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2018/05/31

諸國里人談卷之一 筑摩祭

 

     ○筑摩祭(つくままつり)

近江國湖(みづうみ)のひがし、坂田郡(さかたこふり)の濱邊、旦妻(あさつま)といふ名所の南十余町を過〔すぎ〕て、筑摩(つくま)の庄(しやう)あり。此村の明神の祭りは四月午〔うま〕の日なり。その村の女、おとこに會(あひ)たる、その男の數ほど、土鍋(つちなべ)を作りて、板にとりならべ、いたゞきて、まつりの庭は、神輿(みこし)の殿(しりへ)について、わたるなり。もし、男にあひたる數をかくす時は、たちまち、神罰をかうぶるとかや。是、すなはち、罪障懺悔(ざいしやうさんげ)せしめ給へる、此神の方便なりとぞ。むかし、婬婦(いんぷ)ありて、あまたの男をせし事をはぢて、大きなる鍋、ひとつをいたゞき、おとこの數ほど、小鍋をつくりて、大鍋に入子〔いれこ〕にして、人目をかくせしかば、神慮にそむきてころびしに、おほくの小鍋、くづれいでゝ恥(はぢ)みたりける、となり。中ごろは、常の鍋をいたゞきてわたりしが、それも絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])はてゝ、神まつりも、なきがごとし、といへり。所の人は「ちくま」といふなり。「ち」と「つ」は五音(ごいん)相通(あいつうずる)なり。「八雲御抄(やくもみしやう)」には「つくま」とあり。

「いせ物がたり」に、むかし、をとこ、女のまだ世をへずとおぼえたるが、人の御もとにしのびてものきこえて、後ほどへて、

 あふみなるつくまのまつりとくせなんつれなき人の鍋のかずみん

「淸輔集」に 寄ㇾ社戀(やしろ〔に〕よするこひ)

 夜とゝもに淚をのみぞわかすかなつくまの鍋にいらぬ物ゆへ

又、曰(いはく)、筑摩庄(つくまのしやう)は大膳職御厨(だいぜんしよくみくりや)の地なり。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に御食津神(みけつのかみ)を祭(まつる)。此神は稻食(とうしよく)をつかさどり給ふによつて、此里の女、嫁入(かじゆ)の時の祭祀には、鍋釜(なべかま)を戴(いただい)て神に進(たてまつ)る也。

[やぶちゃん注:「近江國湖(みづうみ)のひがし、坂田郡(さかたこふり)の濱邊、旦妻(あさつま)といふ名所」「筑摩(つくま)の庄(しやう)」「此村の明神」現在の滋賀県米原市朝妻筑摩(あさづまちくま)にある筑摩神社(ちくまじんじゃ:ここ(グーグル・マップ・データ))の、日本三大奇祭の一つとされる「鍋冠祭(なべかぶりまつり)」である。ウィキの「筑摩神社」等によれば、同神社は御食津神(みけつかみ:「古事記」では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、「日本書紀」では「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」。「うか」は「穀物・食物」の意で穀物神。両書とも性別を明らかにしないが、古来、女神とされてきている)を主祭神に、大歳神(おおとしのかみ:「年」は「稲の実り」で穀物神)・倉稲魂神(御食津神の「日本書紀」での名)・大市姫神(おおいちひめのかみ:「古事記」では須佐之男命の後妻となり、大歳神と宇迦之御魂神(稲荷神)を産んだとされることから、やはり農耕神・食料神として信仰された)の食物に関わる三柱を配祀する。『社伝によれば、孝安天皇』二十八『年に創祀され、継体天皇が越前から上京する際に、当社のそばに行宮を設け、社殿を再建して神域を定めたとされているが、鎮座地は桓武天皇の時代に内裏』の大膳職(だいぜんしき/おおかしわでのつかさ:本邦の律令制に於いて宮内省に属した、朝廷に於いて臣下に対する饗膳を供する機関)の御厨(みくり/みくりや:「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、本来は「神饌を用意するための屋舎」を意味する。ここは宮廷の食糧の調達地の意。「御園(みその/みそのう)とも呼ぶ)が置かれた地なので、その鎮守として御食津神を祀ったものとも推定されている。なお、御厨は』延久二(一〇七〇)年に廃されている。仁寿二(八五二)年に『従五位下の神階を授けられているが』、「延喜式神名帳」へ『の記載はない。後鳥羽天皇や源頼朝からも神領が寄進され』、寛元三(一二四五)年には『最高位の正一位の神階が授けられた。江戸時代には彦根藩主井伊氏の崇敬を受けた』。五月三日に行われる『春の大祭では、御旅所から神社までの約』一キロメートルを総勢二百人が『ねり歩く。その行列の中に狩衣姿の数え年』八『歳前後の少女』八『人が』、『鍋を被って加わることから』、『「鍋冠祭」とも呼ばれ』る』。『社伝によれば、桓武天皇の時代(』八『世紀)以来』、一千二百年の『伝統がある』祭事とされ、『当社の祭神が全て食物に関係のある神であり、神前に供物とともに近江鍋と呼ばれる土鍋を贖物』(あかもの/あがもの:罪の償いとして出す財物)『したことから、このような祭が生まれたと考えられている』。『過去には鍋冠りは少女ではなく』、『妙齢の女性の役目だった。鍋冠りの女性は』、『それまでに付き合った男の数だけ鍋釜を冠るという不文律があり』ここに出るように、「伊勢物語」にも『詠われるほど』、『有名なルールだった。江戸時代中期に、わざと少ない数の鍋をかぶった女性に神罰が下り、かぶっていた鍋を落とされ』、『笑いものにされ、お宮の池に飛び込み自殺してしまうという事件が起きた。事件の顛末を聞いた藩主の井伊氏が鍋冠りを禁止したが、嘆願の結果』、七、八『歳の幼児による行列ならば、と許可され』、『今日の姿となった』という。兵庫県神戸市垂水区にある「絵葉書資料館」の公式サイト内の絵葉書販売ページので「歌川広重」の描いた「筑摩祭」の絵が見られる。なお、これに類似した祭りとして、私は富山県富山市婦中町鵜坂にある鵜坂神社(うさかじんじゃ)の「楉祭(しもとまつり)」、別名「尻打ち祭り」を知っている。『平安時代から江戸時代までは、楉祭という特殊神事が行われていた。別名を「尻打祭」といい、貞操を戒めるために女性の尻を打つ祭であった。正月に七草粥を炊いた薪で女性の尻を打つと』、『健康な子が生まれるという公家の遊びが伝わったものである。「日本五大奇祭」の一つとして日本全国にその名が知られ、松尾芭蕉や宝井其角も』、『この神事を詠んでいる。明治初年に雌馬の尻を打つ祭に変えられ、第二次世界大戦終戦ごろに廃絶した。「八雲御抄」には「うさかのつえ、是は越中の国うさかの明神祭日、榊木して女の男のかずに禰宜(ここに脱字あるかという)を打つ事なり」とあり、「倭訓栞」には「其祭日に神人祝詞を宣る時、一郷の女子に其年あへる男の数をいはせ、杖をもて女の尻を打といふ」とある』と記す。

「十余町」十町は約一キロ九十一メートル。米原市朝妻筑摩はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、筑摩神社は現在の同地区でも、最南端に位置しており、天野川河口域の朝妻筑摩の、当時は中心であったと思われる地区からは一キロ半弱離れていることから、こうした言い方になっているものと思われる。

「板にとりならべ、いたゞきて」不審。これは所謂、薄い土鍋をこの祭り専用の素焼きで作ったものを、板の上に並べて、それを(則ち、土鍋を並べた板を)頭の上に頂いて、としか読めないからである。しかし、それは如何にも安定が悪い。現在のお祭りの少女の被る鍋や、広重の絵を見ても、頭部をすっぽり隠すような本格的な大きさである。後者の奥の女性は明らかにそれを二つ重ねて被っているのが判る

「懺悔」本邦の場合は近世末まで「さんげ」と「さ」を濁らないのが正しいのである。

「中ごろ」過去の有意な時間をおおまかに三分割し、比較的古い時期・中期・今に近い比較的新しい時期を設定して「中頃」と称しているのである。

「常の鍋」家庭で使っている鍋。

『「ち」と「つ」は五音(ごいん)相通(あいつうずる)なり』タ行の同行列で音が近いから、相通ずると言っているか。確かに「筑摩」は「ちくま」「つくま」の両様に読むことは読む。しかし、沖縄方言の母音の口蓋化でも「い段」と「う段」は明確に別れるから、「相通ずる」などと軽々に言えないと思うのだが。寧ろ、「ち」と「つ」がある種の方言や特定集団の用いる言葉に於いては混同が生じ易いとか言った方が腑に落ちるのだが。

「八雲御抄(やくもみしやう)」順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)が自ら著した歌論書。承久三(一二二一)年六月の「承久の乱」以前から書き始められ、一度、纏められたが、乱後に配流先の佐渡でさらに書き続けられ、京の藤原定家に送付されたものである。

『「いせ物がたり」に……』「伊勢物語」百二十段。

   *

 むかし、男、女の、まだ世經(よへ)ずとおぼえたるが、人の御(おほん)もとにしのびてもの聞えてのち、ほど經て、

 近江(あふみ)なる筑摩(つくま)の祭(まつり)とくせなむつれなき人の鍋の數(かず)見む

   *

「世經ずとおぼえたるが」男との肉体関係を持ったことがないとしか思えなかった女が。「人の御もとにしのびてもの聞えてのち」あるお方のところへ、人目を忍んで深く情をお交わしになるようになって後に。男からの如何にもな恨み節で、すこぶる不快な歌である。因みに、この歌は「拾遺和歌集」の巻十九の「雜戀」に「題知らず 詠人知らず」の(一二一九番)、

 いつしかも筑摩(つくま)の祭早(はや)せなむつれなき人の鍋の數見む

として載り、「俊頼髄脳」にもこの歌を引いて説明がある、と昭和五四(一九七九)年角川文庫刊「新版 伊勢物語」(石田穣二訳注)の補注にある。

『「淸輔集」に……』藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年:公卿で歌人。和歌の百科全書ともいうべき名作「袋草紙」(保元元(一一五六)年成立)で知られ、歌道家としての勢威も対立する藤原俊成の御子左家を凌いだとされる)の私家集「淸輔集」の「戀」部にある一首。前書の「寄ㇾ社戀(やしろ〔に〕よするこひ)」は確認出来ないので推定で「に」を補った。「涙」「わかす」「鍋」「いる(煎る)」は縁語であろう。「いらぬ」はそれに「入らぬ」(彼女に私は相手にされない)を掛ける。]

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