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2018/05/26

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(一) 序・一 メンデルとド、フリース

 

    第十六章 遺傳性の研究

 

 前にも述べた通り遺傳に關する實驗的研究は、今より二十六七年前から遽に[やぶちゃん注:「にはかに(にわかに)」。]盛になつたものであるが、その理由は次の如くである。前世紀の中頃にオーストリア領のブルンといふ町の或る寺にグレゴール・メンデルといふ和尚があつて、この人が寺の仕事の餘暇に、種々の碗豆[やぶちゃん注:「えんどうまめ」。]を庭に植えて、違つた品種の間に雜種を造り、數年間實驗を續けた結果、遺傳に關する頗る面白い新事實を發見したので、之を短く書き綴つて、その地方の博物學會の會報に載せて置いた。然るに田舍の小雜誌であつたためか、世間の學者は一向これに注意した人がなくて、三十幾年かの間は全く忘れられて居たが、一千九百年に至つて、オランダド、フリースドイツコルレンスオーストリヤチュルマックといふ三人の植物學者によつて、偶然にも殆ど同時に見附け出された。ド、フリース等はその前から品種間の雜種を造つて、遣傳の研究に從事して居たが、他人の古い論文の中に、自分の研究に關係のあることが出ては居ないかと、彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]探す中にこの報告を見出して、讀んで見ると極めて面白いことがあつて、然もそれが已に三十何年も前に發表せられてあつたから、大に驚いて、直に之を世に紹介した。それから急に、こゝでもかしこでもメンデルの曾て行つたのと同樣な實驗を試みる人が澤山に出來て、續續と新しい事實が發見せられ、雜種研究の有望なことが明になると同時に、メンデルの名は遽に世間に弘まり、非常に有名となつて、今では遺傳のことを論ずるに當つて、メンデル的といふ形容詞や、「メンデ」り、「メンデ」る、「メンデ」らん、などといふ四段活用の動詞までが用ゐられるやうになつた。今日盛に行はれて居る遺傳の研究も、その大部分は、昔メンデルの行つたと同樣のことを、たゞ材料を變へて試して居るだけである。

[やぶちゃん注:「オーストリア領のブルン」旧オーストリア=ハンガリー帝国領であった、現在のチェコ共和国第二の都市でモラヴィア地方の中心都市ブルノ(チェコ語: Brno)。ドイツ語名はブリュン(Brünn)またはブルン Brunn)。メンデルが入った修道院は“Augustinian St Thomas's Abbey”(英語)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「グレゴール・メンデル」遺伝の基本法則「メンデルの法則」で知られる植物学者で遺伝学の祖とされるグレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel 一八二二年~一八八四年)は司祭。ウィキの「グレゴール・ヨハン・メンデル」によれば、『メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた』。一八四七年に『司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える』。一八五〇年には『教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった』。一八五一年から二年間、『ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名なクリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ』。『ブリュンに帰ってからは』、一八六八年まで『高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが』、『失敗している。この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した』。この頃には一八六〇~一八七〇年に『かけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない』。『メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは』、一八四七年に『司祭として修道院の生活を始めた時である』。一八六二年には『ブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。有名なエンドウマメの交配実験は』一八五三年から一八六八年までの『間に行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があり様々な形質や品種があり、人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した』。『次に交配実験に先立って、種商店から入手した』三十四品種の『エンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に』二十二品種を選び出している。『これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった』。『その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で2n=14であるからである』。『この結果は口頭での発表は』一八六五年に『ブリュン自然協会で、論文発表は』一八六六年に『ブリュン自然科学会誌』で行われ、タイトルはVersuche über Pflanzen-Hybriden(植物雑種に関する実験)であった(太字下線やぶちゃん。以下、同じ)。『さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナ』(キク亜綱キク目キク科タンポポ亜科ヤナギタンポポ属ミヤマコウゾリナ(深山顔剃菜・深山髪剃菜)Hieracium japonicum)『による実験を勧められ、研究を始めたが』、『この植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから』、『交配実験から遠ざかることになった』。一八六八年に『修道院長に就任し』、『多忙な職務をこなしたが』、一八七〇年ごろには『交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった』。『メンデルは、研究成果が認められないまま』、一八八四年に『死去した。メンデルが発見した法則は』、その十六年後の一九〇〇年に、ここに出る三人の『学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらにより再発見されるまで埋もれていた。彼らの発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し』、『発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった』のであった。

「碗豆」マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativumウィキの「エンドウ」によれば、『メンデルは遺伝の研究』では『特に』『遺伝子雑種と』『遺伝子雑種の研究が有名であ』り、その『遺伝子雑種の研究について』は、

・エンドウの種子には「丸型」と「皺(しわ)型」があること。

・純系の「丸型」と「皺型」を自家受精させたものの種子を調べると全てが「丸型」であったこと。

が大きなポイントで、これは「丸型」の形質が「皺型」の形質に対し、『優性であることを示して』おり、『メンデルはこれを『優性の法則』と呼んだ』。として、

・生まれてきた丸型の種子を自家受精させると、丸型:皺型=31の比率で種子ができたこと。

で、『これは体細胞で対になっている対立遺伝子は配偶子形成の減数分裂第一分裂の際、二手に分かれ』、『それぞれ別の配偶子に入ることを示してい』るものであった。『メンデルはこれを『分離の法則』と呼んだ』。『メンデルがエンドウを材料に使った理由は、そのころ』、『すでに数人の研究者によって、遺伝実験の材料として使われたことがあったためと思われる。エンドウは自家受粉が可能で、多くの品種があり、このことも遺伝の実験には好都合だったと見られる』とある。

「ド、フリース」ユーゴー・マリー・ド・フリース(Hugo Marie de Vries 一八四八年~一九三五年)はオランダの植物学者・遺伝学者。ウィキの「ユーゴー・ド・フリース」によれば、オオマツヨイグサ(フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta)の栽培実験によって、一九〇〇年に『カール・エーリヒ・コレンスやエーリヒ・フォン・チェルマクらと』、それぞれ独自に『メンデルの法則を再発見した。さらにその後も研究を続け』、翌一九〇一年には『突然変異を発見』、彼は『この成果に基づいて、進化は突然変異によって起こるという「突然変異説」を提唱した』。『政治家の息子としてオランダのハールレムに生まれた。ライデン大学・ハイデルベルク大学で植物分類学を学び、オランダの植物相の専門家となった。のちにヴュルツブルク大学のユリウス・フォン・ザクスの研究室へ入り、ここで植物生理学の分野で重要な貢献をした(膨圧、呼吸、成長、原形質分離など。「原形質分離」という言葉を作ったのもド・フリースである)。ここでの研究はヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフの浸透圧の研究にも影響を与えた』。一八七八年に『アムステルダム大学の植物学の教授となり、この頃から遺伝の研究に移』り、一八八九年には『これまでの遺伝に関する研究をまとめた『細胞相互間のパンゲネシス』(Intracellular Pangenesis)』(「パンゲネシス」は獲得性遺伝を説明するためにダーウィンが一八六八年に唱えた仮説。「gemmule(ジェミュール:芽球)」という自己増殖する粒子が各細胞にあって、それが外界から種々の影響を受け取って生殖細胞に集まり、次代になって再び各器官に分散して遺伝現象を起こすというもの。これによれば、後天的獲得形質は遺伝可能となる。無論、現在は歴史的興味を留める旧説に過ぎない。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『を出版した。論文中で彼は遺伝を決定する細胞内の要素をパンゲンと名づけた。この理論を研究するため』、一八九二年から『植物の栽培実験を始めた。そして』四年後の一八九六年、『メンデルの法則を再発見した。彼はこの結果をしばらく発表しないでいたが』、一九〇〇年に三十四年前の『グレゴール・ヨハン・メンデルの論文を知り、自身の論文を発表した』。『微小な変異が蓄積して新種が生じるというチャールズ・ダーウィンの説に懐疑的にだったド・フリースは』一八八六年から『アムステルダム近郊でオオマツヨイグサの栽培実験を始めた。彼は、この研究において生じたいくつかの変異株が常に同一形質の子を生ずることに気付いた。彼はこれをパンゲンが変化したために』、『それに支配される形質だけが標準型と異なる「新種」が生まれたとして、これを突然変異と名づけた。そして進化はこのような突然変異による新種に自然選択が働いて起こると考え』、その結果を一九〇一年から『突然変異論』(The Mutation Theory)として出版した』(「から」というのは後で丘先生が本文で言われるように、一九〇三年にも追加しているからである)。『しかしながら』、『後にこの植物の染色体の遺伝的構成はきわめて複雑なことが判明し、ド・フリースの観察した結果は三倍体ないし四倍体による変異であると説明されるようになった。それでも、彼の理論は現在でも』、『ある種について進化に繋がる変異がどの程度起きるかを考察するために重要なものとみなされている』とある。

「コルレンス」カール・エーリヒ・コレンス(Carl Erich Correns 一八六四年~一九三三年)はドイツの植物学者・遺伝学者。ウィキの「カール・エーリヒ・コレンス」より引く。『彼は第一に、彼自身の遺伝学における法則の発見によって、そして遺伝学に関するグレゴール・ヨハン・メンデルの初期の論文を、植物学者であるエーリヒ・チェルマック及びユーゴー・ド・フリースとほぼ同時に、しかしそれぞれ独立して再発見した(いわゆるメンデルの法則の再発見)ことによって知られる』。『コレンスは、当初はカール・ネーゲリの学生であった。ネーゲリは、メンデルが自分のエンドウマメで行った遺伝の研究について論文を送ったにもかかわらず、その研究の重要性を理解できなかった著名な植物学者であ』り、『また、チェルマックはメンデルのウィーンでの学生時代に植物学を教えた人物の孫であった』。『ミュンヘンで生まれた。幼い頃に両親を亡くしたので、スイスに住む叔母によって育てられた』。一八八五年に『ミュンヘン大学に入学し、そこでメンデルが自身の行ったエンドウマメの実験について論文を送付した植物学者であるカール・ネーゲリに師事して植物学を学んだ』。『自身の学位論文を書き上げた後』、一八九二年に『テュービンゲン大学の私講師となり、さらにライプツィヒ大学およびミュンスター大学での教授職を経て』、一九一三年、『ベルリン郊外のダーレムに新しく設立されたカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所の初代所長となった』。『コレンスは』十九『世紀の変わり目頃に遺伝学の分野における多くの基礎的な仕事を行った。彼はメンデルの業績を別のモデル生物を用いて独自に追試し、再発見した。彼はまた、メンデルの法則の重要な進展となる細胞質遺伝を発見したが、これはメンデルの法則を越えて遺伝学を大きく拡大したものであり、表現型に関係を持つものが染色体外にも存在することを証明していた。しかし、コレンスのほとんどの研究は未発表に終わり』、一九四五年の『ベルリンの戦いにより』完全に破壊され』てしまっている。『テュービンゲン大学時代の』一八九二年、『コレンスは植物における形質の遺伝について実験を開始した。彼はメンデルによるエンドウマメの実験の結果を知らないで、メンデルが行ったのと同じ実験を、主にヤナギタンポポ』(キク目キク科ヤナギタンポポ属ヤナギタンポポ Hieracium umbellatum『により行った。コレンスは最初の論文を』一九〇〇年一月二十五日に発表しているが、『彼はその中でチャールズ・ダーウィンとメンデルの両方を引用したが、遺伝学とダーウィンの進化論の関連性については十分に理解していなかった。コレンスの論文『交配種の子孫の様式に関連したグレゴール・メンデルの法則』において、彼はメンデルの研究結果、分離の法則及び独立した組み合わせの法則について言及した』。『メンデルの遺伝の法則を再発見した後、コレンスはオシロイバナ』(ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa)『を用いて、その変化に富んだ(緑と白のまだらの)葉の色の遺伝を研究した。彼が再発見したメンデルの法則は染色体の振る舞いそのものであったが、彼はオシロイバナの研究によって、メンデルの法則に対する明確な反例を探しだした。メンデルの法則では、その形質はその元になる両親の性別とは独立して振る舞うのに対して、コレンスは、この例では葉の色はその性質を持つ親がどちらの性であるかに大きく依存していることを発見した。例として、白い枝に別の区域の白い花からの花粉で受粉すると』、『白い子孫を生じ、これは劣性遺伝子であれば当然予測される結果である。緑の柱頭に緑の花粉を受粉すると、すべて緑色の子孫を生じ、これも優性遺伝子ならば期待通りの結果であった。しかしながら、もし白い柱頭を緑の花粉で受粉すると子孫は白くなるが、花粉と柱頭の組み合わせを逆にして緑の柱頭を白い花粉で受精すると、子孫は緑であった』。『この、メンデルの法則から外れた遺伝のパターンは、後に』 IOJAP(葉緑体蛋白質合成が起こらない白色変異の一つを出現させる遺伝子)『と名付けられた遺伝子であることが突き止められた。これは、葉緑体リボソームを適切に組み立てるために必要な小さな蛋白質をコードしたものである。たとえ』IOJAP『がメンデルの法則にしたがって類別しても、もし母系がホモ接合型劣性であるなら、その蛋白質は産生されないので葉緑体リボソームも形成されず、細胞小器官の中にリボソームは取り込まれないことからプラスミドは機能しない結果となる。子孫は iojap の機能的なコピーを持っているかもしれないが、たいていの被子植物では、葉緑体はその大部分が母方から排他的に伝えられるので、それらはそれ以前の世代では不活性であり、白い植物となったことだろう。逆にもしも父方が白く、緑色の母方と交配すると、この母は機能を保った葉緑体を持っているから、子孫は機能的な葉緑体のみを引き継いで緑色になる』。一九〇九年の『論文において、彼は葉の斑入りが細胞質遺伝の最初の包括的な例であることを立証した』とある。

「チュルマック」エーリヒ・フォン・チェルマク(Erich von Tschermak-Seysenegg 一八七一年~一九六二年)はオーストリアのウィーン出身の農学者(遺伝・育種)。ウィキの「エーリヒ・フォン・チェルマク」より引く。『初期は園芸品種の改良に関心を示した』。『フライブルクの農場で従事し、病害に強い品種の開発を行い、その中には交雑種を含むムギの品種改良が含まれている』。一九〇〇年に『オーストリアの国営農場でエンドウの交配実験を行い、チェルマクはユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンスと並び、グレゴール・ヨハン・メンデルが』一八六〇年に『発表したメンデルの法則を再発見した人物とされ』る。一九〇六年には『ウィーン農科大学の教授を務めた』とある。

『メンデル的といふ形容詞や、「メンデ」り、「メンデ」る、「メンデ」らん、などといふ四段活用の動詞までが用ゐられるやうになつた』私は聴いたことがないが、明治末から大正期にかけてはこんな新語があったのであろう。面白い。]

 

 遺傳に關する近頃の議論を書いたら、その大要だけを摘んでも悠に一册の書物となる程であるから、本書に於ては無論その一部分より述べることは出來ぬ。元來本書は生物進化のことを通俗的に説明するのが目的てあるから、遺傳に就いての樣々の假説を掲げる必要はないやうにも思ふが、遺傳のことを書いた新しい書物の中には、往々事實と假説とを混合して、或る一派の人々の唱へる假説までも、已に確な事實であるかの如くに書いたものもあつて、讀者をして自然淘汰説が已に他の新説と交代したかの如き感を抱かしめぬとも限らぬから、本章に於て、近來の實驗で確められた遺傳上の事實と、之を説明するために考へ出された學説の中で重要な部分だけを短く紹介する。


     一 メンデルド、フリース

 

Mendel

[メンデル]

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。後のド・フリースの肖像も同じ。]

 

 グレゴール・メンデルは一千八百二十二年にオーストリヤシュレジヤ地方の或る村で生れた。姓を聞くとユダヤ人かと思はれるが、實は純粹な獨逸人で、高等學校を卒業してから、ブルン町の寺に入つて僧侶となり、寺の費用でヴィーン大學に人學し、三年間理科を修め、歸つてからは町の實科學校で、理科を受持つて居た。遺傳の實驗をしたのはその頃で、八年間寺の庭で研究を續け、その結果を千八百六十五年の春、ブルン博物學會の例會で講演し、後これを同會の會報に掲げた。後世の實驗遺傳研究の手本となつたのは、この僅に三十頁ばかりの報告である。一千八百六十八年、卽ち我が國の明治元年に教員を止めてからは、專ら寺の和尚となり、研究も中絶したが、その後、寺院の課税問題に就いて政府に反抗し、晩年は極めて不愉快な生活をして、終に一千八百八十四年、卽ち明治十七年に六十三歳で死んだ。さればメンデルの名が急に世に知られたのは、當人の死後十數年を經てからである。

[やぶちゃん注:「オーストリヤ領シュレジヤ地方の或る村」メンデルは旧オーストリア帝国のハインツェンドルフ(Heinzendorf:現在のチェコ・モラヴィアのヒンチツェ(Hynčice)。ここ(グーグル・マップ・データ))に小自作農の果樹農家の子として生まれた。母語はドイツ語であった。

「寺院の課税問題に就いて政府に反抗し、晩年は極めて不愉快な生活をして、終に一千八百八十四年、卽ち明治十七年に六十三歳で死んだ」小学館「日本大百科全書」によれば、後年の『メンデルは、交配実験のやりにくいミヤマコウゾリナの研究で目を悪くしたうえ』、一八六八年の『選挙で聖トマス修道院の院長に選ばれ、雑用に追われる身となり、遺伝研究を続けることができなくなった』一八七四年、『オーストリア議会が修道院からも徴税する法律を制定、彼はその反対闘争に立ち上がり、死ぬまでの』十『年間は』、『その撤回のための闘いに全精力を傾けた。政府の懐柔策と闘ううちに、周囲からも裏切られ、孤立し、しだいに人を信じない気むずかしい老人となり』一八八四年一月六日、『この世を去った』とある。私は中学生の頃、少年向け科学書で、彼の発見が生前、全く顧みられなかったこと、そしてこの晩年の話をも読み、それ以来、メンデルがとても可哀想に思われた。今も同じである。]

 

 メンデル以前にも相異なつた品種間に雜種を造つて見た人は幾らもあつたが、特にメンデルが他人の見出し得なかつた面白い新事實を發見したのは何故であるかといふに、一はかの選んだ材料が偶然にも丁度適當なものであつたにも因るが、また彼の用ゐた實驗の方法が頗る注意深くあつたためである。雜種を造るに當つて、彼は決して一代で滿足せず、更に引き續いて幾代も培養し、常に他の花から花粉の飛んで來ぬやうに、一個一個の花を保護して、その花だけで果實を生ぜしめ、更に之を蒔いて、性質の相異なつたものが生えれば、一代每にその數を精密に算へて置いたが、斯くして第一代雜種は皆一樣である場合にも、第二代以後には樣々の相異なつたものが出來て、然もその間の數の割合が略々一定して居ることなどを發見した。今日でも彼の用ゐたのと同じ材料を用ゐ、同じ方法で實驗さへすれば、誰でも容易に彼の得たと同樣の結果を見ることが出來る。雜種による遺傳研究の今日頗る盛であるのも、一はその比較的容易に行はれ得るためであらう。

 

Dofrice

[ド、フリース]

 

 フーゴー、ド、フリースは一干九百年にメンデルの古い研究を世に紹介した一人であるが、この人は一千八百四十八年にオランダハールレム市で生れ、自國ではレイドン、獨逸ではハイデルベルヒヴュルツブルヒ等の大學で修業し、一千八百七十七年卽ち明治十年にアムステルダム大學の植物學教授となつて、今もそのまゝ勤めて居る。初めは主として植物生理を研究して居たが、遺傳・變異等の問題にも大なる興昧を持ち、曾て「細胞内パンゲン説」と題する面白い册子を書いたことがある。遺傳・變異等の實驗研究の材料として、最も適當な植物を色々探して居る内、一千八百八十六年にアムステルダムの附近のヒルフルスムといふ村の荒畑で、不圖[やぶちゃん注:「ふと」。]月見草に面白い變異のあることを見附け、早速、アムステルダム大學の植物園に移し植ゑ、それからは全力を盡して月見草の變異の研究に從事し、何萬本ともなく培養したが、一千九百年には曾てメンデルが發見したと同樣の事實を確め、一干九百一年と同三年とには「突然變異説」と題する二册物の立派な書物を著した。この書はド、フリースが十五年間の實地研究に基づいたもので、議論の基礎とする事實が頗る確實で且豐富であつたから、忽ち非常な評判となり、後アメリカから招かれて講演に行つたときなどは、同地の新聞紙にはダーウィンの自然淘汰説は全く倒れて、ド、フリースの突然變異説がその代りに立つた如くに囃し立てた。動植物學者間に雜種の研究の流行し始めたのは丁度その頃で、それ以來は新しい實驗の報告が殆ど絶え間なく澤山に發表せられ、今日では之を掲載するための專門の雜誌が、イギリスドイツ等に二三種も刊行せられ、最近にはアメリカにも「遺傳の雜誌」といふ表題の雜誌が出來るに至つた。

[やぶちゃん注:「オランダのハールレム市」ハールレム(Haarlem)は現在のオランダの北ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)で、州都が置かれている都市。因みに、ニューヨークのハーレム(Harlem)地区の名称はこのハールレムに由来する(オランダ移民が作ったからという。以上はウィキの「ハールレム」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「レイドン」ライデン大学(オランダ語: Universiteit Leiden)。オランダ国内の大学としては最も古い。一五七五年設立。

「ハイデルベルヒ」「大學」ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク(ドイツ語:Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg)。一三八六年創立のドイツ最古の大学。通称は「ハイデルベルク大学」。

「ヴュルツブルヒ」「大學」ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク(ドイツ語:Julius-Maximilians-Universität Würzburg)。通称は「ヴュルツブルク大学」。一四〇二年創立。

「細胞内パンゲン説」序の注のド・フリースの中で注した「パンゲネシス」(Pangenesis)の略称。

「アムステルダムの附近のヒルフルスムといふ村」オランダ中部北ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)ヒルフェルスム(オランダ語:Hilversum)。(グーグル・マップ・データ)。

「月見草」この場合は、ド・フリースの先の注で示したフトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta を指している。一般に本邦では本種や同属のオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala、及びコマツヨイグサ Oenothera laciniata などを「月見草」と呼んでいるので、世間一般での呼称に合わせたならば間違いではないが、狭義の種としては、マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera を指すので、生物学書としては、ここは「マツヨイグサ」或いは「月見草(マツヨイグサ)」としなければ、甚だまずい。なお、以上の種は総てが帰化種である。因みに、私は黄色いオオマツヨイグサ・やマツヨイグサが嫌いである(従って太宰のあのキャッチ・コピーも好かぬ(太宰治の小説「富嶽百景」昭和一八(一九四三)年新潮社刊)の有名な『富士には月見草がよく似合ふ』というフレーズの「月見草」とは実はオオマツヨイグサのことである。だって富士に『相(あひ)対峙(たいじ)し』て『けなげにすつくと立つてゐた』と出るのはとてもとてもツキミソウではない!)。但し、砂浜海岸に見られるコマツヨイグサやハマベマツヨイグサ Oenothera humifusa (コマツヨイグサに似るが茎が直立する。やはり帰化種)はいい。しかし、前者は鳥取砂丘で砂丘を緑化する「害草」として駆除されているらしい。可哀想!)。ユウゲショウ Oenothera rosea (帰化種)に至っては、これ見よがしな紅がはっきり言って嫌い! 私が好きなのは、もうお分かりと思うが、唯一正統る「月見草」、白色の可憐なツキミソウ Oenothera tetraptera なのである(グーグル画像検索「Oenothera tetraptera――白い花だけをご覧下)。……三十五年前、独身だった私の新築前の古い家の地所内の玄関脇には、野生の、この白いツキミソウ Oenothera tetraptera の群落があったのだった。毎日のように泥酔して帰ると、この時期、夢幻(ゆめまぼろし)のように闇の中に十数輪の月見草がぼうっと輝いていたものだった。……ある夜、それを楽しみに千鳥足で帰ってみると……門扉の中側でありながら……一株残らず……綺麗にシャベルでこそがれて持って行かれていた……私はユリィディスを失ったオルフェのように地べたに膝をついて号泣したのだった……私はそれを偸んだ奴を実は知っている……あの裏山を越えたところに今も住んでいる老婆だ……今も私は恨んでいる……『君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから』……(漱石「こゝろ」より)……

『最近にはアメリカにも「遺傳の雜誌」といふ表題の雜誌が出來るに至つた』不詳。識者の御教授を乞う。]

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