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2018/05/01

御伽百物語卷之五 百鬼夜行

 

   百鬼夜行(きやぎやう)

 

Hyakkiyagyo

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを、左右合成し、上下左右の枠を除去し、清拭した。最初に断わっておくと、本篇は妖怪の「百鬼夜行」とはかなり異なる話柄である(確かに眷属の絵はカラステングなんだが……ネタバレを避けるために詳細は言わないが、それを過度に期待して読むと失望するので言い添えておく)。なお、本作は明代に王世貞によって書かれた武辺小説集「剣俠傳」中の「僧俠」の翻案であるが、それ自体が唐代段成式の撰になる伝奇小説集「酉陽雑俎」の巻九にある「盜俠」から引いたものである。「酉陽雑俎」俠」原文(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」)。現代日本語訳は、優れた中国文学サイト「寄暢園」の僧」がよい。]

 

 富田無敵とかやいひて、丹後より京都にのぼり、劍術の師をする人ありけり。術はもと陰流(かげりう)にして、烏戸大權現(うとだごんげん)、かりに顯はれ、僧慈音(じおん)といひしものに傳へ給ひたりし妙手なりとぞ。是れによりて德をしたひ、業(わざ)を羨みて門葉につらならん事を願ひ、祕受に預からん事を思ふ人も、すくなからず。日夜に一道の繁榮をあらはし、朝暮(てうぼ)、劍術の稽古、やむ事なかりしかば、これひとへに摩利支天・毘沙門の冥慮なりとおもひ、月に一たび宛(づゝ)は稽古のひまを窺ひ、日暮れてより、鞍馬に參詣し、夜(よ)の内に、僧正(そうしやう)が谷(たに)を經て、貴船(きふね)に下(くだ)り、夜あけにはかならず京なる宿に歸り着くを例の事とせり。

[やぶちゃん注:「陰流」室町時代の文明一五(一四三八)年頃に伊勢愛洲(あいす)氏の一族であった愛洲久忠(愛洲移香斎 享徳元(一四五二)年~天文七(一五三八)年)が編み出した武術の流派で兵法三大源流の一つ。「猿飛陰流」などとも呼ぶ。ウィキの「愛洲久忠」によれば、愛洲久忠は『室町・戦国時代の兵法家。陰流の始祖。伊勢国(現在の三重県)出身』で『惟孝』・『勝秀』『と書かれる場合もある』。『剣聖・上泉信綱は弟子と伝えるが、久忠の子・小七郎の弟子とする説もある』。『子孫である秋田県の平澤家』『に伝わる文書・『平澤家伝記』(久忠の』九『世孫・平澤通有の著)によると、本名は愛洲太郎久忠、また左衛門尉や日向守と称したという。移香斎は法名である。幼少より剣術の才能があったため、武者修行をもって生業とし、諸国を巡ったり』、『上洛したりしたと伝わる』。下川潮著「剣道の発達」(大正一四(一九二五)年刊)によれば、『「足利季世記 五」の「伊賀国に日置弾正忠豊秀と云者出来て、當流を射初め、故流の射形異形なりとて日本弓修行して江洲(滋賀県)に来り、佐々木高頼・同定頼二代に仕え弓の師と成り、入道して瑠璃光坊と号す。以徳遍く日本を廻り弓の弟子を尋ぬる、云々」とあるのが』、『彼の武者修業の初見としており、また』、『修業地域も近畿地方に限定されている』という。『平澤家が伝えていた「平沢氏家伝文書」によると、久忠は若い頃に九州や関東、明まで渡航したとい』い、三十六『歳のとき』、『日向国鵜戸の岩屋(現・宮崎県日南市鵜戸村)に参籠して霊験により開眼し、陰流を開いた。晩年は日向守と称し日向に住』み、『家は子の小七郎宗通(元香斎)が継いだ』とする。『一方』、『日向国鵜戸の修行について、秋田市の武道史家・青柳武明は「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」』(『歴史公論』昭和一〇(一九三五)年十月号・収録)『のなかで』、『新陰流外の伝えであって』、『信用に足りないとし、尾張柳生流の柳生厳長は』「剣道八講」(島津書房・一九九八年)では、『正統伝書にないとして』、『これを否定している』とある。『小七郎宗通は』永禄七(一五六四)年に『常陸の佐竹義重に仕え』、天正三(一五七五)年に『猿飛陰流と流派を改名したともいわれる。ただし、平澤家の文書では陰流となっているようである』。『一説には久忠は若いときに各地へ渡航し、明にまで行ったとされる。このことに対し』、「武芸流派大事典」(綿谷雪編・昭和五三(一九七八)年)では、『海外での貿易・略奪にかかわるものではないかとしている。また、久忠の出身とみられる伊勢愛洲氏がこれに従事したと考えられるため』、『久忠も関係があったとされている。また』、『晩年の日向に住んだことについて、綿谷』氏は「武芸小伝」(昭和四六(一九七一)年で『鵜戸明神神職になったことを意味するのでは』、『としている』とある。

「烏戸大權現、かりに顯はれ、僧慈音(じおん)といひしものに傳へ給ひたりし妙手なりとぞ」現在の宮崎県日南市宮浦にある、日向灘に小さく突き出した鵜戸﨑に、海幸彦・山幸彦伝承が残されている鵜戸神宮があるが(主祭神は、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと:山幸彦)と海神の娘豊玉姫の間にできた日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。珍しく私は行ったことがある)、この神社は、足利時代、日本最初の剣豪とされた相馬四郎義元(正平五/観応元(一三五〇)年?~?:法名「慈恩」)が「念流」を、また、愛州移香が「陰流」を、孰れもこの地において創始したと伝えられており、そのため、「日本剣法発祥乃聖地」と呼ばれている。サイト「発祥地コレクション」のこちらを見られたい。ウィキの「念阿弥慈恩」によれば、『日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客、禅僧。剣術流派の源流のひとつである念流の始祖とされる。俗名、相馬四郎、諱は義元。法名、奥山慈恩または念阿上人』。『奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、相馬左衛門尉忠重の子。弟に赤松三首座がいる。父忠重は新田義貞に仕えて戦功があったといわれるが、義元が』五『歳の時に殺され、乳母に匿われた義元は武州今宿に隠棲した』。七『歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられる。念阿弥は父の敵討ちをめざして剣の修行を積み』、十『歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったという』。十六『歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かった。さらに正平二三/応安元(一三六八)年五月には『筑紫・安楽寺での修行において』、『剣の奥義を感得した。このとき』、未だ十八歳で、『京の鞍馬山で修行したことから、「奥山念流」あるいは「判官流」といい、また、鎌倉で秘伝を授かったことから「鎌倉念流」ともいう』。その後、『念阿弥は還俗し』、『相馬四郎義元と名乗り、奥州に帰郷して』、『首尾良く』、『父の仇敵を討つと』、『再び禅門に入り、名を慈恩と改めた。こののち』、『諸国を巡って剣法を教え、晩年の』応永一五(一四〇八)年に『信州波合村(後の浪合村、現阿智村浪合)に長福寺を建立、念大和尚と称した』。彼の門人に「猿御前」という人物がおり、その人物が「陰流」を創始したとするようであるが、この「猿御前」は正体不詳で、通常、既に述べた通り、『陰流開祖は愛洲久忠とされており』、この『猿御前との関係は不明である』といった叙述が記されている。]

 

 比(ころ)は元祿十年の秋八月十四日の暮れ、月のおもしろきにいざなはれて、例の參詣をおもひたち、二條堀河なる家を出て、暮かたよりと、心かけゝるに、遁れざる用の事さしつどひ、初夜のかねとゝもに、只ひとり、北をさして行くに、月は、はなやかにひかりをおしまず、東の峰をわけ、弓杖(ゆんづえ)二たけばかりもや、さしのぼりけん。あすの夜をこよひになしてとなげきしは、小町がねがひなりしぞかし。そのよは、いかばかり、雲おほひけん、けふの今宵にあはましかは、などゝ思ふにつけて、

 

 月みればなれぬる秋もこひしきに

     われをばたれかおもひいづらん

 

などいへる古きながめさへ、おもひつゞけられつゝ行くほどに、車坂(くるまざか)のほとり迄は、いつとなく來たり。

『誠に世はなれたる人の、山ふかく入りすみて、泉を枕にし石に口そゝぎなど、明(あく)れば雲鳥(くもとり)の心なき交りをながめ、暮れて月のくまなきにうそぶきしとかいひ傳へしも、かく里遠く、山ふかきかたの、ものさびてしづかなるをぞ愛したりけん。』

と、そこら見まはせば、木草のたゝずまひも、人の作ると心なしに、木だち、茂りあひ、谷の水音、ほそくひゞきわたるに、蟲の音(ね)、所せくうちあはせたるは、世のさはがしきよりは、心すみて、おろかなる袂をもしぼるべく、こしかたの事もさりげなくしたはしくて、

「そなたの空よ。」

と見あぐれば、蛾媚山の月の秋にあらねど、半輪(はんりん)にくだけたるか、あかあかと峯の木ずゑをぞ照らすなる。

[やぶちゃん注:和歌は前後を一行あけ、ブラウザの不具合を考え、上句と下句を分離させた。この歌(叙述上は古人の歌とする)は不詳。識者の御教授を乞う。

「元祿十年の秋八月十四日」グレゴリオ暦一六九七年九月二十八日。

「二條堀河」現在の二条城の東直近。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「初夜のかね」「寝よとの鐘」とも言った。人々に寝る時刻であることを知らせる鐘。亥の刻、午後十時頃に寺で打った。

「弓杖(ゆんづえ)二たけ」「弓杖」は弓を杖代わりにすること。「二たけ」がよく判らぬが、七尺三寸(約二メートル二十一センチ)の弓を「並寸」と称し、そこから二寸(約六センチ)長い弓を「伸び寸」と言うことから、七尺五寸(約二メートル二十七センチ)の高さの弓のことを指すか。識者の御教授を乞う。

「車坂」現在の京都府京都市北区西賀茂中島町のこの附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「人の作ると心なしに」よく判らぬが、人が、わざとらしく、あざとく植え込んだりしたのではない、自然が無心に造化した、の謂いか。]

 

 先づ高山(かうざん)を照らすとかや佛のおしへのむねをさへ觀(くわん)じそへて行くに、我よりさきへ、たゞ一人、行くものあり。

『こはいかに。今まで、我のみ、此道をわくると思ふに、あやし。』

とさしのぞきて見れば、世すて人と見えて、墨の衣のいとやつれたるを、すそ短かにからげ、種子(しゆじ)とかやいふめる袈裟念珠と共に首にかけたるが、旅のすがたにもあらで、

『是れも、よのつねのまじらひにまぎれ、遠かなる里に逮夜(たいや)の説法などつとめたるが、月にうそぶきつゝ山へかへるなるべし。』

とおもふに、此僧、たかだかと聲うちあげて、

「如日月光明能除諸幽冥(によじつげつくわうのふじよしよゆうめう)。」

と打ち誦(ず)したるが、たふとくおぼえて、無敵(むてき)、はしり近づき、道すがらの友とかたらひけるに、僧も心をく氣色なく、うちとけて語りつゝ、ともに鞍馬寺にまふでたり。

[やぶちゃん注:「如日月光明能除諸幽冥」「法華経で説かれた菩薩の姿の表現で、

如日月光明能除諸幽冥 斯人行世間能滅衆生闇

(日月の光明の諸(もろもろ)の幽冥を能(よ)く除くがごとく、斯(こ)の人、世間に行(ぎやう)じて能く衆生の闇を滅す)

「太陽や月の光が、暗い所を遍く除くがごとく、修行者は、これ、それぞれの立場を以って衆生の闇を照らす」の意。]

 

 扨、心ゆくばかり念誦も終はりければ、別れて例の僧正が谷にとおもふに、此僧、なごり惜しげに無敵が袖をひかへ、

「不圖(ふと)したる道づれより、なかなかおもしろき人にも出あひたるかなと思へば、何となく名殘りこそおしけれ。足下には武道の譽(ほまれ)をあらはし給ふべき相のおはしますなり。我が庵(いほ)は此山陰にあり、くるしかるまじくば、しばしおはせよ。猶問ひまいらせたき事もあり。」

など、馴々しくかたるに、無敵も心とけて、

「さらば、步み行き給へ。我も月にうかれつる身ぞかし。ともに庵の月見ん。」

などたはぶれて、もとの道にくだるに、僧は大門をおりて、少し北へすゝみゆく。

 無敵も尻にたちてあゆみけるに、とある家のうしろより、鞍馬川を渡り、細き道しばをふみわけて、また山ふかく入る也けり。

「こはいかにぞや。」

と、心もとなくて問ひけるに、

「たゞこゝぞ。」

とばかりいひて委しくいはず。

[やぶちゃん注:「僧正が谷」鞍馬山の北西、貴船神社との間にある谷で、牛若丸が大天狗(鞍馬天狗)より武術を習って修行したと伝えられる地。ここ(グーグル・マップ・データ)。私も珍しく妻とこの山越えをしたことがある。]

 

 なを山ふかく道もなき方に分け入りけるに、無敵、いよいよ不審晴れがたく、

『何(いか)さま、是れは只ものにあらじ。當山の天狗の我が膽氣(たんき)をためすか、又は山賊の糧に飢へて、伐り取りの場にたぶらかし行くなるべし。おのれ、何にもせよ、餘(あま)さじもの。』

と、懷より「彈丸(だんぐわん)」といふ物を取りいだし、彼の僧の頭のはち、碎けよ、と打ちかけしに、此僧、事もなげなる氣色して、しとしとと步み行く程に、

『慥(たしか)にねらひたりとおもふが中(あた)らざりけるよ。』

と、無念さ、勝りて、

「ひた。」

と、續けうちに同じ坪(つぼ)を打ちて、すでに彈丸の數(かず)、五たびにおよぶ時、此僧、手をあげて、首自筋をさすり、ふりかへりていふやう、

「さのみ、な邪興(じやけう)したまひそ。」

と、尋常(よのつめ)の詞つかひに、無敵も興をさまし、

『扨は名におふ僧正坊とかやいふめる天狗御ざんなれ、いかにもして一道の奧義を學びてん。』

とおもふ心になりて、其後は手むかひもせず、只、心中に摩利支天の冗(じゆ)をとなへつゝ行きける所に、とある山あひの、木立、殊に茂りあひたる中(なか)より、炬火(たいまつ)のひかり、數多(あまた)むらがりて、こなたにむかひあゆみ來たるを、

『あれは、いかに。』

と見るに、彼の僧を迎ひに出でたるなりけり、いづれも究竟(くつきやう)の男どもにて素襖(すあう)の肩、しぼりあげ、袴のくゝり、高く結ひたるが、數十人、敬ひたる體(てい)にて、みなみな、僧の前に跪座(かしこまり)ける時、僧、この無敵を指さし、

「此御客は、吾がため、本走(ほんさう)すべき事あるが故、かく導き申しつる也。みな、御供つかまつれ。」

と、前後うちかこませて、此並木の中を行く事、十町[やぶちゃん注:一キロ九十一メートルほど。]ばかりして、大きなる屋敷に着きたり。

[やぶちゃん注:「彈丸」小鳥などを捕らえるために「はじき弓」につけて飛ばしたたま。はじきだま。中国古代から用いられた。ここは恐らく鉄製のかなり大きなものであろう。

「さのみ、な邪興(じやけう)したまひそ。」そのような、馬鹿馬鹿しいお遊びはお止めなされよ。

「摩利支天仏の守護神である四王天(持国天・増長天・広目天・多聞天)配下の護法善神の一神。詳しい名数は私の「北條九代記 賴朝腰越に出づる 付榎嶋辨才天」の私の注を参照されたい。

「究竟」ここは「屈強」の意。

「素襖」(現代仮名遣「すおう」)は素袍とも書く。平凡社「世界大百科事典」によれば、室町時代に直垂(ひたたれ)から派生した垂領(たりくび)の上下二部式の衣服で、専ら武士が常服として用いた。形は直垂と殆んど同じで、地質は麻。普通は背及び袖つけのところに家紋を附ける。一名「革緒(かわお)の直垂」とも称した。これは胸紐や菊綴(きくとじ:和服の飾りの一種で、袖付け或いは襟付けの縫合せ目の綻(ほころ)びを防ぐために要所に組紐を通して結び、紐の余りを捌いて菊の花の形に似せたものを指す。激しい動作を予期して着用する衣服(水干・直垂・素襖などに施された)が革で出来ているからで、服装の格からは、直垂や大紋(だいもん)よりも一段低く、江戸時代には無位無官で将軍御目見以上の平士・陪臣の礼装であった。

「本走」奔走。]

 

 そのさま、大國(たいこく)の守(かみ)にひとしき住居(すまゐ)して、僧は、やがて、此あるじと見えたるが、先づ入りて、無敵を稱じいれ[やぶちゃん注:呼び入れ。「招じ入れ」。]、上座(かみざ)になをし、後(うしろ)なる屛風、すこしおしのけしを見かへせば、美しき女房の、年ごろ、十八、九ばかりなるが、二、三人、居ならひを[やぶちゃん注:「居ならびしを」の脱字か。或いは「居ならぶを」か。]、

「今宵の客人(まれびと)はくるしからぬ御(お)かたぞや。出でてもてなし參らせ給へ。奥は、いまだ寐ね給ずや。」

と、さしのぞく。是れ、此僧が妻と見えて、一間(ひとま)へだたる方(かた)に、三尺の几帳(きちやう)、一よろひに、屛風、引(ひき)そへたるを、やおらおしたゝみて、木丁(きてう)[やぶちゃん注:几帳。]のかたひら、半(なかば)しぼり、あげたれば、女は、ものふかく思ひわづらひたる體(てい)にて机(おしまつき)[やぶちゃん注:脇息(きょうそく)のこと。]によりかゝり、何やらん、手まさぐりして居たるが、無敵が方を少し見おこせて、淚をおしのごひ、しばしためららひたるを、僧のひたすらにすかし招きける程に、すこしこなたさまに、いざりよりつゝ、うちそばみて居たるは、此僧の妻なるべしと心得らるれど、いかにぞや、といぶかしき折ふし、僧、かさねて無敵に語りけるは、

「愚僧は、もと、此谷に住みて年久しく山賊強盜を業(わざ)とする身なり。さるによりて、日夜に我も此やつれたる僧の姿に本心を僞り隱し、ある時は都に出で、ある時は丹波・若狹・江州の地をふみ、おほくの旅客(たびゞと)または女子(によし)、富貴(ふつき)の家の若年(じやくねん)などをあざむきつれて、衣服・太刀・かたな、何によらず、剝取(はぎと)り、奪(うばひ)ひとりて、身命(しんめう)の糧(かえ)とす。今、吾、君をともなひ來たりしも、元來、その心ばせなりつれども、君が武勇、人に超へ、あつぱれの手きゝなるが故、惡念をひるがへし、今宵は、もろともに、月を翫(もてあそ)ぶの友とせんとおもふ也。恐らく、我なればこそ、命をたもちつれ、尋常の人、君が武勇に逢ひなば、よもや、命を全くする者、あらじ。今は心をゆるし給へ。我もまた、君を害する心なし。前に君が打ち給ひし彈丸、ことごとくこゝにあり。すは、返し參らするぞ。」

と、手をあげて、首筋を拂ふよ、とおもへば、彼(か)の最前打ちかけたる彈丸、五つともに、

「ばらばら。」

と出でたり。

 無敵、是れを見て大きに驚き、

「扨は。ことごとくあたりけるよな。然らば、この彈丸、よもや和僧の腦を疵つけずしてあらんや。今、僧の頭(かしら)を見るに、一處(ひとゝころ)も疵なきは、いかに。」

といふに、又、こたへけるは、

「我、もとより、請身(うけみ)[やぶちゃん注:受け身。]に妙を得たり。劍術、また、人に超へたるがゆへに、終に一度も疵をかうぶる事、なし。」

とかたりて後、ほどなく、料理出來たるよしにて、膳部を持ち出で、無敵が居たる前より、次第にすゑならべて、數十膳、はこび据へたり。

 押しつゞきて、此おくの間より、衣服、美を盡くして着かざり、直垂に大口(おほくち)[やぶちゃん注:「大口袴」(おおくちばかま)。裾の口が大きい下袴で、平安以降、公家が束帯の際に表袴(うえのはかま)の下に用いた。紅又は白の生絹(すずし)・平絹(ひらぎぬ)・張り帛(はく)などで仕立てた。鎌倉以後は武士が直垂や狩衣などの下に用いた。]したる男、數十人、出できたり、みなみな、膳につきて居ながれたるを、僧、また此人らに引き合せていはく、

「是れ、みな、我が黨の義弟ども也。汝ら、この客人(まれびと)に武勇をあやかるべし。知らずして、若し、我がごとく此人に出合ひたらましかば、定めて、今ほどは手と足と所をかへて、骨は狼の腹にあるべきぞ。隨分と、もてなし候へ。」

といひつけ、酒、二、三こん、まはり、興趣やゝすゝみける比(ころ)、僧、また、無敵に語りけるは、

「我、最前もいひしやうに、此業をつとむる事、四十年に過ぎたり。今、我、年老ひ、ちから、撓(たゆ)みたれば、向後(けうこう)は、此みちを止めて、後生の罪もおそろしくおもへば、一遍のつとめ[やぶちゃん注:回向。出家して仏門に入ること。]もなさばや、とおもふ也。されば、我に一子あり。劍術・請身・輕業、みな、我よりは勝りたりと覺ゆ。しかしながら、我、つくづく思ふにかゝる事を業とせんは、人たるものゝ道にそむけり。然れども、我、年ごろ、此みちに長じける事は、昔往(そのかみ)、何某(なにがし)と名乘りて、仕官せし比(ころ)、さる子細ありて劍術の妬(ねたみ)と號(がう)し、我を恨みける人ありしを、返討(かへりうち)ちして、立退きたる身なりければ、世渡る便(たより)なくて飢に及べども、二たび出て、仕ふべき奉公もなりがたく、心より發(おこ)らざる盜人となりたり。世忰(せがれ)は、又、人の知りたるにもあらねば、何方(いづかた)にも出(だ)し、あはれ、武藝の家をも發させてんとおもふに、惡事にはすゝみやすく、盜賊のかたに、ひたすら鍛練し、なかなか我が手にも及びがたく、恐しきもの也。今、君が手を假(かり)て彼(か)のわつぱを手討ちにせばやとおもひ侍る也。此事、君ならで賴むべき器量の人、なし。」

と、二心(ふたごゝろ)なげにいひければ、無敵も、

「實(げ)に。世、はなれ、跡を隱しても、身を全くし、時節を待つとならば、誰(たれ)もかくこそ有るべけれ。さすが、武士たるものゝ世に零落(おちぶれ)たりとて、賤(いやし)きものゝ業(わざ)もならねば、辻伐(つじぎり)・追剝などもするならひなるを、其(その)子として、此道を好きたしなまんは、又、人の道にあらず。足下(そこ)の心ざし、さこそと察したれば、如何樣とも御心に任すべし。」

と請合(うけあ)ひける程に、僧も世に嬉しげにうちゑみ、扨(さて)、

「林八、林八。」

と呼びしに、答へして出でるものを見るに、年のほど、いまだ、十六、七には過ぎずと見ゆるが、髮かたち・物ごし・手足のはづれまで、美しく、白くあぶら付きたる事、玉をきざみて人にしたるやうにおぼえて、無敵も、人しれず、心をうごかす斗(ばかり)なり。餘りたえかねけるまゝに、

「此器量ありて、殊に劍術の妙に得たらん人を、いかにおもふやうならずとて、我にあつらへ、殺さしめんとは、心底の程、はかりがたし。他人の身としてだに惜しまるゝを、まして、父の身なり。實(じつ)に憎みて殺さんとおもはゞ、惡の道をいかゞせんとか、おもひ給ふ。」

といふに、僧、わらひて、何とも答へず、

「只、殺し給へ。」

とばかりいひける内、はや、無敵が前に、彼(か)の彈丸五つと、二尺ばかりなる腰のものを指出(さしい)だし、扨、林八を招きていはく、

「汝、この客人(まれびと)に御相手となり、隨分と身を遁れよ。自(おの)れ、仕損ぜば、恥なるべし。」

といひ付け、兩人をつれて纔かなる一間に入れ、外より鎖(でう)をおろしたる音す。

 その内は、たゞ二間四面の板敷にして、四方に聖行灯(ひじりあんどう)といふ物をかけたるばかりなり。

[やぶちゃん注:「二間四面」三メートル六十四センチ四方。

「聖行灯(ひじりあんどう)」掛け行灯の一種。料亭や旅館のエントランスなどで今も見かける。高野聖の笈の形に似ているところからとも、また、聖窓(箱形の格子付きの出窓。江戸時代、町屋の入り口の脇或いは遊郭の局見世(つぼねみせ)などに設けた)に掛けたところからとも言う。「ひじりあんどん」とも称する。]

 

 林八は、手に馬の鞭一本を取りたるばかりにして、刃物をもたず。

 無敵は、あまり心やすき事におもひ、常に鍛練せし彈丸をもつて、只、一ひしぎに、と打ちかくるに、鞭をあげて、あやまたず、敲き落し、そのまゝ飛びあがりて、たちまち、梁のうへにあり。

『こは。いかに。』

と、

「はた。」

と打てば、飛びちがへて、無敵が後(うしろ)にあり。

 拂へば、前、くゝれば、右手(めて)、あるひは、戸のさんを走り、鴨居に立ち、壁をつたふ事、蜘(くも)よりもはやく、手もとにも、眼(まなこ)にも、遮りとゞむべきためらひもなければ、徒(いたづら)に、五つの彈丸、ことごとく打ちつくし、今は腰の物をぬいて飛びかゝり、

『眞(ま)二つに。』

「丁(てう)。」

と討つを、鞭に請けて、はらふ事、さながら神か鬼か。

 通力を得たる人のごとく、無敵が身をはなるゝ事、纔かに二尺にたらずして、付きめぐるに、幾度か手を盡し、切れども、突けども、只、鞭にあひしらはれて、いさゝかの疵をだに見ず。

 無敵も、あまり、機(き)をのまれ、いきほひぬけて、十死一生に極め、富田(とんだ)一流の極意、四目刀(がたな)四重劍(ぢうけん)より、飛ぶ當(あて)みの高上(かうしやう)迄も、心をつくし、祕術をくだき、縱橫無盡に働きけれども、なかなか薄手の一つをも、おほせず。

[やぶちゃん注:「富田(とんだ)」「流」現行では富田流(とだりゅう)と読む。中条流から派生した剣術の一派。ウィキの「富田流」によれば、『越前国(福井県)において朝倉家に仕える富田勢源(とだせいげん)が創始した剣術。富田重政(富田越後守)らによって広まった。小太刀術で非常に有名な流派であり、その点のみが知られているが、実際は戦国期の流派でもあることから、薙刀術や槍術、棒術、定寸の打刀、三尺を超える大太刀等も含まれており、柔術も含まれていたとの説もある。ただし、富田家は「中条流」を名乗っており、富田流の流れを汲む流派で中条流を名乗っていることが少なくない』。『目が不自由でありながらも』、『小太刀術の達人であった創始者の富田勢源が有名で』、『彼は、美濃の朝倉成就坊のもとに寄寓していたおり、神道流の達人、梅津某に仕合を挑まれ、皮を巻いた一尺二、三寸の薪を得物とし、一撃の元に倒したと伝えられている』。『また、富田勢源の弟子である鐘捲自斎、自斎の弟子で後に一刀流を創始する伊藤一刀斎などの有名な剣豪を生んだ流派であり、畿内における剣術に大きな影響を与えた』。『冨田流、及びそこから生まれた一刀流は江戸時代に隆盛し、さらに幕末の動乱において』、『多くの剣客を生む事とな』った。『また、九州の小城藩の納富家が、戸田清玄清方を祖と伝える戸田流剣術を伝えていた。納富家は多くの達人を輩出したため、江戸時代後期以降、多くの廻国修行者が訪れた』という。『富田流の流れを汲む流派には、戸田流、外他流、當田流(とうだりゅう)など多くの変字がある。現存の武術流派としては、青森県に當田流剣術・棒術が、関東に戸田派武甲流薙刀術、気楽流柔術(戸田流と称することもあった)が、広島県に富田流槍術の流れを汲む佐分利流槍術が現存している。また、宮崎県高千穂に戸田当流杖が祭りの棒術として残る』とある。

「四目刀四重劍」不詳。極意なんだから、私ふぜいに判るわけない。

「飛ぶ當(あて)みの高上」不詳。「當み」は「当身」のことであろうが、同前。]

 

 あぐみて、しばし、扣(ひか)へたる所に、僧、おもてより、聲をかけ、

「兩方、たがひにひき候へ。」

と鎖(でう)をあけて、兩人を出だし、僧も、しばらく、愁へたる色にて、無敵にむかひ、

「さてさて、比類なき働(はたらき)。おそらく、此道の奧義を得給ひたりと見ゆ。しかしながら、今、しばらく、戰ひたまはゞ、御身の程、恙なき事、あたはじ。尤(もつとも)、彼(かれ)が事は、我が子ながら、かゝる妙手は得たり。人がらも他(た)に異(こと)なれば、不便(ふびん)と思はざるにもあらざれども、ひたすら、盜賊の業を悦ぶがゆへに、所詮、なき物と思ひ、貴殿のはたらきを願ふといへども、夫(それ)さへ、及ばざるうへは、是非なき事なり。今は休み給へ。」

と、酒をすゝめ、終宵(よもすがら)、兵法の口傳祕術など、いまだ聞かざる所を委(くはし)く傳へける内、はや夜(よ)は七つの比(ころ)[やぶちゃん注:不定時法で採り、午前三時半過ぎとする。]にもやなりけん、月のひかりもやゝ薄らぎ、鳥の聲かすかにおとづれわたるまゝに、無敵は急ぎ歸らんとす。

[やぶちゃん注:「月のひかりもやゝ薄らぎ」一六九七年九月二十九日当日の月没は四時七分(何時もお世話になっている「こよみのページ」で計算して貰った)。]

 

 僧もまた、名殘おしげに立ちて、しばらくが程、見おくりて入りぬとぞ見えしが、跡は朝霧のふかく立ちかくして、二、三町[やぶちゃん注:二百十九~三百二十七メートル。]も過ぎぬらんと思ふに、はや、棟門(むねかど)たちならびたる屋敷も見えず。

 茫然と踏みしらぬ山道を分けつゝ、そこともしらであゆみけるに、漸(やうやう)と人里に逢ひたり。いそぎ、近づきて、都への道、たづねなどしけるにて、知りぬ。靜原(しづはら)より大原にかよふ山みちなる事を。せめて、おぼえ歸りぬ。扨も、猶、そのほとり不審(いぶかしく)て、二、三日も過(すご)して、また、彼の山道を尋ねけるに、道の違(たが)ひたるにや、終に、二たび、逢ふ事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「靜原」現在の京都府京都市左京区静市静原町(しずいちしずはらちょう)。(グーグル・マップ・データ)。鞍馬山の東方。「大原」は左京区大原で、その東側に当たる。]

 

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