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2018/04/01

栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注 始動

 

[やぶちゃん注:以下は、栗本丹洲が本邦産の「翻車」=マンボウ(条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola。但し、既に「栗本丹洲 単品軸装「斑車魚」(マンボウ)」の注でも述べた通り、現行では、全世界のマンボウ属のミトコンドリアDNAD-loop領域の分子系統解析によって、日本近海に棲息するマンボウ属は、少なくとも、三種(group A/B/C)に分かれるという解析結果が得られており、近い将来、新たな複数種の学名が新たに起される可能性が極めて高くなっている)について図を挿みながら、考証した、文政八(一八二五)年に記された自筆稿である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの、こちらの、表紙題簽に「翻車考 栗本丹洲自筆原稿」「完」とするものの画像を視認した。実は同コレクションには今一つ『自筆』とする「翻車考」があるのであるが(こちら)、文字を見ると、明らかに前者とは別な人間の筆跡と私は見た。則ち、後者は「自筆原稿」の写本ではないかと踏んだ(一部の絵の彩色などには見逃せないいい部分はある)ので、それは参考として見るに留めた(但し、底本は丹洲自身(或いは後の所蔵者)が剥落を補填した箇所や脱字を後から補填した部分が多数あり、判読に困る箇所もあるので大いに役立った本文は上のリンクで確認されたい(ブログの容量がパンクしかかかっているので、本文だけの頁は原則、画像としては出さない予定である。なお、最近、国立国会図書館デジタルコレクションは新たに「全コマダウンロード」というとても美味しいボタンが追加されたので容易に全ページを一発でダウンロード出来る。是非、お試しあれ!)。図は総ての頁を載せる。

 最初に、可能な限り、原典のままの表記を再現した「■翻刻1」を示す。一部の漢字が俗字である場合は、その俗字で表記した(迷った場合は正字を採用した)。また、添書き等も再現した。但し、カタカナは概ねやや小さく書かれており、中には有意に漢文の訓点の送り仮名のように、右に寄せてあるものもあるが、それは今回は無視し、総て同ポイントで示した。次に「■翻刻2」として、「■翻刻1」を読み易く書き換えたものを示し、その後の私の注を添えた。判読不能な箇所は「□」で示した。【2018年4月1日 藪野直史】]

 

□表紙題簽国立国会図書館デジタルコレクションの画像のコマ目

 

翻車考 栗本丹洲自筆原稿

              

 

[やぶちゃん注:「完」は「完本」の意であろう。この表紙には、他に、右上から下に向かって、

・「貴重品」という赤い付箋一枚

・国会図書館のものと思われる図書分類ラベル一枚(最上段に「特7」、中段に「別圖」という左を頭にした横倒しの文字(楕円の枠を持つ)、最下段に「232」という数字が見えるが、これは現行の日本十進分類法の数字ではない。三種とも印判で手書きではない)

表紙自体に押された長方形の赤い印判(上は二行割注で左右に二字があるが、判読不能。その下に大きく「帙入」とある)

・「別圖」という楕円形の印判が押された薄い和紙らしき付箋

・白い四角な紙に朱で捺された「伊藤篤太郎記」(後述)

・二枚目と全く同じ印刷様式の図書分類ラベル一枚(最上段に「別11」中段は空白、最下段に「29」という数字がある。これも無論、日本十進分類法の数字ではないが、明らかに上のものよりも後に新しく張られたものらしく(紙のヤケが弱く、上のものよりも微かに全体が白い)、また、孰れの数字も手書き(墨書き)である)

がある。現在の日本十進分類法の原型が図書館で使用されるようになるのは、昭和四(一九二九)年九月以降と考えられるから、これは帝国図書館時代の同図書館独自の整理番号であると思われ、最上部のものは間違いなく、それ以前の図書ラベルと考えてよい。最下段のものは、日本十進分類法以降のものと思われるが、自筆本という特殊性から、番号はやはり特別な同図書館で本書に与えられた整理番号と考えられる。

 次の表紙裏の識語を書いている伊藤篤太郎(とくたろう 慶応元(一八六六)年~昭和一六(一九四一)年)は植物学者。ウィキの「伊藤篤太郎」によれば、尾張国生まれで、『父親は本草学者、伊藤圭介の弟子で、圭介の女婿となった伊藤(中野)延吉である』。明治五(一八七二)年に上京し、『祖父圭介のもとで植物学を学び』、明治一七(一八八四)年から『イギリスのケンブリッジ大学などに私費留学をした』。明治二〇(一八八七)年に『帰国、愛知県の尋常中学校』で教え、明治二七(一八九四)年からは『鹿児島高等中学造士館で教職についた』。『鹿児島時代は、沖縄諸島の植物の収集を行い、後に』、帝国大学理学部植物学科教授であった松村任三(十歳年長)と「琉球植物説」(明治三二(一八九九)年)を発表している。明治二九(一八九六)年に『造士館が閉鎖になると、愛知県立第一中学校で教職についた』。また、その翌年から翌々年にかけては、『祖父圭介を顕彰する「錦窠翁九十賀寿博物会誌」や「理学博士伊藤圭介翁小伝」の編集、執筆を行っ』ている。大正一〇(一九二一)年に『東北帝国大学に生物学科が新設されると』、『その講師となった。著書に「大日本植物図彙」などがある』とある。]

 

 

□表紙裏(伊藤篤太郎の識語。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のコマ目の見開きの右頁)

■翻刻1(一行字数も合わせた原本そのまま。二箇所に解れたポイント落ちの行間添書きは原典では朱書でもっと下部にある。「品ニ」は抹消字(衍字を二つの「ヽ」と二重線で消したもの)と判断した

翻車考一篇ハ德川幕府ノ醫官、瑞仙院法印栗本丹洲ノ

所著ニ乄實ニソノ自筆原稿也。まんぼう一名うききハ古來之ヲ

楂魚ニ充テタルモ丹洲ハ新ニ之ヲ飜車ト考定セリ。

此原稿ハ丹洲ノ外孫、孟鴻大淵常範ノ舊藏ニ乄大淵文

庫ノ藏書印アリ。其後曲直瀨愛ノ所有ニ帰シ、明治十五年

四月十六日、東京上野不忍生池院ニ於テ家主父錦窠伊藤圭介

先生八十賀壽賀耋筵會開催ノ際席上ニ陳列セリ。曲直瀨愛ノ出品ニ

品ニ係ル。ソノ解題ニ曰、『栗本丹洲叟和漢諸當テ引證シテ「マンボウ」ヲ

翻車〔魚〕ニ充ツルノ説ニ乄自ラ丹青ヲ施セシ原本ナリ。元ト大淵氏ノ所

藏ニ係ルト云フ』トアリ。愛ハ秋香園ト號シ幕府醫官養安院法眼曲直

瀨直(號摂菴)ノ男ナリ。此書五十四年ノ後、今玆、余ノ架藏トナル誠ニ奇也ト謂フベシ。

 追考スルニ此書内表紙曲直瀨愛藏書印ノ上ニ「飜車考」ノ

  昭和十年八月七日 七十一齡 伊藤篤太郎識

 三字ハ愛ノ筆ナリ

 

■翻刻2(カタカナは概ね、ひらがなに代え、約物を正字化、読点や記号を追加(抹消部は除去)、さらに送り仮名の一部も出して、連続すべき箇所をジョイントした(一部は改行した)。朱書の添書きは最後に本文と同ポイントにして纏めた。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添え、読み易さを考えて添えた字は〔 〕で示した)

 「翻車考」一篇は、德川幕府の醫官、瑞仙院法印栗本丹洲の所著にして、實(じつ)に、その自筆原稿也(なり)。「まんぼう」、一名、「うきき」は、古來、之れを「楂魚」に充(あ)てたるも、丹洲は新たに之れを「飜車」と考定(かうてい)せり。

 此の原稿は丹洲の外孫、孟鴻大淵常範の舊藏にして、「大淵文庫」の藏書印あり。其の後、曲直瀨愛(まなせめぐむ)の所有に帰(き)し、明治十五年四月十六日、東京上野不忍生池院に於いて、家主(いへあるじ)〔の〕父、「錦窠(きんか)伊藤圭介先生八十賀壽賀耋筵會(てつえんくわい)」開催の際、席上に陳列せり。曲直瀨愛の出品に係る。その解題に曰く、

『栗本丹洲叟、和漢、諸(もろもろ)、當りて引證(いんしやう)して、「マンボウ」を「翻車〔魚〕」に充(あ)つるの説にして、自(みづか)ら丹青を施せし原本なり。元(も)と、大淵氏の所藏に係ると云ふ。』

とあり。

 愛は秋香園と號し、幕府醫官、養安院法眼(ほうげん)曲直瀨直(まなせなほし)(號、摂菴。)の男なり。此の書、五十四年の後、今、玆(ここ)に、余の架藏となる。誠に奇也(なり)と謂ふべし。

  昭和十年八月七日 七十一齡 伊藤篤太郎識

 

追考するに、此の書、内表紙、曲直瀨愛藏書印の上に〔ある〕「飜車考」の三字は、愛の筆なり。

 

[やぶちゃん注:「瑞仙院法印栗本丹洲」「瑞仙院法印」栗本丹洲は天保元(一八三〇)年一月に幕医の最高位である法印(近世には上位の公的に認められた医師に僧位が与えられた)に叙せられ、「瑞仙院」と号した。彼の戒名は「瑞仙院樂我居士」である。

「うきき」古くからのマンボウの異名で特に東北地方で呼ばれる。「うきぎ」とも。「浮木(魚)」の意と思われ、動作の緩慢なマンボウが弱ったりして海面に浮いたり、横たわっているのを見て名づけられたものであろう。

「楂魚」「楂」は「筏(いかだ)・浮き木」の意で、現代中国語でも、異名としてマンボウを指すようである(正式には丹洲が支持した「翻車魚」で、他に「翻車魨」「曼波魚」「頭魚」とも称する)。但し、紡錘形の魚類が、弱って水面に浮いていれば、浮き木のようだし、カツオ辺りは釣り上げられたそれは、まさに浮き木の丸太みたようなものではある。そもそも、丹洲に先行する、医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」(李時珍の「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの)では、

   *

楂魚【訓宇岐岐】

釋名【此魚無名字故據俚語製字楂者浮木也】

集解常奥海濵采之狀類海鰩大者方一二丈小者五六寸無鱗色白性愚不知死漁人遇江上則懸長釣而留使魚不能動躍用小刀割魚背取白腸而歸其腸長丈餘呼號百尋其肉味亦不惡小者海俗食之稱佳而下品然肉易餒敗不能經時故漁人不采肉而去其腸作作糟或乾曝而鬻之國守亦貢獻之

氣味甘溫無毒主治專宜癰疽瘰癧之類癰疸全不食者用未醬而煎之食肉啜汁則必進食

   *

□やぶちゃんの書き下し文

楂魚【「宇岐岐(うきき)」と訓ず。】

釋名【此の魚、名字、無し。故に俚語によりて、字を製す。「楂」は「浮き木」なり。】

集解常・奥の海濵、之れを采る。狀(かたち)、海-鰩(えい)の類にして、大なる者、方、一、二丈。小なる者、五、六寸。無鱗。色、白く、性、愚にして死ぬるを知らず、漁人、江上に遇ふときは、則ち、長釣(ながばり)を懸けて留(とど)む。魚をして動躍(どうやく)すること、能はず。小刀を用ひて、魚の背を割(さ)き、白き腸(はらわた)を取りて歸る。其の腸、長(た)け丈餘、呼びて、「百尋(ひやくひろ)」と號す。其の肉味も亦、惡しからず。小なる者は、海俗、之れを食ひて、佳(よ)しと稱すれども、下品なり。然れども、肉、餒敗(だいはい)し易く[やぶちゃん注:腐り易く。]、時を經ること能はず。故に、漁人、肉を采(と)らずして去る。其の腸(はらわた)、(しほづけ)と作(な)し、糟(かすづけ)と作し、或いは乾し曝して之れを鬻(ひさ)ぐ。國守も亦、之れを貢獻す。

腸(はらわた)氣味甘溫、無毒。主治專ら、癰疽・瘰癧の類ひに宜(よろ)し。癰疸にて全く食せざる者は未醬(みそ)を用ひて之れを煎じて、肉を食ひ、汁を啜るときは、則ち、必ず、食を進む。

   *

とあるのである。……この「本朝食鑑」の記載、愚鈍で動きが鈍い、入り江に入って来て逃げることもなく、死ぬのも知らぬ阿呆で、容易に漁師につかまってしまう、白い肉、何より腸を「百尋」など呼ぶのは、うん、確かに「マンボウ」ではある……あるが……はて……「海-鰩(えい)の類にして、大なる者、方、一、二丈。小なる者、五、六寸。無鱗」?……マンボウ、入り江なんかに入ってくるかぁ?……って感じませんか?

 さてもそこで次に、私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(正徳二(一七一二)年自序だからやはり本「翻車考」よりも百年も前)の「楂魚」をどうしても見て貰いたいのである。「うきゝ」「まんぼう」とある。解説は「本朝食鑑」と非常によく似ている(参考にした可能性が高い)。しかしだ! そこの掲げられた絵は「マンボウ」には見えない。巨大な「エイ」なのだ! しかし、この絵、凝視していると、形がマンボウそっくりなのだ!(当該図をいじってエイがマンボウに変わる実験も稚拙だがやってあるので是非見られたい) 実は「和漢三才図会」の本文も『狀、鱝(えい)に類して方にして、故に満方魚と名づく』とやらかしちゃってるんだ!

 この二つの先行する解説と良安のトンデモ絵を見た丹洲が、軟骨魚類を親しく観察して描いてきた丹洲が、

――「こんなものはマンボウじゃない! エイだよ! エイ!」

と怒り狂って叫ぶのは目に見えているではないか!

 だからこそ、丹洲はこの書を認(したた)め、

――「楂魚」はマンボウに非ず! マンボウは本草書に出る「飜車」に比定すべき!

としたのであったと私は思うのである。

「考定せり」考証して、誤った漢名を廃し、改めて正しい漢名を比定同定した。

「丹洲の外孫、孟鴻大淵常範」(おおぶちつねのり 文化一三(一八一六)年~明治二二(一八八九)年)は丹洲の孫で本草学者。「孟鴻」(もうこう)は字(あざな)で通称を祐玄(ゆうげん)と称した。父は丹洲の次子友玄であったが、彼は大淵家に養子に入った(だから「外孫」但し、この語は正確には他家に嫁いだ娘が生んだ子を指す)。本草学を栗本丹洲に学び、同じく幕府医官となって、元治元(一八六四)年には侍医法眼を授けられた。明治一五(一八八二)年には他の医師らとともに「和漢医学講究所」に於いて「温知社薬物会」を開いている。以上は「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の彼の著作「麞麝考」(しょうじゃこう:鹿の一種である麞(のろ/くじか:哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus/ノロジカ族キバノロ属キバノロHydropotes inermis chinese)と麝(じゃこうじか:反芻亜目真反芻下目亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus)に就いて和漢の諸書に見える記述を博捜した考証書。漢文久三(一八六三)年頃刊か)の備考に拠った。

「曲直瀨愛(まなせめぐむ)」生年は嘉永四(一八五一)年で、江戸生まれ。明治二一(一八八八)年没。本草学と英語を修めたと、所持する「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)の「栗本丹洲」の脚注にある。伊藤は最後に「愛は秋香園と號し、幕府醫官、養安院法眼(ほうげん)曲直瀨直(まなせなほし)(號、摂菴。)の男なり」(「なほし」の読みは「めぐむ」に合わせて推定で訓読みした)と記しているが、実は彼の事蹟は殆んど判っていないようである。友田清彦論文明治初期の農業結社と大日本農会の創設(1)――東洋農会と東京談農会――(PDF)が数少ない彼の事蹟を捉えた記載で、それによれば、その特異な姓から、『戦国から安土桃山時代の著名な医家曲直瀬道三の系譜を引くのであろうか。曲直瀬姓は代々医家の家系で、幕末には曲直瀬篁庵が医家・本草家として活躍している。曲直瀬は』『静岡県士族であり、その名が『官員録』に登場するのは、管見の限りでは』明治一三(一八八〇)年『からである。すなわち、この年、内務省勧農局御用掛准判任として曲直瀬の名が見られるが、すでにその前年の』明治十二『年に刊行された内国勧業博覧会事務局発行の『明治十年内国勧業博覧会列品訳名』『は曲直瀬愛等編となっているので これ以前から雇等として官辺にあった可能性もある』。明治十四年から同十八年『まで農商務省農務局御用掛准判任を勤め』、明治十九年に農商務省農務局五等属となった。同年』十二『月改正『職員録』の農商務省には曲直瀬の名は見られない。農務局在職中の』明治十六年には我が国最初の昆虫採集保存法の単行本「採蟲指南」を『有隣堂から刊行しており、さらに』明治二〇(一八八七)年にも、「日本柑橘品彙図解」を『公にしている』ほか、島田豊纂訳「和訳英字彙 附音插図」(一八八八年)や、田中芳男・小野職愨撰「有用植物図説」(一八九一年)の『校訂なども行っている』。ともかくも、彼は『旧幕臣のテクノクラートである可能性が大きい』とある。なお、彼の著作とされる「採蟲指南」(立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める)であるが、先の「彩色 江戸博物学集成」脚注には、これは実は曲直瀬が書いたものではなく、『田中善男の著といわれる』とあることを言い添えておく。

「明治十五年」一八八二年。

「東京上野不忍生池院」台東区上野公園の不忍池にある寛永寺弁天堂のこと。寛永寺直末として天龍山妙音寺生池院という別号も名乗っていた。

「家主(いへあるじ)〔の〕父」前に注した通り、伊藤篤太郎の父親は、本草学者伊藤圭介(後注参照)の弟子で、圭介の娘婿となった伊藤(中野)延吉であるから、伊藤家の形の上での家主で父権を握っていたのは伊藤圭介であったから、この謂いは頗る腑に落ちる。

「錦窠(きんか)伊藤圭介」(享和三(一八〇三)年~明治三四(一九〇一)年)は幕末から明治期に活躍した理学博士。ウィキの「伊藤圭介によれば、『「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作った事でも知られる。尾張国名古屋(現愛知県名古屋市)出身。名は舜民、清民。字は戴堯、圭介』、「錦窠」は号。『町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ』、文政三(一八二〇)年に『町医の資格を得て開業』するも、翌年には『京都に遊学し、藤林泰助より蘭学を学ぶ』。文政一〇(一八二七)年、『長崎にてシーボルトより』、『本草学を学ぶ。翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの』「日本植物誌」を受け取ると、これを翻訳して、文政十二年に「泰西本草名疏」として刊行している。嘉永五(一八五二)年、『尾張藩より種痘法取調を命ぜられ』る。文久元(一八六一)年、『幕府の蕃書調所物産所出役に登用される』。明治三(一八七〇)年、『名古屋を離れて東京に移り住み、明治政府に仕え』、明治一四(一八八一)年、『東京大学教授に任ぜられ』、明治二一(一八八八年)には『日本初の理学博士の学位を受けた。また初代の東京学士会院会員となった』とある。この「錦窠伊藤圭介先生八十賀壽賀耋筵會(てつえんくわい)」(「耋」は「年寄り」の意で、特に八十歳の人を指す。所謂、「傘寿」の祝いの宴会である)の折りの内容や言祝ぎの集成が、国立国会図書館デジタルコレクションの錦窠翁耋筵誌 本日寄贈ノ書並出品解説)」の画像で視認出来る。残念ながら、この「巻二」には本書は入っていない。「巻一」に載るのかも知れぬが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像には「巻一」は、これまた、残念ながら、ないのである。

「丹青」丹精。

「五十四年の後」数え。

「昭和十年」一九三五年。]

 

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