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2018/04/09

御伽百物語卷之三 五道冥官

 

     五道冥官(ごだうのめやうくわん)

 

Godounomeikan

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 洛陽下嵯峨太秦(うづまさ)の西にあたりて禿倉(ほこら)あり。今の人、よんで、「五道の冥官」と稱す。實(まこと)は「車前(くるまさき)の宮(みや)」といへり。此ところは、淸原眞人賴業(きよはらのまつとよりなり)を葬(はふり)し地とかや。

[やぶちゃん注:「五道の冥官」五道(餓鬼・畜生・人間・天上)の衆生が冥土(最低最悪の悪道たる第六番目の地獄道のトバ口に当たる)へ行った際、善悪を裁く冥界の裁判官たる十王の次官級の役人。五人いるともされ、一説では殺生を禁ずる「鮮官」、窃盗を禁ずる「水官」、邪淫を禁ずる「鉄官」、両舌を禁ずる「士官」、大酒を禁ずる「天官」などとも呼称されたようだが、後に十王の長として閻魔王がクロース・アップされると、その副官(書記官を兼ねる)とされるようになった。小野篁が生前から閻魔疔と自在に行き来し、第三冥官であったという伝承はかなり知られる。

「車前(くるまさき)の宮(みや)」現在の京都市右京区嵯峨朝日町にある車折(くるまざき)神社。古くはここにある通りに「車前」、或いは「車裂」とも書いた。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在でもここに出る学者として知られた清原頼業(次注参照)を明神と成して祭神とする。ウィキの「車折神社」によれば、頼業が文治五(一一八九)年に亡くなると、『清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられた。後に、頼業の法名にちなんだ「宝寿院」という寺が建立され、後に天龍寺の末寺となった』。『社名の「車折」については、ある人が牛車に乗ったまま』、『社前を通った所、突然車が裂けてしまったためとも、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためともいう』。境内にある芸能神社は天照大神の「岩戸隠れ」の伝承で知られる芸能の女神天宇受売命(あめのうずめのみこと)を『祀っており、芸能・芸術の分野で活動する人々より』、『崇敬を受けている』とある。

「淸原眞人賴業」(保安三(一一二二)年~文治五(一一八九)年)は平安末期の貴族で儒学者・漢学者。ウィキの「清原頼業」によれば、清原祐隆の子で、官位は正五位上・大外記。康治元(一一四二)年に少外記、久安六(一一五〇)年に直講、保元元(一一五六)年に記録所寄人及び助教となり、仁安元年(一一六六年)頃に大外記(外記は太政官少納言局に属し、内記の作った詔書文を直して太政官の奏文を起草し、除目(じもく)・叙位などの公事の儀式を執り行う官。その長官級である大外記は、この頃には清原氏と中原氏の世襲となっていた)、後に穀倉院別当などに任ぜられ、正五位上に昇った。局務(大外記上首)を二十四年もの長きに亘って務めた。早くから藤原頼長・九条兼実などに、その実務と学識を認められ、平安末期の動乱期の朝廷で政治の諮問に参与した。安元元(一一七五)年に明経(みょうぎょう)博士、治承三(一一七九)年に高倉天皇侍読となっており、この頃には廃れていた明経道(律令制の大学寮に於いて儒学を研究・教授した学科)の復興に力を入れ、清原氏に伝えられた「春秋経伝集解」は彼による講読・加筆・校訂を多く含む。承安二(一一七二)年九月に『宋の明州判史が朝廷と平清盛に対し』、『贈り物をした際、送り文の言辞が無礼であると判断し、受け取りを拒否するよう主張した』。『頼業が『礼記』から『大学』を抄出して別格扱いとしたのは、朱熹が四書をそれぞれ独立させて新注をほどこすよりも前であるという説は、頼業の子孫である清原業忠に始まる』が、『そこから転じて、車折神社の神体は『論語』であるという言い伝えもあった』ともある。]

 

 昔往(むかし)、龜山帝、嵐山行幸(ぎやうかう)ありける時、關白兼平公の車、此塚(つか)しるしの石の前にて、牛、俄に地にふして、進み行かず。供奉(ぐふ)の人、あやしみ、其あたりを馳せめぐりて見るに、丸(まる)らかなる石を草むらに見付けたり。此石の下うづ高く築きあげたる形あるを不審がりて、先づ、この石を取り除けさするに、大かた、揚(あぐ)るものなし。さのみ大きからぬ石の形は、冬瓜(かもふり)に見まさりたる程なるに、年每(としごと)のぬき手にも召されつる相撲とりどもを集めて、これを揚げさするに、あがらねば、あたりの者をめされて尋ねられしより、此石の祟(たゝり)と知り、且(かつ)は、古墳の名をも知らせ給ひて、神とあがめさせ給ひけるより、「車前の宮」といひしとかや。

[やぶちゃん注:「龜山帝」(建長元(一二四九)年~嘉元三(一三〇五)年)は鎌倉中期の第九十代天皇(在位:正元元年十一月二十六日(一二六〇年一月九日)~文永十一年一月二十六日(一二七四年三月六日))。後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏の娘である中宮西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男であった。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて「治天の君」となり、大覚寺統の祖となる。後の後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった人物である(以上はウィキの「亀山天皇」に拠った)。

「關白兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)は公卿。従一位・関白・太政大臣。鷹司家の祖。関白近衛家実の四男。暦仁元(一二三八)年に従二位権大納言兼右近衛大将となり、その後右大臣・左大臣を歴任、建長四(一二五二)年、摂政・藤氏長者宣下を賜って、太政大臣に任ぜられ、建長六(一二五四)年、関白となった。その後、弘安十年八月十一日(一二八七年九月十八日)に関白を辞任するが、建治元(一二七五)年に再度、摂政・藤氏長者となっている。彼は、前後合わせて、実に二十三年の長きに亙って摂関の地位にあった。能書家としても著名であった(以上はウィキの「鷹司兼平」に拠るが、ユリウス暦換算の一部はいつもの「暦のページ」を使用した)。怪奇談に時制限定を持ち出すのも馬鹿馬鹿しいかも知れぬが、この僥倖が事実と仮定するなら、それは正元元年十一月二十六日(一二六〇年一月九日)から弘安十年八月十一日(一二八七年九月十八日)の閉区間の出来事となる。

「冬瓜(かもうり)」「氈瓜(かもうり)」。双子葉植物綱スミレ目ウリ科トウガン属トウガン Benincasa hispida。原産地はインド・東南アジアで、「かもうり」の語の初出はネット情報では平安初期の八〇八年というから、遣唐使辺りが中国から齎したと考えるのが妥当であろう。

「見まさりたる程なるに」冬瓜よりちょっと大きい程度の、大した大きさではなかったのに。

「年每(としごと)のぬき手にも召されつる相撲とりども」相撲(すまい)の節会の力士として宮中に呼び出される力自慢の相撲取りら。]

 

 それより程ふり、年を經て、次第に、このあたり、民家おほく建ちつゞき、名にしあふ嵯峨丸太(さがまるた)・黑木(くろき)など賣り買ふの所となりしかば、いつしか、「車前」の名も聞きしらず。宮は五木(いつもと)の榎(ゑ)の木(き)の陰に頽(こぼ)れて、民家の裏に埋(うも)れ果てんとす。

[やぶちゃん注:「名にしあふ」「名にし負(お)ふ」。

「嵯峨丸太(さがまるた)」丹波地方に産し、大堰川(おおいがわ)に筏(いかだ)を組んで流し出した建築材の丸太。京都嵯峨で陸揚げをしたので、かく呼称された。

「黑木(くろき)」これは皮の削っていない木(皮付きの丸太)のことであろう(因みに、対義語は「赤木」或いは「白木」である)。

「五木(いつもと)の榎(ゑ)の木(き)」そこに古くから生えていて、すっかり大きく成長した五本(ごほん)の榎(えのき)。]

 

 かゝる折しもあれ、元祿改元ありける年、此ほこらの前なる家に住みける權左衞門とかやいひしは、生得(しやうとく)無智のものにて、代々、黑木を商ふの家なりけり。今年八月十四日の夜は、いついつより、月、さやかに澄みのぼり、二千里の隈(くま)も雲のたゞよふ方なきまで、照りとをりしに、心なき身も、この影に興を催され、緣側の障子けしきばかりあけて、權左衞門は木枕に頭(かしら)をたすけ、煎茶に口をうるほし、

「明日(あす)の夜を今宵になしてといひし、古人に見せましかば。」

と獨(ひとり)ごちてながめ出し、そゞろに時を迂(うつ)し居(い[やぶちゃん注:ママ。])けるに、月もやうやう晝(ひる)ならんとするころ、何所ともなく、異香、薰(くん)じ渡りけるを、怪しと思ひ見いだしたるに、しばらくありて、彼(か)の禿倉(ほこら)の前なる土、俄(にはか)に動きたち、むくむくと高くなる事あり。

[やぶちゃん注:「元祿改元ありける年」貞享五年九月三十日(グレゴリオ暦一六八八年十月二十三日)、東山天皇の代始めのため、元禄に改元されている。ここは「八月十四日」とあるから、まだ貞享五年の内で、グレゴリオ暦では一六八八年九月八日に当たる。

「明日(あす)の夜を今宵になしてといひし、古人」不詳。短歌嫌いの私には一向、当該の和歌も古人も浮かばぬ。識者の御教授を乞う。

「晝(ひる)ならんとするころ」月が、昼間の太陽のように、明るく皓々と輝きだそうとする頃。]

 

「土豹(もぐら)か何(なん)ぞ。」

と見る所に、忽ち、此地の底より、衣冠たゞしく束帶たる男一人あらはれ出で、大きなる聲を出だし、

「扨もよき月の氣色や。」

といひけるに、權左衞門も肝をつぶし、迯(に)げて片隅に這(はい[やぶちゃん注:ママ。])かくれ、障子に、ちいさき穴をあけ、覗きいたるに、此男、庭の中をゆるゆると嘯(うそぶ)きありく。

 年は四十ばかりにて、爪、はつれ、起居(たちゐふるまひ)、いかさま、故ありげにおとなしやか也。

[やぶちゃん注:「土豹(もぐら)」鼴(もぐら・もぐらもち・土竜)の異称。

「爪、はつれ」爪も、綺麗に先を少しだけ削り取って手入れがしてあり。]

 

 しばらくして、容顏美麗なる女の、大内女房(だりねうばう)と覺しき人ども十餘人、女(め)のわらは、はした物と見ゆる供人、あまためしつれて、表より入りきたり。腰元を召し寄せ、大庭(おほには)に花氈(くわせん)・繪(ゑ)むしろなどの敷ものをとゝのへさせ、おのおの、しとやかに居ならびたる體(てい)、このあたりには見ならはぬ有樣どもにて、酒さかなをとゝのへ、諷(うた)ひたはぶれたる氣色、あやしくも恐しく、

『いかさま、是れは、此あたりに年經たる狐狸などの、我をたぶらかしけるにこそ。』

とおもひ、手もとに有りし木枕を引きよせ、彼(か)の庭前(ていぜん)へ、

「ほう。」

と投げつけ、驚かしければ、彼の公家、すこし、ふりかへり、怒りていふやう、

「我(われ)、この月のさやかに、夜、しづかなるを愛(めで)て、しばらく、此たのしみをなす。何ぞや、人の興(けう)をさまさせつるは。憎き業(わざ)なり。誰(たれ)かある、誰れかある。」

と罵りければ、地の底より、一丈ばかりの鬼、二疋、飛び出でたり。

[やぶちゃん注:「はした物」「端者」。端女(はしため)。ごく下級の召使いの女。

「花氈」花模様のある美しい毛氈(もうせん)。狭義には羊毛繊維を用いて、宝相華文(ほうそうげもん:唐草文様の一種。唐草に架空の五弁花の植物を組み合わせてデザインした空想的花文。中国では唐代に、本邦では奈良・平安時代に装飾文様として盛んに用いられた)や花・草・人物などの模様を嵌め込んだそれを指す。

「繪(ゑ)むしろ」「絵筵」(ゑむしろ(えむしろ))。様々な色に染めた藺(い)で模様を織り出した茣蓙(ござ)。花莚(はなむしろ)とも呼び、通常は夏季の敷物として用いられた。

「ほう」木枕を投げつけた際のそれが地に落ちて立てた音のオノマトペイア。

「一丈」三メートル三センチ。]

 

 そのさま、いふべきやうもなく、おそろしく見ゆるに、彼の公家、權左衞門が隱れ居たる方をさして、

「此者の親兄弟の冥途にあるを連れ來たるべし。」

とありしかば、かしこまりて御前(ごぜん)を罷り立ちしが、漸(やゝ)ありて、鬼ども、あまた、前後を圍(かこ)み、御(おん)まへに來たるを見るに、うたがひもなく、皆、この二十餘年の程に死(し)し去りたる父または兄どもなり。

 いづれも鐵(くろがね)の枷(くびかせ)に咽(のんど)むせび、鐵の鎖に小手(こて)をつながれ、あさましき有さま、見るに目くれ、心くらみ、覺えず、聲をも立つべき悲しさ、

「こはいかにしつる事ぞ。」

とむせかへり、忍び泣きつゝ聞き居たるに、彼の公家、怒れる聲を出し、

「我、たまたこゝに出(で)て月を翫(もてあそ)ぶ所に、あの愚人(ぐじん)めに興をさまされたり。汝等、何ぞ、此(この)無禮をいましめ、教(をしへ)たるや。」

とありければ、父母みな、頭(かうべ)を地につけて申すやう、

「娑婆と冥途、遙(はるか)にへだゝり、人間と靈鬼(れいき)、ひとしからざる道なれば、我々、常に、夢に見え、現(うつゝ)におしへて、兎や角といたし候へども、猶、かゝる惡をなして、科(とが)を父母の屍(かばね)におほせ侍る也。たゞ幾重(いくへ)にも御(お)あはれみを垂れ給へ。」

と、淚をながし、搔きくどき、誠に苦しげなる風情なるに、公家も此言(このことば)に納得し、みなみな、冥途へ追ひやらしめ、重(かさね)て又、のたまひけるは、

「此愚人を捉(とら)へ來たれ。」

と也。

 權左衞門、

『今は早(はや)我が身の上になりたるぞ。』

と悲しく、

『如何(いかゞ)せん、逃げたりとも、よもや、遁れはあらじもの。』

とおもふに、手足、慄(わなゝ)き、膝(ひざ)、ふるひて、只(ただ)、氣をつめ、息を呑んで、汗水になり、かゞまり居たる所に、あやまたず、二疋の鬼ども、權左衞門が隱れ居たる緣さきへ飛び來たり、赤き手鞠の如き物を、極左衞門が方(かた)へ投げかくると見えしが、すかさず、權左衞門が口のうちへ打ち込むと覺えしが、細き熱鐵(ねつてつ)の繩なりければ、程なく大庭に釣り出(だ)され、鐵杖(てつじやう)にて、さんざんに打たるゝ苦痛、又、世にたとふべき方もなし。

 叫(さけば)んとするに、聲たゝず、惱亂悶絶(なうらんもんぜつ)するを見て、權左衞門が妻子、眷屬ども、あはて、泣きさけびけるありさまを見るに、いよいよ誤りたる身の科(とが)、くやしく、ひたすらに手をあはせ、頭(かしら)を地に摺りて血の淚をながして詫(わび)けるを、彼(か)の居ならびたる女郎たち、彼の公家に詫び給ひけるやう、

「此(この)愚人(ぐにん)、もつとも惡行(あくぎやう)ありといひながら、凡夫(ぼんぷ)の身のあさましさ、冥官の名をだに、しらず。幽冥の汰沙は、たゞ、僧・法師などの人を驚かす口ぐせとのみ思ふより、なしたる過(あやまち)なれば、知りて犯したる罪よりは輕きぞかし。今はゆるし遣(つか)はされよ。」

と、口を揃へて、なだめしかば、公家も漸々(やうやう)、心やはらぎたりと見えて、座をたち、女郎とうちつれ、表のかたへ出でて去(いに)たり。

 權左衞門はそのゝち中惡(ちうあく)のやうなる病(やまひ)をうれへけるが、五、六日過ぎて、すきと愈へたりとぞ。

 是れより、此宮(このみや)の靈(れい)、いつとなく噂ありて、もつぱら洛中の人にしられ、終に「五道の冥官(みやうくわん)」とあがめ、元祿のはじめより、まふで初めけるも此ゆへとぞ。

 

 

御伽百物語卷之三終

[やぶちゃん注:「女郎」読みは「ぢやうろう(じょうろう/じょろう)」であるが、ここは身分の高い女官の意の上﨟、「上﨟女房(じやうらふにようばう)」(じょうろうにょうぼう)の意。]

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