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2018/05/08

北條九代記 卷第十二 渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆



      ○渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆

同四月に、後宇多〔の〕院より、大納言定房卿を勅使として、關東へ仰せ遣されけるは、「世の中の事共、小大となく當帝(たうてい)に任せ奉り、その身は早く世を遁ればや」とありしかば、高持、「子細にや及び候べき。兎も角も睿慮(えいりよ)に任せ給ふべし」と勅答致しけり。是に依(よつ)て、嵯峨野大覺寺に引籠り、閑居行道(ぎやうだう)の素懷を遂げ給ひしが、正中元年六月二十六日聖算五十八にて崩御し給ふ。蓮花峰寺(れんげぶじ)に葬送し奉りけるとかや。この比、攝津國の住人渡邊右衞門尉と云ふ者、野心を起し、鎌倉を背き、六澱羅の政道に隨はず、近隣を犯して、狼藉を致す。日比、治れる世の中とは云ひながら、上下困窮して、難義に及び、鎌倉には奢侈(しやし)を專(もつぱら)として、人の歎(なげき)を知らず、點役賦斂(てんやくふれん)を滋く行うて、奉行頭人(たうにん)、邪欲に陷りければ、怨(うらみ)を含む者、世に多しといへども、大身なるは愼みて色にも出さず、小身なるは力足(たら)ずして月日を送る所に、『あはれ、何事もあれかし、世、新(あらた)に、國改(あらたま)りて、緩(ゆるやか)なる時を待得ん』と思ふ族(やから)、爰彼處(ここかしこ)より集り、與力同心に叛逆を企てしかば、四、五百人にも及びけり。高時、卽ち、河内〔の〕國住人、楠多門(くすのきたもん)兵衞正成に仰せて對治せしむるに、不日(ふじつ)に伐平(うちたひら)げたり。これのみならず、紀伊國安田莊司(やすだのしやうじ)といふ者、逆心あり。楠正成、推寄(おしよせ)て攻干(せめほ)しければ、安田が領知を正成に與ふ。大和國越智四郎、謀叛(むほん)す、六波羅より軍兵を遣して、攻むれども叶はず。楠正成に仰せて、打亡(うちほろぼ)さる。皆、是、關東の政理、正しからず、上の勢(いきほひ)、盛にして、侈(おごり)を以て下を苦(くるし)め、德、磷(ひすろ)ぎ、威(ゐ)、輕(かろ)く、武命(ぶめい)を恐るゝ事を忘れ、只、私(わたくし)の遺恨を思ふ。是、未(いま)だ時を待つて、變を伺ふ事を知らず、機分(きぶん)の逸(はや)るに任せて、功を立てずして、滅亡せし、智略の至らざるこそ、淺ましけれ。

[やぶちゃん注:「同四月」前章冒頭の時制ならば、正しい。元亨元年で一三二一年である。

「大納言定房」吉田定房(文永一一(一二七四)年~延元三/暦応元(一三三八)年)。ウィキの「吉田定房」によれば、『早くから亀山上皇に仕え』、『その信任を得た』。正安三(一三〇一)年に『後二条天皇の即位で皇位が大覚寺統に戻ると』、『院評定衆及び伝奏に任ぜられて重用され』、徳治元(一三〇六)年には『後宇多上皇の院使として鎌倉へ派遣されている。また、後宇多上皇の子である尊治親王の乳父を務め』、文保二(一三一八)年に『親王が後醍醐天皇として即位すると側近として仕え、北畠親房、万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれた。その信任は後醍醐天皇の子である尊良親王の乳父を引き続き務めたほか』、後宇多法皇や後醍醐天皇が『定房の邸宅に行幸していることからも伺える。更に』、元亨元(一三二一)年には、ここに出る通り、『宇多法皇が院政を停止して後醍醐天皇が親政を行うことを鎌倉幕府に申し入れる使者として鎌倉に派遣され、幕府の了承を得ることに成功している』。後の正中元(一三二四)年の「正中の変」の際には、『後醍醐天皇の勅使として鎌倉に下向して、幕府に後醍醐天皇が無関係であると主張し、その後は討幕のための密議を行う後醍醐天皇を諌め』、元徳二(一三三〇)年六月二十一日、『後醍醐天皇から諸卿に対して意見を求められた際に』は、『定房は徳政の推進と倒幕を諌める意見書を提出し』ている。『醍醐寺三宝院に所蔵されていた文書の』一『つがその意見書(「吉田定房奏状」)の写しであると言われている』。「元弘の乱」の初期の、元弘元/元徳三(一三三一)年四月二十九日には、『二度目の討幕の密議』が行われたことを『六波羅探題に密告し、後醍醐天皇が隠岐に流された後に』は、『持明院統の後伏見上皇に請われ』、『院評定衆に加わっているが』、元弘三・正慶二(一三三三)年三月、『各地で発生している討幕の動きを鎮めるために後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を幕府に対して提出していること』、『鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においても後醍醐天皇に重用されている事などから、これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている』とある。『建武政権において』、『定房は内大臣や民部卿に任ぜられて恩賞方や雑訴決断所の頭人を任されるなど、要職を歴任した。だが』、延元元・建武三(一三三六)年に『建武政権は足利尊氏によって倒され、後醍醐天皇は同年暮れに吉野に逃れる。後醍醐天皇の吉野行きから半年余り後の』延元二・建武四(一三三七)年七月、『北朝では定房が吉野の南朝へ出奔したことを理由に民部卿を解官されているが、この間の経緯に関しては』、『一旦』、『北朝に仕えた後に南朝に出奔したとする考えと、後醍醐天皇の吉野行きに同行もしくは直後に天皇の後を追って吉野に向かったもので』、『解官は定房が南朝に仕えて京都に戻る見込みが無い現状の追認に過ぎないとする考えがある。同年』九『月に後醍醐天皇が吉野行宮で開いた賞月歌会に定房が参加して』おり、その和歌が「新葉和歌集」に『採録されている。だが、この歌会から』四『ヶ月後に吉野にて』六十五『歳の生涯を閉じ』ている、とある。

「當帝(たうてい)」言わずもがな、後醍醐天皇。

「嵯峨野大覺寺」現在の京都府京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗嵯峨山大覚寺(だいかくじ)。(グーグル・マップ・データ)。

「正中元年六月二十六日」日付は「二十五日」の誤り。一三二四年。元亨四年は十二月九日に正中に改元する。

「蓮花峰寺(れんげぶじ)」右京区北嵯峨朝原山町にある後宇多天皇蓮華峯寺陵。大覚寺の東北一キロメートル圏内にある。(グーグル・マップ・データ)。

「渡邊右衞門尉」摂津国渡辺から起こった嵯峨源氏流の渡辺党の一人、摂津国の要衝であった淀川河口付近を根城としていた。

「日比、治れる世の中とは云ひながら」増淵勝一氏は例の教育社新書で、『(その原因というのは)常日頃(表面は)治っている』ように見える『世の中とはいいながら』といった風に言葉を添えて訳しておられる。

「點役賦斂(てんやくふれん)」「點役」は古代末期から中世にかけて、田地を対象として賦課された臨時税の総称。本来は朝廷の特別行事・寺社造営などの費用捻出のための便法であったが、この後の室町中期以降になると、守護大名が領内の百姓に臨時に課す夫役・公事をいうようになった(本作が江戸期の著作である以上、以後に形成された実情であっても、それを押さえておく必要がある)。「賦斂」租税の(きっちりとした厳重な)取り立て。

「楠多門(くすのきたもん)兵衞正成」言わずと知れた大楠公、元河内の土豪であった楠木正成(?~延元元/建武三(一三三六)年)。元弘元/元徳三(一三三一)年に後醍醐天皇の召しに応じ、笠置山の行在所に参向、河内赤坂城にて挙兵し、六波羅勢の攻撃を防いだが、落城。翌年、千早城を築いて籠城し、幕府軍の猛攻に耐え、諸国の反幕勢力の挙兵を促した。建武中興の際その功により、河内・和泉の守護及び河内の国守に任ぜられた。建武二 (一三三五)年に足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと、新田義貞らとともにこれを討ち、一旦は撃退したが、翌年、尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際、摂津湊川にこれを迎撃して敗死した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「安田莊司(やすだのしやうじ)」湯浅氏。「安田」は「保田」とも書く。この一族のについては私は不詳であるが、日本兵法研究会会長家村楠木正成の初陣~攻守逆転の謀には、この時の安田攻略について、極めて詳細な記載が載る。

「越智四郎」大和国高市郡越智荘を支配した豪族。ウィキの「越智氏大和国によれば、『古代日本に存在した伊予国の豪族である物部姓越智氏と関係があるという説や河野氏の末裔説もあるが、実際は伊予国と同じ地名がある大和国に拠点を置いた源頼親(清和源氏の始祖である源経基の孫で源満仲の次男)の末裔という。家系図では出自説が複数あることもあって若干の混乱もあり、複数存在している。しかし、複数の家系図も源親家の末裔という点では共通している』。『鎌倉時代には大和国内の北部では興福寺の力が非常に強く、興福寺の寺僧である衆徒と春日大社の神人である国民が中心として分かれていた。南北朝時代には両方で南朝と北朝に分裂し、越智氏は「散在党」と呼ばれる首領として連合をまとめあげて勢力を拡大していった』とあるから、末裔はしっかり残ったわけだ。

「磷(ひすろ)ぎ」既出既注であるが、再掲しておく。「擦り切れて薄くなる」ことである。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意。

「機分(きぶん)」は「生まれつきの性質や才能・気質・器量」或いは「時の勢い・機運」の意であるが、ここは機の熟すを判ずるの沈着冷静さを欠いた前者(生来の気質)の謂いと採るべきであろう。]

 

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