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2018/05/11

譚海 卷之二 相州鎌倉賴朝公墓所薩摩侯修造の事

 

相州鎌倉賴朝公墓所薩摩侯修造の事

○安永八年夏、薩摩家、公儀へ願(ねがひ)ありて、相州鎌倉の郷(がう)右大將賴朝卿の墓所を修覆あり。石碑をたて墓誌など建られしなり。石工梓匠(いしくししやう)等數人薩州より下し、鎌倉へ下(くだ)し經營專らなり。此時の薩摩殿重豪(しげひで)朝臣と號す。彼(か)の家の先租賴朝卿なるゆゑかく結構ありと聞えたり。遺跡絶(たえ)て年代を歷(ふり)しに、再興めづらしき事也。又翌年品川の別邸に孟宗竹といふを植られたり、此竹琉球國の産にして冬月筍(たけのこ)を生ずるゆへかく名付たり。竹の𢌞(めぐ)り小口(こぐち)にて壹尺五六寸三尺に及べるもの也。りうきうより土を俵にして十萬俵とりよせられ、土手を築き植へられ、竹の子夥しく生(はえ)たりとぞ。又芝牛町(しばうしまち)に薩摩家の菩提寺あり、その寺の飯つぎ・湯とうまで、みな此(この)孟宗竹也。めしつぎ指渡(さしわたし)壹尺八寸あり、ふしは一重にて皮は甚だうすけれ共(ども)丸きまゝなり、内をば黑きうるしにてぬりたるもの也、みな薩摩より取(とり)よせられたるものなりとぞ。

[やぶちゃん注:これは私が「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」源賴朝墓」でも述べた通り、薩摩藩第八代藩主島津重豪が建てた供養塔というか、勝手に創り上げた偽物の墓である。諸本はそれ以前からの墳墓を「整備」したなどと称しているが、私はこれは一種のでっち上げに近い部類のトンデモ仕儀と考えている。だいたい、ちゃっかり、入口の扉や香には○に十の字の島津家の家紋さえ入れてあるのである。頼朝の真の墓所は、現在の頼朝墓に登って行く手前左側の公園になっているところに古えにあった法華堂という建物である(もともと原墓所には墓石などはなかった)。詳しくは、やはり私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」法華堂」及び、そこにリンクさせてある私の「新編鎌倉志卷之二」の電子化と注を参照されたい。この「頼朝の墓」の東方約八十メートルの、大倉山中腹には「やぐら」が三つ並んでおり、それぞれ「毛利季光の墓」・「大江広元の墓」(これらも偽物の可能性が高い。そもそも現在のような法華堂)及び島津忠久の墓(後述)となっているが、これらから「頼朝の墓」へのルートは、総て、島津重豪がこの時に一緒に整備したもので、「島津忠久」の墓自体が、この時に一緒に造立したものである。それについてはここに「彼(か)の家の先租賴朝卿なるゆゑかく結構あり」とある通り、島津家の祖とされる島津忠久(?~嘉禄三(一二二七)年)は鎌倉幕府御家人(当初は摂関家に仕える都の武者であったが、彼の実母丹後内侍(比企氏)が頼朝の乳母子であったことから頼朝に重用されるようになった。実父は官人惟宗広言(これむねのひろこと:養父か?)又はの摂関家藤原北家に仕えた武士で広言の同族の惟宗忠康かとされる)。初期は後に亡ぼされる母方の比企能員の配下にあった。従って、建仁三(一二〇三)年九月に北条氏が画策した謀略比企能員の変では縁者として連座となり、大隅・薩摩・日向の守護職を解任・没収されれいる。但し、事件当時、忠久は、守護として任地の大隅国で起こっていた寺院絡みの紛争解決のために当地へ出向いていて不在であった。その後は暫く在京していたと推定されるが、建暦三(一二一三)年二月、第三代代将軍実朝の学問所番として御家人に復帰している。彼には丹後内侍の産んだ頼朝落胤説があるが、これは頼朝を異様に崇敬した後の島津家自身が後に意識的に流言させたデマである。そのような事実は資料をひっくり返しても、微塵もない。しかし、まさにこの「頼朝の墓」の造立や始祖島津忠久の墓の造立(事実、忠久は鎌倉で没してはいる)から周辺の整備は、まさにそうした蜚語を現実化して、家康が崇敬した頼朝との関係を捏造し、外様としての島津家を闡明しようとする目的があった

「安永八年」一七七九年。

「梓匠」「梓」は「家具職人」で「匠」は「大工」。

「島津重豪」(延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)蘭癖大名として知られた薩摩藩第八代藩主。

「孟宗竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属モウソウチク Phyllostachys heterocycla。但し、ここでは「冬月」に「筍(たけのこ)を生ずる」とするが、実際には他のタケ類と変わらず、四月頃に生えるので、この叙述は不審ではある(後注参照)。ただ、ウィキの「モウソウチク」によれば、本種は『中国江南地方原産で』、『日本では栽培により』、『北海道函館以南に広く分布する』が、延暦二〇(八〇一)年に、現在の『京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から持ち帰った』とか、安貞二(一二二八)年に『曹洞宗の開祖・道元禅師が宋から持ち帰った、など諸説ある』ものの、『全国へ広まったのは薩摩藩による琉球王国経由の移入によってと考えられている。「南聘紀考 下」によると』、享保二一(一七三六)年三月に薩摩藩第四代藩主。島津吉貴(よしたか)が、『琉球在番として琉球行きを命じられた物頭野村勘兵衛良昌に孟宗竹を輸入するように命じ、勘兵衛は琉球滞在中に清より輸入』、元文三(一七三八)年に帰国した際、『吉貴のいる仙巌園』(通称の磯庭園で知られる)『に孟宗竹を献上したという』のは事実のようである(下線やぶちゃん)。

「冬月筍(たけのこ)を生ずるゆへかく名付たり」ウィキの「孟宗」によれば、中国三国時代の呉の出身の官人で、「二十四孝」の一人に数えられる孟宗(?~二七一年)が、『母が筍を好んだため、冬で筍が採れる季節ではない時、孟宗が竹林に入って哀嘆したところ、筍が生えてきたため』、『母に食べさせる事ができたという。これがモウソウチク(孟宗竹)の名前に孟宗が使われる由来とされる』とある故事に基づく。或いは、中国の呉の自然環境では早くに発芽したのかも知れない

「壹尺五六寸三尺」四十六~四十八センチメートルから九十一センチメートルほど。

「りうきう」「琉球」。

「芝牛町」正式名は芝車町(しばくるまちょう)。旧高輪牛町(たかなわうしまち)のこと。現在の東京都港区高輪二丁目内。附近(グーグル・マップ・データ)。この直近の現在の品川駅西南直近の「SHINAGAWA GOOS(シナガワグース)」の辺りには薩摩藩中屋敷があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「薩摩家の菩提寺」伊皿子にあった曹洞宗泉谷山大圓寺。中央附近(グーグル・マップ・データ)にあった。現在は杉並区和泉に移転している。

「飯つぎ」飯櫃(めしびつ)。おはち。

「湯とう」「湯桶」。湯を入れるのに用いる木製の器。桶(おけ)の形をしおり、注ぎ口と柄があって通常は漆塗り。湯注(ゆつ)ぎ。

「指渡」直径。

「壹尺八寸」五十四・五四センチメートル。]

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