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2018/04/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 七 太郎といふ神の名

 

    七 太郎といふ神の名

 

 自分等が問題として後代の學者に提供したいのは、必ずしも世界多數の民族に併存する天地創造譚の些々たる變化では無い。日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、何時から又如何なる事由の下に、我々の巨人をダイダラ坊、若しくは之に近い名を以て呼び始めたかといふ點である。京都の附近では廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、都名所圖會に插畫を入れて詳しく記し、乙訓(おとくに)郡大谷の足跡淸水は、京羽二重以下の書に之を説き、長さ六尺ばかりの指痕分明也とあつて、今の長野新田の大道星は卽ち是だらうと思ふが、去つて一たび播州の明石まで踏出せば、もうそこには辨慶の荷塚(になひづか)があつて、奧州から擔いで來た鐵棒が折れ、怒つてその棒で打つたと稱して頂上が窪んで居た。だからダイダ坊などはよい加減の名であらうと、高を括る人もあるいは無いと言はれぬが、自分だけはまだ決してさう考へない。畿内の各郡から中國の山村にかけて、往つては見ないが大道法師、ダイダラ谷ダイダラ久保等といふ地名が、竝べてよければ幾らでも玆に擧げられる。つまりは話は面白いが人は知らぬ故に、大人といふ普通名詞で濟まして置き、辨慶が評判高ければあの仁でもよろしとなつたのであらう。笠井新也君が池田の中學校に居た頃、生徒にすゝめて故郷見聞錄を書かせた中に、備前赤磐郡の靑年があつて、地神山東近くの山上の石の足跡を語るのに、大昔造物師(ざうぶつし)といふ者が來て、山から山を跨いで去つた。それで土人が其足跡を崇敬すると述べて居る。耶蘇教傳道の初期には、何れの民族にも斯んな融合はあつたものである。

[やぶちゃん注:「廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、都名所圖會に插畫を入れて詳しく記し」所持する「都名所圖會」の「卷之四 右白虎」の「遍照寺山」(へんじょうじやま)の項に、『大道法師足形池』として、割注で『廣澤の巽』(南東)『三町』(約三百二十七メートルほど)『ばかりにあり』と記し、添えられた『廣澤池 遍照寺旧跡』にある「足形池」から見て、その位置は現在の広沢の池の南東池畔、京都府京都市右京区嵯峨広沢町、或いはその池畔直近の嵯峨広沢池下町の広沢公園附近と推定される。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「乙訓(おとくに)郡大谷の足跡淸水」乙訓郡(おとくにぐん)は京都府(山城国)の郡。現行は京都府で大山崎町(おおやまざきちょう)一町であるが、旧郡は京都市伏見区の一部と南区の一部及び西京区の一部、向日市と長岡京市の全域を含んだ。「大谷」は不明で「足跡淸水」から逆に辿れるだろうと思ったが、甘かった。それも見出せない。識者の御教授を乞う。

「京羽二重」「きょうはぶたえ」(現代仮名遣)と読み、貞享二(一六八五)年に水雲堂狐松子が著した全六巻六冊から成る、実用性を重視した京都の地誌及び観光案内記。

「長野新田の大道星」探すのに苦労した。「長野新田」は現在の京都府京都市西京区大枝東長町附近であることが判った。埼玉大学教育学部谷謙二(人文地理学研究室)氏の提供になる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」の、ここの左の古地図に「長野新田」とある。なお、この大道星(だいどうぼし)という字地名は現在も残っていることが、京都市の墓地区画整理関連の文書から判明した。

「笠井新也君」(明治一七(一八八四)年~昭和三一(一九五六)年)は現在の徳島県美馬市脇町の生まれの教師で考古学・古代史研究者・阿波郷土史家。國學院大學師範部国語漢文歴史科卒(特待生で首席卒業)。卒業後は帰郷して、県立高等女学校(現在の城東高校)や県女子師範学校などの教職を勤めながら、歴史・民俗の研究・論文執筆に取り組んだ。明治四四(一九一一)年には長野県上田中学校に転じ、さらに翌明治四十五年には大阪府池田師範学校(後の大阪学芸大学学芸学部 (現在の大阪教育大学教育学部)の母体の一つ)とに移った。両校在職中も、生徒が記録した民話・伝説を纏めるなど、それぞれの土地の民俗に関心を持って活動した。特に邪馬台国研究に力を注ぎ、その所在地は大和であり、奈良県桜井市にある最古の前方後円墳とされてきた全長二百七十二メートルの箸墓古墳が女王卑弥呼の墓であると最初に提唱したことで知られる。以上は「徳島県立博物館」公式サイト内のこちらの記載を参照した。

「備前赤磐郡」(あかいはぐん(あかいわぐん))は岡山県にあった旧郡。現在の岡山市の一部・赤磐市の大部分・和気郡和気町の一部を含んだ。「地神山」は不詳。異名か。識者の御教授を乞う。]

 

 紀州の百餘の足跡はその五分の一を辨慶に引渡し、殘りを大人の手に保留して居る。美作の大人足跡も其一部分を土地の恠傑目崎太郎や三穗太郎に委讓して居る。西は備中備後安藝周防、長門石見などでもただ大人で通つて居る。それから四國へ渡ると讃州長尾の大足跡、又大人の蹴切山がある。伊豫でも同じく長尾といふ山の麓に、大人の遊び石といふ二箇の巨巖があつた。阿波は劔山々彙を繞つて、もとより數多い大人樣の足跡があり、或は名西地方の平地の丘に、山作りの畚の目から、こぼれて出來たといふものも二つもある。土佐でも幡多高岡の二郡には、色々此例があつて何れも單に大人田、若しくは大人足跡で聞えて居た。だからもうこの方面にはダイダラ坊の仲間は無いのかと思ふと、豈に測らんや柳瀨貞重の筆錄を見ると、却つて阿波に近い韮生(にろう[やぶちゃん注:底本では「みろう」とルビするが、調べてみると、「にろう」であり、ちくま文庫版全集もそうなっているので、特異的に訂した。])郷の山奧に、同名の巨人は悠然として隱れて居た。卽ち此筆者の居村なる柳瀨の在所近くに、立石・光石・降石(ぶりいし)の三箇の磐石があつて、前の二つはダイドウボウシ之を棒にかつぎ、降石は袂に入れて此地まで步いて來ると、袖が綻びてすつこ拔けて爰へ落ちた。それで降石だと傳へて居たのである。

[やぶちゃん注:「目崎太郎」「三穗太郎」孰れもダイラダボッチの実在性を高めるために、漢字のそれらしい実在人物らしい表記仕立てとしたものと考えてよい。

「讃州長尾」旧香川県大川郡長尾町(ながおちょう)。この附近一帯(グーグル・マップ・データ)。

「蹴切山」不詳。識者の御教授を乞う。

「伊豫でも同じく長尾といふ山」不詳。識者の御教授を乞う。

「劔山々彙」徳島県中部南方に位置する徳島県の最高峰(標高千九百五十五メートル)の剣山(つるぎさん)を中心とした周囲の山々の意(隠田集落村である祖谷(いや)はこの地帯の西方である)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「山彙」は「さんゐ(さんい)」と読む普通名詞で、山系や山脈を成すことなく、孤立している山々の集まり、山群を指す

「名西地方」徳島県名西郡(みょうざいぐん)。現在の石井町(ちょう)・神山町の外、旧郡域は徳島市の一部・板野(いたの)郡上板町(かみいたちょう)の一部を含んだ。現在の郡域はここ(グーグル・マップ・データ)。

「土佐」「幡多」高知県幡多郡は現在、大月町・三原村・黒潮町のみであるが、旧郡域は宿毛市・土佐清水市・四万十市の全域、及び高岡郡四万十町の一部を含んで、土佐国内の郡で最大の面積を有し、南海道でも紀州に牟婁郡に次いで広大な郡域を持っていた。

「高岡」現する郡。旧郡域(高知西部中央地区)はウィキの「高岡郡」を参照されたい。

「柳瀨貞重」土佐の郷士柳瀬貞重(居住地韮生郷)。香美郡韮生郷の小領主で山田家臣。山田家の滅亡後に太西・川窪の両家を通じて長宗我部国親の麾下に属した。彼は韮生郷を中心に安芸郡から幡多郡までの古文書・記・伝承などを編纂した「竹木筆剰」などを残している。

「韮生(にろう)」現在の香美市の北東部、奥物部県立自然公園(ここ(グーグル・マップ・データ))の周辺。

「筆者の居村なる柳瀨」現在の高知県香美市物部町柳瀬。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「立石・光石・降石(ぶりいし)の三箇の磐石」不詳。]

 

 そこで私たちは、是ほどにして迄も是非ともダイドウボウシでなければならなかつた理由は何かといふことを考へて見る。それには先づ最初に心づくのは、豐後の嫗嶽の麓に於て、神と人間の美女との間に生まれた大太(だいた)といふ怪力の童兒である。山崎美成の大多法師考に引用する書言字考には、近世山野の際に往々にして大太坊の足蹴と傳ふるものは、疑ふらくはこの皹童(あかゞりわらは)のことかと言つて居る。證據はまだ乏しいのだから冤罪であつては氣の毒だが、少なくとも緒方氏白杵氏等の一黨が、この大太を家の先祖とせんが爲に、頗る古傳の修正を試みた痕は認められる。成程後に一方の大將となるべき勇士に、足跡が一反步もあつては實は困つたもので、山などはかついで來なくとも、別に神異を説く方便はあつたのであらう。しかしどうして大太といふが如き名が附いたかと言へば、やはり神子にして且つ偉大であつたことが、その當初の特徴であつた故なりと、解するの他は無いのである。

[やぶちゃん注:「豐後の嫗嶽」「嫗嶽」は「うばだけ」。宮崎県との県境の、大分県豊後大野市に山頂を持つ祖母山(そぼさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高千七百五十六メートルで、宮崎県の最高峰。ここに記された伝承は、個人サイト「戦国 戸次氏年表」のこちらのページに詳しい。

「山崎美成」(寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大多法師考」不詳。読んでみたい。

「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。

「皹童(あかゞりわらは)」「皹」は「あかぎれ・ひび」の意。この伝説はM.Shiga氏のサイト「パノラマ風景写真で観光する大分県」の「緒方川原尻橋周辺の風景 緒方三郎物語 伝説」に詳しいので参照されたい。

「緒方氏」日本の氏族。平安後期以降、豊後国大野郡や直入郡を本拠地とし、豊後国南部に勢力を伸ばした大神(おおが)氏の後裔氏族。大友氏が入国する以前からの豊後国に於ける有力な在地武士の一族で、大野川・大分川流域の大野・直入両郡を本拠地として、豊後国南部に勢力を伸ばした。参照したウィキの「大神氏」によれば、『大神氏は中世期の豊後における在地武士の一族として栄えるが、惟基については祖母岳大明神の神体である蛇が人間と交わって生まれたとの伝説が』「平家物語」や「源平盛衰記」に『見え、それによると惟基の』五『代の孫が緒方氏の祖、緒方惟栄』(おがたこれよし 生没年不詳)『となる。因みに、惟栄は』養和元(一一八一)年に『豊後国目代を追放』され、元暦元(一一八四)年には『平家についた宇佐神宮を焼き討ちにするなど、従来の支配階級に代わり』、『武士勢力による支配を強めた。治承・寿永の乱(源平合戦)に際して源氏につき、葦屋浦の戦いで戦勲を挙げるなど大いに活躍した』とある。ウィキの「緒方惟栄」によれば、『豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し』、『祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟』とある。「平家物語」に登場し、『その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている』。『宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ』治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵後』、養和元(一一八一)年、『臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった』。寿永二(一一八三)年に『平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたため』、『これと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った』。『こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる』。また、『惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる』とある。

「白杵氏」ウィキの「臼杵氏」によれば、『大神氏の一族で、大神惟盛が豊後国臼杵荘に入り、地名を取って臼杵氏と称した。戸次氏・佐伯氏・緒方氏(佐伯氏の庶家とする説もある)などの庶家が出た』。『鎌倉時代に臼杵惟直(直氏)には男子が無く、すでに近隣の有力豪族であった大友氏の一族になっていたかつての庶家・戸次氏から、戸次貞直の子の直時を婿養子に迎えた。これにより臼杵氏の嫡流も大神姓から大友系へと変わり、大友氏に従属する立場となった』。『戦国時代の当主・臼杵長景は臼杵庄水ヶ谷城主で、大友義鑑の加判衆を務めるなど、大友氏の重臣として活動した。その死後、家督を継いだのは長男の臼杵鑑続で』二十『年の長きに渡って加判衆を務め、幕府や朝廷との交渉等、大友氏の外交を担った。鑑続には男子がいたが幼少のため、弟の臼杵鑑速が跡を継いで、加判衆を務めた。鑑速は大友義鎮(宗麟)の重臣として活動し、吉岡長増・吉弘鑑理らと「豊後三老」と称された。この頃は外交だけではなく、筑前国や豊前国に侵攻してきた毛利氏への対応や、明や李氏朝鮮との対外貿易にも携わった』。天正二(一五七四)年『の書状から見えるように、この頃から鑑速の嫡男・臼杵統景が父の名代としての活動を開始して将来を嘱望された。しかし』、天正六年の『耳川の戦いに出陣した統景は島津軍に敗れて討死した。統景の討死により、その従兄弟の臼杵鎮尚が家督を継いだ。鎮尚は侵攻する島津氏に抵抗して臼杵城の攻防戦にも参加している。また同じく統景・鎮尚の従兄弟の臼杵鎮定は、宗麟死後大友義統に仕えて、文禄・慶長の役にも出陣したが、義統がこの戦役の最中に改易されると、大友氏を退出して上洛。その後、行方不明となり、戦国武将としての臼杵氏は完全に滅亡した』とある。

「一反步」「いちたんぽ」。三百坪。九百九十一・七三六平方メートル。約一千平方メートルとすれば、テニス・コート約四面分ほどに相当する。]

 

 柳亭種彦の用捨箱[やぶちゃん注:「ようしやばこ」。]には、大太發意(だいたぼつち)は卽ち一寸法師の反對で、是も大男をひやかした名だらうと言つてある。大太郎といふいみじき盜[やぶちゃん注:「ぬすつと」と読んでおく。]の大將軍の話は、早く宇治拾遺に見えて居り、烏帽子商人の大太郎は盛衰記の中にもあつて、いたつて有觸れた[やぶちゃん注:「ありふれた」。]名だから不思議も無いようだが、自分は更に溯るつて、何故に我々の家の惣領息子を、タラウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入つて來てちやうど太の字と郎の字を宛てゝもよくなつたが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦(たらしひこ)帶姫(たらしのひめ)だのといふ貴人の御名があつたのを、丸で因みの無いものと斷定することが出來るであらうか。筑後の高良[やぶちゃん注:「かうら(こうら)」。]社の延長[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに『年間』と入る。]の解狀[やぶちゃん注:「げじやう(げじょう)」。律令制で下級官司が上級官司又は太政官に差し出す上申文書。]には、大多良男[やぶちゃん注:「だいだらを(だいたらお)」。]と大多良咩[やぶちゃん注:「だいたらひめ」。]のこの國の二神に、從五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の人聞菩薩朝記には、豐前の豬山にも大多羅眸神[やぶちゃん注:「だいたらばうしん(のかみ)」と読むか。]を祭つてあつたと述べて居る。少なくもその頃までは、神に此樣な名があつても恠まれなかつた。さうして恐らくは人類の爲に、射貫き蹴裂き[やぶちゃん注:「いぬき・けさき」。後者はちくま文庫版に拠る読み。]といふやうな奇拔極まる水土の功をなし遂げた神として、足跡は又其宣誓の證據として、神聖視せられたものであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「柳亭種彦の用捨箱」柳亭種彦の江戸後期の考証随筆。天保一二(一八四一)年刊。三巻三冊。「俳諧用捨箱」の外題を付した後摺本もある。近世初期の市井の風俗や言語などについての考証が大部分を占め、概ね刊年の明確な俳書を援用して実証し、また古版本の挿絵や古画を模写・透写して多数載せて画証としており、所説の信憑性が高い。引用資料中には現存不明のものもあり、資料的価値も高い。なお、一般名詞としての「用捨箱」とは箱の中を仕切って、必要な文書と用済みの文書を区分けして入れるようにしたものを指す語である。

「盜の大將軍の話は、早く宇治拾遺に見えて居り」「宇治拾遺物語」の巻三にある「大太郎盜人事」(大太郎盜人(だいたらうぬすびと)の事)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。

「烏帽子商人の大太郎は盛衰記の中にもあつて」「源平盛衰記」巻二十二「大太郎烏帽子」。ブログ「北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室」の『「源平盛衰記」巻二十二甲斐国の住人大太郎(烏帽子商人)』で原文が読める。

「足彦(たらしひこ)帶姫(たらしのひめ)」古代皇族の名によく見られる。

「筑後の高良社」福岡県久留米市の高良山にある高良大社(こうらたいしゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「延長」九二三年~九三一年。

「宇佐八幡の人聞菩薩朝記」「人聞菩薩朝記」は「にんもんぼさつてうき(にんもんぼさつちょうき)」と読むものと思われる。仁平二(一五二)年頃に書かれたとされる、現在、京都府八幡市の石清水八幡宮が所蔵するもので、宇佐八幡の縁起が記されてある、最古の縁起書。神仏習合によって、宇佐では八幡大菩薩に対し、人聞(にんもん:神母)菩薩が比定創成されて民衆に信仰された。

「豐前の豬山」大分県豊後高田市臼野と同県豊後高田市城前の境にある猪群山(いのむれやま)か。(グーグル・マップ・データ)。標高四百五十八メートル。山頂にある巨石群で知られ、「飯牟礼山」とも書く。ウィキの「猪群によれば、『大分県の北東部にある国東半島に位置し、国東半島の中心である両子山から見ると北西の方角にあたる。猪群山という名前は、イノシシが群れるほどに多かったことに由来するといわれる』。『山頂は南北に分かれ、北峰の頂上付近に巨石群がある。この山の最高地点は北峰より約』十メートル『高い南峰にあ』り、『中腹には飯牟礼神社の中宮がある』。『北峰の頂上付近にある巨石群は、斜め上方に向かってそびえる高さ約』四・四メートルの『神体石を中心に、東西』に三・三メートル、南北に楕円状に四十二メートルにも及ぶ十六基もの『巨石が並ぶ。さらにその外側には』『円状に』『直径約』七十メートルに達する二十四基の『石が配されている。登山路から頂上の巨石群への入口には陰陽石と呼ばれる一対の巨石が門のように立っている。一帯は、「オミセン」と呼ばれる聖域で、女人禁制の地であった。なお、現在は女性も立ち入ることができる』。『この巨石群はストーンサークル(環状列石)であると言われるが、配列に歪みがあり』、『整った楕円状ではないことや、石の間隔が一定でないことなどから、ストーンサークルと呼ぶべきではないとの指摘もある。巨石群の周囲には楕円状に土塁と溝が走っているが、これは』明治三九(一九〇六)年に『山火事から守るため』、『防火壁として築造されたものであるとされる』ものの、『それ以前から遺構があった可能性も残されている』。『神体石は、伝承によれば、山幸彦と海幸彦神話で知られる山幸彦が、龍宮から持ち帰った潮盈珠(しおみちのたま)、潮乾珠(しおひのたま)を置いた場所であるとされる。そのため、神体石の上部の窪みには、満潮時には水が満ち、干潮時には水が乾くという。また、窪みには金魚が住んでおり、この金魚を見た者は盲目になるとも伝えられる。この巨石群は、古代の巨石信仰の遺跡であるとする説、中世の仏教信仰の霊場跡であるとする説、中世の砦跡であるとする説、自然地形であるとする説等がある。また、卑弥呼の墓とする俗説もある』とある。この山が柳田國男がここで言う「豐前の豬山」かどうかは分らぬが、この巨石群はまさにダイダラボッチに相応しいアイテムであると私は思う。

「大多羅眸神」不詳。ネット検索にはこの文字列では全く掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 

 

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