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2018/05/17

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(42) 大乘佛教(Ⅰ)

 

  大乘佛教

 

 この場合哲學的佛教の、概賂の考察が必要になる、――二つの理由があつて。第一の理由に、本問題に就いての誤解或は無知識が、日本の知識階級は無神論者であるといふ批難を可能ならしめたからである。第二の理由は、日本の平民――卽ち國民の大部分を占めて居る人々――が熄滅としての涅槃[やぶちゃん注:原文は“Nirvâna as extinction”。「消滅たるところの涅槃」という意味にしか採れない。しかし、本書の読者である西洋人一般には「消滅」が判りがいいのだろうが、どうも、ここは本来は「涅槃」そのもののサンスクリット語「ニルヴァーナ」の意、即ち、「煩悩の境地を離れて悟りの境地に入ること」の別表現・形容でないとおかしい。私には「消滅」というのは如何にも無への帰一のニュアンスがあってしっくりこない。輪廻から解き放たれた解脱としての現世上の幻化としての存在の消失である。というより、小泉八雲が以下で語るのもそういう単純な「断絶・滅消」という話にならない《致命的誤謬》をしてはいけないと言っているからである。日本人である私(本質的個人としては無神論者であるが)としては邦訳ならば、平井呈一氏の『寂滅としての涅槃』がやはりよいと考える。](事實上から云へば、此の言葉の意味すらも、人民の大多數には、知られて居ないのであるが)の教義を信仰し、此の教義が、それから生ずると假定され鬪爭に對する無能力を作り出すが故に、人々は諦めて地上から全然消滅する事を甘んじて居ると、考へて居る人々が多少あるからである。苟も聰明なる人が少しでも眞面目に考へたならば、そんな信仰が、野蠻人でも文明人でもの宗教となり得たとは考へられない筈である。然るに、多くの西歐人は、何等深く考へる所なくして、かくの如き不可能の記事を常に容認して居る、故に 若し私が、眞に大乘佛教の教義が、如何に普通の考へとかけ離れて居るかを、讀者に示す事が出來たならば、それは眞理と常識のために、多少の仕事をつくした事になるであらうと思ふ。なほこの問題に關して述べた以上の理由の外に、此處に第三のしかも特殊なる一つの理由がある、――卽ちこの問題が近世哲學の研究者にとつて、異常の興味を與へるものの一つであるといふ事である。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 話しを進めるに先き立つて、私は諾君に次の事を御注意したい、則ち重要なる多くの經典は歐洲の各國の國語に飜譯され、且つ未だ飜譯の出來て居ない經典の原文の大部分も、既に絹輯され公刊されて居るのであるから、佛教の形面上學は、日本に於けると同じ樣に、他の如何なる國々に於ても、研究し得ると云ふ事である。日本佛教の原文は、漢文である、それ故、ただ漢學の出來る人のみが、本問題の細微な特殊の方面に就いて光明を投じ得るのである。七千卷から成る漢文の佛教の經典は、これを讀破することすら、一般には不可能の業と考へられるのである――よしそれは、日本に於て、既に成されて居たのではあるが。その上、註釋書や、各宗派のいろいろの解釋書や、後代になりて加はつた教義やらで、經典は混亂に混亂を重ねる有樣となつた。日本佛教の複雜は、それこそ測り知られないほどで、それを解いて見ようとするものも、大抵は忽ちにその餘りに細かい途路の中に陷つて、どうも恁うもならなくなつてしまふ。斯樣な事は、今の私の目的として居る處と何等の關係もない事である。私は日本の佛教が、他の佛教とどれほど異つて居るかに就いて何も言ふまい、又宗派の匹別に關しても全然觸れないつもりである。私は高遠な教義に關する普通の事實――かかる事實の中から、其の教義の説明に役立つもののみを選擇して説くつもりである。なほ涅槃の問題は重要であるに拘らず、此處では論じない――此の問題は既に『佛門拾遺』“Gleanings in Buddha-Fields”の中で、出來るだけ詳しく論じて置いたから――ただ、私は佛教の形而上學的結論と、現代の西洋思想の結論との、或る程度の類似點を論述することにとどめる。

[やぶちゃん注:「『佛門拾遺』“Gleanings in Buddha-Fields”」「仏陀の畑(国)の落穂」。明治三〇(一八九七)年刊。]

 

 英文で書かれた佛教に關する單行本で、今日迄の所一番良いと云はれて居る書物【註】の中で、故ヘンリイ・クラアク・ヲレン氏は云つてゐる。『私が佛教研究中に經驗せる興味の大部分は、私が智的風物の不思議とでも呼ぶ所のものから生じたものである。すべての思想、議論の樣式、假定されたのみで論議されて居ない推定等は、常に不思議に感ぜられ、日頃私が馴れてゐたものとは、全くかけ離れてゐたものであるが故に、私は恰も神仙の國を步いてゐる樣に感じた。被害洋の思想と觀念とがもつ多分の魅力は、私の考へでは、それが西洋思想の範疇に合致する處の少いが爲めである、と思はれる』……。佛教哲學の異常な興味は、これ以上に言ひ現はすことはできない。眞にそれは、『智的風物の不思議』であり、内外と上下との顚倒した世界の不思議さであつて、それが從來主として西洋の思想家達の主なる興味を惹いたのである。併し結局、佛數概念の中には、西洋の範疇に合致し、或は殆ど合致せしめ得る概念の一團があろ。蓋し大乘佛教は、一元論(モニズム)の一種である。そしてそれは、ドイツ及びイギリスの一元論者の科學的學説と一致する教義を、驚くべきほどに含んでゐるのである。私の考へる所では、此の問題の最も奇妙な部分竝びにその特に興味の深い點は、此等の一致點に依つて表明されて居る、――特に佛教の結論は、何等科學上の知識の助けを受けることなく、又西洋の思想の知らない精神上の徑路に導かれて、到達したというふ事實を眼中に置いて見る場合さう考へられる。私は敢て自ら、ハアバアト・スペンサアの學徒と呼んでゐるが、抑も[やぶちゃん注:「そもそも」。]私が佛法の哲學に、ロマンテイツク以上の興味を認めるやぅになつた原因は、私が綜合哲學に親しんでゐたが爲めである。抑も佛教も亦進化の説である、よし吾が科學的進化(同質より異質への進步の法則)の中心となる大思想は、現世の生命に關する佛教の教理の内にうまく一致するやうに含まれては居ないとしても。吾々が考へるやうな進化の道程は、ハツクスレイ教授に從へば、『臼砲から、打ち上げられた彈丸の軌道の樣な線を描くに相違ない、そして彈道の下り半分と同じものであるやうに、進化の道程に於てもその通りである。』 と。彈道の最高點は、スペンサア氏が呼ぶ所の平衡點を示す――それは發展の最高點で、衰退の時期のすぐ前にある、併し佛教の進化に於ては、此の最高點が涅槃なるものの内に沒してゐるのである。私が最も旨く佛法の地位を説明するには、諸君が彈道線を逆に考へる事を望めば宜い[やぶちゃん注:「よろしい」。]と思ふ。――則ち無窮から降下し來たつて、地上に觸れ、更に再び神祕の中へと上昇する線である……。とは云へ、或る種の佛教思想は、吾々の時代の進化思想と、驚く可き類似點を持つてゐるのである。而して西洋思想より最も隔絶せる佛法思想さへも、近代科學から借用した例證と言葉との助けによつて、最も要領良く説明される。

 

註 『飜譯佛教』ヘンリイ・クラアク・ヲレン著(一八九六年マサチユウセツツ州、ケムブリツヂ)ハアバアト學刊行

[やぶちゃん注:「ヘンリイ・クラアク・ヲレン」アメリカのサンスクリット語及びパーリ語学者で仏教学者であったヘンリー・クラーク・ウォーレン(Henry Clarke Warren 一八五四年~一八九九年)。最後の註の原文は“Buddhism in Translations by Henry Clarke Warren (Cambridge, Massachusetts, 1896). Published by Harvard University.”で、これはパーリ聖典から重要な名句集抄出して英訳したもの。

「一元論(モニズム)」“Monism”。世界と人生との多様な現象を、その側面乃至全体に関して、ただ一つの(ギリシア語の「モノス」monos)根源・原理・実在から、統一的に解明し、説明しようとする立場。二つ及びそれ以上の原理乃至実在を認める二元論・多元論に対立する。哲学用語としては近世の成立。一切を精神に還元する「唯心論」、物質に還元する「唯物論」。精神と物質とをともにその現象形態とする第三者に還元する広義の「同一哲学」などがこれに属する(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「ハツクスレイ教授」「ダーウィンのブルドッグ(番犬)」と異名をとった強烈な進化論支持派のとして知られる、イギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。詳しくは私の、ごく最近の仕儀である「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケル」の本文と注を参照されたい。]

 

 思ふに既に述べた理由に因り、涅槃の教義を除いて――大乘佛教の最も著しい教は、次の如きものであると考へられる。

 實在は一ツ在るのみ。

 自覺は眞實の我に非らず。

 物質は、行爲と思想との力に依りて、創造せられたる現象の總和なり。

 一切の客説的竝びに主我的存在は、業報に依りて生ずるものなり、――現在は過去の創造物にして、現在と過去との行爲が、相結んで將來の境地を決定する……(換言すれば、物質内世界と〔有限の〕精神の世界とは、其の進化の道程に於て、嚴然たる道德的秩序を顯現する)

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

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