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2018/05/15

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(42) 佛教の渡來(Ⅴ) / 佛教の渡來~了

 

 一方、人民は何れの信條によつてその祖先を禮拜するも自由であつた。そして若し大多數の人が佛教祭典を選んだとすれば、その選擇は佛教が祖先祭祀に與へた特殊な情味ある魅力から來たものである。細目に至る事以外には、この兩祭式は殆ど異つたものではなかつた。而して古い孝順の思想と、新しい祖先禮拜と一緒になつた佛教の思想との間には、何等の爭ひもなかつたのである。佛教は、死者も讀經に依つて救はれ幸福になり得る、そして亡靈の慰めは多く食物供養に依つて獲られると教へた。亡靈には酒や肉を供へてはならなかつた。併し果物や、米や、菓子や、花や、香を以て、それを悦ばす事は至當な事であつた。その他、極めて粗末な供物でも、讀經の力で、天の神酒や美味に變はらせられた。併し特にこの新しい祖先祭祀が、一般に氣受け[やぶちゃん注:「きうけ」。「受け」に同じ。世間の人がそれに接した際に抱く気持ち。評判。]の良かつた所以のものは、それが古い祭祀の式には見られなかつた多くの美しい、心に感銘を與へるやうな慣習を包有してゐたと云ふ事實に依るのであつた。到る處で人々は直に死者の年每の訪れのために百八つの迎へ火を焚く事を知つた、藁で作つた、若しくは野菜などから作つた小さな人形を、靈に供へ、それで牛や馬の役をさせる事を知つた【註一】――又先祖の靈魂が海を越え冥土へ還るための亡靈の船(精エ靈船)を作る事を覺えた。それから又盆踊り、則ち死者の祭の踊りや、墓に白い提燈を懸け、家の門には彩つた提燈をつけ、訪れて來た死者の行きに歸りを照らすといふ習慣が作られた。

 

註一 茄子に木の切れを四本つけて足の形としたものが通例牛を表はし、同樣に胡瓜に足をつけたのが馬とされる……。人は昔ギリシヤで犧牲[やぶちゃん注:「いけにへ」。]をする場合、異樣な動物の代用物の用ひられた事を思ひ起す。則ちセベスに於けるアポロの禮拜の際、足や角をあらはすため、木切れをさした林檎が羊に代用されて供物とされた事がある。

註二 舞踊そのもの――見て極めて不思議に又面白い――は佛教よりも遙かに古いものである。併し佛教はそれを今述べた三日間續く祭の一つの附屬物とした。盆踊りを見た事のない人は日本の踊りの何を意味するかといふ事を了解し得ない、日本の踊りは通例云ふ踊りとは全然異つたものである、――何とも名狀しがたい古風な變なしかも面白いものである。私は踊り通す農夫を終夜[やぶちゃん注:「よもすがら」と訓じたい。]見て居た事が幾度もある。斷わつて置くが日本の踊り子は踊りはしない、只だ身體の姿勢をかへるのみである。併し百姓は踊るのである。

[やぶちゃん注「死者の年每の訪れのために百八つの迎へ火を焚く事を知つた」旧盆行事の一つである「百八燈(ひゃくはっとう)行事」。最も知られているのは、重要無形民俗文化財指定されている埼玉県児玉郡美里町(みさとまち)猪俣の堂前山(どうぜんやま)の尾根で行われる「猪俣百八燈」であろう。

[やぶちゃん注:「セベス」原文“Thebes”で、これは古代ギリシアにあったポリス(都市国家)の一つで、現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァに当たる「テーバイ」(ラテン文字転写:Thēbai)のこと。ウィキの「テーバイ」によれば、アテナイやスパルタと覇権を争った最有力の都市国家の一つで、精鋭を謳われた「神聖隊」の活躍も知られ、ギリシャ神話では「七つの門のテーバイ」として名高く、オイディプス伝説などの舞台となっている。位置はリンク先を参照されたい。

「盆踊り」「佛教よりも遙かに古いもの」小学館「日本大百科全書」の「盆踊り」を引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、下線は私が引いた)。『盆に踊る民俗芸能。祖霊、精霊を慰め、死者の世界にふたたび送り返すことを主眼とし、村落共同体の老若男女が盆踊り唄(うた)にのって集団で踊る。手踊、扇踊などあるが、歌は音頭取りがうたい、踊り手がはやす。太鼓、それに三味線、笛が加わることもある。古く日本人は旧暦の正月と七月は他界のものが来臨するときと考えた。正月は「ホトホト」「カセドリ」などいわゆる小(こ)正月の訪問者がこの世を祝福に訪れ、七月は祖霊が訪れるものとした。盆棚で祖霊を歓待したのち、無縁の精霊にもすそ分けの施しをし、子孫やこの世の人とともに楽しく踊ってあの世に帰ってもらうのである。こうした日本固有の精霊観に、仏教の盂蘭盆会』『が習合してより強固な年中行事に成長した。盆に念仏踊を踊る例もあるが、念仏踊は死者の成仏祈願に主眼があり、一般に盆踊りとは別個の認識にたつ』。『十五世紀初頭に伏見』『の即成院や』、『所々で踊ったという盆の「念仏躍(ねんぶつおどり)」「念仏拍物(ねんぶつはやしもの)」』(「看聞御記(かんもんぎょき)」の記載に拠る)『は、まだ』、『後の盆踊りというより』、『念仏の風流(ふりゅう)』(平安末期から中世にかけて流行した、祭礼などの際に行われる華やかな衣装の群舞や邌(ね)り物を主体とした芸能)『の色彩が濃いものであったが、同世紀末に昼は新薬師寺、夜は不空院の辻(つじ)で踊られたという「盆ノヲドリ」』(「春日権神主師淳記(かすがごんかんぬししじんき)」に拠る)『は盆踊りの色彩を強めたものであったろう。盆踊りはそのほか』、『伊勢(いせ)踊なども習合することになったらしいが、にぎやかで華やかな踊りで、異類異形の扮装(ふんそう)をしたとあり、まさに風流(ふりゅう)振りである。十六世紀中』頃『には小歌(こうた)風の盆踊り唄がつくられていた』(「蜷川家御状引付(にながわけごじょうひきつけ)」に拠る)。『江戸時代以降』、『いよいよ盛んになり、全国的にそれぞれの郷土色を発揮して、いまに行われている』。『今日みる異類異形の盆踊りには、鳥獣類の仮装はなく、秋田県の「西馬音内(にしもない)盆踊」のひこさ頭巾(ずきん)(彦佐頭巾、彦三頭巾とも書く)のように』、『覆面姿が多い。これは亡者の姿といい、また佐渡の「真野(まの)盆踊」のように石の地蔵を背負って踊るものもあり、人と精霊がともに踊ることに意義をみることができる。長野県阿南(あなん)町の「新野(にいの)盆踊」では、最終日に村境まで群行して踊って行き、そこで新盆(にいぼん)の家の切子灯籠(きりこどうろう)を燃やし、鉄砲を撃って踊り』、『神送りをする。精霊鎮送の形がよくわかるが、道を踊り流して歩く形は』『、徳島市の「阿波(あわ)踊」にもよく表れている。新盆の家々を回って踊る例もある』。『八重山』『列島では「盆のアンガマ」といって、老人姿の精霊仮装が出る』とある。なお、私の注附きの『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊』((最後の二回は合わせてある)を是非、読まれたい。小泉八雲の盆踊り初体験の幻想的感動がよく伝わってくる絶品である。]

 

 併し佛教の國民に對する最大の價値は恐らくその教育にあつた。由來神官は教育者ではなかつた。古い時代にあつては、彼等は多く貴族、則ち氏族の宗數上の代表者であつた、故に平民を教育するなどと云ふ觀念(かんがへ)は彼等には起りもしなかつたのである。然るに佛教は萬人に對して教育の利福を與へた――ただに宗教上の教育のみならず、支那の藝術や學問についての教育を與へた。寺院はやがて普通の學校となり、若しくは學校が寺院に附屬して出來た、而にてそれぞれ管内の寺で村の子供達は、ほんの名計りの費用で、佛教の教義、漢字の知識、手習ひ、繪畫、その他いろいろな事を教へられた。次第に次第に殆ど全國民の教育が佛教の僧侶の支配の下に置かれるやうになつた、そしてその道德上の効果は立派なものであつたのである。武人階級にとつては、素より別に特殊の教育法が存してゐたのであるが、併しさむらいの學者は、有名な佛教の僧侶の下にあつてその知識を完うする事を力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]。又皇室そのものが僧侶の侍講[やぶちゃん注:「じこう」皇帝や主君に対して学問を講じること。また、その人。]を聘用した。通常の人民にとつては、到る處で佛教の僧が學校の先生であつた、そしてその宗教上の役目のためからと共に、教師としてのその職業のために、佛僧はさむらいと同格に置かれたのであつた。日本人の性格に、その最も良い處として殘つてゐるものの多くは――その人を惹きつける優雅な點は―佛教の訓練の下に發達したものと考へられる。

 佛教の僧がその教師としての公務に加へて、公共の戸籍吏たる公務を行つたといふ事は、極めて自然な事であつた。所領奉還の時迄、佛教の僧は國中に宗教上竝びに公務上の役人をして居た。彼等は村の記錄簿を預り、必要に應じて、出生、死亡、或は系圖の證明書を交付したのである。

[やぶちゃん注:「所領奉還」原文は“disendowment”。これは「(教会や学校などの持つ)基本財産を没収する・基金を取り上げる」の意である。平井呈一氏は『寺領返上』と訳しておられるが、ピンとこない。江戸時代を通じて、「宗門人別改帳」は現在の戸籍原簿や租税台帳であった。改帳の作成自体は町村毎に名主・庄屋・町年寄が行うことになっていたが、そこには檀徒として属する寺院名が記載されており、これはその寺院がそれが正しいこと証明している点で、その寺が公的な準役人として機能していたことは明白である。さすれば、ここで八雲が言っているのは、そうした戸籍制度が維新によって「寺→藩→幕府」という戸籍の流れが廃されたこと、明治新政府が政治改革の一環として行った、全国の藩がその所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した「版籍奉還」(明治二年六月十七日(一八六九年七月二十五日勅許)のことを言っているのではるまいか?

 以下、一行空け。]

 

 佛教が日本に及ぼした夥しい文化の影響について少しでも正常な考を獲ん[やぶちゃん注:「えん」。得よう。]とする人には、恐らく非常に澤山の書册を要するであらう。唯一般的な事實を述べてその影響の諸〻の結果を概説するのさへ、殆ど不可能である――何故とならば概要の敍述では、爲し遂げられたその仕事の全體の眞相を明らかにし得ないからである。道德上の力として佛教は、その力に依り、もつと古い宗教が作り得たよりも、遙かに大きな希望と恐怖とを起さして、權威にさらに力を與へ、服從といふ事に人を教養したのである。教師として、それは倫理上に於いても審美上に於いても、日本人の最高のものから最下賤のもの迄を教育した。日本に於いて藝術といふ名の下に類別されるものは凡て、佛教に依つて移植れたか又は發達せしめられたものであつた、又神道の祝詞や古詩の斷片を除けば、眞に文學上の價値を有つて居る殆どあらゆる日本文學についても、同樣な事が云はれ得るのである。佛教は戲曲、詩的作物及び小説、歷史、哲學の高尚なるものを傳へた。日本人の生活の精華はすべて、佛數の傳へたもので、少くともその娯樂慰安の大部分はさうであつた。今日でさへ、この國で出來たものの内、興味ある物、又は美しい物にして、幾分でも佛教の力に負ふ處のないものは殆どないのである。恐らくこの恩惠の過程を述べる最善にして又最短の方法は、佛教に支那文化を全部日本に齎した、そして後にそれを日本人の要求に合ふやうに氣長に作り變へて行つたのであると言へば足りるであらう。この古い文化は日本の社會構造の上に只だ重ねられた計りでなく、うまくそれに適合せしめられ、完全にそれに結合させられたので、その繼ぎ目、接合線は、殆ど全く跡形[やぶちゃん注:「あとかた」。]を失つたのである。

 

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