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2018/04/29

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 「歌よみに与ふる書」

 

     「歌よみに与ふる書」

 

 二月十一日は『日本』の創刊記念日である。居士はこの日の紙上に「国都」一篇を掲げ、その翌日から、竹の里人の名を以て「歌よみに与ふる書」を載せはじめた。爾後三月四日の「十たび歌よみに与ふる書」に至るまで、次々に現れた十篇の歌論は、居士が歌壇に足を踏入れる最初の蜂火であった。居士が歌を論ずるのはこれがはじめてではない。「文界八つあたり」以来、折に触れてその所見を述べているわけであるが、正面から攻撃の陣を進めたのはこの「歌よみに与ふる書」である。俳句方面における事業は大体その緒に就き、『新俳句』の刊行をも見る運びになったから、新なる天地を開拓すべく、歌の革新に著手したものかと思われる。

[やぶちゃん注:「歌よみに与ふる書」(歌よみに與ふる書)は「青空文庫」のこちらで正統な正字正仮名で読める。]

 

 「歌よみに与ふる書」十篇の内容は相当多岐にわたっているが、劈頭先ず「仰(おほせ)の如く近來和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば『万葉』以來實朝以來高に振ひ不申候」という一大鉄槌を下して歌壇千年の眠(ねむり)を覚そうとした。『万葉』を崇拝し実朝を尊重した真淵の説でさえ、居士の眼から見ればその実価を顕揚したものではない。居士はこの辺から論を進め、次いで「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」と喝破した。これは正に第二の鉄槌である。居士は「實は斯く申す生も數年前までは『古今集』崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が『古今集』を崇拜する氣味合(きみあひ)は能く存申候」といっている。一度月並の世界を窺って後これを脱却し、『古今集』崇拝の過程を経て後これを抛擲する。居士の強味はむしろこの点にある。漫罵(まんば)自らよろこぶの境にとどまらず、一々その弊所に触れるのは偶然でない。

[やぶちゃん注:『居士は「實は斯く申す生も數年前までは『古今集』崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が『古今集』を崇拜する氣味合(きみあひ)は能く存申候」といっている』やや書き方が粗雑で、前者の引用は、確かに「歌よみに與ふる書」の冒頭だが、こちらは同回文章中の記載ではなく、連載第二回の「再び歌よみに與ふる書」(『日本附録週報(明治三一(一九〇八)年二月十四日。新聞『日本』の付録として一週間ごとに、月曜日に発行されたもの)の頭の部分である。

「氣味合」趣き。気分。気持ち。

「漫罵」無暗に相手を罵(ののし)ること。]

 

 居士は総論的に眼目を定めた上、各論として実例の吟味にかかった。世間に伝誦(でんしょう)される歌が如何に下らぬものであるかということにつき、『古今集』その他の歌数首を挙げて、その下らぬ所以を細説している。この筆法はかつて「芭蕉雑談」において試みたのと同じ行き方であるが、前人の批判を顧慮せず、直(じか)に自己の眼孔を以て臨むところに居士の歌論の大きな特色がある。在来の学者が拘泥するような点も、構わず飛越えて進み得るのはそのためである。自分は古今東西に通ずる文学の標準――自らかく信じている標準――によって文学を論評する、昔は風帆船(ふうはんせん)が早かった時代があるにしろ、蒸汽船を知っている眼から見れば、風帆船は遅いというのが至当である。仮に貫之が貫之時代の歌の上手であるにしたところで、前後の歌よみを比較して、貫之より上手な者が沢山あると思ったら、貫之を下手と評することもまた至当でなければならぬ。――居士はこの態度を以て古来の歌を評し去ったのであった。

 宗匠的俳句が直(ただち)が俗気(ぞくけ)を連想せしむる如く、和歌というと直に陳腐を連想する、和歌の腐敗は趣向の変化せぬことが原因であり、趣向の変化せぬのは用語の少いのが原因である。だから趣向の変化を望む以上は、是非とも用語の区域を広くしなければならぬ、という観点から、居士は次のように論じた。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。これは「七たび歌よみに與ふる書」(『日本』二月二十八日)の第三段落の部分。以下、「歌よみに與ふる書」の引用は総て先に示した正字正仮名青空文庫」で校合した。但し、一部の漢字は私が正字化している。]

 

外國の語も用ゐよ、外國に行はるゝ文學思想も取れよと申す事に就きて、日本文學を破壞 する者と思惟する人も有之(これある)げに候へども、それは既に根本に於て誤り居候。たとひ漢語の詩を作るとも、洋語の詩を作るとも、將(は)たサンスクリツトの詩を作るとも、日本人が作りたる上は日本の文學に相違無之候。唐制に模して位階も定め服色も定め、年號も定め置き、唐ぶりたる冠衣を著け候とも、日本人が組織したる政府は日本政府と可申候。英國の軍艦を買ひ、獨國の大砲を買ひ、それで戰に勝ちたりとも、運用したる人にして日本人ならば日本の勝と可申候。

 

 こういう言葉を読むと、直に汪洋(おうよう)たる[やぶちゃん注:ゆったりとして広大なさま。]居士の胸懐に触れるような気がする。居士の頭の中には本末の別が明に立っている。「如何なる詞(ことば)にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申(まうすべく)、之を外にして歌の詞といふ者は無之候」[やぶちゃん注:同じ「七たび歌よみに與ふる書」のコーダの一節。]という一語によってもわかるように、古来の歌よみのめぐらした柵の如きは、頓著なしに破壊して通るけれども、「如何に區域を廣くするとも非文學的思想は容(い)れ不申、非文學的思想とは理窟の事に有之候」[やぶちゃん注:これも「七たび歌よみに與ふる書」の第二段落の一節。]という一点に至ると、断々乎(だんだんこ)として毫も仮借せぬ。居士の眼から見れば、世間の歌よみは些々たる小問題にのみ拘泥して、根本の大問題を閑却するものとしか思われなかった。当時は居士の所論を読んでもそこがわからず、「いづれの世にいづれの人が理窟を詠みては歌にあらずと定め候哉」という暢気な質問を提出して、「理窟が文學に非ずとは古今の人東西の人盡(ことごと)く一致したる定義にて、若し理窟をも文學なりと申す人あらば、それは大方日本の歌よみならんと存候」と居士から一蹴される人もあったのである。

[やぶちゃん注:最後のとぼけた読者との応答は、これ等より前の「六たび歌よみに與ふる書」(『日本』二月二十四日)の冒頭の一節。]

 

 有名な歌の下らぬ所以を指摘した居士は、いい歌の例として実朝の歌数首を挙げ、次いで『新古今』に及んだ。居士は『俳諧大要』において和歌と俳句との関係を論じた時、「『新古今集』には間々佳篇あり」といい、「なこの海霞(かすみ)のまよりながむれば入日を洗ふ沖つ白浪」とか、「閨(ねや)の上にかたえさしおほひ外面(とのも)なる葉廣柏(はびろがしは)に霰(あられ)ふるなり」とかいう歌は、俳句にもなり得べき意匠であるとした。居士が『新古今』から引いた歌は、大体客観的なものが多いようであるが、最後に伝教大師の「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の佛たちわが立つ杣(そま)に冥加(みやうが)あらせたまへ」の一首を挙げ、「いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、此歌を勅撰集に加へたる勇氣も稱するに足るべくと存候」と賞揚した。居士を以て客観歌にのみ偏するという人に対しては、実朝の歌を挙げて必ずしも然らざる旨を説き、強い調子の歌に偏するという人に対しては『新古今』の数首を挙げて、また然らざる所以を弁じたもののように見える。「阿耨多羅」の一首を挙げたのは、『新古今』の中においても客観歌に偏するものでないことを明(あきらか)にすると同時に、字余りの趣味を説こうとしたらしい。字余りの趣味などということは、恐らく在来の歌人のあまり関心を持たぬところであったろう。

[やぶちゃん注:「なこの海霞(かすみ)のまよりながむれば入日を洗ふ沖つ白浪」「新古今和歌集」の「卷第一 春歌上」の後徳大寺左大臣藤原実定の歌(三十五番)、

 

  晩霞といふことをよめる

なごの海の霞のまよりながむれば入る日を洗ふ沖つ白浪

 

「なごの海」は摂津国(現在の大阪市の住吉大社の西方)にあった海岸で、当時は歌枕であったようである。多くは「名兒の海」と書く。

「閨(ねや)の上にかたえさしおほひ外面(とのも)なる葉廣柏(はびろがしは)に霰(あられ)ふるなり」「卷第六 冬歌」の能因法師の一首(六五五番)であるが、「外面」は現行では「そとも」である

 

ねやのうへに片枝(かたえ)さしおほひそともなる葉びろ柏(がしは)に霰ふる也

 

「そとも」は家の後背にある庭。

「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の佛たちわが立つ杣(そま)に冥加(みやうが)あらせたまへ」「卷第二十 釋教歌」の伝教大師最澄の一首(一九二〇番)、

 

  比叡山中堂建立の時

阿耨多羅三藐三菩提の佛たちわがたつ杣に冥加あらせたまへ

 

「阿耨多羅三藐三菩提」サンスクリット語の漢音写。「最高の理想的な悟り」の意で「無上正等覺」などとも訳され、「阿耨菩提」などと略号もされる。「一切の真理を遍(あまね)く知った最上の智慧」或いは「絶対不変の永遠の真理を悟った境地」のこと、或いはそれを言祝ぐもの。「杣」杣山。古代から中世にかけて本邦で国家・権門や寺社が所有していた山林のこと。ここは比叡山を指す。「冥加」知らず知らずのうちに仏・菩薩や神から加護を被ること。仏は潜在的に衆生それぞれの能力に応じてこれを与えるとされた。]

 

 居士は「歌よみに与ふる書」十篇を通じて、唯一の標準を文学的価値に置き、第二義的な附属的条件は一切これを排除した。当時の既成歌人の如きは最初から居士の問題とするところでなかった。「歌よまんとする少年あらば老人抔にかまはず勝手に歌を詠むが善かるべしと御傳言可被下(くださるべく)候。明治の漢詩壇が振ひたるは老人そちのけにして靑年の詩人が出たる故に候。俳句の觀を改めたるも月並連に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候」という数語は居士の目的の那辺に存するかを窺うべきもので、居士は歌よみならぬ歌よみが出て、和歌の革新に協力すべきことを期待していたのであった。

[やぶちゃん注:以上の引用は最終回「十たび歌よみに與ふる書」(『日本』三月四日)の一節。]

 

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