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2018/05/31

諸國里人談卷之一 筑摩祭

 

     ○筑摩祭(つくままつり)

近江國湖(みづうみ)のひがし、坂田郡(さかたこふり)の濱邊、旦妻(あさつま)といふ名所の南十余町を過〔すぎ〕て、筑摩(つくま)の庄(しやう)あり。此村の明神の祭りは四月午〔うま〕の日なり。その村の女、おとこに會(あひ)たる、その男の數ほど、土鍋(つちなべ)を作りて、板にとりならべ、いたゞきて、まつりの庭は、神輿(みこし)の殿(しりへ)について、わたるなり。もし、男にあひたる數をかくす時は、たちまち、神罰をかうぶるとかや。是、すなはち、罪障懺悔(ざいしやうさんげ)せしめ給へる、此神の方便なりとぞ。むかし、婬婦(いんぷ)ありて、あまたの男をせし事をはぢて、大きなる鍋、ひとつをいたゞき、おとこの數ほど、小鍋をつくりて、大鍋に入子〔いれこ〕にして、人目をかくせしかば、神慮にそむきてころびしに、おほくの小鍋、くづれいでゝ恥(はぢ)みたりける、となり。中ごろは、常の鍋をいたゞきてわたりしが、それも絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])はてゝ、神まつりも、なきがごとし、といへり。所の人は「ちくま」といふなり。「ち」と「つ」は五音(ごいん)相通(あいつうずる)なり。「八雲御抄(やくもみしやう)」には「つくま」とあり。

「いせ物がたり」に、むかし、をとこ、女のまだ世をへずとおぼえたるが、人の御もとにしのびてものきこえて、後ほどへて、

 あふみなるつくまのまつりとくせなんつれなき人の鍋のかずみん

「淸輔集」に 寄ㇾ社戀(やしろ〔に〕よするこひ)

 夜とゝもに淚をのみぞわかすかなつくまの鍋にいらぬ物ゆへ

又、曰(いはく)、筑摩庄(つくまのしやう)は大膳職御厨(だいぜんしよくみくりや)の地なり。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に御食津神(みけつのかみ)を祭(まつる)。此神は稻食(とうしよく)をつかさどり給ふによつて、此里の女、嫁入(かじゆ)の時の祭祀には、鍋釜(なべかま)を戴(いただい)て神に進(たてまつ)る也。

[やぶちゃん注:「近江國湖(みづうみ)のひがし、坂田郡(さかたこふり)の濱邊、旦妻(あさつま)といふ名所」「筑摩(つくま)の庄(しやう)」「此村の明神」現在の滋賀県米原市朝妻筑摩(あさづまちくま)にある筑摩神社(ちくまじんじゃ:ここ(グーグル・マップ・データ))の、日本三大奇祭の一つとされる「鍋冠祭(なべかぶりまつり)」である。ウィキの「筑摩神社」等によれば、同神社は御食津神(みけつかみ:「古事記」では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、「日本書紀」では「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」。「うか」は「穀物・食物」の意で穀物神。両書とも性別を明らかにしないが、古来、女神とされてきている)を主祭神に、大歳神(おおとしのかみ:「年」は「稲の実り」で穀物神)・倉稲魂神(御食津神の「日本書紀」での名)・大市姫神(おおいちひめのかみ:「古事記」では須佐之男命の後妻となり、大歳神と宇迦之御魂神(稲荷神)を産んだとされることから、やはり農耕神・食料神として信仰された)の食物に関わる三柱を配祀する。『社伝によれば、孝安天皇』二十八『年に創祀され、継体天皇が越前から上京する際に、当社のそばに行宮を設け、社殿を再建して神域を定めたとされているが、鎮座地は桓武天皇の時代に内裏』の大膳職(だいぜんしき/おおかしわでのつかさ:本邦の律令制に於いて宮内省に属した、朝廷に於いて臣下に対する饗膳を供する機関)の御厨(みくり/みくりや:「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、本来は「神饌を用意するための屋舎」を意味する。ここは宮廷の食糧の調達地の意。「御園(みその/みそのう)とも呼ぶ)が置かれた地なので、その鎮守として御食津神を祀ったものとも推定されている。なお、御厨は』延久二(一〇七〇)年に廃されている。仁寿二(八五二)年に『従五位下の神階を授けられているが』、「延喜式神名帳」へ『の記載はない。後鳥羽天皇や源頼朝からも神領が寄進され』、寛元三(一二四五)年には『最高位の正一位の神階が授けられた。江戸時代には彦根藩主井伊氏の崇敬を受けた』。五月三日に行われる『春の大祭では、御旅所から神社までの約』一キロメートルを総勢二百人が『ねり歩く。その行列の中に狩衣姿の数え年』八『歳前後の少女』八『人が』、『鍋を被って加わることから』、『「鍋冠祭」とも呼ばれ』る』。『社伝によれば、桓武天皇の時代(』八『世紀)以来』、一千二百年の『伝統がある』祭事とされ、『当社の祭神が全て食物に関係のある神であり、神前に供物とともに近江鍋と呼ばれる土鍋を贖物』(あかもの/あがもの:罪の償いとして出す財物)『したことから、このような祭が生まれたと考えられている』。『過去には鍋冠りは少女ではなく』、『妙齢の女性の役目だった。鍋冠りの女性は』、『それまでに付き合った男の数だけ鍋釜を冠るという不文律があり』ここに出るように、「伊勢物語」にも『詠われるほど』、『有名なルールだった。江戸時代中期に、わざと少ない数の鍋をかぶった女性に神罰が下り、かぶっていた鍋を落とされ』、『笑いものにされ、お宮の池に飛び込み自殺してしまうという事件が起きた。事件の顛末を聞いた藩主の井伊氏が鍋冠りを禁止したが、嘆願の結果』、七、八『歳の幼児による行列ならば、と許可され』、『今日の姿となった』という。兵庫県神戸市垂水区にある「絵葉書資料館」の公式サイト内の絵葉書販売ページので「歌川広重」の描いた「筑摩祭」の絵が見られる。なお、これに類似した祭りとして、私は富山県富山市婦中町鵜坂にある鵜坂神社(うさかじんじゃ)の「楉祭(しもとまつり)」、別名「尻打ち祭り」を知っている。『平安時代から江戸時代までは、楉祭という特殊神事が行われていた。別名を「尻打祭」といい、貞操を戒めるために女性の尻を打つ祭であった。正月に七草粥を炊いた薪で女性の尻を打つと』、『健康な子が生まれるという公家の遊びが伝わったものである。「日本五大奇祭」の一つとして日本全国にその名が知られ、松尾芭蕉や宝井其角も』、『この神事を詠んでいる。明治初年に雌馬の尻を打つ祭に変えられ、第二次世界大戦終戦ごろに廃絶した。「八雲御抄」には「うさかのつえ、是は越中の国うさかの明神祭日、榊木して女の男のかずに禰宜(ここに脱字あるかという)を打つ事なり」とあり、「倭訓栞」には「其祭日に神人祝詞を宣る時、一郷の女子に其年あへる男の数をいはせ、杖をもて女の尻を打といふ」とある』と記す。

「十余町」十町は約一キロ九十一メートル。米原市朝妻筑摩はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、筑摩神社は現在の同地区でも、最南端に位置しており、天野川河口域の朝妻筑摩の、当時は中心であったと思われる地区からは一キロ半弱離れていることから、こうした言い方になっているものと思われる。

「板にとりならべ、いたゞきて」不審。これは所謂、薄い土鍋をこの祭り専用の素焼きで作ったものを、板の上に並べて、それを(則ち、土鍋を並べた板を)頭の上に頂いて、としか読めないからである。しかし、それは如何にも安定が悪い。現在のお祭りの少女の被る鍋や、広重の絵を見ても、頭部をすっぽり隠すような本格的な大きさである。後者の奥の女性は明らかにそれを二つ重ねて被っているのが判る

「懺悔」本邦の場合は近世末まで「さんげ」と「さ」を濁らないのが正しいのである。

「中ごろ」過去の有意な時間をおおまかに三分割し、比較的古い時期・中期・今に近い比較的新しい時期を設定して「中頃」と称しているのである。

「常の鍋」家庭で使っている鍋。

『「ち」と「つ」は五音(ごいん)相通(あいつうずる)なり』タ行の同行列で音が近いから、相通ずると言っているか。確かに「筑摩」は「ちくま」「つくま」の両様に読むことは読む。しかし、沖縄方言の母音の口蓋化でも「い段」と「う段」は明確に別れるから、「相通ずる」などと軽々に言えないと思うのだが。寧ろ、「ち」と「つ」がある種の方言や特定集団の用いる言葉に於いては混同が生じ易いとか言った方が腑に落ちるのだが。

「八雲御抄(やくもみしやう)」順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)が自ら著した歌論書。承久三(一二二一)年六月の「承久の乱」以前から書き始められ、一度、纏められたが、乱後に配流先の佐渡でさらに書き続けられ、京の藤原定家に送付されたものである。

『「いせ物がたり」に……』「伊勢物語」百二十段。

   *

 むかし、男、女の、まだ世經(よへ)ずとおぼえたるが、人の御(おほん)もとにしのびてもの聞えてのち、ほど經て、

 近江(あふみ)なる筑摩(つくま)の祭(まつり)とくせなむつれなき人の鍋の數(かず)見む

   *

「世經ずとおぼえたるが」男との肉体関係を持ったことがないとしか思えなかった女が。「人の御もとにしのびてもの聞えてのち」あるお方のところへ、人目を忍んで深く情をお交わしになるようになって後に。男からの如何にもな恨み節で、すこぶる不快な歌である。因みに、この歌は「拾遺和歌集」の巻十九の「雜戀」に「題知らず 詠人知らず」の(一二一九番)、

 いつしかも筑摩(つくま)の祭早(はや)せなむつれなき人の鍋の數見む

として載り、「俊頼髄脳」にもこの歌を引いて説明がある、と昭和五四(一九七九)年角川文庫刊「新版 伊勢物語」(石田穣二訳注)の補注にある。

『「淸輔集」に……』藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年:公卿で歌人。和歌の百科全書ともいうべき名作「袋草紙」(保元元(一一五六)年成立)で知られ、歌道家としての勢威も対立する藤原俊成の御子左家を凌いだとされる)の私家集「淸輔集」の「戀」部にある一首。前書の「寄ㇾ社戀(やしろ〔に〕よするこひ)」は確認出来ないので推定で「に」を補った。「涙」「わかす」「鍋」「いる(煎る)」は縁語であろう。「いらぬ」はそれに「入らぬ」(彼女に私は相手にされない)を掛ける。]

諸國里人談卷之一 常陸帶

 

   ○常陸帶(ひたちおび)

俊賴抄に云、常陸國鹿島明神の祭の日、女のけさう人〔びと〕のあまたある名どもを、布の帶に書つけて、神前に、をくなり。すべき男の名、書〔かき〕たる、をのづから、かへる也。女、「さも」とおもふ男なれば、したしくなると云。

                          公朝

 衣手のひたちの神のちかひにて人のつまをもむすぶなりけり

今此事は絶たるといへり。

[やぶちゃん注:「常陸帶」ここに書かれたように、鹿島神宮でかつて行われていた、女性が将来の夫を占う「帯占(おびうら)」のこと。意中の男性(本文の「けさう人」=「懸想人」)の名を帯に書いて神前に供え、神官がそれを結び合わせて占ったとするが、ほかにも諸説あるようである。期日も古くは正月十一日で、江戸時代には十四日などと様々であったという。神功皇后による腹帯の献納が起源とされ、腹帯は現在も鹿島神宮に収蔵されている(主にサイト「きごさい歳時記」のに拠った)。沾涼が本書を板行したのが寛保三(一七四三)年で、その時には既に絶えて有意な時間が経っていたことが判る。にしても「あまたある名ども」をとか、『女、「さも」とおもふ男なれば、したしくなると云』(いふ)という辺り、なかなかですねぇ

「俊賴抄」歌人源俊頼によって書かれた歌論書「俊頼髓腦(としよりずいのう)」の別名。天永四・永久元(一一一三)年成立と考えられている。

「公朝」権僧正公朝(ごんのそうじょうきみとも 生没年未詳)。評定衆北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年:鎌倉幕府第二代執権北条義時の次男。名越流北条氏の祖)の息子で、鎌倉歌壇の有力歌人であった。

「衣手のひたちの神のちかひにて人のつまをもむすぶなりけり」夫木和歌抄」巻三十四の「雜十六」に載る一首。

 衣手(ころもで)の常陸の神の誓ひにて人のつまをも結ぶなりけり

「衣手の」「衣手を浸す」意から「常陸・常盤」に掛かる枕詞。「つま」「衣の褄」と「人の夫(妻)」を掛ける。「衣」「褄」「結ぶ」は縁語。]

諸國里人談卷之一 熱田的射

 

     ○熱田的射(あつたのまとい)

尾張國熱田社(あつたのやしろ)に、每年正月十五日、的矢あり。六百人の社家(しやけ)、これを射る也。もし、射はづせば、其家を沒し、官錄を、はなたる。よつて、當社の社人、年中、おこたらず、これを勵(はげみ)て、五寸、三寸の的を、常に射はづす事なく、皆、達人也。ことに、其日の的は二尺ばかりの大的にて、いづれにも發(はづれ)ぬやうにする事なり。されども、行跡(かうせき)あしく、神慮に脊(そむ)く輩(ともがら)は、必(かならず)、射はづす事、時として、ありとぞ。

[やぶちゃん注:熱田神宮の歩射神事(ほしゃしんじ)は現在も新暦の一月十五日に行われている。熱田神宮」公式サイト神事解説よれば、『豊年と除災とを祈る神事で、午後』一『時より神楽殿前庭で行』われ、『俗に「御的(おまとう)」ともいわれ』、『初立・中立・後立の各』二『人の射手(神職)が矢を』二『本づつ、各』三『回、計』三十六『本を奉射』する。『最後の矢が射られたと同時に』、『参拝者が一斉に大的を目指して押しかけ、特に大的の千木(ちぎ:大的に付した木片)は古くより魔除けの信仰があり、多数の参拝者がこれを得ようと奪いあうさまは壮観で』あるとある。的の裏には「鬼」と墨書されており、的の直径は一・八メートルと別な記載にあった。流石に今は外しても神職は首にはならんのじゃろうなぁ

「社家」とは代々、特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家(氏族)を指す。熱田神宮は千秋家(せんしゅうけ)。しかし、今、「六百人」もおらんじゃろうなぁ。調べて見たが、熱田神宮の神官の人数なんてものは判らんもんなんじゃなぁ。]

諸國里人談卷之一 犬頭社

 

    ○犬頭社(けんとうのやしろ)【犬尾社(けんびのやしろ)は下和田にあり。】

三河國碧海(へきかい)郡上和田村【岡崎にちかし。】に犬頭社といふあり。深更に及〔および〕て、靑銅百疋を長く繫(つなぎ)て口に喰(くわ)へ、鳥井の邊より社まで、四つ這(ばひ)にはひて行けば、かならず、福を得(うる)と、いひつたへたり。人、あつて、此事をなすに、神慮に叶ふ人は行課(ゆきおふ)せ、叶はざるは、何事ともしらず、兩足を跡へ引きて、行〔ゆく〕事、あたはず、となり。○天正年中、領主宇津左衞門五郞忠茂、一時(あるとき)、獵(かり)して山に入〔いり〕、一樹の下にして俄に睡(ねむり)を催しけるに、手飼の白犬、裾(すそ)を咬(くわへ)て行〔ゆく〕に、目を寐(さま)し、又、睡るに、犬、頻(しきり)に枕の上に吠(ほゆ)る。睡眠の妨(さまたげ)を怒(いかつ)て、腰刀(こしがたな)を拔(ぬき)て、犬を伐(きる)。その頭(かうべ)、飛(とん)で、樹(き)の上の※[やぶちゃん注:「虫」+「白」。]蛇(うはばみ)の頭(かしら)に嚙付(くひ〔つき〕)たり。忠茂、これを見て、大きに驚き、卽(すなはち)、※蛇を殺す。彼(かの)犬の忠情(ちうせい[やぶちゃん注:ママ。])を感じ、兩(りやう)和田村に、犬頭・犬尾を埋(うづみ)て、是を祭る。【東君、聞召〔きこしめし〕、甚〔はなはだ〕感ジサセ玉フ。】

[やぶちゃん注:【2018年8月15日追記】clubey氏のブログ 「猫の神様を求めて」の『愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」中編』で本条を含め、伝承の変遷が詳細に語られてあるのを発見した。是非、読まれたい。
 
「三河國碧海(へきかい)郡上和田村」現在の愛知県岡崎市三上和田町(まち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここで語られる「犬頭社」はかつてこの地区内の「糟目」という場所にあったが、現在はその少し南の愛知県岡崎市宮地町馬場(ここ(グーグル・マップ・データ))に「糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ)」として合祀されて現存している。これは「岡崎おでかけナビ」のこちらで判明した。

「犬尾社(けんびのやしろ)は下和田にあり」上和田町の南、現在の糟目犬頭神社の二キロほどの位置(愛知県岡崎市下和田町北浦。ここ(グーグル・マップ・データ))に「犬尾神社」として現存する。読みは調べる限りでは「けんび」「いぬお」「けんぴ」とさまざまである。ご夫婦で作っておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」のこちら(こちらは「けんぴ」)が「犬尾神社由緒」の画像を掲げておられるので、リンクさせて戴く。その由緒書きには(句読点を挿入した)、

   *

祭神 彦火火出見尊 熊野大神

その昔、この地に彦火火出見尊を鎮座し、祭礼を行い、この辺りの開発の神として尊崇する。後、永延元年(九八七)六月二十五日、紀州熊野権現を勧請し、合祀する。承和二年(一三四六)、上和田城主宇都宮泰藤、犬の危急の報を知らず頭首を刀で断ったが、蛇からの難を免がれることができた。

 これは神明の犬によるものであると深く感じ入って犬の霊を犬頭、犬尾の両社に祭って弔う。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

とあって、主人公の名がこことは異なる。

「靑銅百疋」百疋は一貫文であるから、銭一貫文(基準千枚)は前に示したように、江戸中期なら二万五千円。重さは単位同じであるから約三・七五キログラム。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。

「領主宇津左衞門五郞忠茂」大久保氏。個人サイト「三河松平(徳川氏)家臣団の城館跡」の大久保氏の記載によれば、『大久保氏は粟田関白藤原道兼五代の後胤、下野国住人宇都宮左衛門尉朝綱の後裔と伝わ』り『朝綱九代の孫泰藤は、新田義貞に従っていたが』、『義貞戦死ののち越前を落ち』、『三河に移り住んだ。泰藤の孫泰道の代に姓を宇津と改め、その孫昌忠以来松平氏に仕えた』とあり、先の犬尾神社の人物が、この大久保泰藤であることが判る。また、その後裔である、この大久保改め宇津忠茂についても、『松平清康と敵対していた岡崎の松平昌安』(?~大永五(一五二五)年)『を討つべく』、『山中城奇襲を提言実行』した人物とする。さらに、筑後守氏の「筑後守の航海日誌」の「長福寺(大久保一族の墓)」に、この忠茂は天文一六(一五四七)年に愛知県岡崎市竜泉寺町前田にある、この寺に葬られたとある。

「東君」あまり見かけないが東照大権現徳川家康のことであろう。]

諸國里人談卷之一 梅園社

 

     ○梅園社(むめぞのゝやしろ)

肥前國長崎丸山に富(とめ)る者あり。平日(つねに)、天滿宮を信ず。大宰府の飛梅(とびむめ)の枯條(かれゑだ)を以〔もつて〕、聖像を彫刻して、朝夕(あさゆう[やぶちゃん注:ママ。])、これを拜す。一日(あるひ)、途中にて、不斗(ふと)、口論に及び、殺されけるが、相手もまた、人を害し、遁るべきにあらねば、則(すなはち)、自殺してけり。かくて、殺されたるもの、夢のごとくにして蘓生(そせい)し、家に皈(かへ)りて、しだいを語り、神像を拜するに、御身(ごしん)に刃(やいば)の跡、あり。それより、血、流れたり。大〔おほき〕に驚惶(きやうくわう)し、是、神の我(わが)難に代(かは)り給ふを知りぬ。「梅園(むめぞの)の天神」と稱し、長崎にあり。元祿年中の事也。

[やぶちゃん注:「肥前國長崎丸山」現在の長崎県長崎市丸山町及び寄合町(附近(グーグル・マップ・データ))に相当するが、ここは江戸初期から近代まで「丸山遊廓」として知られた長崎の花街であるから、この「富(とめ)る者」もそうした遊廓の経営者である可能性が高い。

「梅園(むめぞの)の天神」丸山町内に現存する。(グーグル・マップ・データ)。長崎市公式観光サイト「あっと! 長崎」内の梅園身代り天満宮(ウメゾノミガワリテンマングウ)に、『この天満宮は』、元禄一三(一七〇〇)年に創建された『丸山町の氏神様で、昔から“身代り天神”と呼ばれ親しまれてきた。“身代り”と呼ばれるのは、創建者の安田次右衛門が、ある夜』、『何者かに襲われ』、『左脇腹を槍で刺され倒れたが』、『どこにも傷がなく、その代わりに』、『自邸の祠の天神像が左脇腹から血を流していたことによるのだという。また、丸山の遊女達も身代を“みだい”と呼び、自分の生活に苦労がないことを願って参拝した』とあって、沾涼の記載よりもより具体的である。]

諸國里人談卷之一 龍虵

 

   ○龍虵(りうじや)

出雲國秋鹿(あきかの)郡、佐陀社(さたのやしろ)は、さまざま、神事あり。十月十一日より十五日までの間に、沖より一尺ばかりの小蛇(こへび)一疋、浪にのりて磯に寄(よる)。この蛇、金(こがね)を以(もつて)彩色(さいしく[やぶちゃん注:ママ。])がごとく、甚〔はなはだ〕美〔うつく〕し。これを龍虵といふなり。神官、潔齊して汀(みぎは)に出〔いで〕て、その來れるを待(まち)、海藻(かいも)を手に受(うく)るに、龍虵、その藻のうへに曲(まが)り居(い[やぶちゃん注:ママ。])るを、則(すなはち)、神前に進(たてまつ)るなり。是、海神より佐陀社へ獻(たてまつ)るものなり。

祭神 伊弉諾(いさなき)・伊弉冉(いさなみ)の二神也。十月は陰神(ゐんしん)崩(ほう)じ給ふ月なれば、諸神、この社(やしろ)に集り給ふ。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に當所にては神在(かみあり)月と云。

[やぶちゃん注:「伊弉冉」の「冉」は原典では「冊の最終画の上に横に一本「一」を入れた字体であるが、表記出来ないので、一般的な「冉」を用いた。

「出雲國秋鹿(あきかの)郡、佐陀社(さたのやしろ)」現在の島根県松江市鹿島町佐陀宮内(さだみやうち)にある出雲国二宮である佐太神社(さだじんじゃ)。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「佐太神社によれば、正殿に『佐太御子大神』(さだのみこおおかみ)、『伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命』(はやたまのおのかみ:伊奘諾尊が黄泉国に伊奘冉尊を訪れた際、例のごたごたの中で誓約のために吐いた唾(つば)から生まれた神とされる)『事解男命』(ことさかのおのみこと:同じくその吐いた唾を払った際に生まれた神とされる)の五柱を、他に七柱(後の引用を参照)を祀る。『秋鹿郡佐田大社之記に垂仁』五十四『年の創建で、養老元年』(七一七年)『に再建されたとある。『出雲国風土記』の記述からもとは神名火山(現:朝日山)のふもとに鎮座していたと考えられる』とあり、『現在の神社側の公式見解では、正殿の主祭神である佐太御子大神とは猿田彦神のことである』『としている。佐太大神は『出雲国風土記』に登場し、神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれたという。現在では、神名の「サダ」について、猿田の本来の読みであるという説、狭田すなわち狭く細長い水田の意とする説、岬の意とする説、等のほか諸説がある』とあって、さらに本文に「さまざま、神事あり」とある通り、『祭礼は古来』、七十五『度あったと言われるが、近世にはすでに行われなくなったものもかなりあると見られている』と記す。平津豊氏のサイト「MYSTERY SPOT」の佐太神社と万九千神社に、『佐太神社は、出雲大社にひけをとらないほど広い境内と社殿を構えた神社で、三殿が並立しためずらしい造りとなっている。この神社に祭られている神は、中央の社に、佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊・事解男命、速玉之男命。右の社に、天照大神、瓊々杵尊。左の社に、素盞鳴尊、秘説四座。合わせて十二もの神々が祀られているとされている。これはいかにも豪華すぎる。また、異説も沢山あり近年整えられたものにすぎない。本来は、佐太大神のみが祀られていたと考えられている。この佐太大神とは何者か、については、「狭田国(サダノクニ)」の祖神であり、「サダ」とは島根半島を指すと考えられている。社の正式な由縁では、佐太大神は古事記に出てくる猿田毘古(サルタヒコ)であるとしているが、これは明治に松江藩から命じられ受け入れたことで、別神である。おそらく』、『佐太大神は、出雲の土着の神で、明治時代に天津神に関係する神でよく似た名前の神をあてがったものと考えられる』。『神有月の頃、海から尻尾に斑紋のある海蛇があがる。これを「龍蛇神」と呼び祀る習わしがある。一方、古事記には、海を照らして光り輝きながらわたってきた御諸の神、つまり三輪大神が大国主の国づくりを手伝ったとあり、この三輪の神は蛇に化身する神であることから、この風習と一致する』。『つまり、佐太の神も蛇にまつわる神である、大国主は大穴牟遅(オオナムチ)の別名を持っておりナムチは蛇を表わす。土着の神=国津神はこのように、蛇と深い関係をもって表現されることがある』とあり、また、Kami Masarky氏のブログの【龍蛇神の紋章】 佐太神社には、出雲の「神在月」には全国の神々が『竜宮の使いである「龍蛇神」に先導されて海から出雲の地に上陸』し、『この龍蛇神は実際には「セグロウミヘビ」』爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科セグロウミヘビ属セグロウミヘビ Pelamis platura:一属一種。有毒。全長六十~九十センチメートル。体重百~二百グラムと小型。ウィキの「セグロウミヘビによれば、『体形は側偏』し、『本種は他のウミヘビ亜科の種と同様、卵胎生を獲得して産卵のための上陸が不必要となった完全な海洋生活者であり、その遊泳生活に応じて、他のヘビでは地上を進むのに使用されている腹面の鱗(腹板)は完全に退化している。頭部は小型で細長い。前牙類のため上顎の前方に毒牙があるが、牙は比較的小さい』が、『神経毒で、毒牙が小さいため』、『一噛みあたりの注入量は少ないが、人を殺せるほど強力なもの』『で、非常に危険である。また、本種は肉にも毒があるので、食用にはならない』。『名前の由来は、背が黒いこと』に由来するが、『腹面は黄色もしくは淡褐色で、色味は個体により』、『黄色の強いものから』、『象牙色に近いものまでかなりの幅がある。体色は全身にわたってほぼ二色にくっきりと分かれているが、尾部のみは黄色や淡褐色地に黒色、もしくは黒色地に黄色あるいは淡褐色の斑点模様、または太い波型の縞模様になっている個体が多くみられる』とある。また『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では旧暦』十『月に、海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』ともある)のことであると述べられ、なぜ、この『「神迎え神事」を行うのかというと、この時期になると』、『日本海が荒れて、出雲の海岸にセグロウミヘビがよく打ち上げられるからで』あるとある。『このことから』、『出雲では昔からこのセグロウミヘビを神々を先導する「龍蛇神」として崇めてき』たのであり、『出雲の原初の信仰は「龍蛇神信仰」で』あったとされる。

「彩色(さいしく)」「いろどる」の意であろう。

「陰神(ゐんしん)」伊弉冉尊を指す。彼女の没したのが十月という根拠は不詳。]

諸國里人談卷之一 人魚

 

     ○人魚

若狹國大飯郡(おゝいごほり)御淺嶽(みぜんがだけ)は魔所にて、山八分(ぶ)より上に登らず。「御淺(みぜん)明神の仕者(ししや)は人魚なり」と、いひつたへたり。寶永年中、乙見(おとみ)村の獵師、漁(すなどり)に出けるに、岩の上に臥(ふし)たる體(てい)にして居るものを見れば、頭(かしら)は人間にして、襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きものまとひ、それより下は、魚なり。何心なく、持〔もち〕たる櫂(かい)を以〔もつて〕打〔うち〕ければ、則(すなはち)、死せり。海へ投入(なげ〔いれ〕)て歸りけるに、それより、大風、起つて、海、鳴(なる)事、一七日〔ひとなぬか〕、止(やま)ず。三十日ばかり過〔すぎ〕て、大地震(だいぢしん)し、御淺嶽の梺(ふもと)より海邊まで、地、裂(さけ)て、乙見村一郷(いちごう)、墮入(おち〔いり〕)たり。是、明神の崇(たゝり)といへり。

[やぶちゃん注:「若狹國大飯郡(おゝいごほり)御淺嶽(みぜんがだけ)」よく判らないのだが、或いは、これは現在の福井県大飯郡高浜町高野にある青葉山(山体全体は京都府舞鶴市に跨っている東峰と西峰からなる双耳峰。標高六百九十三メートル。信仰との関わりが深い山で、舞鶴市側の西中腹には西国三十三所第二十九番札所松尾寺が創建され、高浜町側の東中腹には中山寺が創建されており、両寺はともに山号を「青葉山」とする。また、東峰の山頂には青葉神社、西峰の山頂には青葉神社西権現が祀られている。また、古来より若狭三山(青葉山、多田ヶ岳、飯盛山)の一つとして修験道が盛んに行われていた。ここはウィキの「青葉山」に拠った)のことではなかろうか? ある資料に、この青葉山の別名を「御山」と記しているからで、これは「淺嶽(みぜんがだけ)」とちょっと似ている気がしたからである。また、その他の大飯郡のピークは(三()国岳などまたちょっと似ているものはあるのだが)、概ね内陸で海岸線に近くないので、この話向きでないと考えたからでもある。また、この直後に乙見村」というのが出るのあるが、この漢字表記では見当たらないものの、この青葉山の東北に先太りで突き出ているのが音海半島(おとみはんとう)だから、この漁師の村もこの音海附近ではないかと思うのである。さすれば、福井県高浜町北西部にロケーションが限定出来るここ(グーグル・マップ・データ))からである。また、斉藤喜一氏のサイト「丹後の地名」の「青葉神社」の非常に詳しい考証ページによれば、この青葉山は、古代に於いては、大和朝廷に抵抗した土蜘蛛の陸耳御笠(くがみみみかさ)が領有していたのものでなかったのかと記しておられ、まず、「高浜町誌」を引用されて、

   《引用開始》

青葉山の土蜘蛛(青葉山麓)

 青葉山は、丹後と若狭との国境にあって若狭富士ともいわれている。

 崇神天皇のころ、この山に「土蜘蛛」が住んでいて、その頭を「陸耳の御笠」といった。山から下りて来て田畑を荒らしたり、家にはいって物を盗んだりするので、天皇は御弟の日子坐の王に、討ち捕えるようにとお命じになった。王が青葉山のふもとにお着きになると、地面や山々はごうごうと音をたてて揺れだし、天からは御光がさして、土蜘妹たちは目もあけていられないので、頭の陸耳は驚いて山を下り逃げ出した。王は方々追いかけまわして遂に、これらのものをお退治になったという。

   《引用終了》

とあり、次に「丹後風土記残欠」から以下を示しておられるが、こちらは国立国会図書館デジタルコレクションの「丹後資料叢書」(昭和二(一九二七)年刊)にある「丹後風土記殘缺」の画像(こちらこちら)を確認して、オリジナルに勝手訓読してみた。読みは田の資料も参考にして推定で歴史的仮名遣で附してある。

   *   *   *

甲岩(かぶといは)

甲岩ハ、古老、傳へて曰く、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのみこと[やぶちゃん注:崇神天皇の名。])の御代に當り、當國の靑葉山の中に、土蜘(つちぐも)有り。「陸耳御笠」と曰ふ者にして其の狀(じやう)、人民を賊(そこな)ふ。故(かれ[やぶちゃん注:そこで。])、日子坐王(ひこいますのみこ)、勅を奉(たてまつ)りて來たりて、之れを伐つ。卽ち、丹後國[やぶちゃん注:引用元にはここに『(六字虫食)』とあるが、斉藤喜一氏は『若狹國ノ境ニ到ニ』とされておられる。]堺、鳴動して以つて、光輝を顯はし、忽ちにして、巖岩、有り。形貌、甚だ金甲に似たり。因つて、之れを「將軍の甲岩」と名づくなり。亦、其の地を鳴生(なりふ)と號づく。

   *

志託(したか)

以つて「志託」を稱する所以(ゆゑん)は、往昔(そのかみ)、日子坐王、官軍を以つて、將(まさ)に陸を攻伐せん[やぶちゃん注:引用元にはここに『(七字虫食)』とあるが、斉藤喜一氏は『耳御笠ヲ攻伐ノ時、靑』とされておられる。]葉山より墜隨(ちくずい[やぶちゃん注:落ち延びてゆくことと採っておく。])す。之れを遂ひて、此の地に到り、卽ち、陸耳、忽ち、稻中に入りて潛み匿るるなり。王子、忽ち、馬を進み入れ(六字虫食)、將いに殺さんとす。則ち、陸耳、忽ち雲を起こし、空中を飛び走り、南に向けて去れり。(二字虫食)王子、甚(いた)く稻(いね)・粱(あは)[やぶちゃん注:底本は「稻梁」となっているが、これは原典の「粱」(あわ)の誤りであろう。そうでないと意味が通じぬので特異的に訂した。それはおかしいとならば、御指摘戴ければ幸いである。]を侵して、荒蕪(したき)爲(ま)せり。故(かれ)(以下十四行虫食)[やぶちゃん注:斉藤氏はここを『其地ヲ名ツケテ荒蕪』(シタカ)『ト云フ』とされておられる。]

   *   *   *

青葉山が古えの土蜘蛛の根城であったとすれば、これはまさに伝承上、後々まで「魔所」とされるに相応しいではないか。また、若狭は人魚伝承の多い地域であるが、人魚の肉を誤って食べてしまった不老長寿となる、所謂、「八百比丘尼」伝説もある。しかもウィキの「人魚」によれば、『京都府綾部市と福井県大飯郡おおい町の県境には、この八百比丘尼がこの峠を越えて福井県小浜市に至ったという伝承のある尼来峠という峠がある』とあり、この尼来峠は青葉山から十二キロメートルほどと比較的近い位置にある(通常の地図では確認出来ないので。サイト「峠データベース」のこちらを確認されたい)但し、以上の尼来峠を八百比丘尼が越えたとする話には要出典要請がかけられているので判る通り、出典が定かでない。私は以前にこの出典を調べてみたことがあるのだが、いろいろなところにこの記載がありながら、どなたもその一次史料を示していないので怪しい気もする。されば、参考までに記しおくに留める。

「仕者(ししや)」使者。

「寶永年中」一七〇四年~一七一一年。徳川綱吉・家宣の治世。

「獵師」漁師。

「頭(かしら)は人間にして、襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きものまとひ、それより下は、魚なり」男女の区別をしていない。されば、頭部が単に人間らしい印象であったに過ぎないことが判る。その場合、私は「耳」があるかないかが、大きな人面のシミュラクラのポイントの一つになると考えているので、この漁師が沿岸の岩礁上に認めたそれは、目立つ耳介を持つ、哺乳綱ネコ目アシカ科キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus ではなかったかと推理している。「襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きもの」を纏っていたというのは、紅藻類の海藻が頸の周囲に付着していたと考えても無論、よいが、実はわざわざそんなもので無理に装飾しなくても、実はオットセイの幼体や♀の成獣の毛は腹面が赤褐色を呈するのである。

「一七日〔ひとなぬか〕」一週間。

「大地震(だいぢしん)」宝永年間の大地震は宝永の地震(宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)であるが、これは東海道沖から南海道沖の南海トラフを震源とするもので、小浜附近の推定震度はマグニチュード5~6で(ウィキの「宝永地震に拠る)、「御淺嶽の梺(ふもと)より海邊まで、地、裂(さけ)て、乙見村一郷(いちごう)、墮入(おち〔いり〕)たり」というような大規模な広域の陥没のカタストロフが起きたような感じではない。なお、この謂いからは「乙見」は「音海」ではなく、青葉山の北方の内海湾湾奧になくてはならぬことになる。不審。]

2018/05/30

諸國里人談卷之一 直會祭

 

     ○直會祭(なをへまつり)

尾張國中嶋郡國府宮(こふのみや)【淸洲(キヨス)の近所也。】、每年正月十一日に「直會祭」といふあり。神官、旌旗(せいき)を立〔たて〕て、道の邊〔べ〕に出て、往來の人を一人、捕ふ。さるによつて、其日は諸人、戸出(とで)をつゝしむ。旅人などは旅館にて此事を告〔つげ〕しらせて逗留するなり。斯(かく)恐るれども、自然(しぜん)と、このために捕はれる者、出來〔いでき〕て、其人を沐浴(ゆあみ)をさせ、淨衣(じやうゑ)を著(きせ)て、神前につれ行〔ゆき〕、大きなる爼板(まないた)一器(いつき)、木にて作れる庖丁、生膾箸(まなばし)をまうけ置〔おき〕、又、人形(ひとがた)を作りて、捕はれたる人の代(かはり)として、末那板(まないた)の上に据(すへ)て、その傍(かたはら)に捕はれし人を居(お[やぶちゃん注:ママ。])らしめ、神前に備(そな)へ進ずる事、一夜なり。翌朝(よくてう)、神官來りて、件(くだん)の備物(そなへもの)・人、共に神前よりくだし、土を以〔もつ〕て、大きなる鏡餠(かゞみもち)を作りて、彼(かの)人、背に負せ、靑銅一貫文を首にかけて追放(おいはなつ[やぶちゃん注:ママ。])に、走り行〔ゆき〕て、かならず、倒(たをれ)て絶入(ぜつじゆ)す。少時(しばらく)ありて正氣いでゝ、元のごとし。その倒れたる所に土餠(どもち)を納めて塚を築(つく)なり。此神事、社家の深祕(しんぴ)とす。

眞淸田明神〔ますみだみやうじん〕 祭神 國常立尊〔くにのとこたちのかみ〕 當國の一宮也。

[やぶちゃん注:これは私には、礫川全次氏の編著になる「生贄と人柱の民俗学」(一九九八年批評社刊・「歴史民俗学資料叢書」五)の加藤玄智博士の大正一四(一九二五)年の論文「尾張國府宮の直會祭を中心として見たる人身御供及び人柱」を始めとして、文献上は非常に親しく知っている異祭である。歴史的仮名遣では正しくは「直會祭(なほゑまつり)」である。以上の内容から容易に察することが出来るが、この祭りは古えにあっては明確な人身御供の祭儀であったのであり、恐らくは近世の初期頃までは、ここに記されたよりも、より原型に近い凄惨な一部(犠牲者への暴行・傷害・致死)を色濃く保存していたものと私は推定している。実際に私は、近世後期まで、こうした厄を負わせた浮浪者を生贄に仕立て、祭りの最後に村民全員が石を投げ打ったり、棒で叩いたりして村落境界外へ追放したり、共同体辺縁を意味する橋の上から突き落としたりして半死半生にするという祭儀を、複数、知っている

「尾張國中嶋郡國府宮(こふのみや)【淸洲(キヨス)の近所也。】」現在の愛知県稲沢市国府宮にある尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)。(グーグル・マップ・データ)。祭神は尾張大国霊神で、これは尾張人の祖先が当地を開拓する中で、自分達を養う土地の霊力を神と崇めたものとされている。開拓神ということから、大国主命とする説もある。尾張国府の設置とともに創建されたもので、尾張国総社とされた。国府は近くにあったことから、一般には「国府宮(こうのみや)神社」或いは単に「国府宮」と呼ばれる。現在も毎年旧暦一月十三日に執り行われる「儺追(なおい)神事」としてこの祭りは生きており、これは通称「はだか祭り」として有名である。この「はだか祭り」では、「籤(くじ)」によって選ばれた「神男」(しんおとこ:或いは単に「シン」と呼ばれる)に触れると厄が落とされるという言い伝えが今なお残っているが、加藤玄智氏の論文によれば『其勢ひは頗る猛烈である爲に、其シンになつた男が、身體の肉を裂かれ血を出して負傷するやうな事もあるから、屈な男が數名之を護衞して、其シンになつた所の男を』『防禦』する。しかし、これは昼間の儀式で、夜の部の祭(午前二時から払暁まで)では一転してシンに『鏡餅を背負はせ、それに人形を付け』、『神主始め其他の人が、之を鬼として追ふのである。其時にぶつけるものは、桃の枝と柳の枝とを二本合せて』撚つて『結び、一寸ばかりに切つた飛礫を』『ぶつけるのである』。『さうして三囘』シンが『逃廻つた後に、社前約半丁ばかりの一定の土地に逃込んで』(こここそが古えの生贄の殺害場所であり、埋葬地であったに違いない)、『其處に其脊負つて居つた餅を下して土中に埋め』(餅は稲霊であるよりもここでは生身の人の霊魂の代替物である)、『其シンになつた』逆に多くの『厄を脊負つ』てしまった『男は、急いで自分の家へ歸』ることになっていたのである。これは江戸時代の話ではない。論文が書かれた大正末期の様子なのである。それ以前の原型がいかに強烈なものであったかは、この異常な生贄役選別が旅人や公的な飛脚の通行を著しく妨げて問題になった結果、寛保年間(一七四一年~一七四四年)、当時の尾張藩第八代藩主徳川宗勝がこの祭祀を学者に調べさせ、人を捕えて神前に供するという仕儀を「淫祠」と断じて禁じたことからも判る。後に江戸中期の神道家源誠之の書いた「吉見宅地書庫之記」によれば(加藤論文からの孫引き)

   *

寛保年間本州國府宮正月十三日追儺修法、捕人以充之者、以似淫祀、邦君(註德川宗勝)寬政之餘、思國民之憂、欲止之、使有司問之先生、於是先生考索和漢典籍、審誌勘文、以聞、乃有嚴命、禁止猥捕往來人之淫祀、因下令於國中、不啻使闔國往還安、天下大悅、傳聞之者、無不感嘆邦君之仁政、嗟呼偉哉。

   *

とあって、実は祭りに参加していた民草自身が、この奇体な祭りが禁止されたことを逆に悦んでいることが判るのである。しかも、本「諸國里人談」の刊行は寛保三(一七四三)年であるから、ここに記された内容は、まさしく旧型の禁止される最後の形を記している貴重な資料なのである。

「旌旗(せいき)」色鮮やかな幟旗。

「戸出(とで)」外出。

「斯(かく)恐るれども、自然(しぜん)と、このために捕はれる者、出來〔いでき〕て」生贄がなければ、直会祭を行えない以上、神主や氏子総代は当然、裏で手を回して、浮浪人や卑賤の大道芸人・知的障碍者などを金銭を以って雇い入れていたものと推測される。

「其人を沐浴(ゆあみ)をさせ、淨衣(じやうゑ)を著(きせ)て」典型的な「一夜神主」=人身御供である。

「生膾箸(まなばし)」「眞魚箸(まなばし)」で魚鳥を礼式に則って料理する際に使う、柄のついた長い木又は鉄製の箸。

「人形(ひとがた)を作りて、捕はれたる人の代(かはり)として、末那板(まないた)の上に据(すへ)て、その傍(かたはら)に捕はれし人を居(お)らしめ、神前に備(そな)へ進ずる事、一夜なり」フレーザーのいう類感呪術の教科書的記述と言える。慄然とするものがある。

「靑銅一貫文」江戸中期だと、一両の四分の一が銭一貫文で、凡そ一両は十万円相当として、二万五千円。これが生贄役のギャラだった。私は安過ぎると思うね。「ハレ」には実際の生贄が何時だって必要なんだ、今だって、ね。

「走り行〔ゆき〕て、かならず、倒(たをれ)て絶入(ぜつじゆ)す。少時(しばらく)ありて正氣いでゝ、元のごとし。その倒れたる所に土餠(どもち)を納めて塚を築(つく)なり」こうしないとエキサイトした参加者の中には、「総ての厄を担った鬼」役を確信犯で実際に撲殺する者が出てくるからである。これは神主から予めその者に謂い含められたシナリオなのだと私は思う。これは「神(シン)」=「鬼」=トランス状態の巫覡(ふげき:男のミコ)の行動としても腑に落ち、失神した(神がかりが落ちた)それに手は出さないのが、こうした際の暗黙の鉄則だからである。それこそ、そうした演出こそが本来のこの祭りの「社家の深祕(しんぴ)」だったのだと私は思う。]

諸國里人談卷之一 龍王祭

 

     ○龍王祭(りうわうまつり)

淡路國由良の湊の南西の海中に、周(めぐ)り、三里ばかりの小島あり。此所に平生(ひらもへ[やぶちゃん注:ママ。])といふ大石、海へさし出〔いで〕たる、方〔ほう〕三間〔げん〕あまりの平〔たひら〕なる石あり。每年六月三日、由良の八幡の社僧、來り、此石の上に供物を備へ、祭儀を修(しゆ)す。これを龍王祭といふ也。此時節に至つて、かの石の邊(あたり)に、大小の龜、數萬(すまん)、群(むらが)り集りて、海上を塞ぐ。祭事、過ぬれば、殘らず、忽(たちまち)に去る。今に至〔いたり〕て、例年、たがはず。

[やぶちゃん注:以下は原典では全体が一字下げ。]

案ずるに、此島は牟島(むしま)なり。此島に秦武文(はたのたけふみ)が伴ひし御息所(みやすどころ)、漂泊し、此所に流れより、はじめて上り給ふ、といふ所に、岩あり。傍に小祠(ほこら)あり。今、弁財天に祭る。

[やぶちゃん注:本条の挿絵が後に別にここに載る。早稲田大学図書館古典総合データベースの①のそれで示した。

「淡路國由良の湊の南西の海中に、周(めぐ)り、三里ばかりの小島あり」「牟島(むしま)」これは「太平記」の巻第十八の「春宮(とうぐう)還御の事 付けたり 一宮御息所(いちのみやみすんどころ)」の中に出る秦武文の妻の話から、「武島(むしま)」が正しいと思われる。しかし、この「武島」、不詳とされており、例えば「新潮日本古典集成」(昭和五八(一九八三)年刊)の「太平記 三」(山下宏明校注)の頭注によれば、岩波古典大系本では淡路島の南にある沼島(ここ(グーグル・マップ・データ))に、『この御息所に関する話が伝わると』注するとあり、また、『淡路島北西部の津名郡北淡(ほくだん)町野島か』(この附近(グーグル・マップ・データ)。しかし、ここは島ではなく、淡路島島内の地名である)とも注されてある。この条に出る「由良の湊の南西の海中」というロケーションとしては後者の「野島」は当たらない(そもそもが島でないからアウト)。兵庫県洲本市由良は淡路島の東端で(ここ(グーグル・マップ・データ))で、沼島は由良を起点にして確かに南西ではあり(但し、由良から直線でも十七キロメートルも離れている)、また、沼島の周囲は九・五三キロメートルと、「周(めぐ)り、三里ばかり」(十二キロメートル弱)というのと極端には違わない。取り敢えずは「沼島」で採っておこうと思う。なお、由良には南北に細長い「成ヶ島(なるがしま)」(トンボロ(陸繋島))があるが、ここは逆立ちしても「由良の湊の南西の海中」とは言わないだろうから、私は当初から候補にしていない。

 さて、ウィキの「沼島を見てみると(下線やぶちゃん)、『淡路島は、『古事記』では淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)と書かれ、『日本書紀』では淡路洲と書かれていて、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の産んだものとされ』、『伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の「天浮橋(あめのうきはし)」に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって青海原をかき回し、その矛を引き上げたところ、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった。これがオノゴロ島で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国産みを行った。初めに造られたのが淡路島で、その後次々に島を生んで日本国を造られたとされる。おのころ島の所在地については諸説ある。そもそも架空の島であると言う説、淡路島北端の淡路市にある絵島、南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社のある丘、あるいは淡路島全体であるという説もある。しかし』、『沼島には古来おのころ島の伝えがあり、天沼矛に見立てた奇岩、おのころ山に鎮座して二神を祭る「おのころ神社」が存在するため、沼島とする説もある』とある、大変な島で、「平生」(ひらもえ)という大石は確認出来ないものの、奇岩の奇景の豊富なところで、「上立神岩」・「屏風岩」・「あみだバエ」など、『島の南側の海岸線は太平洋の黒潮をまともに受ける場所であり、奇岩・岩礁を形作っている。なかでも高さ約』三十メートルの『上立神岩(かみたてがみいわ)は「天の御柱」とも言われ、江戸時代に『和漢三才図会』には「龍宮の表門」と書き記されている』とあるのは、本話が「龍王祭」であり、祭祀の途中にウミガメが数万匹(これは幾らなんでもオオゲサ過ぎ!)も群泳するという驚くべき怪異現象と合わせ、龍宮説話との非常に強い親和性をこの島は感じさせると言えるのである。

「方三間〔げん〕」五メートル四十五センチ四方。

「由良の八幡」現在の兵庫県洲本市由良にある由良湊神社であろう。サイト「玄松子の記憶」の由良湊神社の記載に、元、この神社は王子権現社と称していたが、『中世に八幡神信仰により、由良城主池田忠長が八幡宮を』別なところに『創建、万治元』(一六五八)『年に蜂須賀光隆が、当社境内に八幡宮を遷し、明治三』(一八七〇)『年に、八幡宮は当社へ合祀された』とあるからである。

「秦武文(はたのたけふみ)が伴いし御息所(みやすどころ)」「秦武文」は「太平記」で元徳三(一三三一)年の元弘の乱の際、摂津国兵庫の海で、死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻これがここで言っている「御息所」である。老婆心乍ら、武文の妻ではないので注意されたい)を守って入水したとされる南朝忠臣(右衛門府の下官)。「たけぶん」とも読む。実在性はない。因みに、所謂、恨みの人相を甲羅に刻むとされる、節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica(及びその近縁種)は、摂津の大物(だいもつ)の浦(現在の大阪湾に近い兵庫県尼崎市大物町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は大阪湾に流れ込む神崎川河口から少し入った内陸にあるが、かつては直近に浜があった)を発祥元とする怪異伝承に基づくと、別名を「武文蟹」と称し、彼の生まれ変わりとする。私の毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)に「太平記」の当該話を紹介してあるので、知らない方は、そちらを参照されたい

「傍に小祠(ほこら)あり。今、弁財天に祭る」ここで言っているものかどうかは不明だが、女優の下川友子さんのオフィシャル・ブログの日本創成の島!?おのころ島と伝えられる沼島へ!弁財天 沼島八幡宮によれば、沼島の港のすぐ直近の、(グーグル・マップ・データ)に弁天社が現存する(祭神は宗像三女神の一人である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)とあるが、彼女は本地垂迹説では弁才天と同一視されることが多く、古くから弁才天を祀っていた神社では廃仏毀釈以降に市杵島姫神や宗像三女神を祀っている神社も多い)。]

諸國里人談卷之一 飽海神軍

 

   ○飽海神軍(あくみのかみいくさ)

出羽國庄内、飽海の社(やしろ)は大物忌(おほものいみ)太神と號す。祭神、倉稻魂神〔うかのみたまのかみ〕なり。年に一度、風、烈しく震動して、天氣、常に異なる雪・霰(あられ)の中に、矢の根、交りて降るなり。これを「神軍(かみいくさ)」とて、土人、大きに怖る。晴〔はれ〕て後、木蔭に、石にあらず、鐡(かね)にあらず、鏑(かぶら)矢・蟇股(かりまた)等の鏃(やのね)、數品(すひん)あり。これを雷斧(らいふ)と云〔いふ〕。鹿伏(かふし)の矢の根にかはらず。また、奧州・能州の中にもあり、常州鹿島にもありと云。これ、則〔すなはち〕、「本草」にいふ所の雷楔(らいけい)・雷斧の類ひなるべし。

[やぶちゃん注:沾涼明らかに前の「鹿伏神軍」の類例として続いて示している。この怪異については、サイト「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺」にある「第25回 神矢田 【かみやだ】18 神軍(かみいくさ)の鏃(やじり)降りそそぐ地 山形県飽海郡遊佐町」で詳細な科学的・考古学的・民俗学的考証がなされている。かなり長いものであるが、必見である。結論だけを引かせてもらうと、『現代からみれば、土中に埋没していた縄文・弥生時代の石器が、長雨によって表土が流出したために地上に現れたに過ぎないのだが、古代の人々は形態から弓箭の鏃であろうとは推察はしたものの、天上の神々が戦を起こした際に使用した鏃が降りそそいだのであり、石鏃を神与のものと考えた』のであるとある。

「出羽國庄内飽海の社(やしろ)は大物忌(おほものいみ)太神と號す」山形県飽海郡遊佐町にある鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)であろう。本神社は鳥海山頂の本社及び麓の吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の二か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称しており、鳥海山を神体山とする鳥海山山岳信仰の中心を担う神社である。本文の叙述は山頂の本社をロケーションとしているようには見えないから、吹浦のそれ(ここ(グーグル・マップ・データ))或いは蕨岡のそれ(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう。ウィキの「大物忌神」によれば、『鳥海山は古代のヤマト王権の支配圏の北辺にあることから、大物忌神は国家を守る神とされ、また、穢れを清める神ともされた。鳥海山は火山であり、鳥海山の噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火のたびにより高い神階が授けられた』とあり、『大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とされる。鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神として』おり、『鳥海月山両所宮では鳥海山の神として倉稲魂命を祀っている』とある。

「倉稻魂神〔うかのみたまのかみ〕」「朝日日本歴史人物事典」より引く(コンマを読点に代えた)。『日本神話に登場する穀物神。伊奘諾尊が飢えたときに生まれた神。『延喜式』の祝詞では、「屋船豊宇気姫命」という神に「是は、稲の霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻といふ」との説明があるほか、『日本書紀』の神武天皇の巻に「厳稲魂女」という神名がみえ、「うか」が穀物を意味する語であることがわかる。『日本書紀』の保食神』(うけのかみ)『や『古事記』の豊宇気毘売神』(とようけびめのかみ)『の「うけ」は、それが転じたもの。このように、古い文献に「うか」「うけ」を含む神名が多数みえるのは、穀物神、穀霊』(稲霊(いなだま)『が方々で祭られ、それに応じて種々の呼称が存在したことを反映するものらしく、この倉稲魂命もその一例と考えられる。『古事記』の宇迦之御魂神は、須佐之男と神大市比売』(かむおおいちひめ)『との間に生まれた神として出ているので、別神だろう』とある。

「蟇股(かりまた)」前の「鹿伏神軍」で注した「雁股」の意で記している。恐らくは、鏑矢の一種である「蟇目・引目(ひきめ)」と混同してしまった表記であろう。因みに「ひきめ」は、「響目(ひびきめ)」の略として射た際に音を響かせることからの名とも、また、鏑に開けた孔の形が蟇蛙の目に似ているからともいう。朴(ほお)又は桐製の大形の鏑で、犬追物(いぬおうもの)や笠懸(かさがけ)などに於いて、射る対象を傷つけないようにするために用いた。「ひきめの矢」は特にその音が、妖魔を退散させるとして、呪術的な処方としてもしばしば使われた。

「鏃(やのね)」「やじり」に同じい。

「雷斧(らいふ)」雷神の斧(おの)。石器時代の遺物の打製石斧などを、雷神の持ち物が落雷などで空から落ちてきたと考えたもの。「天狗のまさかり」「天狗の飯匕(めしかい:杓文字(しゃもじ)のこと)」などとも呼ぶ。

「奧州・能州の中にもあり、常州鹿島にもあり」前条に出した木内石亭の「雲根志」の「後編卷之三 像形(ざうぎやう)類」の「霹靂碪(へきれきちん)」(「雷神の砧(きぬた)」の意)には、能登の「所の口」という所の『畑の中より、天狗の爪を多く掘出す』とし、さらに、『奥州南部、出羽の羽黑山、越後馬正面(ばせうめん)村、東美濃客見野(かくみの)、飛彈國高原(たかはら)等に雷斧多し。其外、國々稀にありと見ゆ。細小なるは三、五分、巨大なるは尺余、かけ肌あり、みがき肌あり、諸方石を愛せる家每に雷斧・雷刀・雷鎚・雷碪・雷環・雷珠・雷鑽(さん)・雷楔(けつ)・雷墨・雷劍等あり。根元(こんげん)、一物なり。各形容によつて名を呼(よぶ)なるべし。予、數百種を蓄(たくはふ)。色・形・大小・産所、等しからず。按ずるに、雷に寄る事、非なり。意者 (おもふに)、上古の兵具(へうぐ)ならんか。口傳あり」と鮮やかに正しく述べている。また、「後編卷之四」の冒頭「鐫刻(せんこく)類」の冒頭の「鏃石(やじりいし) 一」には、「続日本紀」から始めて、本条の鳥海山の「神軍」の例も含め、詳細にこれを綴っており、そこには同現象の起こる場所を細かに羅列しており、その中に、まさに『常陸國鹿島海邊』『奥州津輕同松前仙臺南部左井(さい)村等』『能登七尾近所二の宮、又、「ヒラ」といふ所』『佐渡國鹿伏(かぶし)大明神境内』(前の「鹿伏神軍」である)を挙げて、『東國北國には所々にあるべし』とも記している(太字下線やぶちゃん)。

『「本草」にいふ所の雷楔(らいけい)・雷斧』明の李時珍撰の「本草綱目」の「卷十 金石之四」に「霹靂碪」の項を挙げ、そこに「雷揳」「雷斧」が載る。原文は「漢籍リポジトリ」の殆んど末尾(「雷墨」の前)で読める。これを見るに、前注の石亭の「雲根志」での「雷~」の名数はこれに拠ることが判る。]

諸國里人談卷之一 鹿伏神軍

 

     ○鹿伏神軍(かふしのかみいくさ)

佐渡國鹿伏(かふし)明神、每年二月九日、大雨風〔おほあめかぜ〕にして、夜に入〔いり〕て大きにあれ、明がたより、しづまり、翌十日、極めて晴天なる事、例年、たがはず。土俗(ところのもの)、其夜は「神軍あり」といひつたへて、戸出(とで)をせず、籠れり。あけの日、社頭の邊に、ふしぎの矢の根、數(かず)あり。尖矢(とがりや)・かりまた・かぶら矢など、さまざまの形にして、大〔おほい〕さ、常の箭(や)の根のごとし。人民、これを拾ひて守(まもり)とす。囘國の僧など、拾ひ得て來〔きた〕る事あり。

[やぶちゃん注:四度の私の佐渡行で二度泊まった「ホテル大佐渡」のある、現在の新潟県佐渡市相川鹿伏(あいかわかぶせ:(グーグル・マップ・データ))地区には、現在、海辺近くに熊野神社と善知鳥神社があるが、この孰れかか? 孰れの神社を調べても、比定は出来ない。但し、後者は仁平元(一一五一)年の創建と伝わり、嘗ては善知鳥七浦(下戸・羽田・下相川・小川・達者・北狄・戸地)の総鎮守とされていた由緒ある神社で、こちらに分はありそうには見える。五度目の佐渡行で是非、行って調べてみたい。なお、この鏃が突如、出現するという奇譚は、私が電子化した橘崑崙の北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))で、佐渡島と海を隔てた新潟での奇談として似たような話として語られているのが興味深い。是非、そちらも参照されたい。さらに私の佐渡怪談藻鹽草 淺村何某矢の根石造るを見る事によれば、この相川地区の山の中で何者かが鏃を作っているという怪異も載せられており、これは本話とロケーションから言っても強い親和性・関連性があるものと考えてよい。こちらも是非、読まれたい。また、後の奇石収集家で本草学者の木内石亭(きうち/きのうちせきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の、私の偏愛するフリーキーな石百科「雲根志」(十六巻。(安永二(一七七三)年に前編を、安永八(一七七九)年に後編を、享和元(一八〇一)年に三編を刊行)の「後編卷之三 像形(ざうぎやう)類」の「霹靂碪(へきれきちん)」(「雷神の砧(きぬた)」の意)に、『佐渡國鮎河(あゆがは)』(相川のこと)『鹿伏(かふし)明神の境内に每年二月九日山神を祭る。翌十日、近郊のもの、山に入(いり)て鏃石をたづね拾ふに、きはめて得ると』と出る。

「戸出(とで)」外出。

「かりまた」「雁股」。先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常では飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる。

「かぶら矢」鏑矢。「鏑(鳴鏑(なりかぶら)」は矢柄 (やがら) の先の鏃 (やじり) 部分に附ける道具で、木・竹・獣類の角などで作り、「蕪(かぶら)」の形に似た鈍体で、長円形を成し、中を空洞にして周囲に三~八個の孔を空けておき、これによって、矢を射ると、その孔が風を切って鳴りながら飛ぶ。本来は、その響きによって相手を射竦めたり、もっとプラグマティクに開戦や味方への信号用として用いた。鳥や兎などの小型獣類を外傷を加えずに捕獲或いは射技の一つとして射る場合にも用いた。古墳時代中期以降に既に現われており、「古事記」「万葉集」に「比米加夫良」「鳴鏑」の名がみえる。「嚆矢(こうし)」・「鳴箭 (めいせん)」 とも称する。]

諸國里人談卷之一 吉備津釜

 

     ○吉備津釜(きびつのかま)

備中國吉備津宮(きびつのみや)に「釜殿(かまどの)」といふ、あり。是に大〔おほき〕なる釜あり。祈願の人、吉凶を伺ふに、社人、玉襷(たまだすき)をして、一つの幣(へい)を釜中(ふちう)にうつし、法を修(しゆ)すれば、釜、鳴動(めいどう)す。そのひゞき、數〔す〕十町にきこゆ。これを「動ずる」といふなり。其音によつて、成就・不成就、病人、快全・不快を考ふる事なり。

當社は備中賀陽郡(かようのこふり)内、板倉川のひがし、備前の界也。

[やぶちゃん注:挿絵「早稲田大学図書館古典総合データベース」の寛保三(一七四三)年版(版本)(①。以降はこの記号のみで示す)でリンクさせておく。左頁の上図である。さても、上田秋成の「雨月物語」の「吉備津の釜」で人口に膾炙する、それである。

「備中國吉備津宮」現在の岡山県岡山市北区吉備津(岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備の中山(標高百七十五メートル)の北西麓に北面して鎮座する吉備津神社。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座し、当社と吉備津彦神社ともに主祭神に当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、また、命の一族を配祀している)にある吉備津神社。(グーグル・マップ・データ)。社史は参照したウィキの「吉備津神社を見られたい。ここで語られるのは、そこで行われる(現在も金曜日を除く毎日、行われている)鳴釜神事(なるかましんじ)である。ウィキの「鳴釜神事によれば、この特殊な『神事は、釜の上に蒸篭(せいろ)を置いて』、『その中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた』際、『鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事。吉備津の釜、御釜祓い、釜占い、等ともいう。元々』、『吉備国で発生したと考えられる神事』で、『一般に、強く長く鳴るほど良いとされる。原則的に、音を聞いた者が、各人で判断する』という。『女装した神職が行う場合があるが、盟神探湯』(くか(が)だち:真偽・祈誓を試す対象者に神仏に対して潔白などを誓わせた後に「探湯瓮(くかへ)」という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせて判じる呪法(うらない)。正しい者は火傷をせず、罪のある者は大火傷を負うとされる)・湯立(湯立(ゆだて/ゆだち:神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかり(トランス)状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後、自身や周囲に振りかける儀式。現在では単にお祓いの形式的儀礼として行われているが、古くは神事の大切なプレの儀式としての「禊(みそぎ)」の要素が大きく、同時に、神意を伺うための「占卜(ぼくせん)」の手段として「問湯(といゆ)」などと呼ばれてもいた。前の「盟神探湯」は、ここから発生したと考えられ、この流れを汲む中世に於ける湯起請(ゆぎしょう:室町記に正式な訴訟上の立証方法として認められた裁判法。原告・被告に起請文を書かせた上、熱湯中の石を摑み出させ、三日又は七日の間、神社などに籠らせて後、火傷の有無を以って正否を決したもの。有罪とされるべき反応を「湯起請失(ゆぎしょうしつ)」と称した)のことを「湯立」とも称した)『等と同じく、最初は、巫女が行っていた可能性が高い』。『現在でも一部の神社の祭典時や修験道の行者、伏見稲荷の稲荷講社の指導者などが鳴釜神事を行う姿が見られる』が、『いつの頃から始まったかは不明』で、『古くは宮中でも行われたという。吉備津神社の伝説では、古代からあったとする』。以下、「吉備津神社の鳴釜神事」の項。『同神社には御釜殿があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神職の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神職と共に神事を執り行った。現在も神職と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。『まず、釜で水を沸かし、神職が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神職が祝詞を読み終える頃には音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、この音は、米と蒸気等の温度差により生じる熱音響』『とよばれる現象と考えられている。』百『ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って』一ミリメートル『ぐらいの穴を通ると』、『この現象が起きるとされ』る。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでも』、『うなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしても』、『うなり続け、御釜殿の下に埋葬しても』、『うなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日』、『温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという』とある。

「釜殿(かまどの)」ウィキの「吉備津神社に、現在のものは慶長一一(一六〇六)年に鉱山師安原知種によって再建されたもので、『単層入母屋造の平入で、本瓦葺。南北に伸びた長方形で、北二間に釜を置く』とある。国重要文化財。

「玉襷(たまだすき)」神事に用いる「襷(たすき)」なれば、尊称としての接頭語を附したもの。

「數〔す〕十町」一町は約一〇九メートルであるから、私の考える〈「数」は六掛け〉で、六百五十メートル前後。

「快全」全快。]

2018/05/29

諸國里人談卷之一 芝祭

 

     ○芝祭(しばまつり)

出羽國大泥(どろ)村に、每年、四月八日、芝祭といふあり。其所に大き成(なる)池あり。一山(さん)の山伏、池の邊に臨んで祈る時、かたはらの芝、四、五尺ほど裂(さけ)て、池にうかみて、漂泊す。これを「芝舟」といへり。其時、「寬(ゆる)々と遊び給へ」と呼〔よば〕はれば、少時(しばらく)、猶豫す。程なく、本の所へたゞよひ歸りて、地に癒付(いへ〔つく〕)事、前のごとし。ふしぎの祭なり。當所は藥師佛を安置し、一山、四十人ケ寺、みな、山伏持〔もち〕の所なり。此日、近國よりの見物、群集す。

[やぶちゃん注:幾ら探しても、この村名も祭りの名も掛かってこない。「一山、四十人ケ寺、みな、山伏持〔もち〕の所なり」とする「出羽國」の「四月八日」(これは薬師如来の生誕日とされるので探索限定のヒントにはならない)に行われる「芝祭」である。そこには寺或いは堂があってそこに「藥師佛を安置」するという。これはもう、修験道のメッカ出羽三山の御膝元でなくてはなるまい。一つ考えたのは、山形市薬師町にある国分寺薬師堂であるが、ここは山形県でも東方で出羽三山から有意に離れてしまう。とすると、やはりこれはもう、おぞましき廃仏毀釈によって寺としては存在しないのではないか? と考えた。そんなところから条件を絞って見ると、鶴岡市にそれらしいものがあるのが目についた。峰薬師神社(出羽三山)である(山形県鶴岡市羽黒町手向。ここ。(グーグル・マップ・データ)。現在でも羽黒派古修験道を伝える、羽黒山入山の儀式としての「秋の峰入り」がここで続けられていると、こちらのページにある。地図でも見ても宿坊が犇めいており、それらしい感じではある。現在の航空写真を拡大してもても、近くには池はないのだが、しかし、直近の北六十メートルの隣りの地名が「池之頭」なのは大いに気になる。ただ、如何せん、この旧別当寺、寛文元(一六六〇)年の勧請とあって、こんな神秘的な祭りが行われるには新し過ぎる気はする。だって、本書の刊行でさえ、寛保三(一七四三)年だだもん。と、ここで識者に投げようかと思ったのだが、今一つ、浮島現象を起こす大きな池をポイントとして調べていなかったことに気がついた。……おや? あれ? 何だ? ここ? 山形県西村山郡朝日町大沼? 「大沼」? 「大泥」と似てね? 旅行サイトの「山形県・大沼の浮島~国指定名勝の小島が浮遊する神秘ののページがえらく詳しい。『湖面には複数の浮島が遊泳する、美しく神秘的な沼は、まさに秘境の名勝地で』、『湖畔にある周遊道は、南に位置する浮島稲荷神社を起点に続いており、一周約』三十分とあるから、これ「大きななる池」としては十分だぞ。『大沼はその神秘的な景観から、古くから信仰されてきた神池で』千三百『余年もの昔に、修験者によって開かれたとされ』、『歴代の領主や徳川幕府から祈願所とされ、湖畔には浮島稲荷神社が建立。湖面に静かに遊泳する浮島は、その動静から吉凶が占われたといわれ』るともある。『大沼の西側に位置する』出島(浮島ではない)は『雨請壇とも呼ばれ、その昔、日照りが続くと』、『雨乞いの祭壇が設けられ、祝詞を奉じると雨が降ったと』も言われる。ここ大沼は白鳳九(六八〇)年、『修験道の開祖と云われる役小角が発見し、同行していた弟子の覚道に、神池の守護を託したとされ』、『覚道は、湖畔に浮島稲荷神社の前身となる祠を建立し、大沼と神社の別当である大行院の開祖となったと伝えられ』る。『浮島の数は、奈良時代に僧の行基が訪れた頃には』、六十『以上もあったと伝えられ、行基は、大小様々な浮島に、日本各地の国名を名付けたと』いう。『後に大沼の地は、歴代の領主や政権の祈願所となり』、『鎌倉時代には源頼朝、戦国時代には山形の武将である大江氏や最上氏、江戸時代には徳川家の祈願所とな』った。『古来より人々は、大沼に遊泳する浮島に、自身や国の将来を重ね、幸福を祈願してきたので』あったと記す。『大沼の浮島は、西岸一帯にあるヨシの群落が元となり、岸からヨシの地下茎や根が、固まりとなって分離して生まれ』るが、今は特に『戦後の環境の変化によって、十数個に減少した』とある。『地元の方々の目撃情報』によれば、『浮島は無風でも静かに遊泳し、その場でクルクルと回ったり、複数の島が一列に並ぶこともあった』と言い、『朝夕に活発に動くとされ、湧水の流れる出島の向って右側に集まるともいわれ』、『また、まったく動かないこともあり、風の強い日は岸辺に移動していることが多い』ともある。『大沼で年に一度行われる神事に「島まつり」があり』、『この神事は』七月の第三『日曜日に行われ、大沼の湖畔から新たな島を切り出すもの』で、『新たな浮島には、浮島稲荷神社の宮司(大行院の当代)によって、その年の縁起のよい方位にある、旧国名が名付けられ』るそうである。行って見たくなった。実際の動く浮島は、短いが、映像がよい。薬師堂はない。ないが、「大沼」と「浮島」現象はとても強い比定候補地と言える(グーグル・マップ・データ)。

『其時、「寬(ゆる)々と遊び給へ」と呼〔よば〕はれば』浮島(「芝舟」)に向かってひといに呼びかけるように、である。

「少時(しばらく)、猶豫す」その声掛けを理解したかのように、少しの間、その辺りを逍遙するか、或いはそこに凝っと留まっている。

「地に癒付(いへ〔つく〕)」岸や根のある島の、さっき離れた元の場所に、あやまたず、戻って来て、元通りにぴったりと癒合する。]

諸國里人談卷之一 諏訪祭

 

    ○諏訪祭(すはのまつり)

信濃國諏訪明神は東征守護の神にて、桓武帝の時、田村將軍これを建(たつ)るなり。每年、三月七日、鹿(しか)の頭〔かしら〕七十五、供(けう)す。氏人(うぢびと)の願望にて、何方〔いづかた〕よりと極〔きはめ〕たる事なく、自然と集(あつまる)事、恆例、たがはず。まさに、一つの增減、なし。七十五の内、兩耳の切れたるかしら、一つ、きはめて、あり。それかれ、奇なりとす。

上諏訪祭神 健御名方命〔たけみなかたのみこと〕 下諏訪 祭神 八坂入姫命〔やさかのいりひめのみこと〕

上諏訪に七不思議あり。

官影(みやのかげ) 普賢堂の板壁に、穴あり。紙をあてゝ日にうつせば、下のすはの三重の塔、うつる。其間、一里なり。

社壇雨(しやだんのあめ) 每日、巳の刻に、雨ふる。

根入杉 根、八方へ、はびこる。

温泉 湯山より、おつる所の口をふさげば、湯、落〔おち〕ず。

氷橋(こほりのはし) 冬、諏訪湖、氷る時、「おみわたり」とて、狐、わたりそめて、其後、人馬、氷のうへを通路す。春、又、狐、渡れば、通ひを止(とどむる)。

鹿(しか)の頭(かしら) 祭の時、七十五頭、例年、たがはず。

冨士移ㇾ湖(ふじうつるみづうみ) 湖上に冨士の影、うつるなり。【甲斐一國をへだつ。其間に高山多く有り。】」

 すはの海衣が崎に來て見れば冨士の浦こぐあまの釣舩

[やぶちゃん注:以上は既に一度、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(5) 生贄の徴』の注で電子化している(底本が異なるので、ゼロから起こした)。リンク先の柳田國男の文章も是非、参照されたいが、当該部を以下に抜いておく。

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日本でも諏訪の神社の七不思議の一つに耳割鹿(ミミサケジカ)の話があつた。毎年三月酉の日の祭に、俗に御俎揃(おまないたぞろ)へと稱する神事が前宮(さきみや)に於て行はれる。本膳が七十五、酒が十五樽、十五の俎に七十五の鹿の頭を載せて供へられる。鹿の頭は後には諸國の信徒より供進したといふが、前は神領の山を獵したのである。其七十五の鹿の頭の中に、必す一つだけ左の耳の裂けたのがまじつてゐた。「兼て神代より贄に當りて、神の矛にかゝれる也」とも謂つて、是だけは別の俎の上に載せた。諸國里人談には「兩耳の切れたる頭一つ」とあつて、何れが正しかを決し難い。兎に角に是は人間の手を以て、切つたので無いから直接の例にはならぬが、耳割鹿で無ければ最上の御贄となすに足らなかつたことは窺はれる。或は小男鹿の八つ耳ともいつて、靈鹿の耳の往々にして二重であつたことを説くのも、斯うして見ると始めて其道理が明かになるのである。

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「信濃國諏訪明神」上社(本宮(ほんみや:長野県諏訪市中洲宮山)・前宮(まえみや:茅野市宮川)と下社 (秋宮(あきみや:諏訪郡下諏訪町武居)・春宮(諏訪郡下諏訪町下ノ原)の四宮がある。四宮の位置は諏訪大社公式サイト内のこちらの地図で確認されたい。同公式サイトの解説は、事典類のようなインキ臭いものではなく、非常にすっきりとしていて一読、なるほど、と感心させられるものなので、以下に引用させて戴く。『信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、国内にある最も古い神社の一つとされて』いる。『諏訪大社の歴史は大変古く』、「古事記」の『中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また』、「日本書紀」には『持統天皇が勅使を派遣したと書かれてい』る。『諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物が』存在しないことで、『代りに』、『秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝して』いる。『古代の神社には社殿がなかったとも言われて』いるところから、『諏訪大社はその古くからの姿を残して』いるもので、『諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神』、『また』、『武勇の神として広く信仰され』てきたとある。

「東征守護の神にて、桓武帝の時、田村將軍これを建(たつ)るなり」これは全く誤った聞書きで、古社である諏訪明神に失礼な記載である。ィキの「諏訪大社」によれば(下線やぶちゃん)、『祭祀が始まった時期は不詳。文献上は』「日本書紀」の持統天皇五(六九一)年八月の条に『「信濃須波」の神を祀るというのが初見であ』り、『古くから軍神として崇敬され、坂坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられる』とあって、田村麻呂が桓武天皇に重用されて征夷大将軍として蝦夷征伐に出たのは延暦二〇(八〇一)年(二月十四日進発・「日本略記」には同年九月二十七日、「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とある)のことである(但し、先立つ八年前、延暦一二(七九三)年に、当時の征夷大将軍であった大伴弟麻呂(おとまろ)の副使(副将軍)として同行、蝦夷征討の従軍経験はあった)。

「健御名方命〔たけみなかたのみこと〕」ウィキの「タケミナカタ」によれば、「古事記」では『大国主神(オオクニヌシ)の御子神で、事代主神(コトシロヌシ)の弟神とする』。『しかし』、『大国主神の系譜を記した箇所にはタケミナカタの記載がないため』、『母は明らかでない』。「先代旧事本紀」の「地祇本紀(地神本紀)」では、『大己貴神(大国主)が高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方神であるとする』とある。「古事記」では彼は『葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。これによると、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神(コトシロヌシ)が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った』。『建御名方神は巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を握りつぶして放り投げた。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした。その時に、建御名方神はその地から出ない旨と、大国主神・八重事代主神に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したという』。但し、この話は「日本書紀」には『記載されていない』。

「八坂入姫命〔やさかのいりひめのみこと〕」誤まり建御名方神の妃神は八坂刀賣命 (やさかとめのみこと)で、八坂入姫命はその妹の名とされるものである。ウィキの「八坂刀売神」によれば、『記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる』とあり、『父は天八坂彦命であり』、『妹に八坂入姫命がいるとされる』ともある。但し、「入姫」と「刀賣(売)」の文字や発音はどこか近似的で、間違えてもおかしくはない。

 

諏訪湖の御神渡は、上社に祀られている建御名方神が下社の八坂刀売神の下を訪れる際にできたものであるという伝説がある。

「上諏訪に七不思議あり」「諏訪法人会」公式サイト内の「諏訪の七不思議」によれば、諏訪に古来より伝わる七不思議伝承があり、これに関わる形で、別に『七木・七石という霊木霊石があ』ったという。『これらは鎌倉末期の文献に「上社物忌令」に見えているのが最初であると』される『が、諏訪地方に於ける宗教思想の期限は』、『遠く』、『石器時代に於ける原始的』信仰にまで溯る『ことができる』もので、この七不思議とそれに関連する名数も、そうした古代信仰としての『自然崇拝、動植物崇拝、呪物崇拝等であったと考えられ』るとある。以下、そこに出る「諏訪の七不思議」を、まず、引く。

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①湖水御神渡

『諏訪湖の御神渡のことであり、湖の氷が南北に割れる、その割れた方向によりその年の富凶を知る、湖氷の御渡は上社の神が下社の女神の許に通い給うのだ』、『という信仰がある』。

②蛙狩(かわずがり)神事(上社)

『諏訪上社の正月元旦(早朝の神事、上社前の御手洗川(みたらしがわ)で元旦朝氷を割って蛙狩りをする。これは「的始め」「生贄始め」として』、『小弓で射って神前にささげる』。

③五穀(ごこく)の筒粥(つつがゆ)(下社)

『正月十四日夜より十五日暁にかけて』、『葦を束ねて米と炊けば、葦の筒の中に粥が入り、葦の中に入った五穀によって作毛の善し悪しを占う』。所謂、全国的に見られる「粥占」神事である。

④高野(こうや)の耳裂け鹿(上社)

『毎年四月十五日酉の祭りがおこなわれるが、その時集まる鹿の中に』、『必ず』、『耳の裂けた鹿がいる』。

⑤葛井(くずい)の清池(せいち)

『毎年十二月大晦日の夜半、一年中』、『上社に捧げた幣を』、『この池に投げ込めば、翌朝』、『遠州の国佐奈岐(さなぎ)の池に浮くという』。

⑥御作田(みさくだ)

『六月十日に田植えをすると』、『七月下旬』、『これを刈り取り、八月一日に神前に供することができ、六十日で実る』。

⑦宝殿(ほうでん)の天滴(てんてき)(上社)

『上社の』宝殿『はどんな干天のおりにも、水滴が落ちるといわれる。雨乞のおりにも』、『この天水を青竹に頂いて帰り、神事をすると』、『必ず』、『雨が降ると伝えられている』。

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また、ウィキの「諏訪大社七不思議」には、以下の上社と下社に伝わる七不思議、重複を除くと、十一の不思議があるとする。

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○上社版七不思議

①元朝(がんちょう)の蛙狩(かわずが)り

蛙狩神事において、御手洗川の氷を割ると必ず二、三匹のカエルが現れる(先に示した蛙狩神事そのものを指すこともある)。

②高野の耳裂鹿

御頭祭(おんとうさい)では神前に七十五頭の鹿の頭を供えたが、毎年、必ず、一頭は耳の裂けた鹿がいたという。ウィキの「諏訪大社」によれば、御頭祭は四月十五日に『上社で行われる祭』で、『現在では、鹿や猪の頭の剥製が使われているが、江戸時代に菅江真澄の残した資料に、白い兎が松の棒で串刺しにされたものや』、『鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さって飾られていたり、鹿の脳和え・生鹿・生兎・切兎・兎煎る・鹿の五臓などが供され、中世になると』、『鹿の体全体が供され、それを「禽獣の高盛」と呼んだという内容が残っている』とある。

③葛井の清池

茅野市・葛井神社の池に、上社で一年使用された道具や供物を大晦日の夜に沈めると、元旦に遠州(静岡県)の佐奈岐池に浮く。また、この池には池の主として片目の大魚がいるとされている。

④宝殿の天滴

どんなに晴天が続いても、上社宝殿の屋根の穴からは一日に三粒の水滴が、必ず、落ちてくる。日照りの際には、この水滴を青竹に入れて雨乞いすると、必ず、雨が降ったと言われる。

⑤御神渡

⑥御作田の早稲(わせ)

藤島社の御作田は六月三十日に田植えをしても七月下旬には収穫できたと言う。六月三十日の田植え神事そのものを指すこともある(下社の同じ名数とは厳密には違っているという)。

⑦穂屋野の三光

御射山祭(みさやまさい)の当日は、必ず太陽・月・星の光が同時に見えると言う。ウィキの「諏訪大社」によれば、御射山祭は『上社の狩猟神事。中世には年』四回、『八ヶ岳の裾野で巻き狩り祭を行い、御射山祭はその中で最も長く』五『日間続いた。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上』、『祭典を行なうことから「穂屋祭り」の名称もある。鎌倉時代に幕府の命で御射山祭の費用を信濃の豪族に交代負担することが決められ、参加する成年期の武士(と馬)はこの祭で獲物を射止めることで一人前の武士、成馬として認められたという』。『またこの祭の起こりとして、南北朝時代の』「神道集」の「諏訪大明神秋山祭のこと」によれば、『「平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷征討のため信濃まで来た際、諏訪明神が一人の騎馬武者に化身して軍を先導し、蝦夷の首領悪事の高丸を射落としたので田村将軍がとどめを刺すことが出来た。将軍がこの神恩に報いるため』、『悪事の高丸を討ち取った日を狩猟神事の日と定め、御射山祭の始めとなった。この縁日』(旧暦七月二十七日)『になると』、『討ち取られた高丸の怨霊が嵐を起こすといわれる」という伝説を伝えている。現在はこの祭はずっと小規模になっている』とある。

●下社版七不思議

①根入杉

秋宮境内の大杉。丑三つ時になると、枝を垂らして鼾(いびき)をかいて寝たという。

②湯口の清濁

八坂刀売命が下社に移る時、化粧用の湯を含ませた綿を置いた場所から温泉が湧き出したという伝承。現在の下諏訪温泉で、この湯に邪悪な者が入ると、湯口が濁ると伝えられている。

③五穀の筒粥

春宮境内筒粥殿で行われる行事。一月十四日から十五日にかけて、炊いた小豆粥で一年の吉兆を占う。

④浮島

たびたび氾濫した砥川(とがわ)にあって、決して土が流れず、無くならなかった島のこと。

⑤御神渡

⑥御作田の早稲

⑦穂屋野の三光

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而して、ウィキの「諏訪大社七不思議」では、現在、一般的な「諏訪の七不思議」は、

①御神渡

②元朝の蛙狩り

③五穀の筒粥

④高野の耳裂け鹿

⑤葛井の清池

⑤御作田の早稲

⑥宝殿の天滴

とする。とすると、以上と本文の七不思議で齟齬するのは、本文最初の「官影(みやのかげ)」という「普賢堂の板壁に、穴あり。紙をあてゝ日にうつせば、下のすはの三重の塔、うつる。其間、一里なり」というものと、最後の「冨士移ㇾ湖(ふじうつるみづうみ)」の「湖上に冨士の影、うつるなり。【甲斐一國をへだつ。其間に高山多く有り。】」で、これは孰れの内容とも近似しない(「湯山」の「湯山より、おつる所の口をふさげば、湯、落〔おち〕ず」は「下社版七不思議」の「②湯口の清濁」と親和性がある。下諏訪温泉は諏訪大社下社(春宮・秋宮)の周辺や諏訪湖湖畔に約二十軒の温泉旅館が現存し、共同浴場である「旦過(たんが)の湯」の源泉は鎌倉時代に寺湯として使われた歴史があることから、開湯はそれ以前と考えられている(ここはウィキの「下諏訪温泉に拠った)。この「湯山」というのははっきりしないが(東北に丸山という山はある)、地上にちょろちょろと湧き出ているその山の湯口を塞ぐと、温泉全域の湯が止まってしまうというのであろう)。前者が今に伝わらないのは腑に落ちる。その「普賢堂」なるものが、最早、存在しないからである。現在の諏訪大社上社には嘗て神仏習合時代、戦国時代までは元別当寺の神宮寺があって(社伝によれば空海の創建とする)、本宮の周囲に大坊・上ノ坊・下ノ坊・法華寺の上社四寺のほか、多くの坊があって、普賢堂・五重塔・二王門といった伽藍もあったことが絵図によって判っている。私が非常にお世話なっている、s_minaga 氏のサイト「がらくた置場」の「信濃諏訪大明神神宮寺(上宮神宮寺・下宮神宮寺)」にある絵図で見ると、普賢堂は、この絵図上では、障害物なく、五重塔のすぐ左手に描かれてあるから、一里隔たっていても、ピン・ホール・カメラの原理で映って、なんら、これ、不思議ではない。なお、後者は、湖面に映らないまでも、諏訪湖湖岸(北西岸)からは九十八キロメートル弱離れた富士山が実際に見えるのである。葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「信州諏訪湖」にもはっきり遠景に富士が描かれている。Hajime HAYASHIDA 氏のサイト「富士山のページ」の諏訪湖から見る富士を見られたい(実写真の他、歌川広重「富士三十六景 信州諏訪之湖」や渓斎英泉の「木曾街道六十九次 塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望」も見られる)。

「すはの海衣が崎に來て見れば冨士の浦こぐあまの釣舩」秋里籬島(あきさとりよう)の「木曾路名所圖會」(文化二(一八〇五)年版)の巻之四の「須波乃湖(すはのうみ)」のら(早稲田大学図書館古典総合データベース画像)の右頁末)に出る一首。その本文に若桜宮天皇(誰これ?)御製とも弘法大師作ともする怪しげなものである。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 キンコダイ (チカメキントキ?)

 

Kinkodai

 

キンコダイ

 

Kinkodai2

 

奇鬣 キンコダイ

   又云クニシマ魚

   其魚極小而又

   彩美麗可愛

   覩者蓋奇品

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。別々に挙げるつもりであったが、よく見ると、これは色違いで酷似した魚体であること、しかも「キンコダイ」という同名のキャプションがつくことから、並べて出した。原本でもリンク先を見て戴ければ判る通り、上下に並べてある(但し、貼り込みで二枚は別に描かれたものである)。

 下の図のキャプションはちと悩ましい。二行目の「又云クニシマ魚」が『又、云(いふ)、「クニシマ魚」なのか『又、云(いは)く、「ニシマ魚」』なのかが判らぬことである。今までの翻刻体験から、丹洲ならば、そうした誤読を避けるために「ク」は小さく右に書くように思うので、私は「クニシマウヲ」と採りたい気はしている。孰れにせよ、「クニシマウオ(或いはクニシマダイ)」も「ニシマウオ(或いはニシマダイ)」も現在の生き残っていないので同定の役には立たない。

 さて、当初は共通の「キンコダイ」から、「キダイ」(スズキ目スズキ亜目タイ科キダイ属キダイ Dentex hypselosomus)の幼魚を考えたのだが、どうも真正のタイっぽくなく(本魚譜はやたらに「~タイ」とキャプションするが、実は真正のタイ科 Sparidae の魚は極めて少ない)、およそキダイとも思えない。そこで考えたのは鰭である。二枚目の図にはわざわざ「奇鬣」(「鬣」は本来は「たてがみ」であるが、丹洲は「鰭(ひれ)」の意で用いており、私は過去「きひれ」と自分の中で訓じている。因みに「鬣」は音は「リョウ」である)と書いている点である。見た目、それほど今までの図の鰭と変わった感じを覚えないのであるが、わざわざ丹洲がこう書く以上は、よほど、他の魚とは異なった奇体な鰭であったと考えねばならない。敢えて「鬣」の意を限定的に採るならば、これは背鰭が「奇」体なものであったということになろうか(私は実際には他の鰭も含めて「奇」と言っているのではないかと実は思っているのだが)。そうとるなら、この二匹の背鰭は、基部やや上に赤い連続する円紋が後ろまで棘条間に続いているのが「奇」と言えば奇である。翻って、ネットで検索をかけてみると、「キンコダイ」という呼称で引っ掛かるものがある福井県水産試験場公式サイト福井県魚類図説に、『キンコダイ(田鳥)』とある(但し、この「田鳥」は「田烏」(たがらす)の誤りではないかとちょっと思っている。田烏なら(グーグル・マップ・データ)だが、「田鳥」は見当たらないからである)。しかしてこれは、

スズキ亜目キントキダイ科チカメキントキ属チカメキントキ Cookeolus japonicus

である(一属一種)。リンク先の写真を見た人は、「ゼッタイ、違う!」と叫ぶだろう。真っ赤だからな。しかし、どうもこの丹洲の描いた魚をいろいろ考えてみて、ネットの魚画像の森を彷徨してみると、ついつい、この画像に戻ってしまう自分がいるのである。それは本種の画像のどの鰭もが、このチカメキントキ君は、如何にも「奇鬣」だからである。本種は背鰭は言うに及ばず、実は決定的なのは腹鰭が大きくてその鰭膜が黒いことであるが、丹洲の絵では大きくは描かれていない。しかし、二枚目のそれには腹鰭の部分に有意に黒い線が引かれているのがはっきりと判るのである。

 チカメキントキの今一つの特徴は体高が高く、頭長さより大きいことであるが、控えめながらそれはクリアーしているように思われる。最大の問題は体色なのであるが、今までも丹洲が色を正確に描いていないことは何度も見てきたから、実は私はあまりその相違を重く捉えていないのである。

 さらに言えば、珍しく丹洲がキャプションで感覚的なことを記している点が気になるのである。則ち、「其の魚、極く小さくして、又、彩(いろどり)、美麗」とし、「覩(み)」るに愛すべき者」(推定訓)であって、「蓋し奇品なり」と言っている点である。「可愛」はまず丹洲の感想としては特異点と言ってよい。そうして実際のチカメキントキの写真を見ると(個人の趣味の問題ではあるが)、これは「奇鬣」であり「其魚極小而又彩美麗可愛覩者」「蓋奇品」と評するに相応しいと思うのである。この推定同定は恐らく賛同者は少ないと思う。「これはこれだよ」と別な種を示して戴ける方の御教授を俟つものである。]

菊岡沾凉「諸國里人談」始動 / 諸國里人談卷之一 和布刈

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集」に於いて菊岡沾凉の怪奇談集「諸国里人談」を始動する。

 「諸国里人談」は作家菊岡沾涼(せんりょう)が寛保三(一七四三)年に刊行した怪奇談への傾きが有意に感ぜられる百七十余話から成る俗話集。半紙版二冊本で全五巻で、神祇部に始まり、釈教・奇石・妖異・山野・光火(こうか)・水辺(すいへん)・生植(せいしょく)・気形(きぎょう[やぶちゃん注:本文ルビは「ききやう」。])・器用部の類別部立てとする。後発の諸怪奇談集には本書を引用するものが頗る多く、そうした意味で、江戸後期の諸怪奇談蒐集本や創作怪談集の形成に大きな影響を与えた随筆作品の一つと言ってよい。

 菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)は江戸中期の俳人で作家。伊賀上野の生まれ。諱は房行、通称は藤右衛門、別号を米山(べいさん)・南仙などと称した。ウィキの「菊岡沾凉」によれば、『祖父伝来の婦人薬女宝丹』(「にょほうたん」と読むか)、『二日酔い薬清酲散』(せいていさん)『を販売して生計を立てる傍ら、内藤露沾門』(陸奥磐城平藩の世嗣であったが、奇体な家内のごたごたによって父から廃嫡された(一時は幽閉されている)。第六代藩主(後に日向延岡藩の初代藩主)内藤政樹の実父。俳人としては芭蕉や其角らと親しく交遊した)『下で俳諧を学び、江戸座で精力的に俳諧活動を行った。しかし、露沾の死後』、『俳壇で孤立し、後世には寧ろ』、「江戸砂子」(享保一七(一七三二)年五月刊)を始めとする地誌(「江戸砂子」はムック本のような江戸観光案内書として非常な好評を得、享保二〇(一七三五)年にはそれを追補する形の第二弾「続江戸砂子」が「新板江戸分間(ぶんけん)絵図」(測量に基づくデータに絵画的表現を取り入れた地図)附き(総て沾凉自身の手に成る)を板行している)と、本書や「本朝世事談綺」(享保一九(一七三四)年)といった『説話集の著者として名が知られる』。『伊賀国阿拝郡』(あはいぐん/あえぐん)『上野城下本町筋中町(三重県伊賀市上野中町)』で『造り酒屋清洲屋飯束瀬左衛門政安(法号三悦)の四男として生まれた。飯束家時代は勘左衛門と名乗った。まもなく、嫡子がいなかった母方の親戚にあたる福居町菊岡行尚の養子となり、名を房行とした。『元禄一二(一七九九)年、『行尚に実子が生まれると、分家して江戸に下り、藤右衛門と名乗った。住所は神田鍛冶町一丁目藍染川北側で、現在の千代田区鍛冶町二丁目』二『番地北部及び』六『番地に当たる』。『元禄年間の内に、芳賀一晶に師事したが、間もなく一晶は俳壇から離れたため、内藤露沾に師事し』、享保二(一七一七)年)『初冬、絵俳書』「百福寿」に参画、『三世立志とも接近し、江戸座において歳旦集に入句し』ている。享保五(一七二〇)年『頃、露沾から一字を賜り』、『沾涼と号した』。享保一二(一七二七)年三月十七日には『湯島天満宮で万句興行を主催し、 宗匠として立机した』。しかし、享保一八(一七三三)年の『露沾の没後、後継者貴志沾洲が譬喩』(ひゆ)『俳諧を行ったため、枯淡を基調とする』彼の『俳風から』、『江戸座の中で孤立していった』。享保十七年五月に「江戸砂子」を刊行、『これが評判を呼んだ』。この間、沾洲グループと激しい論争を繰り返し、孤立化は深刻となった。『晩年は俳諧紀行の旅で得た見聞を基に地誌や綺談説話集を著して過ごした。沾洲派の譬喩俳諧が批判され、松尾芭蕉回帰の運動も起こったが、これにも参画することはなかった』。『辞世は「葉は茎はよし枯るとも薄の根」』である。

 底本は「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」内の三種の同書があるが、この内、最も古いものが寛保三(一七四三)年版(版本)(こちら。①とする)、次が同じく版本の寛政一二(一八〇〇)年版(こちら。②とする)なのであるが、原本の経年劣化と撮影の諸条件から、画像自体が甚だ暗く、私には判読し辛い。ところが、最も新しいが、安政五(一八五八)年の山本氏による写本は保存状態がよく、明度が非常に高い(こちら。③とする)。そこで③を基礎底本とし、①(必要ならば②とも)と校合しつつ、本文を電子化することとする。因みに、私は活字本を昭和五〇(一九七五)年吉川弘文館刊「日本随筆大成」第二期第二十四巻で所持している(底本は奥書から②の版と同一のものである)。しかし、これは漢字が新字体であるので、この本文をOCRで取り込み、加工用の基礎データとして利用させて戴いた。

 ①~③を校合した際、原典の崩し字で字体に迷ったものは正字で表記した。原典にはかなりの量の読み(ルビ)が附されているが、私が必要と判断したものだけに留めて何時も通り、( )で後に附した。送り仮名が含まれているもの(例えば、以下の「門司(もじが)關早靹(はやともの)明神」の「が」「の」)は必ず採った。また、原典にないが、読みを補った方がよいと私が判断した箇所には、私が歴史的仮名遣で推定の読みを〔 〕で補った(因みに、吉川弘文館随筆大成版はルビが全くない、非常に不親切なものである)。なお、読み易さを考えて句読点や諸記号を附した。それは吉川弘文館随筆大成版を一部で参考にさせては貰ったが、基本、私のオリジナルである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。割注は【 】で示した。一部で清音表示を確信犯で濁音化したが、それはいちいち断らなかった。

 今までのブログ・カテゴリ「怪奇談集」の今までの仕儀通り、私のオリジナル注を附す。序と目次(原典では各巻冒頭にそれぞれの巻の目次が置かれてある)は最後に電子化する。【2018年5月29日始動 藪野直史】

 

諸國里人談 卷之一   菊岡米山翁著

 ㊀神祇(じんぎの)部

    ○和布刈(めかり)

豐前國門司(もじが)關早靹(はやともの)明神の宮前(きうぜん)は海なり。是〔これ〕に石の階(きざはし)あり。常に二十階(かい)ほどは水中に見えて、その先はしらず。每年十二月晦日の子〔ね〕過〔すぎ〕、丑の剋(こく)の間に社人、宮殿の寶劔(ほふけん)を胸にあてゝ、石階(せきかい)をくだりて海中に入る。其時、潮(うしほ)、左右へ「颯(さつ)」とひらけり。海底の和布〔め〕を一鎌、かりて、歸るなり。もし、誤(あやまつ)て二鎌かれば、潮に溺るゝの難あり。此時は社頭・民家の燈(ともし)火、海上、掛り舩〔ぶね〕の火、ことごとく、これを消(けす)なり。その剋限の前〔まへ〕、半時ばかり、浪、大きに立〔たち〕て、海、あらし。海底(かいてい)に入らんずるとおもふころ、しばらく、浪、しづまりて、又、前のごとく、半時が程は、海、あるゝ也。元朝、件(くだん)の和布を神前に備ふ。又、帝都へも奉るなり。是を「和布刈〔めかり〕の神事」といふ。○當社は龍神の屬(ぞく)にして、神功皇后(じんぐうこうぐう)三韓退治の時、干珠(かんじゆ)滿珠(まんじゆ)を持來りて、舩を守護し玉ふ也。その頃、皇后、孕(みごも)らせ給ふなれば、「軍の中に降誕(こうたん)あらば、いかゞならん」とわづらはせ給ふに、此神、和布を獻じすゝめ給ふに、三とせを經て、征伐し給ひ、歸朝の時、筑前の箱崎にて、御降誕ありける。應神天皇、是なり。此和布を食する者は万病を治(ぢ)す。疫瘧(やくぎやく)は立所に癒(いゆ)。可ㇾ貴〔たふとむべし〕。

[やぶちゃん注:「和布刈(めかり)」三字遍へのルビ。「和布」二字を「め」と読む。これは現在の福岡県北九州市門司区門司(関門トンネルの九州側の端に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ))にある和布刈(めかり)神社で行われる奇祭「和布刈神事」(めかりしんじ)である。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みに、この神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作、「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。私は行ったことがないのだが、壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っており、そこから石段が社殿に向かって延びているのがネット上の写真で確認出来る。「和布刈神社」公式サイトによれば、『和布刈神事は、神社創建以来続いた神事で、神功皇后が安曇磯良』(あずみのいそら:伝承上の古代の精霊の名とされる。貝や藻や海産生物が付着した容貌をしているとする。実際には中世以降の説話に登場するが、「太平記」によれば、ここで語られる通り、神功皇后が三韓に出兵する際に竜宮へ使者として参り、潮の干満を操ることが出来る干珠(かんじゅ)・満珠(まんじゅ)の宝玉を持ち帰ったとする。海人(あま)を統率した安曇氏の祖とされ、阿度部(あとべの)磯良ともいう。ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)『を海中に遣わし、潮涸珠』(しおふるたま)『・潮満珠』(しおみつたま)『の法を授けた遺風とされている。毎年冬至の日に和布(わかめ)繁茂の祈念祭をもって始まり』、『旧暦十二月一日には松明を作り』、『奉仕の神職は一週間前から別火に入り』(日常の穢れたそれではない、異なった火、神聖な別な火、神聖な儀式に則り、神聖に道具で鑽(き)り出したところの「神聖なる火」の意。ここは、そうした特殊な火を以って調理したものだけを口にすることによって、潔斎するとともに、神人共食に近い状態に持ち込むことで、神に直接特別に奉仕するための準備をするの意。極めて古形の神式に基づくものである)、『潔斎を行う』。『旧暦一月一日午前三時頃』、『神職三人は衣冠を正し』、『鎌と桶を持ち』、『松明で社前の石段を照らして下り』、『退潮を追って』、『厳寒の海に入り』、『和布を刈る』。『これを特殊』な『神饌(福増・歯固・力の飯』(それぞれ「ふくそう」「はがため」「ちからのい)」と読む。孰れも「福を増す」「健康な堅固な歯を養う」「稲霊(いなだま)の力を持った霊飯」と、一年の豊穣祈願・延命長寿を願う予祝神饌である)『)等の熟饌と共に神前に供えて祭典を行い』、『明け方近くに』直会(なおらい:神事の最後に神饌として供えものを下ろし、参加者で戴く行事。古来からの神人共食の大切な儀式である)を以って『全ての行事を終る。昔は刈り取った和布を朝廷や領主に献上していた。また、和布は神の依り代ともされ』、「陽氣初發し、萬物萌え出づるの名なり。その草たるや、淡綠柔軟にして、陽氣發生の姿あり。培養を須ひずして自然に繁茂す……」『と、万物に先駆け』、『自然に繁茂する非常に縁起の良いものであると伝えられている』とある。

「海上、掛り舩」「海上」の「繫かり船」で、海上に停泊している船のこと。

「當社は龍神の屬(ぞく)」龍神を祀る、龍宮の眷属、支社の意であろう。

「神功皇后(じんぐうこうぐう)三韓退治」ウィキの「三韓征伐」より引いておく。『夫の仲哀天皇の急死』(二百年)『後、神功皇后が』その翌年から二六九年まで『政事を執り行なった』が、仲哀九(二〇〇)年三月一日、『神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び』、『新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま』、『海を渡って』、『朝鮮半島に出兵し』、『新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという』。『渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当てて』、『さらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた』という。『月延石は』三『つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納』されたとし、『また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある』。『皇后は帰国後、筑紫の宇美』(うみ)『で応神天皇』『を出産し、志免』(しめ)で襁褓(おしめ)『を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)』。『神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという』。以上が「古事記」「日本書紀」に『共通する伝承の骨子であり』、「日本書紀」には、『新羅に加えて高句麗・百済も服属を誓ったこと、新羅王は王子を人質にだしたことが記される』。神功皇后摂政五年(二〇五年又は三二五年)年三月七日、『新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしこち)の妻子が奴婢とされたので返還を求める』、『としてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦』(かつらきのそつひこ)『を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され』、『微叱旱岐に逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である』とする。

「筑前の箱崎」記者である菊岡沾凉は恐らく現在の福岡県福岡市東区箱崎附近を指していると思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))が、応神天皇の出生地としては、前注に出した福岡県糟屋郡宇美町又は筑紫の蚊田(かだ:筑後国御井郡賀駄郷或いは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされ(ウィキの「応神天皇」に拠る)、また、ウィキの「三韓征伐」には、壱岐市芦辺町箱崎諸津触にある赤瀬鼻での出産説が挙げられており、『神功皇后がここで応神天皇を出産し』、『その血で岩が赤く染まったとされる』ともある。

「疫瘧(やくぎやく)」狭義には悪性の流行り病いのことであるが、諸病でよい。]

2018/05/28

御伽百物語卷之六 福びきの糸 / 御伽百物語全電子化注~完遂

 

   福びきの糸

 

Hukubikino

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。本図は二枚あるが、最終話は楽屋落ち的な特異な構成を持っており(その区切れは原典では続いていて戸惑うので、例外的にアスタリスク三点を挿んだ)、これは全く別な絵で、原典の図の配置も完全に離れている(ここでもそうした。ただ、一枚目の絵はどうもこの話の挿絵としてはピンとこない。有り得るとした内侍所の参詣ぐらいしか合わないが、だとしても、何をどう描いたのか、全くの的外れの絵である。まあ、右手上方の二人が主人公の男女ということだろうけれどね)。なお、短歌・漢詩・詞書きの前後は一行空けた。]

 

 戀にさまざまの道あり。見そめて戀ふるあり、聞きてしたふあり、馴れておもふあり、繪によりて人をもとめ、草紙よみてうらやみ願ふあり、神に祈り佛にうつたへ身を捨ても逢はん事をおもふ。誠にかぎりなき欲によりて、かぎりある命を投げうつたぐひも、おほかり。さるが中に珍らしき宿世(すくせ)あり、あひがたき人に逢ふためしには、かならず、先づ、文正(ぶんしやう)がむかしをぞ引き、そのほかには猿源氏(さるげんじ)ひき、人鉢(ひとはち)かづき、うつぼの俊蔭(としかげ)が娘など、いにしへの文(ふみ)にも、たぐひなきものに思へばこそ、かくは記して置きけめ。

[やぶちゃん注:「文正(ぶんしやう)」「文正草子(ぶんしょうのそうし)」。作者未詳の室町時代の御伽草子。鹿島大明神の大宮司の下男である文太(後に文正)が塩売りをして長者となり、大納言にまで出世する庶民立身譚。

「猿源氏(さるげんじ)」「猿源氏草紙」。江戸の寛文年間(一六六一年~一六七三年)に大坂心斎橋の書肆渋川清右衛門が『いにしへのおもしろき草子』を選んで「御伽文庫」とシリーズ名をつけて板行した全二十三編中の一つ。室町時代の成立で作者未詳。「鰯賣り」と題した古写本もある。内容は鰯売り猿源氏が和歌連歌の歌徳により、五条東洞院の傾城「蛍火」との恋を遂げて立身出世する、という「源氏物語」の庶民版パロディ。

「人鉢(ひとはち)かづき」「鉢被(はちかづ)き」。室町時代の御伽草子。作者未詳。母の臨終に鉢をかぶせられた備中守藤原実高の姫が、継母に憎まれて家出し、山蔭の三位中将の風呂番をするうち、その末子の宰相殿と相思の仲となり、嫁比べの前夜、鉢がとれて金銀宝物を得て幸福に暮らす話。継子物に長谷観音の霊験譚を絡ませたもので、所謂、「シンデレラ」型説話である。「人」はヒロインが鉢を被るから添えたものか。

「うつぼの俊蔭(としかげ)が娘」平安中期の九七〇年代頃に成立したとされる「宇津保物語」。作者は源順(したごう)とする説が有力。清原俊蔭・その娘・藤原仲忠・犬宮(いぬみや)の四代に亙る霊琴に纏わる音楽霊験談と、源雅頼の娘の貴(あて)宮を主人公とする皇位継承譚が絡み合って展開する。琴の物語が伝奇的であるのに対し、貴宮の物語はさまざまな求婚者の描写や「国譲(くにゆずり)」の巻の政争の記述などに於いて写実性が顕著である。書名は、発端の「俊蔭」の巻に仲忠母子が木の空洞(うつほ)に住むシークエンスに因む。]

 

 それが類(たぐひ)とはなけれど、花洛(くわらく)にも此ごろ、有りがたき戀せし幸人(さいはひびと)ぞある。

 富松(とまつ)何某(なにがし)といふもの、獨りのむすめを持てり。父母の慈みふかく、ひたすらにおさなきより、手かき物、よませ、糸竹(いとたけ)の態(わざ)にも、おほやう、心ゆくばかり、學ばせ、少し物の心わきまふる比(ころ)にもなりぬれば、

『今ははや、いかなる方にも、さそふ水あらば、よしある人の手に。』

とおもひ居たり。

 此むすめ、又、かたち・心ざま、いとやさしく、情もふかく、餘(よ)の人にも似ず、心ある生れなりしかば、其比のもてはやし草(ぐさ)になりて、知る、しらぬ、心を通はし、情を挑(いど)まざるは、なかりけり。

 されど、此むすめ、何をおもひ入れ、いかに心に染(そ)みけるにや、露ばかりも、はかなき戲れをだにせず、物の心しり顏に、明かし暮しつる程に、十といひて五つもや餘りけん、異人(ことひと)には難面(つれな)きものに思はれたれども、流石、また、露(つゆ)心なきにしもあらで、移り行く年も、はや暮れ行く空の、春に立ちかはる、節分とて、我も人も、北にむかひ、南にあゆみ、禁中の御神樂(みかぐら)・六角・天使など、心(こゝろ)々によき年をとるべく、願ひて、いさみたつに、此父母もむすめを連れ、

「いざや、年とりてよ、大内(おほうち)は世にめでたきかたにこそあれ。あやかりてよきさいわひの年にもあへ。」

と、諸共(もろとも)に、うちむれたる人の中、をし分けつゝ、程なく内侍所(ないしどころ)の廣前(ひろまへ)にいりぬ。

[やぶちゃん注:「六角」恐らく、現在の京都市中京区堂之前町にある天台宗紫雲山頂法寺(とうほうじ)のことであろう。本堂が六角形であるため、一般に「六角堂」の通称で知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天使」恐らく、現在の京都市下京区にある五條天神社であろう。通称を「天使の宮」「天使社」と呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「年をとる」後で「年とりてよ」とか、「年とりにと出るが、これは新年を迎えたことを祝って行う寺社などへ参詣する儀式のこと。大晦日や節分に行われた。

「内侍所(ないしどころ)」内裏で「三種の神器」の一つである神鏡を奉安する場所。女官の内侍が守護したところから、この名がある。「賢所(かしこどころ)」とも称する。神鏡の実物は伊勢神宮に祀られている(ということになっている)が、これを模して造ったレプリカが天皇の身辺近くに奉安されていた。江戸時代は春興殿(しゅんこうでん)に置かれてあった。]

 

 かゝる人ごみの中といへども、あひあふえにし[やぶちゃん注:「相ひ逢ふ緣」。]とて、此富松が家にむつまじう行きかよひ、常にうらなく[やぶちゃん注:隔てなく。]語りける冥合(めいがう)といふ書生ありけるが、是れも、年とりにとて、此庭に參りて、思はず、此むすめと立ちならびて、共にふしおがみけるを、兼て此むすめ、心にしめて、冥合をたぐひなき者に床(ゆか)しく思ひ居たりしに、かゝる折から、娘、さとく、

『それよ。』

と見とがめ、少し袖をひかへ、何とはしらず、袖より袖に、いるゝ物あり。

 冥合もまた、心なきにしもあらず、明暮れ戀したひつゝありけれど、人めの關(せき)の隙(ひま)なければ、此三とせばかりも埋火(うすみび)の下(した)にのみ、こがれたる色ながら、それとだに打ち出でて、ゑいひも出でざりけるに[やぶちゃん注:「え言ひも出でざりけるに」の誤り。]、不思議のよすが[やぶちゃん注:「緣」「便」。たよりとしするに足る事態。]嬉しく、殊にむかふる年の始め、

『さいわひよし。』

とおもひつゝ、ひとり笑みして歸りて後、袖にいれられたりし物をとり出だして見れば、白きうすやうにかきたる、

 

   けふこそはもらしそめつれおもふ事

   またいはぬ間の水くきのあと

 

とかや、いと小さく書きて引きむすびたり。

 冥合も、もとより戀わたりけれども、かく双戀(もろごひ)に見たれけりとはしらざりければ、今さら、道ゆく人の足もとに金(こがね)ひろいたらんやうに、飛びたつばかり、うれしさも身にあまりて、

 

   見こもりの神にや君もいのるらん

   戀ときくより我もうれしき

 

など思ひつゞけて、折ふしの行きとぶらひける序(ついで)、ことに、何よりも猶、心とめて互に花薄(はすゝき)、みだれあふべき折をうかゞひける程に、あらたまの春の日かげ長閑(のどか)に明けわたる朝(あした)は、きのふにも似ず、ありあふ人も骨牌(かるた)・ほう引きと、賑ひわたるにつきても、

『彼(か)のいひかはせし詞(ことば)のすゑ、いかに。』

と、先づ、心にのみかゝりて、富松かたへ行きけるに、こゝには、人々、あまたこぞりて、何やらん、大ごゑに笑ふ音(おと)す。

『こは、何事をわらひ給ふぞ。』

と、奧のかたをさしのぞくに、物ひとえ隔てゝ、内より、帶のやうなるものをあまたの人のまへに投げいだすに、めんめんに、是れを、ひきしろひて取り、勝ちたる物を一筋づゝ引きいだして取る時、その帶の端に、何にても、かならず、括り付けたるものありて、それをめんめんの得物(えもの)とする事なり。

[やぶちゃん注:「見こもりの神」「見こもり」は「水籠もり・水隱り」(上代語で原義は「水中に隠れること」であるが、ここは「心に秘めていること」の意であろうか。

「ほう引き」「寶引き」。室町から江戸時代にかけて正月に行われた福引きの一種。数本の細い繩を束ねて、その中のどれかに橙(だいだい)の実又は金銭などを結び附けておき、それを引き当てた者を勝ちとした。

「ひきしろひて」「引きしろふ」互い引っ張り合う、或いは、強く引く、の意。]

 

 されば、是れにも、幸ひある人は、錢(ぜに)や雜紙(ざつし)・頭巾・碁盤など引きとる物あり。

 さもなものは紙雛(かみびな)・双六(すごろく)の筒(とう)火吹竹(ひふきだけ)やうのものを引きとりて、恥(はづ)かしがるを笑ふなりけり。

[やぶちゃん注:「さもなもの」そこまで運がついていない者。

「双六の筒」双六をする際に骰子(さいころ)を入れて振る筒(つつ)のこと。]

 

 冥合も、おかしさに、

「いで。我も引きて心みん。」

と、手にあたりたる帶一すじ取りて引くに、かた、引けず。力を出だしてひくに、引きしぼりたるばかりにて、猶、ちつとも、引きとらず。

 身をよりて引くに、すこしは寄るやうにても、ひかれぬを、そばなる人、わらひつゝ、

「是れは、例(れい)の柱にゆひ付けてある帶なるべし。さきざきの人もかゝる事にて、手をとりたる物を。」

と、こけまどひて笑ふ。

[やぶちゃん注:「例(れい)の柱」大黒柱か。

「さきざきの人」前(今まで・過去)に挑んだ人々。

「かゝる事にて、手をとりたる物を」「この牽けども引けぬとんでもないそれを引き当ててしもうて、大いに手古摺った挙句、諦めてしもうたものやに。」。]

 

 冥合も、今はせんかたなくて、

「さらば、柱か、見ん。」

と物の隙(ひま)よりさしのぞけば、彼のむすめ、帶のはしをとらへてあなたへとひく也けり。

 嬉しさは限りなけれど、夫(それ)も人めのやるかたなくて、心に答へ、目にやくそくして、しばらく、其座を繕ひ、

「實(げ)に。これは柱にてありけり。」

などと空しらずして、物のまぎれより、忍び入るも、わりなし。

 娘も、いまだかゝる添臥(そひぶし)したる身にしあらねど、宿世の緣(えにし)とかいふ物に催され、早(はや)疾(とく)より戸口に待ちつけて、いとうれし氣(げ)なりけるを、冥合も、

『此珍しき逢瀨をゆるしぬるは、そも如何なる神のむすびそめし下紐(したひも)ぞ。』

と、ありがたき事におもへば、

 

   かたおかの森のしめなはとくるより

   長くとだにもなを祈るかな

 

といひかけゝるに、をんなも、はぢらひながら、

 

   我はたゞ來ん世のやみもさもあらばあれ

   きみだにおなじみちにまよはゞ

 

など、はかなげにひさして、いたく恥かし、とおもひたる氣粧(けはひ)もいとほしくて、かりなる手枕(たまくら)に、來し方の恨(うらみ)を晴(はら)し、一夜に千世(ちよ)のちぎり絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])ずなど、むつ言(ごと)の數も盡(つき)ねども、よしよし、あかでこそ、またの夕暮れもまたるれ、せき守人(もりびと)めに怪しまれなば、佐野の舟橋(ふなはし)とりはなれたる中(なか)となりなん。

[やぶちゃん注:「佐野の舟橋(ふなはし)とりはなれたる中」「中」は「仲」。「万葉集」巻第十四(三四二〇番)の、

 

 上つ毛野(かみつけの)佐野の舟橋(ふなはし)取り離し親は離(さ)くれど吾(わ)は離かるがへ

 

及びそれを下敷きとした複式夢幻能「船橋」に掛けたもの。「舟橋」は舟を複数繋いで上に板を渡した仮作りの橋のこと。「がへ」は終助詞「かは」の訛り。強い否定を含んだ疑問。]

 

 はてはては、名(な)にながれてや、はつべきなどゝ、まぎらはし、なだめて出づるを、女はうしと思へるさまにて、

 

   心にもあらぬ月日はへだつとも

   いひしにたがふつらさならずば

 

となん、手ならひのやうにかけるを見て、

 

   すゑまでもなをこそたのめ夕だすき

   かけしちぎりは世々にくちめや

 

など、かへすがへす、慰めて出でぬ。

 かくて、行きかよひける程に、其年もなかばたつ秋の名にあふ月もてあそばんとて、富松が家に友をまねく事ありしに、冥合もその人數にありて出でたりしが、其夜は殊に月のひかりもいつより冴へまさりて、あづさ弓やしまの外(ほか)も曇りなく見ぬ唐(もろこし)の洞庭の暮も胸の中にうかみて、など、各(おのおの)いひあへるにも、我のみ、おもひ、くまあるものから、先づ、おもかげぞさやかにたてり、

 

   いとゞしくおもかげにたつこよひかな

   月を見よともちぎらざりしに

 

とおもひつゞけらるゝも、くるし。

 かくて、夜も更け行くに、酒もくみかさねて、みなみな、醉いふしたるに、主(あるじ)の富松、さかづきをもちて、いまひとしほなど、しゐて、さしける序(ついで)、

「是れをさかなに。」

と、いひてさしよせたる硯ふたに、

 

   池水(いけみづ)にこよひの月をうつしもて

   こゝろのまゝに我がものとみん

 

とかきて、かたはらに、『庭のをみなへし色こくなりにたり、今は一もとの花をゆるし參らせてん』とあり。

 冥合、

「さ。」

と、心とゞろきて、うれしさの餘り、又、さかづきをかたぶけつゝ、壻(むこ)しうとのむすびをいひかはせば、

 

   千とせまでおもかはりすな秋の月

   おひせぬ門(かど)にかげをとゞめて

 

など、よろこびの數をかさね、千世よろづ代のすゑ、くちず、めでたき妹背(いもせ)とぞなりにける。

[やぶちゃん注:「ひとしほ」「一鹽」。酒の肴としても盛り塩を今一杯に掛けたもの。]

 

   *   *   *

 

Otogi100endo

 

 かくて、物語も、はや、九十九におよび、今一つにて百におよぶといふころ、俄に家鳴(やな)りし、風すさまじく吹きおちて、一筋の灯(ひ)の、心ぼそく、ちらめき[やぶちゃん注:ちらちらと揺れて消えかかることであろう。]、そこらあたり、物音の、

「ひしひし。」

とひゞきわたるに、

「扨は、化物(ばけもの)の出づるなるべし。始めよりいらざる物といひしに。」

などと、肝膽(きもたましい)も身にそはず、ちりぢりに逃げかくれ、息をもたてず居たりけるに、案に違(たが)はず、其たけ、一丈ばかりもあらんとおもふ、四方髮(ほうがみ)の侍、大小をさし、肩衣袴(かたぎぬばかま)、りゝしく着こなし、天井より、

「ゆらり。」

とおりて、人々の居ならびたる中へ罷り出で、何とも物いはず、ふところより、何やらん、取りいだしけるを見れば、一間(けん)の机一脚と、硯箱を出だし、また、左の袖より、五尺ばかりもあらんと見ゆる、屛風の白張(しらばり)なるを出だし、人中(ひとなか)に引きひろげて、ながめ居たり。

[やぶちゃん注:ここが本「御伽百物語」のコーダで、最初の百物語の開始のシークエンスに戻って繋がり、綺麗な額縁構造を成しているのである。御伽百物語の「序・目録を再度、確認されたいが、登場人物は、

・百物語の咄人(はなして) 六十六部の僧如寶(にょほう)

・同じく 発起人      花垣舌耕子(はながきぜっこうし)

・同 応対(あど)     四五人

・亭の主人         白梅園

であった。

「始めよりいらざる物といひしに」「百物語をすると、必ず、百話になんなんとする最後に恐るべき怪異が出来(しゅったい)するからやめたがいい、と拙者が申したに!」と座中の誰かが責任転嫁をしたのである。

「四方髮」(しほうがみ)は髪を長く伸ばし、四方からかき上げて後ろで束ねた「総髪」の異称。近世の医者・学者・浪人などが結った。

「一間」一メートル八十二センチメートル弱。]

 

 しばらくして、右の袖より、十四、五なる小坊主、飛びいでゝ、彼(か)の硯にむかひて、墨を磨り、大筆(おほふで)を點じて、大男に渡せば、彼のおのこ、筆を取り、屛風にむかひて物を書くなりけり。

 始め、逃げちりたる人の中に、心づよく肝ふときものありて、是れを見るに、

 

  世重雙南價 天然百練精

 

と書きて、又、もとの如く、机も硯も、ふところにおしいれける時、身うちより、光明をはなち、數千人の小坊主となりて、大ごゑをあげ、手をたゝきて笑ひ、各(おのおの)つぼの内におりけるよ、とぞ見えし、掻きけすやうに、失せてけり。

[やぶちゃん注:「世重雙南價 天然百練精」

 

 世に重んず 雙南(さうなん)の價(あたひ)

 天然 百練 精(くは)し

 

と訓じている。

「つぼ」庭のこと。]

 

 是れを見て、心をゆるし、逃げかくれつる者ども、皆々、ひとつ所にあつまり、とりどりの評判、はてしなく、我のみ賢顏(かしこがほ)にかたりあへど、ひとりとして證(しやう)もなき事なりしを、つくづくと聞きつゞけ、舌耕(ぜつかう)も主人も、

「くつくつ。」

と笑ひ、

「みな、何れものはなしは、昔ものがたりのやうに、付けそゆる私事(わたくしごと)多くて、一つも實(まこと)にならず。我、此ばけものゝ書きたる詩を思ふに、定めてこれは、幸(さいはひ)の端(はし)なるべし。彼の詩は黃金(わうごん)を題にふまへたる物なるぞや。此かたへ行きて掘りて見よ。」

とありければ、舌耕、よにうれしくおもひ、主君(しゆくん)と共に先達(せんだち)し、人あまたに鋤鍬(すきくわ)をもたせ、先づ、庭におりけるに、不思議や、此家の緣さきより、黄なる鳥、一羽、飛びあがり、巳午(みむま)の方をさしてかけり行くを見て、

「いよいよ、此鳥を目がけて、行けや、者ども。」

と、主人のおしへにまかせ、ひたすら、鳥の行くかたへあゆみけるに、稻荷山(いなりやま)のおくにいたりて、此鳥、大きなる杉の木あるに、羽(は)をやすめけるまゝに、急ぎ、掘りて見たりけるに、纔か三尺ばかりの底にあたりて、大きなる石の櫃(ひつ)を掘り得たり。

[やぶちゃん注:「幸(さいはひ)の端(はし)」金運の端緒の繩の端。前の話の宝引きに引っ掛けてあるのである。

「彼の詩は黃金(わうごん)を題にふまへたる物なるぞや」私が馬鹿なのか、どこから黄金が引き出されるのか判らない。「雙南」は何か中国辺りの故事か、或いは漢字の分解した謎かけか。「天然百練精」は言われりゃ、錬金的ではあるが。識者の御教授を願う。

「主君」話を催した屋敷の主人白梅園。君主ではないので注意。

「巳午」南南東。

「稻荷山」不詳。但し、京都っぽいから、現在の伏見区北部の伏見稲荷大社の東にある東山三十六峰の南端の稲荷山かも知れない(京都市中からなら、方角も腑に落ちる)。標高二百三十二メートル。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 そのうへに、銘ありて、いはく、

 

   金子三萬兩天帝これをあたふ

 

とあり。おのおの、悦び、此ふたを開きけるに、はたして書付けのごとく、三萬兩のこがね、ありしかば、兩人して配分し、心々のはたらきにより、次第に家とみ、國さかへ、今に繁昌の花ざかりとぞ聞えける。

 誠に信あれば德あり。今年は何によらずとおもひつる念によりて、かゝる幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])にもあひしと也。

[やぶちゃん注:「兩人」百物語発起人の花垣舌耕子と場所を提供し、自らも参加したホスト亭主白梅園。六十六部の僧如宝がいるが、彼は行脚僧であるから、望まないであろうし、そこから二人が餞別を施せばよい。四、五人の参加者はいるが、「その他大ぜい」であって、こいつらは「兩人」には含まれない。]

 

 

   寶永三年正月吉日

          江戸 林和泉掾

                 開版

          京 寺町通松原上ル町

             菱屋治兵衞

 

 

御伽百物語卷之六

[やぶちゃん注:原典では、年月日の前に、

 諸國因果物語(しよこくいんくわものかたり) 全部六巻 後ゟ追付出來

という広告の一文がちゃっかり挟まっている。]

毛利梅園「梅園介譜」石蜐(カメノテ)

 

Baienkaihukamenote

 

石蜐〔ホヤ カメノテ ワシノ爪 シイ〔筑紫。〕〕

   亀脚 紫𧉧

   紫※ 又 石脚

[やぶちゃん注:「※」=(旧くさかんむり)+({「帥」-「巾」-((へん)の一画目を除去)}を左右に配し、間に「昔」。]

「興化府志」

『石𧉧。一名、亀脚。一名、佛爪。一名、仙人掌。』。

 ヲニノテ〔佐州。〕。 セイ〔俗。〕。

 シユシガイ〔同。〕。

此物裏表とも此くのごとくにして、蛤のごとく、口を結ぶ。開けば、中に肉あり。頭は、さながら、亀のてのごとし。貝、うすし。「大和本草」に説くは、説のごとし。

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした(右下の「糀」、左下の「大和本草」「マカリ」「曲貝」は下部の貝の図のキャプションで本図(本種)とは無関係である)。さても私の大好きな、

節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下(フジツボ)綱下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella

である(一属一種)。謂わずもがなであるが、フジツボと極めて近縁で、荒っぽい言い方をすればエビの仲間であって「貝」ではない。私は既に、このキャプションにも出る貝原益軒の「大和本草」の「卷之十四 水蟲 介類 石蜐」(カメノテ)及び『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」カメノテ』を電子化注しているので、カメノテの詳細はそれらを見て貰うとして贅言は附さない。末尾の「説くは、説のごとし」は何だか変だが、私にはそうしか読めない。いい訓読があれば御教授あられたい。

「石蜐」音ならば「せきこふ(せきこう)」又は「せきけふ(せききょう)」と読む。「蜐」は単漢字でもカメノテを指す。

「ホヤ」全くの別種で高等生物である脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea のホヤと同名であるが、これは恐らく、岩礁への着底生活をすること、鱗状の頭状部の左右相称に並ぶ大小の貝殻のように非常に硬い殻板(かくばん)や、柄部表面のやはり硬質の鱗片から、或いはホヤの仲間とか、子どもとか思ったものかも知れない(私はその錯誤は案外に腑に落ちる)。石蜐(カメノテ) 「本草」、介類にのせたり。又、龜脚と云ふ。和名、「カメノテ」と云ふ。「大和本草」にははっきりと『「ホヤ」と訓ずるは、あやまれり』と退けているにも拘わらず、梅園が記すのは、本草家としての、益軒とのある距離感が感じられて面白い。

「ワシノ爪」鷲の爪(つめ)。

「シイ」私は本種の異名として広汎に見られる「セイ」「セイガイ」の転訛であろうと思うのだが、「大和本草」で益軒は岩の隙間に『垂れて移り動かず。果(くわ)の木に付けるがごとし』とし、しかも『椎の實のたれたるにも似たり。故に、「シイ」と云ふ』としている。これは筑紫の地方名とし、益軒は福岡藩であるから、これは無視出来ない証言ではある。なお、「セイ」は「勢」で男根の古称である。この性的な異名も私にはすこぶる腑に落ちるものである。

「紫𧉧」「𧉧」は音「キョ・コ・キョウ・コウ」(現代仮名遣)。単漢字ではまず使用しない。「𧉧(きょふ)」はカマキリ或いはヒキガエルを意味し、「石𧉧」(せっきょう)」で本種カメノテを指す。尖った殻板から蟷螂の斧を連想したか。

「紫※」(「※」=(旧くさかんむり)+({「帥」-「巾」-((へん)の一画目を除去)}を左右に配し、間に「昔」)「※」の字は意味不詳。江淹(こうえん:中国南北朝時代の文人)の「石蜐」にはカメノテを一名「紫𧄤」とする。何となく、似ているが、この字も単漢字では意味不明。

「興化府志」明の呂一静らによって撰せられた福建省の興化府地方の地誌。台湾の対岸広域。(グーグル・マップ・データ)。

「ヲニノテ」鬼の手。

「佐州」佐渡国。佐渡では現在も一部地域で本種を食すのは普通。私は特異的に四度も佐渡に行ったが、残念ながら、出逢えていない。二度行ったイタリアでもポップコーン見たようにして食べると聴いていたから、かなり執拗に探したのだが、やはりお目にかかれなかった。私が最初の食べたのは下田でであった。

「セイ」前に注した「勢」。

「シユシガイ」不詳。手指貝か、或いは、先の「大和本草」に出る木の実で種子貝か。

「蛤」ハマグリではなく、広義の二枚貝のことを指しており、されば「がふ(ごう)」と読んでおくのが適切であろう。]

大和本草卷之八 草之四 紫菜(アマノリ) (現在の板海苔原材料のノリ類)

 

紫菜 本草水菜類ニ載タリ海中石ニ付テ生ス靑色

 ナリ取テ乾セハ色紫ナリ又ホシテ色靑キモアリ味甘

 シ處々ニ多シ武州ノ淺草ノリ品川苔下總ノ葛西ノリ

 雲州ノ十六島モ皆紫菜ノ類ナリウツフルヒトハ海中ノ

 苔ヲトリ露ヲ打フルヒテホス故ニ名ツクト云コノ苔ノ名

 ニヨリテ其島ノ名ヲモウツフルヒト云凡此ノリ諸州有之

 地ニヨリテ形色少カハル紫菜ヲ食シテ腹痛スルニ熱醋

 ヲ少ノメバヨシト本草ニ見ヱタリ又河苔ハ水草門ニシルス

○やぶちゃんの書き下し文

「紫菜(アマノリ)」 「本草」は「水菜類」に載せたり。海中〔の〕石に付きて生ず。靑色なり。取りて乾かせば、色、紫なり。又、ほして、色、靑きもあり。味、甘し。處々に多し。武州の「淺草ノリ」・「品川苔〔(シナガハノリ)〕」、下總の「葛西〔(カサイ)〕ノリ」、雲州の「十六島(ウツフルヒ)」も皆、紫菜の類なり。「ウツフルヒ」とは海中の苔をとり、露を打ちふるひてほす故に名づくと云ふ。この苔の名によりて、其の島の名をも「うつふるひ」と云ふ。凡そ此の「ノリ」、諸州〔に〕之れ有り。地によりて、形・色、少しかはる。

紫菜を食して腹痛するに、熱〔き〕醋〔(す)〕を少のめばよし、と「本草」に見ゑたり。又、河苔〔(かはのり)〕は「水草門〔(すいさうもん)〕」にしるす。

[やぶちゃん注:以上の本文に挙げられている個別の「海苔類」の内、『武州の「淺草ノリ」』・「品川苔〔(シナガハノリ)〕」・『下總の「葛西〔(カサイ)〕ノリ」』は単に産地を被せた加工食品化したそれの名称であって、すべてが、

紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリ Pyropia tenera

である(しかし、悲しいかな、現在の当該地で絶滅(海域消失を含む)或いは殆んど見ることが出来ない絶滅危惧種である)。現行では一九六二年頃から、愛媛県西條市玉津で上記の変種である、

オオバアサクサノリ Pyropia tenera var. tamatsuensis

が、一九七〇年頃には千葉県袖ケ浦町奈良輪で、アサクサノリとは別種の、所謂、「岩海苔」系の、

アマノリ属スサビノリ(荒び海苔)Pyropia yezoensis

の品種、

アマノリ属ナラワスサビノリ(奈良輪荒び海苔)Pyropia yezoennsis form. narawaensis

が、何れも養殖漁業者の手で確立された(その結果として、これらの病気に強く育てやすい養殖品種が普及し、アサクサノリ野生種の養殖はされなくなって絶滅のスピードは急速化したわけでもある。東京湾湾奧での野生のアサクサノリはほぼ絶滅したと見られていたが、近年、多摩川河口域で少数が発見されてはいる)。また、他に、

アマノリ属オニアマノリ Porphyra dentata

も板海苔の原材料の主体となっている(別地域ではアサクサノリも少数養殖されてはいる)。

 但し、ここに出る『雲州の「十六島(ウツフルヒ)」ノリ』はそれらとは異なり、近縁種の「岩海苔」の一種である、

アマノリ属ウップルイノリ Porphyra pseudolinearis

である。なお、このウップルイノリは島根県出雲市島根半島十六島(うっぷるい)地区(島根半島西方の十六島湾沿岸を中心とした地域。ここ(グーグル・マップ・データ))で採れたことに由来する。(このウップルイノリを採って打ち振って日に乾す「打ち振り」が訛ったとする説を益軒はまことしやかに記すが、他の海藻類だとするならまだしも、この岩礁にへばり付いているウップルイノリは摘み採って「笊で水切りする」のであって、「打ち振っ」て採りタイプの海藻ではないから、私は信じ難い。現在も朝鮮語の古語で「多数の湾曲の多い入江」という意とする説、アイヌ語説(発音的にはそれらしい)、十六善神(じゅうろくぜんしん:四天王と十二神将とを合わせた計十六名の、「般若経」を守る夜叉神とされる護法善神のこと)信仰と関連するなど、諸説あるものの、定かでない。古くは「於豆振(おつふるひ)」と称したことは「出雲国風土記」で判る。

 宮下章は「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の第二章「古代人の海藻」の「(二)海藻の漢名と和名」の「神仙藻(アマノリ) 紫菜(ムラサキノリ)」の項で、『現今われわれのいう「海苔(のり)」に対し』て、我々の『祖先は』それを『「アマノリ」と名づけていた。文字が渡来してから、その漢名は「神仙菜」「紫菜」であることがわか』り、『紫菜の漢字を訓読みするとムラサキノリとな』り、『隨唐文化に心酔していた奈良平安朝時代の支配階級は、本来の名称であるアマノリより、ムラサキノリの方を好んで使った。その習慣は実に約一千年にわたって根強く残り、明治時代までは公用文書には紫菜、ムラサキノリが用いられた』とある。しかし、『平安朝末期は、紫菜、神仙菜から甘海苔』(アマノリ)へと表記が『変わる過渡期で』、『その当時書かれた『宇津保物語』には紫菜と甘海苔の両文字が使われている。鎌倉期以降になると公用文書に紫菜が使われるほかは、通常には甘海苔がが使われだ』し、『さらにこれが江戸時代になると海苔に変わるのである』とある。また、『中国の唐代の書物を見ると「紫菜は海中では青いが、乾せば紫色になる」と無造作に断定している。確かに良質のノリは乾して抄』(す)『きあげれば、紫色は点々と耀くが、全体の感じは赤味がかった黒い艶をしていて紫色は強くはない。海中にある生ノリは、紅色だが多少は紫色がかって見えるのもある』。『もしも古代中国人が、この紫色を鋭敏にとらえて紫菜と名付けたのなら感嘆のほかはない。が、「乾せば紫色になる」との説明にもあるように』、『乾燥してからの紫色に眼を向けている。ノリは乾燥してのち』、『放置しておけば湿気を帯び、いわゆる「カゼヒキノリ」になり』、『紫変する』。『古代中国の首都の多くは大陸の奥深くにあった。新羅や山東半島(あるいは日本か)から送られたノリは、管理の知識の乏しい昔のことだから、日ならずして紫変してしまう(日本のようにノリの香を重んじない中国ではこれでも十分に味わえる)。実際に生ノリを見たことのない宮廷学者が、これをノリ本来の色と見て紫菜と名づけたのではなかろうか。いずれにしろ、紫菜という表現は、わが「アマノリ」にくらべれば、表面的、皮相的なものといえる』。『新鮮なノリほど、甘い芳香があり、噛みしめるほどに甘味の出てくるものだ。この醍醐味を適確にとらえた名称がアマノリである。二種の名は、大陸の奥地に都をおく国と、四面環海、豊かな海産を謳歌した国との、ノリに寄せる心情の差異が生み出したものといえよう』とすこぶる肯んぜられる海苔論を展開しておられる。

『「本草」は「水菜類」に載せたり』巻二十八の「菜之四」「水菜類六種」に以下のように載る。

   *

紫菜【「食療」。】

釋名紫、【音、軟。】。

集解【詵曰、「紫菜、生南海中附石。正靑色。取而乾之、則紫色。」。時珍曰、「閩越海邊悉有之。大葉而薄。彼人挼成餠狀、晒乾貨之。其色正紫。亦石衣之屬也。】

氣味甘寒、無毒【藏器曰、「多食令人腹痛、發氣吐白沫、飲熱醋少許、卽消。】

主治熱氣煩塞咽喉、煮汁飲之【孟詵】。病癭瘤脚氣者、宜食之【時珍。】。

發明【震亨曰、凡癭結積塊之疾、宜常食紫菜。乃鹹能軟堅之義。】。

   *

『河苔〔(かはのり)〕は水草門〔(すいさうもん)〕にしるす』本巻の前の方にある(但し、表記は「川苔」)。これは思うところあって、ここで電子化しておく。

   *

【和品】

川苔 川苔モ海苔ニ似タリ處々ニアリ冨士山ノ麓柴川

 ニ芝川苔あり冨士ノリトモ云日光苔ハ野州日光ノ川ニ

 生ス菊池苔ハ肥後ノ菊池川ヨリイヅ。ホシテ遠ニヲクル。ア

 マノリニ似タリ肥後水前寺苔ハ水前寺村ノ川ニ生ス乾

 シテ厚キ紙ノ如ナルヲ切テ水ニ浸シ用ユ此類諸州ニアリ

やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「川苔(〔カハ〕ノリ)」 川苔も海苔〔(ウミノリ)〕に似たり。處々にあり。冨士山の麓、柴川に「芝川苔〔(シバカハノリ)〕」あり、「冨士ノリ」とも云ふ。「日光苔」は野州日光の川に生ず。「菊池苔」は肥後の菊池川より、いづ。ほして、遠くに、をくる。「アマノリ」に似たり。肥後「水前寺苔」は水前寺村の川に生ず。乾して厚き紙のごとくなるを、切りて水に浸し、用ゆ。此類、諸州にあり。

   *

こちらも注しておくと、「川苔」は純淡水性藻類の日本固有種、

緑藻植物門トレボウクシア藻綱 Trebouxiophyceaeカワノリ目カワノリ科カワノリ属カワノリ Prasiola japonica

で、ウィキの「カワノリによれば、『かつては緑藻綱アオサ目』Ulvales『に分類されていたが、系統学的な研究により』、近年、『トレボウクシア藻綱に分類が改められた』。『岐阜県や栃木県、熊本県などの河川に生息し、日本海側の河川からは発見されていない』。『渓流の岩石に着生して生活するが生息数は少なく』、『日本では絶滅危惧種に指定されている』。『アオサのような緑色のうすい葉状体を形成し、長さはおよそ』十~二十センチメートル。『主に無性生殖で繁殖するが、接合子をつくり』、『有性生殖する例も知られている』。『遊走子はもたない』。『夏から秋にかけて採集され、川海苔として食用にされる』。『産地の河川名を頭につけて呼ばれることもあり、大谷川のり、桂川のり、菊池のり』、『芝川のりなどと呼ばれる川海苔が存在する』とある。なお、勘違いしている人が多いので(誰も指摘しないが、正直、生物学的には商品名に問題があると私は思っている)、一言言っておくと、四万十川上流には本種も植生するが(流通はしない)、一般に市販されて目にする「四万十の川のり」として知られるものは、四万十川河口附近で採取される海産藻類である、

アオサ目アオサ科アオノリ属スジアオノリ Enteromorpha prolifera

であって、狭義のカワノリではない

「芝川」現在の静岡県富士宮市芝川付近を流れる。(グーグル・マップ・データ)。

「肥後の菊池川」熊本県を流れる。(グーグル・マップ・データ)。

『肥後「水前寺苔」は水前寺村の川に生ず』九州の一部だけに自生する食用の淡水産稀少藍藻類である、

藍藻綱クロオコッカス目クロオコッカス科スイゼンジノリ Aphanothece sacrum

のこと。茶褐色で不定形、単細胞の個体が寒天質の基質の中で群体を形成、郡体は成長すると川底から離れて水中を漂う。但し、現在も熊本県熊本市東区中央区江津にある上江津湖((グーグル・マップ・データ))に国天然記念物「スイゼンジノリ発生地」はあるものの、一九九七年以降、水質の悪化と水量の減少により、ここのスイゼンジノリはほぼ絶滅したと分析されている(現在、自生地としては福岡県朝倉市の黄金川一箇所のみ。附近(国土地理院地図))。本種は熊本市の水前寺成趣園の池で発見され、明治五(一八七二)年にオランダの植物学者スリンガー(Willem Frederik Reinier Suringar)によって世界に紹介された。因みにこの種小名sacrumは英語の“sacrifice”で「聖なる」を意味する。これは、彼がこの藍藻の棲息環境のあまりの清浄なさまに驚嘆して命名したものという。ただ、近年では人口養殖に成功し、食用に生産されている他、スイゼンジノリの細胞外マトリックス(Extracellular Matrix:生物細胞の外側を外皮のように覆うように存在している超分子構造体)に含まれる高分子化合物の硫酸多糖であるサクラン(Sacran:種小名に由来)が重量比で約六千百倍もの水分を吸収する性質を持つことから、保湿力を高めた化粧水に応用されたり、サクランが陽イオンとの結合によってゲル化するという性質を利用、スイゼンジノリを原料に生産したサクランを工場排水などに投入してレア・メタルを回収する研究などが行われているという(以上は主にウィキの「スイゼンジノリ」及びそのリンク先に拠った)。]

2018/05/27

大和本草卷之八 草之四 裙蔕菜(ワカメ)

 

【外】

裙蔕菜 食物本草載之和名抄曰ニキメ處々海中ニ

 多シ二月ニトル伊勢ノ海ニ産スルヲ好トス又紀州ノ賀多

 ニ産スルハ脆クシテ味ヨシ珍賞ス爲茹而食ス煮羹亦

 可也生ナルヲモ食ス又莖ヲモ食フ莖ハコトニ甘滑ナリ

 莖ノ傍ニツキテ厚ク耳ノ如クナルヲメミヽト云莖モメミヽモ

 羹トシ又鹽醬ニツケテ食ス○性寒味甘シ有虫積

 患腹痛人不可食或曰本草二十八卷ニ所載ノ石

 蓴是ナルヘシト云○生薑ト酢ニ和乄食ヘハ無腹痛之

 患ワカメヲ食テ腹痛スル者モ亦可食之

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「裙蔕菜(ワカメ)」 「食物本草」、之れを載す。「和名抄」に曰はく、『ニギメ』〔と〕。處々〔の〕海中に多し。二月にとる。伊勢の海に産するを好しとす。又、紀州の賀多〔(かた)〕に産するは、脆くして、味、よし。珍賞す。茹で爲〔(な)〕して食す。煮て羹〔(あつもの)〕と爲すも、亦、可なり。生なるをも、食す。又、莖をも食ふ。莖は、ことに甘〔く〕滑〔か〕なり。莖の傍〔ら〕につきて、厚く耳のごとくなるを「メミミ」と云ふ。莖も「メミミ」も羹とし、又、鹽〔(しほ)〕・醬〔(ひしほ)〕につけて、食す。

○性、寒。味、甘し。虫積〔(ちゆうしやく)〕有〔りて〕腹痛を患ふ人、食ふべからず。或いは曰はく、『「本草」二十八卷に所載の「石蓴」、是れなるべし』と云ふ。

○生薑〔(しやうが)〕と酢に和して食へば、腹痛の患ひ無し。ワカメを食ひて腹痛する者も亦、之れを食ふべし。

[やぶちゃん注:お馴染み、

褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida

である。しかし、本邦には同属の非常によく似た、

アオワカメ Undaria peterseniana

ヒロメ Undaria undarioides

が植生し、孰れも食用であるから、これらもここに含めるべきであろう。なお、ワカメの生体は黄色或いは茶色である(湯通し処理した緑色のワカメの絵を海中にしばしば描くが、それが本種「ワカメ」ならば、それは大きな誤りである)が、このアオワカメ・ヒロメの二種は生体でも暗い青緑色に見える。これらは葉片が分かれず、ぺろんとしているから、容易に「ワカメ」とは区別は出来る(アオワカメ・ヒロメは、ヒロメの方は中肋がはっきりとしていることで識別でき、アオワカメよりもより暖海性である)。また、流通上では歯応えや味に違いがあることから、ワカメの北方品種で茎が長い

ナンブワカメ Undaria pinnatifida var. distans

と、南方型変種で、茎が短く、葉状部と胞子葉が繋がっている

ナルトワカメ Undaria pinnatifida f. narutensis(野生のそれは絶滅に近い)

の「ワカメ」の「三種」を区別しているらしいが、生物学の分類学上はこれを区別しない。但し、一部、参考にさせて戴いた鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のワカメのページによれば(コンマを読点に代えた)、二〇〇七年の研究で、『ミトコンドリアにコードされる cox3 遺伝子を用いた遺伝子解析の結果、ワカメ(Undaria pinnatidida)、ヒロメ(U. undarioides)、アオワカメ(U. peterseniana)は同種であると述べ』られており、一九七二年の報告では、交雑実験によって、この三『種はどの組み合わせでも雑種第一代(F1)を作ること、ワカメとヒロメでは雑種第二代(F2)まで作ること』が判っており、『自然界でもワカメとヒロメあるいはアオワカメとの雑種と考えられる個体がしばしば採集されており』、一九九八年の記載によれば、同属の種の一つとされてきた『Undaria crenata はワカメとアオワカメの雑種であると考えられて』おり、『これらの結果は、ワカメ、ヒロメ、アオワカメが生物学的に同種であることを強く示唆してい』る(太字下線はやぶちゃん)が、『ヒロメとアオワカメをワカメと呼ぶのは、ワカメ属(Undaria)の歴史的背景や』、三『種が一般的に広く浸透していることから難しいかもしれ』ないと述べておられる。本邦では海藻食は非常に古く且つ広く行われてきており、神饌・食膳に供するものとして、南北を問わず、極めて一般的であるが、世界的には逆にすこぶる限定的な食文化で、中国・朝鮮・インドネシアなどのアジアの一部と、アイルランドやフランス沿岸部のごく限られた一部地域でしか見られない。昆布と並ぶごく普通の海藻として子どもでさえ知っているワカメは、現在、しかも、タンカーなどのバラスト水によって遊走子が多量に、本来、植生していなかった地域に持ち込まれ、ニュージーランド・オーストラリア及びヨーロッパ諸国沿岸域で摂餌する天敵もなく、環境への適合が旺盛であることから、激しく増殖しており(オーストラリアの一部海域では他の海藻類を駆逐してしまいワカメだけが密生している惨状を映像で見た)、人為移入による強力な外来侵入生物、深刻な生態系破壊を惹起させる危険な種として問題になっている事実を知る日本人は少ない。これを私が人に説明すると、その中の多くの方が、必ず「なぜ、採って食べないのだろう?」と反問してくる。かつてペルーやイタリアに行った時、仲良くなった現地の子にお菓子を上げると、煎餅の海苔を黒い包装紙と思って剝して食べた。「一緒に食べると美味しい」と食べて見せても、彼らは信じず、やっと口にしても吐き出してしまった。梅干しや納豆とタメ張りで海苔は外国人には得体の知れぬ黒い紙かの中国であっても今も多くの人は海苔を食べたことがなかった。近年になって食されているのは、海苔に餅米を塗って揚げた「お菓子」としてである(韓国の『中央日報』日本語版のこの記事を参照)日本人はどこかで日本食が洗練された「美しい料理」だと誤認する傾向がある。私は鯨が好きだが(反捕鯨の思想は生物学的には殆んど正当な理由がない。ミンククジラは北極海で過剰に個体数が増えてしまっており、人為的な間引きが必要なことは鯨類学者でさえ提唱している)、犬は食いたいとは思わない(妻は中国派遣教師時代に中国東北部出身の教え子から振る舞われた赤犬を食べたことがあるが、非常に美味しかったそうである)。昆虫食(それでもイナゴ・ザザムシは食える)は勘弁だが、ホヤは大好物で上手く捌けるし、ユムシは美味いもんだ。こういう私を顰めツラで眺める日本人であるあなたも、西洋人からはおぞましいものを食べている人間と映っていることを忘れてはいけない

「裙蔕菜(ワカメ)」「裙」は「裳裾(もすそ)」の、「蔕」は「へた」である。これは中肋から左右に広がる大きな切れ込みを持った羽状の葉状部を前者に、その基部の根の上部の非常に厚くなった葉状部がぎゅっと縮まって折れ重なったようになっている、ここで後で言っている「メミミ」、現在、我々が「メカブ(和布蕪)」と呼んでいる箇所(ここには生殖細胞が集まっている)を「蔕」に喩えたものとして、非常に分かり易い漢字表記であり、現在も実はこの漢字表記は実際に使用されている。

「食物本草」明の汪穎(おうえい)の撰になる食療食養専門書。

「「和名抄」に曰はく、『ニギメ』〔と〕」宮下章「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の第二章「古代人の海藻」の「(二)海藻の漢名と和名」の「藻(モ・ハ)」の項によると、源順の『和名抄が編』纂『されるより少なくとも二、三百年前から、古代日本の人々は「海藻」の文字に「ニギメ」(ワカメ)の和名を当てるという誤りをおかしてしまった』とする一方、諸海藻名の末尾に多く見られる「メ」は『布のほか「女」「芽」にも通』ずるとする。また、後の「海藻(ニギメ・ワカメ)」の項では、『和名抄は、唐書が藻類の総称とする「海藻」をニギメと読む誤りをおかしたが、反面で「和布」という和製文字を示してくれた。また、ニギメのほかに「ワカメ」という呼び方も示してくれた』とする。

 これは「和名類聚抄」で、

   *

海藻 本草云海藻味苦醎寒無毒【和名𨒛木米俗用和布】

○やぶちゃんの書き下し文

海藻 「本草」に云ふ「海藻」は、味、苦醎(くかん)にして寒。無毒【和名は「𨒛木米(にぎめ)」。俗に「和布(わかめ)」を用ふ。】

   *

(「醎」は「鹹」に同じい)と記すのを指す。

 引用に戻る。

『たとえば、延喜式では海藻をニギメ、和布をワカメ、万葉集では稚海藻をワカメ、和海藻をニギメと読ませている』。『ニギメとワカメとは別種でなく、ニギメの若芽がワカメである。古くから若芽が喜ばれたと見えて、中世に入るころには「ニギメ」は消えてしまう。「メ」は藻類の総称だが、「和布刈(めかり)」の神事や人麻呂の』(「万葉集」巻第七・一二二七番)、

 

磯に立ち沖邊(おきへ)を海藻刈舟(めかりぶね)海人(あま)漕ぎ出(づ)らし鴨(かも)翔(かけ)る見ゆ

 

などでは『ニギメの意味にも使われていた』。『ニギメは、古代人に最もよく親しまれた藻類であった。神饌にもよく用いられ、貢納される量も多く、上下の差を問わずよく食べられた。だからこそ「メ」の文字を独占できたのである』。以下、ワカメの価値が記されているが、そこまで引くと同条全部になってしまうので、どうぞ、同書をお読みあれかし。

「伊勢の海に産するを好しとす」伊勢志摩産として現在も健在。伊勢神宮への神饌としてのブランド性が強み。

「紀州の賀多〔(かた)〕」現在の三重県鳥羽市鳥羽に賀多(かた)神社があるが((グーグル・マップ・データ)、この附近か、ここは志摩国であるが、北西端で生き残っただけで、旧志摩国の大部分(紀伊半島南東沿岸)は紀伊国に戦国期に吸収されてしまったから、言い方としてはおかしくないか。

「羹〔(あつもの)〕」煮凝(にこご)り。

「醬〔(ひしほ)〕」大豆と小麦で作った麹(こうじ)に食塩水をまぜて造った味噌に似た食品。なめ味噌にしたり、調味料にしたりする。ひしお味噌。

「虫積〔(ちゆうしやく)〕」現代の漢方ではヒト感染性寄生虫による痛みを漢方で言うが、実際には、ヒト感染性寄生虫による症状で痛みが出ることは極めて稀れであるから(明治以前は多量の寄生虫感染によって痛みや「逆虫(さかむし)」という寄生虫を嘔吐するはあったが、しかしそれでも痛みを生ずることは寄生虫閉塞以外にはまず考えられないから、広汎な消化器系疾患をこう言っていると考えた方がよい。

『「本草」二十八卷に所載の「石蓴」』以下。

   *

石蓴【「拾遺」。】 校正【自草部移入此。】

集解藏器曰、「石蓴、生南海。附石而生似紫菜色靑。氣味甘平無毒。主治、下水利小便。」。藏器、「主風祕不通五膈氣幷臍下結氣。煮汁飮之。胡人、用治疳疾李珣。」。

   *

「ワカメを食ひて腹痛する者も亦、之れを食ふべし」益軒先生、これは対症療法としてもいただけません!]

大和本草卷之八 草之四 索麪苔(サウメンノリ) (ウミゾウメン)

 

【和品】

索麪苔 サウメンニ似テ長キ藻也色黑シ味甘乄美ナリ

 鹽ニツテ或灰ニ和シテホシ用ユ煮テ食ス或薑醋ニ浸シ

 食フ其漢名ト性ト未詳冷滑ノ物不益于人

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「索麪苔(〔サウメン〕ノリ)」 「さうめん」に似て、長き藻なり。色、黑し。味、甘くして、美なり。鹽につけて、或いは灰に和して、ほし、用ゆ。煮て食す。或いは薑醋〔)しやうがず)〕に浸し、食ふ。其の漢名と性〔(しやう)〕と、未だ詳かならず。冷滑〔(れいかつ)〕の物、人に益せず。

[やぶちゃん注:和名及び様態と処理法から、

紅藻綱ウミゾウメン(海素麺)目ウミゾウメン亜目ベニモヅク科ウミゾウメン属ウミゾウメン Nemalion vermiculars(本邦では今一種、ウミゾウメン属ツクモノリNemalion multifidum も植生するが、以下はウミゾウメンを記述する)

と同定する。主に田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、学名は属名「Nemalion」が「糸のような」、種小名「vermiculars」が「回虫の形をした」。日本各地の潮間帯中部の岩礁域に生え、長さは十~十五センチメートル(但し、諸本記載では二十センチメートル程度ともある)、太さ(付着部下部も藻体上部もあまり変わらずに伸びる)二~三ミリメートル。『岩上に数十本が並ぶ様はまさしく太いそうめんである。ただし』、『乾燥すると干そうめんのように細くなる』。『分岐しない円柱状のからだをも』ち、『粘液質で』、『大変』、『ぬるぬるする』。『生品は熱湯をかけて、乾燥品は水にもどして、二倍酢、酢味噌、味噌汁にして食する』(私は味噌汁が好きである)。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「ウミゾウメン」によれば、『晩春~夏にかけて日本海沿岸でとれて、生もしくは塩漬けで出回る。乾物もあるが』、『あまり見かける機会はない』。『表面がぬめっとして軟らかく、海藻らしい風味もある。吸物や酢のものなどにして食べると非常に美味』とし、別に『そのまま生で食べる。また』、『湯に通すと青くなるが』、『火を通しすぎると』、『ネバリが出る』とあり、『太くてぬるぬるするものが新しく』、『美味しい』。『ゆでてもあまり色は変わらない』とある。宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)には、『青萌黄色で美しい』とあり(陸に上がっているものや標本は褐色に見える場合が多いが、藻体の一部や状態によっては全体が鶯色に見える)、食用には『熱湯をそそ』ぐことを処理としている。『保存法としては、灰乾、素乾、塩蔵があ』り、ミル(緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミルCodium fragile)『と同様に九州の北部、山陰地方でよく食べる。採取期は春いっぱい』で、『江戸の昔はこれを桶に盛り、塩を入れ、四方に売り歩いたという』とある。

「冷滑〔(れいかつ)〕の物、人に益せず」というのは現在も生食もするから不審である。「心太(ココロフト=トコロテン)の項で示したような、近年、問題となっているプロスタグランジンE2由来の重い中毒機序や、猛毒アプリシアトキシンaplysiatoxin 中毒のことを言っているとはとても思われない。本種にプロスタグランジンE2が含まれているかどうかも不明だし(リンク先の私の注を読んで戴くと判るが、プロスタグランジンE2自体が有毒なのではない)、アプリシアトキシンaplysiatoxin 中毒の可能性は現在でも、あったとしても、非常に稀れであると考えられている。そもそもが、それらの重い中毒症状(孰れも死亡例あり)を指しているとすれば、「人に益せず」(人に有益な効果を齎さない)などというなまっちょろい書き方はしない。或いは、中国の本草書に載らないことから(実際、学名で中文で検索を掛けても引っ掛からないので、中国では本種は一般的に知られていないようではある。同属が植生しないことはないと思うのだが?)、万一のことを考え、益軒は火を通さないものは警戒すべしと、単に注意書きしたものかも知れぬ。今一つ私が考えたのは、別な「海素麺」の誤食である。腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai やその近縁種の卵塊は(梅雨時期の岩礁帯の浅瀬などでしばしば見られる)、黄色やオレンジ色を呈して細長い素麺のような塊状を呈することから、広く全く同じく「海素麺(うみぞうめん)」と呼ばれている。しかし、これには弱毒性が認められており、食べると、下痢を起こすことがある。但し、色が鮮やか過ぎるし(その色だけで私は食う気がしない。試しにちょっとだけ生食してみたことはあるのだが、まずい)、塊りという形状が全く異なり、真正の海藻のウミゾウメンと誤認することは真正のウミゾウメンを知っている者にはあり得ない。ただ、私はしばしば海岸観察の途中でこれを見つけ、同行者にアメフラシの卵だと示し、通称「うみぞうめん」と言うことを伝えると、全員、最初の質問は「食べられる?」という問いであったことも事実ではある。

2018/05/26

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(二) 二 遺傳する性質の優劣

 

     二 遺傳する性質の優劣

 

 メンデルが實驗研究によつて見出したことは、先づ第一には、相異なる品種がそれぞれの性質を雜種に遺傳するに當つて、その勢力に優劣の差のあることである。一例を擧げて説明すると、こゝに碗豆の黃色い豆のなる甲品種と、靑い豆のなる乙品種とがある。この兩種は若し純粹に培養したならば、甲品種はどこまでも黃色い豆、乙品種はどこまでも靑い豆が出來るが、この兩品種の間に雜種を造ると如何なるものが生ずるかといふと、第一代の雜種としては悉く黃色い豆のみが出來て、一つも靑い豆は出來ない。而して雜種を造るに當つて、甲の方の花粉を乙の花に著けても、乙の方の花粉を甲の花に著けても、結果は全く同一である。かやうに第一代の雜種では、豆の色に關しては兩親の中の一方だけの性質を受けて、他の方からは何も傳はらなかつた如くに見えるが、更にこの豆を蒔いて引き續き培養して見ると、第二代以後にまた靑い豆の出來ることから考へれば、乙品種の性質は全く子に傳はらなかつた譯ではなく、雜種の第一代に於てはたゞ表面に現れなかつた

といふに過ぎぬ。この事實を見てメンデルは次の如き説を考へ出した。卽ち第一代雜種の體内には黃色い豆を生ぜしめる甲品種の性質も、靑い豆を生ぜしめる乙品種の性質も竝び存するが、一方の勢力が優つたために、その方のみが表面に現れ、他の方は負けて隱れて居るのであると見倣して、之を優劣の法則と名づけた。二品種の相異なる點は、皆相對立せしめることの出來るもので、例へば、甲は果實の色が黃色で乙は靑いとか、甲は花の色が白で乙は赤いとか、または甲は葉の幅が廣くて乙は狹いとか、甲は莖が長くて乙は短かいとかいふ類であるが、かやうに相對する性質の中で、一方が優勢で他が劣勢である場合を明にしたのは、メンデルの功績である。なほメンデルは實驗の結果、碗豆に於ては豆の形の丸いこと、莢の形の簡單に膨れたること、若い莢の綠色なること、莖の丈の高いことなどが、優勢の性質で、之に對し、豆の形に角あること、莢の形の豆粒の間に縊れてあること、若い莢の黃色なること、莖の丈の低いことなどが、劣勢の性質であることを確めた。またメンデル以後の研究によると、かやうなことは、碗豆の外にも、動物・植物ともに隨分澤山あつて「たうもろこし」では粒の黃色が優勢で白が劣勢、兎では毛の短いのが優勢で長いのが劣勢、鷄では普通の羽毛が優勢で、烏骨鷄のやうな絹樣の羽毛が劣勢である如きは、最も確な例である。

 

Kurosiromadarareguhon

[黑白斑のレグホーン]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いた。]

 

 然しながら、二品種の間に雜種を造れば、いつでもこゝに述べた如きことが生ずるかといふと、決してさやうではない。雜種は當然兩親の間の性質を有すべき筈とは誰も考へることであるが、近年盛に行はれる實驗の結果で見ても、雜種には樣々な場合がある。碗豆の如くに一方の親の性質のみが現れるものもあるが、また兩親の中間に位する性質を示すものが頗る多い。例へば「おしろい花」の赤い花の咲く品種と、白い花の咲く品種との間の雜種には、桃色の花が咲く。丈の高い「たうもろこし」と丈の低い「たうもろこし」との間には、中位の丈の雜種が出來る。白い卵を産む鷄の品種と、茶色の卵を産む品種との開の雜種は、薄茶色の卵を産み、耳の長い兎と耳の短い兎との間には、中位の耳を持つた子が生れる。京都の動物園には西藏産の二瘤駱駝とアラビヤ産の一瘤駱駝とが飼つてあるが、その間に生れた雜種は二つの瘤が連續して一つになつた如き中間の形の瘤を持つて居る。兩親の中間の性質というても、必ずしも兩親の性質を合せて二で割つたやうな性質が、總べての子に揃つて現れるといふわけではない。尾の長い犬と尾の短い犬との間には、尾の稍長い稍短い子など、樣々なものが生れる。白人と黑人との間の子も之と同樣で、やはり兩親の間の色を有するが、その中に色の黑さに種々の程度がある。また、生れた子の體部によつて、兩親の性質の優劣の關係が違ふものがある。例へば、頭は父に似て、尾は母に似るとか、左半は男親の通りで、右半は女親の通りとかいふ如き場合がある。四本指のドルキンと五本指のドルキンとの間には、往々左足には四本、右足には五本の指のある雛の生れることがある。黑と白との兩親の性質が子の體部により優劣を異にすれば、その結果として斑[やぶちゃん注:「まだら」。]が生ずるが、黑いレグホーンと白いレグホーンとの間には、時々全身に黑白の細かい斑點のあるものが生れる。その他、最も相異なる鳩の變種の間に雜種を造ると、往々兩親の何れにも似ずして、却つて野生の「かわら鳩」に似たものが生ずることは已にダーウィンも知つて居たが、鷄なども甚しく違つた品種間の雜種に、今日マレイ地方に棲んで居る野生の鷄にそのまゝのものが生ずる。これらは恐らく先祖の姿に戾つた譯であらうが、「おしろい花」の白い品種と黃色の品種との間に、赤と桃色との斑の花の咲く雜種の出來た場合の如きは、餘程關係が複雜で、なかなか一々の性質の遺傳の道筋を明にすることは容易でない。

[やぶちゃん注:「おしろい花」ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa。花は赤・黄・白及び絞り模様(同じ株でも複数の色の花を咲かせる場合もある)などであるが、白と黄の絞りは少ない。

「たうもろこし」単子葉植物綱イネ目イネ科トウモロコシ属トウモロコシ Zea maysウィキの「トウモロコシによれば、『トウモロコシは長い栽培の歴史の中で用途に合わせた種々の栽培品種が開発されている。雑種強勢(異なる品種同士を交配すると、その子供の生育が盛んとなる交配の組み合わせ)を利用したハイブリッド品種が』一九二〇年頃から『アメリカで開発され、以後収量が飛躍的に増加した。また、近年では遺伝子組換えされた栽培品種も広がりつつある』。『一般にトウモロコシの分類に用いられるのは、粒内のデンプンの構造によって種を決める粒質区分で』、『種によって用途や栽培方法に違いがある』とある。我々がよく呼び、食用としている「スイートコーン(甘味種)」は Zea may svar.saccharata である。

「西藏産の二瘤駱駝」「西藏」は「チベット」であるが、ここは現在の中国のチベット自治区も含まれ、その周辺域まで広げておいた方がよいであろう。ウシ目ラクダ科ラクダ属フタコブラクダ Camelus ferus。中央アジア原産で、トルコ以東のイラン・カスピ海沿岸・中央アジア・新疆ウイグル自治区やモンゴル高原付近にまで棲息している。頭数は百四十万頭程度で、ラクダのうちの十%程度に過ぎない(後は総てヒトコブラクダ)。しかもこれらは家畜個体の頭数であり、野生のフタコブラクダの個体数は世界中で約千頭しかいないとされており、野生のフタコブラクダは二〇〇二年、国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定されている(ウィキの「ラクダ」に拠る。次も同じ)。旧版やそれの一つを底本としている講談社学術文庫版では『滿州産』『満州産』となっている。どちらが正しいのかであるが、実際に運ばせたのは中国東北部(旧満州地方)で家畜していた個体であったのだろうが、それは恐らく、中央アジアから運んだものであるから、まあ、この「西藏」の方が当時としてはよりよいとは思う。

「アラビヤ産の一瘤駱駝」ヒトコブラクダ Camelus dromedaries。西アジア原産で、インドやインダス川流域から西の、中央アジア・イランなどの西アジア全域、アラビア半島・北アフリカ・東アフリカを中心に広汎に分布している(現在、飛び地的にオーストラリア中央部の砂漠地帯に約七十万頭が棲息するが、これは人為移入したものが野生化したもの)。なかでも特に「アフリカの角」地域(Horn of Africa:アフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める半島部の広域呼称)では現在でも遊牧生活に於いてラクダが重要な役割を果たしており、世界最大のラクダ飼育地域となっている。但し、これは総てが家畜個体で、ヒトコブラクダの個体群はほぼ完全に家畜個体群に飲み込まれたため、野生個体群は絶滅している。

「ドルキン」鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ(ガルス・ガルス・ドメスティカス)Gallus gallus domesticus の英国産品種の一つである“Dorking chicken”のことであろう。英文ウィキを参照されたい。

「レグホーン」“Leghorn”。レグホンとも呼ぶイタリア原産のニワトリの品種。イギリス・アメリカで改良された。白色・褐色・黒色があるが、白色が最も産卵数が多い。「レグホン」はイタリアのトスカーナ州の西のリグリア海に面した港町リボルノ(Livorno(グーグル・マップ・データ))が本種の特産地であったことから、その英語名に由来する。

「かわら鳩」ハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia。最も普通に見かけ、我々が通常、「鳩」と呼んでいる種である。

「マレイ地方」現在のマレー半島(Malay Peninsula)。太古には周辺域に広がるスンダ列島とともに大スンダ大陸を形成しており、その頃からの生物では島嶼部からマレー半島にかけて原生棲息しているような種群が多く見られる。現在、北西部はミャンマーの一部、中央部と北東部はタイの一部、南部の大部分はマレーシアである(ウィキの「マレー半島」に拠った)]

 

 また兩親の性質に明に優劣があつて、第一代雜種が兩親の孰れか一方に似る場合でも、いつも必ずメンデルの碗豆に於ける如く、簡單に規則正しく行はれるとは限らぬ。例へば同一の性質でも相手によつて或は優勢となり、威は劣勢となることもある。黃色い繭を造る蠶の甲品種が、白い繭を造る乙品種に對しては優勢で、その間には黃色い繭のみを造る雜種を生むに拘らず、同じく白い繭を造る丙品種に對しては劣勢で、それとの間に出來た雜種は悉く白い繭を造るといふ如き例もあり、また蠶の甲乙二品種の間の雜種で、繭の色が兩親の孰れに似るか全く不規則で定まらぬこともある。また、若いときには親の一方に似、成長するに隨つて、他の一方の親に似るものもある。例へば、殼の黃色い蝸牛と殼の紅い蝸牛との間の雜種では、幼時に出來た殼部は黃色で、成長してからは紅い殼を生じた。鳥類にも之に類する例がある。その他、子が雄ならば一方の親なる甲品種の性質が優つて現れ、雌ならば他の一方の親なる乙品種の性質が優つて現れるといふやうな場合も少くない。

 以上述べた通り、相異なる兩親の性質が子に傳はるには、種々の仕方があつて、然もその間には判然した境界は附けられぬ。單に優劣の點のみに就いて論じても、白と赤との間に中間の桃色の生ずる如き殆ど優劣のない場合から、碗豆の如くに優劣の明なものまでの間に、無數の階段がある。また桃色の最も濃いのは赤と區別が出來ず、桃色の最も薄いのは白と區別が出來ぬ。試に赤インキに二割の水を混じて字を書いて見るに、元の色との區別は到底分らぬ程であるから、第一代雜種が全く一方の親のみに似て居ても、必ずしも他の方の親の性質が少しも混じて居らぬとの斷言は出來ぬ。赤と白との斑も、赤が段々減ずれば終には全く白となり、白が段々減ずれば終には全く赤となる。赤と白との斑が細かくなれば絞りとなり、霜降りとなり、更に細かくなれば全部一やうの桃色となる。斯く考へると、雜種には兩親の性質が或る割合に相混じて現れるのが通則であつて、メンデルの實驗した碗豆の如きはその一方の極端に位する特殊の場合と見倣すが至當であろう。メンデルは偶然にも初め碗豆を用ゐて實驗したから、兩親の性質が雜種の體内で相爭ひ、勝つた方が負けた方を壓服して居る如くに想像したが、若し他の材料を用ゐたならば、恐らく雜種には常に兩親の性質が或る形に相混じて現れることが明に知れて、優劣の區別には斯くまで重きを置かなかつたかも知れぬ。且碗豆の場合と雖も、第一代雜種が一方の親と全く同一で、少しも相違がないやうに見えるのも、或は見る人に識別力が足らぬためであるかも知れぬといふことに氣が附いたであらう。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(一) 序・一 メンデルとド、フリース

 

    第十六章 遺傳性の研究

 

 前にも述べた通り遺傳に關する實驗的研究は、今より二十六七年前から遽に[やぶちゃん注:「にはかに(にわかに)」。]盛になつたものであるが、その理由は次の如くである。前世紀の中頃にオーストリア領のブルンといふ町の或る寺にグレゴール・メンデルといふ和尚があつて、この人が寺の仕事の餘暇に、種々の碗豆[やぶちゃん注:「えんどうまめ」。]を庭に植えて、違つた品種の間に雜種を造り、數年間實驗を續けた結果、遺傳に關する頗る面白い新事實を發見したので、之を短く書き綴つて、その地方の博物學會の會報に載せて置いた。然るに田舍の小雜誌であつたためか、世間の學者は一向これに注意した人がなくて、三十幾年かの間は全く忘れられて居たが、一千九百年に至つて、オランダド、フリースドイツコルレンスオーストリヤチュルマックといふ三人の植物學者によつて、偶然にも殆ど同時に見附け出された。ド、フリース等はその前から品種間の雜種を造つて、遣傳の研究に從事して居たが、他人の古い論文の中に、自分の研究に關係のあることが出ては居ないかと、彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]探す中にこの報告を見出して、讀んで見ると極めて面白いことがあつて、然もそれが已に三十何年も前に發表せられてあつたから、大に驚いて、直に之を世に紹介した。それから急に、こゝでもかしこでもメンデルの曾て行つたのと同樣な實驗を試みる人が澤山に出來て、續續と新しい事實が發見せられ、雜種研究の有望なことが明になると同時に、メンデルの名は遽に世間に弘まり、非常に有名となつて、今では遺傳のことを論ずるに當つて、メンデル的といふ形容詞や、「メンデ」り、「メンデ」る、「メンデ」らん、などといふ四段活用の動詞までが用ゐられるやうになつた。今日盛に行はれて居る遺傳の研究も、その大部分は、昔メンデルの行つたと同樣のことを、たゞ材料を變へて試して居るだけである。

[やぶちゃん注:「オーストリア領のブルン」旧オーストリア=ハンガリー帝国領であった、現在のチェコ共和国第二の都市でモラヴィア地方の中心都市ブルノ(チェコ語: Brno)。ドイツ語名はブリュン(Brünn)またはブルン Brunn)。メンデルが入った修道院は“Augustinian St Thomas's Abbey”(英語)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「グレゴール・メンデル」遺伝の基本法則「メンデルの法則」で知られる植物学者で遺伝学の祖とされるグレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel 一八二二年~一八八四年)は司祭。ウィキの「グレゴール・ヨハン・メンデル」によれば、『メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた』。一八四七年に『司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える』。一八五〇年には『教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった』。一八五一年から二年間、『ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名なクリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ』。『ブリュンに帰ってからは』、一八六八年まで『高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが』、『失敗している。この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した』。この頃には一八六〇~一八七〇年に『かけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない』。『メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは』、一八四七年に『司祭として修道院の生活を始めた時である』。一八六二年には『ブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。有名なエンドウマメの交配実験は』一八五三年から一八六八年までの『間に行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があり様々な形質や品種があり、人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した』。『次に交配実験に先立って、種商店から入手した』三十四品種の『エンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に』二十二品種を選び出している。『これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった』。『その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で2n=14であるからである』。『この結果は口頭での発表は』一八六五年に『ブリュン自然協会で、論文発表は』一八六六年に『ブリュン自然科学会誌』で行われ、タイトルはVersuche über Pflanzen-Hybriden(植物雑種に関する実験)であった(太字下線やぶちゃん。以下、同じ)。『さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナ』(キク亜綱キク目キク科タンポポ亜科ヤナギタンポポ属ミヤマコウゾリナ(深山顔剃菜・深山髪剃菜)Hieracium japonicum)『による実験を勧められ、研究を始めたが』、『この植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから』、『交配実験から遠ざかることになった』。一八六八年に『修道院長に就任し』、『多忙な職務をこなしたが』、一八七〇年ごろには『交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった』。『メンデルは、研究成果が認められないまま』、一八八四年に『死去した。メンデルが発見した法則は』、その十六年後の一九〇〇年に、ここに出る三人の『学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらにより再発見されるまで埋もれていた。彼らの発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し』、『発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった』のであった。

「碗豆」マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativumウィキの「エンドウ」によれば、『メンデルは遺伝の研究』では『特に』『遺伝子雑種と』『遺伝子雑種の研究が有名であ』り、その『遺伝子雑種の研究について』は、

・エンドウの種子には「丸型」と「皺(しわ)型」があること。

・純系の「丸型」と「皺型」を自家受精させたものの種子を調べると全てが「丸型」であったこと。

が大きなポイントで、これは「丸型」の形質が「皺型」の形質に対し、『優性であることを示して』おり、『メンデルはこれを『優性の法則』と呼んだ』。として、

・生まれてきた丸型の種子を自家受精させると、丸型:皺型=31の比率で種子ができたこと。

で、『これは体細胞で対になっている対立遺伝子は配偶子形成の減数分裂第一分裂の際、二手に分かれ』、『それぞれ別の配偶子に入ることを示してい』るものであった。『メンデルはこれを『分離の法則』と呼んだ』。『メンデルがエンドウを材料に使った理由は、そのころ』、『すでに数人の研究者によって、遺伝実験の材料として使われたことがあったためと思われる。エンドウは自家受粉が可能で、多くの品種があり、このことも遺伝の実験には好都合だったと見られる』とある。

「ド、フリース」ユーゴー・マリー・ド・フリース(Hugo Marie de Vries 一八四八年~一九三五年)はオランダの植物学者・遺伝学者。ウィキの「ユーゴー・ド・フリース」によれば、オオマツヨイグサ(フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta)の栽培実験によって、一九〇〇年に『カール・エーリヒ・コレンスやエーリヒ・フォン・チェルマクらと』、それぞれ独自に『メンデルの法則を再発見した。さらにその後も研究を続け』、翌一九〇一年には『突然変異を発見』、彼は『この成果に基づいて、進化は突然変異によって起こるという「突然変異説」を提唱した』。『政治家の息子としてオランダのハールレムに生まれた。ライデン大学・ハイデルベルク大学で植物分類学を学び、オランダの植物相の専門家となった。のちにヴュルツブルク大学のユリウス・フォン・ザクスの研究室へ入り、ここで植物生理学の分野で重要な貢献をした(膨圧、呼吸、成長、原形質分離など。「原形質分離」という言葉を作ったのもド・フリースである)。ここでの研究はヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフの浸透圧の研究にも影響を与えた』。一八七八年に『アムステルダム大学の植物学の教授となり、この頃から遺伝の研究に移』り、一八八九年には『これまでの遺伝に関する研究をまとめた『細胞相互間のパンゲネシス』(Intracellular Pangenesis)』(「パンゲネシス」は獲得性遺伝を説明するためにダーウィンが一八六八年に唱えた仮説。「gemmule(ジェミュール:芽球)」という自己増殖する粒子が各細胞にあって、それが外界から種々の影響を受け取って生殖細胞に集まり、次代になって再び各器官に分散して遺伝現象を起こすというもの。これによれば、後天的獲得形質は遺伝可能となる。無論、現在は歴史的興味を留める旧説に過ぎない。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『を出版した。論文中で彼は遺伝を決定する細胞内の要素をパンゲンと名づけた。この理論を研究するため』、一八九二年から『植物の栽培実験を始めた。そして』四年後の一八九六年、『メンデルの法則を再発見した。彼はこの結果をしばらく発表しないでいたが』、一九〇〇年に三十四年前の『グレゴール・ヨハン・メンデルの論文を知り、自身の論文を発表した』。『微小な変異が蓄積して新種が生じるというチャールズ・ダーウィンの説に懐疑的にだったド・フリースは』一八八六年から『アムステルダム近郊でオオマツヨイグサの栽培実験を始めた。彼は、この研究において生じたいくつかの変異株が常に同一形質の子を生ずることに気付いた。彼はこれをパンゲンが変化したために』、『それに支配される形質だけが標準型と異なる「新種」が生まれたとして、これを突然変異と名づけた。そして進化はこのような突然変異による新種に自然選択が働いて起こると考え』、その結果を一九〇一年から『突然変異論』(The Mutation Theory)として出版した』(「から」というのは後で丘先生が本文で言われるように、一九〇三年にも追加しているからである)。『しかしながら』、『後にこの植物の染色体の遺伝的構成はきわめて複雑なことが判明し、ド・フリースの観察した結果は三倍体ないし四倍体による変異であると説明されるようになった。それでも、彼の理論は現在でも』、『ある種について進化に繋がる変異がどの程度起きるかを考察するために重要なものとみなされている』とある。

「コルレンス」カール・エーリヒ・コレンス(Carl Erich Correns 一八六四年~一九三三年)はドイツの植物学者・遺伝学者。ウィキの「カール・エーリヒ・コレンス」より引く。『彼は第一に、彼自身の遺伝学における法則の発見によって、そして遺伝学に関するグレゴール・ヨハン・メンデルの初期の論文を、植物学者であるエーリヒ・チェルマック及びユーゴー・ド・フリースとほぼ同時に、しかしそれぞれ独立して再発見した(いわゆるメンデルの法則の再発見)ことによって知られる』。『コレンスは、当初はカール・ネーゲリの学生であった。ネーゲリは、メンデルが自分のエンドウマメで行った遺伝の研究について論文を送ったにもかかわらず、その研究の重要性を理解できなかった著名な植物学者であ』り、『また、チェルマックはメンデルのウィーンでの学生時代に植物学を教えた人物の孫であった』。『ミュンヘンで生まれた。幼い頃に両親を亡くしたので、スイスに住む叔母によって育てられた』。一八八五年に『ミュンヘン大学に入学し、そこでメンデルが自身の行ったエンドウマメの実験について論文を送付した植物学者であるカール・ネーゲリに師事して植物学を学んだ』。『自身の学位論文を書き上げた後』、一八九二年に『テュービンゲン大学の私講師となり、さらにライプツィヒ大学およびミュンスター大学での教授職を経て』、一九一三年、『ベルリン郊外のダーレムに新しく設立されたカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所の初代所長となった』。『コレンスは』十九『世紀の変わり目頃に遺伝学の分野における多くの基礎的な仕事を行った。彼はメンデルの業績を別のモデル生物を用いて独自に追試し、再発見した。彼はまた、メンデルの法則の重要な進展となる細胞質遺伝を発見したが、これはメンデルの法則を越えて遺伝学を大きく拡大したものであり、表現型に関係を持つものが染色体外にも存在することを証明していた。しかし、コレンスのほとんどの研究は未発表に終わり』、一九四五年の『ベルリンの戦いにより』完全に破壊され』てしまっている。『テュービンゲン大学時代の』一八九二年、『コレンスは植物における形質の遺伝について実験を開始した。彼はメンデルによるエンドウマメの実験の結果を知らないで、メンデルが行ったのと同じ実験を、主にヤナギタンポポ』(キク目キク科ヤナギタンポポ属ヤナギタンポポ Hieracium umbellatum『により行った。コレンスは最初の論文を』一九〇〇年一月二十五日に発表しているが、『彼はその中でチャールズ・ダーウィンとメンデルの両方を引用したが、遺伝学とダーウィンの進化論の関連性については十分に理解していなかった。コレンスの論文『交配種の子孫の様式に関連したグレゴール・メンデルの法則』において、彼はメンデルの研究結果、分離の法則及び独立した組み合わせの法則について言及した』。『メンデルの遺伝の法則を再発見した後、コレンスはオシロイバナ』(ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa)『を用いて、その変化に富んだ(緑と白のまだらの)葉の色の遺伝を研究した。彼が再発見したメンデルの法則は染色体の振る舞いそのものであったが、彼はオシロイバナの研究によって、メンデルの法則に対する明確な反例を探しだした。メンデルの法則では、その形質はその元になる両親の性別とは独立して振る舞うのに対して、コレンスは、この例では葉の色はその性質を持つ親がどちらの性であるかに大きく依存していることを発見した。例として、白い枝に別の区域の白い花からの花粉で受粉すると』、『白い子孫を生じ、これは劣性遺伝子であれば当然予測される結果である。緑の柱頭に緑の花粉を受粉すると、すべて緑色の子孫を生じ、これも優性遺伝子ならば期待通りの結果であった。しかしながら、もし白い柱頭を緑の花粉で受粉すると子孫は白くなるが、花粉と柱頭の組み合わせを逆にして緑の柱頭を白い花粉で受精すると、子孫は緑であった』。『この、メンデルの法則から外れた遺伝のパターンは、後に』 IOJAP(葉緑体蛋白質合成が起こらない白色変異の一つを出現させる遺伝子)『と名付けられた遺伝子であることが突き止められた。これは、葉緑体リボソームを適切に組み立てるために必要な小さな蛋白質をコードしたものである。たとえ』IOJAP『がメンデルの法則にしたがって類別しても、もし母系がホモ接合型劣性であるなら、その蛋白質は産生されないので葉緑体リボソームも形成されず、細胞小器官の中にリボソームは取り込まれないことからプラスミドは機能しない結果となる。子孫は iojap の機能的なコピーを持っているかもしれないが、たいていの被子植物では、葉緑体はその大部分が母方から排他的に伝えられるので、それらはそれ以前の世代では不活性であり、白い植物となったことだろう。逆にもしも父方が白く、緑色の母方と交配すると、この母は機能を保った葉緑体を持っているから、子孫は機能的な葉緑体のみを引き継いで緑色になる』。一九〇九年の『論文において、彼は葉の斑入りが細胞質遺伝の最初の包括的な例であることを立証した』とある。

「チュルマック」エーリヒ・フォン・チェルマク(Erich von Tschermak-Seysenegg 一八七一年~一九六二年)はオーストリアのウィーン出身の農学者(遺伝・育種)。ウィキの「エーリヒ・フォン・チェルマク」より引く。『初期は園芸品種の改良に関心を示した』。『フライブルクの農場で従事し、病害に強い品種の開発を行い、その中には交雑種を含むムギの品種改良が含まれている』。一九〇〇年に『オーストリアの国営農場でエンドウの交配実験を行い、チェルマクはユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンスと並び、グレゴール・ヨハン・メンデルが』一八六〇年に『発表したメンデルの法則を再発見した人物とされ』る。一九〇六年には『ウィーン農科大学の教授を務めた』とある。

『メンデル的といふ形容詞や、「メンデ」り、「メンデ」る、「メンデ」らん、などといふ四段活用の動詞までが用ゐられるやうになつた』私は聴いたことがないが、明治末から大正期にかけてはこんな新語があったのであろう。面白い。]

 

 遺傳に關する近頃の議論を書いたら、その大要だけを摘んでも悠に一册の書物となる程であるから、本書に於ては無論その一部分より述べることは出來ぬ。元來本書は生物進化のことを通俗的に説明するのが目的てあるから、遺傳に就いての樣々の假説を掲げる必要はないやうにも思ふが、遺傳のことを書いた新しい書物の中には、往々事實と假説とを混合して、或る一派の人々の唱へる假説までも、已に確な事實であるかの如くに書いたものもあつて、讀者をして自然淘汰説が已に他の新説と交代したかの如き感を抱かしめぬとも限らぬから、本章に於て、近來の實驗で確められた遺傳上の事實と、之を説明するために考へ出された學説の中で重要な部分だけを短く紹介する。


     一 メンデルド、フリース

 

Mendel

[メンデル]

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。後のド・フリースの肖像も同じ。]

 

 グレゴール・メンデルは一千八百二十二年にオーストリヤシュレジヤ地方の或る村で生れた。姓を聞くとユダヤ人かと思はれるが、實は純粹な獨逸人で、高等學校を卒業してから、ブルン町の寺に入つて僧侶となり、寺の費用でヴィーン大學に人學し、三年間理科を修め、歸つてからは町の實科學校で、理科を受持つて居た。遺傳の實驗をしたのはその頃で、八年間寺の庭で研究を續け、その結果を千八百六十五年の春、ブルン博物學會の例會で講演し、後これを同會の會報に掲げた。後世の實驗遺傳研究の手本となつたのは、この僅に三十頁ばかりの報告である。一千八百六十八年、卽ち我が國の明治元年に教員を止めてからは、專ら寺の和尚となり、研究も中絶したが、その後、寺院の課税問題に就いて政府に反抗し、晩年は極めて不愉快な生活をして、終に一千八百八十四年、卽ち明治十七年に六十三歳で死んだ。さればメンデルの名が急に世に知られたのは、當人の死後十數年を經てからである。

[やぶちゃん注:「オーストリヤ領シュレジヤ地方の或る村」メンデルは旧オーストリア帝国のハインツェンドルフ(Heinzendorf:現在のチェコ・モラヴィアのヒンチツェ(Hynčice)。ここ(グーグル・マップ・データ))に小自作農の果樹農家の子として生まれた。母語はドイツ語であった。

「寺院の課税問題に就いて政府に反抗し、晩年は極めて不愉快な生活をして、終に一千八百八十四年、卽ち明治十七年に六十三歳で死んだ」小学館「日本大百科全書」によれば、後年の『メンデルは、交配実験のやりにくいミヤマコウゾリナの研究で目を悪くしたうえ』、一八六八年の『選挙で聖トマス修道院の院長に選ばれ、雑用に追われる身となり、遺伝研究を続けることができなくなった』一八七四年、『オーストリア議会が修道院からも徴税する法律を制定、彼はその反対闘争に立ち上がり、死ぬまでの』十『年間は』、『その撤回のための闘いに全精力を傾けた。政府の懐柔策と闘ううちに、周囲からも裏切られ、孤立し、しだいに人を信じない気むずかしい老人となり』一八八四年一月六日、『この世を去った』とある。私は中学生の頃、少年向け科学書で、彼の発見が生前、全く顧みられなかったこと、そしてこの晩年の話をも読み、それ以来、メンデルがとても可哀想に思われた。今も同じである。]

 

 メンデル以前にも相異なつた品種間に雜種を造つて見た人は幾らもあつたが、特にメンデルが他人の見出し得なかつた面白い新事實を發見したのは何故であるかといふに、一はかの選んだ材料が偶然にも丁度適當なものであつたにも因るが、また彼の用ゐた實驗の方法が頗る注意深くあつたためである。雜種を造るに當つて、彼は決して一代で滿足せず、更に引き續いて幾代も培養し、常に他の花から花粉の飛んで來ぬやうに、一個一個の花を保護して、その花だけで果實を生ぜしめ、更に之を蒔いて、性質の相異なつたものが生えれば、一代每にその數を精密に算へて置いたが、斯くして第一代雜種は皆一樣である場合にも、第二代以後には樣々の相異なつたものが出來て、然もその間の數の割合が略々一定して居ることなどを發見した。今日でも彼の用ゐたのと同じ材料を用ゐ、同じ方法で實驗さへすれば、誰でも容易に彼の得たと同樣の結果を見ることが出來る。雜種による遺傳研究の今日頗る盛であるのも、一はその比較的容易に行はれ得るためであらう。

 

Dofrice

[ド、フリース]

 

 フーゴー、ド、フリースは一干九百年にメンデルの古い研究を世に紹介した一人であるが、この人は一千八百四十八年にオランダハールレム市で生れ、自國ではレイドン、獨逸ではハイデルベルヒヴュルツブルヒ等の大學で修業し、一千八百七十七年卽ち明治十年にアムステルダム大學の植物學教授となつて、今もそのまゝ勤めて居る。初めは主として植物生理を研究して居たが、遺傳・變異等の問題にも大なる興昧を持ち、曾て「細胞内パンゲン説」と題する面白い册子を書いたことがある。遺傳・變異等の實驗研究の材料として、最も適當な植物を色々探して居る内、一千八百八十六年にアムステルダムの附近のヒルフルスムといふ村の荒畑で、不圖[やぶちゃん注:「ふと」。]月見草に面白い變異のあることを見附け、早速、アムステルダム大學の植物園に移し植ゑ、それからは全力を盡して月見草の變異の研究に從事し、何萬本ともなく培養したが、一千九百年には曾てメンデルが發見したと同樣の事實を確め、一干九百一年と同三年とには「突然變異説」と題する二册物の立派な書物を著した。この書はド、フリースが十五年間の實地研究に基づいたもので、議論の基礎とする事實が頗る確實で且豐富であつたから、忽ち非常な評判となり、後アメリカから招かれて講演に行つたときなどは、同地の新聞紙にはダーウィンの自然淘汰説は全く倒れて、ド、フリースの突然變異説がその代りに立つた如くに囃し立てた。動植物學者間に雜種の研究の流行し始めたのは丁度その頃で、それ以來は新しい實驗の報告が殆ど絶え間なく澤山に發表せられ、今日では之を掲載するための專門の雜誌が、イギリスドイツ等に二三種も刊行せられ、最近にはアメリカにも「遺傳の雜誌」といふ表題の雜誌が出來るに至つた。

[やぶちゃん注:「オランダのハールレム市」ハールレム(Haarlem)は現在のオランダの北ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)で、州都が置かれている都市。因みに、ニューヨークのハーレム(Harlem)地区の名称はこのハールレムに由来する(オランダ移民が作ったからという。以上はウィキの「ハールレム」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「レイドン」ライデン大学(オランダ語: Universiteit Leiden)。オランダ国内の大学としては最も古い。一五七五年設立。

「ハイデルベルヒ」「大學」ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク(ドイツ語:Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg)。一三八六年創立のドイツ最古の大学。通称は「ハイデルベルク大学」。

「ヴュルツブルヒ」「大學」ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク(ドイツ語:Julius-Maximilians-Universität Würzburg)。通称は「ヴュルツブルク大学」。一四〇二年創立。

「細胞内パンゲン説」序の注のド・フリースの中で注した「パンゲネシス」(Pangenesis)の略称。

「アムステルダムの附近のヒルフルスムといふ村」オランダ中部北ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)ヒルフェルスム(オランダ語:Hilversum)。(グーグル・マップ・データ)。

「月見草」この場合は、ド・フリースの先の注で示したフトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta を指している。一般に本邦では本種や同属のオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala、及びコマツヨイグサ Oenothera laciniata などを「月見草」と呼んでいるので、世間一般での呼称に合わせたならば間違いではないが、狭義の種としては、マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera を指すので、生物学書としては、ここは「マツヨイグサ」或いは「月見草(マツヨイグサ)」としなければ、甚だまずい。なお、以上の種は総てが帰化種である。因みに、私は黄色いオオマツヨイグサ・やマツヨイグサが嫌いである(従って太宰のあのキャッチ・コピーも好かぬ(太宰治の小説「富嶽百景」昭和一八(一九四三)年新潮社刊)の有名な『富士には月見草がよく似合ふ』というフレーズの「月見草」とは実はオオマツヨイグサのことである。だって富士に『相(あひ)対峙(たいじ)し』て『けなげにすつくと立つてゐた』と出るのはとてもとてもツキミソウではない!)。但し、砂浜海岸に見られるコマツヨイグサやハマベマツヨイグサ Oenothera humifusa (コマツヨイグサに似るが茎が直立する。やはり帰化種)はいい。しかし、前者は鳥取砂丘で砂丘を緑化する「害草」として駆除されているらしい。可哀想!)。ユウゲショウ Oenothera rosea (帰化種)に至っては、これ見よがしな紅がはっきり言って嫌い! 私が好きなのは、もうお分かりと思うが、唯一正統る「月見草」、白色の可憐なツキミソウ Oenothera tetraptera なのである(グーグル画像検索「Oenothera tetraptera――白い花だけをご覧下)。……三十五年前、独身だった私の新築前の古い家の地所内の玄関脇には、野生の、この白いツキミソウ Oenothera tetraptera の群落があったのだった。毎日のように泥酔して帰ると、この時期、夢幻(ゆめまぼろし)のように闇の中に十数輪の月見草がぼうっと輝いていたものだった。……ある夜、それを楽しみに千鳥足で帰ってみると……門扉の中側でありながら……一株残らず……綺麗にシャベルでこそがれて持って行かれていた……私はユリィディスを失ったオルフェのように地べたに膝をついて号泣したのだった……私はそれを偸んだ奴を実は知っている……あの裏山を越えたところに今も住んでいる老婆だ……今も私は恨んでいる……『君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから』……(漱石「こゝろ」より)……

『最近にはアメリカにも「遺傳の雜誌」といふ表題の雜誌が出來るに至つた』不詳。識者の御教授を乞う。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 「曙覧の歌」

 

     「曙覧の歌」

 

 三月に入ってから久々に「病牀譫語(びょうしょうせんご)」という随筆を『日本』に掲げつつあった居士は、その稿の了らぬうちに、「曙覧(あけみ)の歌」なるものを載せはじめた。居士が実朝以後においてすぐれた歌人を求めんとし、作品を点検しては失望を繰返していた消息は、「曙覧の歌」冒頭にある数行の文字がよくこれを伝えている。

[やぶちゃん注:「曙覧」橘曙覧(たちばな あけみ 文化九(一八一二)年~慶応四(一八六八)年)は幕末の歌人・国学者。ウィキの「橘曙覧」より引く。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。『越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる。生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家で、父親は正玄(正源とも表記)五郎右衛門。彼は長男として生まれ、名は五三郎茂時。後に、尚事(なおこと)、さらに曙覧と改名する。橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられた』。二『歳で母に死別』、十五『歳で父が死去。叔父の後見を受け、家業を継ごうとするが、嫌気をさし』、二十八『歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学ぶなどする。その後、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詠むようになる。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもらい、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。門弟からの援助、寺子屋の月謝などで妻子を養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁していたが』、三十七『歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」(わらのや)と自称した』。四十三『歳の時、大病をし、名を曙覧と改めた』。安政五(一八五八)年には、「安政の大獄」で謹慎中の松平慶永(文政一一(一八二八)年~明治二三(一八九〇)年:第十六代越前福井藩主。号の「春嶽」の方が知られる。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印した際、徳川斉昭らとともに登城をして抗議したことを不時登城の咎とされて強制的に隠居させられて謹慎の処罰を受けていた。後、文久二(一八六二)年四月に幕政参加を許された)『の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は』元治二・慶応元(一八六五)年、『家老の中根雪江を案内に「藁屋」を訪れ、出仕を求めたが、曙覧は辞退した』。慶応四年八月二十八日(一八六八年十月十三日)に亡くなったが、この十日後、明治に改元された。『橘曙覧の長男、井手今滋(いましげ)は父の残した歌をまとめ』、明治一一(一八七八)年に「橘曙覧遺稿 志濃夫廼舎歌集」(しのぶのやかしゅう)を編纂した。正岡子規はこれに注目』、ここにある通り、明治三二(一八九九)年、『日本』紙上に『発表した「曙覧の歌」で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、「墨汁一滴」において「万葉以後において歌人四人を得たり」として、源実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げている。以後、子規およびアララギの影響下にある和歌史観において重要な存在とな』った。「志濃夫廼舎歌集」には『「独楽吟」(どくらくぎん)がある。清貧の中で、家族の暖かさを描き、次のような歌がある』。

 

たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時

たのしみはまれに魚烹(に)て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時

たのしみは空暖(あたた)かにうち晴(はれ)し春秋(はるあき)の日に出(い)でありく時

たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙艸(たばこ)すふとき

たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來たりて錢くれし時

 

以上の引用歌は所持する「橘曙覧全歌集」(一九九九年岩波文庫刊)と校合した。

 以下は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一一(一九二二)年アルス刊「竹里歌話 正岡子規歌論集」の「曙覧の歌」(全文が読める)と校合した(「曙覧の歌」は「青空文庫」のでも読めるが、新字新仮名である)。底本では頭の一字下げがなく、全体が二字下げである。前後を一行空けた。]

 

 予の初めて歌を論ずる、或人予に勸めて、俊賴集、文雄集、曙覽集、を見よといふ。其斯くいふは三家の集が尋常歌集に異なる所あるを以てなり。先づ源俊賴の『散木奇歌集』を見て失望す。いくらかの珍しき語を用ゐたる外に何の珍しき事もあらぬなり。次に井上文雄(いのうへふみを)の『調鶴集(てうかくしふ)』を見て亦失望す。これも物語などにありて普通の歌に用ゐざる語を用ゐたる外に何の珍しき事もあらぬなり。最後に橘曙覽の『志濃夫廼舍(しのぶのや)歌集』を見て始めてその尋常の歌集に非ざるを知る。其歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず、眞淵・景樹の窠臼(くわきう)に陷らず、『萬葉』を學んで『萬葉』を脱し、鎖事俗事を捕へ來りて、縱橫に馳驅(ちく)する處、却て高雅蒼老(こうがさうらう)些(いささか)の俗氣を帶びず。殊にその題目が風月の虛飾を貴ばずして、直(ただち)に自己の胸臆(きようおく)を攄(し)く者、以て識見高邁、凡俗に超越する所あるを見るに足る。而して世人は俊賴と文雄を知りて、曙覽の名だに之を知らざるなり。

[やぶちゃん注:「窠臼(くわきう)」(現代仮名遣:かきゅう)は文章・芸術品などを批難する場合に用い、「旧套・紋切り型」の意。「窠」は、木瓜(もっこう)とも称し、瓜(うり)を輪切りにした形に似た文様や紋所を指す。一説には蜂の巣の形ともいう。「臼」はそれを「繰り返し搗き捺(お)した(もの)」というステロタイプのことであろうか。

「俊賴」「源俊賴」(天喜三(一〇五五)年頃~大治四(一一二九)年)は平安後期の歌人。大納言源経信の子。近衛少将・左京権大夫・木工頭(もくのかみ)を歴任、従四位上に至った。白河院より命を受け、「金葉和歌集」を撰している。進歩的で清新な歌風で、勅撰集に約二百首の和歌が選入されている、院政期を代表する大御所的存在であった大歌人。ここに出る「散木奇歌集」は自選歌集。全十巻で千六百二十二首を載せる。大治三(一一二八)年頃の成立。作者一生の総決算ともいうべき家集である。「散木」は俊頼が木工頭であったことから謙遜して称したもの。「小倉百人一首」の第七十四番歌、

 

憂かりける人を初瀨の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを

 

や歌学書「俊賴髓腦」(天永四・永久元(一一一三)年成立か)でよく知られる。

「文雄」「井上文雄」(ふみお 寛政一二(一八〇〇)年~明治四(一八七一)年)幕末から明治初めの田安家侍医で歌人。通称は元真。文雄は法号。岸本由豆流(きしもとゆずる)に国学を学び、後、一柳千古(いちやなぎちふる)の門下となり、医師を辞めた後は日本橋茅場町に住んで、歌人として立ったが、維新後、時局諷刺の新聞『諷歌新聞』を発行して明治政府を批判し、幕府や会津藩士に同情する歌を発表したことから、政府に睨まれ、獄に投ぜられたこともあった(老身ゆえ間もなく許されたという)。「万葉集」を理想とした賀茂真淵の説に反対し、「古今和歌集」を尊ぶ香川景樹の説を支持した。江戸派の最後を飾る歌人で、「香川景樹以後の詠み口」とも称された。個性を重視し、用語の自由を主張して和歌の革新を用意したと評される。佐々木弘綱(信綱の父)は彼の門下である。ここに出る私歌集「調鶴集」(慶応四・明治元(一八六八)年成立)は短歌九百十七首・連歌二首・長歌五首を収録する。子規はぼろ糞に言っているが、中には、

 

さくらちり鈴菜こぼるる田舍道これより春も暮れてゆくらむ

 

などの写実的な歌もある(以上は小学館「日本大百科全書」を主として、一部で水垣久氏のサイト「やまとうた」の「井上文雄」を参照した)。

「鎖事」瑣事に同じ。

「高雅蒼老(こうがさうらう)」「蒼老」は対象が年経た、年老いた様子をしていることを言う語であるが、ここは謂わば、「燻し銀」の意でとればよかろう。

「胸臆(きようおく)を攄(し)く者」胸の裡(うち)を表出するところのもの。「攄」(音「チョ」)は「表わす・述べる」の意。]

 

 居士が俊頼、文雄についていうところは漫然たる罵倒ではなかった。『散木奇歌集』にしろ、『調鶴集』にしろ、居士は皆精読の上、手抄(しゅしょう)を作っている。自己の敬意を払わぬ作家の者に対しても、この種の労を敢てすることは、「俳句分類」や「俳家全集」が蒼虬(そうきゅう)、梅室らの作品を逸しておらぬのと一般である。ただ『歌よみに与ふる書』において大上段に構えた居士としては、『散木奇歌集』や『調鶴集』で満足するわけに行かない。『志濃夫廼舎歌集』に至ってはじめて論ずるに足るものに逢著(ほうちゃく)したのである。

[やぶちゃん注:「手抄(しゅしょう)」自分の手でオリジナルに選んで、直接、抜き書きをすること。そのように抄録したもの。]

 

 「曙覧の歌」は前後九回にわたり、相当長いものであるが、曙覧の人物と歌とを紹介するにはじまり、その歌に対する批評を以て了っている。居士は「曙覽の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覽が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なり」といった。曙覽の「独楽唫(どくらくぎん)」の中に饅頭、焼豆腐を詠じていることについて、陽に清貧を楽んで陰に不平を蓄うる似而非(えせ)文人の到底よくせざるところとし、「彼等は酒の池、肉の林と歌はずんば必ずや麥の飯、藜(あかざ)の羹(あつもの)と歌はん。饅頭、燒豆腐を取つてわざわざ之を三十一文字に綴る者、曙覽の安心ありて始めて之有るべし。あら面白の饅頭、燒豆腐や」と断じたのは、俳句の月並に対するのと同じ見解である。

[やぶちゃん注:正直言うと、私は正岡子規の異常な食欲や喰い振り、それを日記に記しているのが、非常に厭である。不快である。その一点に於いて、私は一時期、子規の書を持ちながら、遠ざけていさえした。これは或いは志賀直哉が妻との性交を日記に律儀に『肉』と記し続けたのと変わらぬほどに不快なのである。しかもそこには美食・贅食レベルのものも往々に含まれており、しかも概ね、自分で金を払わぬ贈りものである。それをまた、母や妹に分けずに一人で全部食ってしまうことが多い。それが甚だ腹が立つのである。ここで子規が曙覧を賞揚した核心は、まさにこの「独楽吟」の食通(贅沢品でなくても食通はあり得る)にこそあったのだと私は確信している。因みに、短歌嫌いの私にしては珍しく橘曙覧は好きである。

「更に貧にして、貧曙覽が安心の度は」先のアルス版では『更に貧にして貧、曙覽が安心の度は」となっているが、後の「貧文人」との附け合いから、この方がいい。

「独楽唫(どくらくぎん)」「唫」は「吟」に同じい。「志濃夫廼舎歌集」の「春明艸 第一集」の中にある同題の「たのしみは」で始まって「~とき」で終わる形式で詠んだ連作五十二首。ここで子規は連続する次の三首を掲げている(ここ)。但し、以下は子規のそこからではなく、先の岩波文庫本を漢字を正字化して示した(子規の表記には一部違いがある)。

 

たのしみは木(こ/き)の芽(め)瀹(に)やして大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほほばりしとき

たのしみはつねに好める燒豆腐(やきどうふ)うまく烹(に)たてて食(く)はせけるとき

たのしみは小豆(あづき)の飯(いひ)の冷(ひ)えたるを茶漬(ちゃづ)けてふ物になしてくふ時

 

「木(こ/き)」「こ」は右ルビ、「き」は左ルビ。「木の芽」山椒の芽。「瀹(に)やして」漬(ひた)して。]

 

 居士は進んで「安心の人に誇張あるべからず、平和の詩に虛飾あるべからず」といい、曙覧を以て盲の誇張虚飾なきものとした。松平春嶽が曙覧を聘(へい)せんとし、曙覧が固辞して応じなかった一事を評して「文を賣りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思はず打ち笑みたる彼は、此に至つて名利(めいり)を見ること門前のくろの糞(ふん)の如くなりき。臨むに諸侯の威を以てし、招くに春嶽の才を以てし、而して一曙覧をして破屋竹笋(ちくじゆん)の間より起たしむる能はざりし者何が故ぞ」云々と述べたのは、やがて居士自身世に処する態度に触れて来るものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「門前のくろの糞」「くろ」は「畔」「壠」か。これは、①「田と田の間の土の仕切り・畦」、②「平地であるが、少し小高くなった場所」の意があるが、どうも孰れも「門前の」の形容と繋がりが悪く、ピンとこない。方言の一部で「隅・端」の意があるが、これも画像が逸れてしまい、上手くない。しかし、「日本国語大辞典」を見たところ、「藁などを積み上げたところ」を「うろ」と四国で呼ぶことが判った。私はそれが子規の意識の中にあって、「うろの」を「こんもりと盛り上がった」という形容として使用したのではないかと推理した。大方の御叱正を俟つ。]

 

 曙覧の歌が比較的何集の歌に似ているかといえば、いうまでもなく『万葉集』である。曙覧が歌の材料として取り来る者は、多く「自己周圍の活人事(かつじんじ)活風光(かつふうこう)」であって、「題を設けて詠みし腐(くさ)れ花腐れ月」ではない。実地を離れぬ曙覧の歌の中でも、飛驒の鉱山を詠んだ八首の如きは、殊に珍重すべきものであるが、客観的景象を詠ずる点にかけては、新材料を入れた事において、趣味を捉えた事において、『万葉』より一歩を進めると同時に、新言語、新句法を用いた事において、一般歌人よりは自在に言いこなすことが出来た。殊に見る所、聴く所、触るる所悉く歌にする、歌想の豊富なる点にかけては、単調な『万葉』の如きものではない。――居士はこういう風に曙覧を論じて来て、最後に調子の問題に及んだ。全体の調子からいうと、曙覧は『万葉』に及ばず、実朝に劣る、「惜むべき彼は完全なる歌人たる能はざりき」というのである。

[やぶちゃん注:「飛驒の鉱山を詠んだ八首」「志濃夫廼舎歌集」の「松籟艸 第一集」の中の以下。万延元(一八六〇)年、曙覧四十九歳の時、友人の案内で飛驒の銀鉱山の採掘現場を見学した際の、採掘から精錬に至るまでの行程を順に詠んだ連作八首。子規も全首をここで揚げている(但し、前書はカットされている)。以下、先の岩波文庫本を漢字を正字化して示した。

 

  人あまたありて、此わざ物しをるところ、見

  めぐりありきて

日のひかりいたらぬ山の洞(ほら)のうちに火ともし入りてかね掘り出だす

赤裸(あかはだか)の男子(をのこ)むれゐて鑛(あらがね)のまろがり碎(くだ)く鎚(つち)うち揮(ふ)りて

さひづるや碓(からうす)たてゝきらきらとひかる塊(つちくれ)つきて粉(こ)にする

筧(かけひ)かけとる谷水にうち浸(ひた)しゆれば白露(しらつゆ)手にこぼれくる

黑けぶり群(むらが)りたゝせ手もすまに吹き鑠(とろ)かせばなだれ落つるかね

鑠くれば灰とわかれてきはやかにかたまり殘る白銀(しろがね)の玉

銀(しろがね)の玉をあまたに筥(はこ)に收(い)れ荷(に)の緒(を)かためて馬馳(はし)らする

しろがねの荷負へる馬を牽きたてゝ御貢(みつぎ)つかふる御世(みよ)のみさかえ

 

「さひづる」は「から」の枕詞。「手もすまに」手も一時として休めることなしに。]

 

 曙覧の歌は概して第二句が重く、第四句が軽く、結句は力弱くして全首を結び得ぬものが多い。いわゆる「頭重脚軽(とうじゅうきゃくけい)」である。頭重脚軽の歌は『万葉』にないのは勿論、『古今』にもない。徳川時代の末、漸く複雑な趣向を取るに至ってこの風を生じたので、曙覧もまたこれを免れぬ。彼が完全なる歌人たり得ぬのは、調子を解せぬためということになるのである。この調子の問題は居士の最も意を用いたところで、当時の歌壇の多く顧みぬところであった。

 曙覧は居士によって発見された歌人ではないが、大(おおい)に世に顕れるに至ったのは居士の評論が出てからである。居士はとにかくこの人を得て「實朝以後たゞ一人」と称することが出来た。楫取魚彦(かとりなひこ)を「徒(いたづら)に『万葉』の語句を摸して『万葉』の精神を失へる」ものとして斥(しりぞ)け、語句を模せずしてかえって『万葉』の精神を伝えた――思うままを詠んで自ら『万葉』に近づいた曙覧を揚げたところに、居士の進歩的な意見が窺われる。

[やぶちゃん注:以上は、歌」末尾

「楫取魚彦(かとりなひこ)」(享保八(一七二三)年~天明二(一七八二)年)は江戸中期の国学者で歌人。ウィキの「楫取魚彦によれば、『本姓は伊能氏』。『名は景良』。『生れは下総国香取郡佐原(現香取市)。同郷で遠縁の親族が測量家の伊能忠敬(伊能三郎右衛門家)であ』った。『はじめは俳諧をたしなみ、建部綾足の門に入って片歌をつくり、あわせて画を学んだ』。『その後、賀茂真淵に師事して古学を修め、仮名遣いの書「古言梯(こげんてい)」を編集・出版し』、『賀茂真淵の四天王と称揚され』た。]

2018/05/25

詩集「在りし日の歌」 後記   中原中也 /   中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版) ~了

 

    後  記

 

 茲に收めたのは、「山羊の歌」以後に發表したものの過半數である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序でだから云ふが、「山羊の歌」には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを收めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出來れば、私の詩生活も既に二十三年を經た。もし詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは少くない。今その槪略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確實に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも云つてをきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に託し、東京十三年間の生活に別れて、鄕里に引籠るのである。別に新しい計畫があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潛しようと思つてゐる。

 扨、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。

 さらば東京! おゝわが靑春!

        〔一九三七、九、二三〕

 

[やぶちゃん注:最後のクレジットは下二字上げインデントであるが、ブログのブラウザの不都合を考え、ずっと上に引き上げた。

「山羊の歌」昭四五(一九七〇)年麥書房刊の第一詩集。中原中也は生前、これと本「在りし日の歌」の二詩集しか出していない。

「大正十四年」一九二五年。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「むなしさ」の解説冒頭で「月」「春」夏の夜」などがそれに当たる(但し、創作時期であって発表ではないので注意)と述べておられる。

「昭和十二年」一九三七年。「永訣の朝」の後半の幾つか。これは、概ね、注で述べた。

「私の詩生活も既に二十三年を經た」クレジットの昭和一二(一九三七)年から二十三年前は数えとしてみると、大正四(一九一五)年、中也八歳となるが、これは冬の日の記憶の注で述べた、その年の一月、弟亜郎の死を悼んで歌を作った、という事実と合致する。

「詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である」同じように計算すると、大正一二(一九二三)年、中也十六歳となる。立命館中学へ転校した年である。ゆきてかへらぬ――京 都――の注で引用して述べたように、この年の秋、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」を読んで感激し、ダダ風の詩を作るようになり、有意な詩篇をものしたとする(四十編ほどが現存)という事実と合致する。

「小林秀雄に託し」残念ながら、本詩集「在りし日の歌」は没後半年後の刊行となった。

「東京十三年間」中也の上京は大正一四(一九二五)年三月であるから、数えで一致する。

「鄕里に引籠る」遂にこれは成らなかった。墓は郷里の山口県吉敷(よしき)村長楽寺(現在の山口市吉敷佐畑。浄土宗。(グーグル・マップ・データ)。墓は地図画面の右端の経塚墓地内にある。注で述べたが、メルヘンのロケーションとされる吉敷川畔である)にあるが、葬儀は自宅の表にある鎌倉の寿福寺で行われている。

「それを思へば茫洋とする」小林秀雄の「中原中也の思い出」(昭和二四(一九四九)年『文芸』八月号「特輯中原中也」)でよく知られる。新潮文庫「作家の顔」(昭和四五(一九七〇)年改版)から引用しておく。小林秀雄は「大々」がつくぐらい大嫌いだが、このエピソードには今もしみじみする。ロケーションが私の好きな鎌倉の妙本寺から始まるせいだからであろう。

   *

 晩春の暮れ方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直(す)ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭(こかげ)の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、きっと順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺(おれ)達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入っているときりがなく、私は、急に厭(いや)な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化(どうけ)た様な笑いをしてみせた。

 二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇(ゆうやみ)の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚(わめ)いた。「ボーヨーって何だ」「前途茫洋(ぼうよう)さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は目を据え、悲し気な節を付けた。私は辛(つら)かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生まれながらの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰り返し繰り返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事は出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝(いぶか)った。彼は、山盛りの海苔巻(のりまき)を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来(きた)している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何とかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた。

   *

因みに、以上は没した年の晩春である。

 以下、奥附となっているが、死後の刊行なので復元しない。因みに、『版元』は創元社、印刷は昭和一三(一九三八)年四月十日、発行は同年四月十五日である。定価は一円五十銭(但し、満州・朝鮮・台湾・樺太等の外地定価は一円六十五銭)とある。
 

 この電子化を
 
 
     亡き娘アリスの靈に捧ぐ


【2018年5月25日 藪野直史】]

蛙聲   中原中也

 

     蛙  聲

 

天は地を蓋ひ、

そして、地には偶々池がある。

その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……

――あれは、何を鳴いてるのであらう?

 

その聲は、空より來り、

空へと去るのであらう?

 

天は地を蓋ひ、

そして蛙聲は水面に走る。

 

よし此の地方(くに)が濕潤に過ぎるとしても、

疲れたる我等が心のためには、

柱は猶、餘りに乾いたものと感(おも)はれ、

 

頭は重く、肩は凝るのだ。

さて、それなのに夜が來れば蛙は鳴き、

その聲は水面に走つて暗雲に迫る。

 

[やぶちゃん注:本詩篇が「在りし日の歌」の詩篇の掉尾である。「蛙聲」は「あせい」。本文中のそれも同じ。但し、単独の二箇所の「蛙」は「かへる(かえる)」でよい。諸本もそう読んでいる。発表は昭和一二(一九三七)年七月の『文學界』(角川文庫「中原中也詩集」年譜による)で、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、創られたのは同年五月十四日とある。また、この日には今一つの生前発表(没月)された今一つの詩「初夏の夜に」も創られているとある。されば、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に所収する「初夏の夜に」を基礎底本としつつ(サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「生前発表詩篇」の電子データを加工用に使用させて戴いた。また、新潮社版になく、そちらにある最後のクレジットも使用させて戴いた)、恣意的に漢字を正字化して示すこととする。

   *

 

  初夏の夜に

 

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――

死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かはら)から、此の世の僕等を看(み)守つてるんだ。

彼の世の磧は何時(いつ)でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。

行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。

窓の彼方(かなた)の、笹藪(ささやぶ)の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其處(そこ)に、

死兒等は茫然(ばうぜん)、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。

罪のない奴(やつ)等が、咎めもせぬから、こつちは尚更(なほさら)、辛(つら)いこつた。

いつそほんとは、奴等に棒を與へ、なぐつて貰(もら)ひたいくらゐのもんだ。

それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。

奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、

あるとしたらだ、何(いづ)れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、

三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。

なにさま暗い、あの世の磧(かはら)の、ことであるから小さい奴等は、

大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想ふけれど、

それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……

――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……

 

          (一九三七・五・一四)

   *]

春日狂想   中原中也

 

    春 日 狂 想

 


        
1

 

愛するものが死んだ時には、

自殺しなけあなりません。

 

愛するものが死んだ時には、

それより他に、方法がない。

 

けれどもそれでも、業(?)が深くて、

なほもながらふことともなったら、

 

奉仕の氣持に、なることなんです。

奉仕の氣持に、なることなんです。

 

愛するものは、死んだのですから、

たしかにそれは、死んだのですから、

 

もはやどうにも、ならぬのですから、

そのもののために、そのもののために、

 

奉仕の氣持に、ならなけあならない。

奉仕の氣持に、ならなけあならない。

 

       2

 

奉仕の氣持になりにはなつたが、

さて格別の、ことも出來ない。

 

そこで以前(せん)より、本なら熟讀。

そこで以前(せん)より、人には丁寧。

 

テムポ正しき散步をなして

麥稈眞田(ばくかんさなだ)を敬虔に編み――

 

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、

まるでこれでは、每日、日曜。

 

神社の日向を、ゆるゆる步み、

知人に遇へば、につこり致し、

 

飴賣爺々と、仲よしになり、

鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

 

まぶしくなったら、日蔭に這入り、

そこで地面や草木を見直す。

 

苔はまことに、ひんやりいたし、

いはうやうなき、今日の麗日。

 

參詣人等もぞろぞろ步き、

わたしは、なんにも腹が立たない。



       
⦅まことに人生、一瞬の夢、

      
 ゴム風船の、美しさかな。⦆

 

空に昇つて、光つて、消えて――

やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

久しぶりだね、その後どうです。

そこらの何處かで、お茶でも飮みましよ。

 

勇んで茶店に這入りはすれど、

ところで話は、とかくないもの。

 

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、

名狀しがたい覺悟をなして、――

 

外(そと)はまことに賑かなこと!

――ではまたそのうち、奧さんによろしく、

 

外國(あつち)に行つたら、たよりを下さい。

あんまりお酒は、飮まんがいいよ。

 

馬車も通れば、電車も通る。

まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯いて、

話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、

まことに、人生、花嫁御寮。



        
3

 

ではみなさん、

喜び過ぎず悲しみ過ぎず、

テムポ正しく、握手をしませう。

 

つまり、我等に缺けてるものは、

實直なんぞと、心得まして。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緖に――

テムポ正しく、握手をしませう。

 

[やぶちゃん注:「⦅まことに人生、一瞬の夢、/ゴム風船の、美しさかな。⦆」は原典でもややポイント落ち。発表は角川文庫「中原中也詩集」によれば、中原中也が死ぬ五ヶ月前、昭和一二(一九三七)年五月号『文學界』である。アイロニカルで投げやりに厭世的なそれは、明らかに文也の死後の作である。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説でも、同年三月の作と推定されており、『この詩を歌って』十『か月も経たない』うちに『詩人は亡くな』ったとある。

「自殺しなけあなりません」「自殺しなきゃなりません」という口語表現の拗音音写の一法か。以下、すべて「けあ」はそう採る。

「麥稈眞田(ばくかんさなだ)」「ばっかんさなだ」麦藁(むぎわら)を平たく潰して真田紐 のように編んだもの。麦藁帽子や袋物などを作るのに用いる。中原中也に麦藁帽子は、よく似合う、と思った途端、彼の知られた肖像写真には、そんなものはないことに気づいた。「何故、そう思ったんだろう?」――と――気がついた。帝銀事件の冤罪の死刑囚平沢貞通氏が獄中で描いた晩年の「十八歳自画像・想出再描」(26:44で見られる)だ! あの姿が何故か、私の中で中原中也と一緒になっていたのだ!

「いはうやうなき」「祝ふ樣無き」であろう。祝いようがない。

「麗日」ルビをしないのであれば「れいじつ」なのだろうが、どうも硬い。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」ではここに『うららび』とルビする。私はこれを採る。

「這入り」「はいり」。]

正午    丸ビル風景   中原中也

 

     正  午

         丸ビル風景

 

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの眞ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口

空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる

ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが櫻かな、櫻かな櫻かな

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの眞ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

[やぶちゃん注:発表は角川文庫「中原中也詩集」によれば、中原中也自身の死の、昭和一二(一九三七)年十月号『文學界』である。本詩集中では生前初出発表の最後の詩篇となる。私はこれを中原中也の代表的な詩篇の一つとしてよく記憶している。それは教科書の参考詩や幾つかの現代詩人の抄録集で、中也のこの一篇がよく掲げられていたからであるが、実は私は、この一篇、面白い、と思いながらも、どうも、好きになれないでいる。今も同じである。萩原恭次郎の大正一四(一九二五)年刊の詩集「死刑宣告」のクンズホグレツの「日比谷」の詩を〈見た〉時の、ドっとシラケた感じと、実は同じ部類の感じなのである。私の感じ方に異論はあろう。私も、この私の生理的不快感を冷徹に説明してそうした反論に反駁しようとも思うのだが、本電子化は中原中也詩集「在りし日の歌」の正規表現復元版が目的であって、私の感覚的感想を述べるのが目的ではない(私が偏愛すると言った中原中也の詩篇へのそれも逆にまた浅薄で見当違いのものであるかも知れぬことも重々承知の上である)し、後、二篇で終わるものでもあり、ここでこの注の筆は擱くこととする。すまん、中也。]

米子   中原中也

 

    米  子

 

二十八のその處女(むすめ)は、

肺病やみで、腓(ひ)は細かつた。

ポフラのやうに、人も通らぬ

步道に沿つて、立つてゐた。

 

處女(むすめ)の名前は、米子と云つた。

夏には、顏が、汚れてみえたが、

冬だの秋には、きれいであつた。

――かぼそい聲をしてをつた。

 

二十八のその處女(むすめ)は、

お嫁に行けば、その病氣は、

癒るかに思はれた。と、さう思ひながら

私はたびたび處女(むすめ)をみた……

 

しかし一度も、さうと口には出さなかつた。

別に、云ひ出しにくいからといふのでもない

云つて却つて、落膽させてはと思つたからでもない、

なぜかしら、云はずじまひであつたのだ。

 

二十八のその處女(むすめ)は、

步道に沿つて、立つてゐた、

雨あがりの午後、ポプラのやうに。

――かぼそい聲をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……

 

[やぶちゃん注:角川文庫「中原中也詩集」年譜によれば、昭和一一(一九三六)年十二月に三笠書房発行の雑誌『ペン』に発表したもの。これも創作から投稿・編集・発行に至る二ヶ月ほどのタイム・ラグから考えて、長男文也の急逝以前に創作されたものであろう。

「米子」「よねこ」。

「腓(ひ)」訓で「こむら」。脹脛(ふくらはぎ)、足の脛(すね)の後ろ側の膨らんだ部分のこと。]

冬の長門峽   中原中也

 

    冬 の 長 門 峽

 

長門峽に、水は流れてありにけり。

寒い寒い日なりき。

 

われは料亭にありぬ。

酒酌みてありぬ。

 

われのほか別に、

客とてもなかりけり。

 

水は、恰も魂あるものの如く、

流れ流れてありにけり。

 

やがても密柑の如き夕陽、

欄干にこぼれたり。

 

あゝ! ――そのやうな時もありき、

寒い寒い 日なりき。

 

[やぶちゃん注:回想詩(長門峡を訪れたのが何時かは不詳)で、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、長男文也が死んだ日(昭和一一(一九三六)年十一月十日)から四十四日後の同年十二月二十四日(クリスマス・イブ)に書かれたもので、角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜によれば、翌昭和十二年四月発行の『文學界』に発表している。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、昭和十二年九月の条に、中也はこの頃、『再び身心の疲労甚しく、しばらく郷里に帰ろうと考え』たが、『しかしこのころ郷里の家は、長年にわたる中也の東京生活への仕送りのため、経済的に余裕のない状態にあった』とあり、『詩集『在りし日の歌』の編集を終え、原稿を小林秀雄に託』したのもこの月であった。翌十月五日に発病(結核性脳膜炎とされる)、六日に鎌倉養生院(現在の清川病院)に入院するも、十六日後の十月二十二日午前〇時十分に亡くなっている。

「長門峽」「ちやうもんけふ(ちょうもんきょう)」と読む。阿武川上流の、山口県山口市阿東及び萩市川上に位置する峡谷で、全長約十二キロメートル。ウィキの「長門によれば、『奇岩や滝、深淵など、変化を織りなす奇勝として知られ、国の名勝や長門峡県立自然公園にも指定されている』。『中生代白亜紀の流紋岩質凝灰岩やデイサイト溶岩から形成されており、断崖を形成する』。『命名者は郷土の画家、高島北海であり、また詩人中原中也もこの地を絶賛した。景勝地は個性的な名前で、洗心橋や龍宮淵、獺淵、暗がり淵などの名所がある。洗心橋には中原中也の詩碑が立つ』とある。(グーグル・マップ・データ)。]

或る男の肖像   中原中也   附初出形「或る夜の幻想」推定復元

 

    或る男の肖像



         
1

 

洋行歸りのその洒落者は、

齡(とし)をとつても髮に綠の油をつけてた。

 

夜每喫茶店にあらはれて、

其處の主人と話してゐる樣(さま)はあはれげであつた。

 

死んだと聞いてはいつさうあはれであつた。


        
 2

 

              ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

 

髮毛の艷(つや)と、ラムプの金との夕まぐれ

庭に向つて、開け放たれた口から、

彼は外に出て行つた。

 

剃りたての、頸條(うなじ)も手頸(てくび)も

どこもかしこもそはそはと、

寒かつた。

 

開け放たれた口から

悔恨は、風と一緖に容赦なく

吹込んでゐた。

 

讀書も、しむみりした戀も、

あたたかいお茶も黃昏(たそがれ)の空とともに

風とともにもう其處にはなかつた。


        
3

 

彼女は

壁の中へ這入つてしまつた。

それで彼は獨り、

部屋で卓子(テーブル)を拭いてゐた。

 

[やぶちゃん注:「――幻滅は鋼(はがね)のいろ。」は原典では、ややポイントが落ちてるだけで、こんなに小さくはないが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて有意に小さくした。開始位置は再現してある。前の私の「村の時計」の注で述べたが、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説、及び同サイトの前の「村の時計」、及び、同サイトの上にあるコンテンツの中の「生前発表詩篇」の中に配されてある「或る夜の幻想(1・3)」の合地舜介氏の解説によって、

本詩篇と前の「村の時計」の初出は『四季』の昭和一二(一九三七)年三月号(同年二月二十日附発行)

であるが、そこでは

「或る夜の幻想」という長い詩の一部

であった。ところが、本詩集「在りし日の歌」では、中原中也自身によって、それが

分割・取捨されて「村の時計」と本「或る男の肖像」となった

とある。因みに、この原型である

「或る夜の幻想」の創作自体は昭和八(一九三三)年十月十日

と記されてある。そして、合地氏によると、

元の「或る夜の幻想」は全六節

から成るもので、

第一節が「彼女の部屋」、第二節が先の「村の時計」、第三節が「彼女」、第四・五・六節が本篇「或る男の肖像」

という構成であったとある。そこで、以下にその初出原型を推定で再現してみたい。但し、原発表形を私は現在、視認することが出来ないので、合地氏の解説に従い、また、新潮社版に所収する「或る夜の幻想」(初出後にカットした二パートが載る。読みはそれに従った)を基礎底本としつつ(サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「或る夜の幻想(1・3)」の電子データを加工用に使用させて戴いた)、恣意的に漢字を正字化して示すこととする。パート数字の位置は本詩集の位置を使用した。但し、現在の「彼女の部屋」「村の時計」「彼女」「或る男の肖像」という標題は恐らくは初出ではなかったのではないかと思われるので、除去しておいた。万一、あるとならば、お教えれば追加補正する(その場合、「或る男の肖像」がどこにどう表記されているかを正確にお教え戴きたい)。

   *

 

    或る夜の幻想

  1

 

彼女には

美しい洋服簞笥(だんす)があった

その箪笥は

かわたれどきの色をしていた

 

彼女には

書物や

其の他色々のものもあった

が、どれもその簞笥に比べては美しくもなかったので

彼女の部屋には簞笥だけがあった

 

  それで洋服簞笥の中は

  本でいつぱいだつた


     
2

 

村の大きな時計は、

ひねもす動いてゐた

 

その字板のペンキは、

もう艷が消えてゐた

 

近寄つてみると、

小さなひびが澤山にあるのだつた

 

それで夕陽が當つてさへが、

おとなしい色をしてゐた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴つた

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか

僕にも誰にも分らなかつた


     
3

 

野原の一隅(ぐう)には杉林があつた。

なかの一本がわけても聳(そび)えてゐた。

 

或る日彼女はそれにのぼつた。

下りて來るのは大変なことだつた。

 

それでも彼女は、媚態(びたい)を棄てなかつた。

一つ一つの舉動は、まことみごとなうねりであつた。

 

夢の中で、彼女の臍(へそ)は、

背中にあつた。


     
4

 

洋行歸りのその洒落者は、

齡(とし)をとつても髮に綠の油をつけてた。

 

夜每喫茶店にあらはれて、

其處の主人と話してゐる樣(さま)はあはれげであつた。

 

死んだと聞いてはいつさうあはれであつた。



        
5

              ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

 

髮毛の艷(つや)と、ラムプの金との夕まぐれ

庭に向つて、開け放たれた口から、

彼は外に出て行つた。

 

剃りたての、頸條(うなじ)も手頸(てくび)も

どこもかしこもそはそはと、

寒かつた。

 

開け放たれた口から

悔恨は、風と一緖に容赦なく

吹込んでゐた。

 

讀書も、しむみりした戀も、

あたたかいお茶も黃昏(たそがれ)の空とともに

風とともにもう其處にはなかつた。


     
 6

 

彼女は

壁の中へ這入つてしまつた。

それで彼は獨り、

部屋で卓子(テーブル)を拭いてゐた。

 

   *]

村の時計   中原中也

 

    村 の 時 計

 

村の大きな時計は、

ひねもす動いてゐた

 

その字板のペンキは、

もう艷が消えてゐた

 

近寄つてみると、

小さなひびが澤山にあるのだつた

 

それで夕陽が當つてさへが、

おとなしい色をしてゐた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴つた

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか

僕にも誰にも分らなかつた

 

[やぶちゃん注:なにがなし、私はこの小品が、好きだ。あたかもタルコフスキの映像を見るかのようなのだ。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説、及び同サイトの複数の他のページを見ると、初出(「或る夜の幻想」という長い詩の一部)は『四季』の昭和一二(一九三七)年三月号(同年二月二十日附発行)であるが、創作自体は古く(昭和八(一九三三)年十月十日)、しかも初出以後、非常に複雑な経緯を辿って作者自身によって分割されてここに所収されていることが判る。それについては次の「或る男の肖像」で、初出形を再現することで注したいと思うので、ここはこれだけにしておく。]

月の光 その一・その二   中原中也

 

     月  の  光 その一

 

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

 

  お庭の隅の草叢(くさむら)に

  隱れてゐるのは死んだ兒だ

 

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

 

  おや、チルシスとアマントが

  芝生の上に出て來てる

 

ギタアを持つては來てゐるが

おつぽり出してあるばかり

 

  月の光が照つてゐた

  月の光が照つてゐた

 

 

 

    月  の  光 その二

 

おゝチルシスとアマントが

庭に出て來て遊んでる

 

ほんに今夜は春の宵

なまあつたかい靄もある

 

月の光に照らされて

庭のベンチの上にゐる

 

ギタアがそばにはあるけれど

いつこう彈き出しさうもない

 

芝生のむかふは森でして

とても黑々してゐます

 

おゝチルシスとアマントが

こそこそ話してゐる間

 

森の中では死んだ子が

螢のやうに蹲んでる

 

 

[やぶちゃん注:二篇を纏めて示す中也の文也追悼詩の白眉――戦慄の幻覚――である「また來ん春……」の注で示した通り、「詩三篇」として昭和十二年二月号『文學界』に発表された。

「チルシスとアマント」Tircis」と「Aminte」。恐らく中原中也は、ヴェルレーヌ二十五歳の一八六九年に刊行した詩集“Fêtes galantes”(「優雅な宴(雅宴画)」)の中の“Mandoline”(「マンドリン」)を元にしている(原詩はこれ。英訳附きのページを選んだ二人とも第二連に出る)。ネットのQ&Aサイトで、まさに本篇のこの二つの名を訊ねたのに対する、その回答が素晴らしく、『チルシスは、ヴェルギリウスの「田園詩」に出てくる、下働きの女性の名前。アマントは、やはり「田園詩」中の美少年「アミンタス」を、フランス語読みした名前で』、『いずれも、欧州各国で、類型化されて「牧歌劇」に用いられている名前で』あり、『ヴェルレーヌの詩においては、夜、ひとびとが集まり、セレナーデ(小夜曲)が奏でられるひと時、音楽のもたらす幻想に重なって彼らの姿が現れ』る設定となっている。『つまり、彼の詩においては、牧歌的な雰囲気の中、賑やかで楽しげな場面に出てくる妖精のように考えてよいと思』われるとし、『同じフランスの作曲家、ガブリエル・フォーレによってメロディを付けられている詩でもあり』、『中原の詩でもまた、チルシスやアマントはまるで「音楽の精」のように、夜、月の光の下に表れる』も、『楽器は放り出して』しまう。『賑やかで楽しげであるはずの夜のひと時は、中原の詩においては沈黙が支配し、チルシスやアマントも、まるで「音楽の幽霊」のような存在になっている』。『中原は、悲しいという言葉をただの一度も使わずに、逝った息子、文也の姿を月の光の下に追い求め続け』るのであり、『個人的には、彼の詩における「チルシスとアマント」とは、かつて文也と共にあり、幸福であった中原の夢の残骸の姿と感じ』る、と記しておられる(この記載が正しいことは、個人ブログ「コイケランド」月とその光に関するメモ その3ブログ記載で、同様の内容が岩波文庫版「中原中也詩集」の注釈にあると記しておられる(引用有り)ことで保証される)。プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro 紀元前七〇年~紀元前一九年)はウィキの「ウェルギリウスによれば、『ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人である。共和政ローマ末の内乱の時代からオクタウィアヌスの台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごし』、『ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物である』とある。「アミンタス」は“Amyntas”だろう。チルシスの元とするのは“Tityrusで「ティテュルス」か?
 

また來ん春……   中原中也

 

     春……

 

また來ん春と人は云ふ

しかし私は辛いのだ

春が來たつて何になろ

あの子が返つて來るぢやない

 

おもへば今年の五月には

おまへを抱いて動物園

象を見せても猫(にやあ)といひ

鳥を見せても猫(にやあ)だつた

 

最後に見せた鹿だけは

角によつぽど惹かれてか

何とも云はず 眺めてた

 

ほんにおまへもあの時は

此の世の光のたゞ中に

立つて眺めてゐたつけが……

 

[やぶちゃん注:二箇所の「猫(にやあ)」の「にやあ」は「猫」に対するルビである。本詩集の詩集本文詩篇の中で、長男文也の死後に詠まれた詩篇は、これが最初であり、文也の死が直截に詠み込まれたものは、これ、一篇のみである。昭和一一(一九三六)年十一月十日、長男文也が二歳余り(昭和九年十月十八日生まれ)で小児結核のために急逝、中也は直後から激しい悲哀悲嘆に陥った。ウィキの「中原中也等によれば、『中也は』三『日間』、『一睡もせず看病した』。『葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、フク』(中也の母)『がなんとかあきらめさせて棺に入れた。四十九日の間は毎日』、『僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れなかった』。翌十二月十五日『に次男の愛雅(よしまさ)が生まれたが』、『悲しみは癒え』ず、『幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、孝子がフクに連絡』、『フクと思郎』(中也の弟。柏村(中原)家四男)『が上京した』。翌年、昭和一二(一九三七)年一月九日、『フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山にある中村古峡療養所に入院させ』、『ここで森田療法や作業療法を受け』て二月十五日に帰宅したが、『騙されて入院させられたと』妻『孝子に言って暴れたため、またフクが呼ばれた。文也を思い出させる東京を離れ』、二月二十七日に鎌倉町扇ヶ谷一八一(寿福寺の裏手)へ転居している。本詩篇はそんな中で書かれたもので、以下に続く「月の光 その一」「月の光 その二」とともに「詩三篇」として昭和十二年二月号『文學界』に発表されたものである。

「動物園」サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の草稿詩篇夏の夜の博覧会はかなしからずや文也死後一ヶ月後昭和十二十二十二日記文也の一生出現の解説で、「文也の一生」の終りの部分が引用されており、そこに『同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる』とあるから、これは恩賜上野動物園かと思われる。]

月夜の濱邊   中原中也

 

    月 夜 の 濱 邊

 

月夜の晚に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと

僕は思つたわけでもないが

なぜだかそれを捨てるに忍びず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晚に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと

僕は思つたわけでもないが

   月に向つてそれは抛れず

   浪に向つてそれは抛れず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晚に、拾つたボタンは

指先に沁(し)み、心に沁みた。

 

月夜の晚に、拾つたボタンは

どうしてそれが、捨てられようか?

 

[やぶちゃん注:「北の海」とともに私の中也遺愛の歌。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇は昭和一二(一九三七)年二月号『新女苑』に『発表されたのが初出で』あるが、実はやはり、『制作は文也の死んだ』昭和十一年十一月十日『以前と推定されてい』るとある。そこで、サイト主合地舜介氏は、『となれば』、『ミステリーじみてくる』が、この詩は、文也急逝から三ヶ月後の『新女苑』に『発表された詩』ではあるが、創作は明らかにそれ以前であり、本詩の詠吟(その感懐)は文也の死と直接は関わらないものであった。しかし、『「在りし日の歌」に収録される』詩篇が『編集』された『時期は文也の死後であり』、『偶然にも「月夜の浜辺」が追悼詩としても成立すると見なした詩人が「永訣の秋」の中に配置した、と考えれば矛盾しないはずで』ある、と述べておられる。『新女苑』はこの前月昭和一二(一九三七)年一月から実業之日本社が『少女の友』の姉妹誌として創刊した若い女性向け雑誌(昭和三四(一九五九)年七月終刊)で、これも如何にも掲載誌を意識して作った感は強い。]

2018/05/24

言葉なき歌   中原中也

 

    言 葉 な き 歌

 

あれはとほいい處にあるのだけれど

おれは此處で待つてゐなくてはならない

此處は空氣もかすかで蒼く

葱の根のやうに仄かに淡(あは)い

 

決して急いではならない

此處で十分待つてゐなければならない

處女(むすめ)の眼(め)のやうに遙かを見遣つてはならない

たしかに此處で待つてゐればよい

 

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた

號笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた

けれどもその方へ驅け出してはならない

たしかに此處で待つてゐなければならない

 

さうすればそのうち喘ぎも平靜に復し

たしかにあすこまでゆけるに違ひない

しかしあれは煙突の煙のやうに

とほくとほく いつまでも茜の空にたなびいてゐた

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一一(一九三六)年十二月発行の『文學界』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)。やはりこれも(前のの注で示したような理由(創作から投稿・編集・発行に至る二ヶ月ほどのタイム・ラグ)から)長男文也の急逝以前に創作されたものということになる。

「號笛(フイトル)」号笛(がうてき(ごうてき))は「合図のために吹く笛」で、英語のホイッスル(whistle)が腑に落ちる。ところが、中也の得意なフランス語では、“whistle”の相当語は“sifflet”(カタカナ音写:シフレ)で似ても似つかぬ。困って調べてみたところ、ネットのQ&Aサイトに、まさにこの詩のこの語の意味が判らないという質問に対し、昭和七五(一九五〇)年河出書房刊の「日本現代詩大系」所収の「在りし日の歌」では、その部分のルビが『フィフル』となっている(恐らくは編者による推定補正)とあるのを発見した。それならば、恐らくはフランス語の“fifre”(カタカナ音写:フィハァル)で「横笛」となる。思うに中也は、英語の“whistle”の「ホゥイスル」の音と、フランス語のその「フィハァル」の音を混同して誤表記したものと推定する。]

あばずれ女の亭主が歌つた   中原中也

 

    あばずれ女の亭主が歌つた

 

おまへはおれを愛してる、一度とて

おれを憎んだためしはない。

 

おれもおまへを愛してる。前世から

さだまつていることのやう。

 

そして二人の魂は、不識(しらず)に温和に愛し合ふ

もう長年の習慣だ。

 

それなのにまた二人には、

ひどく浮氣な心があつて、

 

いちばん自然な愛の氣持を、

時にうるさく思ふのだ。

 

佳い香水のかほりより、

病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

 

そこでいちばん親しい二人が、

時にいちばん憎みあふ。

 

そしてあとでは得態の知れない

悔の氣持に浸るのだ。

 

あゝ、二人には浮氣があつて、

それが眞實(ほんと)を見えなくしちまふ。

 

佳い香水のかほりより、

病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『歷程』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)。やはりこれも長男文也の急逝以前に書かれたものということになる。]

幻影   中原中也

 

    幻  影

 

私の頭の中には、いつの頃からか、

薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、

それは、紗の服なんかを着込んで、

そして、月光を浴びてゐるのでした。

 

ともすると、弱々しげな手付をして、

しきりと 手眞似をするのでしたが、

その意味が、つひぞ通じたためしはなく、

あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。

 

手眞似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、

古い影繪でも見てゐるやう――

音はちつともしないのですし、

何を云つてるのかは 分りませんでした。

 

しろじろと身に月光を浴び、

あやしくもあかるい霧の中で、

かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、

眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『文學界』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)。やはりこれも長男文也の急逝以前に書かれたものということになる。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説で、サイト主の合地舜介氏は同年九『月以前の制作ということにな』ると断定されており、これは編集・印刷から実際の発行までを考えると腑に落ちる(因みに、当該ページで上記初出誌の発行年を一九三七年とされているのは誤りである)。]

一つのメルヘン   中原中也

 

    一つのメルヘン

 

秋の夜は、はるかの彼方に、

小石ばかりの、河原があつて、

それに陽は、さらさらと

さらさらと射してゐるのでありました。

 

陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、

非常な個體の粉末のやうで、

さればこそ、さらさらと

かすかな音を立ててもゐるのでした。

 

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

淡い、それでゐてくつきりとした

影を落としてゐるのでした。

 

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもゐなかつた川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『文藝汎論』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)。やはりこれも長男文也の急逝以前に書かれたものということになる。ウィキの「中原中也によれば、このロケーションは郷里山口県の、吉敷(よしき)川であるとある。この直近にまた、中原中也自身の墓もある。(グーグル・マップ・データ)。

「硅石」(けいせき:silica stone)とは主に酸化珪素(けいそ)からなる鉱物としてはチャート(chert:堆積岩の一種)・珪質砂岩・珪岩・石英片岩や石英・水晶などが含まれ、見た目が白っぽいものが多い。古くは板ガラスの主原料であった。]

「在りし日の歌」 永訣の秋 / ゆきてかへらぬ ――京都――   中原中也

 

   永 訣 の 秋

 

 

    ゆきてかへらぬ

        ――京 都――

 

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々搖つてゐた。

 

 木橋の、埃りは終日、沈默し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の緣者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 

 さりとて退屈してもゐず、空氣の中には蜜があり、物體でないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 

 さてわが親しき所有品(もちもの)は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布團ときたらば影だになく、齒刷子(はぶらし)くらゐは持つてもゐたが、たつた一册ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、會ひに行かうとは思はなかつた。夢みるだけで澤山だつた。

 

 名狀しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

 

      *         *

           *

 

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、不氣味な程にもにこやかな、女や子供、男達散步していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。

 さてその空には銀色に、蜘蛛の巢が光り輝いてゐた。

 

[やぶちゃん注:アスタリスク三個のパーテーションはブログでの不具合を考えて原典の配置を再現せず、上に引き上げ、アスタリスク間も短縮しておいた。本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『四季』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)である。この十一月十日に長男文也が二歳で小児結核のために急逝しているが、本篇はそれ以前に書かれたものということになる。中原中也にして非常に珍しい散文詩形式である。京都時代を素材とした幻想的回想である。彼の京都時代は大正一二(一九二三)年三月に県立山口中学校第三学年を落第し、四月に京都の私立立命館中学へ転校してから、大正十四年三月に大学受験を目指して上京するまでの間であることは既に「獨身の注で述べたので、そちらを参照されたいが、これも少なくとも先のその「獨身者」的な閉じられた世界を抽出して語っていることから、私はそちらの注で更に限定したのと同様、長谷川泰子と同棲する以前の大正一二(一九二三)年三月から翌年四月までの一年余り(満十六歳から十七歳初めまで)が素材回想の事実上の対象期間であるように思われる。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、転校後は『岡崎あたりに下宿』し、『生まれてはじめて両親のもとを離れ、飛び立つ思いであった。「学校は下宿にばかりゐては胃が悪くなるから、散歩の終点だと思つてかよつた。」という散歩は中也にとって特別の意味を持っており、このころから結婚する前の昭和八年十月に至る迄、毎日毎日歩き通した。「読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩く」のを日課と』していたとある。『この年』(大正十二年)『の秋の寒い夜に丸田町橋際の古本屋で』「ダダイスト新吉の詩」(高橋新吉(明治三四(一九〇一)年~昭和六二(一九八七)年:中也より六つ年上)の詩集(辻潤編)。この大正十二年二月に中央美術社から刊行していた)『を読み』、『感激。その影響を受けて高橋新吉風の詩を作るようになる。四十編ほど残存、〝ダダイスト〟〝ダダさん〟などの綽名(あだな)で呼ばれ』た、とある。また、泰子との同棲の直前の大正十三年三月には詩人富永太郎(明治三四(一九〇一)年~大正一四(一九二五)年十一月十二日:中也より六つ年上。結核が悪化し、この翌年、酸素吸入器のゴム管を「きたない」と言って、自ら取り去って二十四歳で亡くなった。中也は彼の死に激しい衝撃を受けた。因みに、私はサイト内の「心朽新館」で彼の全詩篇(三ページある)を遠い昔に電子化している)と知り合い、この後、急速に親しくなっていった。

「洒ぎ」「そそぎ」。

「花々搖つてゐた」助詞なしで繋げているのは韻律からであろう。「搖つてゐた」は「ゆすつてゐた(ゆすっていた)」。

「埃り」「ほこり」。

「赫々」「あかあか」。

「街上」「かいじやう(がいじょう)」。

「停つて」「とまつて(とまつて)」。

「喫つても」「すつても(すっても)」。]

蜻蛉に寄す   中原中也

 

    

 

あんまり晴れてる 秋の空

赤い蜻蛉が 飛んでゐる

淡(あは)い夕陽を 浴びながら

僕は野原に 立つてゐる

 

遠くに工場の 煙突が

夕陽にかすんで みえてゐる

大きな溜息 一つついて

僕は蹲んで 石を拾ふ

 

その石くれの 冷たさが

漸く手中(しゆちう)で ぬくもると

僕は放(ほか)して 今度は草を

夕陽を浴びてる 草を拔く

 

拔かれた草は 土の上で

ほのかほのかに 萎えてゆく

遠くに工場の 煙突は

夕陽に霞んで みえてゐる

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、この一篇は『むらさき』という『女性向けの教養雑誌に初出』するもので、『この雑誌は、紫式部学会の編集』であるという(創作は昭和一一(一九三六)年八月頃と推定されているとある。因みに『ぬらさき』は昭和九年五月創刊で現在も続いている)。サイト主の合地舜介氏も述べておられる通り、本篇は言葉遣いや内容の平易さを見ると、多分に女性雑誌を意識した作品のように感じられる。なお、以上で「在りし日の歌」の第一大パート「在りし日の歌」は終わっている

「蹲んで」「しやがんで(しゃがんで)」。

「放(ほか)して」捨てて。「ほかす」は上方(かみがた)語。名古屋の亡き義母がよく使っていたのを思い出すから、中部以西の方言であろう。一部の辞書類はまことしやかに「放下す」などと漢字表記しているが、ちょっと私はクエスチョンだ。]

曇天   中原中也

 

    曇  天

 

 ある朝 僕は 空の 中に、

黑い 旗が はためくを 見た。

 はたはた それは はためいて ゐたが、

音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、

綱も なければ それも 叶はず、

 旗は はたはた はためく ばかり、

空の 奧(をく)處に 舞ひ入る 如く。

 

 かゝる 朝(あした)を 少年の 日も、

屢〻 見たりと 僕は 憶ふ。

 かの時は そを 野原の 上に、

今はた 都會の 甍の 上に。

 

 かの時 この時 時は 隔つれ、

此處と 彼處と 所は 異れ、

 はたはた はたはた み空に ひとり、

いまも 渝らぬ かの 黑旗よ。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、この一篇は中也二十九歳の『中央公論』と並ぶ総合雑誌『改造』の昭和一一(一九三六)年七月号に発表されたもので、同誌に『詩人が載せた初めての作品で』、『記念すべき作品で』あるとある。

「手繰り」「たぐり」。

「奧(をく)處」「おく」はママ。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『おくか』とルビする。上記の「中原中也・全詩アーカイブ」本詩篇電子化と「青空文庫」の歌」は孰れも『おくが』とする。これは「奥深い所・果て」の意で、「おくか」「おくが」孰れにも読む。私は上代語でもあり、清音を採りたい。

「屢〻」「しばしば」。

「憶ふ」「おもふ(おもう)」。

「甍」「いらか」。

「此處」「ここ」。

「彼處」「かしこ」。

「異れ」「ことなれ」。違っているが。

「渝らぬ」「かはらぬ(かわらぬ)」。「渝」(音「ユ」)は「変わる・代わる・改める」の意。]

春宵感懷   中原中也

 

    春 宵 感 懷

 

雨が、あがつて、風が吹く。

 雲が、流れる、月かくす。

みなさん、今夜は、春の宵。

 なまあつたかい、風が吹く。

 

なんだか、深い、溜息が、

 なんだかはるかな、幻想が、

湧くけど、それは、摑めない。

 誰にも、それは、語れない。

 

誰にも、それは、語れない

 ことだけれども、それこそが、

いのちだらうぢやないですか、

 けれども、それは、示(あ)かせない……

 

かくて、人間、ひとりびとり、

 こころで感じて、顏見合せれば

につこり笑ふといふほどの

 ことして、一生、過ぎるんですねえ

 

雨が、あがつて、風が吹く。

 雲が、流れる、月かくす。

みなさん、今夜は、春の宵。

 なまあつたかい、風が吹く。

 

獨身者   中原中也

 

    獨  身  者

 

石鹼箱には秋風が吹き

郊外と、市街を限る路の上には

大原女が一人步いてゐた

 

――彼は獨身者(どくしんしや)であつた

彼は極度の近眼であつた

彼はよそゆきを普段に着てゐた

判屋奉公したこともあつた

 

今しも彼が湯屋から出て來る

薄日の射してる午後の三時

石鹼箱には風が吹き

郊外と、市街を限る路の上には

大原女が一人步いてゐた

 

[やぶちゃん注:太字「よそゆき」は原典では傍点「ヽ」。謂わずもがなであるが、これは回想詩である。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説に、この一篇は昭和一一(一九三六)年四月の創作とあるからである。「大原女」(おほはらめ(おおおはらめ))の描写から、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜に添うならば、大正一二(一九二三)年三月に県立山口中学校第三学年を落第し、四月に京都の私立立命館中学へ転校してから、大正十四年三月に大学受験を目指して上京するまで(早稲田大学の受験をしようとしたが、中学修了証書がないために手続き出来ず、日本大学には試験場に三十分も遅刻して会場に入れて貰えず、結局、どこにも入学出来なかった)の閉区間のシークエンスと取り敢えずはとれる(満十六歳から十七歳まで)。しかし、実はその間の大正十三年の四月に、京都の演劇グループで知り合っていた俳優長谷川泰子(明治三七(一九〇四)年~平成五(一九九三)年:中也より三つ年上で、この当時は満二十歳直前)と同棲を始めており、この上京も泰子と一緒であったから、彼の「獨身者」を文字通り、馬鹿正直に受け入れるとすれば、大正一二(一九二三)年三月から翌年四月までの一年余りが回想対象時期するのが正確となろう。

「判屋奉公」印刷屋のことであろうが、中也がそんな仕事に従事して給金を得ていたことは年譜その他の資料からは窺えない。識者の御教授を乞う。]

わが半生   中原中也

 

    わ が 半 生

 

私は隨分苦勞して來た。

それがどうした苦勞であつたか、

語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。

またその苦勞が果して價値の

あつたものかなかつたものか、

そんなことなぞ考へてもみぬ。

 

とにかく私は苦勞して來た。

苦勞して來たことであつた!

そして、今、此處、机の前の、

自分を見出すばつかりだ。

じつと手を出し眺めるほどの

ことしか私は出來ないのだ。

 

   外(そと)では今宵、木の葉がそよぐ。

   はるかな氣持の、春の宵だ。

   そして私は、靜かに死ぬる、

   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇は昭和一一(一九三六)年七月号初出とある。結核性脳膜炎で彼が入院先の鎌倉養生院(現在の清川病院)急逝するのは翌昭和十二年十月二十二日午前〇時十分のことであった。]

雪の賦   中原中也

 

    雪  の  賦

 

雪が降るとこのわたくしには、人生が、

かなしくもうつくしいものに――

憂愁にみちたものに、思へるのであつた。

 

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、

大高源吾の頃にも降つた……

 

幾多々々の孤兒の手は、

そのためにかじかんで、

都會の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。

 

ロシアの田舍の別莊の、

矢來の彼方に見る雪は、

うんざりする程永遠で、

 

雪の降る日は高貴の夫人も、

ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……

 

雪が降るとこのわたくしには、人生が

かなしくもうつくしいものに――

憂愁にみちたものに、思へるのであつた。

 

[やぶちゃん注:古代までの溯る部分はないが、中也得意の自由な時間遡上を通して、しんしんと降る自然の雪のイメージの中を、過去の歴史の映像が自在にモンタージュされ、時空を超えた惨めな人間たちの儚い人事の憂愁が綴れ織りされている。

「大高源吾」(おおたかげんご 寛文一二(一六七二)年~元禄一六(一七〇三)年二月四日)は「赤穂義士」の一人で播磨赤穂藩主浅野長矩(ながのり)家臣。名は忠雄。源吾は通称。俳人でもあり、子葉と号し、蕉門の榎本其角とも親交があった。大石内蔵助良雄の吉良邸討入りを果たした後、長矩の眠る泉岳寺へ入った際、泉岳寺では彼を知る僧から一句を求められ、

 山をさく刀もおれて松の雪

の一句を残している。大石の嫡男で数え十六であった大石主税(ちから)良金(よしかね)らとともに芝三田の伊予松山藩第四代藩主松平定直の中屋敷へ預けられた。彼は松平家預かりの浪士十人の最後に切腹の座についたが、そこで、

 梅で吞む茶屋もあるべし死出の山

の一句を残している。松平家家臣の宮原頼安の介錯で切腹。享年三十二(以上はウィキの「大高忠雄を参照した)。中也は「雪」から雪後の討ち入りを連想すると同時に、俳人としても優れていた彼へのシンパシーもあったのであろうと思われる。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇は昭和一一(一九三六)年三月頃の作であるとあるから(初出は同年五月号『四季』)、中也満二十九の直前で、大高の逝った年齢にも近い。

「ロシアの田舍の別莊の……」因みに、ロシア革命でのソヴィエト政権樹立(十月革命)はユリウス暦一九一七年十月二十五日(グレゴリオ暦十一月七日)で、本創作の十九年前になる。ロシアの没落貴族の別荘と雪原のシークエンスの挿入は本篇の夢想を感覚的にもワイドにしている。

「矢來」「やらい」。ここは木を縦横に粗く組んで作った仮囲いの(最早、変革の嵐を防ぐに役立たない)垣根。]

除夜の鐘   中原中也

 

    除 夜 の 鐘

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

千萬年も、古びた夜(よる)の空氣を顫はし、

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

それは寺院の森の霧つた空……

そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて來る。

それは寺院の森の霧つた空……

 

その時子供は父母の膝下で蕎麥を食うべ、

その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出、

その時子供は父母の膝下で蕎麥を食うべ。

 

その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出。

その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、

その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出。

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

千萬年も、古びた夜(よる)の空氣を顫はし、

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

[やぶちゃん注:「顫はし」「ふるはし(ふるわし)」。

「遠いい」靑い瞳」で注した通り、中国地方での「遠い」の方言である。

「霧つた」「きらつた(きらった)」。「霧らふ」は上代の連語(動詞「霧(き)る」の未然形に+復継続の助動詞「ふ」)。霧・霞が一面に立ち籠(こ)める。

「食うべ」「たうぶ(とうぶ)」。「賜(と)うぶ」と同語源の、上代からあるバ下二段活用の動詞。「食ふ」「食ぶ」に同じい。ここは韻律上の感覚的選択であって、わざわざ「いただく」という謙譲表現で採る必要はない。]

殘暑   中原中也

 

    殘  暑

 

疊の上に、寢ころばう、

蠅はブンブン 唸つてる

疊ももはや 黃色くなつたと

今朝がた 誰かが云つてゐたつけ

 

それやこれやと とりとめもなく

僕の頭に 記憶は浮かび

浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち

いつしか 僕は眠つてゐたのだ

 

覺めたのは 夕方ちかく

まだかなかなは 啼いてたけれど

樹々の梢は 陽を受けてたけど、

僕は庭木に 打水やつた

 

    打水が、樹々の下枝(しづえ)の葉の尖(さき)に

    光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた

 

[やぶちゃん注:太字「かなかな」は原典では傍点「ヽ」。]

思ひ出   中原中也

 

    思  ひ  出

 

お天氣の日の、海の沖は

なんと、あんなに綺麗なんだ!

お天氣の日の、海の沖は

まるで、金や、銀ではないか

 

金や銀の沖の波に、

ひかれひかれて、岬の端に

やつて來たれど金や銀は

なほもとほのき、沖で光つた。

 

岬の端には煉瓦工場が、

工場の庭には煉瓦干されて、

煉瓦干されて赫々してゐた

しかも工場は、音とてなかつた

 

煉瓦工場に、腰をば据えて、

私は暫く煙草を吹かした。

煙草吹かしてぼんやりしてると、

沖の方では波が鳴つてた。

 

沖の方では波が鳴らうと、

私はかまはずぼんやりしてゐた。

ぼんやりしてると頭も胸も

ポカポカポカポカ暖かだつた

 

ポカポカポカポカ暖かだつたよ

岬の工場は春の陽をうけ、

煉瓦工場は音とてもなく

裏の木立で鳥が啼いてた

 

鳥が啼いても煉瓦工場は、

ビクともしないでジツとしてゐた

鳥が啼いても煉瓦工場の、

窓の硝子は陽をうけてゐた

 

窓の硝子は陽をうけてても

ちつとも暖かさうではなかつた

春のはじめのお天氣の日の

岬の端の煉瓦工場よ!

 

  *         *

       *         *

 

煉瓦工場は、その後廢(すた)れて、

煉瓦工場は、死んでしまつた

煉瓦工場の、窓も硝子も、

今は毀れてゐようといふもの

 

煉瓦工場は、廢(すた)れて枯れて、

木立の前に、今もぼんやり

木立に鳥は、今も啼くけど

煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ

 

沖の波は、今も鳴るけど

庭の土には、陽が照るけれど

煉瓦工場に、人夫は來ない

煉瓦工場に、僕も行かない

 

嘗て煙を、吐いてた煙突も、

今はぶきみに、たゞ立つてゐる

雨の降る日は、殊にもぶきみ

晴れた日だとて、相當ぶきみ

 

相當ぶきみな、煙突でさへ

今ぢやどうさへ、手出しも出來ず

この尨大な、古者が

時々恨む、その眼は怖い

 

その眼は怖くて、今日も僕は

濱へ出て來て、石に腰掛け

ぼんやり俯き、案じてゐれば

僕の胸さへ、波を打つのだ

 

[やぶちゃん注:アスタリスク四個のパーテーションはブログでの不具合を考えて原典の配置を再現せず、上に引き上げ、アスタリスク間も短縮しておいた。本篇の岬の煉瓦工場のある風景のロケーションは不詳。

「赫々」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に『あかあか』とルビする。従がう。

「毀れて」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に「毀」『こは』とルビする。従がう。

「古者」「ふるつはもの」。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」もかくルビする。

「俯き」「うつむき」。

お道化うた   中原中也

 

    お 道 化 う た

 

月の光のそのことを、

盲目少女(めくらむすめ)に教へたは、

ベートーヹンか、シューバート?

俺の記憶の錯覺が、

今夜とちれてゐるけれど、

ベトちやんだとは思ふけど、

シュバちやんではなかつたらうか?

 

霧の降つたる秋の夜に、

庭・石段に腰掛けて、

月の光を浴びながら、

二人、默つてゐたけれど、

やがてピアノの部屋に入り、

泣かんばかりに彈き出した、

あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

 

かすむ街の燈とほに見て、

ウヰンの市(まち)の郊外に、

星も降るよなその夜さ一と夜、

蟲、草叢にすだく頃、

教師の息子の十三番目、

頸の短いあの男、

盲目少女(めくらむすめ)の手をとるやうに、

ピアノの上に勢ひ込んだ、

汗の出さうなその額、

安物くさいその眼鏡、

丸い背中もいぢらしく

吐き出すやうに彈いたのは、

あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

 

シュバちやんかベトちやんか、

そんなこと、いざ知らね、

今宵星降る東京の夜(よる)、

ビールのコップを傾けて、

月の光を見てあれば、

ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、

はやとほに死んだことさへ、

誰知らうことわりもない……

 

[やぶちゃん注:標題「お道化うた」は「おどけうた」と読みたい。

「月の光のそのことを、」「盲目少女(めくらむすめ)に教へた」「月光」の通称で知られる、ベートーヴェンが一八〇一年に作曲したピアノソナタ「ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調作品二十七の二“Sonata quasi una Fantasia”(「幻想曲風ソナタ」)のこと。私もこの話は中学のリーダーの副読本で読まされたが(挿絵までよく覚えている)、これは全くの虚構である。ウィキの「ピアノソナタ第14ベートーヴェンによれば、『日本では戦前の尋常小学校の国語の教科書に、「月光の曲」と題する仮構が読み物として掲載されたことがあった』。『この物語は』十九『世紀にヨーロッパで創作され、愛好家向けの音楽新聞あるいは音楽雑誌に掲載された。日本では』明治二五(一八九二)『年に上梓された小柳一蔵著『海外遺芳巻ノ一』に『月夜奏琴』という表題で掲載された』。『『月夜奏琴』を口語調に書き直したものが『月光の曲』である』とし、そのシノプシスは、『ベートーヴェンが月夜の街を散歩していると、ある家の中からピアノを弾く音が聞こえた。良く見てみると』、『それは盲目の少女であった。感動したベートーヴェンはその家を訪れ、溢れる感情を元に即興演奏を行った。自分の家に帰ったベートーヴェンはその演奏を思い出しながら曲を書き上げた。これが「月光の曲」である』というものである。

「ベートーヹン」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)。

「シューバート」フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)。彼には重唱曲に“Mondenschein”(「月の光」)がある。]

閑寂   中原中也

 

    閑   寂

 

なんにも訪(おとな)ふことのない、

私の心は閑寂だ。

 

    それは日曜日の渡り廊下、

    ――みんなは野原へ行つちやつた。

 

板は冷たい光澤(つや)をもち、

小鳥は庭に啼いてゐる。

 

    締めの足りない水道の、

    蛇口の滴(しづく)は、つと光り!

 

土は薔薇色、空には雲雀

空はきれいな四月です。

 

    なんにも訪(おとな)ふことのない、

    私の心は閑寂だ。

 

頑是ない歌   中原中也

 

    頑 是 な い 歌

 

思へば遠く來たもんだ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯氣(ゆげ)は今いづこ

 

雲の間に月はゐて

それな汽笛を耳にすると

竦然として身をすくめ

月はその時空にゐた

 

それから何年經つたことか

汽笛の湯氣を茫然と

眼で追ひかなしくなつてゐた

あの頃の俺はいまいづこ

 

今では女房子供持ち

思へば遠く來たもんだ

此の先まだまだ何時までか

生きてゆくのであらうけど

 

生きてゆくのであらうけど

遠く經て來た日や夜(よる)の

あんまりこんなにこひしゆては

なんだか自信が持てないよ

 

さりとて生きてゆく限り

結局我ン張る僕の性質(さが)

と思へばなんだか我ながら

いたはしいよなものですよ

 

考へてみればそれはまあ

結局我ン張るのだとして

昔戀しい時もあり そして

どうにかやつてはゆくのでせう

 

考へてみれば簡單だ

畢竟意志の問題だ

なんとかやるより仕方もない

やりさへすればよいのだと

 

思ふけれどもそれもそれ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯氣や今いづこ

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、昭和一〇(一九三五)年十二月(中也満二十八)の作で、翌年一月号『文藝汎論』初出とする。

「十二の冬のあの夕べ/港の空に鳴り響いた/汽笛の湯氣(ゆげ)は今いづこ」「十二の冬」は「十二」(数え)が正確ならば、大正七(一九一八)年となる。山口師範附属小学校小学校四年生である(この歳の四月にそれまで在籍していた下宇野令(うのれ)小学校から山口県立山口中学受験のためにこちらに転校した)。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜の同年の記載に、『一時、科学に懲(こ)り、発明家を夢みて』父の『病院から試薬を持ち出し、実験に耽ったりした』とあり、またこの頃、『防長新聞』や『『婦人畫報』等に短歌を投稿』している。『学校には「矢鱈に何ということなしに心惹かれていた女教員」がいて、彼女の茶色の袴(はかま)を恋しい気持ちで眺めていた』とあるだけで、この「十二の冬のあの夕べ」、とある「港の空に鳴り響いた」「汽笛の湯氣(ゆげ)」の音や映像を解明してくれる事実や事件やそれを匂わせる事蹟は記されていない。ただ、私はまず、この「十二」というのは七五調の韻律上から選ばれた〈それらしい記号〉なのではないかと疑っている。「十」や「十三」「十六」ではだめなのは明白である。しかも、いかにも事実らしく聴こえる「十二の冬」という年齢・季節といい、限定された或る秘密めいた一日(ひとひ)の「あの夕べ」といい、潮の匂いの漂う「港の空」といい、そこに劈ざくように「鳴り響いた」船の「汽笛」と、その「湯氣(ゆげ)」の視聴覚上のリアリズムに、我々は具体な、どこかの港の夕暮れの情景や、なんとなく妖しい雰囲気の実画面を描きがちになる。しかし私はこれは全くの彼の幼年幻想とその終わりというものの仮想イメージなのだと思っている。則ち、これら「十二の冬のあの夕べ」や「港の空に鳴り響いた」「汽笛の湯氣」続く二連の「雲間」の「月」やは、すべてが、一人の、頻りに尖(とん)がったポーズをしたがる少年が、早々と大人の真似(或いはをし、パイプなど銜えて、詩人のマドロスとして、退屈で不満に満ちた世俗世界におさらばし、何か面白いことが出来そうな荒海(それは怪しい科学実験でも非生産的な発明でももっと非生産的なる芸術やら文芸でも/でこそよい世界である)へと向かいたいと夢想した〈幼年幻想/詩人幻想の「時空」に於ける記号〉なのだと思うのである。

「それな」「な」は強調して念を押す間投助詞。

「竦然」(しようぜん(しょうぜん)」は「ひどく恐れるさま・慄(ぞ)っとして竦(すく)むさま。

「今では女房子供持ち」これが創作された昭和一〇(一九三五)年十二月当時は妻孝子と結婚後二年目、長男文也(昭和九年十月十八日生まれ)は一歳二ヶ月であった。

「こひしゆては」「戀ひしゆては(こひしゅては)」。恋しゅうては。恋しさがつのってくる状態では。

「我ン張る」「頑張る」。]

2018/05/23

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 メノコダイ (イサキ)

 

Menokodai

 

メノコダイ

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。先のトンデモ画群をイサキに同定したぐらいなら、これならもう、遙かに、

スズキ目スズキ亜目イサキ科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum

同定して心配しない気になってくる。こんな色に見えるイサキなら、実際、いる。しかも、前の「キシミダイ」の図を色を除いて比較してみて御覧な、魚体が鰭に至るまで酷似していることが判るぜ。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 キシミダイ (イサキ?)

 

キシミダイ

 黄檣魚ノ一種

 

Kisimidai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。またしても悩ましい色をしている。前にもあったが、栗本丹洲の魚図の体色にはどう考えてもあり得ない異常なものが、これ、しばしば見られる。されば、ここも大胆に色を度外視して名前と魚体の体勢から考えてみた。ところが、いくら調べてみても「キシミダイ」というこのありそうな異名は現代に残っていないようで、如何なるネット検索にも引っ掛かってこない。しかし「キシミ」ってなんだ? 「黃染み鯛」か? 鰭の黄色か? そういゃあ、後の「黄檣魚」は前にも「ヒメ小鯛・黄檣魚(キグチ)」とか、体色異常の「紅■■ (イサキ)」のキャプションに出てたよな? 前の奴はどうだ?(その図)……あちゃ……面(つら)が似てねぇなあ。待てよ? これはスズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属キグチ Larimichthys polyactis に同定したんだが、あの時、調べてた時に、なんだか頭の形がこんな、こう、ズングリした奴がキグチの仲間にいたぞう! おお! そうだ! 顎のシャクれた感じのあいつ

スズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属フウセイ Larimichthys crocea

だ! グーグル画像検索「Larimichthys croceaを見てみてくれ。こりゃ、頭がクリソツじゃねえか! ただなぁ……尾鰭の形状がな~あ、中央が凹むんじゃなくて、後ろに突出してねえとなぁ……あれぇ?……でも……そうすると、「ヒメ小鯛・黄檣魚(キグチ)」の同定も誤り(キグチも同じ団扇みたような尾鰭)ということになっちまうぞ……う~ん、墓穴掘っちまった!…………しゃあねぇな!(「どですかでん」の六ちゃん風に) じゃあ、もう一つのイサキん方は、どうよ? 赤いイサキなんていねえって? だからさ、言ったろ?! 色は無視、す、ん、の! にしても、似てねえってか? う~ん、確かに……いや?……待て、待て! 「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イサキ」の三つ並んだ写真の中央、おう! それそれ! クリックしてみな! なんか、似てねえか? 鰭、黄色いな! それに幼魚や若魚は『やや明るい茶色で濃い褐色の縞文様が縦に走る』ってあるよな? これを全面的に強着色すると紅くなるとも言えるよな? 或いはこれも体色異常の、

スズキ目スズキ亜目イサキ科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum

てか? 分らん!]

北の海   中原中也

 

    北  の  海

 

海にゐるのは、

あれは人魚ではないのです。

海にゐるのは、

あれは、浪ばかり。

 

曇つた北海の空の下、

浪はところどころ齒をむいて、

空を呪つてゐるのです。

いつはてるとも知れない呪。

 

海にゐるのは、

あれは人魚ではないのです。

あれは、浪ばかり。

 

[やぶちゃん注:私が中原中也の詩の中で最も偏愛する詩篇である。謂わずもがなであるが、第二連最終行末の「呪」は「のろひ(のろい)」と読む。「中原中也詩集」(河上徹太郎編・昭和六〇(一九八五)年改版三十四版・角川文庫刊)の年譜によれば、昭和一〇(一九三五)年二月に創作され、同年五月に発行された創刊号『歷程』(第一次。逸見猶吉・草野心平らにより、中也も同人となっていた)に発表した詩篇である。]

初夏の夜   中原中也

 

    

 

また今年(こんねん)も夏が來て、

夜は、蒸氣で出來た白熊が、

沼をわたつてやつてくる。

――色々のことがあつたんです。

色々のことをして來たものです。

嬉しいことも、あつたのですが、

囘想されては、すべてがかなしい

鐵製の、軋音さながら

なべては夕暮迫るけはひに

幼年も、老年も、靑年も壯年も、

共々に餘りに可憐な聲をばあげて、

薄暮の中で舞ふ蛾の下で

はかなくも可憐な顎をしてゐるのです。

されば今夜(こんや)六月の良夜(あたらよ)なりとはいへ、

遠いい物音が、心地よく風に送られて來るとはいへ、

なにがなし悲しい思ひであるのは、

消えたばかしの鐵橋の響音、

大河(おほかは)の、その鐵橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇もまた、創作年月日がはっきりしており、昭和一〇(一九三五)六月六日とあって、初出は『文學界』同年八月号である。

「軋音」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に『きつおん』とルビするが、「軋」の字は「キツ」という音は持たない。呉音で「エチ」、漢音で「アツ」である。ここは「あつおん」と読んでおく。「軋(きし)み音」である。

「顎」上記新潮社版では『あぎと』とルビする。「可憐な」の形容を考えると、この読みを私は支持する。

「良夜(あたらよ)」「可惜夜(あたらよ)」で、「明けるのが惜しいほどに素晴らしい夜」の謂い

「響音」「きやうおん(きょうおん)」と読んでおく。汽車が鉄橋を渡って行く、その反響音である。

「石盤色」英語の色名「スレート・グレイ」(slate grey)の訳語。濃い灰色。「スレート」は屋根を葺くのに用いる粘板岩の薄板のこと。]

雲雀   中原中也

 

    雲   雀

 

ひねもす空で鳴りますは

あゝ 電線だ、電線だ

ひねもす空で啼きますは

あゝ 雲の子だ、雲雀奴(め)だ

 

碧(あーを)い 碧(あーを)い空の中

ぐるぐるぐると 潛(もぐ)りこみ

ピ-チクチクと啼きますは

あゝ 雲の子だ、雲雀奴(め)だ

 

步いてゆくのは菜の花畑

地平の方へ、地平の方へ

步いてゆくのはあの山この山

あーをい あーをい空の下

 

眠つてゐるのは、菜の花畑に

菜の花畑に、眠つてゐるのは

菜の花畑で風に吹かれて

眠つてゐるのは赤ン坊だ?

 

春と赤ン坊   中原中也

 

    

 

菜の花畑で眠つてゐるのは……

菜の花畑で吹かれてゐるのは……

赤ン坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です

ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です

菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 

走つてゆくのは、自轉車々々々

向ふの道を、走つてゆくのは

薄桃色の、風を切つて……

 

薄桃色の、風を切つて

走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)

――赤ン坊を畑に置いて

 

夏の夜に覺めてみた夢   中原中也

 

    夏の夜に覺めてみた夢

 

眠らうとして目をば閉ぢると

眞ッ暗なグランドの上に

その日晝みた野球のナインの

ユニホ-ムばかりほのかに白く――

 

ナインは各々守備位置にあり

狡(ずる)さうなピッチャは相も變らず

お調子者のセカンドは

相も變らぬお調子ぶりの

 

扨、待つてゐるヒットは出なく

やれやれと思つてゐると

ナインも打者も悉く消え

人ッ子一人ゐはしないグランドは

 

忽ち暑い眞晝(ひる)のグランド

グランド繞るポプラ竝木は

蒼々として葉をひるがへし

ひときはつづく蟬しぐれ

やれやれと思つてゐるうち……眠(ね)た

 

[やぶちゃん注:「ひる」は「眞晝」二字へのルビ。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、中也は野球(観戦)好きであったらしい。

「扨」「さて」。

「繞る」「めぐる」。]

朝鮮女   中原中也

 

    朝  鮮  女

 

朝鮮女(をんな)の服の紐

秋の風にや縒(よ)れたらん

街道を往くをりをりは

子供の手をば無理に引き

額顰めし汝(な)が面(おも)ぞ

肌赤銅の乾物(ひもの)にて

なにを思へるその顏ぞ

――まことやわれもうらぶれし

こころに呆(ほう)け見ゐたりけむ

われを打見ていぶかりて

子供うながし去りゆけり……

輕く立ちたる埃(ほこり)かも

何をかわれに思へとや

輕く立ちたる埃かも

何をかわれに思へとや……

・・・・・・・・・・・

 

[やぶちゃん注:最終行の中黒大十一点のリーダーはママ。「をんな」のルビは「女」のみに附される。

「額顰めし」「ひたひ(ひたい)/しかめし」と読む。

「肌赤銅」「はだ/しやくどう(しゃくどう)」。

秋日狂亂   中原中也

 

    秋 日 狂 亂

 

僕にはもはや何もないのだ

僕は空手空拳だ

おまけにそれを嘆きもしない

僕はいよいよの無一物だ

 

それにしても今日は好いお天氣で

さつきから澤山の飛行機が飛んでゐる

――歐羅巴は戰爭を起すのか起さないのか

誰がそんなこと分るものか

 

今日はほんとに好いお天氣で

空の靑も淚にうるんでゐる

ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて

子供等は先刻昇天した

 

もはや地上には日向ぼつこをしてゐる

月給取の妻君とデーデー屋さん以外にゐない

デーデー屋さんの叩く鼓の音が

明るい廢墟を唯獨りで讃美し𢌞つてゐる

 

あゝ、誰か來て僕を助けて呉れ

ヂォゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが

けふびは雀も啼いてはをらぬ

地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡(あは)い!

 

――さるにても田舍のお孃さんは何處に去(い)つたか

その紫の押花(おしばな)はもうにじまないのか

草の上には陽は照らぬのか

昇天の幻想だにもはやないのか?

 

僕は何を云つてゐるのか

如何なる錯亂に掠められてゐるのか

蝶々はどつちへとんでいつたか

今は春でなくて、秋であつたか

 

ではあゝ、濃いシロップでも飮まう

冷たくして、太いストローで飮まう

とろとろと、脇見もしないで飮まう

何にも、何にも、求めまい!……

 

[やぶちゃん注:「歐羅巴は戰爭を起すのか起さないのか」サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説では、本詩篇の創作時期は昭和一〇(一九三五)年十月とする。第二次世界大戦は一九三九年九月一日のナチス・ドイツのポーランド侵攻が始まりとされるが、まさにドイツはこの一九三五年に再軍備宣言を行って、強大な軍備を整え始めていた。因みに、日中戦争の勃発の一つの起点とされる一九三七年七月七日の盧溝橋事件は中也の亡くなる三ヶ月前の出来事であった。

「デーデー屋」下駄や雪駄などの履物を修理して町廻りをした商売屋。三谷一馬氏の「江戸商売図絵」(一九九五年中央公論社(中公文庫)刊)によれば、『江戸の雪駄直しは「デイデイ」といって来ました。手を入れよという意味だといいます。肩から籠をかけて笠を被り、笠の下には更に頰かむりをしていました。雪駄を直す時は家には入らず、土間で作業したそうです』とある。

「ヂォゲネス」ディオゲネス(ラテン文字転写:Diogenēs 紀元前四〇四頃~紀元前三二三頃)は古代ギリシャの哲学者で犬儒学者(Cynici:キュニコス派。皮肉派とも呼ぶ。ソクラテスの弟子アンティステネスの創唱した古代ギリシア哲学の一派で、社会規範を蔑視し、自然に与えられたものだけで満足して生きる〈犬のような〉(ギリシア語で「キュニコス」(kynikos))人生を理想とした。英語のシニシズム cynicism はこれに由来する。無欲・無所有こそ幸福の要件であると考え、ストア学派の先駆となった。理論より実践に徹した。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)チャンピオン。世俗の権威を否定し、自然で簡易な生活の実践に努め、樽を住居としたことから「樽の中のディオゲネス」と呼ばれた。アレクサンドロス大王との問答は有名で、日光浴中のディオゲネスにアレクサンドロス大王が、「望みはないか」と訊ねたところ、「そこに立たれると、日陰になるのでどいて欲しい」と答えたという。以上は小学館「大辞泉」に拠ったが、この最後に記したエピソードを本詩篇はパロディ化しているものと読める。

「掠められて」「かすめられて」。]

骨   中原中也

 

    

 

ホラホラ、これが僕の骨だ、

生きてゐた時の苦勞にみちた

あのけがらはしい肉を破つて、

しらじらと雨に洗はれ、

ヌックと出た、骨の尖(さき)。

 

それは光澤もない、

ただいたづらにしらじらと、

雨を吸收する、

風に吹かれる、

幾分空を反映する。

 

生きてゐた時に、

これが食堂の雜踏の中に、

坐つてゐたこともある、

みつばのおしたしを食つたこともある、

と思へばなんとも可笑しい。

 

ホラホラ、これが僕の骨――

見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。

靈魂はあとに殘つて、

また骨の處にやつて來て、

見てゐるのかしら?

 

故鄕(ふるさと)の小川のへりに、

半ばは枯れた草に立つて、

見てゐるのは、――僕?

恰度立札ほどの高さに、

骨はしらじらととんがつてゐる。

 

[やぶちゃん注:本篇は珍しく創作日が原詩稿に記されている詩篇らしい。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説に『制作は、詩篇末尾に日付がある通り』、昭和九(一九三四)年四月二十八日で、これは中也が前年末の十二月三日に遠縁の縁者であった六歳歳下の上野孝子と結婚してから、『およそ』五『カ月後の制作で、この頃、東京四谷区の花園アパートに住んでい』たとあり、本詩篇の初出は前年昭和八年五月に同人となった、坂口安吾主宰の雑誌『紀元』の同年六月号とする(但し、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、中也は『紀元』同人を四月に脱退している)。

「光澤」上記新潮社版に従い、「つや」と読んでおく。

「恰度」「ちやうど(ちょうど)」。]

秋の消息   中原中也

 

    秋 の 消 息

 

麻は朝、人の肌(はだえ)に追ひ縋(すが)り

雀らの、聲も硬うはなりました

煙突の、煙は風に亂れ散り

 

火山灰掘れば氷のある如く

けざやけき顥氣の底に靑空は

冷たく沈み、しみじみと

 

教會堂の石段に

日向ぼつこをしてあれば

陽光(ひかり)に𢌞(めぐ)る花々や

物陰に、すずろすだける蟲の音(ね)や

 

秋の日は、からだに暖か

手や足に、ひえびえとして

此の日頃、廣告氣球は新宿の

空に揚りて漂へり

 

[やぶちゃん注:「肌(はだえ)」の「え」はママ。歴史的仮名遣は「はだへ」が正しい。

「けざやけき」「けさやけき」の連濁。「さやけし」は「清けし・明けし」で「明るい・明るくて清々(すがすが)しい・清(きよ)い」の意。「け」は接頭語で、強意或いは「何となく」の意を添える。

「顥氣」「かうき(こうき)」と読む。天上の白く明らかな広大な気。

「教會堂」不詳。

「すずろすだける」「すずろ」は形容動詞の語感で副詞的に「むやみに・やたらに」の意。「すだく」は「集(すだ)く」で、虫が集まってにぎやかに鳴くの意。

「廣告氣球」アドバルーン。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説で合地舜介氏は、『三越百貨店あたりのイメージでしょうか。そうでなくとも角筈』(つのはず:東京都新宿区の旧地名。現在の新宿区西新宿・歌舞伎町及び新宿の一部。附近(グーグル・マップ・データ))『あたりを歩いている詩人の姿が見えてきます』と記しておられる。]

冬の夜   中原中也

 

    冬  の  夜

 

みなさん今夜は靜かです

藥鑵の音がしてゐます

僕は女を想つてる

僕には女がないのです

 

それで苦勞もないのです

えもいはれない彈力の

空氣のやうな空想に

女を描いてみてゐるのです

 

えもいはれない彈力の

澄み亙つたる夜(よ)の沈默(しじま)

藥鑵の音を聞きながら

女を夢みてゐるのです

 

かくて夜は更け夜は深まつて

犬のみ覺めたる冬の夜は

影と煙草と僕と犬

えもいはれないカクテールです

 

 2

 

空氣よりよいものはないのです

それも寒い夜の室内の空氣よりもよいものはないのです

煙よりよいものはないのです

煙より 愉快なものもないのです

やがてはそれがお分りなのです

同感なさる時が 來るのです

 

空氣よりよいものはないのです

寒い夜の瘦せた年增女(としま)の手のやうな

その手の彈力のやうな やはらかい またかたい

かたいやうな その手の彈力のやうな

煙のやうな その女の情熱のやうな

炎えるやうな 消えるやうな

 

冬の夜の室内の 空氣よりよいものはないのです

 

湖上   中原中也

 

    湖   上

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けませう。

波はヒタヒタ打つでせう、

風も少しはあるでせう。

 

沖に出たらば暗いでせう、

櫂から滴垂(したゝ)る水の音は

昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、

――あなたの言葉の杜切れ間を。

 

月は聽き耳立てるでせう、

すこしは降りても來るでせう、

われら接唇(くちづけ)する時に

月は頭上にあるでせう。

 

あなたはなほも、語るでせう、

よしないことや拗言(すねごと)や、

洩らさず私は聽くでせう、

――けれど漕ぐ手はやめないで。

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けませう、

波はヒタヒタ打つでせう、

風も少しはあるでせう。

 

老いたる者をして ―― 「空しき秋」第十二   中原中也

 

    老いたる者をして

       
  ――「空しき秋」第十二

 

老いたる者をして靜謐の裡にあらしめよ

そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

 

吾は悔いんことを欲す

こころゆくまで悔ゆるは洵に魂(たま)を休むればなり

 

あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ

父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

 

東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く

はたなびく小旗の如く涕かんかな

 

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき

海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

 

     反歌

 

あゝ 吾等怯懦のために長き間、いとも長き間

徒(あだ)なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……

 

 〔空しき秋二十數篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郞の作曲によりて

  殘りしものなり。〕

 

[やぶちゃん注:太字「はたなびく」は底本では傍点「ヽ」。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇は昭和三(一九二八)年十月に創作されたとする中原中也の友人関口隆克(たかかつ 明治三七(一九〇四)年~昭和六二(一九八七)年:教育者(文学者や作家ではない)。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、中也は、この昭和三年五月下旬からの一時期(翌年一月までか)には下高井戸の彼の下宿で共同生活をしているとある。後に文部官僚や開成学園中学校・高等学校校長となったようである)の証言があるとされ、以下、非常に細かい当時の中也の置かれていた状況が仔細に語られてあるので、本詩篇の読解に大いに参考になる。是非、一覧されたい。少なくともここで言い添えておいてよいと思うことは、この連禱(事実は長歌と反歌という万葉集的歌型)めいた詩篇(元は群)は、当時の中也の置かれていた心理状態と関係するのではないかという点である。上記新潮社版「中原中也」の年譜などを見ると、この昭和三年五月十六日には父謙助が死去(同年三月十五日に往診先で倒れた。胃癌であった)しているが、見舞いのために病床には二度帰郷しているのに、葬儀には着る学生服がなかったために帰郷していない。同時期、小林秀雄と別れた長谷川泰子に再び近づくが、拒絶される。しかし恋慕止まず、同年十二月に詩篇「女よ」を書き、『以後、逃れつづける泰子に対して絶望的な恋愛詩を書くという、苦悩の中から生まれた豊かな詩作の次代が始まる』とある(新潮社版の編者は大岡昇平・飯島耕一であるが、年譜の編者は名義が示されていない)。その詩篇「女よ」はまさに本詩篇と共時的に書かれたもので、ある種、本篇の心内反転鏡像のように私には見えるので、参考までに以下に掲げておく。底本はその新潮社版に載るものを用いたが、恣意的に漢字を正字化した。

   *

 

  女よ

 

女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやつておいでよ。

笑ひでもせよ、嘆きでも、愛らしいものよ。

妙に大人(おとな)ぶるかと思ふと、すぐまた子供になつてしまふ

女よ、そのくだらない可愛いい夢のままに、

私の許にやつておいで。嘆きでも、笑ひでもせよ。

 

どんなに私がおまへを好きか、

それはおまへにわかりはしない。けれどもだ、

さあ、やつておいでよ、奇麗な無知よ。

おまへにわからぬ私の悲愁(ひしう)は、

おまへを愛すに、かえつてすばらしいこまやかさとはなるのです。

 

さて、そのこまやかさが何處(どこ)からくるともしらないおまへは、

欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫(こねこ)のやうにも戲(じや)れるのだが、やがてそれに飽いてしまふと、そのこまやかさのゆゑに

却(かへつ)ておまへは憎みだしたり疑ひ出したり、つひに私に叛(そむ)くやうにさへもなるのだ、

おゝ、忘恩なものよ、可愛いいものよ、おゝ、可愛いいものよ、忘恩なものよ!

 

   *

因みに、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」のこの「女よ」の詩篇の電子化と解説を見ると、こちらでは詩篇(表記の一部が以上とは異なる)末に『(一九二八・一二・一八)』のクレジットがある。これは本詩篇「老いたる者をして」創作期から二~三ヶ月圏内の後の日付である。

 

「靜謐」「せいひつ」。静かで落ち着いていること。

「裡」「うち」。

「洵に」「まことに」。

「涕かん」「なかん」。

はたなびく」やや意外な感じがするかも知れぬが、これは一般的な単語ではない(私も使ったことがないし、「日本国語大辞典」にも載らない)。中也が傍点を打ったところからも、韻律上からの確信犯の奇体な造語のように思われる。「小旗の如く」から「旗靡く」と漢字を当てたくなるが、それはあり得ない。「旗」は「はためく」のであって「棚引(たなび)く」のではないからである。

「こだま」木霊。谺。

「とことはに」これ一語で形容動詞ナリ活用の連用形(古くは「とことばに」上代語からある)。漢字表記するなら「常(とことは)に」である。永遠に変わらないさま。

「怯懦」「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。

「徒(あだ)なる」「儚(はかな)いさま」或いは「無駄で無用なさま」。

「諸井三郞」(明治三六(一九〇三)年~昭和五二(一九七七)年)は作曲家。東京生まれ。東京帝国大学卒業後、ドイツに渡ってベルリン高等音楽学校で学び、昭和九(一九三四)年に帰国、交響曲・協奏曲を作曲し、後続の作曲家らを育てた。戦後は文部省で音楽教育行政に携わり、東京都交響楽団長・洗足学園大教授を勤めた。新潮社版年譜によれば、中也は昭和二(一九二七)年一月(十九歳)で前年末の一時帰郷から東京へ還った際、河上徹太郎(明治三五(一九〇二)年~和五五(一九八〇)年:文芸評論家・音楽評論家)と知り合い、同年十二月に『河上の紹介で、作曲家諸井三郎を知り、新進作曲家の音楽団体「スルヤ」に近づく』とあり(スルヤは「Surya」で、サンスクリット語の「太陽神」を意味するという)、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説には、『この詩に、諸井三郎が曲を付け』、昭和五(一九三〇)年五月『の「スルヤ」第』五『回発表会で演奏され』たとある。]

2018/05/22

冬の明け方   中原中也

 

    

 

殘んの雪が瓦に少なく固く

枯木の小枝が鹿のやうに睡い、

冬の朝の六時

私の頭も睡い。

 

烏が啼いて通る――

庭の地面も鹿のやうに睡い。

――林が逃げた農家が逃げた、

空は悲しい衰弱。

     私の心は悲しい……

 

やがて薄日が射し

靑空が開(あ)く。

上の上の空でジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る。

――四方(よも)の山が沈み、

 

農家の庭が欠伸(あくび)をし、

道は空へと挨拶する。

     私の心は悲しい……

 

[やぶちゃん注:「殘んの雪」「のこんのゆき」。「殘んの」は古語の連体詞で「残りの」の転訛したもの。「残っている」の意。

「林が逃げた農家が逃げた」はサイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説がよい。『これは、中也がよく使うレトリックの一つ』で、『林が逃げた、というのは、林がどこかに行ってしまった、というのではなく』、『林もまだ目覚めておらず』、『そこにあるのだけれど、ないのも同然という、不在感を表現したもの』であり、最終連の『農家も、同様に解すことができ』、『林も農家も』、『まだ、冬の朝に、目覚めていないので』あるとされておられる。

「ジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る」遠い寒雷の雷鳴と採ってもよい。それを天空神ジュピターJupiter:ローマ神話の最高神ユピテル(ラテン語:Jūpiterの英語名。気象現象(特に雷)を司る神)が「太陽」を打ち出した火砲の砲弾にをかく言ったもの(雷鳴とは敢えて採らない)だとどこかで思っていた。いや、今もそう思っている、と言い添えておく。]

冷たい夜   中原中也

 

    冷 た い 夜

 

冬の夜に

私の心が悲しんでゐる

悲しんでゐる、わけもなく……

心は錆びて、紫色をしてゐる。

 

丈夫な扉の向ふに、

古い日は放心してゐる。

丘の上では

棉の實が罅裂(はじ)ける。

 

此處では薪が燻つてゐる、

その煙は、自分自らを

知つてでもゐるやうにのぼる。

 

誘はれるでもなく

覓(もと)めるでもなく、

私の心が燻る……

 

[やぶちゃん注:「棉」「わた」と訓じていよう。「綿」に同じい。

「薪」「まき」か「たきぎ」か、確定不能。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の本篇では『まき』とルビするが、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の電子化本文では『たきぎ』と読みを添える。「薪」の字は本詩集ではここにしか用いられていない。そこで、第一詩集「山羊の歌」(昭和九(一九三四)年十二月文圃堂刊)を調べてみたところ、「生ひ立ちの歌」の「Ⅱ」の第一連の三行目「薪の燃える音もして」とあり(やはり「薪」の字はここのみ)、この「薪」には上記新潮社「日本詩人全集」版や岩波文庫版では『たきぎ』のルビを附してある。しかし乍ら、所持する、底本と同じく中原中也記念館館長中原豊氏の打ち込みになるベタの電子テクスト・データの「山羊の歌」(底本は復刻版「山羊の歌」昭四五(一九七〇)年麥書房刊)には、この「薪」にルビは入っていない。さればこそやはり確定出来ない

「燻つてゐる」「くすぶっている」(現代仮名遣)と読む。

「覓(もと)める」「求める」に同じい。]

秋の日   中原中也

 

    秋  の  日

 

 磧づたひの 竝樹の 蔭に

秋は 美し 女の 瞼(まぶた)

 泣きも いでなん 空の 潤(うる)み

昔の 馬の 蹄(ひづめ)の 音よ

 

 長の 年月 疲れの ために

國道 いゆけば 秋は 身に沁む

 なんでも ないてば なんでも ないに

木履の 音さへ 身に沁みる

 

 陽は今 磧の 半分に 射し

流れを 無形(むぎやう)の 筏は とほる

 野原は 向ふで 伏せつて ゐるが

 

連れだつ 友の お道化た 調子も

 不思議に 空氣に 溶け 込んで

秋は 案じる くちびる 結んで

 

[やぶちゃん注:「磧」「かはら」。河原。川辺の水が枯れて砂や石が多い場所。

「竝樹」「なみき」。並木。

「泣きも いでなん」「美し」い「秋」であるが、その「空」は「今にも泣き」出し「も」しそうに見える、雨を降り出させそうな「空」の比喩ではある。「女の 瞼(まぶた)」はその形容表現の反側的な配置であろう。しかし、この「女」はただの比喩ではなく、詩篇全体に「女」の影を詩想全体に及ぼすための、確信犯的な企(たくら)みと私は踏んでいる。

「長の」「ながの」。

「年月」「としつき」と読みたい。

「いゆけば」「い行けば」。「い」は語調を調える接頭語。

「なんでも ないてば」「てば」は「と言へば」の音変化したものが、係助詞風になったもの。相手の言葉を改めて話題として示す意。「何でもないと言おうなら、確かに」。

「なんでも ないに」「に」は接続助詞で逆接の確定条件。「何でもないのだけれども」。

「木履」「ぼくり」。通常は下駄を指す。ここも実際には主人公と「連れだ」って国道を歩いている男の「友の」「お道化た」「調子」の「カラン! コロン!」という、乾いた軽快にして滑稽な、その下駄の「音」が現実の音なのであろうが(だから副助詞「さへ」を用いているのである)、しかし、ここではまた、第一連で比喩表現で匂わされた「女」の感覚的イメージから、主に少女が用いた、材の底を刳(く)り抜いて後ろ側を丸くし、前の方は前のめりに仕立て、漆で黒や赤に塗った駒下駄(こまげた)の一種の「ぽっくり」「ぼっくり」の音をも、読む者の意識の中に響かせようとしているのではないか? と私は読みたくなるのである。

「流れを 無形(むぎやう)の 筏は とほる」「筏」は「いかだ」であるが、ここは実際に筏が通っているのでは、無論、ない。それは「無形の」「筏」=不可視の筏=漂泊する詩人の魂のようなものの換喩であろう。それは直下で「野原は 向ふで 伏せつて ゐるが」という擬人法を用いている辺りからも漂ってくるのである。

「秋は 案じる くちびる 結んで」――唇をむつかしく「ぎゅっつ」と結んで、あれこれと、男の詩人たち(この友もまた詩人であろう)を考えあぐまさせるのであるよ、「秋は」――と私は採る。その反側として艶っぽい「女」のイメージが詩の背後に潜んでいると私は採るのである。そも「秋」である。「淮南子(えなんじ)」(前漢の淮南王(わいなんおう)劉安の撰になる思想書。二十一編が現存する。道家・陰陽家・法家などの諸学派の説を総合的に記述編修輯したもの)の「繆稱訓(びゅうしょうくん)」に言う、「春女思、秋士悲、而知物化矣。」(春、女は思(かな)しみ、秋、男は悲しみ、而して「物化」(万物の無常の変化)を知る。)のである。]
 

冬の日の記憶   中原中也

 

    冬の日の記憶

 

晝、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、

夜になつて、急に死んだ。

 

次の朝は霜が降つた。

その子の兄が電報打ちに行つた。

 

夜になつても、母親は泣いた。

父親は、遠洋航海してゐた。

 

雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。

北風は往還を白くしてゐた。

 

つるべの音が偶々した時、

父親からの、返電が來た。

 

每日々々霜が降つた。

遠洋航海からはまだ歸れまい。

 

その後母親がどうしてゐるか……

電報打つた兄は、今日學校で叱られた。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇の創作は推定で昭和一〇(一九三五)年十二月とし、この死んだ子は四歳の『中也の次弟・亜郎』(つぐろう/通称/あろう)であり、従ってここに出る「兄」が長男であった中原中也自身であるとあり、『亜郎が亡くなったのは』大正四(一九一五)年一月九日で中也八歳の時であったという。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、この時、この次男亜郎の詩を悼んで歌(本詩篇ではない)を作っており、それが中也の最初の詩作であったとする。この詩はそういう意味で、中原中也にとっての近親者の死によるトラウマの起点であったと同時に、彼の文学的出発点でもあったということになろうか。

「父親は、遠洋航海してゐた」事実の文学的虚構。当時、父謙助は金沢の聯隊付から朝鮮の龍山(ヨンサン)(現在の大韓民国ソウル特別市中央部の漢江北岸にある龍山区。ソウル駅がある)聯隊陸軍医長に栄転し、前年大正三年三月から赴任しており、家族は同時に金沢から山口に戻っていた(謙助はその後、上司に申し出て、八月、家族のいる山口の衛戍病院長に転任して帰還した。因みにその二ヶ月後の十月、彼は中原家と養子縁組をし、中原家の戸主となり、ここで初めて中也は柏村から中原姓となったのであった。ここはウィキの「中原謙助に拠る)。

「つるべ」
「釣瓶」。井戸で水を汲み上げる際に用いる、繩・綱を取り付けた桶などの容器を狭義には指すが、後にはそれを引き上げる天秤状の釣瓶竿や滑車など機構全体を指すようになった。井戸は古来、死者の国としての黄泉(よみ)の国や冥界に通底する通路とされたから、ここでそれが何故か音を立てたというところには、民俗的なそうした意識が働いていることを見逃してはなるまい。

この小兒   中原中也

 

    こ の 小 兒

 

コボルト空に往交(ゆきか)へば、

野に

蒼白の

この小兒。

 

黑雲空にすぢ引けば、

この小兒

搾る淚は

銀の液……

 

     地球が二つに割れゝばいい、

     そして片方は洋行すればいい、

     すれば私はもう片方に腰掛けて

     靑空をばかり――

 

花崗の巖(いはほ)や

濱の空

み寺の屋根や

海の果て……

 

[やぶちゃん注:太字「もう片方」は原詩集では傍点「ヽ」。「この小兒」とは精霊「コボルト」(後注参照)の変じた長男文也を具体なイメージの一つとしながら、それが詩の半ばで詩人自身にグラデーションを以ってメタモルフォーゼするかのようである。角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜によれば、本篇は昭和一〇(一九三五)年六月発行の『文學界』に発表している。

「コボルト」(ドイツ語:Kobold:カタカナ音写:コォゥバァルドゥ)はドイツの民間伝承に由来する醜い悪戯好きの妖精或いは鉱山の地霊などの、精霊群を指す汎用名称。ウィキの「コボルト」より引く。『コボルトはドイツ語で邪な精霊を意味し、英語ではしばしばゴブリンと訳される』(Goblin。広く西欧で信じられている、森や洞窟に住むとされる醜い小人の姿をした悪戯好きの精霊の汎称。このドイツの「コボルト」の他、フランスでは「ゴブラン」(Gobelin)と呼んだりする。映画で有名になったグレムリン(gremlin)もゴブリンの一種である)。『最も一般的なイメージは、ときに手助けしてくれたりときにいたずらをするような家に住むこびとたちというものである。彼らはミルクや穀物などと引き替えに家事をしてくれたりもするが、贈り物をしないままだと』、『住人の人間にいたずらをして遊んだりもする。また、一度』、『贈り物をもらったコボルトはその家から出て行ってしまうと言われる。もうひとつあるコボルトのイメージは、坑道や地下に住み、ノームにより近い姿である』『金属元素コバルトの名はコボルトに由来する』が、これは『コバルト鉱物は冶金が困難なため』、十六『世紀頃のドイツでは、コボルトが坑夫を困らせるために魔法をかけて作った鉱物と信じられていたからである』とある。

「黑雲」「こくうん」「くろくも」孰れとも読める。因みに本詩篇の上の定位置に記された第一連・第四連は総てが初行と最終行の頭をカ行音で合わせてある。個人的には、次行の「この小兒」の「こ」と響き合わせて、独特の硬質感(後で地球が割れればいいといい、最終連に花崗岩が出る辺りも含め)を出したい気がするので「こくうん」と私は読みたい。

「そして片方は洋行すればいい」「すれば私はもう片方に腰掛けて」「靑空をばかり――」やや分かり難いが、厭世的詩人は言い放つ。『地球が二つに割れてしまえばいい、割れてしまったら、その一方はどこか遠い宇宙のどことなりへと旅立って(「洋行」)しまえばいい、旅だって俺独りになったなら、その一方は私の足下に残っている、そこで「私は」その片割れの半地球に徐ろに「腰掛けて」「靑空をばかり」眺めて居たい』というのである。さてもこれは私の偏愛する尾形龜之助の、あの詩集色ガラスの街」(大正一四(一九二五)年十一月惠風館刊。リンク先は私が二〇一四年に作った〈初版本バーチャル復刻版〉)の一篇、

   *

 

    不幸な夢

 

「空が海になる

私達の上の方に空がそのまま海になる

 ―― 

そんな日が來たら

 

そんな日が來たら笹の舟を澤山つくつて

仰向けに寢ころんで流してみたい

 

を私は直ちに想起する。

「花崗」「くわこう(かこう)」。花崗岩。以下、「濱の空」「み寺の屋根」「海の果て」と、かなり具体なロケーションが続くので、この第四連は特定の場所がイメージされていることは間違いないが、不詳。]

幼獸の歌   中原中也

 

    幼 獸 の 歌

 

黑い夜草深い野にあつて、

一匹の獸(けもの)が火消壺の中で

燧石を打つて、星を作つた。

冬を混ぜる 風が鳴つて。

 

獸はもはや、なんにも見なかつた。

カスタニエットと月光のほか

目覺ますことなき星を抱いて、

壺の中には冒瀆を迎へて。

 

雨後らしく思ひ出は一塊(いつくわい)となつて

風と肩を組み、波を打つた。

あゝ なまめかしい物語――

奴隷も王女と美しかれよ。

 

     卵殼もどきの貴公子の微笑と

     遲鈍な子供の白血球とは、

     それな獸を怖がらす。

 

黑い夜草深い野の中で、

一匹の獸の心は燻る。

黑い夜草深い野の中で――

太古は、獨語も美しかつた!……

 

[やぶちゃん注:太古の古代人幻想詩篇。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇は本『詩集の前の方に配されてい』るものの、創作時期は、没する前年の昭和一一(一九三六)年六月頃『と推測される』もので(中也二十九歳)、昭和一一(一九三六)年八月号の『四季』に発表されたもの、とある。

「黑い夜草深い野にあつて」現代仮名遣で「くろいよる//くさぶかい/のにあって」と読む。

「獸」これは獣類を指していないことは以下で火打石を打っていることからも判る。古代の野人の一人の成人の大人である。

「火消壺」「ひけしつぼ」。

「燧石」「ひうちいし」。

「カスタニエット」カスタネット(英語:castanet:英語をカタカナ音写するなら「キャスタネット」が近い)。元はスペイン語「castaña」(カスターニャ)で「クリの実」の意。形が似ていることに拠るといい、平凡社「世界大百科事典」によれば、実際に本来は原料にクリ材を用いるとあり、小学館「日本大百科全書」によれば、スペイン式カスタネットの起源は古代エジプトに溯るとある。古代エジプトの国家形成は紀元前三千年頃で、本邦では縄文時代中期から後期に当たる。本詩篇の幻想は本邦というよりは、この語の使用によって、一見、古代西洋的なニュアンスを感じさせるが、しかし、当時の縄文期も集落が大型化し、三内(さんない)丸山遺跡のような巨大集落が現われ、植林農法も進化して、それまでのドングリよりも、そのまま食べられるクリに変わって大規模化しているから(ここはウィキの「紀元前3千年紀に拠った)、これを私は繩文幻想と採りたい気が強くしている

「目覺ます」「めざます」。

「卵殼もどき」「らんかくもどき」。つるんとした傷一つない綺麗な(「貴公子」だから)の頰の形容。どことなく文弱な感じだが、それはそれで内在する貴種の力を思せる。それが知力は「遲鈍」であっても、やはり強靱なパワーを伏在させている野人の「子供」と対となると私は思う。

「白血球」は外敵を鋭く感知し、攻撃し、食い尽くすから、これはその古代の民の普通の「子供」の中に生得的に天賦されて内包されている、新たな世代の強靱な「血」=魂=霊力を換喩しているものと私は読む。

「それな獸を怖がらす」「な」は強調して念を押す間投助詞と採る。「それこそが」未だただの獣である常に力ある何者かに平伏す野人の大人を生理的に恐れさせる、の謂いと私は採る。

「燻る」「くすぶる」。

「獨語」「どくご」。しかし実は、そうした未だ野人の大人の、誰に言うでもないモノローグでさえも、既にして実はアニミスティクな呪的な超自然力を持った言霊(ことだま)なのであり、だからこそそれでさえも「美しかった!」のである。こういう、言葉が本来持っていたはずの呪的詩的パワーを我々は失って久しいのである。中也がこの詩で言いたかったのはそんな思いではなかったろうか? しかも、それでこそ、実はうわべだけでない、真正のダダイズム的詩篇として私は本詩篇を詠むのである。]

夏の夜   中原中也

 

    夏  の  夜

 

あゝ 疲れた胸の裡を

櫻色の 女が通る

女が通る。

 

夏の夜の水田(すゐでん)の滓、

怨恨は氣が遐くなる

――盆地を繞る山は巡るか?

 

裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、

開いた瞳は をいてきぼりだ、

霧の夜空は 高くて黑い。

 

霧の夜空は高くて黑い、

親の慈愛はどうしようもない、

――疲れた胸の裡(うち)を 花瓣が通る。

 

疲れた胸の裡を 花瓣が通る

ときどき銅鑼(ごんぐ)が著物に觸れて。

靄はきれいだけれども、暑い!

 

[やぶちゃん注:初行の「裡」にはルビがない。「水田(すゐでん)」の「ゐ」、「をいてきぼり」の「を」、はママ。

「滓」「おり」と読む。

「遐くなる」「とほくなる(とおくなる)」。「遠くなる」に同じい。

「繞る」「めぐる」。

「銅鑼(ごんぐ)」銅鑼(どら)。「ゴング(gong:マレー語語源の英語)」の当て読み。]

春の日の歌   中原中也

 

    

 

流(ながれ)よ、淡(あは)き 嬌羞よ、

ながれて ゆくか 空の國?

心も とほく 散らかりて、

ヱジプト煙草 たちまよふ。

 

流(ながれ)よ、冷たき 憂ひ祕め、

ながれて ゆくか 麓までも?

まだみぬ 顏の 不可思議の

咽喉(のんど)の みえる あたりまで……

 

午睡の 夢の ふくよかに、

野原の 空の 空のうへ?

うわあ うわあと 涕くなるか

 

黃色い 納屋や、白の倉、

水車の みえる 彼方(かなた)まで、

ながれ ながれて ゆくなるか?

 

[やぶちゃん注:「嬌羞」「けうしう(きょうしゅう)」と読み、原義は「女性の嬌(なまめ)かしい恥じらい」の意。

「午睡」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『ひるね』とルビするが、であれば、中也はルビを振ったであろう。響きからも私は「ごすい」と音で読みたい。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の電子化でも『ごすい』とされておられる。

「涕く」「なく」。]

春   中原中也

 

    

 

春は土と草とに新しい汗をかゝせる。

その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲る。

瓦屋根今朝不平がない、

長い校舍から合唱は空にあがる。

 

あゝ、しづかだしづかだ。

めぐり來た、これが今年の私の春だ。

むかし私の胸摶つた希望は今日を、

嚴めしい紺靑(こあを)となつて空から私に降りかゝる。

 

そして私は呆氣てしまふ、バカになつてしまふ

――藪かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?

藪かげの小川か銀か小波か?

 

大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに

一つの鈴をころばしてゐる、

一つの鈴を、ころばして見てゐる。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇の初出は、昭和四(一九二九)年九月号『生活者』とある。さても、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、まさにこの年の春四月、当時二十二歳になった中原中也を中心とし、河上徹太郎・大岡昇平・阿部六郎ら『九人の文学青年が、十円の同人費を持ち寄って』、同人雑誌『白痴群』を創刊している(誌名は『野心を持ちたくても持てない馬鹿の集りの意』ともある)。

「隲る」「のぼる」と読む。

「瓦屋根今朝不平がない」「かはらやね//けさ/ふへいがない」(斜線は切れを示し、二重斜線はより有意な切れを示す)と読んでおく。

「胸摶つた」「むねうつた(むねうった)」と読む。

「紺靑(こあを)」紫色を帯びた暗い青色(或いは「鮮やかな明るい藍色」とも表現できる)。但し、紺青は「こんじやう(こんじょう)」と読み、「こあを(こあお)」という読み方はしない。「こんあを」をこんな風には略さないから、ここは同じような濃い青色を意味する「濃青(こあを(こあお))」の読みを「紺靑」に韻律上から当て訓したものと私は採る。

「呆氣てしまふ」「ほうけてしまふ(ほうけてしまう)」。]

雨の日   中原中也

 

    雨  の  日

 

通りに雨は降りしきり、

家々の腰板古い。

もろもろの愚弄の眼(まなこ)は淑やかとなり、

わたくしは、花瓣の夢をみながら目を覺ます。

 

     *

 

鳶色の古刀の鞘よ、

舌あまりの幼な友達、

おまへの額は四角張つてた。

わたしはおまへを思ひ出す。

 

     *

 

鑢の音よ、だみ聲よ、

老い疲れたる胃袋よ、

雨の中にはとほく聞け、

やさしいやさしい唇を。

 

     *

 

煉瓦の色の憔心の

見え匿れする雨の空。

賢(さかし)い少女(をとめ)の黑髮と、

慈父の首(かうべ)と懷かしい……

 

[やぶちゃん注:これも幼年記憶の追幻想の一篇である。

「腰板」(こしいた)とは、建物の壁面の仕上げや構造が上部と下部で異なる場合の下部の壁面を「腰」と称し、その腰の部分に張られた板を「腰板」と称する。腰羽目(こしばめ:壁の下部に板を平らに張ったもの。「羽目」は当て字で動詞「塡(は)める」の連用形由来とされる)としてよく用いられ、壁の下部を保護するとともに意匠的意味を持つ。腰板の上部に「笠木(かさぎ)」を、下部に「添え木」を施すのが通例(小学館「日本大百科全書」他に拠った)。

「淑やか」「しとやか」と読む。

「古刀」音数律のリズムから見て「こたう(ことう)」と訓じていよう。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『刀』でこれなら「かたな」であるが、残念ながら、同書は本詩集「在りし日の歌」を底本としているから、ただの脱字である。

「舌あまり」舌が短くて一部の発音が上手くいかない「舌足らず」の反対で、舌が長過ぎるために同様の現象が起こる、そうした長い舌、などと、まことしやかにネット上に書かれてあるが、「舌足らず」は「舌が短いために発音がおかしいこと」の意ではなく、一部の発音が正常に出来ないことをかく言っているに過ぎない。「舌あまり」は恐らくその方言であろう(但し、「日本国語大辞典」には載らない)。

「鑢」「やすり」と読む。

「煉瓦の色の憔心の」「憔心」は「せうしん(しょうしん)」であるが、一般的な熟語ではない。「憔」は「憂い悩む」であるから「憔悴した心」の状態をさすとは読める。無論、ここは「見え匿れする雨の空」の眼前の暗く重い雨空の感覚的形容であり、謂わずもがな、同時に主人公の心象風景の反転画像である。]