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2018/05/12

御伽百物語卷之五 人、人の肉を食らふ

 

     人 食人肉

 

 

Jinnnikuwokuu

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを、左右合成し、上下左右中央の枠や雲形の一部を除去した。これは、またしても左右の絵が上手く繋がらないものであったからである。標題は「人(ひと)、人の肉(にく)を食らふ」と訓じている。なお、本章はハンセン病患者が登場するが、同病に対する当時の誤った激しい差別認識(それは今現在も潜在的に続いている)に基づく、驚くべき展開(但し、この猟奇的な内容は後で注するように、一部で信じられ続け、明治・昭和に至っても実際の殺人事件や死体損壊として起こっている)をする。くれぐれもそうした誤りと差別意識に対して批判的視点を忘れずにお読み戴きたい。また、それとはまた違った次元での、中国史での猟奇的嗜好としてのカニバリズム(人肉食:英:cannibalism:スペイン語「Canibal(カニバル)」に由来し、「Canib-」は「カリブ族」のことを指しており、十六世紀頃のスペイン人航海士達の間では西インド諸島に住むカリブ族が人肉を食べると信じられていた。但し、これは隣接して生きていた別部族アラワック族からの伝え聴きであったともされ、好戦的なカリブ族をそのように風聞誤認した可能性が強い)の記載が出る。私の注ではそれについて、やや具体的な原典表示と訳ものせているので、その手のものに耐性のない方は、注は飛ばして読まれんことをお勧めしておく。]

 およそ、人として、人を食ふ事、おほく年代記などに載せしるして、飢饉の年を斷(ことは)る物あり。

 しかれども、元來、もろこしの書にも記して後代に殘せる所によれば、好(このん)で食ひたる人も、ありしなるべし。陶九成が「輟畊錄」には「想肉(さうしゝ)」と記(しる)し、唐(たう)の世には「啖醉人(たんすいじん)」と名づけたる。其外、「五雜組」「朝野僉載(てうやせんさい)」「雜説」などあげてかぞふるも、くだくだしき説なるべし。

[やぶちゃん注:『陶九成が「輟畊錄』元末明初の学者で文人の陶宗儀(生没年未詳:台州黄岩の出身。「九成」は字(あざな))が元末の一三六六年に書いた随筆。正式には「南村輟耕錄」(「畊」は「耕」の異体字)。全三十巻。既に記した通り、鷺水は同書から「宮津の妖」(翻案原典は「鬼臟」)・「恨はれて緣を結ぶ」(同「釋怨結姻」)・「繪の婦人に契る」(同「鬼室」)をインスパイアしている。

「想肉」原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちら、或いは「漢籍リポジトリ」のここで読める。ある軍人は「食嗜食人。以小兒爲上、婦女次之、男子又次之。」(人の肉を好んで食った。小児のそれを以って上となし、婦女、これに次ぎ、男子はまた、これに次ぐ味わいであると。)として、以下、具体的な調理法を載せ、『總名曰、「想肉」。以爲食之而使人想之也。』(それら、人肉を総名して曰わく、「想肉」と呼んだ。何とならば、これ食らうと、人をして、その人肉が、これまた、いろいろなことを想像させて呉れるからである。)とある。以下、人肉食嗜好者の名とその事例を具体的に各書から引用して挙げ、飢饉や戦乱の世ならばある種、仕方がないとしても、この連中は「當天下宴安之日、而又身爲顯宦、豈無珍羞美膳、足以厭其口腹。顧乃喜啖人肉、是雖人類而無人性者矣。」(天下太平の時にあって、しかも高位高官の身分でありながら、珍味・美味なる料理を腹いっぱい食べられないことなどないにも拘わらず、人の肉を食らい味わうことを喜んだのであり、こいつらは人の姿をしていながら、根っからの人非人の魂を持った者どもなのである。)からして、「終至於誅斬竄逐而後已。天之報施、不亦宜乎」(遂には誅伐され、斬殺され、追放・放逐される末路しかないのである。そのおぞましい行いに天の報いが下ること、これは至極、当然のことである。)と結んでいる。

「啖醉人(たんすいじん)」人肉食嗜好者の称。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになったという数奇な経緯を持つ書物である。巻五の「人部一」に『隋、麻叔謀、朱粲嘗蒸小兒以爲膳。五代、萇從簡好食人肉、所至多潛捕民間小兒以爲食。嚴震、獨孤莊皆有此嗜。至宋邕智高之母阿儂者、性慘毒、嗜小兒肉、每食必殺小兒。噫、此虎狼所不爲、而人爲之乎。』とある。麻叔謀が小児の肉を好んで食ったことは、かなり知られている。

「朝野僉載(てうやせんさい)」「遊仙窟」の作者として知られる唐の文人張鷟(ちょうさく)の伝奇小説集。先の「輟耕錄」の「想肉」の例に『唐張新「朝野僉載」云、『武后時、杭州臨安尉薛震、好食人肉。有債主及奴詣臨安、止於客舍、飮之醉、並殺之、水銀和煎、並骨銷盡。後又欲食其婦、婦知之、躍墻而遁、以告縣令。令詰之、具得其情、申州錄事奏、奉搬杖一百而死。』と挙げてある。人を酔い潰した上で殺し、水銀を混ぜて煎り、骨まで溶かした上で食った、とある。

「雜説」唐の盧言の撰になる「盧氏雜説」。やはり、先の「輟耕錄」の「想肉」の例に、『「盧氏雜説」云、『唐張如爲節鎭、頻吃人肉、及除統軍到京、班中有人問曰、「聞尚書在鎭好人肉、虛實。」。笑曰、「人肉腥而且韌、爭堪吃。」。』とある。唐の徳宗・憲宗期の重臣張茂昭は人肉を食うことを好み、それが流言として知られていた。ある人がそれは「本当か?」と問われ、「人肉は腥(なまぐ)さい上に非常に硬い筋があって、とても食えたものではない」と否定したつもりが、人肉食をしていることを図らずも暴露してしまってオチ附きの話となっている。

「くだくだしき」本来は「煩わしい・くどい」の意だが、ここは「数え上げれば、胸が悪くなるようなおぞましい」のニュアンスである。因みに、この手の中国史に限った学術的なものとしては、桑原隲藏の「支那人間に於ける食人肉の風習」(『東洋學報』(第十四卷第一號・大正一三(一九二四)年発行)が「青空文庫」で読める。また、汎世界的であった現象としての広汎な概観は手っ取り早く読もうなら、ィキの「カニバリズム」がある。但し、それは各国・各地域の叙述の歴史的記述部分はかなり杜撰である。書籍としては、私は十数冊のカニバリズム論を所持しているが、第一に文化史的視点から極めてストイックに解析したフランスの思想家ジャック・アタリ(Jacques Attali)の著になる、金塚貞文翻訳「カニバリスムの秩序 生とは何か・死とは何か」(L'ordre cannibale, vie et mort de la médecine(「カニバルの秩序、治療としての生と死」(か?)・一九八〇年/訳本・一九八四年みすず書房刊)を強くお薦めする(恐らく、過去未来に亙って真摯なカニバリズム論はこれを越えることは難しいと私は思う)。ちょっと危険がアブナい系(但し、集成としては手頃)では、百科事典単項目型の好きな(というか、この「図説」「全書」というシリーズ的書名は多分に偏奇な出版社原書房の売り戦略)フランスのマルタン・モネスティエ(Martin Monestier)の大塚宏子訳「図説 食人全書」(Cannibales. Histoire et bizarreries de l'anthropophagie hier et aujourd'hui(カニバル/食人慣習に於ける過去と現在の歴史と奇怪性」(か?))・二〇〇〇年/訳本・二〇〇一年原書房刊)辺りか。]

 

 こゝに、江州伊香立(いかたち)の里の邊(ほとり)に住みける淸七とかやいふなる者は、所壹番の富貴者(ふうきしや)也けるが、前世の宿業は遁れがたきものにて、黑癩(こくらい)といふ病(やまひ)ありて、しかも祖父の代より相續き、是非に[やぶちゃん注:必ず。]壹人(ひとり)づゝは、此やまひに染(そ)むものありけるが、此度(このたび)は此(この)淸七にや渡りけん、生まれてより廿五、六に及ぶまでは、何の病といふ事もなく、剩(あまつさ)へ、器量骨體(こつがら)[やぶちゃん注:体格。]も他に勝れ、美男の取沙汰にも預りける程のものなりしが、何(いつ)となく睫(まつげ)の薄らぎそめけるより、例の惡病の相(さう)、ひとつひとつ顯はれしかば、妻子を始め、たれたれも、明暮れ、これのみを悲しき事におもひ、もとより、淸七は、此病にそみけるより、我ながら、我が身の疎しくなりて、人にも逢はず引きこもりつゝ、

『此病(このやまひ)、何(なに)とぞして治する人あらば、たとひ萬金の費(つゐへ)ありとも、おしむべき道にあらず。哀れ、換骨(くわんこつ)の神醫(しんい)もがな。』

と、あるとある名醫を招き、さまざまの藥を用ひ、あるひは、神ほとけに願(ねがひ)を立(た)て、すまじき難行をつとめなど、二、三年も手をつくし、金銀を惜まず療治しけれども、猶いやましにつのり行くのみにて、露ばかりの驗(しるし)もなければ、

『今は是非なき事。』

と思ひさだめながら、流石、死なれもせぬ命とて、面(おもて)つれなく、人を四方(ほう)に馳せ、あまねく所緣をもとめても、絶えず、治療の術(てだて)を尋ねける所に、都(みやこ)北山大原の里、野中村といふ所に利春(りしゆん)といひて惣堂を守る出家なりとかや、名乘りて、淸七が家に尋ね來たり、

「此病を治する事、おそらく、我ならで傳(つた)へたるものなく、今まで多くの人に逢ひて治するに速効を見せずといふ事なし。」

など、種々の荒言(くわうげん)に辯をかざりて、淸七を、

「治すべし。」

と語るに、淸七、大きに悦び、殊の外にもてなしなどして、師か親かと思ふ程の傅(かしづき)きをなして、

「此難病を治して給(た)べ。」

と、他念なく願ひけるに、利春も彼が二心(ふたごゝろ)なく賴み尊敬しつる心ざしを感じ、身命(しんめい)をも惜しまず、晝夜、工夫をつゐやし、さまざまと手を盡して醫療をくわへ[やぶちゃん注:ママ。]けれども、曾て露ばかりの功をも顯はさゞる事を歎き、ある時、ひそかに淸七を招きて私語(さゝやき)けるは、

「今、君が此難病に苦しむがゆへを以て、我(われ)ごとき貧乏の賤(いやし)き身を敬ひ崇あが)めても、猶あきたらざるが如くするは、是れ、ひとへに我が湯藥(たうやく)の功をうけて、今の痼疾(こしつ)を治し、身を安樂にせんがため也。我もまた、此心ざしを知り、この惠(めぐみ)を請けながら、いたづらに尋常の藥方をもつて、驗もなき日月を送らん事、もつとも深き恥なり。されば、我が家に祕し、一子に傳へて、代々最極(さいごく)の妙方とする藥あり。およそ、是れを用ゆるに、いかなる極重惡(ごくぢうあく)の報(むくい)を受け、日本大小(につぽんだいせう)の神祇(しんぎ)に白癩黑癩(しらひとこくみ)と儺(やらは)れ、多千億(たせんおく)の佛菩薩に憎まれたる定業(ぢやうごう)の病といへども、一たびは治せずといふ事なき神仙不測の靈藥なり。我、このほど、さまざまと心を盡し、配劑、手をくだきて、數貼(すふく)の藥餌(やくじ)を用ふるといへども、さらに其功を見る事、なし。かるが故に、今、此(この)神方(しんぽう)をもちひ膏肓に入るの沉痼(ちんこ)を驅(か)り出だし、永く快氣の効驗(かうげん)を見せ申すべし。しかしながら、此神方、今まであたへざりし事は、我、かつて惜みたるにあらず、藥味の内の一色(ひといろ)、大切にして尤(もつとも)得がたき物あり。此(この)ゆへに服せしめず。君、もし、丁寧に望みて万金(まんきん)をもおしまじとならば、我、君がために身命を捨てても、速かに治し參らせつべし。」

と、念比(ねんごろ)に語るを、淸七も彼(かれ)が心ざしの無二なるを見て、淚を流し、

「迚(とて)も、世にながらへ、人に面をも合はさん身ぞならば、たとひ、田宅所領に替へても、五體不具ならずしてこそとおもふなり。いかにもして御恩には、只(たゞ)疾(とく)この病を救ひたび給へ。」

と、ひたすらに賴みけるに、利春、いふやう、

「さらば、此藥味の料(れう)に金(きん)千兩ほどの貯へをなし給へ。そのゆへは、何をか、かくし申すべき、彼(か)の大切なる藥味といふは、年の程、十、八九ばかりなる女(をんな)の生膽(いきぎも)を取りて藥につかふ事なり。今の世、久しく靜謐に治(おさま)り、殊に佛法の代(よ)となりて、生(しやう)ある類(たぐひ)といえば、慈(いつくし)みの心を犬・猫にだに及(およぼ)すの時節なれば、人を殺害(せつがい)し、生膽をとらん事、たやすかるべからず。是れをもとむるには、金銀を湯水の如くつかひ、下愚(かぐ)の貧人(ひんにん)の心をやしなひて、心ざしを奪ひ、恩のために命(いのち)を乞(こふ)より、外の術(てだて)は、あるまじくこそ。」

といふに、淸七、つくづくと此事を聞きおはり、利春が袖をひかへ、小聲になりて、いふやう、

「されば、爰(こゝ)に、幸ひの事あり。我が家にめしつかひて、既に三代におよぶ、すゑの子あり。今、めしつかふ所の小女郎(こめらう)、これなり。彼(かれ)が父母(ちゝはゝ)は彼が生(むま)れて三才の年、傷寒(しやうかん)といふものに命を失ひて同じ月に死しぬ。彼は兄と共に孤(みなしご)となりて、路頭に立つべき所を、あはれみ拾ひて、流石に、

『家の子の末なるを。』

と、母が情(なさけ)にて生長させ、彼が兄は此(この)西なる村に奉公に出だしつ。彼は女なれば、心やすく、母が手まはりに遣ひて、はや、十九才なるべしとおもふ。何とぞ是れをすかして使に出だし、貴殿と心をあはせて殺させば、餘多(あまた)人の知るべきにもあらず。金銀の費(つひへ)もなくて、大切なる藥を得んは究竟(くつきやう)の事ならずや。尤(もつとも)、人の命をとるは科(とが)の程もいかゞしけれども、小の蟲を殺して我が大の身(み)をたすかるためなれば、死しても亡魂の恨(うらみ)、うすかるべし。」

など、欲に移りやすき人心(ひとごゝろ)。利春と淸七とのみ談合しめて、然るべき時節を窺ひける。

[やぶちゃん注:「江州伊香立(いかたち)の里」現在の滋賀県大津市伊香立の各町の域内。このマーキングの附近(グーグル・マップ・データ)。

「淸七」不詳。

「黑癩(こくらい)」「癩」は現在はハンセン病と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium lepraeの末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから(病変にはさまざななタイプがあり、皮膚が焼け爛れたように見える斑紋状の赤褐色或いは灰褐色を呈する場合を「黒癩」などと称し(人々は地獄の業火に焼かれているととった)、逆に斑紋状に白くなるもの後に出る「白癩」(びゃくらい)と呼んだりした)、洋の東西を問わず、地獄の業火に焼かれているとして「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても、意識の変革なしに差別はなくならない)。現在、ハンセン病には完治させる有効な薬物があり、隔離治療する必要もない。ハンセン病への正しい理解を以って本の話柄を批判的に読まれることを望む。江戸時代の百科事典、寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項では(リンク先は私の古い電子化注)、この病について『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても「天刑病」と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解と同一の地平であり、これが当時の医師(良安は医師である)の普通の見解であったのである。因みに、マムシはこの病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところ、この「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」まさに、「毒を以て毒を制す」式の誤った論理である。これ自体も、また、本話で人肉が癩の特効薬とするように、如何にも貧弱で底の浅い類感的でステロタイプであり、しかもグロテスクな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。いや、実はしかし、こうした似非「論理」や似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に蔓延ってさえいる、とも思うのである。

「換骨(くわんこつ)」元来、この語は「凡骨」を取り去って、永遠不滅の「仙骨」に取り替えるという意で、ここはそれに非常に近い意味(瞬時に病毒の箇所を人体から悉く抜き去って、健全な身体に改造すること)で用いている。

「死なれもせぬ命とて」世をはかなんで自害する覚悟も勇気も微塵もなく、の意でとっておく。私はハンセン病とは無関係に、この清七という人物の性格や考え方が嫌いだからである。なお、ハンセン病は重篤化するケースが殆んどなく、余命や死亡率のデータさえない。そいう意味では、悪化して死ぬことはまずない病気ではあるから、ここもそのような意味である可能性もあるとは言える。

「面(おもて)つれなく」恥ずかしがって遠慮する様子もなく。諸療法が全く効かなかった以上、『今は是非なき事』と思ったのだから、どこかで諦めてよさそうなところを、という筆者の批判的な物謂いか。

「都(みやこ)北山大原の里、野中村」現在の大原地区内の、京都府京都市左京区静市野中町(しずいちのなかちょう)附近か(グーグル・マップ・データ)。

「利春」不詳。

「惣堂」公的・準公的な仏堂ではなく、村人たちが共同で出費し、建てた仏堂で、村の集会所的な役割も担った。中世以降に始まり、阿弥陀仏を祀ることが多かったようである。

を守る出家なりとかや、名乘りて、が家に尋ね來たり、

「荒言(くわうげん)」無責任に大きなことを言い散らすこと。

「治すべし。」直してみせましょう。

「湯藥(たうやく)」煎じ薬。

「痼疾(こしつ)」長引いて、何時までも直らない病気。

「最極(さいごく)の」至上の。これ以上ない。

「白癩黑癩(しらひとこくみ)」前に注した通りだが、この読みは「白人黑身」という当て訓であろう。

「儺(やらは)れ」追い払われ。

「數貼(すふく)」「數服」の当て訓。ハンセン病は皮膚病変が顕著であるから、実際に貼付薬を処方したであろうから、この漢字表記は腑に落ちる。

「藥餌(やくじ)」薬と病気に対応した治療用の食事・献立。

「膏肓」底本には「こうもう」とルビするので、わざと読みを振らなかった国書刊行会本、ゆまに書房版は孰れも『膏盲』とするので話にならない原典を見たところ、ルビは『こうもう』であるが、幸い、「膏肓」とある。言わずもがな、「かうくわう(こうこう)」が正しい。「膏」は心臓の下部、「肓」は隔膜の上部を指す漢方用語で、これは臓器ではなく、身体の中心の最も奥深い場所を指し、ここに病気が入ると治らないとされた。

「沉痼(ちんこ)」永く治らない重い病。「沈痾」「宿痾」に同じ。

「人に面をも合はさん身ぞならば」表現が不全であるが(「人に面を合はさんことも出來ざる身にてあれば」ぐらいであろう)、藁をも摑む思いの清七の台詞と考えれば、問題にするには及ぶまい。「人に顔を合わすことも憚られる病態の身にてあればこそ」。

「五體不具ならずしてこそ」「幸ひなれ」。

「彼(か)の大切なる藥味といふは、年の程、十、八九ばかりなる女(をんな)の生膽(いきぎも)を取りて藥につかふ事なり」人の肉が「業病」として医師も見放した癩病や、当時は確実に死に至る宿痾であった結核の特効薬であると考えられていた恐るべき事実が、民間にかなり広く流布していた、少なくとも、本記載から江戸中期にはかなり知られていた(全く知られていないのでは、本話は事実らしさを含んだ噂話としての都市伝説足り得ないのである)ことが判ると言える。このおぞましい民間療法認識が近代まで生き残って事実は、「野口男三郎(のぐちおさぶろう)事件」(別名・「臀肉(でんにく)事件」)がそれを物語っているこれは明治三五(一九〇二)年三月二十七日に東京府東京市麹町区下二番町(現在の東京都千代田区二番町)で発生した未解決殺人事件で、少年が何者かに殺され、臀部の肉を切り取られるという猟奇事件である。野口男三郎は、この少年殺害と他の二件の殺人事件(彼の義兄で漢詩人として知られた野口寧斎の殺害、及び、薬局主人殺害)の容疑者であったが、裁判の結果、少年と義兄殺し(こちらは病死と認定)については証拠不十分で無罪とされたが、薬局主人殺し及び文書偽造で有罪となり、死刑に処された。彼の義兄野口寧斎はハンセン病に罹患しており、同居していた彼の妹婿であった野口男三郎は妻にも兄寧斎のハンセン病が遺伝するのでは(兄妹の父はやはりハンセン病で他界していた。無論、ハンセン病は感染症であって遺伝などしない)と怖れて、「人肉はハンセン病に効く」という当時の噂を真に受け、十一歳の少年を殺し、その肉を何も知らない妻と寧斎に振舞ったという嫌疑(少年殺人の嫌疑)で逮捕されていたことから、明治三八(一九〇五)年五月十二日に僅か満三十八歳の若さで亡くなった寧斎も病死を装った殺人ではないかとする嫌疑がかかったのであった。この野口男三郎の絡んだ複数の殺人事件はかなり複雑であるので、かなりよく纏められているウィキの「臀肉事件」を参照されたいが(私の所持する数冊はこの事件を扱っているが、このウィキの記載はその孰れよりも詳細である)、二十世紀の始まりにまさかの人肉薬餌(説)は衝撃的である。なお、昭和に入ってからも、日本統治時代の朝鮮の京畿道京城府で昭和八(一九三三)年五月十六日に発生した「京城府竹添町(たけぞえちょう)幼児生首事件」もあるウィキの「京城府竹添町幼児生首事件」によれば、ここは現在の大韓民国ソウル特別市中区忠正路内に当たり、そこで『乳幼児の生首が発見された。後頭部は割られ、脳髄を掻き出した痕跡があり、辺り一帯に脳髄が散乱していた。京城帝国大学医学部による検死の結果』、一『歳くらいの乳幼児で、性別は恐らく男だろう、と結論づけた』。『朝鮮の民間療法によると、「人間の脳味噌を生で食う」というのが』、『ハンセン病や脳疾患などの特効薬として言い伝えられており、犯人はハンセン病や脳疾患の患者であろうと推測した』。『当初、警察は、生きている乳幼児を殺害して脳髄を得ようとしたものと推理していたが、既に死亡した乳幼児の遺体を盗んだのではないかという可能性が浮上し、死亡届が出ていた乳幼児を徹底的に調査した』結果、六月五日、『遂に身元が判明し』、五月十日に脳膜炎で死亡した一歳の『H氏の』『女児であった。女児を葬った墓を掘り返したところ、案の定、首無しの遺体が出て』、『先に見つかった首と照合したところ、同一人物であると結論付けられた』。六月七日になって『被害者H一家の隣人Pとその友人Y一家が容疑者として逮捕された』。『Yの長男はハンセン病の持病があり、漢方薬を服用していたが効果がなかった。そこで、Yはハンセン病の特効薬と言い伝えられている「人間の脳味噌」を入手できないかと、友人のPに打ち明けたところ、Pは隣人のH氏の次女(被害者)がこの前』、『死亡したので、そこから手に入れようということになった』五月十五日の『夜、女児を埋葬した墓を暴き、その場で首を切断した。そして首をY宅に持参して、脳髄を掻き出して、Yの長男に食べさせたという』但し、『却って病状が悪化したという』とある。

「千兩」江戸中期の換算の一例では一両は現在の十万円から十二万円相当とするから、一億円ほどになる。

「生(しやう)ある類(たぐひ)といえば、慈(いつくし)みの心を犬・猫にだに及(およぼ)すの時節なれば」第五代将軍徳川綱吉(正保三(一六四六)年~宝永六(一七〇九)年:将軍宣下は延宝八(一六八〇)年五月)の「生類憐れみの令」は、概ね、天和二(一六八二)年頃から貞享二(一六八五)年頃にかけて政策的には通達されたものらしく、今、現在では、貞享二年七月十四日に、将軍の御成の際には犬や猫を繋ぐ必要はないという法令が最も支持されているようである。因みに、本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版したものである。本書の際立った特色である直近のアーバン・レジェンドという体裁が、よく利いている

「傷寒(しやうかん)」漢方では、広義には、体外の環境変化によって経絡が侵された状態を、狭義には現在の「腸チフス」の類を指すとされる。

「究竟(くつきやう)」ここは、「お誂え向き」の意。]

 

 此折りしも、秋の田の借庵(かりいほ)も露たまらず、夜な夜な、猪の出でて、田畠をあらしけるによりて、仰木(あふぎ)・伊香立(いかたち)・龍華(りうげ)村など、其邊(そのへん)近在の百姓ら、心をあはせ、日どりを極(きは)め、明ぼのゝ空より猪狩(しゝかり)を思ひたち、責皷(せめづゝみ)、うちたて、手鑓(てやり)・突棒(つくばう)、おもひおもひの得ものを持ちて、こゝかしこより、狩り出だし、猪(しゝ)・猿・狸の數を盡し、おつ詰め、おつ詰め、切りとり、突きたふし、谷峰をいはず分けいりける所に、伊香立の村より大原の方(かた)へ打ち越(こゆ)る峠あり。その麓は殊さらに木立茂り、枝さしおほひて、大かたは晝さへも暗き所なりけるが、ふしぎや、此森のおくにあたりて、何とはしらず、白きもの見ゑしかば、人々、さしのぞき、

「何ならん。」

と見れども、動くにもあらず、只、丸(まろ)く白き切木口(きりこぐち)のやうに見えしかば、斥候(せこ)の者をいれて、驅(か)らせしに、新しき棺桶にて、縱橫(たてよこ)に繩をかけたるが、桶の底より蓋のめぐり迄、鐵(てつ)の細金物(ほそかなもの)を透間(すきま)なく打ちて、たやすく開かざるやうに仕(し)たるなりけり。

[やぶちゃん注:「秋の田の借庵(かりいほ)も露たまらず」「後撰和歌集」に載る天智天皇御製とする一首(三〇二番)で「小倉百人一首」の巻頭にも置かれて知れ渡った、

 

   題しらず

 秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ我が衣手(ころもで)は露にぬれつつ

 

に基づく。但し、この一首は天智天皇の作なんぞではなく、「万葉集」巻第十の「秋雜歌」にある(二一七四番・詠み人は記されていない)、

 

 秋田刈る刈廬(かりほ)を作り我が居(を)れば衣手寒く露そ置きにける

 

の改作或いは異伝である。流石に、この和歌に注釈はいるまい。これを元にしつつ、実った稲を警護する粗末な仮小屋の藁葺にさえ夜露が溜まる余裕もないほどに、猪や猿や狸や狼が田畑を荒し廻って、と洒落たのである。

「仰木(あふぎ)」現在の滋賀県大津市仰木町(おおぎちょう)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。滋賀県であるが、地図を見てお判りの通り、西で京都府の大原地区と接しており、県境付近は山間部である。

「龍華(りうげ)村」現在の、京都市左京区大原小出石町(おおはらこでいしちょう)と滋賀県大津市伊香立(いかだち)途中町(とちゅうまち)の境に位置する峠、「途中越(とちゅうごえ)」があり、この峠は「栃生越(とちゅうごえ)」「竜華越(りゅうげごえ)」「途中峠」とも呼ばれる。参照したウィキの「途中峠」によれば、峠の標高は三百八十二メートルで、『峠の名称は、延暦寺の僧侶で千日回峰行を創始した相応和尚(そうおうかしょう)がそれぞれ開山した無道寺』(八六五年開山・延暦寺山内にある)と葛川明王院(八五九年開山)の『中ほどに位置する「龍花村」を「途中村」と命名したことから』(下線やぶちゃん)、『途中越と呼ばれるようになったと伝えられている』。『また、龍華越または橡生越』『とも称されたほか、朽木にあった橡生村と区別するため』『に龍華橡生とも称された』とある。峠は、この中央附近(グーグル・マップ・データ)であるが、以上の記載(下線部)から、この龍華村はその滋賀県側である現在の途中町(ここ(グーグル・マップ・データ))であることが判る。

「切木口(きりこぐち)」ここは「木を加工材木用に根元の方を切って転がしたもの」の謂いと採る。

「斥候(せこ)」「せこ」の読みはママ。これは「せきこう・せつこう(せっこう)」の略なのではなく、鳥獣の狩猟に於いて獲物を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫「かりこ」「せこ」、「勢子」「列卒」などと漢字表記するそれを当て訓したものと採る。]

 

 百姓ども、いよいよ怪しみおもひて、鍬の刃・手鑓などを取りのべ、

「打ちわらん。」

とひしめきけるを、彼(か)の孤(みなしご)の兄久(きう)六、さいかく者にて、「刄(は)なし鑿(のみ)」といふ物を尋ね出だし、先づ金物を引きはなして蓋をあけたれば、内より彼の淸七が方に育立(そだちた)つる我が妹を、生ながら、高手小手(たかてこて)に縛りあげ、口は「ねぢわら」といふ物をこめて、おしいれたる也。

[やぶちゃん注:「さいかく者」「才覺者」。

「刄(は)なし鑿(のみ)」鏨(たがね)のことであろう。鏨自体には刃はあるが、鑿(のみ)ようには鋭くないから、この謂いは腑に落ちる。

「高手小手」手を後ろに回させて、首から肘・手首に繩を掛け、厳重に縛り上げること。

「ねぢわら」「捩ぢ藁」と採っておく。当初は、声を立てることができないように、藁の束を大きく丸めたものをただ口の中に捻じ込んだものと思っていたが、図を見ると、女の口から後頭部の項(うなじ)にかけて、縛った紐が見えるから、これはそうした丸状の藁玉に藁紐を通し、口に含ませた上、吐き出すことが出来ないように、その藁紐を後ろに回して縛ったものと推定される。]

 

 久六、大きにおどろき、

「こは、何(なに)といふ事にか。」

と、先づ、繩をほどき、樣子を聞くに、淸六が惡行、利春が術(てだて)、ひとつひとつ、顯はれしかば、

『ちか比(ごろ)、憎き仕業(しわざ)、いかゞせん。』

とおもへど、譜代の主(しう)といひ、殊に厚恩の程をおもへば、自(みづか)ら敵(かたき)となりて主人を罪せんもいかゞ也(なり)、又、恨みざらんも本意(ほい)なく、

「吃(きつ)。」

と案じ出だし、件(くだん)の棺桶に生捕(いけど)りにしたる狼、二疋を入れ、もとの如くからげ、森の中に投げすてゝかへりぬ。

 かくとはしらず、利春と淸六の兩人、手々に相口(あいくち)のねたばをあはせ、夜に入りて、此森に來たり、件の桶をかきて、そのあたり近き宮の森に行き、神輿(みこし)部屋のありしを、鎖(でう)、捻(ねぢ)きりて、押入(おしい)り、内より扉を釘づけにして、よくかため、扨(さて)、彼の桶を打ちくだきけるに、おもひの外なる獸(けだもの)二疋、棺桶より飛び出で、二人のものをさんざんに喰(くひ)ちらし、窓をつきやぶりて逃げさりける。

 此騷動の音を聞きつけ、田の水落さんと思ひて、野に出あひたる百姓ども、われ一〔いち〕とかけつけ、戸びらを打ちやぶり、こぢはなしなどして、漸(やうやう)亂れ入りけれども、はや、二人のものは跡かたなく狼の餌(ゑ)となし、うで・くび・骨のあまりなど、血にまみれて殘りたるを、急ぎ、地頭に注進し、そのゆへをたづねさぐりけるにぞ、惡事、紛(まぎれ)なく顯はれ、終に跡をぞ絶れける。

 

 

御伽百物語卷五終

[やぶちゃん注:「相口(あいくち)のねたばをあはせ」「相口」は「匕首」。正しい歴史的仮名遣は「あひくち」。鍔(つば)のない短刀。長さから「九寸五分(くすんごぶ)」(二十九センチメートル弱)とも称した。「合口」とも書き、これは鞘の口と柄(つか)の口が直接、合うことに由来する。「ねたばをあはせ」は「寢刃を合はせ」で、研ぎ澄まされた刃先に砥石などをかけて、刀剣類の切れ味をよくさせることを指す。山盛りにした砂の中に何度も刃を差し込んだりするのも、その一方法である。]

 

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