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2018/04/29

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(34) 死者の支配(Ⅱ)

 

 これ等神道の大文士[やぶちゃん注:大学者。]等の時代まで、國民が服從せしめられて居たこの規律なるものは、それ自身獨得の不思議な進化論的な歷史をもつて居るといふ事を、ここに言つて置く必要がある。原始時代にあつても、この規律は同樣嚴格なものではあつたが、それは遙かに統一のないものであり、單純なものであり、また細かい組織を缺いたものであつた。そして社會の發達と、その強國になつたとにつれて、益〻發達し精しいものとなり、終に德川將軍の時代に至つてそれは規則の絶頂に達した。換言すればその支配力は、國家の力の發達に比例して益〻重くなつて行つたのである――人民の力が、それに堪へるに應じて……。吾々はこの文化の當初から、市民の全生活が、規定されて居たのである事を見た、その職業も、その結婚も、その父なる權利も、財産を保持し、またそれを處分する權利も、――すべてそれ等は、宗教的慣習に依つて定められて居たのである。吾々はまた一市民の行爲は、家の内に於けると、外に於けるとを問はず、監視の下にあり、一つの重大なる慣例を破る事は、そのものの社會上に於ける破滅となつたかも知れないのである――その場合そのものは單に社會上の違犯者たるのみならず、また宗教上の違犯者であつた、――竝びに組合の神[やぶちゃん注:氏神を指す。]はそのものに對して怒りを抱き、その過[やぶちゃん注:「あやまち」。]を許すといふ事は、仲間全體に對し神の報復を招くかも知れないのである事はすでに述べた處である。併しその地方を治めて居る中央政府に依つて、如何なる權利がそのものの爲めに殘されてあつたか、それはなほ此後語らなければならない處である――蓋しその政府なるものは、普通の場合、控訴をゆるさない宗教的專制の第三の形式(宗教上慣習上の次なる意)を代表するものである。

 古い法律竝びに慣習の研究に對する材料がまだ十分に集まらないので、明治以前のあらゆる階級の狀態に關する十分な知識は吾々には得られない。併しこの方面に就いての澤山の有益なる著作は、アメリカの學者に依つて成されて居る。たとへばヰグモア教授及びシモンズ博士の著作は、德川時代に於ける民衆の法律狀態に關して多くの知識を與へる文書上の證據を提供して居る。德川時代は私の言つた通り、尤も規約に念を入れた時代であつた。人民が如何なる程度まで干渉を受けて居たかは、彼等の遵奉した奢侈禁制法の性質とその數とからよく推斷され得る。舊日本に於ける奢侈禁制法は恐らく西洋の法律の歷史にもある記錄のいづれよりも、その數とその細かさに於て勝さつて居る。一家の祭祀が家庭に於ける人の行爲を嚴格に定めた通りに、また組合が其義務の標準を固く勵行したやうに――丁度同樣に嚴格にまた固く、國家の統治者は、個人が――男も、女も、子供も――どんな服裝をなすべきか、どんな工合に坐るべきか、步くべきか、語るべきか、働くべきか、食ふべきか、また飮むべきかを規定した。娯樂も勞役と同樣に用捨なく規定されて居た。

[やぶちゃん注:「ヰグモア教授」アメリカの法学者で証拠法の専門家であったジョン・ヘンリー・ウィグモア(John Henry Wigmore 一八六三年~一九四三年)。既に「組合の祭祀」のこちらで注した。

「シモンズ博士」デュアン・シモンズ(Duane B. Simmons 一八三四年(天保五年相当)~明治二二(一八八九)年)はニューヨーク州に生まれで、アメリカ・オランダ改革派教会が日本に初めて派遣した元宣教師の一人で、医師。ウィキの「デュアン・シモンズ」(ミドル・ネームの綴りは英文サイトでも不明)によれば、『横浜で医療活動を展開し』、ヘボン式ローマ字の考案者として知られる、宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年:ペンシルベニア州ミルトン出身)『と共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。横浜市立大学附属市民総合医療センター内にはシモンズ博士記念碑がある』。一八五八(安政五年相当)年に『日本派遣宣教師として選ばれて、翌年五月に』『ニューヨークを出帆して、上海に寄港した後』、安政六(一八五九)年十一月に』『横浜に上陸した』。『シモンズ夫妻はヘボンが住んだ成仏寺の近くの宗興寺に居住した。しかし』翌万延元(一八六〇)年、彼は『ミッションを辞任して、宣教師の活動を停止し、ミッションより預かった伝道費用を全額返還し』てしまう。『シモンズ夫人のことが原因とも言われるが、宣教師辞任の理由の詳細は不明である。そして、辞任後も医師として日本に留まり、医療と医学教育に力を注いだ』。その後、明治三(一八七〇)年には、『発疹チフスで苦しんでいた福澤諭吉を治療したことがきっかけで、シモンズと福澤は生涯親交を厚くした』。明治四(一八七一)年に』『横浜元弁天(中区北仲通り)に早矢仕有的らが建設した十全醫院(現:横浜市立大学附属市民総合医療センター)に勤務し、後進の指導にもあたった』。明治一三(一八八〇年)に同医院を退職、二年後の明治十五年には、一度、帰国し、『ニューヨーク州モントゴメリー郡フォンダで休養を取』ったが、明治一九(一八八六)年二月二十一日に再来日した。しかし、明治二十一年の『夏頃から病気がちになり、福澤に慶應義塾内の住居を与えられて静養』したが、明治二十二年二月十九日に『三田の慶應義塾内にあった自宅で母親に看取られて死去した。墓碑銘は福澤が執筆し』、『青山に葬られた』とある。アカデミックな記載でないと嫌な方は、横浜市大医学部内の「横浜市立大学医学部医学科同窓会倶進会」公式サイトの「横浜医史跡めぐり 3 シモンズ(D.B.Simmons)」を参照されたいが、そこでは『辞任の理由は夫人が極端なユニテリアン』(キリスト教の伝統的な核心的真理とされてきている「三位一体」(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称。イエス・キリストを宗教指導者として認めるが、その神としての超越性を否定する立場に立つ一派)で、『生活も派手であったことによるといわれる』とあり、また、『開業医としてのシモンズは好評であったが、翻然、欧州に渡り、英独仏の』「大家碩學ト醫術ノ討論研究シ」(引用元不詳)、『再び来日した』と、ウィキにはない、医学研究にための一時渡欧があったことが記されてあり、再び日本に戻って、明治三(一八七〇)年三月には、官立医学教育機関「大学東校」(とうこう:後の東京医学校で、東京大学医学部の直接の前身)『に奉職し、約』一『年間勤務した』という事蹟や死因が腎炎であったことも記されてある。

「奢侈禁制法」奢侈禁止令(しゃしきんしれい)。贅沢を禁止し、倹約を推奨・強制するための法令。次の段落で語られるのでフライングになるが、ウィキの「奢侈禁止令によれば、『日本では、身分制度の維持を図る観点から』、『身分相応以上の服装を着用する行為が道徳風俗違反であるとして「過差(かさ)」であると非難された。聖徳太子の冠位十二階でも朝廷に出仕する者の服装規定が定められ、以後も度々奢侈禁止令が出されたが、当初はその対象は主に貴族・官人層であった』。養老五(七二一年)に『「節を制し度を謹しみ、奢侈を禁防するは、政を為すに先とする所にして百王不易の道なり」と唱えて位階に応じて蓄馬を規制し』長徳元(九九九)年には、『藤原道長を一上』(いちのかみ:筆頭公卿を意味する「一ノ上卿(いちのしょうけい)」の略語)『とする太政官が、「美服過差、一切禁断」とする太政官符を出すなど、度々』、『奢侈禁止令が出されている。建武の新政の際には後醍醐天皇が政治刷新の一環として「過差停止」の宣旨を出しているものの、当時の婆娑羅・風流の風潮を止めることはできなかった』。しかし、『近世に入って江戸幕府が士農工商を問わずに発令した贅沢を禁じる法令および命令の一群は』中でも特に『群を抜いていた』とし、寛永五(一六二八)年には』、『農民に対しては布・木綿に制限(ただし、名主および農民の妻に対しては紬の使用を許された)され、下級武士に対しても紬・絹までとされ』、『贅沢な装飾は禁じられた。また』、『同年には旗本に対しては供回りの人数を制限させるなど、以後家族の生活や食生活、交際時の土産の内容までが規制を受けた。これは旗本に江戸常駐を原則として義務付けたことによって』、『旗本が生産地である知行地から切り離されて消費者に転化し』てしまい、『その生活が苦しくなったという事情が大きく働いていた』。『農民の服装に対しては続いて』寛永一九(一六四二)年には、『襟や帯に絹を用いることを禁じられ、更に脇百姓の男女ともに布・木綿に制限され、更に紬が許された層でもその長さが制限された。更に翌年の「土民仕置覚」では紫や紅梅色を用いる事が禁じられている。その後も』寛文七(一六六七)年)・天明八(一七八八)年・天保一三(一八四二)年)にも、繰り返し、『同様の命令が出されている』。『一方、武士や町人に対しても』、『農民ほどの厳格さはなくても』、『同様の規制が行われ』ており、寛文三(一六六三)年には「女中衣類直段(ねだん)之定」が『定められ、当時の明正上皇(女帝、銀』五百目(一目は銀一匁)『)や御台所(将軍正室、銀』四百『目)の衣装代にまで制約をかける徹底的なものであった』。天和三(一六八三)年には、『呉服屋に対しては小袖の表は銀』二百『目を上限とし、金紗・縫(刺繍)・惣鹿子(絞り)の販売は禁じられ、町人に対しては一般町人は絹以下、下女・端女は布か木綿の着用を命じた』。貞享三(一六八六)年には『縫に限り銀』二百五十『目までの販売を許したが』、元禄二(一六八九)年には銀二百五十目『以上の衣服を一切売ってはならないこと、絹地に蝋などを塗って光沢を帯びさせる事を禁じることが命じられた』。正徳三(一七一三)年には先の「女中衣類直段之定」の制限(朝廷』五百『目・幕府および大名』四百『目・それ以下』三百『目)の再確認と贅沢な品物の生産と新商品・技術の開発の厳禁が生産・染色業者に命じられ』ており、享保三(一七一八)年の『「町触」の公布にあわせて奉行所に町人の下着まで』、『贅沢な振る舞いがないか監視するように』、『という指示が出されている』延享二(一七四五)年にも『「町人が絹・紬・木綿・麻布以外の物を着てはならず、熨斗目などの衣装を着ているものがいれば、同心は捕えてその場で衣装を没収すべきである」と言う指示が出されている。こうした奢侈禁止令の極致が天保の改革の際の一連の禁令であり、「商工等は、武士・農民の事欠け申さざる程に渡世致し候はば然るべく候」として商工を非生産的な身分であり、都市が繁栄する事そのものが無駄以外の何者でもないと断じて』、『厳しい奢侈禁止令を実施した』。但し、『このような指示がたびたび出されたにも関わらず、命令が遵守されたのは直後のみで時間が経つにつれて』、『都市でも農村でも違反するものが相次いだ。更に、上の身分の者が奉公などの褒賞として下の者に下賜された衣装を実際に着用した場合には、儒教の忠の観念との兼ね合いから黙認せざるを得なかったために、規制を形骸化する根拠を幕府自身が作る事になってしまった例もあったのである』とある。]

 

 日本社會のあらゆる階級は奢侈禁制の規約の下にあつた――規定の程度は時代の異るにつれて異つて居るが、而もこの種の(奢侈禁制の)法律は極古い時代から出來て居たらしい。紀元六八一年に天武天皇がすべての階級の衣服を定めたといふ記事がある――『親王より下民に至るまで、階級に從つて、頭飾り及び帶の着用竝にあらゆる色ある紋物の着用を』定めたといふ事である【註一】。僧尼の着用すべき衣服及びその色は、すでに紀元六七九年に出された勅令に依つて定められて居た。後になつてこの種の規定は、非常にその數を增し、また細目に亙つた。併しそれから一千年の後則ち德川の治世になつて、この奢侈禁制法は著しい發達をなした、その性質は百姓に適用されたその規定に依つで最もよく現はされてゐる。百姓の生活は細目に至るまで法律に依つて定められて居た――その住居の大いさ、形、價格から、下つて食事の際に於ける料理の數や種類の如き微細な事に至るまで定められて居た。たとへば百石の收入ある百姓は(百石の收入とは一年九十磅[やぶちゃん注:ポンド。]から百磅の收入である)六丈[やぶちゃん注:十八メートル。ここは奥行。平井呈一氏の訳に拠る。]の長さの家を建てる事を得べく、それ以上は許されなかつた、なほ家に床の間のある室をつくる事を禁じられて居た。また特別の許可あるにあらざれば、屋垠に瓦を用ふる事をゆるされて居なかつた。その家族のものは何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]も絹服を着る事を許されず、その娘が、絹を着用する資格のある人と結婚をする場合、その花婿は結婚式の際絹を着用してはならぬといふのであつた。如上の百姓の娘又は息の結婚には僅に三種の料理が許されたのみで、婚禮の客に出す汁、魚、口取りの質竝びに量も、法律で極められて居た。同樣に婚禮の贈物の數も極まつて居り、酒、干物等の贈物の價も定められ、花嫁に呈する事をゆるされて居た一本の扇子の質さへ極まつて居た。如何なる時にも、百姓はその友に高價な贈物をする事をゆるされない。葬式の際には百姓も客に或る種の粗末な食事を呈する事をゆるされた。併し酒が出される場合、それは盃をもつてされず、汁椀でのみすべき事になつて居た――(この規定は多分特に神道の葬式に關しての事であらう)子供の誕生の場合、祖父母は(慣習に從つて)只だ四つの贈物をする事をゆるされて居た――『木綿の赤兒の衣服一着』もその内に入つて、而も贈物の價は定められて居た。男子の祝の折には(五月の節句か)祖父母を交へての全家族からの子供への贈物は、法律に依つて「紙の旗一旒[やぶちゃん注:「りう(りゅう)」接尾語で助数詞。旗や幟(のぼり)などを数えるのに用いる。]及び「玩具の槍二本」に限られて居た……。財産五十石と算定された百姓は、長さ四丈五尺[やぶちゃん注:これも無論、奥行で、約十三メートル六十三センチメートル。]以上の家を建てる事を禁じられて居た。その娘の結婚に於ける贈物の帶の代價は五十錢を超えてはならなかつた、そして結婚の宴には一種以上の汁を出してはならなかつた……。財産二十石と算定されて居た百姓は、長さ三丈六尺[やぶちゃん注:約十メートル九十一センチメートル。]以上の家を建てる事をゆるされず、またそれを建てるに欅[やぶちゃん注:「けやき」。]、檜の如き上等な木材を用ふる事もゆるされなかつた。その屋根はまた竹葺(竹の皮か或は笹の葉か)若しくは藁に限り、床上に疊を用ふるという慰安を嚴禁されて居た。その娘の結婚の折の宴には、魚その他の燒物を出す事を禁じられて居た。その家族の女達は皮の草鞋をはく事を許されず、藁で造つた草鞋若しくは下駄をはくのみで、その鼻緒も木綿で拵へたものに限られて居た。女達はなほ絹製の髮紐竝びに鼈甲の髮飾りをつける事を禁じられて、木の櫛若しくは骨の櫛――象牙のではない――を許されて居た。男は足袋をはく事を禁じられ、その草鞋【註二】は竹でつくられたものであつた。それ等のものは又日傘則ち紙の傘を用ふる事を禁じられて居た――。十石と算定された百姓は長さ三丈[やぶちゃん注:九メートル九センチメートル。]以上の家を建てる事を禁じられて居た。その家の女達は笹の葉の鼻緒のついた草鞋を用ひなければならなかつた。その子息若しくは娘の結婚には只だ一個の贈物が許された――夜具則ち蒲團を入れる長持のみである。その子の誕生にも只だ一個の贈物だけがゆるされた、則ち男の子ならば玩具の槍一本、女の子ならば紙の人形若しくは土の人形一個を……。自分のの土地をもつて居ないこれよりも一段身分の低い百姓、所謂水吞百姓なるものに關しては、食物、服裝等に就いて、一段嚴重に制限されて居たことは、言ふまでもないことである、たとへばそれ等のものは結婚の贈物として、夜具蒲團を入れる長持をもつことさへも許されなかつた。併し恁ういふ屈辱的複雜な制限に關しての適當な考へを得んと欲するならば、ヰグモア教授の公刊した文書を讀むのが一番良い、それは主として次のやうな條項から成つて居るのである。――

 

註一 アストン氏の『日本紀』の飜譯第二卷三四三、三四八、三五〇頁參照

註二 草鞋若しくは下駄には竹をもつて造つたのもある、併しここに言ふのは竹の草の意である。

譯者註 第一草鞋の意が不可解である。ここに言ふサンダルは或は草履であらうか、それが竹則ちバンブウで出來て居るとはどういふ事か、更にバンブウ・グラスとあるのは笹の葉か竹の皮ででもあらうか。

[やぶちゃん注:「アストン氏の『日本紀』」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年:十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者。詳しくは、ウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい)が一八九六年に刊行した「日本書紀」の英訳NIHONGI。これは「日本書紀」天武天皇一三(六八四)年の閏四月丙戌(ひのえいぬ)・天武天皇一四(六八五)年七月庚午(かのえうま)の条々の中の以下の記載他であることを、平井呈一氏は恒文社版で訳注されておられる。「日本書紀」の当該原文を引き、平井氏の訓読文を参考にして訓読しておく。

   *

①又詔曰。男女、並衣服者。有襴無襴、及結紐長紐、任意服之。其會集之日、著襴衣而著長紐。唯男子者有圭冠、冠而著括緒褌。

(又、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、男女(をとこをみな)、並(とも)に衣服(ころも)は、襴(すそつき)有るも、襴無きも、及び、結ひ紐、長紐(ながひも)、意(こころ)の任(まま)に之れを服(き)よ。其の會-集(まゐうごならむ)の日には、襴(すそつき)の衣を著て、長紐を著けよ。唯し、男子(をのこ)は圭-冠(はしはかうぶり)有らば、冠(かうぶ)りて、括(くく)り緒(を)の褌(はかま)を著けよ。)

   *

②勅、定明位已下進位已上之朝服色。淨位已上並著朱華。正位深紫、直位淺紫、勤位深綠、務位淺綠、追位深蒲萄、進位淺蒲萄。

(勅(みことのり)して、明位(みやうゐ)は已-下(しも)、進位より已-上(かみ)の朝-服(みかどころ)の色を定む。淨位より已上は、並(みな)、朱華(はねず)を著る。正位は深紫、直位(ぢきゐ)は淺紫、勤位(ごんゐ)は深綠、務位(むゐ)は淺綠、追位(ついゐ)は深蒲萄(ふかえびぞめ)、進位は淺蒲萄(ああえびぞめ)。)

   *

 なお、以下の三条の引用(江戸時代の丹後田辺藩(明治維新後に舞鶴藩に改称)の奢侈禁止の御触れ書きらしきもの)は前後が一行空き。]

 

 『衣裳の襟及び袖口には絹を用ふるもよし、また絹或は縮緬の帶を用ふるもよし――但し公儀に於ては許されず……』

 『二十石以下の列にある家族は、武田椀及び日光膳を用ふべし』……〔この二品は漆製品の一番廉價なものである〕

 『大百姓或は組頭は傘を用ふる事を得、但し小百姓、小作人等は簑と藁傘(饅頭笠)のみを用ふべし……』

[やぶちゃん注:「武田椀」旧山陰道但馬国竹田藩(現在の兵庫県北部の朝来(あさご)市)にあったとされる竹田塗の椀のことか。「竹田塗」については、個人ブログのこちらを参照されたい。それによれば、ここは古くは『兵庫県では唯一の漆塗り産地として』記されてあったとし、県内に多く植生する栗材を用いた『朴訥とした民芸調の椀』とある(下線太字やぶちゃん)。

「日光膳」日光塗りの膳椀。日光で産する塗り物で淡色の春慶塗の一種。粗製であるが、地質は堅牢である。]

 

 ヰグモア數授に依つて公刊されたこの文書は、ただ舞鶴の大名の出した規定のみであるが、これと同樣細かくまた面倒な規定は全國を通じて勵行されたらしい。出雲に於ては、明治以前、各種の階級のものに、着用すべき衣服の原料を規定したのみならず、その色竝びにその型の意匠まで規定した奢侈禁制法のあつた事を私は知つて居た。出雲では家の大いさと共に室の廣さまで法律に依つて定められて居た、――建物及び籬[やぶちゃん注:「まがき」。垣根。]の高さ、窓の數、建築の材料も同樣で……ただに住居の廣さ、家具の價のみならず、また衣服の地質に至るまでも――ただに結婚の支度の費用のみならず、また結婚の宴の性質、食物を入れる器の質までを、ただに婦人の髮につける飾りの種類のみならず、また履物の鼻緒の材料に至るまで――ただに友人に贈る贈物の價のみならず、子供に與へる極低價の玩具の性質や價格までを、規定するやうな法律に、どうして人間が忍んで服し得たのであるか、西洋の人にはとても了解が出來ない。而して社會の特殊な構造は、組合の意志に依つて、かくの如き奢侈禁制法の勵行を可能ならしめたのである、則ち人民自らがそれを強制するのやむなきに至らしめられたのである。すでに言つた通り各組合(村邑[やぶちゃん注:「そんいふ(そんゆう)」。村落。]は、組みと稱して五軒、或はそれ以上の家の一團を作つて居た。そして組を構成する家々の主人は、その内から組頭なる菟のを選び、上の官憲に對して直接に責任を負はした。組はその内の人々の孰れの行跡に對しても責任をもつて居た。そしてその一人は、結局他のものに對して責任をもつて居たのである。前にのべた文書の一に恁う書いてある『組の各員はその仲間の人々の行爲をよく監視して居なくてはならぬ。相當な理由なくしてこれ等の規定を破るものがあれば、そのものは罰せらるべく、またそのものの組は責任を負はせらるべし』と。子供に紙の人形一個以上を與へたといふ、大變な犯罪に對しても[やぶちゃん注:皮肉としてならばそれでよいが、前の「大變な」はここにある方が腑に落ちる。]責任を負はせられたのである……。併し吾々は昔のギリシヤ及びロオマの社會にあつても、これと同種の法律が、澤山にあつたといふ事を、記憶しなければならない。スパルタの法律は、女が髮の毛を結ぶその結ひ方を規定した。アゼンス[やぶちゃん注:既出。「アテナイ」「アテネ」のこと。]の法律は女の衣裳の數をきめた。昔、ロオマでは、女が酒を飮む事を禁じた。ギリシヤのミレタス[やぶちゃん注:ミレトス。エーゲ海を挟んだギリシア本土の対岸、アナトリア半島西海岸(現在のトルコのアイドゥン県バラト近郊。(グーグル・マップ・データ))のメンデレス川河口付近にあったギリシア人植民地。]及びマツシリア[やぶちゃん注:ギリシア名「マッサリア」。現在のフランスのマルセイユの古代名。]の都にも、同樣な法律があつた。ロオヅ[やぶちゃん注:ギリシャのロードス島のことか。]及びビザンテイウム[やぶちゃん注:ビザンチウム。東ローマ帝国の首都。前七世紀にメカラ人の植民都市として建設されたが、後の三三〇年にコンスタンティヌスⅠ世がここに遷都したことから「コンスタンティノポリス」ともよばれた。現在のイスタンブール。]では、市民は髯を剃る事を禁じられ、スパルタではまた市民が口髯を生やす事を禁じられて居た(私は結婚の宴の價竝びにその饗宴に招かれる客人の數を規定したやや後代のロオマの法律の事を言ふ必要はあるまいと思ふ、何となればこの法律は主として奢侈を禁ずるためであつたから)日本の奢侈禁制法、特にその百姓の上に被らされたものに依つて、起される驚異の感は、その性質の如何に依つてといふよりも、その如何にも無遠慮に微細に亙つて居る事、――細目に亙つて兇猛であるといふ事に依つて、頷かれる次第である。

 

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