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2018/04/17

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 熊谷彌惣左衞門の話 四~六 / 柳田國男「一目小僧その他」全電子化注~完遂

 

     四

 

 この通り、加賀と越前の熊谷彌惣左衞門稻荷は、共に松島の新左衞門同樣に江戸還りであります。ところがその淺草の熊谷稻荷の緣起も、現在あるものと古くからのものとは、よほど違つて居るのであります。第一には稻荷の名でありますが、江戸總鹿子大全といふ元祿年中の書には、明瞭に熊谷彌惣左衞門稻荷とありますのに、江戸砂子の方には熊谷安左衞門稻荷とあります。現在の多くの書物の安左衞門は、すべて江戸砂子によつたものと思はれます。

[やぶちゃん注:「江戸總鹿子大全」元禄三(一六九〇)年に板行された江戸の地誌。藤田利兵衛(生没年も事蹟も不詳)著。先行する藤田の江戸地誌「江戸鹿子」の、藤田自身による増補版。本文は全六巻で「江戸鹿子」と同じだが、当時の人気絵師菱川師宣の挿絵が挿入され、「江戸鹿子」以上に好評を博した。

「江戸砂子」江戸中期に俳人菊岡沾涼が書いた江戸の地誌。「江戸砂子溫故名跡志」とも称する。享保一七(一七三二)年刊(編集に八年をかけている)。江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。]

 

 そこで江戸砂子の話を又簡單に申し上げると、年代は大分食ひ違つてをりますが、越前の大守、或年三日三夜の大卷狩を企てられたところ、その前夜に、御先手を勤める熊谷安左衞門のところへ、一匹の老狐がやつて來て言ふには、どうか今度の卷狩には、私どもの一族だけは是非お宥しを願ひたいと、是は狐にも似合わぬ利己主義な話でありますが、どうか私の一族だけは助けて下さいと賴みました。そこで安左衞門が、お前の一族だか、他の狐の一族だか、その區別がどうして人間にわかるかといつたところが、私の一族は尾の尖がちょつと白いからわかります。どうか尾の尖の白い狐は許して下さいといつて歸りました。そこで早速殿樣に話し、殿樣も亦人の好い方で、それでは助けてやらうといふことになつて、翌日からの狩には、白い尻尾を立てゝ見せた狐だけは助けてもらふことが出來ました。この安左衞門も後にやはり何かの理由で浪人をして、これも江戸に出て、白銀町に住んでをりました。ところが小傳馬町の藥師堂の前に住む障子作り、建具職の忰の長次郎といふ者が、ある日淺草觀世音に參詣して、手洗場の附近で、一見したところ田舍者らしき若い夫婦の者と喧嘩して歸つて來た。さうしたらその晩から狐がついて、大騷ぎになりました。俺は越前の國の狐である。無禮をしたからこの男に取憑いた。どんなことをしたつて落ちないぞと、頻りに威張つてゐるそばから、併し若しこの近所に熊谷安左衞門といふ人がをりはしないか。この人には曾て狩場の恩があるから、その人が來ると俺は如何ともすることが出來ないといつた。搜して見たところ白銀町の、何れひどい裏長屋でありませうが、熊谷安左衞門という浪人が住んで居た。是非々々お願ひ申しますといつて賴んで連れて來たところが、狐は平身低頭をして早速に落ちて立退いたといふのは、何だか豫め打合せでもして置いたやうな話であります。爰に至つてかこの熊谷安左衞門が狐を追ひ落すといふことが評判になつて、小石川のさる御大家に抱へられて立身したといふ話であります。その結果最初には紺屋町邊の宮大工の店から、小さいお宮を買つて來て家に祀つてをつたが、後程なく淺草觀世音の境内に、熊谷稻荷として祀ることになつた、といふのが江戸砂子の説であります。江戸砂子が有名な著書である如く、この話も一般に非常に有名な話であります。武江年表にもちやんと出て居るのであります。

[やぶちゃん注:「白銀町」現在の東京都新宿区白銀町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「紺屋町」東京都千代田区神田紺屋町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「武江年表」斎藤月岑(げっしん 文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年)江戸後末期から明治の文人。名は幸成(ゆきなり)が江戸府内外に起った事柄を編年体に記したもの。全十二巻。正編八巻は嘉永元(一八四八)年に、続編四巻は明治十一年成立。正編は天正一八(一五九〇)年の徳川家康の関東入国から嘉永元(一八四八)年まで、続編は同二年から明治六(一八七三)年までで、江戸の地理の沿革や風俗の変遷、巷談・異聞などを記録している。]

 

 寛文三年[やぶちゃん注:一六六三年。]六月十五日(淺草志には寛文二年)淺草に熊谷安左衞門稻荷社を勸請と、武江年表の中には出て居ります。それから四十五六年も經つて、また同じ年表の寶永四年[やぶちゃん注:一七〇七年。]九月四日の條には、熊谷安左衞門卒す、墓は新堀端橫町本法寺にありとあつて、辭世の歌一首を掲げております。

     拂へども浮世の雲のはても無し曇らば曇れ月は有明

人に狐などをつけて置きながら、是は又餘りにす濟まし返つた辭世の歌だと思はれますが、狐と彼との關係とてもやはり一つの傳説で、ごくごく確かな話とはいへないのであります。第一に先程申す如く、この浪人の名字が熊谷だといふことは餘程疑はしいのであります。現にこの辭世の歌の刻んである本法寺の墓を見ますと、何處にも熊谷といふ名字は書いてないのであります。石碑の表は夫婦で、男の方は山本院東雲日賴居士とあつて、本來山本といふ名字であつたことが想像出來るのであります。淺草の熊谷稻荷の傍にも、元は一つの石碑がありました。この石碑には山本院一中日賴とあつて、妻妹の戒名と連名になつておりました。兎に角に曇らばくもれ月は有明の歌をよんだ安左衞門といふ人は法華の行者でありまして、淺草の觀世音の境内にお稻荷さまを建てた人としては似つかはしくないのであります。又寛文三年に稻荷の堂を建てたといふ人が、四十五年後の寶永四年まで生きて居たといふのも、可なり有得べからざることであります。どうも少し長命すぎる。恐らくは同じ人ではなからうと思ひます。それから本法寺の石碑の方には、女房と二人名を並べ、更に淺草觀音にあつたのは妹と三人連名になつて居るのでありますが、是等の點から考へますと、どうやらこの法華の行者が狐使ひで、女房と妹を助手にしてをつたのではないかと思ふのであります。もしさうでなくしてこれが熊谷安左衞門の墓であるとしたならば、女房は兎に角、妹まで出るわけがないのであります。つまり女房とか妹とかの口を借りて、五十年からさきの歷史を語らうとしますれば、話はするたびに少しづゝ、變つて來るのも決して不自然ではないのであります。外國では屢試みられた社會心理の實驗でありますが、人を二十人か三十人一列に並ばせて置いて、簡單な百語か百五十語の話をこちらの一端で話してそれを順々に次の人に傳へさせ、後に他の一端に於て言はせて見ると、もう非常に違つて來るのであります。かやうに隣同士が一列を爲して、口から耳へ卽時に傳へても、それが二十人からの人になると、もう元の形は無くなるのであります。ましてや數十年の久しきに亙つて、何度も同じ事をくり返して話すのであります。同じと思つて居るうちにいつの間にか違つて來るのは、是は寧ろ當然といつてよいのであります。

[やぶちゃん注:「新堀端橫町本法寺」先に示したsunekotanpako氏の「奴伊奈利神社」の「その3」によって、この寺は台東区寿二丁目(地下鉄銀座線田原町駅近く)にある日蓮宗長瀧山本法寺であることが判っている(ここ(グーグル・マップ・データ)。sunekotanpako氏のページには同寺に現存する「熊谷安左衛門廟處碑」及び「熊ヶ谷彌三郎之碑」なる写真が掲載されてある。但し、『安左衛門の墓はわからなかった』と記されておられる)。それにしても「新堀端」というのは、現在の東京都渋谷区広尾附近(ここ(グーグル・マップ・データ))の旧地名で、これではまるで位置が合わない。寺が移転した可能性はあるが、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同寺の詳細事蹟を見るに、そのような事実はない。ところが、松長氏の「本法寺の縁起」の最後には、

   《引用開始》

社伝曰、熊谷安左衛門ハ当寺の檀家ゆへ、初め浅草観音寺内へ勧請せしを、又当寺へ勧請する所なり。熊谷安左衛門墓も当寺にあり。江戸志

毎年十一月廿九日・晦日、脊属祭。盗賊除守札出る。江戸図説

安左衛門ハ元越前の住人にして、山本勘助か甥なり。父を山本図書と云。安左衛門もはしめハ、山本三郎兵衛武頼と云。故ありて氏を熊谷に改む。則当寺の檀家なり。安左衛門、はしめ此社を浅草観音の境内に勧請して、法華経を石に彫りておさむ。其後、故ありて神鉢其外霊宝なと、当寺に移し勧請す。安左衛門か納むる所の縁起、かれか娘の書写せし家の系図も此社に納めてありと云。改撰江戸志(御府内寺社備考より)

   《引用終了》

とあり、「本法寺にある熊谷稲荷」の項には、

   《引用開始》

江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である当本法寺に勧請した。この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸者に参詣多しと書かれているように世に名高い稲荷である。 稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありその中でも人間に福徳をわかつ狐として白狐だけが稲荷大明神の御本尊にえらばれる資格があると云われている。

白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語り継がれているが熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前の津軽藩公が祀った二箇所しかないきわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。(本法寺掲示より)

   《引用終了》

とあるのである。]

 

     五

 

 現在傳はつて居るところの、淺草の熊谷稻荷の緣起なるものは、近頃印刷になつた色々の書物に出てをりますが、これは確かに一種の改良であり、又整頓であつたかと思はれます。それを搔いつまんで申しますと、昔近江の國伊吹山の麓に山本圖書武了(たけのり)といふ武士が住んでゐた。越前の太守朝倉義景に仕へてをつた。あるときの狩の前夜、白髮の老人入り來つて、やつがれはこの一乘ケ谷の地に永年の間住居する一城小三太宗林といふ狐でござる。一女おさんなる者唯今懷胎して身重く、明日の狩倉の鏃[やぶちゃん注:「やじり」。]を免れんこと覺束ない。どうか御家に傳はるところの傳教大師祕傳の「一の守り」を御貸しあつて、當座の危難を救はしめ玉へとわりなく賴んだ。狩倉の御人數として何たる不心得なことであつたか、快く承引して狐安全の護符を與へたとは、主人に對しては相濟まぬ話であります。ところがその後裔に山本武朝といふ者浪人をして、これもやはり江戸に出て大傳馬町に住し、その名を熊谷安左衞門と改めた。

[やぶちゃん注:「山本圖書武了」不詳であるが、「文化遺産オンライン」の「紙本着色熊谷(くまがい)稲荷縁起絵巻 附(つけたり)紙本墨書熊谷稲荷縁起」に、ここに書かれた伝承が彼の名ととともにそっくり出ているから、かなり知られた伝承であったことが判る。

「朝倉義景」(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)は戦国大名。孝景の子。初め、孫次郎延景と称していたが、天文二一(一五五二)年、将軍足利義輝の偏諱を得て、義景と名乗った。同十七年、父の死により、跡を継ぎ、一乗谷城主となった。加賀・能登・越前の一向一揆と戦ったが、義輝の命により、これと和し、越前を平定。永禄九(一五六六)年、彼を頼った足利義昭を迎えることが出来なかったことから、以後、織田信長を頼った義昭と対立、義昭は同十一年に上洛して将軍職についたが、義景は信長とも対立し、元亀元(一五七〇)年には浅井氏と連合して、姉川で織田・徳川連合軍と戦ったが、大敗を喫し(姉川の戦い)、さらに天正元(一五七三)年には信長の攻撃を受け、居城一乗谷に火を放ち、越前大野で自刃した。義景は歌を二条浄光院に学び、また、京風文化を一乗谷に移してここを小京都たらしめた人物としても知られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「山本武朝」不詳。]

 

 その隣町の小傳馬町の藥師堂の前に住む建具屋半左衞門の一子長右衞門――長右衞門の親が半左衞門は少々おかしい――寛文五年[やぶちゃん注:一六六五年。]七月二十三日と、これは日まではつきり出てをります。その日にこの若い者に狐がついて、口走つていふのには、この者は町人の分際として、夏足袋に雪駄をはき、杖などをついたりして實に不埒な奴である。さうして觀音堂の水産において、我に手水をかけておきながら、却つて喧嘩をしかけて、杖で此方を打つた。憎い奴だからこの男についたといひました。註釋を加えると又理窟になりますが、寛文五年頃に夏足袋に雪駄をはいた町の若者といふのは非常に信じにくい。かういふ亂暴なアナクロニズムは、よくよくお粗末な大衆文藝家でもやれない藝であります。

 それからなほその狐がいふには、俺は越前一乘ケ谷の小三太宗林の一類で越中安江の中の郷に住む宗庵といふ狐の子息、宗彌といふ狐である。山本家に對しては我が先祖にとつて狩庭(かりば)の恩がある。さうして熊谷安左衞門こそは山本家の嫡流であるから、その下知には從はなければならぬと告白した。そこで又早速その熊谷安左衞門を賴みに行きまして、來てもらふと忽ち退散したといふことで、そのときには白狐ではなく、黑白斑の大狐が姿を現はして逃げて行つたと謂つて居ります。それから早速その翌日に淺草觀世音の境内へ祠を建てたといふのが、現在の熊谷稻荷だと新緣起には見えて居るのであります。

[やぶちゃん注:「越中安江の中の郷」不詳。]

 

 我々がこの話の不思議さを了解するため、或はこの話の意味を知るために、先づ問題にしなければならぬのは、昔朝倉義景の時代に在つて、狐が夜分にやつて來て護符を貸して下さいといつたという樣な、さういふ隱密の事件を全體誰がいつまでも記憶してをつたかといふことであります。正面から見て最も主要な歷史家は、小傳馬町の建具屋の忰、夏足袋雪駄の長右衞門であります。その次にはこの浪人の山本氏、卽ち熊谷安左衞門君でありますが、これはきわめて樂な地位であつて、默つてやつて來て、成程そんなこともあつたやうだといふ顏さへして居ればよかつたので、積極的には別に大して働いて居りません。つまり誰が一番この話を保存するに盡力したかといふと、狐が人に憑いて言ふことを眞に受けることの出來た周圍の人々といふことになるのであります。さういふ人々の社會が、三百年前の奇なる史實を、斯くして兎に角に不朽にして呉れたといふ斷定に歸するので、少しぐらいの食違いはさうやかましくいふことも出来ないわけであります。

 

     六

 

 全體江戸の狐狸は、よく昔から北國筋へ往復してゐるのであります。例へば前の三州奇談の中に今一つ、有名な藤兵衞駕籠屋の話があります。これは上州茂林寺の文福茶釜の守鶴、小石川傳通院の宅藏司、江州彦根の宗語狐、或は鎌倉建長寺の使僧が犬に食はれて死んだのを見ると、その正體が狸であつたといふ類の話と、日を同じくして談ぜらるべきものであります。

[やぶちゃん注:「三州奇談」のそれは正編の「卷之三」の「霾翁の墨蹟」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで全文が読める。「霾」は本文を読んで貰うと判るが、本来は音「バイ・マイ」で、訓は「つちふる」(風が土砂を巻きあげて降らせる)、或いは「つちぐもり」(巻き上げられた土砂で空が曇ること)であるが、実は漢字の分解で、「雨」ふるを知る霊力を持った「狸」の意の号である。

「文福茶釜の守鶴」言い方が後の併置の謂い方と比しておかしい。「文福茶釜」は群馬県館林市の曹洞宗青竜山茂林寺に伝わる伝説で、現在も同寺には狸が化けたとされる茶釜が伝わっているが、守鶴は狸の名ではなく、応永元(一三九四)年から正長元(一四二八)年の間、当寺の住持であった僧の名である。その守鶴が愛用した茶釜が、一度水を入れると、一昼夜汲み続けても水がなくならないという伝説が伝えられており、それが文福茶釜と名指されるようになったのである。

「宅藏司」現行、通常は「澤藏司」(たくぞうす)と表記するのが正しい。東京都文京区小石川にある浄土宗無量山伝通院(でんづういん)に伝えられる、僧に化けたとされる狐の名。ウィキの「澤蔵司」によれば、天保四(一八三三)年、『江戸にある伝通院の覚山上人が京都から帰る途上、澤蔵司という若い僧と道連れになった。若い僧は自分の連れが伝通院の覚山上人だと知ると、学寮で学びたいと申し出てきた。若い僧の所作から』、『その才を見抜いた覚山上人は入寮を許可し、かくして澤蔵司は学寮で学ぶことになった』。『澤蔵司は入寮すると非凡な才能をあらわし、皆の関心を寄せた。が、あるとき』、『寝ている澤蔵司に狐の尾が出ているのを同僚の僧に見つかってしまい、上人に自分に短い間ではあったが、仏道を学ばせてもらったことを感謝し、学寮を去った』。『その後』、『一年ほどは、近隣の森に住み、夜ごと戸外で仏法を論じていたという』という妖狐譚である。

「宗語狐」俳人路通絡みの妖狐譚に出る宗語という老人に化けた狐。前に出た「諸国里人談」の巻之五の「九 氣形部」の「宗語狐」として出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る(但し、草書)。

「鎌倉建長寺の使僧が犬に食はれて死んだのを見ると、その正體が狸であつた」かなり知られたもので、「耳囊 卷之八 狸の物書し事」を参照されたい。]

 

 是も金澤城下の淺野といふところに、山屋藤兵衞といふ駕龍舁[やぶちゃん注:「かごかき」。]が、通し駕籠[やぶちゃん注:途中で駕籠の乗り継ぎをせず、目的地まで直行すること。]で客を送つて江戸まで出て來た。その歸りに淺草橋場の總泉寺から、年とつた坊さんを京都の大德寺まで送り屆けることになつて、武州深谷の九兵衞といふ男を相棒として、再び通し駕籠で北國筋を歸つて來た。そのときもやはり建長寺の狸のお使僧と同じ樣に、所々の宿屋では書を書いて人に與へる。その字が今日まで殘つてゐるのです。さうして泊りを重ねて加賀の宮の腰といふ宿場にかゝつて休んでゐると、非常に強い犬が駕籠の中へ首を突つ込んで、その坊さんを引き出して咬み殺してしまつた。吃驚して介抱すると、坊さんの正體は貉であつたといふのであります。さうしてその貉が金を澤山持つてゐる。しかし引き取るものがないので、二人の駕籠屋がこれを持つて、橋場の總泉寺へ來て話をしたところが、總泉寺でいうにはもう二百年も前から、あの老僧は我が寺に住んでゐた。さうして是非京都へ行きたいと言ふので送り出したが、命數は免れ難く、いよいよ道途に於て終りを取るといふ夢の告が既にあつた。その金はお前たちの方へ取つておけといふので、忽ちこの二人が金持になつた云々という奇談であります。

[やぶちゃん注: 「金澤城下の淺野といふところ」先に出た「「三州奇談」の「淺野稻荷」との親和性が強いことが判る。

「淺草橋場の總泉寺」現在は東京都板橋区にある曹洞宗妙亀山総泉寺。この寺は当初は浅草橋場(現在の台東区橋場。ここ(グーグル・マップ・データ)。浅草寺の東北方)にあった。

「加賀の宮の腰」現在の石川県金沢市金石。この附近(グーグル・マップ・データ)。にしても(確かに本文では「北陸道を經てのぼりける」とはあるが)私は何だか変に思う。駕籠屋二人に里心がついて、一度、金沢に戻ってから回るということで請け負ったものか?]

 

 それから又一つ、越中の滑川[やぶちゃん注:「なめりかは」。]在の百姓八郎兵衞といふ者、家貧しくして營みを續け難く、親子三人で北國街道を辿つて江戸へ出ようとした途中、狐がお産をするのを見て、憐れんでその狐の子を介抱してやつた。それから難儀をしいしい武州へ入つて來て、熊谷から少し南の鴻の巢の宿へかゝつたが、食物がなくて路傍の茶店に休んでゐると、そこへ一人の見なれぬ老僧がやつて來て、お前はまことに善人だから餅をくれようといつて、店先から餅を買つて三人の者に食はせた。その老僧が立ち去つてから、茶店の亭主がいふには、お前さんは何か善いことをして來ましたね。あの人は四五年前からこの土地をあるいてゐる不思議な坊さんだが、どうも狐らしいといふ評判である。あの人から物を貰つた者は必ず立身する。私も一つお前さんに緣を繫いで置かうといつて、江戸へ行つたらどこそこへ訪ねて行くやうにと紹介狀などを書いてくれた。斯うして早速の便宜を得て、江戸は駒込の何とかいふ處に住んで、段々に榮え金持になつたといふのであります。これ等は北國往還の旅人と、武州の狐との間に結ばれる因緣話の、最も普通の一つの型なのであります。狐が旅行をすることは前にも申しました。大和の源九郎狐[やぶちゃん注:「三」で既出既注。]と同じ話は、隨分諸國にありまして、その話なら自分の國にもあるといふ人によく出逢ひますが、その中でも一番有名なのは、秋田の城址の公園にある與次郎稻荷、これもやはり飛脚になつて、始終江戸へ往來をして居た。佐竹家には大事な狐でありましたが、或時新庄とか山形とかで、人のかけた鼠の油揚のわなにかゝつて殺されたのであります。獸類の悲しさには、殺されることを知りながらもそれを避けることが出來なかつた。跡には状筥[やぶちゃん注:「じやうばこ(じょうばこ)」。文箱(ふみばこ)。]が殘つて居て、その状筥だけ江戸の藩邸へ屆いたといふ話であります。また因幡の鳥取にも、どの飛脚よりも達者に、短い期限で江戸に往復して居た狐の話があります。同じ例は三つや四つではないのです。ところが武州の熊谷堤でも犬に食はれて正體を現はしたという狐の飛脚の話があるのです。何に出てゐたか、今はちよつと見當りませぬが、その狐の化けた飛脚の名前が熊谷彌惣左衞門であつて、後にそれを稻荷さまとして淺草に祀ることにしたといふことが出て居たのであります。

[やぶちゃん注:以上の前半の話、出典不詳。私は何かで読んだ記憶があるのだが、思い出せない。

「與次郎稻荷」この伝承はサイト「日本伝承大鑑」の「與次郎稲荷神社」に詳しい。

「熊谷堤」熊谷桜堤 (くまがやさくらつつみ)のことであろう。現在の埼玉県熊谷市の荒川左岸の堤防の内、荒川大橋付近から下流、約二キロメートルの区間。江戸以前の天正八(一五八〇)年頃、熊谷堤(現在の熊谷桜堤とは別の位置で、もっと現在の駅の位置に近かった)が築かれ、その後、桜が植えられ、江戸時代には既に桜の名所として有名であった。現在のそれは、ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 それからこれと關係があるかないか、まだ私には斷言は出來ないのでありますが、右の熊谷堤の近くの熊谷の熊谷寺の境内に、やはり熊谷彌惣左衞門といふ稻荷さまがあります。一名を奴稻荷と申しております。近い頃の言葉でヤツコといふのは、子供の頭に剃り殘した鬢の毛のことで、上方で謂ふビンツであります。だから今日では、ヤツコといふのは卽ち子供を意味するとこぢつけて、專ら小兒の疱瘡その他を守護する神となつてをります。信心する者は、その子供を十三までとか十五までとか年期を限りまして、稻荷樣の奉公人にすると謂つて奉公人請證文を書いて稻荷さまに納めます。さうするとその子供は、非常に身體が丈夫になると申します。面白いことには、子供をこの熊谷彌惣左衞門の奉公人にした以上は、決して親が叱つてはいけない。これは非常に深い意味のありさうなことで、子供は親の折檻に伏すべき者ではあるが、一たび熊谷稻荷の家來にした上は、親でも之を支配するわけには行かぬといふわけであつたのかも知れませぬ。兎に角に叱つてはいけないといふ奇異なるタブーに、一つの不思議が潛んで居るのであります。

[やぶちゃん注:「熊谷寺」「ゆうこくじ」と音読みする。埼玉県熊谷市仲町にある浄土宗蓮生山(れんせいざん)熊谷寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 更に今一つの不思議は、熊谷彌惣左衞門といふ名は、この熊谷の町では正に狐の名といふことに明瞭に認められて居るのであります。この點に關しても、早くからの口碑があります。熊谷家の中興の祖で、みな樣十分御承知の熊谷次郎丹治直實が、戰場に臨んで敵手強しと見る場合には、必ず何處からともなく、一人の武士が現はれて加勢をする。そして我こそは熊谷彌惣左衞門といつて大いに働いて、戰が濟むと忽ち居なくなつてしまふ。或時次郎直實があまりに不思議だと思つて御身はそも誰ぞと訊きますと、ちやうど徒然草に記されたる土大根(つちおほね)の精靈の話の如く、我は君の家を守護するところの稻荷である。これから後も火急の場合あらば、彌惣左衞門出合へと呼はりたまへ、必ず出でゝ御奉公申すべしと答へて消え失せたといふ話であります。これは色々の書物に出てをりますが、最も人のよく知つて居るのは木曾路名所圖會であります。今から百三十年前の享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]頃に世に出た書物でありますが、その内容はそれほど新しくはないので、私の知る限りに於ては、少くもそれから尚百年近く遡ることが出來るのであります。信州天龍川右岸の三河境、坂部(さかんべ)の熊谷家といふのは、あの邊で有名な舊家でありますが、その家に熊谷傳記といふ書が傳はつて居ります。先代の熊谷次郎太夫直遐(なほはる)が、明和年間[やぶちゃん注:一七六四年~一七七二年。]に書き改めたもので、ずつと前からの記錄だと言つて居りますが、是にもやはり右にいふ彌惣左衞門狐のことが書いてあります。全體熊谷といふ名字は、三河にも信濃にも大分廣く分布して居つて、何れも元は武藏の熊谷から轉住した家です。或は何かの信仰と關係した家では無かつたかと思ふのは、別に政治上の原因でこの一族を、斯樣に弘く移動せしめたものが無いからであります。少なくともこの家の人たちは何れも信心深く、かつ熊谷彌惣左衞門の實は稻荷であることを信じて居ました。他の地方の舊い熊谷家では現在も稻荷を信じ居るかどうか。私は追々に尋ねて見たいと思つて居ります。

[やぶちゃん注:「徒然草に記されたる土大根(つちおほね)の精靈の話」「徒然草」第六十八段。

   *

 筑紫に、なにがしの押領使(あふりやうし)[やぶちゃん注:古い官名。諸国の治安の維持に当たった。]などいふ樣なる者のありけるが、土大根(つちおほね)[やぶちゃん注:大根。]を萬(よろづ)にいみじき藥とて、朝ごとに二つづつ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。或時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來りて、圍み攻めけるに、館の内に、兵(つはもの)二人、出で來て、命を惜しまず戰ひて、皆、追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、

「日ごろ、ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」

と問ひければ、

「年ごろ賴みて、朝な朝な、召しつる土大根らに候ふ。」

と言ひて、失せにけり。

 深く信を致しぬれば、かかる德もありけるにこそ。

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「木曾路名所圖會」安永九(一七八〇)年に「都名所圖會」を出版して大いに当てた読本作者で俳人の秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳)が文化二(一八〇五)年に出版した木曾路を中心とした名所図会。六巻七冊。

「信州天龍川右岸の三河境、坂部(さかんべ)」の附近(グーグル・マップ・データ)。ここは、南北朝の文和二(一三五三)年に、埼玉熊谷氏の一族であった熊谷貞直が戦乱の中を流れ着き、切り拓いた地であるという。個人ブログ「府右衛門記」の「熊谷家伝記のふるさと 坂部」に拠る。

「熊谷家傳記」前有注のリンク先に、『その初代熊谷(くまがい)貞直から』十五『代直遐(明和』五『年)までの』四百十五『年間にわたって書き継がれた日記であり、その当時の様子がわかる貴重な資料で』、『江戸時代に編集』されたとある。]

 

 兎に角にこれから考へて見ると、熊谷彌惣左衞門の通稱は、如何にも中世の勇士らしく嚴めしい又物々しい名前ではありますけれども、實はそれは狐自身の選定、狐の趣味、狐の理想でありました。ところが狐のことであれば致し方がないといふものゝ、この彌惣左衞門といふ通稱には差合ひがあつたのであります。熊谷家の系圖を調べて見ると、直實の子が小次郎直家で、その子が平内次郎直道、直道の次男に熊谷彌三左衞門尉直朝といふのがあつて、それが本家を繼いでをります。卽ち嫡流第五代の主人公が彌三左衞門であつたことは知らずに、さしもの靈狐も畜類の悲しさには、系圖などの吟味も行屆かずして、平氣でいつ迄も彌惣左衞門の昔話をして居りました。

 私の唯今考へて居るのは、不思議は決して一朝にして出現するものでなく、その由つて來るところは、久しく深く且つ複雜なるものがあるといふことであります。この書を御讀みになる方の中に、もし熊谷の一統に屬する人があつたならば、何と思はれるか知りませんが、どうも熊谷家には、何かといふとこの彌惣左衞門といふ通稱を用ゐたいといふ傾向が、昔からあつたやうに私は感ずるのであります。それは恰も鈴木といふ家の人がよく三郎と名づけられ、あるひは龜井という苗字には屢〻六郎と名乘る人が多いのと同じやうに、家に專屬した一種の趣味、又は隱れたる性癖ではないかと思ひます。

 私の以前親しくして居た先輩に、農學士で熊谷八十三君といふ人があります。是は讃州高松[やぶちゃん注:底本は「長州」となっているが、ちくま文庫版全集ではかく訂されているので、それに従った。なお、特に示さないが、この後もかなり書き換えられている。]の熊谷氏では無かつたかと思ひますが、確かではありません。香川景樹の高弟で、浦の汐貝といふ有名な歌集の作者、熊谷直好という人は通稱は熊谷八十八でありまして、是は周防の熊谷氏でありました。

 そこでたつた一言だけ、私の結論を申し上げます。曰く、凡そこの世の中に、「人」ほど不思議なものはないと。

        (昭和四年七月、東京朝日講堂講演)

[やぶちゃん注:「熊谷八十三」(くまがいやそぞう 明治七(一八七四)年~昭和四四(一九六九)年)は東京帝大農科卒で、愛知県立農業学校教諭・東京府立園芸学校長・農事試験場技師・園芸試験場場長を経て、元老西園寺公望の執事となった。ワシントンにあるの桜を育てたのは彼である。

「熊谷直好」(くまがいなおよし 天明二(一七八二)年~文久二(一八六二)年)は周防国岩国藩士で歌人。初名は信賢。通称は八十八・助左衛門。平安末期の武将熊谷直実の二十四世と称した。参照したウィキの「熊谷直好」によれば、『萩藩藩士となった安芸熊谷氏分家の出身。熊谷信直の五男・熊谷就真が熊谷騒動(毛利家による熊谷本家・熊谷元直の粛清事件)に連座、萩を追われて岩国に一時滞在し、のち』、『一族が赦された際、就真の子・正勝は萩に戻らず』、『岩国藩士となった。この子孫が直好である』。十九歳での時、『上洛して香川景樹に師事、桂門』一千『人中の筆頭と称された。香川景樹の桂園十哲の一人にも数えられる』。文政八(一八二五)年、『香川家の扶持問題に絡んで脱藩している。京都に住んだが、その後』、『大阪へ移った』。歌集「浦のしお貝」の外、『著書に「梁塵後抄」「法曹至要抄註釈」「古今和歌集正義序註追考」など』がある。

 以上を以って、単行本「一目小僧その他」(昭和九(一九三四)年六月小山書院刊)の本文は終わっている(但し、原本ではこの後に「索引」が載る)。

 二〇一六年二月十五日の自身の誕生日始めた「一目小僧その他」の電子化注を、二年二ヶ月にして遂に完遂した。お付き合い戴けた数少ない読者の方に、心より御礼申し上げるものである。【藪野直史 二〇一八年四月十七日記】]

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