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2018/05/06

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(37) 死者の支配(Ⅴ) /死者の支配~了

 

 恐らく支那の刑法の入つて來た前にも後にも――所謂明淸の法典で、將軍の下に、それに依つて國は治められて居たのであるが――國民の仝部は文字通り笞の下にあつたのである。普通の人民は極めて些細な罪のために殘酷な笞刑の罰を受けた。重大な犯罪に至つては、苛責して殺すのが普通の刑であつた。甚だしい野蠻な或は野蠻に近い刑罰に至つては、吾が中世紀に行はれたやうなもの名あつた――火刑、十字架、八裂き、生きながら油で煮ると云つたやうな類であつた。村民の生活を規定した文書には、法律上の規律のしさを示すやうなものがない。組帳に、かくかくの行爲は罰せらるべしとあるその宣言は、古の法典を知らない讀者には別に何の恐ろしさをも思はせないであらう。事實日本の法律上の文書の内にある『罰』といふ文字は、些少の罰金から、上は炮烙の刑[やぶちゃん注:ここは火刑、火あぶりの刑のこと。]に至るまでの、すべての刑をいふのである……。家康の時代に至るまで、爭ひを鎭壓するために用ひられた懲罰の證據は、一六一三年に日本へ來たカピタン・サリスの不思議な手紙の内に見られる。艦長は恁う書いた『七月の一日に、吾々の仲間の内の二人が互に爭を始め、野外に行きさうになつて(則ち決鬪を演じさうになつて)結局吾々のすべてのものを危險に陷れた。といふのは、怒つて刀を拔くものは、よしそれに依つて別に何等の害をも爲さなかつたとは言へ、そのものは直に切り裂かれる、そして少しの害でも爲せば、自分が死刑に處せられるのみならず、またそのものの全一族が同じ刑に處せられるのである……』『切り裂かれる』といふ事の文字上の意味を、艦長はその同じ手紙の内に、自分の目擊した死刑の事を語つで、その説明をして居る――

[やぶちゃん注:「カピタン・サリス」イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」の指揮官ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)。ウィキの「ジョン・セーリス」によれば、ロンドン生まれ。一六〇四年に『サー・ヘンリー・ミドルトン率いる東インド会社の東アジア方面第二次航海(Second Voyage)に参加し、ジャワのバンタンに赴く。一行が帰国後もバンタンに留まり、東インド会社の商務員として働』いた(後、帰国)。一六一一年四月十八日、日本との『通商を求めるイングランド国王ジェームズ』『世の国書を持って貿易船「クローブ号」』他二隻の船団長として』『ロンドンを出港』、一六一三年六月十日(慶長十八年四月二十二日)に『肥前国平戸に到着』(他の二隻は途中で帰還している)、『徳川家康より貿易を許可する朱印状を得て、平戸にイギリス商館を開設し、リチャード・コックスを商館長として残して帰国した』。『日本から帰国したのちはアジアに戻ることはなく、イギリスで暮らす。ロンドン市長を務めたサー・トーマス・キャンベルの孫娘アンと』一六一五年に『結婚したが』一六二二年に死別し、その二十一年後に『亡くなるまで』、『ロンドンのフルハムで静かに余生を送』った、とある。彼の航海日誌「ジョン・セーリス日本航海記」の自筆本が残されているが(東洋文庫所蔵・国重要文化財指定)、幸いなことに、その村川堅固による現代日本語訳「日本渡航記」(昭和一九(一九四四)年十一組(といちぐみ)出版部刊)が国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める(これは後にアーネスト・サトウが編集校注した“The voyage of Captain John Saris to Japan, 1613”である)以上に記された内輪の決闘未遂の一件は一六一三年七月一日(慶長十八年五月十四日相当。これらの航海日誌の日付はグレゴリオ暦であるから、本邦のパートは旧暦換算が必要)の平戸での条で、ここである。また、以下の引用に当たる部分も同じく平戸での、ここである。リンク先には注(原日誌の訳。八雲の原引用は原日誌のであることが判る)もある。是非、対照されて読まれたい。

 以下は底本では全体が一字下げで、前後に一行空けが施されてある。] 

 

 『八日[やぶちゃん注:一六一三年七月八日。慶長十八年五月二十一日。]に三人の日本人が死刑に處せられた、則ち男二人女一人。理由は恁うである。――女は甚だ宜ろしからざるものであつたが、(その夫は旅行して家に居なかつたので)二人の男を時を定めて自分の許に來るやうに極めた後に來た男は前の男を知らなかつたが、その定められた時刻より早く來たので、第一の男を見、怒つて、刀をぬき、ひどく二人を傷つけた――男の背筋を二つに切るほどに傷つけた。『然るに第一の者も自分のあかり[やぶちゃん注:「自分の身の証(あか)し」。と言ってもこいつも間男なんだから「あかし」も何もあったもんじゃなく、先の「航海記」の訳文を見限りでは、流石にそんなことは言っていないようだ。なお、原著は古い英語で読み難いものらしい。]を立てるために、刀を取つで、第二の者を切つた。往來ではこの爭を知つて、三人の者を捉へ、これを別處に置き、國王フオイン(松浦公法印の事[やぶちゃん注:元肥前国平戸藩初代藩主松浦鎮信(天文一八(一五四九)年~慶長一九(一六一四)年)。晩年に出家して法印にまで昇ったことから「式部卿法印」・「平戸法印」と呼ばれた。当時は藩主は孫の第三代藩主松浦隆信に譲っていたが、未だ満二十一であった彼の後見人として、事実上の藩政を仕切っていた。])にその事を知らし、人を以て王の意向を伺はした(それは國王の意志に依つて、人は死刑に處せられたのであつたから)、王は直に三人の首を切るやうにとの命を發した。それが行はれると、見て居た各人は(多くの島のが見て居たが)その死体の上に自分の刀の鋭さを試みて見るためにやつて來た。爲めにそれ等の人々の立ち去るまでに、三人は切れ切れに小さく人間の手程の大きさに切られてしまつた。――がそれでもまだそのままにはして置かれず、その切れ切れの屍を積み重ね、人々は刀の一打ちを以て、その幾個を切り得るかを試みるのであつた。その上で切れぎれの身體は棄てられ禽鳥の食ふにまかせられてしまつた』……。 

 

 言ふまでもなく、この場合、死刑は、爭をしたといふ犯罪よりもつと重大な理由のために命ぜられたのである、併し爭ひが固く禁じられ、嚴しく罰せられたのは事實である。

 下級の『慮外もの』を切り棄てる特權をもつて居たが、武家階級そのものも、そのもつて居た特權よりも遙かに酷しい規律に從はなければならなかつた。人の機嫌を害つた[やぶちゃん注:「そこなつた」。]やうな言葉或は顏附に對する罰、若しくは務を果たす際に陷つたる些細な過失に對する罰は、則ち死刑となる事もあつた。大抵の場合、侍は自分から自分に死刑を加へる事をゆるされて居た。則ち己を殺す權利は、特權と考へられて居たのである。併し短刀を深く左の脇腹に刺し、それからその刀身を徐に且つ確かりと[やぶちゃん注:「しつかりと」。]右の方へ引き、腸を悉く切り去るといふのは、普通の礎刑、則ち兩脇を突き通される罰と同じく確に殘虐なものである。 

 

 個人の生活の事に關する一切の事柄が、法律に依つて規定されて居たと丁度同樣に、個人の死に關する一切の事柄――個人の棺の性質、埋葬の費用、葬式の順序、墳墓の形等も規定されて居た。第七世紀に法律が發布されで、何人でも埋葬に不相應な費用をかけてはならぬといふ事になりつた。これ等の法律は、位置階級に從つてその葬式の費用を定めたのであつた。その後の布令は、棺の大きさと材料竝びに墳墓の廣さをきめた。第八世紀には、王侯より百姓に至るまであらゆる階級のために、葬式の細目が法令を以てきめられた。後代になつて、なほ別の法律及び法律の修正が、この問題の上に施された。併しいつも葬式の事に就いては、一般に立派にするといふ傾向があつたらしい――この傾向は甚だ強かつたので、幾代の間も奢侈禁制法の行はれたに拘らず、今日なほ社會の危險として存在して居る。これは死者に對する義務に就いての信仰、竝びにその信仰から生じた、一家を貧困に陷らしても、靈を重んじ、靈を悦ばさうとの願望のある事を考への内に置いて見れば、容易に了解される事である。 

 

 以上すでに道べた處の法律は、近代人の考へには、多くは暴政と見えるに相違ない。規定の内には吾々から見れば、異樣に殘酷と考へられるものもある。のみならず、かくの如き法律慣習の義務を避け免れる道は一つもないのである。それを果たし得なかつたものは、死ぬか或は流浪の身となるより外に道はなかつた。有無を言はぬ服從のみが生存の條件であつた。かくの如き規定の傾向は、自然[やぶちゃん注:ここには読点が必要。]精神上竝びに道德上の意見の相違を抑へ、個性を麻痺せしめ、一定不變の型にはまつた性格を作るにあつた。而してその實際の結果として、かくの如きものが得られたのである。今日に至るまで、日本人の考へは、みな依つて以てその祖先の考へが抑へつけられ制限さて居た、その古い型の跡を示して居る。さういふ型をつくるに與つて力のあつた――むしろ抑壓の下にさういふ型を結晶さした法律の事を知らなくては、日本人の心理を了解する事は不可能である。

 併しながらまた一方から言へば、この冷酷鐡の如き規律の倫理上に於ける効果は、言ふまでもなく勝れたものであつた。卽ちこれはつぎつぎ代々のものをして祖先の儉約を實行せしめたが、その強制は日本の非常な貧困といふ點から考へて正當な事とされたのである。この強制は生活費を引き下げ、それをして西洋人の考へから言つた必要缺くべからざるものといふ程度よりも、遙かに下らしめたのであつた。かくしてそれは節制、質素、經濟の念を養ひ、淸潔と、作法と、強健とを勵行した。而も――異樣な事實と考へられるが――それは人民を不幸に陷れはしなかつた。人民は自分達の困難のあつたに拘らず、世界を美しく見た。事實昔の生活の幸福は、古い日本の藝術の内に反映されて居た。それは丁度ギリシヤ生活の樂しさが、その名も知れない畫家の手になつた花瓶の意匠の間から、吾々に向つてなほ笑顏を呈して居るのと同じである。

 而してその説明は難しくはない。吾々はこの共生が只だ外から働かされたのでなく、實際内部から維持されたものである事を記憶しなければならない。日本人の規律は自ら進んで課したものであつた。人民は徐に自分自身の社會狀態を作り出したのである、そして法律はその狀態を保持したのである。則ち彼等日本人は、その法律を以て出來得る限り最上なるものと信じて居たのである。彼等はその法律が自分自身の道德上の經驗に立脚して居たといふ立派な理由から、それを出来得る限り最上のものと信じて居たのである。そして彼等はさういふ信仰を持つて居たが故に、大いにそれを忍び得たのである。宗教に依つてのみ、人々はかくの如き規律を受け、なほ且つ去勢者、臆病者に墮する事なくして居られ得たのである、日本人は未だ曾て去勢者臆病者には墮ちなかつた。克己服從を強いた所の傳統は、また勇氣を養ひ快活ならん事を強いたのであつた。統治者の權力は無制限であつた。ぞれはすべての死者の權力が統治者を支持して居たからである。ハアバアト・スペンサアは言つて居る『法律はその成文なると、不成文なるとを問はず、生ける者の上に於ける死者の統治を公式を以て示したものである。過去の時代がその性質を後に傳ヘ――身體上にも道德上にも――かくて現代の上に有して居るその力に加へて――また過去の時代が、習慣や、生活の樣式を後に傳へて以て現代の上に及ぼすその力に加へて――なほ一つの力がある。それは過去の時代が、口傳に依ち或は文書に依つて殘されたる、公共の行爲に對するその規定に依つて働きを爲す力である……。余はこれ等の眞實を力説する』と――なほ又スペンサアは恁う附加して言つて居る、――『それ等が默々の内に祖先禮拜を包含して居る事を示すために』と。人文の歴史中の他の法律にして、舊日本の法律以上に、スペンサアのこの説の眞なる事を示すものはあるまい。日本の法律は尤も明らかに『生ける者の上に及ぼす死者の支配を公式に示したものである』而して死者の手は重かつた。それは今日なほ生けるものの上に重くかかつて居る。
 

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