げなり」でもうちょっと酒を飲むのは難しそうだといったポーズをしたところ。そこでさらに酌を勧めるのは寧ろ縁戚に侍る芸者の常識。]、花川、みづから酌にたちけるが、

「すん。」

と、たちて、

 

  かすがのゝ若むらさきの根にかよふ

  君が心しかはらずば

  野中の淸水くみてしれ

  もとより我もこひ衣(ごろも)

  うらなきものをひたちおび

  むすびあふせをまつかぜ

 

と、おしかへし、おしかへし、絲竹(いとたけ)の音にうちそへて、はりあげたる聲、さしひく、かいな、扇の手の身ぶりまで、なをざりならず、戀かぜまさり、うつらうつらと聞きいたるに、主人、俄(にはか)に、

「用の事ありて、國の守(かみ)にめさるゝ也。程なく歸り來たるべし。」

と、仙助にいとまごひ、夜はいまだ子の刻[やぶちゃん注:午前零時前後。]ばかりとおもふに、供まはり、美々(びび)しく、騎馬(きば)數おほくうちちつゞきて、出でゆきぬ。

[やぶちゃん注:唄に注する。

・二行目の「し」は強意の副助詞。

・五行目の「ひたちおび」は「常陸帶」で、昔、正月十四日に常陸国鹿島神宮の祭礼で行われた結婚を占う神事で、意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神主がそれを結び合わせて占った。神功皇后による腹帯(はらおび)の献納が起源とされる帯占(おびうら)に掛けたもので、「うらなき」は「占」を引き出すとともに、「裏無き」で私の思いに嘘はない、恋情は心底のもの、という意を掛けている。

・六行目。このように実際に歌謡として旋律に合わせて歌われたものは、字余りや字足らずが多くあることは知ってはいる。しかしそれでもここまで定型のものであるのだから、最終部は個人的には「まつのかぜ」と音数律を合わせたくなるのだが、それは無粋なのだろうか?]

 

 そのあとは、女のみなる座敷となりて、いとゞしき樂しみ、

『今こそ、おもふ事、いはでたゞにや。』[やぶちゃん注:「今こそ、思うておる彼女への恋心、言わずに空しく終わる(この場を立ち去る)ことができようか、いや、出来ぬ!」。]

と戲れそめて、彼の花川と一間(ひとま)なる閏(ねや)にいりて、偕老(かいらう)の契(ちぎり)、あさからず。

 千夜を一夜とおもひつゝ臥したりけるむつ言(ごと)に、花川、うちしほれ、淚ぐみつゝかたりけるやう、

「さても君。いかなる故ありて、こゝには來たらせ給ひしぞや。妾(せう)が身は、もと、近江の國高嶋の者にて、坂上田村丸利仁(さかのうへたむらまるとしひと)將軍におもはれ參らせつる『海津(かいづ)の細目(ほそめ)』といひしものゝ娘にて侍(はべら)ふぞや。利仁、この高嶋を領せられし比(ころ)、禁中の格勤者(かくごんしや)何がしをそゝのかし來たらせ給ひ、『芋粥にあかせん』とてつれくだり給ひつる夜(よ)、みづからは賤(いやし)けれども、利仁の御たねにて細目が腹にやどりたればとて、召して御屋形(おやかた)にそだち侍ふほどに、其比(そのころ)、わづか七つばかりの年なりけるを、此(この)飯綱(いづな)つかひにとられ、幻術にまよはされて、うき年月を重ね侍る程に、今ははや幾許(いくばく)の年を越えつれば、定めて、その由緒も絶えたるらんと、おもへば便(たより)なく悲しく侍るぞかし。君、もし、こゝを退(のが)れたまはずば、永く此(この)里のとらはれ人となりて、世を惑はすの奴(やつ)に催促(かりもよほ)され給ふべし。こゝら、ありわたる人は、みな、そのたぐひにて侍るぞや。」

と、つぶつぶと、かたりつゞけて泣くに、仙助、大きにおどろき、

「こは、そも、何と、いふぞ。其(その)高嶋に田村丸の居たまひつる事は、人皇五十代桓武の御世、今、すでに、千年にちかし。我(われ)、今の代をいはゞ、人皇すでに百十四代聖神文武(せいじんもんむ)の元祿改元ましまして三年也。君がかたる所の芋粥の事は宇治拾遺といふ物にしるし傳へて、世の口ずさみとなれる事ぞ。かくな、空言(そらごと)したまひそ。」

とはいひながら、

『さしあたりたる身のうへ、いかゞせん。』

とあきれたるに、花川、また、いふやう、

「そも、この里を誠ありとおもひ給ふより、しばし、猶豫(ゆうよ)心(こゝろ)もある也。よし。後(のち)におもひあはせ給はん。さりとも、我がいふやうにしたまへ。」

とて、白き練貫(ねりぬき)をもつて、仙助が頭(かしら)をつゝみ、おしへていふやう、

「主(あるじ)歸りたまはゞ、天照大神(てんしようだいじん)をはじめ、諸々の神號(しんがう)をとなへ給へ。主、かならず詫びたまはん。是れによらずしては、よも、たすかり給はじ。」

と、おしへ置きぬ。

[やぶちゃん注:芥川龍之介も吃驚りの「芋粥」の驚天動地のサイド・ストーリー、大展開!

「近江の國高嶋」滋賀県高島市。琵琶湖の北西部。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「坂上田村丸利仁(さかのうへたむらまるとしひと)將軍」奈良末期から平安前期の武人で征夷大将軍として蝦夷征伐をした坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)と、平安中期の武将で鎮守府将軍となった藤原利仁(生没年未詳:民部卿藤原時長の子で越前国敦賀の豪族藤原有仁の娘婿。延喜一一(九一一)年に上野介、翌延喜十二年に上総介に任じられている。延喜一五(九一五)年に鎮守府将軍)との混同(この混同は古くからあったので筆者を批判するには値しない)但し、芥川龍之介「芋粥」の素材とした、「今昔物語集」の巻二十六の「利仁將軍若時從京敦賀將行五位語第十七」(利仁の將軍、若き時、京より敦賀に五位を將(い)て行く語(こと)第十七)及び「宇治拾遺物語」の巻一に載る「利仁芋粥の事」(利仁、薯粥(いもがゆ)の事)の主人公は後者であり、その話を素材としている以上、ここは藤原利仁である(リンクはそれぞれ「やたがらすナビ」の原文)。但し、高島の地を領有したのがどちらであったかは確認出来なかった。識者の御教授を乞うが、五位を敦賀に連れて行くというロケーションからも、本文ではっきりと「利仁、この高嶋を領せられし比」と言っていることから、高島は利仁でしっくりくることはくる。

「海津(かいづ)の細目(ほそめ)」不詳。

「格勤者(かくごんしや)」古くは撥音無表記で「かくご」とも表記した。平安時代、院・親王家・大臣家などの最上級階級の者に仕えた武士。

「飯綱(いづな)つかひ」「飯綱使ひ」。荼枳尼天(だきにてん:元はインドの魔女でサンスクリット語では「ダーキニー」。仏教に採り入れられて鬼神となり、密教では胎蔵界曼陀羅外院にあって、大黒天に所属する夜叉神。自在の通力をもって六ヶ月前に人の死を知り、その心臓を食うとされた。本邦では狐の精とされ、稲荷信仰と混同されている)を祭り、「イヅナ」或いは「エヅナ」又は「管狐(くだぎつね)」などと呼ばれる架空の霊的小動物を駆使し、託宣や占いなど、様々な法術・妖術を行った、特に東日本で活動した民間の宗教者。原型と思しいものは古くからあり、特に中世以降、流行した。古くから飯綱使いの法術は「飯綱の法」といい,近世では邪術の類と見做されていた。飯綱使いの多くは修験系の男の宗教者であったが、「いたこ」などの巫女もこれを用いることがあったらしい。「イヅナ」の語は明らかでないが。信州の飯繩(綱)(いいづな)山及びそこの古い修験道などと関係があるのではないかと考えられてはいる。

「その由緒」母の血脈。それに繋がる後裔。

「催促(かりもよほ)され給ふべし」いろいろなことを命ぜられ、それらを直ちに実行するように、責め立てられなさる立場に陥りなさるに違い御座いません。

「ありわたる人」ずっと長い期間、この屋敷でかくなる状態で時を過ごすしている人々。

「つぶつぶと」こと細かに、詳しく。

「人皇五十代桓武の御世」前で「其(その)高嶋に田村丸の居たまひつる事は」とあり、第五十代天皇(ここの序数は現代と合致している)桓武天皇の在位は天応元(七八一)年から延暦二五(八〇六)年であるから、ここは坂上田村麻呂として述べていることになる。

「今、すでに、千年にちかし」玉笹仙助が越後高田藩を脱藩したのは延宝年間(一六七三年~一六八一年)とあったから、それで単純計算すると最長で九百年前となる。実は次で、玉笹仙助は現在時制が元禄三年だと初めて明かす(次注参照)のだが、それで計算しても、最長で九百九年前にしかならないから、玉笹の謂いはちょっとドンブリということになる。

「人皇すでに百十四代聖神文武(せいじんもんむ)の元祿改元ましまして三年也」ここで初めて見かけ上の現在時制が元禄三年、グレゴリオ暦一六九〇年に限定される(「見かけ上」と言ったのは、ラスト・シーンから言うと、この世界では時間は急速に先へ進んでいる訳だからである)。「百十四代」とあるが、これは序数がまた違っている。元禄三年当時の天皇は第百十三代天皇東山天皇(在位:貞享四(一六八七)年~宝永六(一七〇九)年)である。「聖神文武(せいじんもんむ)」というのがよく判らぬが、今のように今上天皇というのを、当時はこう言ったのだろうか? 識者の御教授を乞う

「そも、この里を誠ありとおもひ給ふより、しばし、猶豫(ゆうよ)心(こゝろ)もある也」よく判らぬが、玉笹仙助(仙助のはこの辺りでブラック・ジョークの確信犯の名前と判る)が「まだ、今居る世界を現実の世界だと信じ切っているという点に、実は却って、救われ得る可能性の種(あなたの側の心の余裕に当たる部分)があるのです」と、花川は言っているように思われる。

「後(のち)におもひあはせ給はん」私の今申し上げたことは、それが上手くいった後、その暁には「なるほど!」と、きっと思い当たられることにもおありになられることでしょう。

「白き練貫(ねりぬき)」「練貫」は縦糸に生糸、横糸に練り糸(生糸を灰汁(あく)や石鹸やソーダ溶液で処理して膠質(にかわしつ)のセリシンを除去した柔らかく光沢のある絹糸)を用いた平織りの絹織物。恐らくは飯綱使いの眼を見ないようにするためであり、或いはこの絹織物に邪気を排する効果もあるものかも知れぬ。]

 

 ほどなく、夜あけなんとする比、彼のあるじ歸りぬ。

 仙助、花川がおしへしとをり、大音(だいおん)をあげて祈りけるに、主、おほきに仰天し、頭(かうべ)を地につけ、命を乞ひていふやう、

「花川が骸骨(がいこつ)、我がおしへに違(たが)ひたる故に、此(この)天災にあひぬ。吾が幻術も、是れまで也。今より、なに、住む事、かなはず。命(いのち)を助けさせ給へ。」

と、再三よばゝりて、逃げさりぬ。

 花川、なを、仙助にかたりけるは、

「我、君(きみ)とふかき緣あるがゆへに、假にも契りをなす事を得たり。彼(かれ)は、一とせ、津の國龍泉寺にありて不動咒(ふどうのじゆ)となへたる修行者を、肥前國まで投げたりし、幻術つかひの鬼(き)なり。今は去(さり)ぬれば、心やすし。」

などいひて、二とせばかりありけるが、仙助、ふと、故郷なつかしく、歸りたき心つきて、妻に此事かたりしかば、妻も又いふやう、

「我、幽冥にゆるされ、假に爰(こゝ)に來る事、限れる日かず、あり。けふ、すでに、盡たり。よし、歸り給へ。日ごろの情(なさけ)、おぼしめし出ださば、哀れとも思ひ、とぶらはせ給へ。」

とねんごろにかたり、仙助をともなひ、刄物(はもの)を以て、東の方の壁を、きり明(あく)ると見えしが、始め入りたる時の佛の乳(ち)の穴に似たるが、是れより、仙助をおし出だしぬ、とおもひけるに、思はずも武州江戸淺草に聞えたる駒形堂の緣の下より、はい出でたり。

 それより、漸(やうやう)、袖乞(そでこ)ひに命(いのち)をつなぎて、もとの丹州に歸りけるが、纔かに二とせあまり、とおもひつるも、國に歸りてければ、二十年を經たりしとぞ。

[やぶちゃん注:出て来た場所が、私の好きな「駒形泥鰌」の傍の駒形堂というのも、まるで私にサービスして呉れたみたようだ! 感激!

「津の國龍泉寺」摂津国龍泉寺であるが、未詳。「宇治拾遺物語」の巻一に載る「修行者逢百鬼夜行事」(修行者、百鬼夜行に逢ふ事)に拠れば、実はこの寺、旅の修行僧が真夜中に踊り狂う鬼の群れに遭遇する(リンク先はやはり「やたがらすナビ」の原文)。また、これが所謂「百鬼夜行」の濫觴とも言われているらしく、怪奇の起こる頗るいわくつきの寺らしい。しかも、以下の花川の話は実はまさにその「宇治拾遺物語」を元にした話なのである!

「不動咒(ふどうのじゆ)」不動の慈救咒(じくじゅ)或いは大咒(たいしゅ)であろう。「慈救咒」は「中咒」とも呼ばれる不動明王の真言の一つで、中間の長さのもの。ウィキの「不道明王」から引く。「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」。「大咒」は「火界咒(かかいしゅ)」と呼ばれる真言で、「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」。一般に知られ、「不動真言」と呼ばれる短いものは「小咒」「一字咒(いちじしゅ)」で、「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」である。孰れも意味は「激しい大いなる怒りの相(すがた)を示される不動明王よ! 迷いを打ち砕き給え! 障りを除き給え! 所願を成就せしめたまえ! カンマン!」の謂いらしい(「カンマン」は不動明王を象徴する一音節の呪文(「種子(しゅじ)」と呼ぶ))。因みに、私の守護尊は生年月日からは不動明王だそうである。

「幻術つかひの鬼(き)」ここは「宇治拾遺物語」を現実的にインスパイアしている。原話は明らかに真怪としての妖怪・妖鬼であるわけだが、花川は妖術を完成するために鬼神に魂を売り渡した花川の魂(骸骨を用いた蘇生術とその使役)を弄んだ幻術使いの人非人であって、あくまで鬼畜の人間として捉えているものと思う。この「鬼」は中国の「死者」の意でも怖ろしい化け物としての「鬼」ではなく、寧ろ、致命的に救い難い人間の面をした鬼のような極悪人というイメージなのだと私は思うのである。

「駒形」これは「宇治拾遺物語」の僧が「肥前國の奥の郡」に飛ばされたそれのパロディで東国なのであろう。]

 

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