フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »

2018/06/30

大和本草卷之八 草之四 鳥ノ足 (イロロ)

 

【和品】

鳥ノ足 一根ニ枝多シ葉形如海松只甚薄褐色

 鋒兩又アリ煮テ可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「鳥ノ足」 一根に枝多し。葉の形、海松〔(ミル)〕のごとし。只〔(ただ)〕、甚だ薄くして褐色なり。鋒〔(さき)〕に兩〔つの〕又〔(また)〕あり。煮て食ふべし。

[やぶちゃん注:益軒の形状解説及び料理法と、ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「イロロ」のページに、『高知県宿毛市では春にとり』、『乾かして年間を通して食べる。とれる量が少なく食用にする習慣のない愛媛県まで取りに行くこともあるという』。『大分県国東市国東町では採取し、乾燥させて市販されている。これを「とりのあし」という』。『また室町時代の「毛吹草」にもこの言葉があり、この点でもイロロ=「とりのあし」というのは面白い』とあって、「毛吹草」の作者江戸初期の俳人松江重頼(しげより 慶長七(一六〇二)年~延宝八(一六八〇)年)は京都の商人であり、本種の食文化が主に西日本であるように思われること、さらに大分県国東市国東町で本種を食べる習慣が現在もあることが、生涯の殆どを福岡で過ごした益軒と強い親和性を示していると感じられることなどから、これは、

褐藻植物門褐藻綱イシゲ目イシゲ科イシゲ属イロロ Ishige foliacea

と同定してよい。田中二郎解説の「基本284 日本の海藻」によれば、イロロは『春に生育』し、『日当たりのよい潮間帯中部の岩上にイシゲ』(イシゲ属イシゲ Ishige okamurae)『やイワヒゲ』(褐藻綱シオミドロ目カヤモノリ科イワヒゲ属イワヒゲ Myelophycus simplex)『とともに群生する。基部は円柱状で大変に細』く、『葉状部は帯状』を成し、『二叉分岐する。潮が引いて乾燥している状態では真っ黒であるが、水に浸かっているときは濃い褐色をしている。時にイシゲの上に着生することがあり、以前はイシゲと同種ではないかといわれたことがあった。乾燥させて刻んで食する。乾燥させても数日生きている。和名は志摩地方の方言に由来する』とある。なお、ぼうずコンニャク氏は先のページの解説で、『関東では「とりのあし」はユイキリのこと』を指すとも述べられている。紅藻綱テングサ目テングサ科ユイキリ属ユイキリ Acanthopeltis japonica の形状はしかし、益軒の解説とは全く一致しないし、そこに書かれたように食することは考えにくい代物である(田中二郎氏の「基本284 日本の海藻」によれば、ユイキリは寒天原藻の材料となるが、他のテングサ類に比すと質が劣るとある)。

「海松〔(ミル)〕」既出の緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。]

大和本草卷之八 草之四 雞冠菜(トサカノリ)

 

【和品】

雞冠菜 順和名抄ニ出タリ其形雞冠ノ如シ食スヘシ紅

 色也附石而生

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「雞冠菜(トサカノリ) 順が「和名抄」に出でたり。其の形、雞冠〔(とさか)〕のごとし。食すべし。紅色なり。石に附きて生ず。

[やぶちゃん注:刺身のツマでお馴染みの、紅藻植物門紅藻綱スギノリ目ミリン科トサカノリ属トサカノリMeristotheca papulosa。平凡社刊の田中二郎解説の「基本284 日本の海藻」によれば、『Meristotheca は「分かれた+莢(さや)」』、『papulosa 「乳頭状突起のある」』の意(本邦では同属は二種が知られる)で、『先端の枝分かれ形が、ニワトリの鶏冠』(とさか)『のようなのでこの名がある。平面的に広がる肉質のからだは、生長すると折れやす』くなり、同時に『瘤(こぶ)状の突起がたくさん出る』ようになることや、固体変異がかなりあり、時にかなり特異な形状を呈したりし(後の鈴木雅大氏の解説を参照)、『老成した個体と若い個体で』も『形態がいちじるしく異なることがあ』って、和名のように『鶏冠を連想させる形態は若い時期のものである』とある。『生体は紅色であるが、熱湯を通せば、赤い色素が変成して、葉緑素の色が緑色として残る。さらにそれを水にさらすと、すべての色が溶け出して白くなる。これらを乾燥させたものを組み合わせて、「赤トサカ」、「青トサカ」、「白トサカ」の海藻サラダ』三『点セットとして売られている』とある(後の鈴木氏の説明によれば、現在の三色サラダのそれは『海外から輸入したものが主となっているよう』だとある)。また、『煮出して冷やしかためたものは、「トサカコンニャク」と呼ばれて食用になっている』とある。また、サイト「生きもの好きの語る自然誌」の鈴木雅大氏記載の「トサカノリも参照されたい。そうか、もう、これも、日本ではレッド・リストか。

『順が「和名抄」に出でたり』(国立国会図書館デジタルコレクションの「和名類聚抄」(寛文七(一六六七)板)の当該頁画像)。訓読翻刻しておく。

   *

雞冠菜(トリサカノリ) 楊氏漢語抄に云はく、「雞冠菜」【土里佐加乃里。式文に「坂苔」を用ふ。】。

   *]

大和本草卷之八 草之四 鷓鴣菜(マクリ)

 

【外】

鷓鴣菜 閩書曰生海石上散碎色微黑小兒腹中

 有蟲病少食能愈○甘草ト同煎用ユレハ小兒腹中

 蟲ヲ殺ス初生ニモ用ユ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「鷓鴣菜(マクリ)」 「閩書〔(びんしよ)〕」に曰はく、『海石の上に生ず。散碎〔(さんさい)し〕、色、微黑。小兒、腹中に蟲病〔(ちうびやう)〕有〔るに〕、少し食へば、能く愈〔(い)ゆ〕。』〔と〕。○甘草と同〔(とも)に〕煎じ用ゆれば、小兒〔の〕腹中の蟲を殺す。初生にも用ゆ。

[やぶちゃん注:ここで記されているものの内、本邦産の「マクリ」についての叙述部分のそれ(益軒は「閩書」(既出既注の明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌「閩書(びんしょ)南産志」のこと)のそれも全く同一のものとしているのだが)は、

紅藻植物門紅藻植物亜門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目フジマツモ科アルシディウム連マクリ属マクリDigenea simplex

ではある(問題あり。後注参照)。

 マクリは「海人草」で「まくり」と読ませるのが一般的で、二〇〇四年平凡社刊の田中二郎解説の「基本284 日本の海藻」によれば、分布は『太平洋沿岸南部、南西諸島』で、大きさは高さ十~二十センチメートル、枝の長さは二~六ミリメートル。『日本には本種のみが知られる。カイニンソウ(海人藻)とも呼ばれ、虫下しの薬として、古くからよく知られた海藻である。岩や、サンゴ礁の死んだサンゴの上に生育する。タイドプールなどにも多い。円柱状のからだには多数の毛状の枝があって、それに小型の藻が、数多く付着することがあり、元の藻体の形状が想像できないほど』、『太くなることがある』とある。他の小型藻類が多数付着していて、生態写真ではどこの部分が「マクリ」の本体か、どのような形状かが正直、全く判らぬ写真が実は多い。そんな中で、目から鱗なのが、サイト「生きもの好きの語る自然誌」の鈴木雅大氏記載の「マクリ」である。是非、参照されたい。その薬効成分はカイニン酸で、ウィキの「カイニン酸によれば、『カイニン酸(Kainic acid)は『結晶性の固体で、水によく溶け』る。昭和二八(一九五三)年に『竹本常松らにより、虫下しとして用いられていた紅藻のマクリ(海人草=カイニンソウともいう、学名Digenea simplex)から発見・命名された。これは、カイニン酸が寄生虫の回虫やギョウチュウの運動を』、『最初』、『興奮させ、のち』、『麻痺させることによる』とされ、『この作用は』『カイニン酸がアゴニスト』(Agonist:生体内の受容体分子に働いて神経伝達物質やホルモンなどと同様の機能を示す、本来、当該生物が体内に保持しない「作動薬」のこと。現実に生体内で働いている、特定の受容体(レセプター:receptor)に特異的に結合する物質の場合はリガンド(ligand)と呼ばれる)『としてグルタミン酸受容体に強く結合し、神経を過剰に興奮させることによって起こる。このため、神経科学分野、特に神経細胞死の研究のために天然抽出物及び合成品が用いられている』とある。

 但し、冒頭の漢名表記が「鷓鴣菜」となっている点と、益軒がそのしょっ鼻に「閩書」を引いている点で、実は大きな問題があるのである。

 まず、「ウチダ漢方和薬株式会社」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「【マクリ】」(同社情報誌『ウチダの和漢薬情報』の平成九(一九九七)年三月十五日号より転載されたもの)に、以下のようにある。

   《引用開始》

 一方、マクリは「鷓鴣菜」の名でも知られますが、鷓鴣菜の名が最初に現れるのは歴代の本草書ではなく、福建省の地方誌である『閩書南産誌』だとされています。そこには「鷓鴣菜は海石の上に生え、(中略)色わずかに黒く、小児の腹中蟲病に炒って食すると能く癒す」とあり、駆虫薬としての効果が記されています。

 わが国におけるマクリ薬用の歴史は古いようですが、駆虫薬としての利用はこの『閩書南産誌』に依るものと考えられ、江戸時代の『大和本草』には、それを引いて「小児の腹中に虫がいるときは少しく(炒っての間違い)食すれば能く癒す」とあります。しかし、引き続いて、「また甘草と一緒に煎じたものを用いれば小児の虫を殺し、さらに初生時にも用いる」とあり、この甘草と一緒に用いるというのは『閩書南産誌』にはないので、この記事は古来わが国で利用されてきた方法が融合したものではないかと考えられます。

   《引用終了》

『「大和本草」の記載もあって、何ら、問題ないじゃないか?』と思われるかも知れぬが、別な生薬解説サイト「健康食品辞典」の「鷓鴣菜」を読むと、「鷓鴣菜」は「マクリ」ではないと書かれてあるのである(下線太字やぶちゃん。読点を追加し、アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部も変更させて貰った)。

   《引用開始》

鷓鴣菜(しゃこさい)

 温暖な地域の沿岸や河口付近に分布する海藻コノハノリ科のセイヨウアヤギヌ(Caloglossa leprieurii)の全藻を用いる。かつて鷓鴣菜を日本の駆虫薬である海人草の別名とする説もあったが、海人草は紅藻類のフジマツモ科のマクリ(Digenea simplex)のことである。ちなみに鷓鴣とは中国南部に生息する鶉に似た鳥のことである。

 アヤギヌは一~四センチメートルくらいの紫色の偏平な海藻で、岩や防波堤に付着している。鷓鴣菜は海人草と同様にカイニン酸を含み、鷓鴣菜の煎液には回虫の駆虫作用が認められる。内服による副作用はほとんどないが、とき下痢、悪心、めまいがみられることがある。

 漢方でも駆虫の効能があり、回虫や蟯虫の駆虫薬として、大黄・甘草と配合して用いる(三味鷓鴣菜湯)。また南西諸島から台湾[やぶちゃん注:「に生息する」の脱文か?]、フジマツモ科のハナヤナギ(Chondria armata)を南西諸島ではドウモイと呼んで、古くから駆虫薬として用いていた。その有効成分はドウモイ酸と呼ばれ、カイニン酸より強力といわれる。

   《引用終了》

ここで挙げられているセイヨウアヤギヌ(西洋綾絹)は、

真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目コノハノリ科アヤギヌ連アヤギヌ属セイヨウアヤギヌ Caloglossa leprieurii

であるが、先の鈴木雅大氏の「セイヨウアヤギヌ」を見られたい。見られれば、マクリとは確かに科のタクソンで違う、全く異なった紅藻であることが判る。鈴木氏の解説によれば、本種は『亜熱帯域や熱帯域に多くみられる紅藻類で,日本では沖縄などの南西諸島に分布してい』るとある(リンク先の画像は、驚くべきことに、静岡県南伊豆町青野川青野川(ここ(グーグル・マップ・データ))河口に棲息しているものの発見の個体群なので、この青野川が「セイヨウアヤギヌの北限」あると言いたくなるところなのだが、実は『青野川河口には』昭和三四(一九五九)年に『種子島から移植されたというメヒルギ』(真正双子葉綱キントラノオ目ヒルギ科メヒルギ属メヒルギ Kandelia obovata)の群落があって、所謂、「マングローブ林」を形成しているという。『アヤギヌ類はマングローブ域に群落を形成する「マングローブ藻類」である』ことから、この『移植したメヒルギにセイヨウアヤギヌの藻体あるいは胞子(果胞子や四分胞子)が付着しており』、『それが青野川河口に移入』・『定着したという可能性が考えられます。青野川の紅藻類の分布や生育状況に関する過去の記録は無いので』、『セイヨウアヤギヌがマングローブの移植前から青野川に自然分布していた可能性も否定出来ませんが』、『現在のところ青野川以外の本州太平洋沿岸や四国沿岸でセイヨウアヤギヌが見つかっていないことから』、『人為的な移入の可能性は低くないと思います。種子島及び南西諸島で採集したセイヨウアヤギヌとの比較』、『特にDNA配列を用いた系統地理学的な解析が必要だと思います』とある。うー、楽しそうだなぁ!)。

 以上から、私は、「閩書南産志」所収の「鷓鴣菜」は「マクリ」ではなく、上記の「セイヨウアヤギヌ」或いは、先のサイトの掲げた植生海域が重なる感じのする、

イギス目フジマツモ科ヤナギノリ連ヤナギノリ属ハナヤナギ Chondria armata

を指しているのではないか? と推理するのである。而して「鷓鴣菜」を無批判に「マクリ」と当て読みして難読文字の読みばかり知っていることを自慢する輩は、同時にそれが生物学的には誤謬であることを合わせて学ぶべきであるとも言っておく。ともかくも大方の御叱正を俟つ。

 最後に。……小学校時代、チョコレートのように加工して甘みで誤魔化した「マクニン」が「ポキール」による回虫検査で卵が見つかった者に配られていたのを鮮明に思い出す。……何故なら、私はあのチョコレートのような奴が欲しくてたまらなかったから。そのために秘かにキールをする時には(リンク先はグーグル画像検索「ポキール」! 懐かしいぞう!!)、回虫の卵がありますようにと願ったものだった。……遂にその願いは叶わなかったから、私は今も、あの「マクリ・チョコレート」の味を、知らないのである…………

 

「鷓鴣菜」この「鷓鴣」(しやこ(しゃこ))とは、広義にはキジ目キジ科Phasianidae の鳥のうちでウズラ(ウズラ属ウズラ Coturnix japonica)より一回り大きく、尾が短く、茶褐色の地味な色彩をしたものの一般的な呼称である。狭義にはキジ科シャコ属Francolinusに含まれる四十一種を指すものの、このシャコ類は殆んど本邦に棲息していないから、この「鷓鴣」を日本人は鶉の別称的なニュアンスにイメージするに過ぎぬと私は思っている。因みに、これが「閩書南山志」(「閩」は現在の福建省にあった旧国名)を始めとする、中国(特に南部)での呼称であるとするならば、私は極めて高い確率で、この「鷓鴣」は中国南部・東南アジア・インドに棲息するシャコ属コモンシャコ(小紋鷓鴣)Francolinus pintadeanus に比定してよいと考えている。同種はズバリ、中国では「中華鷓鴣」「中國鷓鴣」と呼ばれているのである。さても迂遠の注になったが、「鷓鴣菜」というのは、その藻体の色からかと思うに、コモンシャコは結構、単体で更地で見ると、まさに小さな紋模様がくっきりしていて「マクリ」「セイヨウアヤギヌ」「ハナヤナギ」のくすんだ地味な色は孰れも似ていない。しかし、考えてみると、コモンシャコはあれで草地に入り込むと、叢の中に溶け込んでしまって、逆にカモフラージュの役割をしている。さても、「マクリ」「セイヨウアヤギヌ」「ハナヤナギ」は植生していても、下手をすると、それを見逃すほど、岩礁の岩に似ているのだ。それを昔の中国の人は、得意の比喩でかく呼称したのではあるまいか?

「散碎」恐らく藻体(小さいが)が拡大して見ると、細かく分岐していることを言っているものと思う。

「微黑」「マクリ」も「セイヨウアヤギヌ」も孰れも微かに黒いと言える。

「甘草と同〔(とも)に〕煎じ用ゆれば」先の「ウチダ漢方和薬株式会社」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「【マクリ】」の解説から、かく混合させて煎じるとして訓読してみた。

「初生」生まれてそう経たない乳児。しかし、乳しか飲まない乳児の消化器の中には寄生虫はいないし、「マクリ」のカイニン酸は乳児には如何なものか? 過剰に与えれば逆によろしくないように思われる。]

2018/06/29

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(一) 序・一 食物による變異

 

     第十七章 變異性の研究

 

 遺傳と變異とは極めて密接な關係のあることで、變異と離れては遺傳の研究は出來ぬ位故、この二つは殆ど同一物の兩面と見倣しても宜しからう。前章には自然に生じた變異が、如何に子孫に傳はるかを述べたが、次には先づ人工的に生活狀態を變じて、或る生物に一定の變異を生ぜしめ、更に之を繁殖せしめて、その變異が幾分でも子孫に傳はるや否やといふ問題に關し、最近の實驗の結果を述べて見よう。

Wineseibutu

[ヴィーン生物學試驗場]

[底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正して用いた。]

 

 抑人爲的に生活狀態を變じて生物體に一定の變異を生ぜしめ、これが子孫に傳はるや否やを實驗することは、生物進化の研究上に最も大切なことであるが、溫度、濕氣、食物の成分、住處の種類などを隨意に變更して生物を餌養するためには、なかなか大仕掛の設備と、之に相當する費用とを要するから、かやうな研究の出來る所は今日まだ甚だ少い。アメリカコールドスプリング、ハーボアの生物進化試驗場、フランスパリー大學の生物進化實驗室等は、當然かやうな設備があつて宜かりさうなものであるが、現今の所では經費等の都合で、まだ一向に出來て居ない。たゞオーストリヤヴィーン大學附屬の生物學試驗場だけは、梢完全にこの種類の研究に適する設備があつて、係の人々も絶えずこの方法による研究に從事して、その結果を報告して居る。この試驗場の建物は、先年ヴィーンに萬國博覽會のあつたときの水族館の跡を利用したものであるが、今では、鳥・獸・魚・蛙・昆蟲類などを、種々の條件の下に飼養することの出來る設備がある。所長はプシブラムといふて「試驗的動物學」といふ四册ものの立派な書物を著した人で、その次にカンメレルといふ極めて熱心な研究家も居る。この試驗場で行ふた研究の報告は、已に數多くあるが、孰れも頗る興味の多いもので、これから述べることも半はこの研究所の産物である。

[やぶちゃん注:「コールドスプリング、ハーボアの生物進化試驗場」コールド・スプリング・ハーバー研究所(Cold Spring Harbor LaboratoryCSHL)。アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランドにある民間非営利財団による研究所。生物学・医学の研究及び教育を目的とする。同ウィキのによれば、『最先端の研究で世界的に知られ、ノーベル賞受賞者も出している。有名な港町コールド・スプリング・ハーバー(サフォーク郡ハンティントン町)の名を冠しているが、所在地はその西隣のナッソー』(Nassau)『郡ローレル・ホロー』(Laurel Hollow)『村である』。一八九〇年に『ブルックリン財団が生物学研究所を、また』、一九〇四年に『ワシントン・カーネギー協会が実験進化研究所をこの地に設立したのに始まる。カーネギー協会の研究所は』一九二一年に『カーネギー研究所遺伝学部門となり、遺伝学の発展に大きく寄与した』一九六二年に『両研究所が合併し』、『コールド・スプリング・ハーバー研究所となった』(本「進化論講話」(新補改版第十三版)は大正一四(一九二五)年九月刊。因みに初版は明治三七(一九〇四)年一月刊)。研究所は二十世紀前半には『優生学研究でも知られた。「優生記録所」が置かれ、優生学者チャールズ・ダベンポート』(Charles Benedict Davenport 一八六六年~一九四四年:科学的人種差別論者として悪名が高い)『とハリー・ラフリン』(Harry Hamilton Laughlin 一八八〇年~一九四三年:強力な差別法であるアメリカの優生学法の原案作成者(同法によって、一九七〇年代前半に廃止されるまで、実に六万五千人が合法的な強制的不妊手術を施された)『がここで「劣悪人物の家系に関する研究」を行った。これはアメリカの移民排斥に理論的根拠を与え、ナチスの思想とも無関係でないといわれる。この研究・施設は』一九三五年に『科学的でないと問題にされ』、『閉鎖に至った』。一九四〇『年代には分子生物学の源流となる研究が行われ』、一九四四『年にはバーバラ・マクリントックがトウモロコシのトランスポゾン』(transposon:細胞内に於いてゲノム上の位置を転移(transposition)することの出来る塩基配列)『を発見し』(一九八三年にノーベル賞受賞)。『またマックス・デルブリュックとサルバドール・ルリア(彼らはファージ・グループと呼ばれる)がここをバクテリオファージ研究の中心とし、さらにDNAが遺伝物質であることを示す実験をアルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスが行った』りしている。

「プシブラム」本書刊行当時、「ウイーン科学アカデミー生物学研究所」(英語:Biological Research Institute of the Academy of Sciences in Vienna)所長であったハンス・プリブラム Hans Leo Przibram 一八七四年~一九四四年)。ウィーン生まれのユダヤ人であったため、ナチス政権下、一九三八年五月一日にウィーン大学を追放されてしまう。その後、妻エリザベスととに翌年の十二月にはアムステルダムへ逃げたが、一九四三年四月二十一日に拘束されてナチス・ドイツがベーメン・メーレン保護領(チェコ)北部のテレージエンシュタット(チェコ名「テレジーン」)に置いていたユダヤ人ゲットー(収容所附設)へと移送され、一九四四年五月二十日過労によって衰弱死した。妻はその翌日、薬物自殺した。「試驗的動物學」(Experimental-Zoologie)は最終的に全七巻(一九〇七年~一九三〇年)。以上は本文サイトでは判らず、ドイツ語及び英語の彼のウィキペディアに拠ることで、辛うじて判明した。

「カンメレル」パウル・カンメラー(Paul Kammerer 一八八〇年~一九二六年)はウィーン生まれの世界的に知られた遺伝学者で、獲得形質の遺伝を主張したラマルク説の支持者であった。サイト「研究倫理(ネカト)」のこちらに彼の事蹟が詳しく載る。一九〇二年、二十一歳の時、ウィーンに「生物学研究所」(ドイツ語:Biologische Versuchsanstalt)が創設され、創設時からのメンバーとなった。一九一四年~一九二三年に「生物学研究所」が「ウィーン科学アカデミー」に吸収合併されたが、教授職を維持した。一九二三年には「生物学研究所」を退職、以後、欧州と北米を講演旅行したが、一九二六年八月七日、『ネイチャー』誌にデータ捏造が暴露され(彼が獲得形質の遺伝の例証として実験的に成功したとするカエルの足に生じたとする瘤(拇指隆起:nuptial pads)が、実際には足に墨(India ink)を注入して人工的に作ったものだという指摘)、それから六週間後の九月二十三日、モスクワ大学主任教授・モスクワ科学アカデミー生物実験室学主任に選出されて任地に赴く途中、オーストリア山中で四十六歳でピストル自殺している。]

 

 凡そ生物は生れたてより死ぬるまで常に外界に圍まれ、外物に接して居ること故、これより直接の影響を受けて、各個體の形狀に一定の變化を生ずることは極めて普通な現象である。例へば、同一の木より生じた種でも、一つを肥えた地に蒔き、一つを瘦せた地に蒔けば、生長してからの形は甚だしく違ふ。また地面に植ゑれば十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]以上にも成るべき大木の苗でも、之を小さな植木鉢に植えて置けば、何年過ぎても僅に一尺位により延びぬ。鳩は常に堅い種子を食ふもの故、之を磨り碎くために、胃の壁の筋肉が大に發達して居るが、或る人が數年の間柔かいものばかりで鳩を養つた後に解剖して見ると、胃の筋肉が著しく退化し、壁は甚だ薄くなつて居た。またその反對に、鷗の類は常に柔い魚肉を食ふて居るが、或る人が之に穀物を食はせて數年の間飼つて置いたら、胃の壁が厚くなつた。蛙の蝌蚪[やぶちゃん注:「おたまじやくし(おたまじゃくし)」。]に植物性の食物ばかりを食はせて置くと、動物性の食物を與へたのに比べて、殆ど二倍位も腸が長くなる。同一種の生物でも、その生活狀態の異なるに隨つて、生長後の形狀に著しい相違の生ずることは、これらを見ても直に解るが、若しもこの變異が少しも子孫に遺傳せぬものならば、次の代にはまた先代と全く同一の出發點から蹈み出し、發生中に外界から同樣の影響を受けて、終に親と同樣な形までに生長するだけで、その變異が代々積つて著しくなることは決してない理窟である。之に反して、若し幾分かなりとも、斯かる變異が子に傳はるものならば、次の代には既に出發點から多少その性質が具はつてあること故、これより生ずる個體に對して外界から先代と同じだけの影響が附け加はつて來れば、その結果は尚一層著しい變異となつて、代々少しづゝ一定の方向に進むわけになる。實際孰れであるかは、長い間の爭いであつたが、今日までに知られた事實から推すと、斯かる變異の中で少くも或る種類だけは確に遺傳するやうである。

 

     一 食物による變異

 

 凡そ動植物の身體組織をなせる成分は、常に新陣代謝して暫時も止むことなく、昨日食つた滋養分は、今日は既に筋肉・神經等の一部となり、今日筋肉・神經等を成せる物の一部は、明日は最早分解して老廢物となつて體外に排泄せられてしまふ。我々人間もその通りで、生れたときは僅に八百匁[やぶちゃん注:三千グラム。]程のものが、二十貫[やぶちゃん注:七十五キログラム。]もある大きな人間になるのは、全く新陳代謝に於ける物質出納の不平均から生じた結果である。されば生物が暫時同一の形狀を保つて居る所を見ると、恰も岩石・鑛物等の如き無生物が、常に同一の形狀を保つのと同じやうに思はれるが、その存在する有樣を調べると全く違ふ。岩石・鑛物が昨年も今年も全く同一な形を保つて居るのは、之を成せる分子が、そのまゝに止まつて動かず、外から入つて來る分子も無く、外へ出て行く分子も無く、昨年あつたまゝの分子が、今年も尚その處に止まつて居るからであるが、動植物が昨日見ても今日見ても同じ形を保つて居るのは、全く之とは別で、外界からは絶えず新規に物質が入り來り、體内よりは絶えず物質が出で去つて、たゞ物質の出入の額が略相均しいから、形狀が變じないだけである。その有樣は恰も河の形は昨日も今日も同じでも、流れる水が暫時も止まらぬのと少しも違はぬ。而して生物の體内に入り來り、暫時生物の身體を造る物質は何かといへば、卽ち食物であるから、食物の異同が生物體に直接に著しい影響を及ぼすことは、毫も怪しむべき事でない。

 同一の親から生れ、初めは全く同一の性質を具へて居た二疋の動物でも、一疋には滋養分を澤山に與へ、一疋には粗末な餌を食はせて養つて置けば、終にはその間に著しい相違が生じ、體格の弱・大小、毛の色艷等まで相異なつたものとなることは、常に我々の經驗する所で、富豪の飼犬と飼主のない野犬とは、誰が見ても直に解り、貴族の飼馬と百姓馬とも、一見して明に違ふて居るが、或る勤物は食物次第で毛の色の全く變ずるものがある。例へばウォレースの報告によれば、ブラジルに産する一種の鸚哥[やぶちゃん注:「インコ」。]に鯰[やぶちゃん注:「なまづ(ななず)」。]の脂を食はせると、緣色の羽毛が赤色または黃色に變ずるが、土人はこの事を知つて居るから、隨意に羽色の違つた鳥を造る。また印度には非常に羽毛の美しい一種の鸚鵡があるが、この鳥の羽色を常に美しからしめるには、一定の特殊の食物を與へて置かねばならぬ。その他、鶸[やぶちゃん注:「ひわ」。]の類に麻の種子を食はせれば、羽毛が漸々黑くなり、「カナリヤ」に胡椒の實を與へれば、黃色が益濃くなることは、既に人の知る所である。これ等はたゞ從來の經驗からいひ傳へたことであるが、近頃態々行つた實驗の結果によつても全くその通りで、胡椒の實を食はせれば、鶸・「カナリヤ」に限らず、鷄・鳩の如きものでも、やはり著しく羽毛に變異を生ずる。但し生長し終つた鳥に與へたのでは格別に効能はない。まだ一度も羽毛の拔け變らぬ前の雛に食はせると、以上の如き結果が必ず生ずる。また、リスリンやアニリン染料などを餌に混じて食はせて見たれば、各何時も羽毛の色に多少の影響を及ぼした。

[やぶちゃん注:「ウォレース」複数回既出既注。第二章 進化論の歷史(5) 五 ダーウィン(種の起源)」の本文や私の注、第十二章 分布學上の事實(7) 六 ウォレース線、及び第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン等を参照されたい。但し、以下の鳥の羽毛の人工的変異形成の出典は不詳。

「鶸」既注であるが、再掲しておく。スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する鳥の中で一般的には種子食で嘴の太くがっしりした小鳥の総称。英語の「フィンチ」(finch)は、以前は、ヒワ亜科に似た穀食型の嘴をもつ他の科の鳥もひっくるめた総称として用いられたため、現在でもヒワ亜科でない別種の鳥にも英名「フィンチ」の残っている種が多い。ヒワ亜科には約百二十種が含まれ、ユーラシア・アフリカ・南北アメリカに広く分布し、日本でもヒワ亜科カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinusなど十六種が棲息する(なお、「ヒワ(鶸)という和名の種は存在しない)。孰れも穀食型の短く太い嘴を持ち、主に樹木や草の種子を摂餌する。一般に雌雄異色で、雄は赤色又は黄色の羽色を有する種が多く、日本の伝統色である鶸色は、先のマヒワの雄の緑黄色に由来した色名である(以上は主に小学館「日本大百科全書」を参照した)。

「リスリン」グルセリン(glycerin:油脂の加水分解によって脂肪酸とともに得られる無色透明で甘みと粘り気のある液体)の発音の訛り。

「アニリン」アニリン(aniline/ドイツ語:Anilin)特異な臭気をもつ無色油状の液体。空気や光に触れると、褐色を呈する。合成染料の原料として重要であるが、有毒。]

 

 昆蟲類に關しては、以上と同じやうな實驗が種々ある。先年アメリカテキサス州から、山繭蝶の一種の蛹をスウィス國に持つて來た所が、翌年それから生じた幼蟲に、本國に於けると少し異なつた樹の葉を餌に與へたので、形狀も色も大に異なつた蝶が之から出來た。素性を知らぬ昆蟲學者は、之を以て全く別種に屬するものと見倣した位であるが、その幼蟲時代の食物は何かといへば、本國に於ては胡桃の一種で、スウィス國に持つて來てからも、やはり胡桃の少し異なつた一種を食はせたばかりで、食物の相違は實に僅少であつた。幼蟲時代の食物の相違によつて同一種の蝶でも、色彩・斑紋等に著しい相違の起る例は、尚この外にも澤山に知られてある。ヨーロッパに産する一種の尺蠖[やぶちゃん注:「しやくとり(しゃくとり)」。]は、種々の菊科植物に附いて、その葉を食ふが、幼蟲の色はその附く植物の種類に隨つて異なり、白い花の咲く菊に附けば白色、赤い花の咲く菊に附けば赤色となる。また毛蟲の一種には、その留まつて居る枝の色と同一な色になるものがある。

[やぶちゃん注:「山繭蝶」「蝶」となっているが、「山繭蛾」、昆虫綱鱗翅(チョウ)目ヤママユガ科 Saturniidae 或いはヤママユ属 Antheraea に属するヤママユガ類の一種であろう。

「尺蠖」尺取虫(しゃくとりむし)のこと。昆虫綱鱗翅(チョウ)目シャクガ(尺蛾)上科シャクガ科 Geometridae に属する蛾類の幼虫を総称する語。詳しくは私の和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚇蠖(シャクトリムシ)の注を参照されたい。]

 

 植物界に於ては、滋養分の相違が個體の形狀・性質に直接の影響を及ぼすことは更に一層明瞭で、その例は實に數へ盡されぬ程ある。ダーウィンアメリカの「たうもろこし」をヨーロッパに移せば、初め高さ二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル弱。]もあるものが、翌年には一間半[やぶちゃん注:二メートル七十三センチメートル弱。]位となり、その翌年には更に低くなり、果實の方も著しく變化して、三年目にはアメリカ産のとは全く異なつたものになつてしまふことを、その著書の中に掲げたが、滋養分を種々に調合して、玉蜀黍を培養して見ると、誰に見せても確に別種かと思ふ程に相異なつたものが、幾通りも出來る。この他、園藝家や植木屋に就いて、その經驗談を聽けば、培養法によつて植物に甚だしい相違の生ずる例は、幾らでも知ることが出來よう。

[やぶちゃん注:ダーウィンの以上の「著書」は不明。「種の起原」かと思っていたが、どうも見当たらない。識者の御教授を乞う。]

 

 

[    豐年魚

(イ)鹹水産(ロ)淡水産]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正して用いた。次の「豐年魚の尾端の變異」も同じ。「鹹水産」は「かんすいさん」で塩分を含んだ塩水産の意。通常なら、「海水産」でよいのだが、ここは主体が陸封された、塩水湖を指すので、かく解説しておいた。]

 

 

[豐年魚の尾端の變異]

 

 風土・氣候等の異同によつて、植物に著しい變異が起るのと同樣に、海産の動物は、水中の鹽分の多少によつて、隨分甚だしい變異の生ずる場合がある。その例として最も著名なのは、シュマンキェウィッチといふロシヤ人の實驗にかゝる豐年魚の變異である。抑豐年魚といふのは夏日水田などに生じ、腹を上に向けて水の表面を澤山に泳ぎ廻る小さな蝦に似た下等の甲殼類であるが、豐年魚といふ名前は、曾て之を東京で賣り步いた金魚屋等が勝手に附けたもので、實は決して魚類ではない。日本には之を産する處が方々にある。さてロシヤには海の一部が海から離れ、陸に圍まれて湖水の如くになつた處が幾らもあるが、流れ込む水または蒸發する水などの割合によつて、鹽分の度は各相異なつて、鹽の甚だ濃い湖もあれば、また鹽の極めて淡い湖もある。豐年魚は元來、淡水の中ばかりに産する動物であるが、かやうな湖の中を搜すと豐年魚に似ながら梢異なつた種類が住んで居る。動物學者は之を普通の豐年魚とは別屬のものとし、その中を更に數種に分けるが、鹽分の度の違ふ湖に産するものは、形狀も必ず多少異なつて居る。そこで、シュマンキェウィッチは斯く鹽度の異なる處に必ず違つた種類の産するのは、或は鹽の多少が直接に身體に影響を及ぼした結果では無からうかとの疑を起し、實驗によつて之を調べて見た。その方法は先づ鹽分の濃い水の中に住む種類を養ひ、飼養器の中一滴づゝ淡水を加へ、極めて徐々と鹽分を薄めたのであるが、鹽分が薄くなるに隨つて身體の形狀が變じ、特に尾端の形が全く變つて、終には常に淡い鹹水の中に住んで居る所のものと同一な形狀を呈するに至つた。而してこの形狀を呈するものは、從來學者が全く別種と見倣して居たものである。それより尚淡水を增し、鹽分を減じて、眞に純粹な淡水にしてしまうたれば、その中に居た動物は淡水中に産する普通の豐年魚と全く同一なものに變じた。斯かる面白い結果を得たので、更にこの試驗を逆の順序に試み、豐年魚の飼つてある水の中に、鹽水を一滴づゝ加へて徐々と鹽水を增して見た所が、前の實驗と丁度反對に、漸々鹹水産の種類を隨意に造ることが出來た。尤も之は同一の個體が斯く變化した譯ではない。形狀がかやうに著しく變化するには數代を要したが、決して淘汰の結果でないことは勿論である。貝類にも鹽分の濃い所で育てれば三寸四寸にもなるが、淡水の混じた所では僅に一寸といふやうなことがあるが、これ等も恐らく鹽分を增すか、減らすかしながら養殖したら、一代每に變異の著しくなることを實驗することが出來るであらう。

[やぶちゃん注:「豐年魚」甲殻亜門鰓脚綱サルソストラカ亜綱 Sarsostraca無甲(ホウネンエビ)目ホウネンエビ科ホウネンエビ属ホウネンエビ Branchinella kugenumaensis。但し、これと以下の解説は本邦産の代表種であって、ここに出るそれは、ホウネンエビ属ではあるが、別種の可能性が高い。以下、ウィキの「ホウネンエビより引く。『日本では初夏の水田で仰向けに泳いでいるのがよく見かけられる』。『体は全体的に細長く、体長は』十五~二十ミリメートル『程度。身体を支えるような歩脚をもたず、分類名が示すように鰓脚と呼ばれる呼吸器を備えた遊泳脚のみをもつ。体色は透明感のある白色だが、緑を帯びた個体、青みを帯びた個体も見られる。頭部には左右に突き出した』一『対の複眼と触角、口器をもつ。第一触角は糸状で頭部の前方へ短く伸びる。第二触角は雌では小さく、雄では繁殖時に雌と連結するための把握器として大きく発達している。雄の頭部の大きさの半分程もあるので、雌雄の区別は一目で分かる』。『頭部に続く体は多数の鰓脚をもつ胸部と、鰓脚のない腹部に分かれる。胸部は』十『節以上あり、各節に』一『対ずつほぼ同じような形状の鰓脚がつく。雌では胸部の最後部に卵の入る保育』囊『があり、腹部に沿って突出する。腹部は細長く、最後に一対の尾叉がある。尾叉は木の葉型で平たく、鮮やかな朱色をしている』。『通常は腹面を上に向けた仰向けの姿勢で、水面近くや中ほどの位置でその姿勢を保ってあまり動かないか、ゆっくりと移動しているのがみられる。常に鰓脚を動かし、餌は鰓脚を動かした水流で、腹面の体軸沿いに植物プランクトンなどの有機物を含む水中の懸濁物を口元に集めて摂食している。 外敵が近づいた時などには瞬間的に体を捻って、跳躍するように水中を移動することがある。その行動は素早く、また体色が周囲に紛れやすいことから、捕獲は意外と難しいが、走光性があるので、夜に照明を当てると比較的』、『容易に捕獲できる』。『水田の土中で休眠していた卵は春、水が張られた後水温が上昇すると一斉に孵化する。最初の幼生はノープリウス』(Nauplius)『と呼ばれる形態で体長』一ミリメートル『たらず、やや赤みを帯びた体色で、三対の付属肢をもつ。その後幼生は脱皮を繰り返し、次第に体節と鰓脚を増やし細長く成長すると同時に、遊泳に用いられた第二触角は小さく目立たなくなって、成体と同じ姿となる』。『繁殖時には、雄は雌の後方から追尾し、把握器を伸ばして雌と連結する。把握器の先端は枝状に分かれた複雑な形状になっており、雌の身体に雄の身体をしっかりと固定することができる。雌を把握した雄は体を曲げて交接し、その後もしばらく連結したままで生活する。 受精卵は保育のうに保持された後水底にばら撒かれ、成体はその後死亡する。卵はすぐに孵化することはなく、土中で卵の状態のまま休眠し冬季の低温に耐える。この卵は乾燥させて貯蔵することも可能であり、このような長期の乾燥に耐える現象をクリプトビオシス』(cryptobiosis)『とよぶ。この現象は、クマムシ』(既出既注)『やネムリユスリカ』(双翅(ハエ)目長角(カ)亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科ユスリカ亜科属 Polypedilum ネムリユスリカ Polypedilum vanderplanki)『などと同様に二糖類のトレハロース』(trehalose:グルコースが由来の二糖の一種。高い保水力を有する)『を含有することが深く関与している』。『和名のホウネンエビは豊年蝦の意味で、これがよく発生する年は豊年になるとの伝承に基づく。ホウネンウオ、ホウネンムシの名も伝えられる』。『地域によってはタキンギョ(田金魚)という呼び名もあるようである。尾が赤いのを金魚にたとえたことによるらしい』。『属名の「Branchinella」は「鰓脚(さいきゃく)類の」という意味で、このホウネンエビが「鰓(えら)状の脚」をもっていることを示している。なお、中国ではこの学名から「鵠沼枝額蟲」とも呼ばれている』。『水産上の利用はなく、同所的に生息する同じ鰓脚綱のカブトエビ類が水田の除草役とされるのとはちがい、農業に有用な動物として利用されることもないが、かみつくことも』、『稲に害を与えることもない無害な生物である』。『このように人間との関わりのほとんどない小動物であるが、水田に多数発生し』、『その姿が興味を引いたためか、前述のように各地に呼び名が残るなど』、『古くから存在は知られていた。江戸時代には観賞用に取引されたこともあったようだが、寿命が短いので採集して水槽にいれても長くは観賞できない』。

「シュマンキェウィッチ」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 前の「たうもろこし」の例でも今の豐年魚でも、一代每に一步一步變異の度の進んで行くのは、如何に考へても外界から受けた影響がその一代に止まらず、次の代まで傳はり、そこへ更に同じ影響を蒙つて、次第に積り重なる結果と見倣すの外に途はなからう。若し外界から生物體に及ぼす影響が、その一代だけに限り、決して次の代に關係せぬものとすれば、アメリカの「たうもろこし」をドイツヘ移して、第一代目に質が變じて丈が低くなることは宜しいが、第二代目に至つて、何の淘汰もないに係らず、更に一層原種より遠かつたものと成るのは何故であるか、到底説明の仕方があるまいと考へる。

 

諸國里人談卷之三 白峰

 

    ○白峰(しろみね)

讃岐國河野郡(かうのこほり)也。人王七十五代崇德院(しゆとくゐん)を祠(まつ)る。今以〔いまもつて〕、靈氣つよくましまし、種々の奇特(きどく)多し。崇德院、此松山に左迷(さまよひ)給ひし時、松が浦にて御つれづれに貝を拾はせ給ひて、

 松山の松が浦風吹〔ふき〕よせばひろひてしのべ戀わすれ貝

と詠じ給ひしより、此浦の貝に、「松」の字、「山」の字を現(あらは)す、と也。これを「戀忘貝(こひわすれかひ)」と号す。長寬二年に御寶算四十六歳にして、此所にて崩御し給ひし也。西行法師、參詣しける時、陵(みさゝぎ)、鳴動す。于ㇾ時(ときに)、和歌詠じて納めければ靜(しづま)りける、となり。

 よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん跡は何にかはせむ

[やぶちゃん注:第七十五代天皇崇徳天皇(元永二(一一一九)年~長寛二(一一六四)年)/在位:保安四(一一二三)年~永治元(一一四二)年)は保元元(一一五六)年七月の「保元の乱」で後白河方に敗れて讃岐へ配流と決まり、同月二十三日、鳥羽から船で讃岐国へ下った。参照したウィキの「崇徳天皇」によれば、『天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ』四百『年ぶりの出来事』で、『同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけ』で、『その後、二度と京の地を踏むこと』なく、八年後の長寛二年八月二十六日(一一六四年九月十四日)、四十六歳で崩御している。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされる』。「保元物語」に『よると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(『法華経』・『華厳経』・『涅槃経』・『大集経』・『大品般若経』)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしい』、『と朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って』、『写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け』、『夜叉のような姿になり、後に生きながら』、『天狗になったとされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めているのにも関わらず』、『血が溢れてきたと言う』。一方、「今鏡」の『「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても』、『怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である』。『崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の綾高遠の娘との間に』一男一女を『もうけている』。「保元の乱」が『終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。それは後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命』『にも表れている。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった』。ところが、安元三(一一七七)年になると、状況が『一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった』。公卿三条実房の日記「愚昧記」の安元三(一一七七)年五月九日の条には『「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようにな』り、同「愚昧記」の五月十三日の条に『よると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという』。前年安元二年には『建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去し』、『後白河や忠通に近い人々』も『相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については』、権大納言藤原経房の日記「吉記」寿永三(一一八四)年四月十五日の条には『藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長が』、『その形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し』、同年八月三日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈され』ている。同年四月十五日には、「保元の乱」の『古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された』(この廟は「応仁の乱」後に衰微し、天文年間(一五三二年~一五五五年)に平野社に統合されている)。また、『崩御の直後』、『地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても』、『官の保護が与えられたとされている』。『怨霊としての崇徳院のイメージは定着し』、近世、上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年上梓)の巻頭を飾る怪談の傑作「白峯」や、滝沢馬琴の「椿説弓張月」(文化四(一八〇七)年)から同八年(一八一一年)にかけて刊行)などでも『怨霊として描かれ、現代においても』、『様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い』(但し、本「諸國里人談」の刊行は、それらよりも前の寛保三(一七四三)年)。しかし、『その一方で後世には、四国全体の守り神である』、『という伝説も現われるようになる』。「承久の乱」で『土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が』、『途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際』、『その霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われ』、『上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際』も、『崇徳天皇の菩提を弔って』後に『四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている』。『明治天皇は』慶応四(一八六八)年八月十八日に、『自らの即位の礼を執り行うに際し』、『勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建し』ており、私の知る限りでは、太平洋戦争勃発直後、昭和天皇は崇徳天皇陵に勅使を遣わし、崇徳の霊が連合軍へ加担せぬように祈請しているはずである。陵(みささぎ)は「白峯陵(しらみねのみささぎ)」として香川県坂出市青海町(おうみちょう)にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「松山の松が浦風吹〔ふき〕よせばひろひてしのべ戀わすれ貝」これは崇徳院の詠歌なんぞではなく、百年以上前の藤原中納言定頼(長徳元(九九五)年~寛徳二(一〇四五)年)の「後拾遺和歌集」の「巻第八 別」に載る一首で(四八六番)、

   讚岐へまかりける人につかはしける

 松山の松の浦風吹きよせば拾ひて忍べ戀忘れ貝

である。「松山の松の浦」は歌枕であるが、「まつ」に恋人(ここは都を擬人化したか)を「待つ」を畳みかけて掛けた。「戀忘れ貝」は、「その貝を拾えば、恋の苦しさを忘れさせる」という伝承によるもので、「土佐日記」にも出るが、私は特定の貝を指すとは思われない。標準和名の斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ワスレガイ亜科ワスレガイ属ワスレガイ Cyclosunetta menstrualis があるが、貝類蒐集をする私にとっては全く「忘れ貝」のイメージとは程遠い無骨なものであり、同種を古典の「恋忘れ貝」とするのには大いに抵抗がある。しかしまた、一方で、しばしばピンク色の「桜貝」、代表種ではマルスダレガイ目ニッコウガイ科サクラガイ属サクラガイNitidotellina hokkaidoensis のことだとして、ご丁寧に写真まで添えてまことしやかに解説している国語の諸先生もいたりするのであるが、これは浅薄なロマン主義的趣味であって、それも逆に、私には全く従えない。寧ろ、恋を忘れられる呪物(類感呪術)としてのそれは、万葉以来の、ぴったりと合うべき(逢うべき)二枚貝の殻の片方が失われてしまったそれに他ならない。

「此浦の貝に、「松」の字、「山」の字を現(あらは)す」貝殻の表面に、ということ。ありがちなシミュラクラ(Simulacraとしては判らぬではない。

「寶算」天子を敬ってその年齢をいう語。聖寿。聖算。

「西行法師」(元永元(一一一八)年~文治六(一一九〇)年)は、保延六(一一四〇)年(二十三歳)に出家するが、それから二十八後の仁安三(一一六八)年(満五十歳)に四国への旅立ち、讃岐国善通寺(現在の香川県善通寺市)に一時、庵を結んだとされ、この折り、旧主崇徳院の白峰陵を訪ね、その霊を慰めたと伝えられている。「參詣しける時、陵(みさゝぎ)、鳴動す。于ㇾ時(ときに)、和歌詠じて納めければ靜(しづま)りける」はただの伝承。

「よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん跡は何にかはせむ」「山家集」の「下 雜」に載る(一三五五番)が、「山家集」のこの前の二首も含めて、以下に示す(一九六一年岩波古典文学大系版に拠る。前書はブラウザでの不具合を考え、恣意的に改行した)。

   讃岐に詣でて、

   松山の津と申(まうす)所に、

   院おはしましけん御跡(おんあと)

   たづねけれど、

   形(かた)も無かりければ

 松山の波に流れて來し舟のやがて空しく成(なり)にける哉

 松山の波の景色は變らじを形無(かたな)く君はなりましにけり

   白峯と申(まうし)ける所に

   御墓(みはか)の侍りけるにまゐりて

 よしや君昔の玉の床(ゆか)とてもかからん後は何にかはせん

   *

「玉の床」は皇居のこと。]

諸國里人談卷之三 彦山

 

   ○彦山(ひこさん)

豐前國田川郡(たかはこほり)にあり。豐前・豐後・筑前に其(その)根(ね)、跨(またが)りて、大山〔おほやま〕也。「十の谷」・「四十九の窟(いはや)」あり。一の谷(やつ)を「玉谷(たまや)」といふ。霊泉、涌出(ゆうしゆつ)す。是を飮(のめ)ば諸病を治(ぢ)すとなり。又、國家、變ある時は、此水、濁ると云〔いへ〕り。三(みつ)の嵩(たけ)は、鼎(かなへ)のごとく、三神、跡を垂(たれ)給ふ。北岳(ほくがく)は天忍穗根尊(あまのおしほねのみこと)、中岳(ちうがく)は伊弉冉尊(いさなみの〔みこと〕)、南岳は伊弉諾尊(いさなきの〔みこと〕)也。徃古(わうこ)より守護入(しゆごい)らずの山なり。金鳥井(かねのとりゐ)より上る事、六十二町也。祭禮、二月十五日。

[やぶちゃん注:「伊弉冉尊」の「冉」は①が「册」の最終画の上部中央に左右閉鎖(貫かず)で横画が入るもの、③が「冊」で同様の奇体な字体であるが、一般的な「冉」で示した。

「彦山」現在の福岡県田川(たがわ)郡添田町(そえだまち)と大分県中津市山国町(やまくにまち)に跨る英彦山(ひこさん)。標高千百九十九・七メートル(本文に出る「南岳」)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「英彦山」によれば、『羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという』。『この山を根拠とする豊前佐々木氏が領主であり、一族からは英彦山幸有僧という役職も出していたとの記録がある。英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため』、天正九(一五八一)年十月、『敵対する大友義統』(よしむね)『の軍勢による焼き討ちを受け』、一『ヶ月あまり続いた戦闘によって』、『多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという』。『なお、豊前佐々木氏は添田の岩石城を居城としていた。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏方として香春岳城に続いて攻撃され、一日で攻め落とされたが』、『滅ぼされず、細々と生き残っている。巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎は』、『この豊前佐々木氏の出身であり、またその流派・巌流は英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説がある』。『その説によれば、巌流島の決闘自体が、宮本武蔵を利用して当主である小次郎を殺害させることによる、細川氏の豊前佐々木氏弱体化工作であったという』。『山伏集落についての詳細は不明であったが』、平成二七(二〇一五)年、『添田町が行ったレーザー測量によって』、『集落跡地とみられる場所を複数個所、確認した』。『「英彦山三千八百坊」と言われていたが』、『測量結果から』八百『箇所・三千人規模の集落があったと推測される』とある。また、『彦山豊前坊という天狗が住むという伝承があ』り、『豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている』とし、『英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた』とあって、少なくとも戦国時代前半までは、ここが修験道の梁山泊的な道場として治外法権的空間であった雰囲気が伝わってきて、さればこそ後に出る「守護入(しゆごい)らずの山」の謂いも腑に落ちる。なお、私の「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」も是非、読まれたい。

「豐前・豐後・筑前に其根、跨りて」厳密には狭義の英彦山(福岡県田川郡添田町及び大分県中津市山国町)は孰れも旧「豐前」国であるが、「豐後」(宇佐市・中津市除く大分県の大部分相当)・「筑前」(福岡県西部相当)に山塊「の根」が「跨」っているというのは、地図を見れば腑に落ちる。というより、ウィキの「英彦山」によれば、そもそもが英彦山『山域は』今も『福岡県と大分県の県境未確定地域』なのである。

「玉谷(たまや)」「霊泉、涌出す」とは玉屋神社(般若窟)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる御夫妻のサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「玉屋神社(般若窟)」によれば、ここにある「般若岩」の説明版には(リンク先の画像から翻刻)、『この岩穴の中には、不増不滅の清水をたたえ』、『世の中にもしも事変がある時は、水がにごると言われています。ここで法蓮上人』(弘仁(八一〇年~八二四年)の頃の英彦山を中興した僧)『が祈って如意の玉を得たという伝説があり、大和の金剛山、近江の竹生島の水と共に日本の三霊水だとも言われています』とある。同神社の祭神は猿田彦大神で、この神社が英彦山開山の地とされる。

「北岳」千百九十二メートル。ここ(国土地理院図)。

「天忍穗根尊(あまのおしほねのみこと)」現行の英彦山神宮の主祭神としての表記は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)である(同神宮公式サイトで確認)。ウィキの「アメノオシホミミ」によれば、「古事記」では、天照大神と素戔嗚命の誓約の際、素戔嗚が天照の勾玉を譲り受けて生まれた五人の皇子の長男で、勾玉の持ち主である天照の子としている。「日本書紀」の一書では次男とされ、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の娘で萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)との間に天火明命(あめのほあかりみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を儲けた。『葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるよう』、天照から『命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう』。建御雷神(たけみかづちのかみ)らに『よって大国主から国譲りがされ、再び』、忍穂耳命に『降臨の命が下るが』、彼は『息子の』瓊瓊杵尊にそれを負かすように進言し、結局、瓊瓊杵尊が「天孫降臨」することになるのである。『名前の』「正勝吾勝」は『「正しく勝った、私が勝った」の意』であり、「勝速日」は『「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる』。また「忍穂耳」は『威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意である』とある。言っておくが、本邦の神話の神の名は勿論、民俗学で村を「ムラ」としたり、「晴」「褻」を「ハレ」「ケ」とやらかして学術用語だと思い込んでいるお目出度い輩や、日本語なのに沖繩方言をカタカナ表記するのが当たり前と思っている大衆を、私は甚だしく嫌悪する人種である

「中岳」千百八十メートル。英彦山神宮の本社上宮があるピーク。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「南岳」既に述べた最高峰。ここ(国土地理院図)。

「金鳥井(かねのとりゐ)」「銅(かね)の鳥居」で、現在の福岡県田川郡添田町大字英彦山に現存する、寛永一四(一六三七)年に佐賀藩主鍋島勝茂によって建立された、英彦山神宮にある青銅製の鳥居(二の鳥居。一の鳥居は現存するが、通行出来ない)。柱の周囲は約三メートル。鳥居正面の「英彦山」の扁額は享保一四(一七二九)年に霊元法皇によって下賜されたもの。国指定重要文化財。

「六十二町也」約六キロ七百六十四メートル。現在の登山サイトの記録データを見ると、「銅の鳥居」起点で片道実動距離が約六キロメートルであるから、かなり正確である。

「祭禮、二月十五日」現行、少なくとも英彦山神宮ではこの日や旧暦の日時でも、特に祭儀は行われていない。不審。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年  最後の厄月

 

      最後の厄月

 

 五月五日から居士は「病牀六尺」を『日本』に掲げはじめた。然るにその七日から容体が思わしからず、十三日に至って未曾有の大苦痛を現じた。厄月の五月はここに至ってもなお居士を脅(おびやか)すことを已めなかったのである。十四日は比較的無事であったが、前日の反動で非常に弱り、十五日の朝は三十四度七分という体温が少しも上らなかった。もう居士もあきらめて、前年秋秀真氏の造った石膏像を取上げ、その裏に「自(みづから)題(だいす) 土一塊牡丹生けたる其下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであったが、午後からは次第に苦痛が薄らぎ、あたかも根岸三嶋神社の祭礼であったので、豆腐汁、木(き)の芽和(あえ)の御馳走に一杯の葡萄酒を傾ける。祭の句が八句も出来るという風で、どうやら危険を脱し得た。

[やぶちゃん注:「病牀六尺」では「五」(後の末尾クレジットは五月十日)に(例の初出で翻刻、二箇所で句点を挿入した)、

   *

○明治卅五年五月八日雨記事。

昨夜少しく睡眠を得て昨朝來の煩悶稍度を減ず。牛乳二杯を飮む。

九時麻痺劑を服す。

天岸醫學士長州へ赴任の爲め暇乞に來る。序に予の脈を見る。

碧梧桐、茂枝子[やぶちゃん注:「しげえこ」。]早朝より看護の爲めに來る。

鼠骨も亦來る。學士去る。

きのふ朝倉屋より取り寄せ置きし畫本を碧梧桐らと共に見る。月樵の不形畫藪[やぶちゃん注:「ふけいぐわそう」。]を得たるは嬉し。其外鶯邨畫譜[やぶちゃん注:「わうそんぐわふ」。]景文花鳥畫譜、公長略畫など選り出し置く。

午飯は粥に刺身など例の如し。

繃帶取替をなす。疼痛なし。

ドンコ釣の話。ドンコ釣りはシノベ竹に短き糸をつけ蚯蚓を餌にして、ドンコの鼻先につきつけること。ドンコ若し食ひつきし時は勢よく竿を上ぐること。若し釣り落してもドンコに限りて再度釣れることなど。ドンコは川に住む小魚にて、東京にては何とかハゼといふ。

鄕里松山の南の郊外には池が多きといふ話。池の名は丸池、角池、庖刀池、トーハゼ(唐櫨)池、鏡池、彌八婆々の池、ホイト池、藥師の池、浦屋の池など。

フランネルの切れの見本を見ての話。縞柄は大きくはつきりしたるがよいといふこと。フランネルの時代を過ぎて、セルの時代となりしことなど。

茂枝子ちよと内に歸りしが稍〻ありて來り、手飼のカナリヤの昨日も卵産み今朝も卵産みしに今俄俄に樣子惡く巢の外に出て身動きもせず如何にすべきとて泣き惑ふ。そは糞づまりなるべしといふもあれば尻に卵のつまりたるならんなど云ふもあり。予は戲れに祈禱の句をものす。

  菜種の實はこべらの實も食はずなりぬ

  親鳥も賴め子安の觀世音

  竹の子も鳥の子も只ただやすやすと

  糞づまりならば卯の花下しませ

晚飯は午飯と略同樣。

體溫三十六度五分。

點燈後碧梧桐謠曲一番殺生石を謠ひ了る。予が頭稍惡し。

鼠骨歸る。

主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり。泣く、怒る、なだめる。此時窓外雨やみて風になりたるとおぼし。

十一時半又麻痺劑を服す。

碧梧桐夫婦歸る。時に十二時を過る事十五分。

予此頃精神激昂苦悶已まず。睡覺めたる時殊に甚だし。寐起を恐るゝより從つて睡眠を恐れ從つて夜間の長きを恐る。碧梧桐らの歸る事遲きは予のために夜を短くしてくれるなり。

   *

とある(全文)。

『十五日の朝は三十四度七分という体温が少しも上らなかった。もう居士もあきらめて、前年秋秀真氏の造った石膏像を取上げ、その裏に「自(みづから)題(だいす) 土一塊牡丹生けたる其下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであった』これは「病牀六尺」の「九」(後の末尾クレジットは五月十八日)に出る。やはり全文を初出で示す。

   *

○余が病氣保養の爲めに須磨に居る時、「この上になほ憂き事の積れかし限りある身の力ためさん」といふ誰やらの歌を手紙などに書いて獨りあきらめて居つたのは善かつたが、今日から見ると其は誠に病氣の入口に過ぎないので、昨年來の苦みは言語道斷殆んど豫想の外であつた。其が續いて今年もやうやう五月といふ月に這入つて來た時に、五月といふ月は君が病氣の爲め厄月ではないか、と或友人に驚かされたけれど否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などゝ寧ろ自分では氣にかけないで居た。ところが五月に這入つてから頭の工合が相變らず善くないといふ位で每日諸氏のかはるがはるの介抱に多少の苦しみは紛らしとつたが、五月七日といふ日に朝からの苦痛で頭が惡いのかどうだか知らぬが、兎に角今までに例の無い事と思ふた。八日には少し善くて、其後又た天氣工合と共に少しは持ち合ふてゐたが十三日といふ日に未曾有の大苦痛を現じ、心臟の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追つ附かず、どうやらかうやら其日は切拔けて十四日も先づ無事、唯しかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分といふ體溫は一向に上らず、其によりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず最早自分もあきらめて、其時恰も牡丹の花生けの傍に置いてあつた石膏の肖像を取つて其裏に「自題。土一塊牡丹生けたる其下に。年月日」と自ら書きつけ、若し此儘に眠つたらこれが絶筆であるといはぬ許りの振舞、其も片腹痛く、午後は次第々々に苦しさを忘れ、今日は恰も根岸の祭禮日なりと思ひ出したるを幸に、朝の景色に打つてかへて、豆腐の御馳走に祝の盃を擧げたのは近頃不覺を取つたわけであるが、併し其も先づ先づ目出度いとして置いて、扨て五月もまだこれから十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさぱりわからぬ。

○五月十五日は上根岸三島神社の祭禮であつてこの日は每年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あえ[やぶちゃん注:ママ。句も同じ。]の御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつたので、

  この祭いつも卯の花くだしにて

  鶯も老て根岸の祭かな

  修復成る神杉若葉藤の花

  引き出だす幣に牡丹の飾り花車[やぶちゃん注:「だし」。]

  筍に木の芽をあえて祝ひかな

  齒が拔けて筍堅く烏賊こはし

  不消化な料理を夏の祭かな

  氏祭これより根岸蚊の多き

   *]

 

 「病牀六尺」を読んで著しく目につくのは、絵画に関する文字の多いことである。常時居士の目に触れた絵画は主として木版刷の画本であったが、居士はこれによって病牀徒然の時を銷(しょう)すと共に、何らか語るべきものをその裏[やぶちゃん注:「うち」。]に見出し得たのであった。居士の画本を見るのは必ずしも画の鑑賞のみにとどまらぬ。座右の画本から鶴を画いたものを探し出して、その趣向を比較して見たり、広重の「東海道続絵(つづきえ)」には何処にも鳥が画いてないが、五十三駅の一枚画を見ると、原駅のところに鶴が二羽田に下りており、袋井駅のところでは道ばたの制札の上に雀が一羽とまっていた、ということを発見したりする。文鳳(ぶんぽう)、南岳(なんがく)の「手競画譜(しゅきょうがふ)」のうち、文鳳の画十八番について一々こまかな説明をしているところもあるが、あれなどは居士が如何に画本を楽しんで見ていたかを語るもので、殆ど画を読むの域に達しているかと思う。

[やぶちゃん注:『広重の「東海道続絵(つづきえ)」には何処にも鳥が画いてないが、五十三駅の一枚画を見ると、原駅のところに鶴が二羽田に下りており、袋井駅のところでは道ばたの制札の上に雀が一羽とまっていた、ということを発見したりする』「病牀六尺」の「卅五」(後の末尾クレジット「(六月十六日)」)の箇条書きの中の一条。『鳥づくしといふわけではないが』(太字「鳥づくし」は原典では傍点「●」)のという書き出しで始まるアフォリズム風超短編エッセイ群七篇である。以下の本文の太字は原典では傍点「◦」

   *

一、廣重の東海道續繪といふのを見た所が其中に何處にも一羽も鳥が畫いてない。それから同人の五十三驛[やぶちゃん注:これで「つぎ」と読ませているらしい。]の一枚畫を見た所が原驛[やぶちゃん注:これで「はらじゆく(はらじゅく)」と読ませているらしい。]の所にが二羽田に下りて居り袋井驛[やぶちゃん注:これで「ふくろゐじゆく(ふくろいじゅく)」と読ませているらしい。]の所に道ばたの制札の上にが一羽とまつて居つた。

   *

この「廣重の東海道續繪」というのは、知られた歌川広重の代表作「東海道五十三次」のヴァージョンの一つ。天保三(一八三二)年に初めて東海道を旅した広重が、その途中に写生した沿道の風景を版画にし、翌年、保永堂と仙鶴堂の合梓(ごうし)で「日本橋朝之景」から、順次、開版して行き、天保五年一月に五十五枚のシリーズを完成した。途中で保永堂が版権を独占したらしく、同版元のものが『保永堂版』と呼ばれ、二十種に亙る東海道シリーズの中でもこれが最も知られたものであり、子規の言っている「五十三驛」というのがその保永堂版である。ウィキの「東海道五十三次浮世絵では、三種に大別される「保永堂版」・「行書版」・「隷書版」の全五十五図を比較しながら細部まで見ることが出来るが、

●「保永堂版」の、

「原驛」はこれ(田中の鶴であるが、正岡子規には悪いが、この富士の中腹には別に十七羽の鳥影が列を成している。子規が「これも鶴だからいいんだ」とぶつくさ言うのなら、まあ、それはそれでいいが

「袋井驛」はこれ制札の上に非常に尾の長い鳥(それもその尾はピンと上を向いている!)。しかし、これは私には雀には見えない

である。因みに、試みに私も以上の三種を一枚一枚、総て見てみたが、確かに、「保永堂版」には上記の二枚だけにしか鳥は描かれていないようだ。但し、「保永堂版」ではない、

●「行書版」ヴァージョンでは(以下のリンクは総てウィキの「東海道五十三次浮世絵の各個画像)、

・「日本橋」に遠景を飛ぶ様式化した千鳥模様風の鳥が五羽(朝烏か)

・「川崎」は大型の鷺が二羽

・「鞠子」に三羽(これは絶対に確かな雀)

描かれており、

●「隷書版」ヴァージョンでは、

・「大磯」(鴫立庵)に立つ一羽

・「興津」の廻船の帆の彼方に列を成す有意な数の鳥影(シルエット)

・「白須賀」の海上に二十羽の列を成す鳥影

・「桑名」の渡舟の帆の彼方に多数の鳥影

が描かれていて、個体数でなら、「隷書版」に鳥は断然、多く描かれている。子規が見た「東海道續繪」というのは、これら「保永堂版」・「行書版」・「隷書版」完本の出る前の、単発で出していたものか?(刷りの悪さや劣化が想起される) 法政大学図書館の「正岡子規文庫」(子規の旧蔵書)を見たが、残念ながら、これらの絵図は含まれていなかった。

『文鳳(ぶんぽう)、南岳(なんがく)の「手競画譜(しゅきょうがふ)」のうち、文鳳の画十八番について一々こまかな説明をしているところもある』「病牀六尺」の「六」(「(五月十二日)」分)。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。「文鳳」は河村文鳳(安永八(一七七九)年~文政四(一八二一)年)で、山城国出身で優れた人物画や山水画で知られた。ウィキの「河村文鳳」によれば、『歌川国芳』、『歌川国貞、渓斎英泉など後代の浮世絵師等にも大きな影響を与えた。俳句にも秀でており』、『上田秋成、与謝蕪村等と交遊し、俳画も好んで描いた。生前は有力絵師の一人でだったようで』、『文鳳原画による』「文鳳畫譜」・「帝都雅景一覽」・「文鳳漢畫」・「文鳳山水遺稿」などの画譜類が十『種類以上』、『出版されているが、なぜか現存作品は極めて少ない。速い運筆による人物画を得意とし』たとある。「南岳」は渡辺南岳(明和四(一七六七)年~文化一〇(一八一三)年)。京都の人。円山応挙の高弟で「応門十哲」に数えられた。美人画を得意とし、後年には尾形光琳に私淑し、その技法も採り入れている。後、江戸に出て、円山派の画風を伝える一方、谷文晁や酒井抱一らとも交遊した。この「南岳文鳳手競畫譜」というのは文化八(一八一一)年刊らしいが、稀覯画譜らしい。]

 

 「如何にして日を暮すべきか」これが居士の大問題であった。従来楽しみとしていたことも、かえって皆苦しみの種になった。畢竟周囲と調和することが甚だ困難になったので、「麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺劑が十分に効を奏することが出來なくなつた」というのである。「情ある人我病床に來つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は爲に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文學談にあらず、宗教、美術、理化、農藝、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない」と居士はいっている。「病牀六尺」の材料は訪客の話頭から生れたものも少くないが、それにしても範囲が実に広汎である。忽(たちまち)にして釣の話、忽にして能の話、忽にして水難救済会の話、信玄と謙信との比較が出るかと思えば、演劇界の改良はむしろ壮士俳優の任務であるというような議論も出る。あるいは庭園を論じ、あるいは盆栽を論じ、芝居と能との比較を論じ、あるいは女子教育の必要を論じ、あるいは飯炊(はんすい)会社を興さんことを希望するなど、殆ど応接に遑がない。あらゆる楽(たのしみ)は変じて苦となる居士の境涯において、こういう活力が那辺に蔵されているか、不思議というより外に適当な言葉は見当らぬようである。

[やぶちゃん注:「麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺劑が十分に効を奏することが出來なくなつた」「情ある人我病床に來つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は爲に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文學談にあらず、宗教、美術、理化、農藝、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない」「病牀六尺」の「四十」(「六月二十一日」)。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの初出画像)。

「釣の話」複数箇所あり、ドンコ釣りは前の注で出したが、「二十九」(六月十日)が所謂、「釣尽くし」の章段である。以下、リンクが面倒なので、初出ならば国立国会図書館デジタルコレクションのこちら、新字新仮名でよいならば「青空文庫」のこちらで、各自、章番号などで探されたい。

「能の話」思いの外、多い。「十五」(五月二十七日)で狂言との歴史的絡みに触れ、「三十三」(六月十四日)では現代(当代)能楽界へ苦言を呈し、「五十二」(七月三日)では能と近世以降の芝居の比較論など(宵曲の言う「芝居と能との比較を論じ」)、快刀乱麻の体(てい)を成す。

「水難救済会の話」「三十四」(六月十五日)。

「信玄と謙信との比較」「三十六」(六月十七日)。

「演劇界の改良はむしろ壮士俳優の任務であるというような議論」「三十七」(六月十八日)。

「庭園を論じ」「四十六」(六月二十七日)。

「盆栽を論じ」「五十一」(七月二日)。

「女子教育の必要を論じ」「六十五」(七月十六日)から「六十七」(七月十八日)まで連続している。

「飯炊(はんすい)会社を興さんことを希望する」「飯炊」は「炊飯」に同じい。飯炊きを専門にする業者である。「七十三」(七月二十四日)。]

 

 居士の枕頭にはかつて「古白曰来」の下に書かれた千枚通しがある。「俳句分類」に従事していた時分は、毎日五枚や十枚の半紙に穴をあけて綴込まぬことがなかったため、錐の外面は常に光を放ち、極めて滑(なめらか)であった。或日ふと取上げて見ると、錐は全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すにも錆に妨げられて快く通らぬ。居士はここにおいて「錐に錆を生ず」の歎を発し、英雄髀肉(ひにく)の歎に比せざるを得なかった。―――「病牀六尺」の中にはこういう箇所もある。

[やぶちゃん注:『「古白曰来」の下に書かれた千枚通し』既に「古白曰来」の私の注で本文全部を電子化し、画像も載せてある。

「或日ふと取上げて見ると、錐は全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すにも錆に妨げられて快く通らぬ。居士はここにおいて「錐に錆を生ず」の歎を発し、英雄髀肉(ひにく)の歎に比せざるを得なかった」「四十九」(後の末尾クレジット「(六月三十日)」)。初出で全文を翻刻する。一部は底本の書き込みに拠ったもので示し、一箇所、句点を追加した。

   *

○英雄には髀肉の嘆といふ事がある。文人には筆硯生塵[やぶちゃん注:「ひつけんちりをしやうず(ひっけんちりをしょうず)」。]といふ事がある。余も此頃「錐錆を生ず」[やぶちゃん注:太字は初出底本では傍点「◦」。]といふ嘆を起した。此の錐といふのは千枚通しの手丈夫な錐であつて、之を買うてから十年餘りになるであらう。これは俳句分類といふ書物の編纂をして居た時に常に使ふて居たもので其頃は每日五枚や十枚の半紙に穴をあけて、其書中に綴込まぬ事はなかつたのである。それ故錐が鋭利といふわけでは無いけれど、錐の外面は常に光を放つて極めて滑らかであつた。何十枚の紙も容易く突き通されたのである。それが今日不圖手に取つて見たところが、全く錆てしまつて、二三枚の紙を通すのにも錆の爲に妨げられて快く通らない。俳句分類の編纂は三年ほど前から全く放擲してしまつて居るのである[やぶちゃん注:下線太字は初出底本では傍点「ヽ」。]。「錐に錆を生ず」といふ嘆を起さゞるを得ない。

   *

因みに、「髀肉の嘆」は、三国時代の蜀の劉備が、長い間、馬に乗って戦場へ行かなかったため、腿(もも)に無駄な肉がついてしまった、と嘆いたという「三国志」の「蜀書先主傳 註」の故事に拠るもので、活躍したり、名を挙げたりする機会がないことを嘆くことを指す比喩。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。後の文末クレジットでは「(六月二日)」分の全文。例の国立国会図書館デジタルコレクションのこの初出切貼帳の画像を視認して校合した。なお、底本「評伝 正岡子規」の「狗子」のルビ「くし」に従った(こう読んでも、無論、構わない)が、私は「くす」と読みたい人間である。なお、これは「趙州狗子」の公案で、これは既に注した。]

 

○余は今迄禪宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りというふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平氣で生きて居る事であつた。

○因みに問ふ。狗子(くす)に佛性(ぶつしやう)ありや。曰、苦。

 又問ふ。祖師西來(そしせいらい)の意は奈何。曰、苦。

 又問ふ。………………………。曰、苦。

 

[やぶちゃん注:「祖師西來の意は奈何」やはり人口に膾炙した(んな評言は公案にとっては死の宣告と同じだ。人口に膾炙した公案など「糞の糞の極み」である)公案の一つ。やはり、私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引こう。

   *

  三十七 庭前栢樹

趙州、因僧問、如何是祖師西來意。州云、庭前栢樹子。

無門曰、若向趙州答處見得親切、前無釋迦後無彌勒。

   *

  三十七 庭前の栢樹(はくじゆ)

 趙州(でうしう)、因みに、僧、問ふ、

「如何なるか是れ、祖師西來(せいらい)の意。」

と。

 州云く、

「庭前の栢樹子(はくじゆし) 。」

と。

   *

  三十七 庭の柏(かしわ)の樹(き)

 趙州和尚は、ある時、機縁の中で、僧に問われた。

「達磨大師は、何故、西に行ったか?――禅とは何か?」

 趙州和尚は言った。

「あの庭の柏の樹。」

   *

リンク先では私は敢えて述べていないが、この「柏」は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis を指し、この木は中国では棺材として使用されてきた。]

 

 「病牀六尺」の中にはこういう箇所もある。

 居士の病牀における煩悶は、生死出離(しょうじしゅつり)の大問題ではない。病気が身体を衰弱せしめたためか、脊髄系を侵されているためか、とにかく生理的に精神の煩悶を来(きた)すのだといい、死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまえば直に解決される、ということを「病牀六尺」に書いたことがある。この「あきらめる」ということについて或人から質問が来た。死生の問題はあきらめてしまえば解決されるということと、かつて兆民居士を評して「あきらめる事を知って居るが、あきらめるより以上のことを知らぬ」といったことと撞著(どうちゃく)しておりはせぬかというのである。居士はこれに対し譬喩(ひゆ)を以て答えた。

 子供が養生のために親から灸を据えられる場合、灸はいやだといって泣いたり逃げたりするのは、あきらめがつかぬのである。到底逃げるにも逃げられぬ場合だと観念して、親のいう通りおとなしく灸を据えてもらう。これは己にあきらめたのである。しかしその間灸のあつさに堪えず、棉神上に苦悶を感ずるとすれば、それは僅にあきらめたのみで、あきらめる以上の事は出来ない。親のいう通りおとなしく灸を据えるのみならず、その間書物を見るとか、いたずら亭でもしているとか、そういう事で灸の事を少しも苦にしなくなれば、はじめてあきらめる以上の域に達するのである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。初出で校合した。最後に改めて全文を示す。]

 

兆民居士が『一年有半』を著した所などは、死生の問題についてはあきらめがついて居つたように見えるが、あきらめがついた上で夫の天命を楽しんでというような楽しむという域には至らなかったかと思う。居士が病気になって後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る処などはややわかりかけたようであるが、まだ十分にわからぬ処がある。居士をして二、三年も病気の境涯にあらしめたならば、今少しは楽しみの境涯にはいる事が出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事にならなければ生きて居ても何の面白味もない。

 

 この一段は「仰臥漫録」に「理が分ればあきらめつき可申、美が分れば樂み出來可申候」と書いたところを、更にわかりやすく敷街したもので、前年の「命のあまり」に説かるべくして説かれなかったところを、ここで補足したように思われる。この「あきらめ」と「樂しみ」に関する見解の如きは、居士のような病者にしてはじめて発せらるるものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:『病気が身体を衰弱せしめたためか、脊髄系を侵されているためか、とにかく生理的に精神の煩悶を来(きた)すのだといい、死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまえば直に解決される、ということを「病牀六尺」に書いたことがある』「四十二」(後の文末「(六月二十四日)」クレジット)の条。以下に初出で示す。引用部のみを明らかにするために、そこのみ、初出と一行字数を同じにした。一部に句点を追加した。平仮名型約物の「こと」(「と」の上に「ヽ」が付着したもの)は正字化した。一部の活字脱字は岩波文庫版を参考に直した。

   *

○今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本鄕の某氏より來たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。

 拜啓昨日貴君の病牀六尺を讀み感ずる所あり

 左の數言を呈し候

 第一、かゝる場合には天帝又は如來とゝもに

  あることを信じて安んずべし

 第二、もし右信ずること能はずとならば人力の

  及ばざるところをさとりてたゞ現狀に安ん

  ぜよ現狀の進行に任ぜよ痛みをして痛まし

  めよ大化のなすがまゝに任ぜよ天地萬物わ

  が前に出沒隱現するに任ぜよ

 第三、もし右二者共に能はずとならば號泣せよ

  煩悶せよ困頓せよ而して死に至らむのみ

 小生は甞て瀕死の境にあり肉體の煩悶困頓を

 免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安

 靜を得たりこれ小生の宗教的救濟なりき知ら

 ず貴君の苦痛を救濟し得るや否を敢て問ふ病

 間あらば乞ふ一考あれ(以下略)

此親切なる且つ明鬯平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであつて、余の考も殆んど此手紙の中に盡きて居る。唯余に在つては精神の煩悶といふのも、生死出離の大問題ではない、病氣が身體を衰弱せしめたゝめであるか、脊髓系を侵されて居る爲めであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を來すのであつて、苦しい時には、何とも彼とも致し樣の無いわけである。併し生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段は固より『現狀の進行に任せる』より外は無いのである。號叫し煩悶して死に至るより外に仕方の無いのである。たとへ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一樣にあきらめるといふより外にあきらめ方はない。此の十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるやうになつたとしても矢張りあきらめるより外はないのである。けれども其れが肉體の苦である上は、程度の輕い時はたとへあきらめる事が出來ないでも、なぐさめる手段がない事もない。程度の進んだ苦に至つては、啻になぐさめる事の出來ないのみならず、あきらめて居ても尚あきらめがつかぬやうな氣がする。盖しそれは矢張りあきらめのつかぬのであらう。笑へ。笑へ。健康なる人は笑へ。病氣を知らぬ人は笑へ。幸福なる人は笑へ。達者な兩脚を持ちながら車に乘るやうな人は笑へ。自分の後ろから巡査のついて來るのを知らず路に落ちてゐる財布をクスネンとするやうな人は笑へ。年が年中晝も夜も寐床に橫たはつて、三尺の盆栽さへ常に目より上に見上げて樂しんで居るやうな自分ですら、麻痺劑のお蔭で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居つた時の自分を笑ふてやりたくなる。實に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑ふ時の余も、笑はるゝ時の余も同一の人間であるといふ事を知つたならば、餘が煩悶を笑ふ所の人も、一朝地をかふれば皆余に笑はるゝの人たるを免れないだらう。咄々大笑。(六月二十一日記)

   *

「困頓」は「こんとん」で「疲れ果てること・困り果てること」の意。「明鬯」は「めいちやう(めいちょう)」で「明暢」に同じい(「鬯」も「のびる」の意)。「言葉や論旨がはっきりしていること」を指す。

『この「あきらめる」ということについて或人から質問が来た……」「病牀六尺」の「七十五」(後の文末「七月二十六日」クレジット分)である。太字は初出では傍点「●」。

   *

○或人からあきらめるといふことに就て質問が來た。死生の問題などはあきらめて仕舞へばそれでよいといふた事と、又甞て兆民居士を評して、あきらめる事を知つて居るが、あきらめるより以上のことを知らぬと言つた事と撞着して居るやうだが、どういふものかといふ質問である。それは比喩を以て説明するならば、こゝに一人の子供がある。其子供に、養ひの爲めに親が灸を据ゑてやるといふ。其場合に當つて子供は灸を据ゑるのはいやぢやといふので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。若し又其子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思ふて、親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑて貰ふ。是は已にあきらめたのである。併しながら、其子供が灸の痛さに堪へかねて灸を据ゑる間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それは僅にあきらめたのみであつて、あきらめるより以上の事は出來んのである。若し又其子供が親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑさせる許りでなく、灸を据ゑる間も何か書物でも見るとか自分でいたづら書きでもして居るとか、さういふ事をやつて居つて、灸の方を少しも苦にしないといふのは、あきらめるより以上の事をやつて居るのである。兆民居士が一年有半を著した所などは死生の問題に就てはあきらめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫[やぶちゃん注:「か」。]の天命を樂しんでといふやうな樂むといふ域には至らなかつたかと思ふ。居士が病氣になつて後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る處などは稍〻わかりかけたやうであるが、まだ十分にわからぬ處がある。居士をして二三年も病氣の境涯にあらしめたならば今少しは樂しみの境涯にはいる事が出來たかも知らぬ。病氣の境涯に處しては、病氣を樂むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。

   *

私は、この子規の答えには「何の面白味も」感じないし、正直、思想もない中国の似非哲人が謂いそうな「糞」のような比喩としか感じない。そのような「樂しみの境涯に」ある人間のところに古白は何故に来たって「曰來」と言うのか? 而も、それを記して告白文学として公開することが「樂しみの境涯にはいる事」であり、「病氣の境涯に處しては、病氣を樂むといふことにな」るのだと言うか? 因みに言っておくが、私は幼少時に左肩関節骨髄部結核性カリエスに罹患している。

2018/06/28

譚海 卷之二 淺野家士大石内藏助等四十七士人墓所の事 附京墨染遊女屋伊賀屋の事

 

淺野家士大石内藏助等四十七士人墓所の事 附京墨染遊女屋伊賀屋の事

○淺野家四十七人の墓所は江戸芝泉岳寺にあり。此外に三箇所有、京都・播州・江州となり。京都は山科郡瑞光院と云(いふ)地中に有、是は往昔淺野家の先祖の母弟(ははのおとと)此寺の住持になられし緣あるゆゑ、四十七人諸家へ御預けの節、瑞光院の當住四十七人の命乞(いのちごひ)のため江戸へ御願に下り候て、諸家の宅へも伺候し、大石内藏助等に對面を遂(とげ)たる時、いづれも後生菩提を弔ひくれ候樣に住持へたのみ、鬢の毛を贈りたるを持歸り、墳墓に築(きづき)たるものと云、瑞光院は禪宗也。又播州なるは赤穗に有、これは淺野内匠頭殿現在の時、海鹽の利を命ぜられ、今に依賴して煮鹽をもちて産業となせるゆゑ、その民は舊主の德を思ふて、江戸泉岳寺のごとくその地に墳墓をたて、四十七人の墓をも模し造るとぞ。又江州なるは大石村と云所に有。此村に大石氏菩提所の寺ある故、其寺に四十七人の墳墓を建(たて)たる也。赤穗・大石村二箇所の經營は、江戸にあるよりは模造も大なる墓也とぞ。又京都伏見墨染の遊女屋伊賀屋と云者の所は、往時四十七人浪人の間、時々遊興せし茶屋なり。其後年月をへて墨染の繁華零落し遊女廢しぬれば、此伊賀屋生産のなきまゝ、大石初め諸士の書殘したる眞蹟を所持せしゆゑ、それを屛風に仕立披露せしまゝ、好事のもの聞(きき)つたへ、伊賀屋處(いがやがところ)へ向行(むきゆき)て酒肴を求め、その次(ついで)に此屛風等を所望し、一見する事になりて、今は是をもちて産業の助(たすけ)とする事に成(なり)たり。四十七人の書籍・詩歌・俳諧の發句等多く有、江戸へも持來りて見し事也。

[やぶちゃん注:「淺野家四十七人の墓所は江戸芝泉岳寺にあり」実際には同墓所には四十八人の墓がある。四十七士が討ち入り(元禄十五年十二月十四日(一七〇三年一月三十日)寅の刻(午前四時過ぎ))から引き揚げる最中、寺坂吉右衛門信行が行方をくらませ(理由不明)、その後、寺坂は姫路藩士となり、討入から四十五年後の延享四(一七四七)年十月六日に亡くなった後、泉岳寺に埋葬された(「譚海」の内容は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の間の奇聞奇譚)。また、もう一人は「松の廊下」の刃傷事件(発生:元禄十四年三月十四日(一七〇一年四月二十一日)巳の下刻(午前十一時半過ぎ)を赤穂に急報した萱野三平重実の墓で、萱野は父と意見がぶつかり、討ち入りに参加出来なったことから、元禄十五年一月十四日浅野内匠頭の月命日を一期と決して自刃して果てた。その後、その志に鑑み、彼等とともに埋葬されたのであった。

「瑞光院」京都市山科区安朱堂ノ後町(あんしゅどうのうしろちょう)に現存する臨済宗紫雲山瑞光院。浅野長矩公の墓(大石良雄建立)と赤穂義士四十六人(寺坂信行の分がないのであろう)の遺髪埋葬の塔を中心とした廟所がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「地中」「寺中」の誤記ではあるまいか?

「播州なるは赤穗に有」現在の兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗台雲山(たいうんざん)花岳寺(かがくじ)。赤穂藩主の菩提寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「江州なるは大石村と云所に有」現在の滋賀県大津市大石東にある浄土宗明見山浄土寺のことであるが、「四十七人の墳墓」は、ない。大石家の菩提寺で、大石家歴代の墓とともに四十七士の位牌はあるここ(グーグル・マップ・データ)。従って、「赤穗・大石村二箇所の經營は、江戸にあるよりは模造も大なる墓也とぞ」というのは不審。なお、浄土真宗大谷派宗玄寺の公式サイト「宗玄寺エンタープライズ」の「忠臣蔵にゆかりの地」のページによれば、他に義士一党の墓(供養塔)とされるものは、

・山形県金山町の清竜廃寺跡に出羽新庄城主戸沢家二代上総介が建立した浪士らの供養塔と伝えるものが廃寺跡山中に四十六基。

・京都府京都市上京区の妙蓮寺に片岡源五右衛門の妻が建立したもの。

・兵庫県社町の観音寺(家原浅野家の香華寺)。

・和歌山県高野町の金剛峰寺奥の院に大石内蔵助の依頼で遠林寺の僧祐海と同行した近松勘六・早水藤左衛門によって建てられた浅野内匠頭の供養墓の他、大石頼母助と四十七士供養墓。

などがある。また、サイト「大阪再発見!」の「赤穂義士の墓」によれば、墓ではないが、

・大阪市天王寺区六万体町にある曹洞宗万松山吉祥寺

は(寛永七(一六三〇)年創建)、『創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩』『と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったと』されることから、『義士討ち入りの翌年』二『月、大石内蔵助をはじめとする』四十六士が切腹した後、『足軽の寺坂吉右衛門が四十六『士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀』十『両を添えて』、『義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう』、『吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ』て、元文四(一七三九)年に『建立されたという』。しかし、昭和二〇(一九四五)年三月の『大阪大空襲で』、『堂宇をはじめ』、『長矩候揮毫の扁額や義士の遺品など』、『全て』が『灰燼に帰し、残るのは墓石のみ』となったとある。現在、墓に浅野内匠頭長矩候の五輪塔、その『右隣に大石内蔵助の墓、左側』に『大石主税の墓があ』って、『更にその周囲を』四十四『士の』戒名『と行年を刻んだ玉垣が取り囲んでいる』とある。寺坂の逸話として、ここに記しておきたい。

「京都伏見墨染の遊女屋伊賀屋と云者の所は、往時四十七人浪人の間、時々遊興せし茶屋なり……」「京都伏見墨染」は現在の京都市伏見区深草墨染町((グーグル・マップ・データ)。京都と伏見を往来する商人や伏見から山科を経て東海道を往還する旅人などで賑わい、江戸中期には墨染寺の門前に芝居小屋や遊里が出来て栄えたが、明治以後、衰退した)であるが、この話は不詳識者の御教授を乞う。]

譚海 卷之二 大坂東照宮御再興の事

 

大坂東照宮御再興の事

○大坂天滿宮境内に東照宮の御社ありしを、安永八年再興あり。修復料壹萬八千兩を大坂町中へ割付(わりつけ)御取立(おとりたて)あり、別當より奉納金の請取書を出し納(おさめ)けるとぞ。其經營もとありし地面より八尺高く築立(つきたて)、僧房等美麗に出來(しゆつたい)せり。別當の庭に松柏數十本あり、根へ土をかくれば枯るゆゑ、大木の根をば石にて穴に築立、石の外を八尺土を置(おき)候由、仍(よつ)て大木も甚(はなはだ)低く見え、甚をかしき庭の樣子に成(なり)たり。猶又出火等の節(せつ)神輿をのけ候御旅所(おたびしよ)生玉(いくたま)に建立(このりふ)あり、同じく美麗に出來せり。此奉納金の鳴(なり)やうやう謐(しづま)りたる所、又々大坂町中濱地御用有ㇾ之間(これあるあひだ)、御取上なされ候よし、もし又入用の者は買上(かひあげ)候金子(きんす)指出(さしいだし)候樣に被仰付(おほせつけられ)候。濱地と申(まうす)はみなみな河岸付(づかしき)の居宅に向ひたる地面にて、土藏建置(たておき)し所なれば、無ㇾ據(よんどころなく)入用(いりよう)の地面なれば、人々買上金(かひあげきん)指出候。右買上金御定(おさだめ)は、居宅の地の沽券直段(こけんねだん)に二割引に被仰付坪割にて御取立被ㇾ成(なられ)候、右上納金指出高(さしだしだか)三十壹萬四千兩と申(まうす)事也。但(ただし)東照宮御社は往時松平下總守殿京都所司代御勤(おつとめ)の時、大坂天滿(てんま)に其藏屋敷ありしを、御願(ごぐわん)ありて初(はじめ)て御社建立ありしと也。

[やぶちゃん注:「大坂川崎東照宮東照宮」江戸時代から明治初期にかけて現在の大阪市北区にあった川崎東照宮。ウィキの「川崎東照宮」によれば、東照大権現徳川家康を祀る東照宮の一社であったが、幕府崩壊と明治維新により廃絶した。『かつての境内には現在造幣局と大阪市立滝川小学校が建ち、滝川小学校正門横には川崎東照宮跡の石碑がある』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)にあった。『川崎東照宮は家康一周忌の』元和三(一六一七)年四月十七日、『当時大阪藩主であった松平忠明(家康の外孫)により』、『天満本願寺(別名: 川崎本願寺)の跡地(織田有楽斎の別荘跡地でもあった』『)付近に建立されたが、その背景には大坂の庶民の間にあった豊臣家への思慕の念を払拭する狙いがあったとみられている』。『祭神は東照大権現(徳川家康)ということで、その本地仏は家康自身が信仰していた所縁の厄除薬師如来坐像』であった。『別当寺として神護山建国寺が置かれ、例祭の「権現祭」には』四月十七日『(家康の命日)と』九月十七日『が定められた』。その内、四月十七日の『祭は家康の命日ということもあり、普段は高い塀で囲まれ』、『門を閉ざしていた境内が』、『開放され』、『一般町人にも家康肖像の拝観が許され、一説には約』十『万人もの参拝者が訪れる「浪花随一の紋日」として大坂市中随一の賑わいを見せた』とされ、また、『春・秋両祭の前々日である』十五日からの五日間は『幕命により』、『大坂の各町では家々の軒先に提灯が掲げられ』、『その様は大坂の春と秋の風物詩でもあった』という。『しかし一方で、同社は』、『大坂町人の一部から「胡乱」』(うろん)『(胡散臭い)と思われていたらしいことも記録に残されている』。『川崎東照宮は』天保八(一八三七)年二月十九日(グレゴリオ暦三月二十五日)に起こった「大塩平八郎の乱」で『社殿を焼失し、後に再興したが、幕末の戊辰戦争時には長州藩の陣が置かれ、明治維新により』、『反徳川と豊臣再興の気風が興る中、敷地が造幣寮(現・造幣局)に充てられることとなり』、明治六(一八七三)年、『廃絶した』。但し、この時、『東光院(萩の寺)に本地仏である厄除薬師如来坐像を遷座し、現在は三十三観音堂の本尊となって』おり、『川崎東照宮の本地堂「瑠璃殿」も移築され』、『東光院の東照閣仏舎利殿(あごなし地蔵堂)となっている』。『その他に、東照宮の石灯籠・鳳輦庫が大阪天満宮に移されている』。『なお、「権現祭」は東照宮の廃絶後も天満六組の応援を受けて』、明治四〇(一九〇七)年まで『続き、その後は東光院の「萩まつり道了祭」に受け継がれている』とある。

「安永八年」一七七九年。因みに、当時の大坂城代(大阪城はこの川崎東照宮の大川を挟んだ南東直近である)は常陸笠間藩主牧野貞長である。

「別當」前注にある通り、神護山建国寺。同社廃絶とともに廃寺。

「生玉」現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)。(グーグル・マップ・データ)。

「此奉納金の鳴やうやう謐りたる所」この奉納金問題がやっと収まったかと思った頃。

「濱地御用」川沿いの土地を当時の大阪では「濱地」と呼んだ。曾根崎新地のひろ氏のサイト「大塩の乱資料館」にある幸田成友著「江戸と大阪によれば、この「濱地」『に建てた納屋を住居地』、『即ち』、『火焚所とすることは厳禁であつた。宝暦七年』()『から浜地冥加銀を納めしめた。総額銀三百六貫目余で、その徴収及び上納は惣年寄の手で取扱つた。浜側に作る納屋は必ず足駄作(ヅクリ)といつて下を囲ふことを許さない。これも河水をさへぎらぬやう』、『との工夫から出てゐる。乞食を追払ふのは火の用心のためであ』った、とある。同ページを見ると、大阪での川筋に関する取り締り事項は「川筋掟」として、微に入り細に入って存在したことが判る。下水道の定期的な浚渫義務に始まり、『塵芥を棄てるものあらば』、『町中に過銭を課する、川筋沿岸に畠を作り又は家を建てゝ商売を営んではならぬ、橋上より塵芥を投ずる者あらば、橋詰両町で捕縛の上、出訴せよと』あり、「川筋掟」の第九条には、『「浜側町境の外、納屋境に垣を結んで岸岐』(がんぎ:河又は海沿いの岸の形式の一つで、石造りで階段状のもの。江戸時代の荷揚げ場の最も普通の形式である)『水際に至らしめ、水汲場に猥』(みだり)『に板を渡し、また流垂形に作物を為すべからず」といひ、第十條に「浜側納屋下を囲ひ、或は非人小屋を掛けて火を焚くあり、速に取払ひ、非人を放逐せよ」とある』とあるのである。この「濱地御用」というのも、そうした幕府(京都所司代・大阪城代)からの河川整備計画の一環の接収であったのであろう。

「沽券」土地や家などを売り渡す際に交わした証文。売り渡し証文。

「松平下總守殿京都所司代御勤の時、大坂天滿(てんま)に其藏屋敷ありしを、御願(ごぐわん)ありて初(はじめ)て御社建立ありし」先のウィキの記載からみると、これは松平忠明(ただあきら 天正一一(一五八三)年~寛永二一(一六四四)年)のことを指すと思われる。但し、彼は「下總守」ではあったが、「京都所司代」になったことはない。川崎東照宮建立の元和三(一六一七)年四月十七日、当時の京都所司代は板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)で、彼は伊賀守である。京都所司代の一覧を見ても、松平姓の下総守は見当たらない。また、松平忠明なら、天満の関わりも深いことが判る。ウィキの「松平忠明を参照されたい。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年 「病牀苦語」

 

      「病牀苦語」

 

 居士の「麻痺剤服用日記」は六月二十日からはじまっているが、「これより以前は記さず」とあるから、何時頃から麻痔剤を服用しはじめたものかわからない。その前三月十日から十二日まで記した日記にも已に麻痺剤の事は見えており、二月十五日大原恒徳氏宛の手紙にも「私近來病勢進步每日麻醉劑を用ゐ居候へどもなほ苦痛凌ぎきれず昨今煩悶に煩悶を重ね居候」とあるのを見ると、それ以前からあったことは慥である。一月の容体不穏の時に用いた頓服なるものも、あるいは麻痺剤であったのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「大原恒徳」既出既注。松山在の正岡子規の叔父。]

                                                            

 四月及五月の『ホトトギス』に掲げた「病牀苦語」は、毎日二、三服の麻痺剤を飲んで、漸(ようよ)う暫時の麻痺的愉快を取っている間に、心に浮ぶところを述べたものである。例の秩序なしだと断ってあるけれども、秩序のないことは決してない。病牀における出来事と、居士の心の間題とが綯(な)い交ぜになって、比較的長い章を成している。

[やぶちゃん注:「病牀苦語」は『ホトトギス』明治三五(一九〇二)年四月二十日及び五月二十日発行号に掲載された。新字新仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。]

 

 「病牀苦語」は先ず肉体の苦痛からはじまる。最初のうちは客の前を憚り、親しい友達の前と知らぬ人の前とでは、多少の差別をしていたようなことも、苦痛が募るに従ってそういう遠慮をする余地がなくなって来る。「野心、氣取り、虛飾、空威張、凡そ是等のものは色氣と共に地を拂ってしまった。昔自ら悟ったと思うて居たなどは甚だ愚の極であつたといふことがわかつた。今迄悟りと思ふて居たことが悟りでなかつたといふことを知つただけが、寧ろ悟りに近づいた方かも知れん。さう思ふて見ると悟りと氣取りと感違へして居る人が世の中にも澤山ある。そいつ等を皆病氣に罹らせて、自分のやうに朝晚地獄の責苦にかけてやつたならば、いづれ皆尻尾を出して逃出す連中に相違ない。兎に角自分は餘りの苦みに天地も忘れ、人間も忘れ、野心も色氣も忘れてしまふて、もとの生れたまゝの裸體にかへりかけたのである」といっている。居士の煩悶は死を恐れるがためではない。むしろ苦痛の甚しいために早く死ねばいいと思う方が多くなっているにかかわらず、宗教家らしい方面の人からは、精神安慰法――死を恐れしめない方法を教えてくれる。「その好意は謝するに餘りあるけれども、見當が違つた注意であるから何にもならぬ」というのである。しかも裸体にかえりかけた居士は、直にそのあとへ左の如く附加えることを忘れていない。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前の部分もこの後も「子規居士」で校合した。]

 

併しかくいへばとて自分は全く死を恐れなくなつたといふわけではない。少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思ふけれど、その苦痛が少し減じると最早死にたくも何にもない。大概覺悟はして居るけれど、それでも平和な時間が少し餘計つゞいた時に、不圖死といふことを思ひ出すと、常人と同じやうに厭な心持になる。人間は實に現金なものであるといふことを今更に知ることが出來る。

 

 「病牀苦語」の中には庭に据えた大鳥籠の歴史があり、草花を写生して一々それに歌を讃する記事もある。大鳥籠の最初の周旋者たる浅井黙語氏が、二、三ヵ月のうちに西洋から帰って来ると聞いて、「あるいは面會が出來るであらうと樂しんで居る。默語氏が一昨年出立の前に、秋草の水畫[やぶちゃん注:「みづゑ」と読んでいよう。水彩画。]の額を一面餞別に持て來てこまごまと別れを敍した時には、自分は再度黙語氏に逢ふ事が出來るとは夢にも思はなかつたのである」という一節も、垂死の居士の言として人に迫るものがあるが、それとはまた違った意味で看過しがたいのは家族に関する章である。碧梧桐氏一家の人々が赤羽へ土筆取(つくしとり)に行くに当り、「妹も一所に行くことになつた時には余迄嬉しい心持がした」といい、令妹が帰って来て愉快そうに土筆取の話をするのを聞いて「余は更に嬉しく感じた」とあるのがその一、母堂が碧梧桐氏一家の人と向嶋の花見に行き、「夕刻には恙なく歸られたので、余は嬉しくて堪らなかつた」とあるのがその二である。「内の者の遊山も二年越しに出來たので、余に取つても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼等の樂しみは卽ち余の樂みである」と居士は云う。

[やぶちゃん注:「浅井黙語」既出既注の浅井忠は正岡子規の生前に帰国しているので、逢えたはずであるが、幾つか調べてみたが、今のところ、彼が子規を訪れた記事を見出せない。]

 

 家を出でて土筆摘むのも何年目

 病牀を三里離れて土筆取

 たらちねの花見の留守や時計見る

 

などの句が惻々(そくそく)[やぶちゃん注:しみじみと身に沁みて感じること。]として人を動かすのも、この居士のよろこびを直に伝えているためであろう。

 「病牀苦語」は最後に碧、虚両氏と俳句を談ずることが書いてある。その中に「吾々の俳句の標準は年月を經るに從つて愈〻一致する點もあるが、又愈〻遠ざかつて行く點もある。寧ろ其一致して行く處は今日迄に略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]一致してしまふて、今日以後はだんだんに遠ざかつて行く方の傾向が多いのではあるまいかと思はれる」といい、「芭蕉の弟子に芭蕉のやうな人が無く、其角の弟子に其角のやうな人が出ないばかりでなく、殆ど凡ての俳人は殆ど皆一人一人に違つて居る。それが必然であるのみならず、其違つて居る處が今日の吾々から見ても面白いと思ふのである」というあたりは、晩年の居士の言として頗る傾聴に値する。我見に執するとか、強いて羈絆(きはん)を加えようとかいう痕迹は毫も見えぬ。各人をして各人の賦性(ふせい)のままに、自由に驥足(きそく)を伸(のば)さしめようとするところに、汪洋(おうよう)たる居士の気魄を感ずることが出来る。

[やぶちゃん注:「羈絆(きはん)」「羈」も「絆」も牛馬を繋ぎ止めるものを指す。行動する者を掣肘(せいちゅう)する事柄。制約・規制・束縛のこと。

「賦性(ふせい)」天賦の質。生まれつきの性質。天性。

「驥足(きそく)を伸(のば)さしめ」むというのは、優秀な素質を持っている者がその才能を存分に現わすことが出来るようにしてやることを言う。「驥」は駿馬(しゅんめ)のこと。名馬は大道を疾駆して初めて、その脚力を存分に発揮することが出来るという譬えで、「三国志」の「蜀書龐統(ほうとう)傳」に基づく。

「汪洋(おうよう)」ゆったりとして広大なさま。]

甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事

 

4-31 正月の門松、所々殊る事

正月門松を設ること諸家一樣ならず。通例は年越より七草の日迄なるが、十五日迄置く家もあり。筑前の福岡候支侯、肥前の佐嘉侯、對馬の宗氏、予が家も同じ。南部盛岡侯、岩城氏【出羽の龜田】なども同じ。又宗氏は門内に松飾あるが、玄關の方を正面に向けて立、松を用る所椿を用ゆ。予が家は椎の枝と竹とを立て、松を用ひず。是は吉例の譯あること也。又平戸城下の町家には每に十五日迄飾を置なり。又大城の御門松も世上とは異るように覺ゆ。今は忘れたり。安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると云。此餘聞及ぶには、姫路侯の家中に、もと最上侯に仕たる本城氏は、松は常の如く拵て、表へ不ㇾ立、裏に臥して置く計なり。これは昔、門松を拵たる計にて戰に出、勝利を得たる古例と云ふ。又同家中に、もと名波家に仕たる力丸氏の門松は、一方計に立てゝ、左右には不ㇾ設。就ては上の橫竹なければ、付る飾も無し。是も半ば拵かけ、戰に出でゝ勝利の佳例と云。又直參衆の曽根内匠は竹を切らず、中より下の枝を去り、長きまゝにて立てゝ、末葉をつくる。横に結ぶ竹もこれに同じ【小川町に居と云】。又佐竹侯には門松なし。是も何か困厄の後、勝利の例と云。御旗本衆の岡田氏も門松なし。其故事は未だ聞ず。これは織田家家老の家なれば、古きわけもあるなるべし。又聞く。新吉原町の娼家にては、門松を内を正面に立ると云。是は客の不ㇾ出といふ云表兆なりと。又予が若年の時、上野廣小路の一方は、大抵買女家にて、所謂私窩なり。此戸外にも皆内向きに立たり。其前道は登山の閣老、參政、大目附、御目付など往還あるに、私窠の業を押晴て目立つやうにせしはいかなることにや。その邊寬政中より業を改めて、尋常の商家となれり。

■やぶちゃんの呟き

「殊る」「ことなる」。

「福岡候支侯」この当時存在した福岡藩支藩は秋月藩。

「佐嘉侯」「さが」。佐賀藩主家鍋島氏。

「對馬の宗氏」対馬府中藩藩主家宗(そう)氏。

「是は吉例の譯あること」後に出るような、過去の招福の特異な出来事或いは伝家の伝承に由来するものであるという謂い。

大城」「だいじやう」か。本城の謂いであろう。

「安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると云」旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた磐城平(いわきたいら)藩藩主家安藤氏。これは後の「甲子夜話卷之七」の「安藤家門松の事」で個別に語られている。フライングして本文を示す。特異的に読みを歴史的仮名遣で推定で振った。

   *

7-18 安藤家門松の事

前に安藤侯の門松は、故事あつて官より立ラルゝことを云へり。後此ことを聞くに、或年の除夕(ぢよせき)[やぶちゃん注:大晦日。]に、神君安藤の先某(さきのなにがし)と棊を對し、屢々負たまひ、又一局を命ぜらる。某曰、今宵は歳盡なり。小臣明旦の門松を設けんとす。冀くは暇を給はらんと。神君曰、門松は吏を遣(やり)て立(たつ)べし。掛念(けねん)すること勿れ、因て又一局を對せられて、神君遂に勝を得玉(えたまひ)しと。自ㇾ是(これより)して依ㇾ例(れいによりて)官吏來(きたり)て門松を立つとなり。又今安藤侯の門松を立(たつ)るとき、御徒士目附其餘の小吏來(きた)るに、其勞を謝するに、古例のまゝなりとて、銅の間鍋(かんなべ)[やぶちゃん注:燗鍋。「ちろり」のようなものであろう。]にて酒を出(いだ)し、肴は燒味噌一種なり。これ當年質素の風想ひ料(はか)るべし。

   *

ここに出る「先某」は、夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録」の「背中合わせ飾り」(門松④ 江戸の祭礼歳事)によれば(前の磐城平藩藩主家安藤氏の情報もここに拠る)、安藤重信(弘治三(一五五七)年~元和七(一六二一)年:三河出身。徳川家康・秀忠に仕え、「小牧・長久手の戦い」・「関ケ原の戦い」・「大坂の陣」で功を立てた名将。この間、慶長一六(一六一一)年には老中となっている)とある。以下、先に出た対馬藩宗家のそれは「松飾り」ではなく、「椿飾り」と呼ばれたこと、『しかも、門内に玄関を向いて立て』、『これは往来を背中にしているため』、「背中合わせの松飾り」と呼ばれたとある。この筆者『鳥越の平戸藩松浦家では椎の木の枝と竹を立てたため、「椎の木飾り」と』呼んだともある(引用元は三田村鳶魚「江戸の春秋」の「お大名の松飾り」)。

「拵て」「こしらへて」。

「計」「ばかり」。

「門松を拵たる計にて」立てる暇もなく、門の内側、家「裏」(いえうち:本文「裏」は「うら」ではなく「うち」と訓じていよう)に地面に横にして置いたまま「戰」(いくさ)「に出」(い)でたところが「勝利を得た」、その「古」吉「例」に基づく仕儀だというである。

「名波家」上野国那波郡(現在の群馬県伊勢崎市及び佐波郡玉村町)に拠った戦国時代の那波氏のことか。

「不ㇾ設」「まふけず」。

「上の橫竹なければ」意味不明。一本だけ竹を立てるだけで、左右の横に竹を添えないということと採っておく。

「内匠」「たくみ」。

「困厄」難儀。

「新吉原町の娼家にては、門松を内を正面に立ると云。是は客の不ㇾ出といふ云表兆なりと」(「不ㇾ出」は「いでず」だが、「表兆」は読みが判らん。「へうてう」か? 客へ示す予祝(自身の商売繁盛)の呪(まじな)いの意ではあろう)内を正面に立」(たつ)「る」というのは、廓内の往来方向ではなく、見世の入口の左右で廓内へ向けて逆向きに立てるということであろう。門松は「入口」であるから、福たる客には「出口」はない、客が出て行かない、繁盛する、という類感呪術的手法である。前に出した「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録」の「背中合わせ飾り」(門松④ 江戸の祭礼歳事)には、これも「背中合わせの松飾り」の一例として書かれてあり、『三田村鳶魚は、お大名の松飾りの説明の中で吉原の門松も背中合わせに飾ると書いてい』るとし、『吉原では、松飾りを見世の方に向け』て立てた、『向こう側の店でも同じように立てるので、道の真ん中に背中合わせの形で立てられ』たあり、『そのため、「背中合わせの松飾り」と呼ばれ』たとする。『門松は、店先に相対するように』二~三間(三・六四~五・四五メートル)『離して立てた』とされ、『有名な清元の「北州(ほくしゅう)」に』は(大田蜀山人作詞という)し、

 霞のえもん坂 えもんつくろう初買(がひ)の

 袂(たもと)ゆたかに大門の

 花の江戸町京町や

 背中合はせの松飾り

とあるとあって、『このように門松が立てられてのは、お客さまが外に出ないようにというまじないだったよう』だとする(ここに「甲子夜話」の本条のことも記してある)。また、『この「背中合わせの松飾り」を詠んだ川柳が残されてい』るとして、

 門松を吉原ばかり向こふに見

 松飾り後ろを向ける別世界

と掲げられてある。

「買女家」「ばいぢよや(ばいじょや)」で、非公認の売春宿のことであろう。

「私窩」「しくわ(しか)」。「私窩子(しくわし(しかし))」で「淫売婦・売春婦」のことであるから、ここはその棲み家で同前。後の「私窠(しくわ(しか))」も同じい。

「登山」私は差別化するために「とうさん」と読む。登城(とじょう)のこと。

「閣老」幕府老中の異称。

「參政」各大名の家老の異称。

「業」「わざ」。幕府が禁じている私娼の商売。

「押晴て」「おしはれて」か。「おし」は強意の接頭語、「晴れて」は、正月の特殊な「ハレ」の時の儀式とは言え、非公認の犯罪である売春宿がかくも幕閣や御家人の眼に平然と立ち並んで「目立つやうに」あるのは如何なものか、と過去の静山は感じたと言うのである。

「邊」「あたり」。

「寬政」一七八九年から一八〇一年。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれで、安永四(一七七五)年二月十六日に祖父松浦誠信(さねのぶ)の隠居により、満十五歳で家督を相続している。寛政の前の天明は一七八一年から一七八九年まで、その前の安永は一七七二年から一七八九年までだから、静山の曖昧宿の不快な記憶は安永後期から天明の初め頃であろうか。

2018/06/27

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年 『獺祭書屋俳句帖抄』

 

  明治三十五年

 

    『獺祭書屋俳句帖抄』

 

 明治三十五年(三十六歳)[やぶちゃん注:一九〇二年。子規の没年である。]は来た。この一月二日に唐紙を展べて福寿草を画き、それに添えた文句にもやはり偈(げ)の気味があるから、全文を引用して置く。

[やぶちゃん注:以下底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。割注風のポイント落ち右寄せの箇所は、読みにくくなるので、【 】で同ポイントで示した。最後の二行の【 】は「ン――ン――」の後の、一行の二行割注であることを示すもの。]

 

明治卅五年一月二日朝

 コヽアを持て來い【無風起波】

コヽア一杯飲む【小人閑居不善ヲナス】

 菓子はないかナ【佛ヲ罵ツテ已マズマタ祖ヲ呵(か)セントス】

 もなかではいかんかナ

 いかん鹽煎餅はないかナ

 ない【趙州無字】

 ン――【打タレズンバ仕合セ也】

左千夫來ル【咄牛乳屋】

 御めでたうございます

 同【健兒病兒同一筆法】

 空也せんべいを持て來ました【好魚惡餌ニ上ル】

 丁度よいところで【釣巨鼈也不妨】

空也煎餅をくふ【明イタ口ニボタ餅】

 …………

 …………【空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ來ラントス】

 …………

 コヽアを持て來い……蜜柑を持て來い【蜜柑ヲ剝ク一段落】

 ン――ン――【何ラノ平和ゾシカモ大風來ラントシテ天地靜マリカヘル今

        五分時ニシテ猛虎一嘯暗雲地ヲ掩テ來ランアナオソロシ】

 

[やぶちゃん注:最初の断っておくと、「偈」風のパロディであるから、十全には私自身、理解している訳ではない。但し、「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」の暴挙を成した私には多少判るところは、ある。そういうところだけを注する。悪しからず。

「コヽア」当時、牛乳は一般に独特の臭いが好かれず、子規もココアを入れて飲んでいたらしい。しかも後に「牛乳屋」左千夫が来るのが絶妙の洒落となるのである。

「無風起波」「無門關」の「序」に、「恁麼説話、大似無風起浪好肉抉瘡。」(恁麼(いんも)の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡(きず)を抉るに似たり。)とある私は「ここに記した以下の説話にしてからが、全く風がないのにあたら物騒ぎな波を立てたり、美しい肌(はだえ)を抉って醜く消えない瘡(きず)をつけるような厄介なものなんである。」と訳した。

「趙州無字」「でうしうむじ(じょうしゅうむじ)」。「無門關」第一に出る、非常によく知られたぶっ飛んだ公案「趙州狗子(でうしうのくす(じょうしゅうのくす))」。趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん 七七八年~八九七年)は唐末の禅僧。「趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。」(趙州和尚、因(ちな)みに僧、問ふ。「狗子に、還りて、佛性(ぶつしやう)有りや無しや。」と。州云く、「無。」と。)で、私は以下のように敷衍訳した。

   *

 趙州和尚が、機縁の中で、ある僧に問われた。

「犬ころ如きに、仏性、有るや!? 無しや!?」

 ――実は、この僧、嘗てこの公案に対して趙州和尚が既に、「有(ある)」という答えを得ていることを、ある人の伝手(つて)でもって事前に知っていた。――だから、その「有(ある)」という答えを既に知っている点に於いて、その公案を提示した自分は、趙州和尚よりもこの瞬間の禅機に於いて明らかな優位に立っており、その和尚が、「有(ある)」という答えや、それに類した誤魔化しでも口にしようものなら、この超然と構えている和尚を、逆にねじ込んでやろうぐらいな気持ちでいたのである[やぶちゃん注:子規の「マタ祖ヲ呵(か)セントス」とはこの僧の内実をパロったのだと私は思う。]――ところが――

 趙州和尚は、暫くして、おもむろに応えた――

「無。」

   *

である。詳しくは、「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」を読まれたい。

「打タレズンバ仕合セ也」公案を知ったかぶりしたりして増長慢になって自慢げに応じた者は警策で強かに打(う)たれるのが常。「打(ぶ)たれなかったなら、それだけ、マシ、だぜ」と子規はせせら笑うのである。

「左千夫來ル【咄牛乳屋】」割注は「チェッ! 牛乳屋かい!」。歌人伊藤左千夫は明治二二(一八八九)年から本所区茅場町(現在の墨田区江東橋)で牛乳搾取業を自営していた。ここは但し、軽蔑しているのではない。禅問答によくある、超然としたポーズの一つである。

「健兒病兒同一筆法」「兒」は「男」或いは「人」。仏から見れば人赤子、乳児である。されば、ここは「健兒」が牛乳で壮健な左千夫、「病兒」が子規で、「同一筆法」とは、そんな両極の二人が同じ言葉で年賀の挨拶をしよる、という謂いである。

「空也せんべい」ネットを調べると、塩煎餅とするが、どこのどんなものか、何故、「空也」か判らぬ。上野池の端にあった明治一七(一八八四)年の和菓子屋「空也」(現在、銀座に現存)があるが、少なくとも今は煎餅を扱っていない。識者の御教授を乞う。

「好魚惡餌ニ上ル」意味は分かるが、出典未詳。

「釣巨鼈也不妨」「巨鼈(きよべつ)釣りしなり。妨げず。」か。土産の「空也せんべい」を指すか。ここは素直ということになる。

「明イタ口ニボタ餅」『明(あ)いた口(くち)に「ぼた餅」』。

「空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ來ラントス」最後の割注部とともの。年頭、既にして、子規は何か自身の不吉なものを感じているようである。どうというわけではなしに、身体変調の予兆を感じていたのかも知れない(後の本文を参照)。

「五分時」「分時」と同じくごく短い時間、あっという間の意か。

「一嘯」「いつせう(いっしょう)」。一声、吠えること。

「掩テ」「おほひて」。]

 

 年頭は比較的無事であったらしく、

 

 藥のむあとの蜜柑や寒の内

 煖爐(だんろ)たく部屋暖(あたたか)に福寿草

 繭玉や仰向にねて一人見る

 解(げ)しかぬる碧巖集や雜煮腹(ざふにばら)

 

などと詠み、上根岸へ移って来た碧梧桐氏に「移居十首」を示したりしていたが、一月十九日に至り、不安な容体になって来た。特に痛が烈しいというわけではないけれども、どことなく苦痛を感ずる。知友相踵(あいつ)いで到り、夜は必ず誰かが泊って警戒することにしたところ、二十三日には大分気分がよくなった。警戒はこの日で解かれたが、この事あって以来看護輪番を設けることになり、左千夫、碧梧桐、虚子、秀美、鼠骨、義郎の諸氏が交〻(こもごも)その任に当った。午後から出かけて行って、深更まで病牀に侍(じ)するのを例とした。

 一月十六日の『日本』紙上に短歌を募る旨が見えている。居士を中心とする少数同人の歌は、その後も引つづき『日本』「週報」に掲げられていたけれども、一般から募ることは前年一月の旋頭歌以来中絶の形であった。今度の募集は社友三人に嘱してこれに当らしむという規定で、在来のと少しく種類を異にする。一人は病中にあって閲読意の如くならざるを致し、他の一人また事情に妨げられて期日を充す能わずという理由の下に、葯房(やくぼう)氏の選歌だけが紙上に掲載されることになったから、居士もその一人ではあったのであろうが、この三人選は遂に実現せず、「週報」には依然居士の目を通した歌が連載されつつあった。

[やぶちゃん注:「葯房(やくぼう)氏」当時、『日本』の記者であった後の中国文学者で文化勲章を受章した鈴木虎雄(明治一一(一八七八)年~昭和三八(一九六三)年)の歌人としての号。ウィキの「鈴木虎雄」によれば、『新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身』。『妻は陸羯南次女・鶴代』。『上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び』、明治三三(一九〇〇)年に東京帝国大学文科大学漢学科を卒業、『同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て』、後の明治四一(一九〇八)年に、『新設間もない』、『京都帝国大学文科大学助教授に就任』した。『日本における中国文学・文化研究(中国学)の創始者の一人で、東洋学における京都学派の発足にも寄与した、著名な弟子に吉川幸次郎と小川環樹らがいる。多くの古典漢詩を訳解を著述し、自身も漢詩を多く作』った。『他に、岳父羯南の著作や詩を収めた文集』「羯南文録」『を編んでいる』。「新聞『日本』との関わり」の項。『新聞『日本』には帝大在学中から漢詩・和歌を投稿しており、大学院中退後の』明治三二(一九〇一)年に『入社した。新聞『日本』の漢詩欄の選者で、長善館の門人だった桂湖村の勧めによる。月給は帝大出身者としては薄給の』二十五『円だった。新聞『日本』では「葯房漫艸」を連載し、病に倒れた正岡子規に代わり』、『短歌撰者を務めた。当時は寒川鼠骨と上野に同居しており、子規の「仰臥漫録」によると』、『家賃は』二円五十銭『だったという。子規の没後は根岸短歌会にも出席するようになった』。明治三六(一九〇三)年には『退社して台湾日日新報社へ移るが、日本新聞社との縁は切れず、帰国後の』明治三九(一九〇六)年に『陸羯南の娘と結婚している』とある。]

 

 一月中居士は「『獺祭書屋俳句帖抄』上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」という一篇を口述、虚子、椿堂、鼠骨の諸氏をして筆記せしめた。『獺祭書屋俳句帖抄』上巻は居士の俳句を年代別に抄出したもので、二十五年から二十九年までの分を収めている。居士はそれについて先ず自分の句を選ぶことの非常に難いことから説き起し、各年における俳句の変化などにも言及したもので、一面からいえば明治俳諧史の一部を成すことになっている。居士自身としては自分の幽霊が昔の自分の句を選ぶような心持――病牀の慰みのために、自分一個のために、多くとも十数の俳友に見せる位な心持で選ぶので、「なかなか古人を凌がうなどといふ大胆不敵な野心は持つてゐない」という。そういう心持で過去の句を一々点検した結果、「自分の句は自分が輕蔑して居つたよりも更に下等なものである」と率直に述べているのである。この文章は早速二月の『ホトトギス』に掲げられた。『獺祭書屋俳句帖抄』上巻が刊行されたのは四月になってからであった。

 この春居士は比較的多くの歌を作っている。紅梅の下に土筆などを植えた盆栽を左千夫氏から贈られては詠み、京の人から香菫(においすみれ)を贈られては詠み、碧梧桐氏が赤羽へ土筆を摘みに行くといっては詠むという風に、自在の趣を発揮している。前年山吹の歌を『墨汁一滴』に掲げた時、「粗笨鹵莽(そほんろまう)、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乘りくるがうれしくて」と附記したが、この春の歌は更に「やすやす」の度を加えているように思う。

 

 くれなゐの梅散るなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ

 つくし子はうま人なれやくれなゐに染めたる梅を絹傘きぬがさ)にせる

 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく

 春されば梅の花咲く日にうとき我枕べの梅も花咲く

 枕べに友なき時は鉢植の梅に向ひてひとり伏し居り

     ○

 赤羽根のつゝみに生ふるつくづくしのびにけらしも摘む人なしに

 赤羽根に摘み残したるつくづくし再び往かん老い朽ちぬまに

 つくづくし摘みて歸りぬ煮てや食はんひしほと酢とにひでてや食はん

 つくづくし長き短きそれもかも老いし老いざる何もかもうまき

 つくづくし故鄕(ふるさと)の野に摘みし事を思ひ出でけり異國(ことぐに)にして

 

[やぶちゃん注:「前年山吹の歌を『墨汁一滴』に掲げた時」末尾「(四月三十日)」クレジット分。例の初出で示す。

   *

病室のガラス障子より見ゆる處に裏口の木戸あり。木の傍、竹垣の内に一むらの山吹あり。此山吹もとは隣なる女の童の四五年前に一寸許りの苗を持ち來て戲れに植ゑ置きしものなるが今ははや繩もてつがぬる程になりぬ。今年も咲き咲きて既になかば散りたるけしきをながめてうたゝ歌心起りければ原稿紙を手に持ちて

  裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる

  山吹の花

  小繩もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにす

  る山吹の花

  水汲みに往來の袖の打ち觸れて散りはじめた

  る山吹の花

  まをとめの猶わらはにて植ゑしよりいく年經

  る山吹の花

  歌の會開かんと思ふ日も過ぎて散りがたにな

  る山吹の花

  我庵をめぐらす垣根隈もおちず咲かせ見まく

  の山吹の花

  あき人も文くばり人も往きちがふ裏のわき

  の山吹の花

  春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見え

  ぬ山吹の花

  ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寐ながら

  見ゆる山吹の花

  春雨のけならべ降れば葉がくれに黃色乏しき

  山吹の花

粗笨鹵莽、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乘りくるがうれしくて。

   *

前書の「女の童」は「めのわらは」、歌の「往來」は「ゆきき」、「いく年」は「いくとせ」、「我庵」は「わがいほ」。

「粗笨鹵莽(そほんろまう)」「粗笨」は大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑。「鹵莽」は元は「塩分の多い土地と草茫々の野原・荒れ果てた土地」の意であるが、そこから転じて、前者と同じく「お粗末なこと・粗略・軽率」の意。

「ひでて」「漬(ひ)でて」。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  馬鹿野郎糞野郎 / 明治三十四年~了

 

    馬鹿野郎糞野郎

 

 「仰臥漫録」は十月二十九日に至って一先ず絶え、三十五年三月に三日ほど記事があるだけで、六月以降は麻痺剤服用日記ということになっている。即ち三十四年九月初より十月末までを以て主要なる部分と見るべく、これまで世間に発表された『墨汁一滴』の類に此し、更に瑕瑜(かゆ)掩(おお)わざる居士の真面目が現れているのは、これが日記であり私記であったためで、「仰臥漫録」の貴重なる所以は第一にこの点にあるといって差支ない。

[やぶちゃん注:「麻痺剤」モルヒネ(morphine)。正岡子規のモルヒネ服用は主治医宮本仲(安政三(一八五六)年~昭和一一(一九三六)年)の処方によるもので、明治三二(一八九九)年夏以降の脊椎カリエスの重篤化に伴って始められたものであろう。明治三十五年の「病牀六尺」の「八十六」(文末丸括弧クレジット八月六日分)では(国立国会図書館デジタルコレクションのこの初出切貼帳の画像を視認して翻刻した。太字部は原文では傍点「◦」)、

   *

此のごろはモルヒ子を飮んでから寫生をやるのが何よりの樂みとなつて居る。けふは相變らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒ子を飮んで蝦夷菊を寫生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に畫いた花は稍成功してうれしかつた。午後になつて頭は愈〻くしやくしやとしてたまらぬやうになり、終には餘りの苦しさに泣き叫ぶ程になつて來た。そこで服藥の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ藥を飮む時刻には少し早いのであるが、餘り苦しいからとうとう二度目のモルヒ子を飮んだのが三時半であつた。それから復た寫生をしたくなつて忘れ草(萱草に非ず)といふ花を寫生した。この花は曼珠沙華のやうに葉がなしに突然と咲く花で、花の形は百合に似たやうなのが一本に六つばかりかたまつて咲いて居る。それをいきなり畫いたところが、大々失敗をやらかして頻りに紙の破れ盡す迄もと磨り消したがそれでも追付かぬ。甚だ氣合くそがわるくて堪らんので、また石竹を一輪畫いた。これも餘り善い成績ではなかつた。兎角こんなことして草花帖が段々に書き塞がれて行くのがうれしい。八月四日記。

   *

とあるから、既にこの死の凡そ一ヶ月前頃には服用の習慣性に加えて耐性的様態、常用によって鎮痛・鎮静が利かなくなっている事態が生じてしまっていることが判る。

「瑕瑜(かゆ)掩(おお)わざる」「礼記」の「聘義」に出る孔子の言葉の一節「瑕不掩瑜、瑜不掩瑕、忠也。」(瑕(か)は瑜(ゆ)を掩(おほ)はず、瑜は瑕を掩はざるは、忠なり)。瑕疵(かし:きず)があっても玉石はその美しい輝きを損なうものではなく、美事な光輝が玉石の傷を覆い隠さぬことこそは、曇りなき真心を示す「忠」そのものである、という言説を元とする。美徳と過失の双方を在るが儘に体現して決して隠さぬこと、それが「忠」というものの在り方であるという譬え。]

 

 「仰臥漫録」の初の方には画が多く、俳句も相当記されている。画は固より病牀に見得る範囲の写生であるが、句もまた即事即景を直叙して、淡々たる中に自在の趣を得たものが少くない。

[やぶちゃん注:以下は、「子規居士」で校合したが、そちらはひらがなはカタカナであり(但し、これが原表記)、そこは底本に従ってひらがなのママとした。]

 

 秋一室拂子(ほつす)の髯(ひげ)の動きけり

 病(やまひ)間(かん)あり秋の小庭の記を作る

 病牀のうめきに和して秋の蟬

 朝顏や繪の具にじんで繪を成さず

 秋風や絲瓜の花を吹き落す

   欲睡(ねむりをほつす)

 秋の蠅叩き殺せと命じけり

 臥(ふ)して見る秋海棠の木末かな

 西へまはる秋の日影や絲瓜棚

 筆も墨も溲瓶(しびん)も内に秋の蚊帳

 驚くや夕顏落ちし夜半(よは)の音

 

 人は容易に心の虚飾を去り得るものではない。豊富な天分の所有者が往々にして岐路に迷い、愚者の一道を守るに如かぬ点があるのはこのためである。「仰臥漫録」の句の及びがたいのは、すべてが朗然として一塵をとどめぬ居士の心胸の産物だからであろう。文字や技巧の上からのみ眺めて、平凡と評し去る者があるならば、それはこれらの句の真に蔵する醍醐味を味い得ぬために外ならぬのである。

 十一月二十日になって居士は「命のあまり」というものを『日本』に掲げた。「墨汁一滴」の筆を擱いて以来、はじめての文章である。当時世間の大評判であった『一年有半』を評して平凡浅薄といい、余命一年半の宣告を受けながら、なおこの書を書き、いやしくも命ある間は天職を尽しているのは感ずべきだというような世評に対し、これは見当違いの褒辞で、病中筆を執ってものを書くのは一種のうさ晴しに過ぎぬ、天職を尽したのでも何でもないといったりしたため、一部読者の反感を買ったらしく、『日本』紙上にもそういう意味の投書が何度か現れた。居士の『一年有半』に対する感想は大体「仰臥漫録」に書いたところに尽きており、「命のあまり」はその意味を更に敷衍しようとしたものではないかと思われるが、当時居士の容体は甚だ悪く、「仰臥漫録」の筆さえ執り得ぬ状態であったから、遂に意の如く進行しなかった。ただ居士は前後三回で筆を按ずるに当り、投書に対しても次のように一矢(いっし)酬いている。

[やぶちゃん注:『居士の『一年有半』に対する感想は大体「仰臥漫録」に書いたところに尽きており』前章「古白曰来」を参照。

 以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校訂は「子規居士」を用いた。]

 

それから又「墨汁一滴」を讀んで同情を表したが、「命のあまり」を讀んであいそをつかしたといふやうな事が書いてあつたと思ふ。余が病氣であるについて同情を表せられる見ず知らずの人が澤山あつて、余は屢〻之が爲に感泣するのである。併しながら「墨汁一滴」を誤解して同情を表せられるやうなのは甚だ迷惑に感ずる。斯樣な同情は早く撤回せられたいものである。

又或人は『一年有半』の成功を余が羨んだとか妬んだとか言ふて居る。さう見られるなら仕方がない。要するに是等の誤解は余の文章の惡いといふよりも、寧ろ其人が余自身を誤解して居るのであらう。

 

誤解した同情は撤回してもらいたいというあたり、特に居士の面目躍如たるものがある。

[やぶちゃん注:大丈夫だ、子規君。私は君に一度として同情したことはないよ。]

 居士が『碧巌集』を読んで興味を感じたのは、三十四年後半の事ではないかと思われる。この年の蕪村忌は子規庵で催すことが出来ないので、道灌山胞衣神社に会場を持って行った。その時の写真を居士の許に齎(もたら)したら、居士は直に筆を執って裏面に次のような文句をしたためた。

[やぶちゃん注:「碧巌集」臨済宗の公案を集「碧巖錄」の別名。正しくは「佛果圜悟(えんご)禪師碧巖錄」。全十巻。宋の一一二五年に完成した。雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が「傳燈錄」千七百則の公案の中から、百則を撰び、それぞれに偈頌(げじゅ:経典等に於いて詩句形式を採って教理及び仏・菩薩を褒め讃える言葉。四字・五字・七字を以って一句と成し、四句から成るものが多い。単に「偈」「頌」とも呼ぶ)を加えて、さらにそれに対し、圜悟が各則毎に垂示(すいじ:序論的批評)・著語(じゃくご:部分的短評)・評唱(全体的評釈)を加えたもの。圜悟の弟子によって編集刊行された後、中国や日本で何度も刊行され、参禅弁道のための宗門第一の書として珍重されて続けている。

「蕪村忌」既出既注であるが、再掲しておく。与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれで、旧暦天明三年十二月二十五日(グレゴリオ暦一七八四年一月十七日)に亡くなっている(享年六十九)。過去の事例を見ると、子規らはグレゴリオ暦の十二月二十五日に合わせて蕪村忌を行っている。

「道灌山胞衣神社」現存しない。胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤など。後産(あとざん)として体外に排出されるが、これは古くから信仰の対象として丁重に扱われた)を祀るために明治二三(一八九〇)年に日本胞衣会社によって建てられた神社。ここにあった茶屋で正岡子規は高浜虚子に後継者になることを断られている。大正時代に入ると、神社はなくなり、鉄道官舎となった、とクバ氏のブログ「次回オフの見どころ」の日暮里、谷中見どころにある。虚子の拒絶に子規は激怒した。明治二八(一八九五)年十二月九日のことで、虚子は小説家に色気があったからである。場所からも、私は即座に大正一五(一九二六)年一月一日発行の雑誌『新潮』に芥川龍之介発表年末の一日秀抜なコーダを思い出す。

 以下、底本では全体が、二字下げ。以下、同じ。「子規居士」で校合した。この部分に関してのみ(後の「題睡猫圖」以下は従わず、私の野狐禪で訓じた。因みに、私は九年前に無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版などというものをももものしている)、底本の蜂屋邦夫氏の訓読文をそのまま採った。但し、ルビは歴史的仮名遣で(底本のそれは現代仮名遣)必要と判断したところにのみ振った。]

 

菩薩子喫飯來 (菩薩子(ぼさつし)よ 飯(めし)を喫(きつ)し來たれ)

オ前方腹ガヘツテ一句モ吐ケヌヂヤナイカ

不堪奪飢人之食盈儞空腹 (飢人(きじん)の食(し)を奪ひて儞(なんぢ)が空腹を盈(み)たすに堪へず)

コヽニ天王寺蕪(かぶら)ノ漬物ガアル、コレデモ食ヒ給へ

翻吾溲瓶灑儞頭上 (吾が溲瓶を翻して儞が頭上に灑(そそ)がん)

  咄(とつ)

道(い)へ奈良茶三石ハ蕪ノ漬物ニ イヅレゾ

  道ヒ得ズンバ三十棒

  道ヒ得テモ三十棒

 

[やぶちゃん注:「天王寺蕪(かぶら)」大阪府大阪市天王寺付近が発祥地と伝えられるカブ(双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブBrassica rapa var. glabra)の品種。この蕪村忌には、この天王寺蕪の「風呂吹き」が毎年、配られたらしい。

「咄(とつ)」は感動詞。「舌打ち」の音に由来するオノマトペイアから生まれたもの。原義は「激しく叱る際に発する語の「チョッ!」で、禪の公案のやり取りではよく用いられる。]

 

 次のも同じ湯合のものである。

 

 お前ひとりか連衆(れんじゆ)は無いか連衆あとから汽車で來る

 好箇侶伴(りよはん)待チ合セテ共ニ行ケ、謹ンデ懷中ヲスリ取ラルヽ莫(なか)レ、芭蕉蕉村是レ掏摸(すり)ノ親玉

 

 この種の文字は咄嗟の間に成るので、もともと何かに発表するために書くのでないから、どの位あるものかよくわからない。香取秀真氏蔵の左の一篇なども、日次はないけれども、あるいは同じ頃の作ではないかと想像される。

 

  題睡猫圖

金猫兒 飽膏梁

群鼠如盜任跳梁

水仙花下睡方熟

總不管

 滿洲風雲太匇忙

米相場

株相場

  咄

新橋別有相識子

任他妻奴嚙糟糠

 

   睡猫圖(すいべうず)に題す

 金猫兒(きんべうじ) 膏梁(こうりやう)に飽き

 群鼠 如(も)し 盜まば 跳梁に任(まか)す

 水仙の花の下 睡りて方(まさ)に熟す

 総て管(かまは)ず

 滿洲の風雲 太(はなは)だ匇忙(そうばう)なるも

 米相場(こめさうば)

 株相場

   咄

 新橋 別に相識(さうしき)の子(し) 有り

 任他(さもあらばあ)れ 妻奴(さいど) 糟糠(さうかう)を嚙む

 

[やぶちゃん注:「膏梁」肥えた肉と美味い穀物。

「睡りて方(まさ)に熟す」まっこと、今まさに深く熟睡している。

「匇忙」俄かなこと。

「新橋 別に相識(さうしき)の子(し)」新橋芸妓のことを夢想したのであろう。

 

 諷亭氏が三十五年の年頭に居士を訪ねたら、この頃は頻に偈(げ)を稽古しているが、うまくなった、何でも知っているやつを片端から引導渡してやろうと思う、この間花和尚魯智深にやったのがこうだといって、

 

馬鹿野郎糞野郎。一棒打盡金剛王。再過五臺山下道。野草花開風自涼。

 

 馬鹿野郎 糞野郎

 一捧打盡 金剛王

 再過(さいくわ)す 五臺山下(ごだいさんか)の道(みち)

 野草 花 開きて 風 自(おのづか)ら涼し

 

を示したそうである。これもまた三十四年末に成ったものに相違ない。

[やぶちゃん注:「花和尚魯智深」言わずもがな、「水滸傳」の百八人の頭目の一人。本名は魯達、智深は法名。花和尚(かおしょう)は綽名(あだな)。

「五臺山」山西省東北部の五台県にある、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めている霊山。標高三千五十八メートル。ウィキの「魯智深によれば、魯智深はここの長老智真に見込まれ、師匠自らの一字を取った智深という戒名を授かるが、二度、禁酒の戒を破り、泥酔して寺に帰り、大暴れしたため、智真長老はやむなく破門し、兄弟弟子の智清禅師がいる東京開封府の大相国寺を紹介したが、この際に偈を授けている、とある。]

2018/06/26

諸國里人談卷之三 雲仙嶽

 

    ○雲仙嶽(うんぜんがたけ)

肥前國高木郡(たかきのこほり)の高山(かうざん)、五十町上に普賢嶽(ふげんがたけ)あり。山、常に燃(もへ[やぶちゃん注:ママ。])て跣(はだし)の者は行(ゆく)事、あたはず。地獄と称する所あり。穴數(あなかず)十ヶ所あり。兩所に並びて高〔たかさ〕、五、六尺、黑煙の涌起(わきおこ)る所、「兄弟の地獄」と云〔いふ〕。「酒屋の地獄」は白濁(しろにごり)て米泔(しろみづ)に似たり。「麹屋の地獄」は黃白(きはく)に、靑き土、涌(わく)。麹の色のごとし。「藍屋の地獄」は靑綠にして、藍におなじ。それぞれの色に隨ひて其名ありける。猛火、盛(さかん)にして、等括・大焦熱とも云べし。其流(ながれ)、稍熱(しやうねつ)にして湯のごとくなるに、小魚、多〔おほく〕あり。これ、以〔もつて〕、奇なりとす。梺(ふもと)に溫泉あり。入湯の人、常に絶えず。○當山の伽藍は、文武帝寶元年中、行基草創の地、日本山大乘院滿明密寺(まんみやうみつじ)と号し、三千八百坊、有〔あり〕。塔十九基ありしとなり。天正年中、耶蘇宗門、盛(さかん)に行(おこなはれ)し。僧俗、邪法に陷(おちいる)時、當寺の僧侶、亦、然り。因(よつ)て、破却せられて正法(しやうほう)に歸せざるもの、皆、此山の地獄に墮入(おち〔いり〕)て、今、礎(いしづへ)或〔あるいは〕石佛のみ、僅(わづか)に殘り、やうやうに一ヶ寺の俤(おもかげ)あり。

[やぶちゃん注:「高木郡」正しくは高来(たかき)郡。現在、雲仙岳(最高峰は平成新山標高千四百八十三メートル)及びその一部である普賢岳(千三百五十九メートル)は長崎県雲仙市小浜町雲仙。(グーグル・マップ・データ)。本書が刊行された寛保三(一七四三)年は鎮静期間であったようだが、ウィキの「雲仙岳によれば、凡そ五十年後の寛政四(一七九二)年末から翌年にかけて活動期となり、普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火が始まった。三月には普賢岳北東部に溶岩が流れ出し、全長は二・七キロメートルに達し、四月一日には雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害(「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる)によって、肥前国・肥後国合わせて死者・行方不明者一万五千人という、有史以来、日本最大の火山災害となった。その後も噴火は継続、六、七月になっても、時折、噴煙を吹き上げたという。無論、平成三(一九九一)年六月三日大火砕流の衝撃的映像は私には記憶に鮮明に残る。

「五十町」約五キロ四百五十四メートル。現在、登山が解禁となっている普賢岳の日帰りのモデル・コースで往復の総実動距離は約八キロメートルであるから、この数値はいい加減ではない。

「等括」八大地獄の第一とされる等活地獄。殺生を犯した者が落ちるとされ、獄卒の鉄棒や刀で肉体を寸断されて死ぬが、陰風が吹いてくると、また生き返り、同じ責め苦に遭うとされる。

「大焦熱」八大地獄の第七。五戒を破った者及び浄戒の尼を犯した者が落ちるとされ、炎熱で焼かれ、その苦は他の地獄の十倍とされる。

「稍熱(しやうねつ)」不詳。「稍」には「次第に程度が増すさま・一層」の意があるから、どんどん温度が上ってゆくの意か。或いは「硝熱」で激烈な熱反応を起こすの意か。

「小魚、多〔おほく〕あり」

「梺(ふもと)に溫泉あり」雲仙温泉には、舞岡の時に泊まったねぇ。あの時、早朝の旅館の庭を一緒に散歩して雲仙岳を眺めた、担任だった二人の男女は、その後、結婚をした。懐かしい思い出だなぁ。

「文武帝宝元年中」「宝元」は「大寶」の誤り。「宝元」なんて年号は本邦にはない。七〇一年~七〇四年。

「日本山大乘院滿明密寺(まんみやうみつじ)」ウィキの「一乗院雲仙市によれば、大宝元(七〇一)年二月十五日、現在の雲仙の地に文武天皇勅願により温泉山満明寺が開山、同年十一月二日、最初の寺院「大日如来院」が建立され、開基は行基菩薩とあり、『最盛期は瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊を有していた』とある。その後、何度か、火災や兵乱による焼失や再建を経たが、寛永一四(一六三七)年の「島原の乱」によって『堂字すべてを焼失』、三年後の寛永十七年に『島原藩主となった高力忠房(摂津守)公の命を受け、遠州浜松鴨江寺より招聘された当山中興弘宥和尚が、「温泉山満明寺一乗院」として復興』、延宝八(一六八〇)年七月には、『松平忠房』『が島原藩主となり』、『正式に「温泉山一乗院」として認可され』、『松平家の家紋である「重ね扇」から扇を一枚取った「一重扇の丸に横一」の寺紋を賜』り(紋としては珍しい十本骨の扇)、『正式に島原藩の祈願所とな』っている。ところが、明治二(一八六九)年、『神仏分離令により』、『当山鎮守四面宮』(しめんぐう/しめみや)『を分離、筑紫国魂神社と』され、廃仏毀釈の嵐の中、『温泉(うんぜん)より南串山』(みなみくしやま)『の歓喜庵(現、一乗院)に本坊を移転』した。『これにより』、『温泉山一乗院本坊は、現在の南串山に定まり、雲仙は飛地境内となり』、『一乗院釈迦堂として法灯を灯すことにな』ったが、昭和五五(一九八〇)年には『雲仙飛地境内の一乗院釈迦堂は新たな宗教法人「雲仙山満明寺」として独立し、一乗院の法類寺院とな』ったことから、『大宝元年行基菩薩開山以来、温泉山(うんぜんざん)と記されてきた霊峰雲仙の称号は雲仙の地を離れ、南串山の温泉山一乗院の山号としてのみ、その名を残す』とある。一乗院は現在の長崎県雲仙市南串山町丙にある。調べてみると、筑紫国魂神社はその後、温泉(うんぜん)神社と名を変えて、現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙の湯町にあることが判った。則ち、周辺(グーグル・マップ・データ)の広大な一帯が旧温泉山満明寺であったということになる。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年)。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から

「耶蘇宗門、盛(さかん)に行(おこなはれ)し。僧俗、邪法に陷(おちいる)時、當寺の僧侶、亦、然り。因(よつ)て、破却せられて正法(しやうほう)に歸せざるもの、皆、此山の地獄に墮入(おち〔いり〕)て」これは雲仙のこの「地獄」で行われたおぞましい切支丹弾圧の一件と、この寺の往古の俤のない縮小を絡ませた、単なる風聞伝承ではあるまいか。事実、そのような同寺の改宗僧が他出したという事実があろうとは、ちょっと思えないからである(そういう事実があるとするならば、是非、御教授あられたい)。ここで行われた切支丹迫害や処刑については、江島達也氏のブログ「アトリエ隼 仕事日記」のかえって日本人への親近感を高めることとなった雲仙地獄でのキリシタン迫害を参照されたいが、そこには、こ『の仏教的にいかにも地獄のイメージと重なるこの場所が、キリシタンの弾圧あるいは大虐殺に使われた最初が、あの「島原の乱」の元凶とも言える悪政者、島原領主・松倉重政の発案によるもので』あったとあり、寛永四(一六二七)年二月二十八日、『パウロ内堀作右衛門ら』十六『人(女、子どもを含む)のキリシタンがここに連れてこられ、裸にされた上』、『首に縄を巻かれて引きずられ、硫黄のたぎる中に投げ込まれて殺され』、同じ年の五月十七日にも『ヨハネ松竹庄三郎ら』十『人がここ雲仙地獄で殺され』たとある。因みに、『その後も』、『残忍な領主や奉行が』、『楽しむかのように続けた雲仙地獄でのキリシタン拷問及び惨殺は当時のヨーロッパにおいて衝撃を持って伝えられて』おり、一六六九年(寛文九年相当)に『アムステルダムで発行されたモンタヌスの「日本誌」に掲載された「雲仙地獄の殉教」図は有名になり』、一六九一年(元禄四年相当)に『パリで再版されたほか』、一七〇五年(宝永二年相当)には『ロンドンで英語版』が、一七二二年(享保七年相当)には『ベネチアでイタリア語版』、一七三七年(元文二年相当)にはアウグスブルグでドイツ語版』、一七四九年(寛延二年相当。既に第九代将軍徳川家重の治世である)に『リスボンでポルトガル語版が出版され、広くヨーロッパ中に知られることとな』ったとある。そうして実は、『当時の為政者の残虐極まりない行いはともかく、ヨーロッパの人たちが関心を寄せたのは、拷問を受け続けたキリシタン達が、命を奪われてもなお信仰を捨てず、むしろよりいっそう強くしたという、その精神性に対してであり、そのことが日本人への親近感を』逆に『高めさせたと』されている、というのである。リンク先には雲仙の「地獄」の写真もある。必見。

「一ヶ寺」先に挙げた旧地にあった一乗院。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  古白曰来

 

    古白曰来

 

 十一月六日の夜、居士はロンドンの漱石氏宛に一書をしたためた。「僕はもーだめになってしまった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ。それだから新聞建誌へも少しも書かぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙をかく」という書出しで、この頃としてはやや長い文句をつらねた末、次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校合には基本、「子規居士」を用いた。原典はひらがな部分はカタカナであるが、ここでは読み易さを考えて底本に従い、ひらがなとした。後の部分も同じ。]

 

鍊卿死に非風死に皆僕より先に死んでしまつた。

僕は迚も君に再會するヿは出來ぬと思ふ。萬一出來たとしても其時は話も出來なくなつてるであろー。實は僕は生きてゐるのが苦しいのだ。僕の日記には「古白曰來」の四字が特書してある處がある。

 

 漱石氏がロンドンにおける動静その他をこまごまと報じて来た長文の手紙は、ひどく居士を喜ばした。「倫敦(ロンドン)消息」と題して二度『ホトトギス』に掲げた上、更に「もし書けるなら僕の目の明いてる内に今一便よこしてくれぬか」と申送ったのがこの手紙なのである。「僕の日記」というのは「仰臥漫録」のことで、「古白曰来」と特記したのは十月十三日の条であった。朝来(ちょうらい)恐しく降った雨がやんで、天気が直りかけた午後二時頃から、居士は俄に気持が変になって、「たまらんたまらんどーしようどーしよう」と連呼する。遂に四方太氏宛に「キテクレネギシ」と電信を打つこととし、母堂が頼信紙を持って車屋まで行かれる。令妹は風呂へ行って不在である。たった一人家の中に残された居士は、硯箱の中にある二寸ばかりの小刀と千枚通しとを見つめながら、頻に自殺することを考える。但(ただし)この錐(きり)と小刀では死ねそうもない。次の間へ行けば剃刀があるので、それさえあればわけなく死ねるのだけれども、そこまで匍(は)って行くことも出来ない。已むなくんば小刀か錐を用いるのだが、何分恐しさが先に立つ。死は恐しくないが苦(くるしみ)が恐しい。病苦でさえ堪えきれぬ上に、死損(しにそこな)って苦しんでは堪らない。小刀を手に取ろうか取るまいかという二つが、心の中で戦っているうちに、母堂はもう帰って来られた……。

  居士はこの心理経過を詳細に記し、

 

逆上するから目があけられぬ、目があけられぬから新聞が讀めぬ、新聞が讀めぬから只考へる、只考へるから死の近きを知る、死の近きを知るからそれ迄に樂みをして見たくなる、樂みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる、突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雜用(ざふよう)[やぶちゃん注:こまごましたものに係る費用。雑費。]がほしくなる、雜用がほしくなるから書物でも賣らうかといふことになる……………いやゝゝ書物は賣りたくない、さうなると困る、困るといよゝゝ逆上する。

 

という風に層々(そうそう)と書いて来て、最後に小刀と千枚通しの形を画き、上に「古白曰来」の四字を記したのである。黄泉(こうせん)に帰した知友が幾人もある中に、特に古白の名を挙げた理由は説明するまでもあるまい。

 

 「仰臥漫録」の中にはまた次のような箇所がある。

[やぶちゃん注:一部の漢文部分は読み易さを考え、恣意的に字空けを施した。読みは岩波文庫版「仰臥漫録」を参考に歴史的仮名遣で附した。]

 

天下の人餘り氣長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候。

天下の人あまり氣短く取いそぎ候はゞ大事出來申間敷候。

吾等も餘り取いそぎ候ため病氣にもなり不具にもなり思ふ事の百分一も出來不申候。

併し吾等の目よりは大方の人はあまりに氣長くと相見え申候。

貧乏村の小學校の先生とならんか日本中のはげ山に樹を植ゑんかと存候。

會計當而已(あたるのみ)矣 牛羊(ぎうやう)茁(さつとして)壯長而已(さうちやうするのみ)矣。この心持にて居らば成らぬと申事はあるまじく候。吾等も死に近き候今日に至りやうやう悟りかけ申候やう覺え候。瘦我慢の氣なしに門番關守夜廻りにても相つとめ可申候と存候。只時々の御慈悲には主人の殘肴(ざんかう)きたなきはかまはず肉多くうまさうな處をたまはりたく候。食氣(くひけ)ばかりはどこ迄も增長可致候。

兆民居士の『一年有半』といふ書物世に出(いで)候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉(のど)に穴一ツあき候由、吾等は腹、背中、臀(しり)ともいはず蜂の巢の如く穴あき申候。一年有半の期限も大槪は似より候ことゝ存候。乍併(しかしながら)居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば樂み出來可申候。杏(あんず)を買ふて來て細君と共に食ふは樂みに相違なけれどもどこかに一點の理がひそみ居候。燒くが如き晝の暑さ去りて夕顏の花の白きに夕風そよぐ處何の理窟か候べき。

 

 左の一節もまた右と同じく、十月十五日に書かれたものらしい。

 

吾等なくなり候とも葬式の廣告など無用に候。家も町も狹き故二、三十人もつめかけ候はゞ柩(ひつぎ)の動きもとれまじく候。

何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辭傳記の類(たぐひ)讀み上候事無用に候。

戒名といふもの用ゐ候事無用に候。曾て古人の年表など作り候時狹き紙面にいろいろ書き竝べ候にあたり戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候。戒名などは無くもがなと存候。

自然石の石碑はいやな事に候。

柩の前にて通夜(つや)すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致候。

柩の前にて空淚(そらなみだ)は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。

 

 晩年の居士の心持は大体ここに尽きているかと思う。瘦我慢の気なしに門番関守夜廻りでもつとめる、というところまで脱落[やぶちゃん注:脱線。]して、病に管しむ一面極めて平(たいら)かな心を推持し得た。変態奇矯に陥りがちな病人心理と同日の談ではない。「貧乏村の小學校の先生とならんか、日本中のはげ山に樹を植ゑんか」ということは、十月十九日に至り「今日余もし健康ならば何事を爲しつゝあるべきか」という問題となって再び出て来る。「幼稚園の先生もやつて見たしと思へど財産少しなくては余には出來ず。造林の事なども面白かるべきも其方の學問せざりし故今更山林の技師として雇はるゝの資格なし、自ら山を持つて造林せば更に妙なれど買山(ばいざん)の錢なきを奈何」というのである。明日を測られぬ病軀を抱いた居士の眼が、むしろ遠い世界を望んでいたことは、この一事からも想像することが出来る。

 居士が身後の事について記したものは、この数箇条の外に見当らない。「死後」という文章の中に書いたところは、まだ多少の文学的空想が加味されていた。ここにいうところは皆端的である。これらの言は必ずしも遺言と見るべきではないが、この条々は大体歿後においても居士の意志を尊重されたように思われる。

[やぶちゃん注:思うところあって、注は最後に纏める。標題は「古白、曰く、『来(きた)れ』と」と読む。「古白」は俳人で作家、正岡子規の従弟で盟友でもあった幼馴染み藤井古白(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年)。既出既注であるが、再掲する。ウィキの「藤野古白」によれば、『本名、藤野潔。愛媛県、久万町に生まれた。母親の十重は子規の母、八重の妹で、古白は子規の』四歳年下。七『歳で母を失い』、九『歳で家族ととも東京に移った』。明治一六(一八八三)年に『子規が上京し、一年ほど子規は、古白の父、藤野漸の家に下宿した』、彼には生来、『神経症の症状があり』、明治二二(一八八九)年には『巣鴨病院に入院、退院後』、『松山で静養した』。この頃、『高浜虚子とも親しくなった』。明治二四(一八九一)年に『東京専門学校に入学し』、『文学を学んだ。初期には俳句に才能をみせたが、俳句を学ぶうち』、その価値を見限り、『小説、戯曲に転じ、戯曲「人柱築島由来」は』『早稲田文学』『に掲載されたが』、『世間の評価は得られなかった。戯曲発表の』一『ヶ月後に、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ。」の遺書を残してピストル自殺し』て果てた。『河東碧梧桐の『子規を語る』には「古白の死」の一章が設けられ、古白の自殺前後の周辺の事情が回想されている。古白はよく死を口にしたが、その前日まで変事を予想させるようなことはなかった。以前から古白は知人がピストルをもっているのを聞いていて撃ちたがっていたが』、『知人はそれを許さなかった。自殺の前日の夜、銃を盗みだし』、四月七日に『前頭部、後頭部を撃った。病院に運ばれ、治療をうけ』たが、四月十二に絶命した。『碧梧桐らが看護にあたったが』、『言葉をきける状態ではなかった。当時』、『子規は日清戦争の従軍記者として広島で出発を待っている時で』死に目に逢えていない。子規の幻覚に彼が現われ、「来たれ」と呼びかけるのは、私は、彼が凄絶な衝動的自殺をしたことと、子規が彼の自死を国内にあって知りながら、大陸へ渡ったことに基づく、子規の強い心的複合(コンプレクス)によるもののように感じている

「十一月六日の夜、居士はロンドンの漱石氏宛に一書をしたためた」宵曲は大部分を引いているが、ここで改めて全文を示す。ネットで発見したこちらの原書簡画像(個人ブログ「文学・歴史散歩」のもの)翻刻した

   *

僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手帋[やぶちゃん注:「てがみ」。]ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ徃タ[やぶちゃん注:「いつた」。]ヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)

画ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。

不折ハ今巴理[やぶちゃん注:巴里(パリ)。]ニ居テコーランノ処ヘ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。

虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。

鍊卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。

僕ハ迚モ君ニ再会スルヿハ出來ヌト思フ。万一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。[やぶちゃん注:ここに吹き出しで書き添えたもの(二字程。判読不能)を三重線で消してある。]ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。

書キタイヿハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。

 倫敦ニテ   明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス

    漱石兄       東京  子規拜

   *

「コーラン」は不折がフランスで、この頃、二番目に師事した、フランス人画家で優れた美術教師でもあったジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens 一八三八年~一九二一年)の訛りであろう。因みに最後の「倫敦ニテ」というのは洒落のつもりだろうか。

「鍊卿」(れんきょう:現代仮名遣)は既出既注の竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年二月一日)の号。河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、先に出た河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。別号、黄塔。

「非風」既出既注の新海非風(にいみひふう 明治三(一八七〇)年~明治三四(一九〇一)年十月二十八日)は愛媛県出身の俳人。東京で正岡子規と知り合い、作句を始めた。後、結核のため、陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。

「倫敦消息」明治三十四年五月と六月の『ホトヽギス』に載った。「青空文庫」のこちらは新字新仮名で気持ちが悪い。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和三(一九二八)年漱石全集刊行会刊「漱石全集」第十五巻(「初期の文章及詩歌俳句」)のこちらから正規表現で読める。

「仰臥漫録」の『「古白曰来」と特記した』『十月十三日の条』「仰臥漫録一」の掉尾。私が若き日に読んで(見て)激しい衝撃を受けた箇所である。正字正仮名のそれを入手出来る目途がない今、この際、ここだけでも電子化して示したい。岩波文庫版(一九八三年改版)を参考に漢字を恣意的に正字化して示すこととする。最後のショッキングな(私には強烈だった)絵も添える。なお、底本の行末で改行している箇所で、連続性を疑う部分二箇所で空欄を恣意的に空けたことをお断りしておく。

   *

十月十三日 大雨恐ろしく降る 午後晴

 今日も飯はうまくない 晝飯も過ぎて午後二時頃天氣は少し直りかける 律は風呂に行くとて出てしまうた 母は默つて枕元に坐つて居られる 余は俄に精神が變になつて來た 「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める いよいよ例の如くなるか知らんと思ふと益(ますます)亂れ心地になりかけたから「たまらんたまらんどうしやうどうしやう」と連呼すると母は「しかたがない」と靜かな言葉、どうしてもたまらんので電話かけうと思ふて見ても電話かける處なし 遂に四方太にあてて電信を出す事とした 母は次の間から賴信紙を持つて來られ硯箱もよせられた 直(すぐ)に「キテクレネギシ」と書いて渡すと母はそれを疊んでおいて羽織を着られた「風呂に行くのを見合せたらよかつた」といひながら錢を出して來て「車屋に賴んでこう」といはれたから「なに同し事だ 向へまで往つておいでなさい五十步百步だ」といふた心の中はわれながら少し恐ろしかつた「それでも車屋の方が近いから早いだろ」といはれたから「それでも車屋ぢや分らんと困るから」と半ば無意識にいふた余の言葉を聞き棄てにして出て行かれた さあ靜かになつた この家には余一人となつたのである 余は左向に寐たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆(ちびふで)一本の驗溫器の外に二寸ばかりの鈍い小刀(こがたな)と二寸ばかりの千枚通しの錐(きり)とはしかも筆の上にあらはれて居る さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起つて來た 實は電信文を書くときにはやちらとしてゐたのだ しかしこの鈍刀や錐ではまさかに死ねぬ 次の間へ行けば剃刀(かみそり)があることは分つて居る その剃刀さへあれば咽喉(のど)を搔(か)く位はわけはないが悲しいことには今は匍匐(はらば)ふことも出來ぬ 已むなくんばこの小刀でものど笛を切斷出來ぬことはあるまい 錐で心臟に穴をあけても死ぬるに違ひないが長く苦しんでは困るから穴を三つか四つかあけたら直(すぐ)に死ぬるであらうかと色々に考へて見るが實は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出來ぬ 死は恐ろしくはないのであるが苦(くるしみ)が恐ろしいのだ 病苦でさへ堪へきれぬにこの上死にそこなふてはと思ふのが恐ろしい そればかりでない やはり刃物を見ると底の方から恐ろしさが湧いて出るやうな心持もする 今日もこの小刀を見たときにむらむらとして恐ろしくなつたからじつと見てゐるとともかくもこの小刀を手に持つて見ようとまで思ふた よつぽと[やぶちゃん注:ママ。]手で取らうとしたがいやいやここだと思ふてじつとこらえた心の中は取らうと取るまいとの二つが戰つて居る 考へて居る内にしやくりあげて泣き出した その内母は歸つて來られた 大變早かつたのは車屋まで往かれたきりなのであらう

 逆上するから目があけられぬ 目があけられぬから新聞が讀めぬ 新聞が讀めぬからただ考へる ただ考へるから死の近きを知る 死の近きを知るからそれまでに樂(たのし)みをして見たくなる 樂みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる 突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雜用(ざふよう)がほしくなる 雜用がほしくなるから書物でも賣らうかといふことになる………いやいや書物は賣りたくない さうなると困る 困るといよいよ逆上する

 

Gyougamanrokukirikogatana

 

   *

「天下の人餘り氣長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候。……」以下は「仰臥漫録二」の十月十五日の条であるが、候文で判る通り、これは松山の伯父に宛てた手紙である。

「會計當而已(あたるのみ)矣 牛羊(ぎうやう)茁(さつとして)壯長而已(さうちやうするのみ)矣」は「孟子」の「萬章章句下」の一節。

   *

孔子嘗爲委吏矣。曰、會計當而已矣。嘗爲乘田矣。曰、牛羊茁壯長而已矣。

位卑而言高、罪也。立乎人之本朝、而道不行、恥也

○やぶちゃんの書き下し文

 孔子、嘗つて、委吏(いり)と爲(な)る。曰く、「會計、當(あた)れるのみ。」と。嘗つて、乘田(じやうでん)と爲る。曰く、「牛羊、茁(さつ)として、壯長(さうちやう)さするのみ。」と。

 位、卑しくして言高(げんたか)きは、罪なり。人の本朝に立ちて、道、行はれざるは、恥なり。

   *

「委吏」は穀物倉(ぐら)を管理する下級の村役人。「乘田」牧畜の実地管理をする下吏。「茁」順調に育つさま。「壯長」立派に成長すること。「人の本朝に立ちて」人民を正しく指南すべき朝廷に自ら立って居ながら。

兆民居士の『一年有半』」自由民権運動の理論的指導者として知られる、思想家・ジャーナリストで政治家(衆議院議員)であった中江兆民(弘化四(一八四七)年~明治三四(一九〇一)年十二月十三日)の評論集。かの門弟幸徳秋水が編集し、明治三四(一九〇一)年九月、「生前の遺稿」と副題して博文館より刊行された。同年三月、兆民は喉頭癌のため、余命一年半と宣告された。それより書き始めたもので、書名はこれに由来する。「民権、是れ、至理なり、自由平等、是れ、大義なり」の理義を堅持して、帝国主義や明治国家体制を断罪するなど、政治・経済から思想・文学・科学・人物論に至るまで、『社会百般にわたっての透徹した批判は文明批評家兆民の面目躍如たるものがある。また随所に、進行する病状が淡々とした筆致で誌(しる)されており、「癌との闘いの記録」ともなっている。その病苦との闘いのなかで亡国と国民堕落の状を「国に哲学無き」ことによる』、『と喝破した兆民は、引き続き『続一年有半』を執筆、同年』十『月に刊行したが、「ナカヱニスムス」と自称した壮大な思想哲学大系の完成を後進に託しながら』、十二『月に衰弱のため』、『死去した。解剖の結果は食道癌であった』(以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。彼はまさに子規がかく書いた二ヶ月後に五十四歳で死去するのである。私は正直、こういう正岡子規の噛み付き方が嫌いである。その相手が二ヶ月後に衰弱死した報知を子規はどのような気持ちで聴いたのであろう。「先に死にやがったか、羨ましい」だったのか? 子規の精神不安の根底には、こうした自己中心的なディスクールに基づく潜在的自己呵責感があったのではないかとさえ思えてくる。だからこそ、古白の幻聴が聴こえてくるのではないか? いや、そうしたものが微塵もないと豪語するなら、私はそれこそ子規は人間として『劣り』たる輩と言わざるを得ないと言っておく。

『十月十九日に至り「今日余もし健康ならば何事を爲しつゝあるべきか」という問題となって再び出て来る』前と同様の仕儀で示す。

   *

十月十九日 雨、便通、秀眞去る、また便通、繃帶取替、午飯、まぐろのさしみ、粥四わん、大はぜ三尾、りんご一つ

十六、七歳の頃余の希望は太政大臣となるにありき 上京後始めて哲學といふことを聞き哲學ほど高尚なる者は他になしと思ひ哲學者たらんことを思へり 後また文學の末技(まつぎ)に非るを知るや生來(せいらい)好めることとて文學に志すに至れり しかもこの間理論上大臣を輕視するにかかはらず感情上何となく大臣を無上の榮職の如く考へたり しかるに昨年以來この感情全くやみ大臣たるも村長たるも其處に安んじ公のために盡すにおいて一重の輕重なきを悟りたり

 今日余もし健康ならば何事を爲しつつあるべきかは疑問なり 文學を以て目的となすとも飯食ふ道は必ずしもこれと關係なし もし文學上より米代を稼ぎ出だすこと能はずとせば今頃は何を爲しつつあるべきか

 幼稚園の先生もやつて見たしと思へど財産少しなくては余には出來ず 造林の事なども面白かるべきもその方の學問せざりし故今更山林の技師として雇はるるの資格なし 自ら山を持つて造林せば更に妙なれど賣山の錢なきを奈何

 晚飯さしみの殘りと裂き松蕈(まつたけ)

 この日便通凡(およそ)五度、來客なし

   *]

サイト「鬼火」開設十三周年記念 「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」(芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)

サイト「鬼火」の開設十三周年記念(本日)として、

「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」(芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)

「心朽窩旧館」に公開した。

本テクストはネット上には未だ電子化されていないと思われ、また、読んだことがある方も非常に少ないと思う。

2018/06/25

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  「仰臥漫録」

 

     「仰臥漫録」

 

 「墨汁一滴」連載中は、前年のような気力はないにしても、執筆を妨げるほどの容体もなかったらしく、厄月(やくづき)の五月もまたどうやら通過した。『ホトトギス』にも「死後」「吾寒園の首に書す」「病牀俳話」「くだもの」など、比較的多くの文章を発表している。「くだもの」に関する記憶を叙した一篇は、枯淡の基に精彩があり、過去の事実を語っているにかかわらず、現在その境にあるの思(おもい)あらしむるものであった。俳句の選も中途共選となり、共選も困難になって他の選句の上に「規」の一字を記すのみと変ったが、その後は長く選から遠ざからざるを得なかった。但(ただし)鳴雪翁の許(もと)に催される『蕪村句集』輪講だけは、あとから筆記を閲(けみ)して自己の意見を書加えていたようである。

[やぶちゃん注:「死後」は自己の死・葬送空想の恐怖を諧謔的に反転映像させた怪作である(しかし初読時、私は、度に過ぎたその滑稽に、逆に子規の内奥の絶対的に孤独な真正の死への恐怖を哀しく見たのを記憶している)。新字新仮名なら「青空文庫」等にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像の「花枕 子規選集」(大正五(一九一六)年新潮社刊)のそれがよかろう。明治三四(一九〇一)年二月初出。

「吾寒園の首に書す」「吾寒園」はこの年の二月一日に亡くなった、既出既注の子規の幼馴染みの友人竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年:河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。号は錬卿(れんきょう)・黄塔)の作品で、本篇はその追悼文でもある。

「くだもの」新字新仮名なら「青空文庫」にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)の画像から正字正仮名で読める。同年四月初出。]

 

 四月中『寒玉集』の第二編が出版され、五月には『春夏秋冬』の春の部が出た。『春夏秋冬』は『新俳句』に次ぐ俳句の選集で、居士は病をつとめて春の部だけの選抜を了え、序及凡例も自ら草した。この序及凡例は『春夏秋冬』の巻首に掲げられるに先って「墨汁一滴」に掲げられた。

[やぶちゃん注:「春夏秋冬」俳句選集。明治三四(一九〇一)年~明治三六(一九〇三)年刊。春・夏・秋・冬と新年の四季四冊。正岡子規一門による『日本』派の句集。子規が撰した春の部より刊行を始めたが、続刊の三冊は子規の病状悪化のため、河東碧梧桐と高浜虚子の二人が共撰した。全体に定型が守られており、穏やかな安定感に富む絵画的な句が多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。同「序」は「墨汁一滴」明治三四(一九〇一)年五月十八日クレジット分に載るが、ここでは一つ、所持する「春夏秋冬」復刻版(全四巻)で翻刻しておくこととする(私は近い将来、この「春夏秋冬」全巻も電子化翻刻したいと考えている)。

   *

春夏秋冬

     序

春夏秋冬は明治の俳句を集めて四季に分ち更に四季の各題目によりて編たる一小册子なり。

春夏秋冬は俳句の時代において「新俳句」に次ぐ者なり。

新俳句は明治三十年三川の依托より余の選拔したる者なるが明治三十一年一月余は同書に序して

[やぶちゃん注:以下の引用部は、原典では全体が一字下げ。]

(畧)元祿にもあらず天明にもあらず文化にもあらず固より天保の俗調にもあらざる明治の特色は次第に現れ來るを見る(畧)しかも此特色は或る一部に起りて漸次に各地方に傳播せんとする者この種の句を「新俳句」に求むるも多く得難かるべし。「新俳句」は主として模倣時代の句を集めたるには非ずやと思はる(畧)但特色は日を逐ふて多きを加ふ。昨集むる所の『新俳句』は刊行に際する今已にその幾何か幼稚なるを感ず。刊行し了へたる明日は果して如何に感ぜらるべき。云々

といへり。果して新俳句刊行後新俳句を開いて見る毎に一年は一年より多くの幼稚と平凡と陳腐とを感ずるに至り今は新俳句中の佳什を求むるに十の一だも得る能はず。是に於いて新に俳句集を編むの必要起る。然れども新俳句中の俳句は今日の俳句の基礎をなせる者宜しく相參照すべきなり。

新俳句編纂より今日に至る僅に三四年に過ぎざれども其間に於ける我一個又は一團體が俳句上の經歷は必ずしも一變再變に止まらず。しかも一般の俳句界を槪括して之を言へば「蕪村調成功の時期」とも言ふべきか。

蕪村崇拜の聲は早くも已に明治二十八九年の頃に盛なりしかど實際蕪村調とおぼしき句の多く出でたるは明治三十年以後の事なるべし。而して今日蕪村調成功の時期といふも他日より見れば如何なるべきか固より豫め知る能はず。

太祇蕪村召波几董らを學びし結果は啻に新趣味を加へたるのみならず言ひ廻しに自在を得て複雜なる事物を能く料理するに至り、從ひてこれまで捨てゝ取らざりし人事を好んで材料と爲すの異觀を呈せり。これ余がかつて唱道したる「俳句は天然を詠ずるに適して人事を詠ずるに適せず」といふ議論を事實的に打破したるが如し。

春夏秋冬は最近三四年の俳句界を代表したる俳句集となさんと思へり。しかも俳句切拔帳に對して擇ばんとすれば俳句多くして紙數に限りあり遂に茫然として爲す所を知らず。辛うじて擇び得たる者亦到底俳句界を代表し得る者に非ず。されど若し新俳句を取つて之を對照せば其差啻に五十步百步のみならざるべし。

  明治卅四年五月十六日   獺祭書屋主人

   *]

 

 この時分の居士は寝返りすることも困難になっていた。畳に二三ヵ所麻で簞笥の鐶(かん)の如きものを拵え、これにつかまって寝返りを扶けようという方法を講じたことが、五月十日の事を記した「墨汁一滴」にある。苦痛は想像の外である。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「墨汁一滴」初出切貼帳冊子で電子化しておく(一部で濁点を加えた)。

   *

五月十日、昨夜睡眠不定、例の如し。朝五時家人を呼び起して雨戸を明けしむ。大雨。病室寒暖計六十二度[やぶちゃん注:華氏。十六・六度。]、昨日は朝來引き續きて來客あり夜寢時に至りしため墨汁一滴を認むる能はず因つて今朝つくらんと思ひしも疲れて出來ず。新聞も多くは讀まず。やがて僅に睡氣を催す。蓋し昨夜は背の痛く、終宵体溫の下りきらざりしやうなりしが今朝醒めきりしにやあらん。熱さむれば痛も減ずるなり。

睡る。目さませば九時半頃なりき。稍心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使して神田に持ちやらしむ。

十一時半頃午餐を喰ふ。松魚のさしみうまからず半人前をくふ。牛肉のタヽキの生肉少しくふ、これもうまからず。齒痛は常にも起らねど物を嚙めば痛み出すなり。粥二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五六箇。蜜柑五箇。

神田より使歸る。命じ置きたる鮭のカン詰を持ち歸る。こは成るべく齒に障らぬ者をとて擇びたるなり。

週報應募の牡丹の句の殘りを檢す。

寐床の側の疊に麻もて簞笥の環の如き者を二つ三つ處々にこしらえ[やぶちゃん注:ママ。]しむ。疊堅うして疊針透らずとて女ども苦情たらだらなり。こは此麻の環を余の手のつかまへどころとして寐返りを扶けんとの企なり。此頃体の痛み強く寐返りにいつも人手を借るやうになりたれば傍に人の居らぬ時などのために斯る窮策を發明したる譯なるが、出來て見れば存外便利さうなり。

繃帶取替にかゝる。昨日は來客のため取替せざりしかば膿したゝかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、輕く拭はるゝすら堪へ難くして絶えず「アイタ」をぶ。はては泣く事例の如し。

浣腸すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結せしと見えたり。進退谷まりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。此二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。

著物二枚とも著かふ、下著したぎはモンパ、上著は綿入。シヤツは代へず。

三島神社祭禮の費用取りに來る。一匹やる。

繃帶かへ終りて後体も手も冷えて堪へ難し。俄に燈爐をたき火鉢をよせ懷爐を入れなどす。

繃帶取替の間始終右に向き居りし故背のある處痛み出し最早右向を許さず。よつて仰臥のまゝにて牛乳一合紅茶略同量、菓子パン數箇をくふ。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片持ち來る。

豆腐屋蓑笠にて庭の木戸より入り來る。

午後四時半体溫を驗す、卅八度六分。しかも兩手猶冷此頃は卅八度の低熱にも苦むに六分とありては後刻の苦さこそと思はれ、今の内にと急ぎて此稿を認む。さしあたり書くべき事もなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終る時六時、先刻より熱發してはや苦しき息なり。今夜の地獄思ふだに苦し。

雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹は皆散りて、西洋葵の赤き、をだまきの紫など。

   *

「西洋葵」は思うに、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属アメリカフヨウ(草芙蓉(くさふよう))Hibiscus moscheutos(英語: rose mallowmallow はアオイ科、或いは特にゼニアオイ(Malvaceae 亜科ゼニアオイ属ゼニアオイ Malva mauritiana を指す語)である)辺りではなかろうか

 なお、この前日のリンク先を見られたい。

 やはり、この切貼帳はただものではないのだ! 切貼りではなく、何と! 正岡子規自筆(!)と思しい原稿が貼り付けられてあるではないか!

   *

 墨汁一滴(五月十一日記) 規

試に我枕もとに一包若干の毒藥を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。

   *

この文章を原稿で見ると、痛烈である。]

 

 八月二十六日、子規庵に俳談会なるものが催された。突然の催であったが、それでも二十人ばかり集った。前年末の蕪村忌以来、絶えてなかった会合だけに、はじめて居士を見るというだけで満足した人もあったらしい。席上居士は庭前の糸瓜及夕顔の句を五句ほど作り、これを追加の話題にした。

 

 「仰臥漫録」の筆を執りはじめたのは九月に入ってからである。「仰臥漫録」は居士の日記であるが、単純な日記ではない。三度の食事や間食に至るまで、日々の食物が克明に記されているかと思うと、突として何かの感想が出て来る。画があり、歌があり、句がある。居士の日記として現在伝わっているのは、前にもちょっと記したように、二十五、六年と三十年の一部に過ぎぬが、「仰臥漫録」の内容は従前の日記の如きものではない。人間の手に成ったこの種の記録として、「仰臥漫録」ほど真実味に富んだ、しかも興趣の多いものは他に類例が少いのではあるまいかと思う。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は総て全体が二字下げ。何故か、ネット上には「仰臥漫録」の正字正仮名で読めるデータが画像を含めて存在しないので、「子規居士」で校合した。但し、「子規居士」ではひらがながカタカナであるため、読み易さを第一として、底本のひらがなを原則、採用した。なお、一部、底本は引用に増補がしてある。]

 

絲瓜の花一つ落つ 茶色の小き蝶低き雞頭にとまる 曇る 追込籠のジヤガタラ雀いつの間にか籠をぬけて絲瓜棚松の枝など飛びめぐるを見つける 鄰家の手風琴聞ゆ

ジヤガタラ雀隣の庭の木に逃げる 家人籠の鐡網を修理す 蟬ツクヽヽボーシの聲暑し 日照る 蜻蛉一つ二つ 揚羽、山女郎(やまぢよらう)或は去り或は來る 梨をくふ

 

というような平穏な観察もある。

[やぶちゃん注:九月九日の条より。

「ジヤガタラ雀」既出既注。スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。]

 

今年の夏馬鹿に熱くてたまらず、新聞などにて人の旅行記を見るとき吾もちよいと旅行して見ようと思ふ氣になる、それも場合によるが谷川の岩に激するやうな涼しい處の岸に小亭があつてそこで浴衣一枚になつて一杯やりたいと思ふた。

『二六』にある樂天の紀行を見ると每日西瓜を食ふて居る、羨ましいの何のてヽ

大阪では鰻の丼を「マムシ」という由、聞くもいやな名なり、僕が大阪市長になったら先づ一番に布令を出して「マムシ」という言葉を禁じてしまふ。

 

というような超然たる感想もある。

[やぶちゃん注:九月十六日の条より。

「『二六』にある樂天の紀行」大衆紙『二六新報』に記者で門弟でもあった中村楽天が同紙に載せた紀行記事と思われる。中村楽天(慶応元(一八六五)年~昭和一四(一九三九)年)は播磨国辻井村(現在の兵庫県姫路市)出身の俳人でジャーナリスト。本名は中村修一。ウィキの「中村楽天」によれば、明治一八(一八八五)年に上京し、二十六歳の時、『徳富蘇峰の主宰する国民新聞に記者として入社、のち『国民之友』の編集者となる。国木田独歩と交流し』、『青年文学』を刊行している。三十二歳になって『俳句を学び』初め、子規の『ホトトギス』同人となって『子規門として教えを受け』た。明治三一(一八九八)年、『子規が直野碧玲瓏、上原三川とともに出版した「日本派」最初の類題句集『新俳句』(民友社)の編集や刊行にも尽力する。その後、和歌山新報の記者を経て』明治三三(一九〇〇)年に『秋山定輔の二六新報に入社。そこで主宰した二六吟社が楽天の名を高めることにな』った。『二六新報』の『売れ行きも相まって、与謝野寛(のちの与謝野鉄幹)や伊原青々園、喜谷六花など、多くの作家、歌人、俳人を輩出した。子規亡き後は同門である篠原温亭や嶋田青峰が主宰した『土上』の同人となり、晩年は自身も俳誌『草の実』を創刊、主宰した』。『口が悪く』、『皮肉や毒舌を公言して憚らない人物』で、『実際に伊藤博文首相を侮辱した罪で、禁錮』二『ヶ月の刑を受け』、服役した経験がある。なお、彼は『奇しくも』、『師である子規と同月同日の』昭和十四年九月十九日、七十四歳で没している。]

 

 そうかと思うとまた、自分の喰べる梅干の核(ため)から出発して

 

貴人の膳などには必ず無數の殘物(のこりもの)があつてあたら掃溜(はきだめ)に捨てらるゝに違ひない、肴の骨には肉が澤山ついてゐるであらう、味噌汁とか吸物とかいふものも皆迄は吸ひ盡してないであらう、斯ういふ者こそ眞に天物(てんぶつ)を暴(ぼう)何とかする者と謂ふべしだ。之を彼(かの)孤兒院とか養育院とかに寄附して喰はすやうにしたら善いだらう。自分の内でも牛乳を捨てることが度々あるので、いつでも之を乳のない孤兒に吞ませたらと思ふけれど仕方がない。何か斯ういふ處へ連絡をつけて過を以て不足を補ふやうにしたいものだ。

兵營や學校の殘飯は貧民の生命であるといふから家々の殘飯も集めて廻るわけに行かないだらうか。さう思ふと犬や猫を飼ふて牛肉や鰹節をやるなどは出來たことでない、小鳥に粟をやるさへ無益な感じがする。

 

という風に、対社会的な意見となって現れることもある。病牀に釘付にされて寝返りも自由に出来ず、日夜呻吟している人の書くものとは思われない。

[やぶちゃん注:九月十九日の条より。

「天物を暴何とかする」は「(天物を)暴殄(ぼうてん)す」であろう。「暴殄」自体が「天の物を損ないたやすこと」或いは「物品を大切にせず、あたら消耗すること」を言い、「殄」は「尽きる・尽くす・絶つ・悉く」の意である。]

 

 病苦の問題にしてもそうである。居士は病のために苦しむことは苦しんでも、病のために役せられてはいない。「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕樣がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は默つてこらへて居るかする。其中で默つてこらえて[やぶちゃん注:ママ。]居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる」と『墨汁一滴』にある通り、強いて平気を装ったりはしないが、病に任しながら時に病を離れるところがある。

[やぶちゃん注:「役せられてはいない」「えきせられてはいない」で使役されて、使われてはいない、の意。

「墨汁一滴」からの引用は四月十九日の全条。。]

 

こんなに呼吸の苦しいのが寒氣のためとすれば此冬を越すことは甚だ覺束ない。それは致し方もないことだから運命は運命として置いて醫者が期限を明言してくれゝば善い。もう三ケ月の運命だとか半年はむつかしいだらうとか言ふてもらひたい者ぢや。それがきまると病人は我儘や贅澤が言はれて大に樂(らく)になるであらうと思ふ。死ぬる迄にもう一度本膳で御馳走が食ふて見たいなどと云ふて見たところで今では誰も取りあはないから困つてしまふ。若しこれでもう半年の命といふことにでもなつたら足のだるいときには十分按摩してもらふて食ひたいときには本膳でも何でも望み通りに食わせてもらふて看病人の手もふやして一擧一動悉く傍(そば)より扶けてもらふて西洋菓子持て來いといふとまだ其言葉の反響が消えぬ内西洋菓子が山のやうに目の前に出る、カン詰持て來いといふと言下にカン詰の山が出來る、何でも彼でも言ふ程の者が疊の緣(へり)から湧いて出るといふやうにしてもらふ事が出來るかも知れない。

 

という「仰臥漫録」の一節だけ見ても、居士の心境が如何なるものであったかを知り得るであろう。こう書いた居士がこの年の誕生日に当って岡野の料理を取寄せ、平生看護の労に酬いんがため、特に家内三人でこれを食い、「蓋し亦余の誕生日の祝ひをさめなるべし」として会席膳の献立を記しているのを読むと、われわれも涙なきを得ない。

[やぶちゃん注:前の長い引用は九月二十九日の条より。

「この年の誕生日」これは非常に探しづらい。何故なら、この誕生日は旧暦で換算した日であるからである。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)で、明治三四(一九〇一)年の旧暦九月十七日は新暦十月二十八日に当たる。ところが、さらに実は、この年はその誕生日の祝いを繰り上げて、前日に祝っており、宵曲の言っている記載は十月二十七日の内容だからである。やや長いが、「仰臥漫録」の十月二七日と二十八日の記事を翻刻する。岩波文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。

   *

十月廿七日 曇

 明日は余の誕生日にあたる(舊曆九月十七日)を今日に繰り上げ晝飯に岡野の料理二人前を取り寄せ家内三人にて食ふ。これは例の財布の中より出たる者にていささか平生看護の勞に酬いんとするなり。けだしまた余の誕生日の祝ひをさめなるべし。料理は會席膳に五品

 さしみマグロとサヨリ 胡瓜 黃菊 山葵

 椀盛 莢豌豆(さやゑんどう) 鳥肉 小鯛の燒いたの 松蕈(まつたけ)

 口取 栗のキントン 蒲鉾 車鰕(くるまえび) 家鴨 蒲鉾 煮葡萄

 煮込 アナゴ 牛蒡 八つ頭 莢豌豆

 燒肴(やきざかな) 鯛 昆布 煮杏(にあんず) 薑(はじかみ)

 

 午後蒼苔來る。四方太來る。

 牛乳ビスケツトなど少し食ふ 晩飯は殆んど食へず。

 料理屋の料理ほど千篇一律でうまくない者はないと世上の人はいふ。されど病狀にありてさしみばかり食ふて居る余にはその料理が珍らしくもありうまくもある。平生臺所の隅で香の物ばかり食ふて居る母や妹には更に珍らしくもあり更にうまくもあるのだ。

 去年の誕生日には御馳走の食ひをさめをやるつもりで碧四虛鼠四人を招いた。この時は余はいふにいはれぬ感慨に打たれて胸の中は實にやすまることがなかつた。余はこの日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ庭の松の木から松の木へ白木棉を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するからこの白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫とさしたので右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。

 待ちかねた四人はやうやう夕刻に揃ふてそれから飯となつた。余は皆に案内狀を出すときに土産物の注文をしておいた。それは虛子に「赤」といふ題を與へて食物か玩具を持つて來いといふのであつたが虛子はゆで卵の眞赤に染めたのを持つて來た。これはニコライ會堂でやることさうな。鼠骨は「靑」の題で靑蜜柑、四方太は「黃」の題で蜜柑と何やらと張子の虎とを持つて來た。碧梧桐は茶色、余は白であつたが何やら忘れた。食後次第に話がはずんで來て余は晝の間の不安心不愉快を忘れるほどになつた。余は象の逆立(さかだち)やジラフの逆立のポンチ繪を皆に見せうと思ふて頻りに雜誌をあけて居ると四方太は張子の虎の髯(ひげ)をひねり上げながら「獨逸皇帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。

帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。

 それに比べると今年の誕生日はそれほどの心配もなかつたが余り愉快でもなかつた。體は去年より衰弱して寐返りが十分に出來ぬ。それに今日は馬鹿に寒くて午飯(ひるめし)頃には余はまだ何の食慾もなかつた。それに昨夜善く眠られぬので今朝は泣(な)かしかつた。それでも食へるだけ食ふて見たが後はただ不愉快なばかりでかつ夕刻には左の腸骨のほとりがく痛んで何とも仕樣がないのでただ叫んでばかり居たほどの惡日であつた。

 

 

十月廿八日 雨後曇

 午後左千夫來る 丈の低き野菊の類を橫鉢に栽ゑたるを携へ來る

 鼠骨來る

 包帶取換の際左腸骨邊の痛み堪へ難く號泣又號泣 困難を窮む

 この日の午飯は昨日の御馳走の殘りを肴(さかな)も鰕も蒲鉾も昆布も皆一つに煮て食ふ これは昨日よりもかへつてうまし お祭[やぶちゃん注:前日の誕生祝いを指す。]の翌日は昔から さい[やぶちゃん注:「采」。]うまき日なり

 晚餐は余の誕生日なればにや小豆飯なり 鮭の味噌漬けと酢の物(赤貝と烏賊)の御馳走にて左千夫鼠骨と共に食ふ

 食後話はずむ 余もいつもより容易(たやす)くしやべる 十時頃二人去る

    *

因みに、「春耕俳句会」公式サイト内の子規の四季 (73) 201610月号 子規の誕生日には、この「仰臥漫録」を引いて、詳しい説明が載るが、その原文を見ると、岩波版とは表記に異同があり、やはり原文を見たい気がしてきた(「仰臥漫録」を電子化したい強い思いがあるのだが、これでは、正規表現のものをどこかで手に入れなくては、という気がした)。「例の財布」については、『子規が「突飛な御馳走」を食べるための小遣錢が欲しくなり、虛子から借りることにした』二十『圓のうちの』十一『圓と、所藏の俳書すべてを讓渡する約束で、岡麓から受け取った前金』二『圓などを入れて寢床の上にぶら下げていたもの。律が縫った赤と黃の段ダラの袋狀の財布に、麓がくれた更紗の錢入れ袋もそのまま入れてあったらしい』とある。さらに『岡野の料理』二『人前を』三『人で食べたとあるから』、一『人前を子規が食べ、母と妹でもう』一『人前を食べたのであろう。豪華な會席膳は、病床で刺身ばかり食べている子規にも珍味であった。まして平生は香の物ばかりで濟ませている八重と律にとっては、この上ないご馳走であったろう』とある。なお、ここで回想される一年前の誕生日祝いは、正しく明治三三(一九〇〇)年十一月八日(旧暦九月十七日)に行われたが、これは既に先の最後の写真撮影にも出た部分である。虚子の持って来たのは、所謂、復活祭の卵、「イースター・エッグ」(Easter egg)である。]

2018/06/24

大和本草卷之八 草之四 海蘿(フノリ)

 

【和品】

海蘿 順和名抄云不乃利〇處々ノ海濱ノ石ニ付テ

 生スチイサキヲ小ブノリト云羹トシテ食ス其味甘シ

 其大ナルヲ水ニ洗干シ貯テ糊トス紙工コレヲ用ユ民

 用多シ又火ニ煨シ柿漆ニ和乄紙ヲツギ合スルニ用ユ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

海蘿(フノリ) 順、「和名抄」に云はく、「不乃利」。〇處々の海濱の石に付きて生ず。ちいさきを「小ブノリ」と云ふ。羹〔(あつもの)〕として食す。其の味、甘し。其の大なるを、水に洗ひ干(ほ)し、貯へて糊〔(のり)〕とす。紙工、これを用ゆ。民用、多し。又、火に煨し、柿-漆(しぶ)に和して、紙をつぎ合はするに用ゆ。

[やぶちゃん注:私が殊の外好きな、紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis のフノリ類(フノリという和名種はいないので注意)。本邦産種は、

ハナフノリ Gloiopeltis complanata

フクロフノリ Gloiopeltis furcata

マフノリ Gloiopeltis tenax

であるが、食用に供されるのは後者のフクロフノリ・マフノリの二種である。マフノリは藻体内部に粘液が詰まって中実で、分布がやや北に偏るのに対し、やや大型の前者フクロノリは内部が空洞である。食感が異なり、私は孰れも好きである。ウィキの「フノリには、『「布海苔」と漢字で書くこともあるが、ひらがなやカタカナで表記されることのほうが多い。貝原益軒の『大和本草』の中では「鹿角菜」や「青角菜」と記されている。中国語では「赤菜」と書かれる』(下線太字やぶちゃん。とあるんだが、ここにちゃんと「フノリ」はあるぞ?! この筆者が言っているものの内、「鹿角菜」の方は、この「大和本草卷之八」の海藻部の最後にある「鹿角(ツノマタ)菜」のことだが、これは取り敢えず「ツノマタ」とあるんだから、紅藻植物門紅藻綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus と考えていいだろうに? 「青角菜」? どこにも出てこんで、そんなもん!)『マフノリはホンフノリと呼ばれることもある。マフノリ、フクロフノリなどは食用とされ、狭義にはこれらのみをフノリと呼ぶこともある』。『岩礁海岸の潮間帯上部で、岩に付着器を張り付けて生息する。日本全国の海岸で広く見られる』。『フノリは古く』は『食用よりも糊としての用途のほうが主であった。フノリをよく煮て溶かすと、細胞壁を構成する多糖類がゾル化してドロドロの糊状になる。これは、漆喰の材料の』一『つとして用いられ、強い壁を作るのに役立てられていた』。『ただし、フノリ液の接着力はあまり強くはない。このため、接着剤としての糊ではなく、織物の仕上げの糊付けに用いられる用途が多かった。「布糊」という名称はこれに由来するものと思われる。また、相撲力士の廻しの下につける下がりを糊付けするのに用いられたりもする』。現在の食用のそれは、二月から四月に『かけてが採取期で、寒い時のものほど風味が良いといわれる。採取したフノリの多くは天日乾燥され市場に出回るが、少量は生のまま、または塩蔵品として出回ることもある』。『乾燥フノリは数分間水に浸して戻し、刺身のつまや味噌汁の具、蕎麦のつなぎ(へぎそば)などに用いられる。お湯に長時間つけると』、『溶けて粘性が出るので注意が必要である』。『その他、フノリの粘液は洗髪に用いられたり、化粧品の付着剤としての用途もある。また、和紙に絵具や雲母などの装飾をつける時に用いられることもある』とある。

「煨し」読み不詳。「廣漢和辭典」を見ると、音は「ワイ」だが、どうもそう読んでいるとは思われない。意味は「火種を持った灰の中に埋めて焼く」であるが、どうもこれもピンとこない。現代中国語の「とろ火でとろとろ煮る・茹でる」の意がしっくりくるんだが。「いぶし」(熏し)とか読んでるのかなぁ。]

 

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 イトヨリ・黃イトヨリ (ソコイトヨリ)

 

仝イトヨリ

 

黃イトヨリ

Sokoitoyiri

 [やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。かく、この二図は上下で並んでいるが、但し、貼り交ぜたもので、一枚の紙には書かれていないので注意されたい。「仝」は謂わずもがなであるが、「同」の異体字である。前の図の「糸ヨリ鯛」(私はイトヨリダイに同定)と同じ、と言っているわけだが、ここはよく観察しなくてはいけない。上の魚はまず、下顎後部位置(胸鰭下)から尾部へ向かって一本、腹下部(もう少し下で逢ってほしいのだが)に有意に尾部へ向かって一本、計二本の黄色い縦縞が現認出来る。下の図は黄色くないが、しかし標題に「黃イトヨリ」とある。この二図の魚は体型は極めて酷似する。されば、上図は特徴的な黄縞から、

スズキ目スズキ亜科イトヨリダイ科イトヨリダイ属ソコイトヨリ Nemipterus bathybius

と同定する。而して、その縞が描かれていなくても、黄色いイトヨリを意味するキャプションを附している以上は、下部のそれも同種としておきたい。下の魚を何故、そう安易に同定出来るんだ、と文句を言われる向きもあろうかと思うが、さっきもちょっと言い添えたように、ソコイトヨリの下腹部の非常に鮮やかな黄色い縦縞は(腹部が白いために上の筋(こちらは赤い鱗によって実は個体によっては全く目立たない)より遙かにはっきり見える。どれだけ鮮やかかは「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「ソコイトヨリ」やWEB魚図鑑」の「ソコイトヨリの画像群を見られたい)、実は腹部のずっと下方にあるので、向きによってはそれは見えなくなるからである。]

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(五) 五 突然變異説 / 第十六章 遺傳性の研究~了

 

     五 突然變異説

 

 親子兄弟の間でも幾らかの相違のあることは常であるが、稀には親とも兄弟とも飛び離れて著しく違つた者が生ずることがある。例へば普通の親から六本指の子供が出來るとか、普通の綠葉を持つた植物から白斑[やぶちゃん注:「しろふ」。]入りの變り物が出來るとかいふ類であるが、これ等は昔からたゞ變異中の特殊の場合と見倣すだけで、別に名稱も定めてなかつた。所が、ド・フリースは之に突然變異といふ新しい名を附け、性質が子孫に遺傳するのはこの類の變異のみであると論じ、之に依つて、生物各種の生じた原因を説明しようと試みた。突然變異説と呼ばれる今日名高い學説は卽ち之である。

 

Tukimisou_2

 

[月見草 (右)原種(左)變種]

[やぶちゃん注:左の図が非常に暗いので、飛ぶほどに明るさを大きくした。種は段落末の後注参照。]

 

Sidahensyu

 

[羊齒の一種中に現れた著しい變異]

[やぶちゃん注:種は不明。]

 

Koutyuuheni

 

[甲蟲の一種中に生ぜる最も著しい突然變異]

[やぶちゃん注:三図とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた(後の蝸牛も同じ)。昆虫は苦手なのだが、背部の独特の模様から見ると、甲虫(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ(葉虫)上科ハムシ科レプチノタルサ属コロラドハムシ Leptinotarsa decemlineata か、その近縁種かなぁ?]

 

 前にも述べた通りド・フリースは遺傳や變異のことを研究するに都合のよい植物を探して居るとき、不圖[やぶちゃん注:副詞「ふと」。]月見草の一種に面白い變異のあるものを見附け、早速之を大學の植物園に移して多年その研究に從事して居たが、突然變異説の根抵とする事實はこの間に得たことである。その大要を述べて見ると、澤山に植ゑた月見草の中から稀に一見して他と異なつたものが一二本生ずることがあり、これから種子を取つて蒔いて見ると、その性質が純粹に子孫に傳はつて、一の新しい品種を造ることが出來た。例へば葉の滑かなもの、雌蘂の殊に短いもの、莖が太くて節の短いもの、葉脈が紅色を帶びて居るもの、葉の色の薄いもの、全體に小形なものなど、樣樣な品種が出來たが、ド・フリースは、これから論を立てて、自然界に於ける生物各種の出來たのも、自然淘汰によつて長い年月の間に漸々變化して生じたのではなく、各種ともに初は月見草の各品種と同じく、一囘の突然變異で起つたものであると説いて居る。實はかやうな例は月見草で初めて知れた譯ではなく、ダーウィンの著書にも已に幾つか掲げてある。脚の短い羊や角のない牛の品種が、斯くして出來たことは、已に第三章に述べたが、その他にも上顎の短い牛、蹄の一つよりない豚など、飼養動物の方にも幾らかの例があり、また園藝植物の方には更に澤山ある。野生の動植物に於ける突然變異の例を一二擧げれば、羊齒類の一種には、上圖に示してあるやうな樣々の著しい變異を示すものがあり、アメリカに産する甲蟲の一種にも幾通りもの變異がある。その他探して見たら色々のものがあるに違ひない。然しながら概していふと、突然變異は比較的に甚だ稀なもので、ド・フリースも月見草を見附ける前に樣々の植物を培養して見たが、一つも著しい變異を生ずるものはなかつた。

[やぶちゃん注:「前にも述べた通り」「第十六章 遺傳性の研究(一) 序・メンデルとド、フリース」参照。そこで私はこの「月見草」をこの場合は、リンク先のド・フリースの前注で示した通り、フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta に同定した。その後、マツヨイグサ類の品種改良史などを管見しても見ても、また、ここで改めて示された原種と変種の図を見ても、私は同定を変える必要はない、と考えている。挿絵の原種と変種の違いは、見る限りでは、草体上部に見られる花の蕾の形状に大きな違いが認められるようには思う。]

 

 さてド・フリースは普通の變異のことを彷徨變異と名づけ、之と突然變異とは全く別種のものと見倣して、突然變異の方はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異の方は決してその性質を子孫に傳へることはない。隨つて彷徨變異なるものは生物の進化には何等の關係もない。新しい種屬の起る源は、全く突然變異のみに限ると説いて居るが、多くの事實に照らし合せて見ると、之は餘程疑はしい。先づ第一に、所謂彷徨變異と突然變異との相違を考へて見ても、前者には極端から極端までの間に細かい移行があり、後者には全くかやうな移行がないといふが、之も材料を極めて多數に集めて見たらばどうであらうか。例へば月見草にしても、一植物園内だけから材料を取れば、葉の大小、莖の長短などの彷徨變異は、一本一本の間の相違は眞[やぶちゃん注:「まこと」。]に僅であるに反し、突然變異の方は他との相違が顯著であらうが、世界中の、月見草を殘らず比べて見たならば、所謂突然變異もやはり細かい移り行きの階段によつて原種と相繋がつて居るのではなからうか。また所謂彷徨變異の方でも個體の數の少い場合には、一個一個の間の相違はやはり幾分か一足飛びなるを免れず、時には相應に著しいこともあらう。突然變異といひ彷徨變異といふも、實は單に程度の問題で、程度の低い突然變異と極端な彷徨變異とは、到底區別が附くわけのものではない。また從來突然變異と名づけ來つたものの中には、無數に生じた變異を培養者が若干の組に分けて、その中から各組の模範と見倣すべきものを選り出して、互に最も相異の著しいものを竝べたやうな場合も少くない。前に例に擧げたアメリカ産の甲蟲なども之である。彷徨變異と突然變異とを嚴重に區別する人は、ダーウィンは突然變異を度外した如くに論ずるが、ダーウィンは變異といふ中に、無論所謂突然變異をも含ませて考へた、倂し突然變異なるものは生ずることが極めて稀であるから、人が特に之を保護して子孫を繼續させる場合の外は、恐らく忽ち他に壓倒せられて、その性質も後には殘らぬであらうから、生物種屬の進化には比較的重要なものでないと論じたのであつて、著者の意見は全く之と同じである。

[やぶちゃん注:「彷徨変異」(fluctuation)。環境変異(environmental variation)。或いは個体変異(差)。生育環境の差や発育の途上で起る偶然的要因などの影響により、同一生物集団内の個体間に生ずる量的変異。遺伝的変異と対する。一般に、変異の大きさは、ある値を中心に連続的に分布する。この変異は遺伝しない(以上は「岩波生物学辞典」)。以下、平凡社「マイペディア」の「彷徨変異」では、全く同じ遺伝子構成をもつ個体の集りの中で見られる形質の違い。一本の植物に実った種子の大小・軽重などが、その例であり、形質の変動は、ある値を中心として両側に次第に減少していく山形の曲線、所謂、正規分布を示す。山の両端、則ち、値の小さいもの、或いは、大きいものを採って、子孫の形質の変動を調べても、中心値は変わらず、再び、同様の曲線を示す。単一の遺伝子群が環境条件の影響のもとに生み出すところの表現型の確率論的な変異と解すべきもの。現在では、この語は、殆んど用いられない、とある。]

 

Katatumurinoheini

 

[蝸牛の變異]

 

 また突然變異はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異はその性質を遺傳せぬといふが、前にも述べた通り、低度の突然變異と極端の彷徨變異とは、區別が出來ぬのみならず、若し性質を子孫に遺傳する變異を總べて突然變異と見倣すならば、之と彷徨變異との區別は愈無くなつてしまふ。前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如きも、彷徨變異の兩端に位するものであつた。卽ち圖に示す通り、樣々の移行の階段のある變異の中から最も相異なつたものを取つて、その間に雜種を造つて見たら、その殼の色、模樣などが、一定の規則に隨つて子孫に傳はつたのである。かやうな例は他にも素より澤山にあるが、之から推し考へると、所謂突然變異なるものは、變異中の極端な場合を指すのであつて、普通の變異とはたゞ程度が違ひ、種屬の平均の性質に比して相違が著しいだけに、その遺傳が培養者の目に觸れるのであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如き」を参照。]

 

 ド・フリースの説に對して、こゝに詳しい批評を試みることは出來ぬが、著者は決して全然之に反對するといふ譯ではない。突然變異が生物新種屬の生ずる原因と成ることも無論あるべき筈で、現に一囘の突然變異が基となつて、新しい品種の出來ることは、ド・フリースの實驗にもその他にも幾つも確な例がある。また天然に於ても、或る突然變異が生じた場合に、丁度それがその時の生活狀態に適し、且その性質が優勢を以て遺傳して、第二代以後に純粹な一變種を成すといふ如きことがないとは限らぬ。併しながら著者の考へによれば、たとひかやうな場合があるとしても、之はやはりダーウィンのいうた自然淘汰の中に當然含まるべきもので、決してその範圍以外の別種の現象とは見倣されぬ。同時に生じた多くの變異の中から、生存競爭の結果として、適者のみが生き殘ることを自然淘汰と名づけるのであるから、その變異が突然變異であらうとも、彷徨變異であらうとも、孰れも自然淘汰のために材料を供給するものなることに違ひはない。たゞ突然變異と彷徨變異とを強いて區別し、性質の遺傳するのは突然變異のみに限るといふ説に對しては、前に簡單に述ベた如き理由により、到底賛成を表することは出來ぬ。

[やぶちゃん注:現在でも突然変異を進化の原動力と考えている人がいるが、これは全くの誤りである。DNARNA上の塩基配列に変化が生ずる遺伝子突然変異や、染色体数や構造に変化が生ずる染色体突然変異は別だが、当たり前のことながら、多細胞生物の突然変異は生殖細胞で起こらない限りは遺伝はしない。]

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(四) 四 各性質の獨立遺傳

 

     四 各性質の獨立遺傳

 

Endoudainidai

 

[碗豆の第二代雜種

(上右)靑、丸、(上左)黃、皺、(中)第一第雜種、黃、丸]

[やぶちゃん注:豆の様態が判り易い、学術文庫版を用いた。]

 

Toumorkosizatu

 

[「たうもろこし」の雜種]

[やぶちゃん注:学術文庫版を用いた。但し、原本では縦に配されてある図が学術文庫版では横に配されているので、九十度回転させ、立てて示した。]

 

 メンデルの實驗研究によつて明にせられたことの中で最も有益なのは、兩親の各性質がそれぞれ獨立に分離し、遺傳することである。前には兩親が何かたゞ一つの點で相異なつた場合を例に擧げて、その第二代以後に分離することを述べたが、初め兩親が二つ以上の點で相違するときには如何といふに、メンデルの實驗によれば、この場合には、兩親の相異なる各性質は、他に構(かま)はず獨立に分離し遺傳する。例へば、豆が靑くて丸い碗豆と豆が黃色で表面に皺のある碗豆との間に雜種を造つて見ると、靑に對しては黃、皺に對しては丸が優勢であると見えて、第一代雜種には悉く黃色で丸い豆ばかりが生ずるが、更に第二代となると、黃色で丸いもの、黃色で皺のあるもの、靑くて丸いもの、靑くて皺のあるものの四種類が出來て、然もその數が約九と三と三と一との割合に生ずる。これは何故かといふに、メンデルの考へた如くに、黃性と靑性と、若しくは丸性と皺性とが、同一の生殖細胞内に雜居せぬものとすれば、第一代雜種が成長して花の咲く頃には、その花粉にも胚珠にも、右の四種類のものが出來て、これが相合する時には十六通りの異なつた配合が行はれるが、混合性のものは、何時も外見上優勢の性質だけを現すから、之を通算すると以上の如き數の割合となるのである。ここに圖を掲げた「たうもろこし」の果實は、粒の色と形との二點で異なつた二品種間の第二代雜種であるが、粒に四種類あることは前の碗豆に於けると少しも違はぬ。動物界から同樣な例を一つ擧げれば、曾て外山氏が蠶に就いて行つた明瞭な實驗がある。卽ち、體が白くて黃色い繭を造る品種と、體に黑い橫紋があつて白い繭を造る品種との間に、雜種を造つたら、第一代のものは悉く體には橫紋があつて黃色の繭を造つたが、第二代には體に橫紋があつて黃色の繭を造るもの、體に橫紋があつて白い繭を造るもの、體が白くて黃色の繭を造るもの、體が白くて白い繭を造るものとの四種が、約九と三と三と一との割合に出來た。總べてこれ等の場合にも、初め兩親の相異なつた性質、例へば、豆の色の黃と靑、豆の表面の丸と皺、もしくは蟲の體の白と斑[やぶちゃん注:「まだら」。]、繭の色の白と黃の如くに相對した性質か二組づゝ別に離して考へると、孰れもメンデルの「分離の法則」に隨つて遺傳して居るが、各組が他に構はず恰も自身だけであるかのに分離し、遺傳するから、それが同一體の内で重なり合つて斯く樣々の性質の組合(くみあはせ)が出來るのである。また以上は各組の兩性質の間に優劣の判然したものに就いて述べたのであるが、若しも各組の兩性質の間に優劣の差が十分でない場合には、純優性のものと混合性のものとが外見上已に明に違ふから、第二代に於て相異なる種類の數が更に多く出來て、複雜になるはいふを待たぬ。

[やぶちゃん注:「外山氏」遺伝学者で蚕種改良家でもあった外山亀太郎(慶応三(一八六七)年~大正七(一九一八)年)。蚕を用いて、世界で初めて、動物で「メンデルの法則」を確認した学者として知られる。相模国愛甲郡小鮎村生まれ。明治二五(一八九二)年、帝国大学農科大学卒業。在学中に養蚕学教室で動物学教授石川千代松の指導の下、蚕の精子形成を研究し、明治三三(一九〇〇)年、その遺伝学的研究に着手した。主としてこの研究は農商務省の蚕業技師長としてシャム(現在のタイ)帝室養蚕研究所へ派遣されていた間(一九〇二年~一九〇五年)に行われた。研究成果は明治三十九年の大学紀要で発表されており、メンデルの遺伝研究の価値の「再発見」(一九〇〇年)からわずか六年後という早さは高い評価の対象となっている。大学卒業後、同助手・水産講習所教師を勤めた。明治二十九年には福島県蚕業学校の校長となるが、研究に熱中してしまい、排斥運動を受け、明治三十二年に退職、その後にシャムへ渡り、帰国後の明治三十九年に農学博士の学位を受け、明治四十一年に帝大助教授、三年後には原蚕種製造所の技師を兼務した。同年、ヨーロッパの養蚕事情視察に赴き、大正元(一九一二)年に帰国、大正六年には東京帝国大学教授となったが、この頃から、脊髄の病いに侵され、加療するも効なく、五十二歳で他界した。著書「蚕種論」(明治四一(一九〇九)年刊)で蚕の第一代雑種利用を提唱し、日本の蚕種業の発展に貢献、帝国発明協会から恩賜記念賞を贈られている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

 次に兩親が三つの點で相異なつて居る場合には如何といふと、之も全く前のと同樣で、第一代雜種には總ベて優勢の方の性質のみが現れ、第二代になると二の三乘卽ち八種の異なつたものに分れる。誰も知る通り碗豆には一粒每に外面に一枚の皮があり、内部は半球形の子葉二つで充ちて居るが、メンデル自身が行ふた例を擧げると、形が丸く、子葉が黃色で、外皮が茶色の碗豆と、表面に皺があり、子葉が綠色で、外皮の白い碗豆との間に、雜種を造つたら、第一代には形が丸くて、子葉の黃色い、外皮の茶色の豆ばかりが出來、第二代には次の八種類に分れた。文句を略して、表面の形と子葉の色と外皮の色とを各一字づゝ竝べて書くと、丸黃茶のもの、丸黃白のもの、丸綠茶のもの、丸綠白のもの、皺黃茶のもの、皺黃白のもの、皺綠茶のもの、皺綠白のものとの八種であるが、然も之が豫期の通りの數の割合に生じた。豫定の割合とは二十七、九、九、九、三、三、三、一の割合であるが、丸と皺、黃と綠、茶と白といふ如き相對して角力をとるべき二つの異なつた性質が、同一の生殖細胞内に雜居せぬとすれば、第一代雜種の生じた花粉にも胚珠にも、性質の組合せの異なつたものが各八種類づゝ出來て、これが相合する時には六十四通りの配合の仕方があり、而して混合性のものは總べて外見上優勢の性質を現すとすれば、以上の如き割合に成るべき筈であるから、之も學説の豫期する所と、實地試驗の結果とがよく一致したのであつて、メンデルの説の正しい證據と見倣すことが出來る。各組の兩性質の間に優劣の著しくない場合には、第二代雜種が外見上更に複雜になることはいふを待たぬ。

 かやうに兩親が二つ以上の點で相異なる場合に、それらの相異なつた性質が、各獨立に分離して遺傳するといふことは、メンデルの發見の最も大切な部分であつて、培養植物の品種改良を圖るに當つては頗る有望なものである。已に英國の或る學者はこの知識を應用して小麥の改良を試みた。卽ち收穫は多いが、白錆という黴[やぶちゃん注:「かび」。]のための病に罹り易い小麥と、收穫は稍少いが、この病に對して一向平氣な小麥との間に、雜種を造り、第二代に現れた種々の性質の組合の違ふものの中から、收穫が多くて白錆に罹らぬものを選び出し、終にこの兩性質を兼ね具へた新しい品種を造ることに成功した。かやうな例は今日の所では植物にもまだ極めて少く、動物には一つもないが、今後は恐らく同樣の方法で動植物ともに種々の良種が造られ得るであらう。

[やぶちゃん注:「白錆という黴」一般の植物の錆(さび)病は、カビ(黴)の仲間である担子菌門 Basidiomycota サビキン(錆菌)亜門 Pucciniomycotina サビキン目Pucciniales(またはUredinales)に属する種によって引き起こされる病気で、日本では五十六属約七百五十種が知られており、ムギ・マメ・マツ・ナシなど、多くの重要な農作物や林木に寄生して被害を与える(寄生を受けた植物は葉や茎に胞子の塊(胞子層)を多数作るが、そのの胞子の塊が金属に生じた錆によく似ていることに由来する)。しかしながら、ここで丘先生の言われるムギの「白錆」病は、調べる限りでは、真正のサビキン類ではなく、全く別の不等毛類 Heterokonta に属する卵菌門 Oomycota シロサビキン目 Albuginales シロサビキン科 Albuginaceae に属するる菌類によって引き起こされるものである。ところが、ムギの白さび病で調べてみても、出てこない。寧ろ、サビキン目の錆菌類によって引き起こされれるムギ類の「黒さび病」「黄さび病」(サビキン目Puccinia属であるが、それぞれ発生する植物種により菌種も異なる)がある。或いは、丘先生は何か勘違いをしておられる可能性があるのかも知れない。失礼乍ら、「白」は余計なのかも知れない。なお、この時代、「白錆病」(根菜類に多く見られるらしい)がサビキン目の種によるものと考えられていた可能性は高いように思われる。]

 

 以上は雜種を造る兩親が、ただ二つか三つの性質だけで相異なるものと假定して述べたのであるが、實際に於てはかやうなことは極めて稀であつて、たとひ同一種に屬する個體と雖も、單に一點もしくは二三の點だけで相異なり、他の點に於ては悉く絶對に相同じといふ如きものは滅多にない。されば假に總べての性質がメンデルの考へた通りに第二代以後に分離すると見倣しても、實際に於て兩親の孰れかと寸分違はぬ子孫の出來る望みは極めて少ない。兩親がたゞ一つの性質で相異なる場合には、第二代に至つて兩親の各と相同じものが總數の四分の一づゝ出來る勘定であるが、兩親が二つの性質で相異なる場合には、第二代雜種の中、兩親の何れかと相同じものが僅に十六分の一づゝよりなく、兩親が三つの性質で相異なる場合には六十四分の一づゝ、四つの性質で相異なる場合には、二百五十六分の一づゝよりない。若し兩親が十の性質で相異なるとすれば、孫の代には約百萬の中に一つづつだけより、兩親の何れかと全く同じものがない勘定になる。かやうな次第であるから、一個一個の性質は分離するものとしても、個體としては皆兩親の性質の種々に相混じたもののみである。メンデルが特殊の材料について實驗するまで、誰も遺傳する性質の分離に氣が附かなかつたのもこの故であらう。

 遺傳する性質の優劣にも不完全なものが多く、分離にも不十分なものが幾らもある如く、各性質が獨立に遺傳するといふても、決して總べての場合に獨立に遺傳する譯ではない。近來の研究によると、二つ以上の性質が組み合つたままでなければ遺傳せぬこともあり、また他の性質から影響を蒙つて左右せられることもある。これ等に就いて詳しく述べることは略するが、遺傳の現象はなかなか複雜なもので、研究すればするほど一定の型に嵌まらぬものが出て來る。今日遺傳を研究する學者は、斯かる場合をもメンデルの型に嵌めて説明せんと試み、樣々の想像的の性質を考へ出した。例へば、雜種の第二代に色の變異が豫定通りにならぬ場合には、色を生ぜしめる性質の外に、色の發生を止める性質、色の發生を軟げる性質、色の發生を促す性質、色を深くする性質など、やう々な性質が兩親に具はつてあつたものと假定し、これ等の性質の組合によつて眼前の變異が生じたものと考へて居る。

 メンデルの發見した優劣の法則でも分離の法則でも、またはメンデル以後の雜種研究でも、兩親が已に有した性質が如何に子孫に傳はるかを調べるだけであるから、生物の進化を説明するに當つては、寧ろ間接に相觸れるのみである。幾億萬年の昔から今日までの間に、極めて簡單な先祖から次第に進化して複雜な生物各種が生じたのは、常に新しい變異が現れ、新しい性質が附け加はつて、子孫に傳はるの外に途はないから、新な變異は如何にして起るかといふ問題の方が、進化論に對しては遙に大切である。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  歌また歌

 

     歌また歌

 

 五月十三日、左千夫氏に与えた居士の書簡に「藤の歌山吹のうた歌又歌歌よみ人に我なりにけり」という歌がある。前年末に作りた「雪」の旋頭歌を新年の『日本』に揚げて以来、居士は殆どその歌を示さなかったが、四月二十八日に至って

 

 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

 

の歌にはじまる藤の十首が先ず「墨汁一滴」に現れた。これに端を発して、山吹の歌、岩手の孝子の歌、かしわ餅の歌、ほととぎすの歌という風に、十首ずつの短歌が引つづき発表されたが、五月四日の「しひて筆を取りて」という一連の歌がその中の絶唱であろう。

[やぶちゃん注:名吟「瓶(かめ)にさす」の載るそれを以下に初出(国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子)で示す。私は中学二年の時、この一首を詠んで落涙するほどの感銘を覚えたのを忘れない。

   *

夕餉したゝめ了りて仰向に寢ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有樣なり。艷にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。斯道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

  甁にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上

  にとゞかざりけり

  甁にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上

  に垂れたり

  藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみか

  どの昔こひしも

  藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫

  さんと思ふ

  藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべか

  りけり

  甁にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れ

  んとす

  去年の春龜戸に藤を見しことを今藤を見て思

  ひいでつも

  くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲き

  いでにけり

  この藤は早く咲きたり龜井戸の藤咲かまくは

  十日まり後

  八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花

  よみがへり咲く

おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。

   *

「十日まり後」は「とをかまりのち」で音数律合わせのために「十日あまり後」を約したもの。「八入折の酒」「やしほりのさけ」で上代語。「何度も繰り返して醸(かも)した芳醇な酒」のこと。「八醞」「八塩折」或いは「やしぼり」と濁って読んだりもする。]

 

 佐保神の別れかなしも來ん春にふたゝび逢はんわれならなくに

 いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす

 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも

 世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも

 別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ繪にかけるかも

 夕顏の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも

 くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに

 薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ

 若松の芽だちの綠長き日を夕かたまけて熱いでにけり

 いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

 

 居士はこの歌の終(おわり)に「心弱くとこそ人の見るらめ」の一語を加えている。暮春の情と病牀の居士と、庭の風物とが渾然として一つのものになっていること、この一連の如きは少い。藤の歌の中にも「藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫さんと思ふ」「藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべかりけり」とあり、ここにまた「藤波の花の長ふさ繪にかけるかも」とあるが、この藤を画(えが)いて歌を題したものが今でも遺っている。紅の薔薇のふふむにつけても、五月という厄月(やくづき)の到ることを思い、夕顔の棚を作ろうとしながらも、秋まで持つべき命であるかということを念頭に浮べる。しかも居士は秋の草花の種を庭に蒔かしめ、命あらばそれを見ようとしているのである。この一連の歌を誦(しょう)して、居士の心持を直に身に感ぜぬというならば、その人は畢(つい)に詩を談ずるに足る人ではない。

[やぶちゃん注:「佐保神」(さほがみ(さおがみ))は「佐保姫」とも称し、春を司る神の名。奈良の都の東方には佐保山があったが(現在の奈良市佐法蓮佐保山附近であるが、開発が徹底的に進行してしまい、山の面影はない。ここ(グーグル・マップ・データ))、この方角は五行説で春に当たることに由来する。

「いちはつ」一初。単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum。屋根菖蒲。種小名 tectorum (テクトルム)はラテン語で「屋根の」の意味。和名はアヤメ類の中で一番先に咲くことに由来する。

「ふゝみぬ」蕾が膨らんだ。

「薩摩下駄」駒下駄に似た形を成すが、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多くは杉材で作る。

「いたつき」「勞(いたつき)」は病気。

「知らに」万葉以来の連語。「知る」の未然形に打消の助動詞「ず」の古型の連用形「に」が付いたもの。「知らないで・知らないので」であるが、ここは「知らず」がよかろう。

この藤を画いて歌を題したものが今でも遺っている」不詳。ネット上では捜し得なかった。

 

 五月九日の「墨汁一滴」にはこういうことが書いてある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 

今になりて思ひ得たる事あり、これ迄余が橫臥せるに拘らず割合に多くの食物を消化し得たるは咀嚼の力與(あづか)つて多きに居りし事を。嚙みたるが上にも嚙み、和らげたるが上に和らげ、粥さへ嚙み得らるゝだけは嚙みしが如き、あながち偶然の癖にはあらざりき。斯く嚙み嚙みたるためにや、咀嚼に最(もつとも)必要なる第一の臼齒左右共にやうやうに傷(そこな)はれて此頃は痛み強く少しにても上下の齒をあはす事出來難くなりぬ。かくなりては極めて柔かなるものも嚙まずに呑み込まざるべからず。嚙まずに呑み込めば美味を感ぜざるのみならず、膓胃直に痛みて痙攣を起す。是に於いて衛生上の營養と快心的の娯樂と一時に奪ひ去られ、衰弱頓に加はり晝夜悶々、忽ち例の問題は起る「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」

 

 次の長短歌はこの文章の末に記されたものである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げ、初出では二字下げであるが、長歌が不具合を生ずるので、特異的に完全に行頭に上げて示した。なお、「虫」は初出のママ。]

 

さへづるやから臼なす、奥の齒は虫ばみけらし、はたつ物魚をもくはえず、木の實をば嚙みても痛む、武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の、ほそり行くかも

下總の結城の里ゆ送り來し春の鶉をくはん齒もがも

菅の根の永き一日を飯もくはず知る人も來ずくらしかねつも

 

 居士の唯一の療養法は「うまい物を食う」にあった。この「うまい物」は多年の経験との一時の情況とによって定(さだま)るので、他人の容喙(ようかい)[やぶちゃん注:横から他人が口を出すこと。]を許さぬ底(てい)のものであったが、この療養法によって居士は垂死の病軀に一脈の活気を注入し、力を文学の上に伸(のば)し得たのである。かつて『ホトトギス』の「消息」において、一流の御馳走論を述べたこともあった。その御馳走を摂るべき第一関門たる歯が傷(そこな)われたのでは、居士の病牀生活は暗澹たらざるを得ない。「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」という歎声も、決して誇張の言ではないのである。

[やぶちゃん注:「さへづるやから臼なす」よく判らぬが、食事をするために口を動かすことを「さへづる」とし、咀嚼しようとしてみるのだけれど、ああっ!(間投助詞「や」)私の「臼」歯は役立たずで「から」(空)踏みするばかりの意か。「から臼」は「唐臼」を前提として「空」を掛けていよう。

「はたつもの」「畑つ物」で「はたけつもの」に同じ。粟・稗・麦・豆などの畑から穫れる農作物のこと(「つ」は「の」の意の上代の格助詞)。対義語は「たなつもの」(穀つ物)で対語的には稲を限定的に指す(但し、これは広く前者を含めた穀類を指す語でもある)。

「武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の」やはりよく判らぬが、全く咀嚼が不能になった結果、「粥汁」には「武藏野の甘菜辛菜を」「まぜても煮」ることが出来なくなったので(噛み切れぬから)、いや! 何とまあ! 何の美味そうな混ぜものもない「白」ら「け」きった熱い白粥、それを口に含んでは「我つく」落胆の溜「息の」白さ(粥の温度が高いから五月でも白い息となる)よ! という意味か。]

 

 「墨汁一滴」から会心の条を摘記(てっき)して行くとなれば、まだまだ容易に尽くべくもないが、三十四年には他に記さなければならぬものを控えているので、遺憾ながら割愛して先へ進もうと思う。「墨汁一滴」の稿は七月二日まで続いた。終らんとするに先って不折氏洋行の事があり、数日を費して送別の辞を述べた。『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事なども、この文中にある。

[やぶちゃん注:「『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事」明治二十七年の「『小日本』創刊の章のこと。初会のエピソードは六月二十五日クレジットの条に書かれてあり、そこから六月三十日までが中村不折の送別の記となっていて、短い七月一日と二日の記事で「墨汁一滴」は終わっている。漱石洋行に続く盟友の洋行(渡仏。不折の帰国は明治三八(一九〇五)年、で漱石同様、子規の死の床には居合わせることが出来なかった)といった友人の勇躍せんとして旅立つそれは、再び逢えないという感懐も含めて、子規にとっては非常に辛く淋しいものであったことは、彼の送別の語りや詩歌によって判り切ったことではあるが、強烈な芸術家意識を持った彼にはそれ故にこそ、激烈に耐え難いことだったのである。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  「墨汁一滴」

 

    「墨汁一滴」

 

 「墨汁一滴」が『日本』に出はじめたのは一月十六日からである。居士がこれを草することを思立って、二回ほど文章を送ったところ、一向新聞に出ない。この事は大に居士を失望せしめた。そこで鼠骨氏に書を送って、場所は択ばぬ、欄外でも差支ない、欄外を借りて欄外文学なども洒落れているが、欄外二欄貸さないだろうか、といった。毎日書くつもりではじめた「墨汁一滴」が載らないようでは新聞も読みたくない、病中は楽(たのしみ)が少いから、一の失望に逢った時慰めようがない、というのである。この書簡が十五日附のもので、その翌日から「墨汁一滴」は紙上に現れたのであった。

[やぶちゃん注:「墨汁一滴」はここに書かれた通り、新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載された。それは、以前にも紹介した国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で総てが見られる。それにしても、二回分のそれが、一向に掲載されなかったのは何故なのか? 或いは最初のそれ(前章注に電子化してある)に、編集者である当の鼠骨の贈った地球儀の話が出ることから、これを原稿というよりも彼宛ての年初の挨拶吟と誤認したものか? 二回目の原稿(翌日一月十七日のクレジット)の原稿も一月七日の会に岡麓が持ち来った年始祝いの七草を植えた竹籠の話で、最後に、

 あらたまの年のはじめの七くさを籠に植ゑて來

 し病めるわがため

という歌で締めくくっており、或いは、鼠骨は、この「墨汁一滴」と表題した二つの原稿は単なる歳旦の言祝ぎの二篇であり、まだ多少は続くかも知れぬから、孰れどこかでその標題で完結するであろうものを纏めて発表しよう考えていたのかも知れぬ。ところが、上記のような本格連載ものとして子規が考えていたことを知って、慌てて掲載したものではなかったか?]

 

 「墨汁一滴」は最初から一行以上二十行以下ということを大体の限度としていた。その日その日思いついたことを記して行く点は『松蘿玉液』などに似ているけれども、文の短いに反して含蓄は甚だ多い。『松蘿玉液』以後における五年間が、単に居士の病苦をのみ募らしめたものでないことは、どの箇所を開いて見て明な事実である。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「墨汁一滴」の第十二回目の一月三十一日クレジットのもの。切貼帳で校合した。句読点は底本と切貼のそれを合わせて用いた。以下も同じ。]

 

人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確實になるならならひなり。我病牀に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く步行(ある)き得ずともよし、庭の内だに步行き得ば、といひしは四、五年前の事なり。其後一、二年を經て、步行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに餘りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが、一昨年の夏よりは、立つ事は望まず、座るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつ程になりぬ。しかも希望の縮小は猶こゝに止まらず。座る事はともあれ、せめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度に迄達したり。此次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釋迦は之を涅槃といひ耶蘇は之を救ひとやいふらん。

 

 こういう世界は『松蘿玉液』時代の居士の想像を許さぬところであった。「墨汁一滴」の人に与える感銘が『松蘿玉液』の比でないのは固より当然といわなければならぬ。

 居士は『日本』紙上におけるあらゆる執筆を廃し、「墨汁一滴」に一切を集中しようとした。歌に関する問題も俳句に関する問題も、やはり「墨汁一滴」で埒(らち)を明けようとした。格堂氏から預ったままになっていた平賀元義の歌を天下に紹介したのも「墨汁一滴」においてであった。居士は世に知られず、不遇の裏(うち)に一生を了った元義の歌が醇乎(じゅんこ)[やぶちゃん注:「純乎」とも書く。全く雑じり気のないさま。]たる万葉調なるを見て「一たびは驚き一たびは怪し」んだが、広くその歌を知らしめんとしてこの筆を執ったのである。「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」といい、

 

四家の歌を見るに、實朝と宗武とは氣高くして時に獨造[やぶちゃん注:初出に拠る。岩波文庫版もママ。底本は「独創」。]の處ある相似たり。但宗武の方、霸氣稍きが如し。曙覽は見識の進步的なる處、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但技倆の點に於いて調子を解する點に於いて曙覽は遂に元義に如かず。故に曙覽の歌の調子とゝのはぬが多きに反して元義の歌は殆ど皆調子とゝのひたり。されど元義の歌は其取る所の趣向材料の範圍餘りに狹きに過ぎて從つて變化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以なり。彼にして若し自(みづか)ら大歌人たらんとする野心あらんか、其歌の發達は固より此に止(とど)まらざりしや必せり。其歌の時に常則を脱する者あるは彼に發達し得べき材能の潛伏しありし事を證して餘あり。惜しいかな。

 

という。居士の結論は常に断々乎としている。平賀元義は居士にょって顕揚(けんよう)せられた最後の歌人であった。「墨汁一滴」十二回を費(ついや)した元義の事は、直(ただち)に『心の華』に転載せられた。

[やぶちゃん注:前にも述べたが、平賀元義の賞揚は「墨汁一滴」の二月十四日(クレジット)から始まり、二月二十六日までの、十二回、一日のブレイクもなしに連載されている。以上の長い引用部は最後の二月二十六日分の最終段落総てで、その前に本文中で引用されてある「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」という箇所も同日分の第三段落の冒頭部である。]

 

 歌に関する文章は必ずしも元義の事にとどまらぬ。有名な「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」という言葉もこの中にあり、短歌会の諸子に対する警策もまたこの中にある。或時の短歌会で、最もいい歌は誰にも解せらるべき者だという主張と、いい歌になるほどこれを解する人が少くなるという主張とが対立した一ことがあった。居士はこれを聞いて、「愚かなる人々の議論かな。文學上の空論は又しても無用の事なるべし。何とて實地に就きて論ぜざるぞ。先づ最も善きといふ實地の歌を擧げよ。其歌の選擇恐らくは兩者一致せざるべきなり。歌の選擇既に異(こと)にして枝葉の論を爲したりとて何の用にか立つべき。蛙は赤きものか靑きものかを論ずる前に先づ蛙とはどんな動物をいふかを定むるが議論の順序なり。田の蛙も木の蛙も共に蛙の部に屬すべきものならば赤き蛙も靑き蛙も兩方共にあるべし。我は解し易きにも善き歌あり、解し難きにも善き歌ありと思ふは如何に」と「墨汁一滴」に書いた。こういう問題に対する居士の所論は、坦々たる中道を行くの概(おもむき)があった。

[やぶちゃん注:前者「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」は一月二十五日クレジットのもの。全文を初出で電子化する。ここは句読点もママとした。

   *

去年の夏頃ある雜誌に短歌の事を論じて鐵幹子規とへ並記し兩者同一趣味なるかの如くいへり。吾以爲へらく兩者の短歌全く標準を異にす、鐵幹是ならば子規非なり子規是ならば鐵幹非なり、鐵幹と子規とは並稱すべき者にあらずと。乃ち書を鐵幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は明星所載の短歌を評せん事を約す。葢し兩者を混じて同一趣味の如く思へる者の爲に妄を辯ぜんとなり。爾後病牀寧日少く自ら筆を取らざる事數月未だ前約を果さゞるに、此の事世に誤り傳へられ鐵幹子規不可並稱の説を以て尊卑輕重に因ると爲すに至る然れども此等の事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁喧擾を極めたるは世人をして稍歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益〻加はり殊に筆を取るに惱む。終に前約を果す能はざるを憾む。若し墨汁一滴の許す限に於て時に批評を試るの機を得んか猶幸なり。

   *

また、後者の長い引用は、三月二十七日クレジット分のほぼ全文である。宵曲が訳してしまった以下を頭の附ければ、全文となる。

   *

先日短歌會にて、最も善き歌は誰にも解せらるべき平易なる者なりと、ある人は主張せしに、歌は善き歌になるに從ひいよいよ之を解する人少き者なりと。他の人は之に反對し遂に一場の議論となりたりと。

   *]

 

 落合直文氏の歌に対し、精細なる批評を試みたのも「墨汁一滴」においてであった。居士は毎日一首、多くても二首位の都合で、一々これを解析して微に入り細を穿つ評語を加えた。こういう精細な歌評は、居士以前に誰も企てぬものであったろうと思われる。

[やぶちゃん注:歌人で国文学者であった落合直文(文久元(一八六一)年~明治三六(一九〇三)年:陸前伊達藩の重臣鮎貝の家に生まれたが、国学者落合直亮(なおあき)の養子となった東京大学古典講習科中退。叢書「日本文学全書」の刊行や「日本大文典」などの国語辞典編輯等、国文学者としての業績の他に、「青葉茂れる桜井の」「孝女白菊の歌」の作者として知られ、和歌改良を目指して『浅香社』を結成、与謝野鉄幹・尾上柴舟らの門下を育てた。以上は平凡社「マイペディア」に拠る)の歌への「墨汁一滴」での批評は三月二十八日クレジット分から始まり、七日連続で四月三日分まで行われている。]

2018/06/23

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  昨年今年明年

 

   明治三十四年

 

    昨年今年明年

 

 明治三十四年(三十五歳)[やぶちゃん注:一九〇一年。]には、前年の「新年雑記」にあるような軽快な事柄は見当らない。

 

 うつせみの我足痛みつごもりをうまいは寐ずて年明にけり

 

というような状態で新年を迎えたのである。居士の枕頭には巻紙・状袋などを入れる箱があり、その上に置いた寒暖計に小さい輪飾が括りつけてあった。

 

 枕べの寒さ計(はか)りに新玉(あらたま)の年ほぎ繩をかけてほぐかも

 

という歌はこれを詠んだのである。

[やぶちゃん注:「うまい」は万葉語で「熟寢(寐)」「味眠」などの漢字を宛て、「快く眠ること・熟睡」の意の名詞である。この後者の一首は、直後の「墨汁一滴」の巻頭(底本は朱の手書きで一月十六日のクレジットが入る。)に載っている。以下に国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で翻刻したが、読み易さを考え、一部に句読点を追加して打った。

   *

病める枕邊に卷紙狀袋など入れたる箱あり、其上に寒暖計を置けり。其寒暖計に小き輪飾をくゝりつけたるは、病中、いさゝか、新年をことほぐの心ながら、齒朶の枝の左右にひろごりたるさまも、いとめでたし。其下に橙を置き、橙に竝びて、それと同じ大きさ程の地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて、鼠骨の贈りくれたるなり。直徑三寸の地球をつくづくと見てあれば、いささかながら、日本の國も特別に赤く書く[やぶちゃん注:底本は手書きで二重線でそれを抹消して「そめら」に修正。底本の切貼帳の製作者は不明であるが、或いは、子規に非常に近い人物で、子規の命によって、初出を改稿したものの原本である可能性もあるか。以下の改稿部も総て現行の「墨汁一滴」の通りだからである。]れてあり。臺灣の下には新日本と[やぶちゃん注:手書きで「記」を挿入。]したり。朝鮮滿洲吉林黑龍江などは紫色の内にあれど、北京とも天津とも書きたる處なきは餘りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀は、此赤き色[やぶちゃん注:手書きで「と」を挿入。]紫色との如何變りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに狀袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、是れ、我病室の蓬萊なり。

  枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ繩を掛けてほ

  ぐかも

   *]

 

 この年『日本』にはじめて掲げたのは「書中の新年」及「御題の短歌を新年の紙上に載することにつきて」の二篇であった。「書中の新年」というのは「家人に命じて手に觸るゝ所の書籍何にても持ち來らしめ、漸次にこれを關してその中より新年に關する字句を拔抄(ばつしやう)」するという趣向のもので、その冒頭には次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。]

 

 明治卅四年は來りぬ。去年は明治卅三年なりき。明年は明治卅五年ならん。去年は病牀に在りて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せり。今年も亦病牀にありて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せんとす。知らず、明年はなほ病牀にあり得るや否や。屠蘇を飮み得るや否や。雜煮を祝ひ得るや否や。蜜柑を喰ひ得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。發熱を犯して筆を執り、病苦に堪へて原稿を草す。人はまさに余の自ら好んで苦むを笑はんとす。余は切に此苦の永く續かん事を望むなり。明年一月余は猶此苦を受け得るや否やを知らず、今年今月今日依然筆を執りて復諸君に紙上に見(まみ)ゆる事を得るは實に幸なり。昨年一月一日の余は豈能く今日あるを期せんや。

 

 「新年雑記」に記されたところと大体似ているけれども、前年に比べるとどこか迫った点がある。一年間に著しく進んだ病苦が自ら然らしむるのであろう。

 一年前にはじめて「新年雑詠」の短歌を募集し、『日本』に掲げた居士は、今年は旋頭歌を募ってその結果を新年の紙上に発表したが、選に入った者は僅に七人、各一首ずつに過ぎなかった。これは居士の病苦が多くの歌を選むの労に堪えなくなったのではない。居士の歌に臨む標準が次第に高く、一年前とは全く程度を異にするためである。この傾向は已に歌会を廃する少し前あたりからの評語にも見えているが、旋頭歌の選に至って更に顕著になった。旧来の惰性によって歌を作る者は、勢い振落されざるを得ぬ。一面からいえばこの傾向は、居士の歌の世界を前より狭くしたように見えたかも知れない。居士の選歌の標準が高まったということも、外聞からは容易に窺い得ぬものであるだけに、これに従って進む者は固より不退転の勇気を必要とする。居士の晩年になればなるほど、その選に入る顔触が少数者に限られた観があったのは、全くこのために外ならぬのであった。

 一月の『ホトトギス』には「初夢」及「蕪村寺再建縁起」が出ている。「初夢」は睡中(すいちゅう)に見た夢というよりも、むしろ居士が胸裏に描いた夢の方であろう。新年と共に病から脱却して方々年賀に歩いたり、汽車に乗って帰郷したりする、これらの夢は居士に取っては実現すべからざるものになってしまった。富士山を下りながら砂を踏みすべらして真逆様に落ちたと思えば、腰の痛み、背の痛み、足の痛み、身動きもならぬ現実に還らざるを得ない。軽快な「初夢」の文章が読む者にいうべからざる悲哀を感ぜしむるのはこのためであろう。

[やぶちゃん注:「初夢」は「青空文庫」のにあるが、新字新仮名で、国立国会図書館デジタルコレクションの俳書堂の「子規遺稿 第編 子規小品文集をお薦めする。

「蕪村寺再建縁起」の方は本文は小さくて読めないが、「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」で不折の俳味に富んだ挿絵が見られる。それによれば、『蕪村宗の俳阿弥という行脚僧が、化物や狐狸と力を合わせて月並村の妨害をはねのけ、荒れ果てていた蕪村寺をみごと再建するというストーリー』とある。]

 

 「蕪村寺再建縁起」は黄表紙に擬したもので、不折氏が挿画を画いている。こういう趣向を新聞雅誌の上に凝すことは、居士得意のしところであったが、病苦はその余力をこういう方面に用いることを困難ならしめた。「蕪村寺再建縁起」は最後の趣向と見るべきものである。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 最後の写真撮影 / 明治三十三年~了

 

     最後の写真撮影

 

 『ホトトギス』はこの年十月を以て第四巻に達した。居士はこの雑誌に「『ホトトギス』第四巻第一号のはじめに」という一文を掲げ、その感想を述べている。その末段に東京の文学界は長く東京人の占むる所となっていることをいい、田舎から出て来た者が何年もかかって東京風俗を研究し、苦辛(くしん)して東京化して見たところが、畢竟第二流小説家となるに過ぎず、第一流は依然江戸児(えどっこ)の専有物になっている、文学界に東京閥が尊敬されることが久しいだけ、東京の文学がいよいよ腐敗して鼻持もならぬようになって来ることを論じた一節がある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「「子規居士」で校合した。]

 

兎に角我々の希望は都會の腐敗した空氣を一掃して、田舍の新鮮なる空氣を入れたいのである。東京言葉と衣服の流行が分らない者は小説家の資格が無いだの、戀でなければ文學でないだの、花は菫、蟲は蝶、此外には詩美を持つて居る花も蟲も無いだの、といふやうな、狹い、幼稚な不健全な思想を破つてしまひたい。流行は美でない、喝采は永久でない。我々は都會人士に媚びて新聞雜誌の上で賞められたくない。我々は斃(たふ)れて後に已(や)むの決心を以て進むばかりである。併しながら永く都會に住んで居ると自然と腐敗して來る事は世の中に實例が多い。萬一我々が都會の腐敗を一掃する前に軟化して勇氣が挫けたといふやうな事があつたら、其時には第二の田舍者が出て來て必ず我々の志を繼いでくれるであらうといふ事を信ずる。その第二の田舍者といふ奴は今頃何處かの山奧で高い木の上に上つて椎の實をゆすぶり落して居るかも知れない。

 

 これは『ホトトギス』の使命を説くと共に、文学における居士の態度を闡明したものである。自己の病漸く篤きを知りながら、山の木に上って椎の実をゆすぶり落しているような継志者を思いやるあたりは、居士その人に触れるような気がする。

 八月の喀血以前、居士は『ホトトギス』に掲げた「消息」で「小生近日元氣消耗甚しく候につき回復策として百二歳の賀筵(がえん)[やぶちゃん注:祝賀の宴席。]にても開かんかと存候。小生百二歳は明治百一年に當り候につき本年に繰上げ候はば六十八年前取りする譯に相成候。賀筵はまだ早退ぎると申す人も有之候へども小生は時期既におくれたりと存候。それにつき何か善き趣向もがなと考居候」といったことがある。百二歳賀筵の名は用いられなかったが、この年の誕生日(旧暦九月十七日)[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では一九〇〇年十一月八日。子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれ。]には碧梧桐、虚子、四方太、鼠骨の諸氏を招き、赤、青、黄、白、茶というような題を課して、各〻その色の食物か玩具を持寄る趣向とした。翌年の『仰臥漫録』にこの日の事を回顧して、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合したが、そこではひらがながカタカナ表記で読み難いので、底本のひらがな表記を採用した。]

 

余は此日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ魔の庭の木から松の木へ白木綿を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するから此白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫(かつ)とさしたので、右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。

 

と書いてある。この会は非常に愉快であったらしい。

 十一月以降、子規庵における和歌、俳句の例会は皆廃することになった。「なるべく靜養を旨としたる上にて病氣に多少の間あらば『日本』と『ホトトギス』との上に力を盡すべく、此新聞此処雜誌に小生の名現れ候間は六疊の病室に籠りてガラス越の日光を浴びつゝなほながらへ居候ものと御推察被下度候」などという「消息」を読むと、居士の身辺が俄に寂しくなったように思われるが、事実は必ずしもそうではない。日光へ紅葉を見に行った歌の仲間が、夜に入って二度まで居士を驚かしたようなこともあり、新嘗祭(にいなめさい)には雞頭闇汁会(やみじるかい)なるものが歌の方だけで催されてもいる。諸会廃するの後も『蕪村句集』輪講だけは隔月に子規庵で催すことになっていたし、少人数の山会(文章会)などは時に枕頭で開かれた。この年から病牀に煖炉(だんろ)を焚くことになったので、十一月三十日には煖炉据付祝(すえつけいわい)などということもあった。

[やぶちゃん注:「新嘗祭」本来は旧暦十一月二十三日に天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する祭祀。神人共食の始まり。]

 

 蕪村忌も例年通り催されたが、運座を廃することにした。写真撮影の際三十八人とあるから、前年よりやや少い勘定である。但(ただし)風が強かったため、居士は写真に加わることが出来ず、翌日単独に撮影した。現在最も広く行われている横向の写真がそれで、居士最後の写真となったわけである。

 『寒玉集』及『寸紅集』が出版されたことも、この年掉尾(ちょうび)の出来事に数えなければなるまい。従来単行本になったものは、いずれも俳句方面のものに限られた。文章方面の収獲はこれを以て嚆矢とする。『寒玉集』の巻頭には『日本』に出た「叙事文」一篇が載せられた。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 喀血後の興津移転問題

 

     喀血後の興津移転問題

 

 八月十三日の朝、居士は突然喀血した。二十八年以来の多量の喀血であったので自他共に驚いたが、幸に一回だけで済んだ。帰省中の格堂氏が平賀元義の歌を発見して、居士の許に送り来ったのはこの際の事である。居士は直に端書を出してその歌を集めんことを勧め、「上にして田安宗武下にして平賀元義歌よみ二人」「血をはきし病の床のつれづれに元義の歌よめばうれしも」の二首を書添えた。

[やぶちゃん注:「子規居士」を見ると、二首の歌はひらがながカタカナな書きであるが、読み難く佶屈聱牙な感じになるので、底本のままとした。]

 

 喀血後は疲労甚しく、二十二日夜の『蕪村句集』輪講の際にも、黙聴して時に意見を述べるにとどめたほどであったが、この間(かん)にあって力(つと)めて筆を執ったのは『ホトトギス』九月号の「消息」である。六号活字で雑誌四頁にわたる非常な長文で、喀血の前夜に筆を起し、十七日、二十日、二十一日、二十二日と四度(よたび)稿を継ぎ、最後の一段は口授筆記せしめて漸く完成した。国語伝習所に行われた俳句講習会の事に関し、門下の士の不勉強を警(いまし)めるのが主なる目的であったらしいが、一転して「俳句分類」の事に及んでいる。自分の事業を新聞雑誌に現れた文字だけで測る人には、この三、四年間における事業は年々同一分量を示すもののように思うであろうが、その実自分の事業は三、四年来、病気の進歩と反比例に分量を減じている、それ外面に現れぬ「俳句分類」が著しく分量を減じた故である、この事業は最近三、四年の中に一年一年と怠りがちになり、昨年以来は全く事業中止の有様になっている、というのである。「俳句分類」稿本の嵩(かさ)は、見る者をして瞳目せしめねば止まぬものであるが、大体二十四年から三十二年にわたる、前後九年間の努力に成るものと見ていいのであろう。

 八月の喀血は外面に現れる居士の事業をも減少せしめずには置かなかった。左千夫氏らの首唱にかかる興津移転問題はこの後に起り、居士の病軀を気候の変化の少い、空気のいい海岸の地に移して、来客その他の煩を逃れることにしたらどうかということになった。居士も一度移転断行と決心し、決心した晩は眠らんとしても眠られなかった位で、借りる家までもきまっていた模様であったが、居士の周囲は殆ど皆この移転を危んだ。十月四日夜、『蕪村句集』輪講の席上でこの問題を議したところ、鳴雪翁が正面から反対を唱えた。その結果は激論となって、解決を見なかったが、その後居士も意を翻(ひるがえ)し、興津移転問題は実現に至らなかった。しかし当時の居士を刺激したこと、この問題の如きはなく、誰に宛てた手紙を見ても大概興津の事が記されている。

 九月八日、漱石氏が英国留学のため、横浜から出発した。『ホトトギス』の消息に「小生は一昨々年大患に逢ひし後は洋行の人を送る每に最早再會は出來まじくといつも心細く思ひ候ひしに、其人次第々々に歸り來り再會の喜(よろこび)を得たる事も少からず候。併し漱石氏洋行と聞くや否や、迚も今度はと獨り悲しく相成申候」と見えている。熊本から東上した漱石氏は出発に先って居士の病牀を訪い、久々に会談の機を得たのであった。

[やぶちゃん注:手紙文は「子規居士」で校合した。

「漱石氏が英国留学のため、横浜から出発した」この明治三三(一九〇〇)年五月十二日、漱石は英語教授法取調べを目的とした(英文学研究ではないので注意)文部省第一回給費留学生として満二ヶ年のイギリス留学を命ぜられた(当時の文部省専門学務局長上田万年の計らいであるが、貴族院書記官長であった妻鏡子の父中根重一の陰の力もあったと推定されている)。七月二十日に妻と娘筆とともに熊本を去り、中根家に滞在、子規を訪ねたのは上京早々の七月二十三日の午後四時頃で、その日の午後九時までいた。これから、九月七日の横浜出航前日頃までに、子規から「萩すすき來年あはなさりながら」ほか一句を受け取っている。船は神戸・長崎から、上海や香港などを経て、インド洋・スエズ運河・地中海を通り、ジェノヴァで上陸、アルプス山脈を汽車で抜けてパリへ到り、一ヶ月半余りかかって、十月二十八日午後七時頃、ようやくロンドンに到着している。しかし、漱石は明治三五(一九〇二)年の八月頃から精神変調をきたし、九月に入ると重くなって、九月十二日に受け取った鏡子の手紙の返事で、自ら「近頃神經衰弱」と称し、この時、彼女に送らせていた新聞を九月一杯でやめるように認めているから、この時、帰国を決意しているように感じられる。そうして、実に、この九月の十九日、午後一時、正岡子規は自宅にて死去した。漱石が子規逝去の報知を受けた時の様子は伝えられていないが、彼の精神疾患(現行では一般に強迫神経症と診断するようだが、私は彼の関係妄想の激しさや、後の後遺症としか思われない他虐性の強い反応性激発症状などを見るに、統合失調症であった可能性も濃いように感じている)を増悪させたことは間違いない後、漱石は同年十二月五日にロンドンを日本郵船の「博多丸」で出航、今回はそのまま海上を地中海・スエズ運河経由で、翌明治三六(一九〇三)年二十三日に神戸に上陸している(一時よくなっていた精神状態は船中で再び悪くなったらしい)。以上は集英社「漱石文学全集」別巻の荒正人氏の驚異的な労作「漱石研究年表」によったが、ウィキの「夏目漱石では、その精神変調へと向かう下りを、日本人である自分が『英文学研究』をすること『への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々と』した。明治三四(一九〇一)年になって、『化学者の池田菊苗と』二『か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり』、『研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば』、『下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥り』、明治三五(一九〇二)年九月に『芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出て、そのためか』、『「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる』(実は死んだという誤情報も流れたようである)。『漱石は急遽』、『帰国を命じられ』たが、『帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一が』、偶然、『同乗して』いたことから、『精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという』とある。]

 

 漱石氏出発に関する「消息」の出た『ホトトギス』に居士は「『水滸伝』と『八犬伝』」及「『水滸伝』雑詠」を掲げた。「『水滸伝』と『八犬伝』」は雑誌にして二十六頁を超えているから、居士としては前後にない長篇である。『水滸伝』は居士の愛書の一であったらしく、三十年の大患の際にもこれを読み、この年もまた読み返している。『八犬伝』との比較に筆を起し、居士自身の文章観の上から『水滸伝』の文章の妙を説いたのである。この稿を草するに先(さきだ)ち、愚庵和尚に「病島無聊時々『水滸』を讀む、今や僅々(きんきん)末三、四巻を餘すのみに有之候」ということを申送ったのは、和尚が壮時好んで『水許伝』を読み、殆どその文句を諳記(あんき)していたというような事実を知っているためであろう。

諸國里人談卷之三 立山

 

    ○立山

立山は越中國新川郡(にゐかはのこほり[やぶちゃん注:ママ。「新川」の正しい歴史的仮名遣は「にひかは」。])なり。祭神、伊弉諾尊(いさなみのみこと)。力尾社(ちからをのやしろ)は手力雄命(たちからのみこと)也。是、麓(ふもと)の大宮(おほみや)也。此より絶頂まで三里余、其間、旧跡多し。此嶽(たけ)は佛尊の貌(かたち)に似たり。膝を「一の越(こし)」とし、腰腹(こしはら)を「二の越」、肩を「三の越」、頭を「四の越」、頂上佛面(ぶつめん)を「五の越」とす。市の谷(や)へ行道に、「小鏈(こぐさり)」[やぶちゃん注:「鏈」は「鎖」に同じい。]・「大鏈(おほぐさり)」とて、鏈(くさり)に縋(すが)りて登る所、有〔あり〕。此鏈は三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)が作る所なり。「地獄道(ぢごくみち)」に地藏堂あり。每年七月十五日の夜、胡蝶(こてふ)、あまた、此原に出〔いで〕て舞遊(まひあそぶ)ぶ。これを「精霊市(しやうりやういち)」といふ也。「一の越」より「五の越」まで、各堂あり。一宇一所づゝに、暖(あたゝか)なる地あり。これを「九品(くほん)」といふ也。行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也。

「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。

云、此山にして願へば、思ふ人の亡霊、影のごとくに見ゆる、となり。

元祿のころ、江戸牛込、小池何某、同行〔どうぎやう〕三人、禪定(ぜんぢやう)しけるに、歸路に趣く時、行(ゆき)くれて、道の邊(ほとり)の木陰に一夜(や)をあかし、夜すがら、念佛して居たるに、誰人(たれひと)ともしらず、

「これこれ、同者衆、食事、まゐらせん。」

と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す。

「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」

と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしなひ、

「かほど近くに人家あらば、宿(やど)せんずるに、しらざれば、是非なし。」

など、いひて、夜、明(あけ)たり。

「かの椀を歸さん。」

と、邊(あたり)を見れども、人倫たへたる[やぶちゃん注:ママ。]所にて、人家、なし。

やうやうにして、一里ばかり下(くだ)りて、五、七軒の里、あり。或家に入〔いり〕て、湯茶を設け、夜中(やちう)の事をかたるに、

「その邊には、中々、人里、なし。」

となり。

件(くだん)の椀を出〔いだ〕し、見せければ、主(あるじ)、興をさまし、

「これは。向ふなる家の息(むすこ)が椀也。頃日(このごろ)、死(しゝ)て、今日、則(すなはち)、一七日〔ひとなぬか〕なり。」

と、かの家に伴ひ行て、しだいを語りければ、兩親、大に悲歎し、朝餉(あさがれひ)をすゝめて饗應しける、と也。

[やぶちゃん注:最後の「俗云、此山にして願へば……」以下の部分は原典では改行がないが、直接話法が多く、特異な怪奇談なれば、恣意的に改行を施した

「立山は越中國新川郡なり」現在は富山県中新川郡の立山町芦峅寺(あしくらじ)内である。標高は雄山(おやま)が三千三メートル、大汝山(おおなんじやま)が三千十五メートル、富士ノ折立(ふじのおりたて)が二千九百九十九メートルの三峰から成る総山体を「立山」と呼ぶ(或いは雄山と大汝山に南側の浄土山(二千八百八十七メートル)と北側の別山(べつさん:二千八百八十二メートル)を加えたもの)。立山はいずれも古期の花コウ。雄山のみを立山と呼ぶのは厳密には誤りである。立山連峰に「立山」という名の単独峰は存在しないからである。私は後に出る剣岳(二千九百九十九メートル)を含め、総て登攀した。

「祭神、伊弉諾尊」まずは、現在の雄山神社。霊峰立山自体が神体であり、立山の神として伊邪那岐神(江戸時代までは立山権現雄山神で本地阿弥陀如来)・天手力雄神(あめのたぢからおのかみ:同じく太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀ったもので、神仏習合の時代は神道よりも仏教色が強い、立山修験の神聖な道場であった。現行では、峰本社(みねほんしゃ)・中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)・前立社壇(まえだてしゃだん)の三社を以って雄山神社とする。各社の位置などは「立山大権現 雄山神社」公式サイトを見られたい。

「力尾社(ちからをのやしろ)」原典は①も③も確かに「力尾社」なのであるが、どうも読んだ当初から、魚の骨が咽喉に刺さったような違和感があったのだ。沾涼は後で「麓(ふもと)の大宮(おほみや)也」と言ってしまっているから、「ここは大きな前立社壇(ここ(グーグル・マップ・データ))を指していると読んで、何の不都合がある?」と文句を言われそうなのだが、しかし、やはり、どうもすっきりしないのだ。実はもっとおかしいこともある。それは、沾涼は後で「此より」本社のある雄山「絶頂まで三里余」と言っている点である。この短い距離では、中宮祈願殿でさえも遠過ぎるのである(地図上の直線でも二十キロメートルを超えてしまう)。思うに、沾涼は立山に実際には行ってないのではないか? 誰彼からの不確かな情報を無批判に繫ぎ合わせてしまったのが、この解説なのではないか? という疑惑である。しかも、この私の猜疑心の火に油を注ぐのは、本条の記載の幾つも箇所が、またしても、先行する寺島良安の「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」との有意な一致を見るのである。確かに雄山神社は本殿で天手力雄神も祀りはする。しかし、「雄山神社前立社壇」や「中宮祈願殿」が江戸以前は「力尾社」と呼ばれていたというのであれば引き下がるが、調べた限りではそのような事実はないようである。そうして彼の別名は前注で見る通り、太刀尾天神剱岳神である。則ち、私はこの「社」とは、雄山神社の併祀する彼を指しているのではなく、天手力雄神=太刀尾天神剱岳神を主祭神として祀っている神「社」を指しているのではないか? という疑義であり、最初に思ったのは本当に「力尾社」なのか? という疑いだったのである。そう、これは実は「刀尾社」なのではないか? という、謂わば〈烏焉馬の誤り〉的推理だ。調べてみると、あるのだ! 「刀尾神社」が! 「たちおじんじゃ」と読み、場所は芦峅寺内ではないが、富山市太田南町で、立山参りのアプローチ地点に当たる位置にあり(ここ(グーグル・マップ・データ))、サイト「北陸物語」の青木氏の記事「刀尾神社」によれば(写真有り。今は田舎の静かな社といった感じ)、立山の開山者である慈興上人が雄山神社の『前立の神としてこの地に社殿を作ったと言い伝えられて』おり、『手力男命(たぢからおのみこと)を主祭と』しつつ、その権現化されたところの『剱岳の地主神刀尾天神 (刀尾権現)を祀』っているとあり、しかも『昔は、西国方面からの立山参詣者は必ず立ち寄ったと言われてい』いるとあるのである。なお、他にも「刀尾宮」はありはする(例えばここ(グーグル・マップ・データ))。最後に極めつけと思しいものを掲げておく。沾涼が秘かに引いたのであろう「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」の頭の部分には、原典では確かに、

   *

力尾權現社手力雄命(タヂカラヲノミコト)也

   *

とあるのだが、東洋文庫版現代語訳では、ここがわざわざ、

   *

『刀尾(たちお)権現社の祭神は手力雄命(たぢからおのみこと)である。

   *

と訳してあるのである。東洋文庫の訳者が、今度は、「力」を「刀」に見間違えたんですかねえ? わざわざルビまで振ってですよ? 如何? さても大方の御叱正を俟つものである。

「三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)」平安時代の名刀工三条宗近(むねちか 生没年未詳)の通呼称。永延(九八七年~九八九年)頃、京都三条に住したと伝え三条小鍛冶。現存作は極めて少なく、御物の「宗近」銘の太刀と、「三条」銘の名物「三日月宗近」の太刀がよく知られる。ことに後者は室町以来、天下五剣の一つに挙げられており、細身で小切先、反りの高い太刀姿は日本刀の中では、最も古雅にして品格があるものと評される。因みに、能の「小鍛冶」で、白狐を相槌に、太刀を鍛える刀工は、この宗近である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「地獄道(ぢごくみち)」地獄谷(ここ(グーグル・マップ・データ))に向かうルートであろう。

「地藏堂」「和漢三才図会」では、「立山」の概説部の『○室堂』の条の中で、現在の「ミクリガ池」らしき『神池』の後に、

   *

地獄道追分地藏堂毎歳七月十五日夜胡蝶數多(アマタ)出遊於此原生靈市髙率塔婆(タカソトバ)無緣菩提

   *

とあり、後の「地獄谷」の項の下にも割注で『有地藏堂』とあるから、確実にこの地蔵堂は地獄谷の中にあると読める。万葉の昔より、蝶は虚空を舞う奇体なもの、魂のシンボルとされていたと思われる。また、花同様に死体に群がることもある点で、蝶は美しいものとしてよりも、古くは忌まわしいものとしての認識が強かったと推察される。因みに、以上の引用からも、沾涼が、性懲りもなく、またまた「和漢三才図会」を丸ごと引用していることが、よぅく判る

「精霊市(しやうりやういち)」「市」は意味有り気に群集することを指すのであろう。

「九品(くほん)」五箇所の地熱の高い温まれる場所(或いは名数として九箇所あったのかも知れない)を、仏教に於ける往生の仕方の階級様態(下品下・中・上生から上品上生に至る九階梯)である「九品往生」に擬えたのであろう。「雄山神社」公式サイト白鷹伝 立山開山縁起(略記)にも『阿弥陀如来と不動明王の二尊』の御告げの中に『我、濁世の衆生を救わんが為、十界をこの山に現し、幾千万年の劫初より山の開ける因縁を待てり。この立山は峰に九品の浄土を整え、谷に一百三十六地獄の形相を現し、因果の理法を証示せり』という一節が出る。

「行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也」それぞれの参詣登山をする者は、それぞれ自身の様子を見計らって、これらの各堂のどこかで、それまで身を助けた杖や草鞋を置いて山上の本社に参るのである。

『「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ)たり』「和漢三才図会」に、

   *

○地獄谷【有地藏堂】八大地獄【各有十六別處】共百三十六地獄血池【水色赤如ㇾ血】處處猛火(キヤウクハ)燃起(モヘタチ[やぶちゃん注:ママ。])罵言(メリ[やぶちゃん注:ママ。])號泣(ガウキウ)ノ如ク人潰(ツブ)ㇾ肝(キモ)劔(ツルキ)【山腰石塔不思儀石塔】岩石峙(ソバタ)鋒過刃(キツサキ)嶮岨不ㇾ可ㇾ言

   *

とある。沾涼、流石にマズいと思うたか、ちょこちょこっと言い方を変えているところが、セコいね。

「俗云、此山にして願へば、思ふ人の亡霊、影のごとくに見ゆる……」以下の話は沾涼のオリジナルか。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「江戸牛込」現在の東京都新宿区神楽坂周辺。

「禪定(ぜんぢやう)」この場合、一般には「修験道の行者が霊山に登ってする修行」を本来は指すのであるが、転じて、単に霊山の参詣登山を言っている。

「趣く」「赴く」。

「行(ゆき)くれて」下山が遅かったために、歩いているうちに日が暮れてしまい。

「同者衆」これは「同じ修験参詣のお方衆」という謂いではなく、恐らく「道者衆」のことと思われる立山では禅定登山には「道者衆(どうしゃしゅう)」と「参連衆(まいれんしゅう)」と二つの区別があったのである。こちらのむかしあったとぉ~(立山のちょっと昔の話) 道者衆と参連衆についてというページ(家が古くからの立山の「日光坊」という宿坊であった方の少年期の回想である)によれば、『宿坊に来られた人達は、道者衆と参連衆に分けることができました。宿坊の衆徒たちが、毎年各地の檀那場に出向き、立山曼荼羅を掛けて絵解き(解説)を行い』、『布教します。信者の方々が感動して』、『ぜひ』、『現地で体験したいと、少人数のグループで立山においでになります。この人達のことを道者衆(どうしゃしゅう)と言います』。『道者衆は、白装束で「立山禅定」と書かれた網代笠をつけ、布教を受けた衆徒の宿坊に』、『特別に村の講社の事務所を通さず』、『直接』、『宿泊ができます。子供の頃、父に「○○様お迎え」と書いた西洋紙をもらって』、『駅の待合室で電車を待ち、その紙をはにかみながら』、『顔の前に差し上げたことを覚えています。すると』、『向こうから「私です」と声がかかり、「お迎えに来ました」と先頭に立って、途中簡単な説明をしながら「ここが日光坊です」と、家まで案内しました。道者衆は、敷台(来客専用玄関)で草鞋を脱ぎ、足を洗って家に入り、衆徒と対面し、久しぶりの挨拶を交わします』。『一方、檀那場以外(担当布教地区外で師壇関係のない地区)から来られた人達を参連衆(まいれんしゅう)と言い、身につける衣類も』、『黒か紺の生地で、上着とズボン(タッツケ)に分けられ、笠も「立山登拝」と書かれた普通の笠をつけます。参連衆は、講社の事務所に宿泊を届け出、そこで指定された宿に行き、前の小川で足を洗って広間に入ります』。『食事は、道者衆が、宿代無料で』、『朱塗りのお椀とお膳でサービス付きであったのに、参連衆は、有料で』、『黒塗りのお椀とお膳でセルフサービスと接待の差があったことが脳裏に浮かんできます』とある。ここで、無賃で「食事、まゐらせん。」「と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す」のを、その通りに、「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」「と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしな」ったとあるのは、まさに「道者衆」ならではと思うのである。

「人倫」ここは単に「人間」の意。

「一七日〔ひとなぬか〕」「いつ(いち)しちにち」とも読む。初七日のこと。]

今朝方見た奇妙な夢――

 

教え子の女性の葬儀が、ある教会で行われる、という通知を受けて私は出かけようとする。
母は何故か、「行かない方がよい」と制止するのだったが、振り切って、出かけた。

外人のシスターが待っていた。
参列者は、何故か、私一人らしい。
シスターは、彼女は自死であったことを私に告げ、遺品一式――

何かが書かれた手札大の薄い木片のようなもの・私へ宛てた煌びやかな便箋一枚・赤ワイン一本・卵三個

の入った段ボールを渡し、礼拝堂へ案内した。
何人もの葬儀が行われており、彼女のそれはずっと後だということであった。

私は私宛の便箋を読んだ。それは遺書ではなく、彼女が何処か外国から私へ宛てて書いたものであって、記されたそれは聞いたことのない国名なのであった。しかし、添えられた絵はインドか東南アジアの、ヒンズー教か仏教の寺院らしい建物が、極彩色の色鉛筆で美事に描かれているのであった。内容は、それらの美しさと神秘性を私に伝える敬体の文章であり、如何にも旅を楽しんでいる便りなのであって、自死の気配は微塵もないのであった。

ただ、末尾に、
「そんな旅先で不思議なものを見つけました。先生に読み解いて貰えたらと思いい、同封します。」
とあるのであった。どうも今一つの遺品の木片様のものがそれであるらしい。手に取ると、それは木をごく薄く削いで圧縮した、人工の木製紙で出来ていた。

しかも、そこには何故か、漢字仮名混じりの古文が三行(五十字程であった)に亙って書かれていた。

「其時■■須■威出で給ひ……」で始まっていた。

[やぶちゃん注:本夢は私の夢の特異点で、その文字列を、覚醒した時には全文はっきりと覚えていたのであった。しかし、急速に記憶から消えてしまった。直ぐに書き取ればよかった。非常に残念である。]

私は彼女の葬儀が始まるまで、熱心に、それを現代語訳した。

[やぶちゃん注:覚醒時はその訳も確かに覚えていたのだが、これも忘れた。ただ、その内容は、まさに彼女の自死を予言する内容であったことは確言出来る。しかも今、これを書きながら(遅まきながら)、私にはこの木片は、例のインドにあるとされる「アガスティアの葉」であることが明確に理解された。紀元前三千年の昔に実在したとされるインドの聖者アガスティアの残した全人類各個人の情報(自身の過去・現在・未来)について全てが記されているという「木の葉」である。ネットを調べれば判るが、事実、ある、のである。但し、すこぶる怪しいものではある。しかし、正に木簡のようなものなのである(私は実際の朴のような大きな葉っぱに書かれているのだと思っていたが、今、調べてみたところが、例えばここでは、まさに木簡状であった)。]

彼女の葬儀が始まる。
やはり私一人なのであった。彼女の親族はいない(来ない?)らしい。
式を行うのは先のシスター一人であった。
祈禱を終えると、シスターが、遺体はこちらの墓地に埋葬する旨を語った後、
「遺品はどうなさいます?」
と訊ねてきた。
私が躊躇して黙っていると、
「こちらで貴方が天へ送られるのが、よろしいでしょう。」
と言い、礼拝堂の裏手へと導くのであった。
そこには霊安室のような、殺風景な部屋があった。

私はそこで、小さな釜の中にワインを流し込み、便箋と木片をそれに浸した上、三つの卵を、割り入れた。

ところが、三つ目の卵を割ると、そこからは黄色い色をしたアーモンド形の種子のようなものが出てきた。

 
私はそれらが、ぐつぐつと釜の中で煮られるのを

――凝っと

見つめていた…………
 

2018/06/22

「北條九代記」完遂への追記とお願い

本電子化注には足掛け五年半余りかかった。初期には本ブログのブラウザ機能では表記出来なかった漢字が、途中で表記出来るようになったり、私自身が最新のユニコードによる正字を使用するようになった(比較的最近。例えば「海」「僧」等)結果、初期の頃の電子化したものと、後期のものとでは、有意な漢字表記の差が生じていることはお断りしておく。また、サイト版は以前から申し上げている通り、「卷第三」以降は作成しないので、それ以降の部分で本文の誤り等を見出された方は、是非、御連絡戴きたい。よろしくお願い申し上げる。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 歌の写生的連作

 

     歌の写生的連作

 

 俳句の会は月二回ときまっていたが、歌の方はそうでなくなった。殊に四月以来『万葉集』輪講が企られるようになってからは、輪講に集った顔触だけで必ず歌を作ることになり、歌会は期せずして月二回になった。五月二十日の如きは、『万葉集』輪講のあとで「舟中作」十首を作ったところ、夜に入って俄に雨となったため、左千夫、茂春(もしゅん)、格堂、一五坊(いちごぼう)の諸氏は遂に子規庵に一泊した。翌日払暁、庭前を眺めて先ず雨中即景の歌を作り、更に興に乗じて煙十首を作った。従来短歌に限られていた歌会の作品が、長歌、旋頭歌に及んだのはこの時である。

 

  五月二十朝雨中庭前の松を見て作る

 松の葉の細き葉每に置く露の千露(ちつゆ)もゆらに玉もこぼれず

 松の葉の葉每に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

 綠立つ小松が枝にふる雨の雫こぼれて下草に落つ

 松の葉の葉さきを細み置く露のたまりもあへず白玉散るも

 靑松の橫はふ枝にふる雨に露の白玉ぬかぬ葉もなし

 もろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりし處白玉結ぶ

 玉松の松の葉每に置く露のまねくこぼれて雨ふりしきる

 庭中(にはなか)の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず

 若松の立枝(たちゑ)はひ枝(ゑ)の枝(ゑだ)每の葉每に置ける露のしげけく

 松の葉の葉なみにぬける白露はあこが腕輪の玉にかも似る

 

 この一連の歌は雨中庭前の風物の中で、その低い若松に注意を集中し、その松の中でも雨の雫が松の葉に玉を結ぶという一点に観察を注いだもので、そこに著しい特色がある。こういう観察の微細にわたったものは、居士の歌に見当らぬのみならず、在来の歌人の窺い知らぬ世界であった。

[やぶちゃん注:歌は「子規居士」で校訂した。後も同じ。

「茂春(もしゅん)」日本画家で歌人の桃澤如水(ももざわにょすい 明治六(一八七三)年~明治三九(一九〇六)年)。本名は桃澤重治(しげはる)で、画名を如水又は桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)と称した。ウィキの「桃澤如水」によれば、先『祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる』とし、『長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれ』、『桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった』とある。明治二一(一八八八)年、十五歳で『飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった』。しかし、二年後の明治二十三年四月、十七歳の時、上野で行われていた第三回『内国勧業博覧会を見ると偽って上京、そのまま橋本雅邦に師事し、同年』八『月東京美術学校(現東京芸術大学)絵画科に入学し、校長岡倉天心をはじめ雅邦の指導をうけた。同じクラスに結城素明、鋳金科に転科した香取秀真がい』た。一方、在学中には、『神田の夜学校大八洲学会に通い、国文学者黒川真頼について国文や和歌を学んだ。旧知の春草とは、夏休みに天竜川の船下りなどを共にした。在学中、短歌や雅楽、篆刻や剣舞、更に芝の白山道場で南隠禅師について禅を学んで居士号を得るなど』、『学業を殆ど放棄していたため、通常』五『年で卒業するところを』七『年かかって明治三〇(一八九七)年七月に、『ようやく美術学校を卒業した』。『如水は、また』、『早くより和歌に親しみ』、『多くの詠草がある。正岡子規に直接教えをうけ、伊藤左千夫、長塚節らと共に活躍した。子規没後、病の療養のため』、『三重県津市に移り、そこで一身田の真宗高田派総本山専修寺附属の教師兼舎監となって国文学を教えた。その間、曾我蕭白を研究し、伊勢地方に遺る蕭白の作品とその製作過程における逸話を収集して「日本美術」誌に論文を発表している。蕭白が語られる時、伊勢地方での作品は必ず言及されるが、如水の論文は伊勢地方と蕭白との関係を調査した最初の文献として高い評価を受けている』。しかし、『次第に病が悪化し』、『三重県桑名病院にて長逝した。享年』三十三。

「一五坊(いちごぼう)」新免一五坊(しんめんいちごぼう 明治一二(一八七九)年~昭和一六(一九四一)年)は教師で俳人。ウィキの「新免一五坊」によれば、『本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る』。『岡山県出身。小石川哲学館を卒業』。明治三一(一八九八)年の『夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。一五坊と同じ哲学館出身の子規門人として真言宗僧の和田性海(不可徳)がいる』。『一五坊は』、明治三十二年・明治三十三年の『正岡子規・伊藤左千夫の一五坊宛書簡の宛名に拠れば、東京日本橋数寄屋町(中央区日本橋)の長井医院に住』んでおり、『根岸派の新進歌人として活躍』、明治三十二年十月の『菊十句会では子規から幹事を任されて』おり、翌明治三十三年一月七日の『一月短歌会にも参加』している。『一五坊は幕末期の歌人・平賀元義の和歌が万葉調であることを、同郷の赤城格堂を通じて子規に伝え』、『このことは、子規の『墨汁一滴』において大きく取り上げられ』ることとなった(同作の「二月十四日」から「二月二十六日」部分。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本』初出切り貼り帖の画像のここから読める)。明治三四(一九〇一)年に『山梨県南都留郡明日見村(富士吉田市明日見)の永嶋医院に居住し、医学を学ぶ。この頃に父親を亡くしている。その後同郡谷村町(都留市谷村)へ移り、山梨において俳句会を指導する。山梨県は伊藤左千夫が長野県諏訪、静岡県沼津を並び活動の拠点とした地で、主に「馬酔木(あしび)」「アカネ」「アララギ」などの同人活動に加わった地元歌人が中心として活動を行った。一五坊は左千夫よりも入門が早く、また左千夫と面識のあった人物として』、『山梨における活動を主導した。山梨転居後も子規との交流も続き』、明治三五(一九〇二)年には『病床の子規に谷村のヤマメを届けており、子規は』「病牀六尺」の「九十九」(八月十九日)の中で、

 一、やまめ(川魚)三尾は甲州の一五坊より

なまよみの、かひのやまめは、ぬばたまの、夜ぶりのあみに、三つ入りぬ、その三つみなを、わにおくりこし

と長歌でもって謝意を表している(国立国会図書館デジタルコレクションの『日本』初出切り貼り帖(前のものとは別物(但し、作成者同一人と思われる)なので注意されたい)の画像のここをから読める)。視認子規はこの一ヶ月後、九月十九日に逝去した。『一五坊はその後』、『山梨を離れ、故郷岡山へ戻』って『結婚し、教員とな』った、とある。]

 

 この歌と相俟って注意すべきものは左の一連の作である。

 

   六月七日夜病牀卽事

 ほとゝぎす鳴くに首あげガラス戸の外面(とのも)を見ればよき月夜なり

 ガラス戸の外に据ゑたる鳥籠のブリキの屋根に月うつる見ゆ

 ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ

 ガラス戸の外の月夜をながむれどラムプの影のうつりて見えず

 紙をもてラムプおほへばガラス戸の外の月夜のあきらけく見ゆ

 淺き夜の月影淸み森をなす杉の木末の高き低き見ゆ

 夜の床に寐ながら見ゆるガラス戸の外あきらかに月更けわたる

 小庇(こびさし)にかくれて月の見えざるを一目を見んとゐざれど見えず

 照る月の位置かはりけん鳥籠の屋根に映りし影なくなりぬ

 月照す上野の森を見つゝあれば家ゆるがして汽車往き返る

 

 ほととぎすの声が聞えたので、首を上げてガラス戸の外を眺めることにはじまる月夜の風物の観察が、遺憾なくこの一連に収められている。ラムプの光がうつるため、ガラス戸の外が見えないので、紙でラムプを蔽うと、はじめて月下の物象が明(あきらか)に眼に入るという変化も面白いが、最初は見えていた月が何時の間にか庇に隠れてしまって、病牀で身をいざらせても眼に入らなくなり、鳥籠の屋根に映っていた月影もなくなったという時間的推移の窺われるのは更に面白い。われわれはこの一連の歌を読むことによって、その夜の病牀の空気を如実に感じ得るのである。文学における写生の主張が歌の上に現れたのは、固(もと)よりこれらの歌にはじまるわけではないが、十首をつらねて或(ある)場合の空気を髣髴するという行き方は、この辺に至って十分成功の域に達したもののように思われる。

 「『万葉集』輪講」は輪講そのままの筆記でなしに、別に居士の「『万葉集』を読む」となって『日本』に現れた。「文字語句の解釋は諸書にくはしければここにいはず。唯我思ふ所をいささか述べて教を乞はんとす」という態度を以てこれに臨んだので、学者的講説を離れ、どこまでも歌として見る。解釈者の側から見る歌でなしに、歌を詠む者の側から歌を見るということが大きな特色をなしている。「『万葉集』輪講」は九月まで引続き行われたが、「『万葉集』を読む」は前後四回『日本』に掲げられたに過ぎなかった。『歌よみに与ふる書』を提(ひっさげ)て起ってから三年目で、漸く著手した『万葉集』の細評が、欝幾何(いくばく)も進行せずに了ったのは、居士のみならず、歌界としても遺憾であったといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「『万葉集』を読む」は国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「竹里歌話 正岡子規歌論集」のこちらから読める。]

 

 「『万葉集』を読む」と前後して「短歌二句切(ぎり)の一種」「竹里歌話」など、歌に関する文章が『日本』に発表された。『日本』以外にも『心の華』『大帝国』『国力』などの如く、居士及(および)短歌会の人々の作品を載せる雑誌の出来たことも、何となく居士の身辺を賑(にぎやか)にした。前年あたりから地方に俳句雑誌の簇出(ぞくしゅつ)[やぶちゃん注:これは慣用読みで「そうしゆつ」が本当は正しい。「むらがり出ること」の意。]する傾向があり、居士も交渉がないではなかったけれども、新(あらた)に勃興せんとする過程にあっただけ、歌の方が活気に充ちていた。短歌会の顔触はそう増加したわけでもなかったが、長塚節(ながつかたかし)、安江秋水(やすえしゅうすい)、森田義郎(もりたぎろう)諸氏の如く、有力青年歌人の相次いで投じ来ったのも、活気を加えた所以であったろう。

[やぶちゃん注:「長塚節」(明治一二(一八七九)年~大正四(一九一五)年)は余りにも知られた歌人で小説家なれば、生年月日だけを示す(一応、ウィキの「長塚節」をリンクさせておく)。

「安江秋水」既出既注であるが、再掲しておく。生没年は確認出来なかった。歌人で『馬酔木』創刊時の編集同人であることのみ判った。

「森田義郎」(明治一一(一八七八)年~昭和一五(一九四〇)年)は歌人で国粋主義者。愛媛生まれ。本名は義良。国学院大学卒。明治三三(一九〇〇)年、根岸短歌会に参加し、『馬酔木』の創刊にも関わったが、意見の対立により、離脱。従来から関係していた『心の花』に移った。後、右翼の政治運動に加わり、日本主義歌人として活動した。万葉振りの作風で、論客としても知られた。著書に「短歌小梯」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める)など。]

 

 六月三日に岡麓(おかふもと)氏のところに園遊歌会があり、これに赴いたのが居士最後の外出であった。即事十首の代りに成った「歌玉(うただま)」の歌は、前の松の露やガラス戸の月夜とは全く異った種類のものであるが、一方に偏せざる居士の歌の世界を窺う上から看過すべからざるものであろう。「歌玉」の中に詠み込まれた歌人は、秀真、左千夫、格堂、巴子(はし)、麓、茂春、節、一五坊、不可得、潮音(ちょうおん)、三子(さんし)の十一人であるが、来会者は以上にとどまらなかったことと思われる。

[やぶちゃん注:「歌玉」の子規の詠草は「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」のこちらで読める。

「巴子(はし)」西田巴子(生没年不詳)子規門下。

「不可得」既出既注の兵庫県出身の真言宗の僧和田性海(しょうかい 明治一二(一八七九)年~昭和三七(一九六二)年)の雅号。

「潮音(ちょうおん)」柘植潮音(明治一〇(一八七七)年~?(確認出来なかったが、研究者がいるので不明ではあるまい))東京生まれ(元大垣藩主戸田氏共邸で生まれた。父が氏共の家令(執事)であったため)。名は惟一。明治二九(一八九六)年、第一高等学校に入学、句作を始める。この前年、明治三十二年に初めて子規庵を訪れて、入門、句会・短歌会に参加し、交遊を深めた。明治三四(一九〇一)年、故山大垣へ戻り、俳人として活躍。子規亡き後も、河東碧梧桐・長塚節・伊藤左千夫ら子規の門人であった人々が潮音を訪ねてきた、と文教ち 大垣平成二九二〇一七月号/PDFにある。

「三子」不詳。]

諸國里人談卷之三 燒山

 

    ○燒山(やけやま)

陸奧國南部領八戸にちかし。大畑(おほはた)といふより登る事、三里半也。此山、時として燒(やく)る事あり。よつて、しかいふ。爰(こゝ)に慈覺大師の作る所、一千体の石地藏あり。中尊は長(た)五尺あまり、他(た)は、みな、小佛なるによりて、人、これを取(とり)去りて、僅に殘りけるが、近きころ、圓空と云〔いふ〕僧あつて修補し、今、千体に滿(みち)たり。巓(いたゞき)に「地獄」といふ所あり。「三途川(さんづかは)」・「賽河原(さいのかはら)」、小石を以〔もつて〕塔を作る。「修羅道」は、地の面(おもて)、みな、石にして、凡(およそ)長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈。其石に血色(ちいろ)のごとくなるもの、散り染(そま)りたり。「劒(つるぎ)の山」は、石、悉く尖りて、刀鉾(とうほこ)を連(つらね)て比(なら)べたるがごとし。「藍屋(あいや)の地獄」・「酒屋(さかや)、麹屋(こふじや[やぶちゃん注:ママ。])の地獄」といふは、それぞれの色をあらはせり。【玆に「柏葉石」と云〔いふ〕あり。「石の部」に見〔みゆ〕。】

[やぶちゃん注:最後の割注で思い出されるであろう、これは先の「卷之二」の「㊂奇石部」に出た「柏葉石」で、ロケーションもそれと同じ恐山(及び曹洞宗釜臥山恐山菩提寺)である。まず、そちらの注を参照されたい。「慈覺大師」等はダブっては注さない。

 いや! しかし、である。それ以前(「この文章に対して大真面目にまともに注する以前」の謂いである)に、この文章は、その全体が沾涼のオリジナルではない。何故なら、とんでもなく(「呆れるほど」の含みを持つ)酷似した先行する文章が存在するからである。

 それは、私が水族・虫類・禽類などの電子化注を手掛けている例の、大坂の医師寺島良安が約三十年もの歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)に完成させ、大坂杏林堂から板行した百科事典「和漢三才図会」(全百五巻八十一冊)の地誌部の巻第六十五「陸奥」の中の、ズバリ、「燒山」である。本「諸国里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、「和漢三才図会」は三十一年も前の出版である。ともかく、その原文を見て戴くに若かず、だ。

   *

燒山   在南部領【自大畑登三里半許】

 此山不時有燒故名之 開基慈覺大師作千体石地

 藏中尊長五尺許其他小佛而人取去今僅存

 近頃有僧圓空者修補千体像

 商賈有竹内與兵衞者用唐銅作彌陀日藥師三像

 安之

 頂上有三塗川及塞河原層小石爲塔形又有一百三

[やぶちゃん注:「頂」は原典では「頂」の上に「山」がつく字体。]

 十六地獄而名修羅者地靣皆石而凡長二十五六丈

 幅五六丈其石靣如血色者散染亦一異也名劔山者

 滿山石悉有劔尖而如刀鉾然其余酒造家藍染家麹

 造家等之地獄皆現其色狀凡有硫黃山必火煙出温

 泉涌故自可謂地獄者有之殊當山與肥前溫泉嶽見

 人莫不驚歎【諸地獄詳于山類下】

 慈覺護摩執行時無莚席取檞葉敷石上于今其石方

 二丈許薄※而幅一寸長二寸半許形如檞葉而有文

[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。]

 理又當山有異鳥鳴聲如言佛法僧日光及高野亦有

 此鳥

○やぶちゃんの書き下し文(原典の訓点は完備していないので、一部の送り仮名は私が過去の同書の訓読経験に照らして妥当と推定されるもので補っている。〔 〕は私が同じ観点から補った読みである)

燒山(やけ〔やま〕)

南部領に在り。【大畑より登ること、三里半許り。】

此の山、不時〔ふじ〕に燒くること、有り。故に之れを名づく。

開基慈覺大師、千体の石地藏を作る。中尊、長〔た〕け五尺許り。其他は小佛にして、人、取り去りて、今、僅かに存す。

近頃、僧・圓空といふ者有りて、千体の像を修補す。

商賈〔しやうか〕[やぶちゃん注:商人(あきんど)。]竹の内與兵衞といふ者有り、唐銅(からかね)を用ひて、彌陀・大日・藥師の三像を作り、之れを安(を)く。

頂上に「三塗川(さうづがは)」及び「塞河原(さいの〔かはら〕)」有り。小石を層(かさ)ねて塔の形〔かた〕ちに爲〔な〕す。又、「一百三十六の地獄」有り。「修羅」と名〔なづ〕くる者は、地靣、皆、石にして、凡〔およそ〕長さ二十五、六丈、幅五、六丈。其の石の靣(おもて)、血の色のごとくなる者、散り染(そ)むも亦、一異なり。「劔(つるぎ)山」と名くる者は、滿山の石、悉く、劔-尖(とが)り有りて、刀-鉾(きつさき)のごとく然〔しか〕り。其の余、「酒造家(さかや)」・「藍染家(あをや)」・「麹造家(かうじや)」等の「地獄」、皆、其の色の狀〔かたち〕を現はす。凡そ硫黃〔いわう〕有る山は必ず、火煙、出でて、温泉、涌く。故、自〔おのづか〕ら、「地獄」と謂ひつべき者、之れ、有り。殊に當山と肥前の溫泉嶽(うんぜんのたけ)[やぶちゃん注:長崎の雲仙岳。]、見る人、驚歎せずといふこと莫〔な〕し【諸地獄は山類の下に詳らかなり。】。

慈覺、護摩執行〔しふぎやう〕の時、莚席(えんせき)無し。檞-葉(かしは)を取りて、石の上に敷く。今に、其の石、方二丈許り、薄く※[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。](へ)げて、幅一寸、長さ二寸半許り、形、檞〔かしは〕の葉のごとくにして文理〔もんり〕[やぶちゃん注:筋目。]有り。又、當山に異鳥有り。鳴く聲、「佛法僧」と言ふがごとし。日光及び高野にも亦、此の鳥、有ると云云(うんぬん)。

   *

どうであろう? これは正直、参考にしたという程度では、最早、ない。現代なら、良安から著作権侵害を訴えられるレベルである。しかも、これによって、先の「柏葉石」も結局、この「和漢三才図会」の記載の最後をお手軽に切り取って離して貼り付けたとしか言いようがない。引用元を示していればよかったものを、これははっきり言ってひどい(江戸の考証随筆ではちゃんと引用元の書名を記している筆者は実は結構いるのだ。江戸時代だからと言って好意的に甘く見るのはだめ!)。ひど過ぎるあきまへんて! 沾涼はん!!!

「大畑」青森県むつ市大畑町(おおはたまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中尊は長(た)五尺あまり」慈覚大師円仁は夢告によって恐山に来たって六尺三寸の地蔵菩薩を刻んだとされるが、それは現存しないようである。

「圓空」(寛永九(一六三二)年~元禄八(一六九五)年)江戸初期の僧侶で、私の偏愛する名仏師である。小学館「日本大百科全書」から引く。美濃国『竹ヶ鼻(岐阜県羽島市上中島町)に生まれた。若くして仏門に入り、天台僧として修験道』『を学んだともいうが、一宗一派にとらわれぬ自由な信仰の持ち主であったらしい。つねに諸国遍歴の旅を続け、その足跡は、北は北海道から、西は四国、中国にもわたっており、ほとんど日本全土に及んだかと思われる』元禄八年、『故郷美濃へ帰り、自ら中興した弥勒寺』近辺で同年七月十五日、六十四歳で没した。断食の上、土中に穴を掘って入り、即身成仏したと伝えられる。『彼をとくに有名にしたのはその造像で、一生に』十二『万体造像を発願したが、現在までに二千数百体が発見されている。大は名古屋荒子観音寺の』三・五『メートル余の仁王像、小は』二~三『センチメートルの木端(こっぱ)仏まで種々に及び、像種もさまざまである。丸木を四分、八分した楔(くさび)形の、荒く鑿(のみ)を入れただけの材からつくりあげることが多く、原材における制約をそのままに利用し、また鑿の痕(あと)をそのままに残すというように、大胆直截(ちょくせつ)な輪郭や線条で構成された彫像をつくりあげた。一見稚拙なようだが、当時のまったく形式化した作風の職業仏師たちの作に比し、熱烈な信仰の所産だけに、新鮮な魅力を備えており、激しく心を打つものがあって、現代にも通ずる素朴な美と力強さが認められる』。

 ちょっと脱線して円空について語りたい。

 彼の人生は必ずしも明らかでない。ただ、私は七歳で長良川の洪水によって母を失ったその心傷が、彼に仏体十二万彫琢の発願をさせたのだと深く信ずるものである。円空の彫った一部の女性的な仏体の表情やそのフォルムは明らかに慈母のイメージである。

 なお、彼が一所に永くは定住した痕跡がないのは、行脚修行以外に何か別な理由があったのではないかということも、彼に関心を持った学生の時以来、ずっと私の考えてきたことであった。

 例えば、まさにこの青森まで来た円空は、弘前藩から退去命令を受ける(これは、幕府の宗教政策によって寺を持たない僧侶の布教活動が禁止されていたから、と羽葉茶々氏のブログ「今日は何の日?徒然日記」の「多くの仏像を残した修業僧・円空」にはあるが、これは追放根拠としては私には承服出来ない)。これについては、滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」(PDFでダウン・ロード可能)によると、現存する「弘前藩庁日記」の寛文六年正月二十九日(一六六六年三月四日の条に(漢字を恣意的に正字化した)、『圓空と申僧壱人長町ニ罷有候處ニ御國ニ指置申間敷由被仰出候ニ付而其段申渡候所今廿六日ニ罷出、靑森へ罷越、松前ヘ參由』とあるものの、この追放と言うべき理由について滝尻氏も『その理由は記されていない』、『国に指し置きまじ由』『ということから』見て『尋常ではなかった』理由であったといった旨、言い添えられておられる。但し、その後で弘前藩の修験が当山派であったのに対し、円空は白山の本山派であり、円空が藩内で行った加持祈禱などがそうした地元の修験者に嫌われて讒言された可能性を示唆してはいる。

 ところが、それでおとなしく南に戻るわけでなく、逆に、上記の通り、当時は松前藩があった渡島半島一帯のごく一部以外は一般人の渡航が許されていなかった蝦夷地に(先の羽葉茶々氏のブログに拠る)アウトローに渡っているその強烈なパワーは、どこか、日常からことさらに離れようとする強い意志を感じてきたのである。それは仏教的厭離穢土などの末香臭い教説などとはまた別なものとして、である。なお、あまり知られていないが、或いは、円空は当時、業病として忌み嫌われ、不当に差別されていた(現在も実は変わらない)ハンセン病患者だったのではないかという説をかつて読み、私は個人的には非常に腑に落ちたものがあったことを言い添えておく。

 支線を辿り過ぎた。本線に帰って、恐山の円空に話を戻す。

 先に示した滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」では、まさに「和漢三才図会」の私が電子化した箇所の頭から商人竹内のところまでが現代語で紹介され、その後に、むつ市大畑の在地資料「原始漫筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)」(文化一〇(一八一三)年癸酉三月八日の条にも(漢字を恣意的に正字化し、一部のルビを排除した)、

   *

『寛文六年』(一六六六年)『圓空渡海有て円仁』(慈覚大師)『作物の損せし木像を模して九体を刻み安置』……『堂宇に多くの作佛は、實は圓空の作ならんか。鉈削りやうにて、わきて殊勝に』

   *

とあると記された後、『円空は海を渡って北海道有珠山の善光寺に寄宿した。そこで慈覚大師円仁の作仏したという仏像が破損していたことから、この仏像に似せて』九『体の仏像を彫ったという。その後、恐山にやって来た。地蔵堂に安置されている仏像は円空の作で、筆者村林源助は「わきて(とりわけ)殊勝(優れている)」と絶賛している』。『そして、円空来村の約』百『年後に下北を巡った紀行家菅江真澄は』紀行「牧の冬枯」の寛政四(一七九二)年『霜月朔日の条で』(同じく漢字を正字化した)、

   *

そもそも此のみやまは慈覺圓仁大師のひらき給ひて、本尊の地藏ぼさち』(菩薩)『を作給ひ、一字一石のほくゑ』(法華)『經をかいて、つか』(塚)『にこ』(込)『め給ひ』、『として今に在り。はた』、『惠心』[やぶちゃん注:平安中期の天台僧で浄土教の基本仏典「往生要集」の作者源信(げんしん)。]『の佛も、なかごろの圓空のつくりたるぶち』(佛)『ぼさち』(菩薩)『もある也』

   *

『と記している』とされる。その後、滝尻氏は、かつて、円空は『下北半島には立ち寄って』おらず、『円空は津軽から北海道に渡り、そのまま秋田経由で帰っており』、『下北地方には立ち寄っていない』、『いま確認されている円空仏は江戸時代の海運によって運ばれて来た』ものであって、『現在、下北に現存する古文書は偽書で、それを菅江真澄らは円空が来村したものと信じて疑わず、来村したの』だ、と『考えたこともあったが、これだけ地方文書が残っていれば、下北地方を巡錫したことは確かである。円空の足取りを探る記録はこれだけで、あとは残された仏像から知るより術(すべ)はない』と述べておられる。

 この滝尻氏の叙述からみて、残念ながら、現在の恐山には少なくとも円空が「修補し」た「千体」仏というのは残っていないものと思われる。

 但し、恐山菩提寺の院代(住職代理)の方のブログ「恐山あれこれ日記」の「恐山の円空仏」に、『恐山の開山堂に奉安してある円空和尚の作になる観音像』が写真附きで掲げられており(右側は拡大出来ない)、『左が十一面観音、右は腰掛けて片足を上げている、観音像ではあまり多くない半跏思惟像で』、『恐山のものは、研究では初期に属するとされ、鉈で叩き割って作ったのかいう感さえある後期の作品にくらべれば、仕上げは丁寧』であるとある。私は十七年前に恐山に行っているのであるが、哀しいことに、これを見た記憶がない。見なかったようである。

「長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈」長さ七十五メートル七十五センチ、幅十八強から二十一メートル二十一センチ。]

2018/06/21

北條九代記 卷第十二 相摸太郎邦時誅せらる 付 公家一統

 

      ○相摸太郎邦時誅せらる  公家一統

 

新田〔の〕小太郎義貞、鎌倉を攻干(せめほし)て、その威、遠近に輝く。東八國の諸將・諸侍、隨ひ屬(つ)く事、風に靡く草の如し。平氏恩顧の者共は降人(かうにん)になり、遁世すといへども、枝葉(しえふ)を枯(から)して殺さるる者、數知らず。五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)は、相摸〔の〕入道の重恩の侍にて、入道の嫡子相摸〔の〕太郎邦時は、宗繁が妹の腹の子なれば、甥(をひ)なり、主(しゆ)なり、何れに付けても、「貳心(ふたごゝを)あらじ」と深く賴みて、邦時を預けられけるを、「子細候はじ」と領掌(りやうじやう)して、鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ。平氏、滅亡して、その枝葉の殘りたるをば、皆搜し出(いだ)して誅しければ、宗繁、思ふやう、「果報、盡はてたる人を隱置(かくしお)きて、我が命を失はんよりは」とて、邦時は討手向ふ由を語り、「伊豆の御山(おやま)の方へ落ち給へ」とて、五月二十七日の夜半許(ばかり)に鎌倉を忍出(しのびいだ)し、中間(ちうげん)一人に太刀持(もた)せて、編笠・草鞋(わらんぢ)にて、足に任せて行き給ふ。宗繁は船田〔の〕入道が許(もと)に行きて、相模〔の〕太郎の訴人(そにん)を致しける。二十八日の曙に、相摸河の端(はた)に立ちて、渡し舟を待たれたり。討手の郎從、宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へけるに任せて、透間(すきま)なく、三騎まで走寄(はしりよつ)て、邦時を生捕(いけど)り、馬の乘せて、白晝に鎌倉に入れ、翌朝(よくてう)、竊(ひそか)に首を刎(は)ね奉りけり。宗繁は源氏に忠あるに似て、重恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし。因果歷然の道理は、踵(くびす)を囘(めぐ)らさず、と惡(にく)まぬ人は、なかりける。都には五月十二日、千種(ちくさの)忠顯・足利高氏・赤松圓心等(ら)、追々に早馬を立てて、六波羅滅却の由、船上(ふなのうへ)へ奏聞(そうもん)す。同二十三日、先帝、既に船上を御立ち有りて、山陰(さんいん)の東に催(うなが)されけり。播州書寫山より、兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)に入御ありけるに、新田義貞の早馬三騎、羽書(うしよ)を捧ぐ。相摸、沒落して、相摸〔の〕入道以下の一族、從類、不日(ふじつ)に追討し、東國靜謐(せいひつ)の由を注進す。主上を始め奉り、上下、喜悦の眉をぞ拓(ひら)き給ふ。楠多門兵衞正成、七千餘騎にて兵庫に參向し、是より、楠、前陣(せんぢん)として、六月五日の晩景に東寺まで臨幸あり。此所にて行列を立てられ、禁門にぞ入り給ひける。同七日に、菊池・小貳・大伴が早馬、同時に來り、「九國の探題英時を退治し、九州の朝敵、殘る所なく伐干(うちほ)し候」とぞ奏聞(そうもん)しける。束西南北一統して、公家の政道に皈(かへ)りけり。先帝重祚(てうそ)の後、「正慶の年號は廢帝(はいだい)の改元なり」とて捨られ、本(もと)の元弘にぞなされたる。同二年の夏、天下、賞罰・法令、悉く、公家の政(まつりごと)に出でしかば、諸方の流人を召返(めしかへ)され、諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し、太平の世とぞ響に成りにける。

 

  旹延寶三乙卯年冬吉旦

 

         書林

           梅林彌右衞門

 

鎌倉北條九代記卷第十二

 

[やぶちゃん注:最後の奥書部分は早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原典延宝三(一六七五)年板行本)こちらの画像で翻刻した。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十一巻頭の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎(相摸太郎を賺(すか)す)事」(「賺す」は「騙(だま)す」の意)、及び、「将軍記」巻五の「義貞」「廿七日」、及び、「日本王代一覧」巻六を元としているとある。本章を以って「北條九代記」は全篇が終わっている。私が「北條九代記」の電子化注を始めたのは、二〇一二年十月二十九日のことであったから、実に完遂に五年七ヶ月余りがかかったことになる。「和漢三才図会」のようなものを除き、単品の作品電子化注では今までは最も時間がかかった(しかもこれは教師を辞めてからの完全野人となってから仕儀である)。サイト版の作成を巻第一と巻第二で断念したが、残念な気はしていない(サイト版は誰からも讃辞は寄せられなかったし、その割にルビ付け作業が異様に大変だったこと、しかも理由不明(ソフトのバグと推定される)の突然の不具合によるルビ・タグ書き換えによる修正作業が死ぬほど辛かった(二日徹夜した)からである)。ともかくも最後に、最もお世話になった(特に「吾妻鑑」を元とした前半で)先の論文を書かれた湯浅佳子氏に改めて御礼を申し上げたい。また、ほぼ毎回、実に全二百五十四回の連載を読んで呉れた古い教え子にも心から感謝するものである。「ありがたう」。なお、標題の「公家一統」とは、本来の在り方であるべき朝廷・公家に政権が戻って天下が統一された、という謂いらしい。直に、武家に奪還されちゃうんだけどねぇ。

「相模太郎邦時」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。前章で既出既注

「平氏」平氏である北条氏。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。前章で既出既注

「子細候はじ」逐語的には「異議は御座らぬ」だが、まあ、「ご安心召されよ」「畏まって存ずる」の意。

「領掌(りやうじやう)」受諾。承知。

「鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ」「太平記」巻第十一の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎事」の「と領掌して、降人とぞなつたりける」という叙述を変質させている「太平記」のそれは、恐らく、宗繁は北条一党自害の前に、高時の懇請通り、東勝寺から邦時とともに鎌倉御府内のどこかに連れて行って隠した上で、自らは新田軍にわざと降伏した、というのである。それは、当初は邦時を今後、何とかもっと安全な所へ逃すための、自分がある程度は自由に動ける身にしておくための方途であったのであり、それは「情けな」い行為ではないのである。しかし、取り敢えず命は助かって、ある程度、身の自由な積極的投降者を演じながら、それとなく様子を見ていると、滅亡直後から厳しい北条の残党狩りが行われ、そうした者を新田軍に差し出した「捕手(とりて)は所領を預かり、隱せる者は忽ちに誅せらるる事多」(「太平記」の記載。次も同じ)きを見るにつけ、「五大院右衞門、これを見て、『いやいや果報盡き果てたる人を扶持(ふち)せんとて、たまたま遁れ得たる命を失はんよりは、この人の在所を知つたる由、源氏の兵(つはもの)に告ぐて、ふたごころなきところを顯はし、所領の一所をも安堵せばや』と思」ったからこそ、ここにある通り、「情な」くも、邦時を騙し、結局、新田義貞に密告するのである。そうした人の微妙な心の揺らぎを筆者は無視している。最後に至って、私はここを読んで、やや不快になった。多分、私が郷土鎌倉に強い愛着を持っていることと(私は荏柄天神の境内に生まれ、六地蔵の側で育った)、後醍醐が大嫌いなことと無縁ではあるまい。

「伊豆の御山(おやま)」現在の熱海市の伊豆山。伊豆山神社を中心に、頼朝が流人時代から崇敬していた伊豆山権現を祀り、その峻嶮な地勢と僧兵らを以って一つの勢力を形成していた。

「五月二十七日」既に見た通り、幕府滅亡は元弘三(一三三三)年五月二十二日である。

「船田〔の〕入道」。新田義貞の執事船田義昌(?~建武三(一三三六)年)。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、執事は『武家にあって、その家政に従事する者の長』とし、この船田は『群馬県山田・勢多(せた)両郡の地の豪族』で『義貞が去就に迷っていた時の相談相手になっていた』とある。後も義貞に仕え、義貞が足利軍に制圧された京都の奪還を目指した戦いの最中、戦死している。

「訴人(そにん)」ここは「訴え出ること」を指す。「太平記」は、

   *

五大院右衞門は、かやうにして、この人をば賺し出だしぬ。

『われと打つて出ださば、「年來(としごろ)、奉公の好(よしみ)を忘れたる者よ」と、人に指を差されつべし。便宜(びんぎ)好からんずる源氏の侍(さぶらひ)に討たせて、勳功を分けて知行せばや。』

と思ひければ、急ぎ、船田入道がもとに行きて、

「相摸の太郎殿の在所をこそ、くはしく聞き出でて候へ、他の勢を交へずして、打つて出でられ候はば、定めて勳功、異に候はんか。告げ申し候ふ忠には、一所懸命の地を安堵つかまつるやうに、御吹擧(ごすゐきよ)に預り候はん。」

と云ひければ、船田入道、心中には、

『惡(にく)き者の言ひやうかな。』

と思ひながら、

「まづ、子細非じ」

と約束して、五大院右衞門尉もろともに、相摸太郎の落ち行きける道をさへぎつてぞ待たせける。

   *

とある。ここで既に、船田でさえ、宗繁の欲絡みの慇懃無礼な物の言い方に不快を覚えている。しかし、ここまで来れば、まさに毒を喰らわば皿まで、である。以下、その辺の悲惨のリアルな映像を、ちゃんと見よう。

「討手の郎從」船田の郎等である。

『宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へける』「太平記」は、

   *

相摸太郎、道に相ひ待つ敵ありとも思ひ寄らず、五月二十八日曙に、殘ましげなる窶(やつ)れ姿にて、

『相摸河を渡らん。』

と、渡し守を待つて、岸の上に立ちたりけるを、五大院の右衞門、餘所(よそ)に立つて、

「あれこそ、すは、件(くだん)の人よ。」

と教へければ、船田が郎等三騎、馬より飛んで下り、透き間もなく、生け捕りたてまつる。

 にはかの事にて張輿(はりごし)なんどもなければ、馬に乗せ、舟の繩にて、したたかにこれをいましめ、中間二人(ににん)に馬の口を引かせて、白晝に鎌倉へ入れたてまつる。これを見聞く人ごとに、袖を絞らぬはなかりけり。この人、未だ幼稚の身なれば、何程(なにほど)の事かあるべけれども、朝敵の長男にておはすれば、

「さしおくべきにあらず。」

とて、則ち、翌日の曉(あかつき)、潛かに首を刎ねたてまつる。

   *

この処刑された時、「北条系図」では邦時は数え十五とするが、現在の推定される誕生日からは未だ満八歳であった。

「宗繁は源氏に忠あるに似て」宗繁は平氏北条を滅ぼしたる源氏(新田ら)に忠義を尽くしたかのように見えながら。

『恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし』「太平記」は前章の注で示した通り、

   *

年來(としごろ)の主(しゆ)を敵に討たせて、欲心に義を忘れたる五大院右衞門が心のほど、

「希有なり。」

「不道なり。」

と、見る人ごとに、爪彈(つまはじ)きをして憎みしかば、義貞、

「げにも。」

と聞き給ひて、

「これをも誅すべし。」

と、内々、その儀、定まりければ、宗繁、これを傳へ聞いて、ここかしこに隱れ行きけるが、梟惡(けうあく)の罪、身を譴(せ)めけるにや、三界廣しと雖も、一身を置くに所なく、故舊(こきう)と雖も、一飯を與ふる人無くして、遂に乞食(こつじき)の如くに成り果てて、道路の岐(ちまた)にして、飢死(うゑじ)にけるとぞ聞えし。

   *

と終わっている。

「踵(くびす)を囘(めぐ)らさず」踵(かかと)をくるっと回すほどの僅かの時間もない、の意で、ここは「瞬く間」の意。応報迅速であること。

「播州書寫山」現在の兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗書寫山圓教寺(えんぎょうじ)。、康保三(九六六)年に性空(しょうくう)が創建したと伝える。中世には比叡山・大山(だいせん)とともに、『天台宗の三大道場と称された巨刹で』あり、『京都から遠い地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』とウィキの「圓教寺にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)」現在の兵庫県神戸市兵庫区門口町にある臨済宗巨鼈山(こごうさん)福厳寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「福厳寺」によれば、『開創年代は不明。開山は仏僧国師約翁徳倹』。「摂津名所図会」に元弘三(一三三三)年五月『晦日に後醍醐天皇が』『京へ戻る途中に入り』、六『月朔日、大般若経を転読させたとある』。『赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎が』後醍醐をこの寺で『出迎えた』という。

「禁門」皇居。宮中。

「菊池」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、かの道長の長兄『藤原道隆の子孫、菊池二郎武時の息、武重か』とある。

「小貳」(読みは「せうに(しょうに)」)同前の山下氏の注によれば、『源平時代、藤原(武藤)頼兼が太宰少弐に任ぜられ』、『この地に土着したことから』、『これを称する。大友氏とともに鎮西奉行を世襲。貞経(法名妙慧(みょうえ))がその息頼尚(よりなお)とともに英時討伐に参加している』とある。

「大「大友」の誤り元鎌倉幕府鎮西奉行であった大友貞宗(さだむね ?~元弘三/正慶二(一三三四)年)。同前の山下氏の注によれば、『藤原秀郷(ひでさと)の子孫、親時(ちかとき)の息貞宗。鎮西奉行として、九州の御家人を支配した』とある。ウィキの「大友貞宗によれば、大友氏第六代当主。『「貞」の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる』。応長元(一三一一)年、『兄の貞親が死去したため、その後を継いで当主となる。幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時に仕えて』、元弘三/正慶二(一三三三)年三月、菊池武時が『後醍醐天皇の密命を受け』、『攻め寄せた』時には、『英時や少弐貞経らと』とも『敗死させ』ている。『その後も九州における討幕軍の追討に務めたが』、同年五月、『足利尊氏らによって京都の六波羅探題が攻略され、討幕軍優勢が九州にまで伝わると、貞宗は貞経や島津氏らと』ともに、『英時から離反し』、逆に『これを攻め滅ぼした。その功績により』、『豊後国の守護』『を与えられたが、同年十二月三日、『京都で急死した』。『その突然の死には、英時の亡霊による祟りという噂もあった』とある。

「九國の探題英時」北条(赤橋)英時(?~正慶二/元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日)。父は、北条長時の曾孫北条久時。幕府最後の執権となった北条守時の弟。既出既注

「先帝重祚(てうそ)」親後醍醐の筆者にしてこれは甚だ誤った言い方である。後醍醐は光厳天皇の皇位を全否定して、親政(建武の親政)を開始するのであって、後醍醐は、あくまで自身の譲位を認めていないのであり、溯る十五年前の文保二年二月二十六日(一三一八年三月二十九日)の即位からずっと継続して在位していると、この時、主張したのである。従って当然、自らの「重祚」(復位)という言い方自体を後醍醐は認めないのである。

「廢帝(はいだい)」光厳院。

「同二年」元弘三年の誤り

「諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し」旧幕府や親幕派公卿によって不当に官職を追われていた公家の方々は、それぞれ以前の官職に戻り。

「旹」「時」の異体字。「ときに」と訓じていよう。

「延寶三乙卯」「乙卯」は「きのとう」。グレゴリオ暦一六七五年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「初冬」陰暦十月の異称。

「吉旦」「吉日」。

「書林」書肆。出版元。

「梅林彌右衞門」京都の本屋であること以外は不明。]

北條九代記 卷第十二 新田義貞義兵を擧ぐ 付 鎌倉滅亡

 

      ○ 新田義貞義兵を擧ぐ  鎌倉滅亡

 

新田(につたの)太郎義貞は去ぬる三月十一日、先帝後醍醐の綸旨を賜はり、千劍破(ちはや)より虛病(きよびやう)して本國へ皈り、竊(ひそか)に一族を集めて、謀叛の計略を囘(めぐ)らさる。相摸〔の〕入道、舍弟四郎左近大夫泰家入道に、十萬餘騎を差副へて、京都へ上せらる。軍勢兵粮の爲とて、近國の莊園に臨時の夫役(ふやく)をぞ課(か)けらる。中にも新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)へ、「五日の中に六萬貫を沙汰すべし」と下知して譴責(けんせき)す。義貞、怒(いかつ)て使を討殺(うちころ)す。相撲入道、大に憤(いきどほり)て、武藏・上野の勢に仰せて、「新田太郎義貞、舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)を討つべし」と下知せらる。義貞、聞きて、當座の一族百五十騎、同五月八日に旗を擧げ、利根河に打出でしに、越後の一族里見・鳥山・田中・大井田の人々、二千餘騎にて來りたり。豫(かね)て内々相觸れける故なれば、甲・信兩國の源氏等、五千餘騎にて馳來る。東國の兵共、悉く來付(きたりつ)きて、その日の暮方には、二十萬七千餘騎にぞ成りにける。同九日、鎌倉より、金澤武藏守貞將に五萬餘騎を差し副へて、下河邊へ下され、櫻田治部〔の〕大輔貞國に六萬餘騎を副へて、入間河へ向けらる。同十一日より、軍、初り、鎌倉㔟、度々(たびたび)打負けて、利を失ふ。相摸入道、驚きて、四郎左近入道惠性(ゑしやう)を大將として、十萬餘騎を下さる。義貞、分倍(ぶんばい)の軍に打負け給ひしが、同十六日には鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す。東國の勢、新田に馳付く事、六十萬七千餘騎とぞ記しける。是より、三手に分けて鎌倉に押寄せて、藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘所に火を掛け、三方より攻入りけり。鎌倉にも、三手に分けて防がせらる。同十八日巳刻より合戰始り、互に命を限に攻戰ふ。萬人死して一人殘り、百陣破れて一陣になるとも、何(いつ)終(はつ)べき軍(いくさ)とも覺えす。今朝、洲崎へ向はれし赤橋相摸守は、數萬騎ありつる郎從も討たれ落散りて、僅に一、二百餘騎に成る。侍大將南條左衞門高直に向ひて仰せけるは、「この軍(いくさ)、敵、既に勝(かち)に乘るに似たり。盛時は足利殿には女性方の緣者たり。相摸人道も、その外の人々も、心を置き給ふらめ。我、何の面目かあらん」とて、腹切りて臥し給ふ。同志の侍九十餘人、同じ枕に自害しける。この手より、軍、破れて、義貞の官軍、山内まで入りにけり。すはや、敵は勝に乘りて、深く攻入りたりと云ふ程こそあれ。鎌倉勢諸手、皆、勢を失ひけり。極樂寺の切通へ向はれし大館(おほだちの)二郎宗氏は、本間(ほんまの)山城左衞門に討たれて、軍勢、片瀨へ引きけるを、義貞、二萬餘騎にて、同二十日の夜半に極樂寺坂にうち望む。稻村崎、道狹く、兵船を浮べ、櫓を搔きて、數萬の軍兵、防ぎけるが、鎌倉の運の盡(つく)る所、潮(うしほ)、俄に干瀉となり、二十餘町は平沙渺々たりし。漕浮(こぎうか)べし兵船は、潮に隨(したが)うて、遙の沖に漂へり。大將義貞、大に悦び、軍兵を進めらる。濱面(はまおもて)の在家に火を掛けたりければ、濱風に吹布(ふきしか)れ、二十餘所、同時に燃上る。相模〔の〕入道、千餘騎にて、葛西谷(かさいがやつ)に引籠(こも)られしかば、諸大將の兵共、東勝寺に充滿(みちみち)たり。大佛陸奧守貞直、三百餘騎にうちなされ、極樂寺の切通(きりどほし)にして、鎌倉殿の御屋形(やかた)に火の掛りしを見て、「今は是までなり」とて、郎從共は自害す。貞直は脇屋〔の〕義助の陣に蒐入(かけい)り、主從六十餘騎、皆、討たれ給ひけり。金澤武藏守貞將も、山〔の〕内の軍(いくさ)に手負ひければ、東勝寺に皈り、相摸〔の〕入道に暇乞ひし、大勢の中に掛入りて、討死せらる。普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)は、假粧坂(けはいざか)の軍に、二十餘騎に打なされて自害せられけり。鹽田陸奥入道道祐(だういう)、子息民舞〔の〕大輔俊時も自害し、鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)、子息三郎左衞門忠賴も腹切りて果てらる。相摸入道は諏訪(すはの)三郎盛高に向ひ、二男龜壽(かめじゆ)殿を預けらる。盛高、抱きて信濃に下り、諏訪〔の〕祝部(はふり)が本に隱置(かくしお)きけるが、建武元年の春、關東を劫略(ごふりやく)し、天下の大軍を起し、中前代(なかせんだい)の大將相模二郎と云ふは、是なり。嫡子萬壽殿をば、五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)、預りて、落行きたり。長崎〔の〕二郎高重、大剛武勇(だいがうぶよう)の名を現(あらは)し、東勝寺に立皈り、相摸〔の〕入道の前に來りて、「今は是迄候。早々(はやはや)御自害候へ。高重、先(さき)を仕る」とて腹切りて臥したり。長崎入道圓喜も死す。相摸入道も腹切り給へば、一族三十四人、惣じて門葉二百八十三人、皆、悉く自害して、屋形に火を掛けしかば、死骸は燒けて見えねども、殘る人は更になし。元弘三年五月二十二日、軍家北條九代の繁昌、一時(じ)に滅亡して、源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり。

[やぶちゃん注:遂にカタストロフがやってくる。但し、後醍醐の謀反以降の描写で判るように、筆者は平板な尊王年表的直線的記録の先端にぶら下がっている〈当然の終結展開の一事件〉としてしかこれを捉えておらず、修羅の鎌倉の惨状は、正直、呆れるほどにストイックにしてドライで、血の匂いもしない、パノラマ館の小さなジオラマのようにしか見えない。「平家物語」のような風情感懐的余韻を伴った文学的香気もなく、「太平記」のようなカット・バックを多用した講談的活劇の面白さも、一切、ない。真実、年代記として本書が書かれたものならば、それは寧ろ当然と言えるのであろうが、しかし、あの頼朝の奥州攻めでの、「吾妻鑑」を自在にマルチ・カメラに変えたリアリティに富んだ活劇性や、時頼を屋上屋で得宗の理想的権威者として塗りたくった狂信的パワーに比し、終盤、高時をテツテ的に愚昧な偏狂者として堕(だ)し、幕府滅亡の薄っぺらい罪状高札として掲げている辺り、残念乍ら、こと、ここに来たって、筆者の筆力の衰退或いは飽き性を物語っていると言えるように私は思う。特に「主上笠置御籠城 付 師賢登山 竝 楠旌を擧ぐ」以降の本文が、進むにつれて、恥も外聞もなく、「太平記」の〈貼り交ぜ日記〉調となっているのは誰が見ても明らかで、正直、ここまで電子化注を進めて来て、あと一章を残すのみ、という段になって、かなり、私は、内心の淋しさを感じざるを得ないのである。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十の二項目の「新田義貞謀叛事 付 天狗催越後勢(えちごぜいをもよほする)事」から「高時幷(ならびに)一門以下於東勝寺自害事」及び「将軍記」巻五の「同八日」、「保暦間記」や「日本王代一覧」を元としているとある。

「新田(につたの)太郎義貞」(正安三(一三〇一)年~延元三/暦応元(一三三八)年)の正式な名は源義貞。河内源氏義国流新田氏の本宗家八代目棟梁。新田朝氏の長男。以下、主に小学館「日本大百科全書」によって記す(但し、本シークエンス部分は、詳しいウィキの「新田義貞」から引く)。上野(こうずけ)国新田荘(しょう)(旧新田郡。現在の群馬県太田市・伊勢崎市・みどり市の各一部。郡域はウィキの「新田郡を参照されたい)を拠点とする豪族新田氏の惣領であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらも持たぬほどの、鎌倉幕府からは冷遇された一御家人に過ぎなかった。元弘の乱では「太平記」によれば、当初、幕府軍の一員として千早城攻撃に加わったが、その途中、帰国したとされる。ウィキの「新田義貞」によれば、『義貞は』鎌倉幕府『大番役として在京していたが』、『河内国で楠木正成の挙兵が起こると』、『幕府の動員命令に応じて、新田一族や里見氏、山名氏といった上野御家人らとともに河内へ正成討伐に向かい、 千早城の戦いで』『河内金剛山の搦手の攻撃に参加していたが』、この元弘三/正慶二(一三三三)年三月、『病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう』。ところが「太平記」では、この河内出兵中に、『義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している』のであるが、歴史学者『奥富敬之は、「護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい」、「文章の体裁が綸旨の形式ではない」などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない』。歴史学者山本隆志も、「太平記」の『記述にある義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している』。一方で、『義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる』。しかし、「太平記」には『後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はなく、綸旨の文章で書かれた令旨であったということになっている』とある。さて、ここで『義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使者との衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった』。『楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した』。同年四月、『新田荘には金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の淵名荘から赴いた』。『金沢と黒沼は「天役」を名目として』、六『万貫文もの軍資金をわずか』五『日の間という期限を設けて納入を迫ってきた』。『幕府がこれだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである』。『両者の行動はますます増長し、譴責の様相を呈してきたため、義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を笠に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で』、『世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で』は、『一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は』、『長年』、『世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった』。『また、長楽寺再建の完了時に幕府が楠木合戦の高額な軍資金を要求したことは、多額の再建費用を負担した義貞や世良田の住民にとっても許容しがたい行為であった』。『そのため、遂に義貞は憤激し、金沢を幽閉し、黒沼を斬り殺した』。『黒沼の首は世良田の宿に晒された。金沢は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると』、『幕府を刺激する』、『と義貞が懸念したとも考えられている』。『これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を、挙兵した日である』五月八日付で『長楽寺に寄進する文書を発給した』。『これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった』。『この文書が長楽寺にもたらされたのは義貞』が兵を進発させた『数日後であったと考えられている』とある(ウィキ引用はここまで)。ともかくも、こうして北条氏に背いて義貞は挙兵し、上野・越後に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら:現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら:現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、五月二十二日、鎌倉を攻め落とし、幕府を滅亡させたのであった。その功によって建武政権下では重用され、越後などの国司・武者所頭人、さらに昇進して左近衛中将などに任ぜられたが、やがて足利尊氏と激しく対立するようになり、建武二(一三三五)年、関東に下った尊氏を追撃するも、「箱根竹の下の合戦」で大敗、しかしその直後、上洛した尊氏を迎撃して「京都合戦」で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とした。延元元/建武三(一三三六)年、再挙した尊氏と摂津湊川・生田の森(現在の兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐天皇方は楠木正成らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金ヶ崎(えちぜんかながさき)城(現在の福井県敦賀市在)を拠点に再起を図ったが、翌年、これを失い、嫡男義顕(よしあき)も自刃した。その後、越前藤島(現在の福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉寺(へいせん)の衆徒の軍と合戦中、伏兵の急襲を受けて戦死した。義貞は、鎌倉攻めのために上野を出た後、遂に一度も故地上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義を中心に一族が纏まって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さも勿論だが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、僅かに弟脇屋義助(わきやよしすけ)・大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏ら、本宗系の庶子家しか動員し得なかった点に、既に義貞の非力さが存在した。にも拘らず、義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路を辿ることになったのであった。

「虛病(きよびやう)」仮病。

「舍弟四郎左近大夫泰家入道」北条泰家(?~ 建武二(一三三五)年?)。第九代執権北条貞時の四男で、第一四代執権北条高時相摸入道の同母弟。既出既注であるが、再掲しておく。ウィキの「北条泰家」によれば、『はじめ、相模四郎時利と号した』。正中三(一三二六)年、『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が』、『泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』。その後、翌年の二月に『南朝に呼応して信濃国麻績』(おみの)『御厨で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には建武』二『年末に野盗によって殺害されたとも言われて』おり、事実、「太平記」にも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。

「新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)」現在の群馬県太田市世良田町附近(グーグル・マップ・データ)。

「舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)」(嘉元三(一三〇五)年~興国三/康永元(一三四二)年)新田朝氏の次男で新田義貞の弟。ウィキの「脇屋義助」によれば、兄義貞に従い、『鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した』。『長じた後は脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから』、『名字を「脇屋」と称した』。『兄義貞が新田荘にて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵すると、関東近在の武家の援軍を受け』、『北条氏率いる幕府軍と戦う。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、上洛。諸将の論功行賞によって』、同年八月五日、『正五位下に叙位され、左衛門佐に任官した』。『また、同年、一時期、駿河守にも補任され、以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任した。また、この』頃に『設置された武者所では兄の義貞が頭人に補せられたのに伴い、義助も武者所の構成員となり、同所五番となった』。『その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した』。延元三/建武五(一三三八)年、『義貞が不慮の戦死を遂げると』、『越前国の宮方の指揮を引き継いだ。兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局室町幕府軍に敗れて越前から退いた』翌年九月には『従四位下に昇叙』している。興国三/康永元(一三四二)年、『中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡り、伊予の土居氏・得能氏を指導し、一時は勢力をふるったが、伊予国府で突如』、『発病し、そのまま病没した。享年』三十八であった。

「里見」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県群馬郡榛名町里見』(現在は高崎市上里見町)『の武士』で『新田の一族』とあり、『以下孰れも新田の一族』とする。

「鳥山」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県太田市鳥山の武士』とある。

「田中」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県新田郡新田町田中の武士』とある。現在は太田市内。

「大井田」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『新潟県十日町市の武士』とある。

「下河邊」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、利根川の『下流、埼玉県』北葛飾郡『の地の総称』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「櫻田治部〔の〕大輔貞國」北条(桜田)貞国(弘安一〇(一二八七)年?~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十一日)或いは同年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条氏一門。ウィキの「桜田貞国」によれば、『得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる』が、『その後の貞時・高時政権期の活動は不明である』。この時、『新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたった』『が、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れ』、『大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った』後、同月二十二日に『北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した』。『しかし、以上』は「太平記」に『見られるものであり、実際の史料ではそれより前の』、五月九日、『北条仲時らと共に』遙か離れた滋賀で『自害したとされる』。『いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである』とある。

「分倍(ぶんばい)の軍」五月十五日の一戦で「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」の第一次戦。分倍(ぶんばい)は現在の東京都府中市分梅(ぶばい)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。分倍河原(ぶばいがわら)はそこに含まれる。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)には、この日の敗退について、以下のようにある。幕府はこの前哨戦である小手指原及び久米川での幕府軍の『敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく』先に出た通り、『北条高時の弟北条泰家を大将とする』十『万の軍勢を派遣』して、『分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した』が、実は『義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた』。五月十五日、二日間の『休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始』したが、『援軍を得て』、『士気の高まっていた幕府軍に迎撃され、新田軍は堀兼(狭山市堀兼)まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き』、撤退している。『もし、幕府軍が』そのまま彼らを『追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている』。『しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した』とある。

「同十六日には、鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す」同第二次戦。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)によれば、前日に『敗走した義貞は、退却も検討していた』。『しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢』六千『騎で義貞に加勢した』。『大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した』もので、『また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている』とある。ともかくも、『義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる』ため、『忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌』十六『日早朝、義勝を先鋒として義貞は分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した』とある。

「藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘ケ所に火を掛け」「太平記」巻第十「鎌倉合戰〔の〕事」によれば、この「鎌倉合戦」緒戦を予告する狼煙ともいうべき包囲放火は「五月十八日の卯の刻」(午前六時前後)とする。

「三方より攻入りけり」北の巨福呂坂切通(現在の北鎌倉の山内(やまのうち)の建長寺門前から東山上を抜ける旧切通。現在は中間部が保存されておらず、通行も出来ない)・西中部からの化粧坂(けわいざか:洲崎・梶原を経て源氏山から扇ガ谷へ抜けるルート)・極楽寺坂(南西。稲村ヶ崎の要害で鎌倉合戦の最大の激戦地の一つ)の三方。

「同十八日巳刻より合戰始り」鎌倉幕府は、

元弘三年五月十八日から同月二十二日まで

の五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で

一三三三年六月三十日から七月四日

に当たる。因みに時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、

一三三三年七月八日から七月十二日

に相当する。「巳刻」は午前十時前後

「赤橋相摸守」最後の執権北条(赤橋)守時。

「南條左衞門高直」御内人であった武将南条左衛門尉高直(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)はサイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『南条氏は伊豆・南条を名字の地とする一族で、北条得宗被官(御内人)のうち重要な地位を占めたものと考えられている。得宗専制が強まるとともに幕府内で頭角を現したとみられ、「太平記」でも鎌倉末期の情勢の中で「南条」一族が何人か登場している。だが』、『その系図はまったく不明である』。『「太平記」で南条高直が初登場するのは巻二、二度目の討幕計画が発覚して逮捕された日野俊基が鎌倉に送られてきた時で、鎌倉に到着した俊基を受け取り、諏訪左衛門に預けさせた人物として「南条左衛門高直」の名が明記されている。なお、北条貞時の十三回忌法要』(元亨二(一三二二)年)『のなかに「南条左衛門入道」の名があるので、これが高直ではないかとする推測もある』。この鎌倉攻めの火蓋が切られた五月十八日、『執権・赤橋守時は巨福呂坂から洲崎(鎌倉北西部、山を越えた地域と思われる)へ出撃して新田軍と交戦、激戦の末に自害して果てた。「太平記」では自害の前に守時は南条高直を呼び寄せ、「妹が足利高氏の妻だから、高時どの以下、みな』、『私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と語った。守時の自害を見とどけた高直は「大将がすでにご自害された上は、士卒は誰のために命を惜しもうか。ではお供つかまつろう」と言ってただちに腹を切った。これを見て』、その場にあった九十『余名の兵たちも一斉に腹を切ったという』。『「梅松論」でも赤橋守時と同じ場所で命を落としたとして「南条左衛門尉」の名を挙げている』とある。本文の守時の述懐はその通りである。

「大館(おほだちの)二郎宗氏」(正応元(一二八八)年~正慶二/元弘三年五月十九日(一三三三年七月一日)は新田氏の支族の武将。ウィキの「大館宗氏」によれば、『祖父は新田政義、父は大舘家氏』。『鎌倉時代末期、岩松政経の代官である堯海と田嶋郷の用水を巡り』、『争論となり、控訴されて敗れる。この折りは『総領である新田家を無視し、大舘・岩松両家は幕府に直接裁定を申し出ている』。この時は『義兄弟にもあたる新田義貞を旗頭に、子息らや他の新田一族と共に鎌倉幕府に対し』、挙兵した。『宗氏は極楽寺切通しから突入する部隊の指揮を任され』、五月十八日、『稲村ヶ崎の海岸線から』『鎌倉市街突入を敢行しようとし』、一『度は北条軍を破って突破したが』、『大仏貞直が態勢を立て直すと』、『その配下の本間山城左衛門との戦闘で討死した』。「梅松論」に拠れば、同十八日『未明に稲村ヶ崎の海岸線から鎌倉にいったん進入するも、諏訪氏、長崎氏らの幕府方との戦闘となり、宗氏らは稲瀬川付近で戦死し、新田軍はいったん退却した、と記されている』。五月十八日を討ち死にの日とするのは「尊卑文脈」に『よるものだが』「太平記」は『死去の日時を』五月十九日としている。享年四十六。『宗氏の討死によって』、『この方面軍の指揮系統が消失したため、一旦』は『息子の氏明が軍を率いたが、宗氏討死の報を聞いた義貞が化粧坂方面を弟の脇屋義助に任せ』、二十一日に『極楽寺方面へ布陣してきたため、義貞が以降の指揮を取ることとなった』。『その後、義貞は防御の堅い極楽寺切通しの突破ではなく』、「梅松論」が『伝えるところの宗氏の突入と同じルート、すなわち稲村ヶ崎の海岸線から』二十一『日未明に鎌倉市街に突入したとされている』。『戦死した宗氏ら十一人は当初、御霊神社の付近に葬られ十一面観音が祭られたが、のちに改葬され、現在の稲村ヶ崎駅付近にある「十一人塚」に葬られているとされる』とある。

「本間(ほんまの)山城左衞門」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『村上源氏か』とある。日野資朝を処刑した佐渡守護「本間山城入道」の名が見えるが、彼は資朝処刑直後に死去しているとする系図資料があり、同一人物かどうかは不明。

「二十餘町」二十町は約二キロ百八十二メートル。

「平沙渺々」平らな砂浜が広々と広がるさま。

「濱面(はまおもて)」由比ヶ浜の正面。

「葛西谷(かさいがやつ)」現在の宝戒寺境内の南の、滑川(流域呼称は青砥川)を越えた東南の谷。山下に臨済宗青龍山東勝寺(北条泰時創建。この後、廃寺となり(次注参照)、現在は遺跡の一部の発掘後、埋め戻されて当該発掘地は平地(立入禁止)となっている)があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東勝寺」この時、建造物は焼失したが、直ちに再建されており、暫くは存続した。貫達人・川副武胤著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、『当寺がいつ廃したかは明らかではない。けれども永正九年(一五一二)五月二十日、古河公方足利政氏は妙徳を東勝寺住持に任じており(「東山文庫記録」)、この時まで存在していたことがわかる』とある。

「大佛陸奧守貞直」北条(大仏(おさらぎ))貞直(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は大仏流北条宗泰の子。ウィキの「北条貞直により引く。『得宗・北条貞時より偏諱を受けて貞直と名乗る』。『引付衆、引付頭人など要職を歴任して幕政に参与した』。元弘元(一三三一)年九月、貞直は『江馬越前入道(江馬時見)、金沢貞冬、足利高氏(のちの尊氏)らと共に大将軍として上洛し』、同月二十六日には『軍を率いて笠置に向けて進発し』、二『日後に攻め落とした(笠置山の戦い)』。十月の『赤坂城の戦いに勝利して戦功を挙げたことから、遠江・佐渡などの守護職を与えられ』ている。元弘二/正慶元(一三三二)年九月には、再び、『北条高時が派遣した上洛軍に加わり』、翌年二月から勃発した『千早城の戦いにも参加している』。『このとき、貞直は寄せ手の軍勢が大打撃を受けたことを見て、赤坂城攻めの経験から水攻め、兵糧攻めの策を講じている』。この時、『新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込んでくる(鎌倉の戦い)と』、『極楽寺口防衛の大将としてその迎撃に務め』、『新田軍の主将の一人である大館宗氏と戦い』一『度は突破を許したが』、『態勢を立て直して宗氏を討ち取り』、『堅守し』た。しかし、力及ばず、五月二十一日深夜、『攻防戦の要衝である霊山山から撤退するが、この時に残っていた兵力は』三百騎にまで減っていた。翌二十二日、『宗氏に代わって采配を取った脇屋義助(義貞の弟)の攻撃の前に遂に敗れて戦死した』。この時、『弟の宣政(のぶまさ)や子の顕秀(あきひで)らも共に戦死している』。彼は『武将としての能力だけでなく、和歌にも優れた教養人であったと伝わる』。『「太平記」でも北条一族の主要人物のひとりとして登場しており、鎌倉防衛戦においては巨福呂坂の守将・金沢貞将と共に最期の様子が描かれている』とある。

「金澤武藏守貞將」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。既出既注

「普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)」北条基時(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。普恩寺(ふおんじ)基時とも呼ぶ。「信忍」は法名。既出既注

「鹽田陸奥入道道祐(だういう)」北条(塩田)国時(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条一門の武士。ウィキの「北条国時」によれば、『父は極楽寺流の分流で塩田流の北条義政』(六波羅探題北方や連署を務めた北条重時(北条義時の三男)の五男。鎌倉幕府第六代連署(在任:文永一〇(一二七三)年~建治三(一二七七)年)。信濃国塩田荘に住したことから、義政から孫の俊時までの三代は塩田北条氏と呼ばれる)。徳治二(一三〇七)年、『二番引付頭人に就任』、応長元(一三一一)年、『一番引付頭人に就任』したが、二年後に辞任している。『元弘の乱における鎌倉幕府滅亡の際には鎌倉に駆けつけて宗家』北条氏『と運命を共にし、子の藤時・俊時らと共に自害した』。なお、元弘三(一三三三)年五月、『国時の子と見られる「陸奥六郎」が家人と共に籠城していた陸奥国安積郡佐々河城で宮方の攻撃を受けて落城している。また』建武二(一三三五)年八月一四日、『駿河国国府合戦では、国時の子と見られる「塩田陸奥八郎」が生け捕られている』とある。

「子息民舞〔の〕大輔俊時」(?~~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条国時の嫡男。ウィキの「北条俊時」によれば、元徳元(一三二九)年に『評定衆に任じられ、同』三年には『四番引付頭人に就任し』ている。「太平記」巻十「鹽田父子自害事」に『よると、父・国時の自害を促すため、自分の腹を掻き切り』、『自害して果て』ている。

「鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)」塩飽聖遠(しあくしょうえん/しょうおん ?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))は北条得宗家被官(御内人)。「太平記」の「鹽飽入道自害事」によれば、東勝寺で北条氏に殉じて、聖遠も自刃している。『自刃の際、嫡男である忠頼』(本文の「子息三郎左衞門忠賴」)『に出家をして生き延び』、『自身の弔いを促すも、忠頼は拒絶し』、『袖の下から抜いた刀で』、即座に『自害した。忠頼の弟である四郎も兄に続こうとするが』、『聖遠が制止し、自らの辞世の漢詩を書き付けた後、四郎に首を落とさせたと』ある(引用はウィキの「塩飽聖遠」)。この「太平記」の一章は短い章であるが、一読、忘れがたい

「諏訪(すはの)三郎盛高」「太平記」によれば、「諏訪左馬助入道が子息諏訪三郎盛高」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、この「諏訪(左馬助入道)」は『諏訪下社の神主家』とある。次注も参照されたい。

「二男龜壽(かめじゆ)殿」「中前代(なかせんだい)の大將相模二郎」北条高時の次男北条時行(?~正平八/文和二(一三五三)年)。当時は、兄(後注参照)の生年から考えると、満七歳以下である。以下、ウィキの「北条時行」から引く。この時、『時行は母』二位局『によって鎌倉から抜け出し、難を逃れていた。兄の邦時も鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣の五大院宗繁の裏切りによって新田方に捕らえられ』、『処刑されている』。『時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。時行を庇護した諏訪氏は代々諏訪大社の神官長を務めてきた家柄であり、頼重は時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていた』。幕府滅亡の二年後、『北条一族である北条泰家や鎌倉幕府の関係者達が北条氏の復興を図り、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立つ。泰家は得宗被官(御内人)の諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた』。「太平記」に『よれば、盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ』て『処刑された兄邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅し』、『二位局らを困惑させている隙に』、『時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後、二位局は悲観して入水自殺したという』。建武二(一三三五)年七月、『成長した時行は、後醍醐天皇による親政(建武の新政)に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった』。『建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し』、七月二十二日には女影原(おなかげはら:現在の埼玉県日高市)で『待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見(横浜市鶴見区)で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へ進軍』、『ついに尊氏の弟である足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破』って、七月二十五日に『鎌倉を奪回した』。その二日前、『直義は鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺害しているが、時行が前征夷大将軍である親王を擁立した場合には、宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった』。『鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか』という『議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった』。『直義と合流した尊氏は西進してくる時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび』に『破れ』、『退却を余儀なくされた』。『そして、ついには鎌倉にまで追い詰められ、時行軍は壊滅』、八月十九日に『諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら』四十三『人は勝長寿院で自害して果てた』。『自害した者達は皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと思われた』(事実は生き延びた)。『時行が鎌倉を占領していたのはわずか』二十『日ほどであるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に位置し、武家の府である鎌倉の一時的とはいえ』、『支配者となったことから、この時行らの軍事行動は「中先代の乱」と呼ばれる』。『また、この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与えるなどしたため、後醍醐天皇の勘気を被った。両者の亀裂は次第に深みを増してゆき、ついに尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり(延元の乱)、南北朝時代の幕開けとなった』。延元二(一三三七)年、時行は姿を現わし、『後醍醐天皇方の南朝に帰参し』て『勅免の綸旨を得ることに成功した』。『足利尊氏にとって、時行の挙兵は帝の疑心を招き、新田義貞や弟・直義との関係を悪化させるなどしたが、勝長寿院で自害したと思われていた時行が実は今だ生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を赦免され、南朝と結託したことは、さらに尊氏を驚かせた』。『時行が朝廷の許しを得るための交渉過程は詳しく判明していないが、後醍醐天皇より南朝への帰属を容認された上、父高時に対する朝敵恩赦の綸旨も受けている。時行による高時の朝敵撤回に関しては、後世に時行の子孫を自称した横井小楠から「この上ない親孝行である」と礼賛されている』。『時行が鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝、いわば仇敵と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだといわれるが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説もある。これに対し』、もともと、『時行は持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、中先代の乱後に上皇が足利尊氏と結んで持明院統を復活させる方針に転換し、尊氏と戦ってきた時行はこれを上皇の裏切り・切り捨てと解して、南朝と結んで尊氏と戦う道を選んだと解』する見解もある。『朝廷への帰参を果たした時行は、今度は南朝方の武将として各地で転戦した。時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を称揚した』。『南朝へ帰順した時行は東国へ向かい』、『北畠顕家の征西遠征軍に加わり、美濃青野原の戦いなどで足利軍と闘う。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた形の新田義貞と連携を取らず、足利方の諸軍との連戦で疲弊した末に和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。総大将の敗死により、北畠征西遠征軍は結果として瓦解してしまった』。『顕家が戦死したことにより』、『北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れし、今度は義貞の息子新田義興の軍勢に加わるなど、足利方に執拗に挑み続け』、正平七/文和元(千三百五十二)年には、『南朝方の北畠親房は北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる』。同年閏二月十五日には、『時行は新田義興・新田義宗、脇屋義治らとともに、上野国で挙兵し』、『また、同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵』、三日後の閏二月十八日、『時行や新田義興・脇屋義治らは三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉に入り占拠した(武蔵野合戦)』が、『別に戦っていた新田義宗が敗れて旗色が悪くなると』、三月二日に『鎌倉を脱出し、再び姿を晦ました。水面下でなおも尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていたとも伝わっている』。そして、「鶴岡社務録」などの『史料によれば、鎌倉を逃げた時行は遂に足利方に捕らえられ』、正平八(一三五三)年五月二十日、『鎌倉龍ノ口で処刑されたと伝わる。このとき、彼に付き従っていた長崎駿河四郎、工藤二郎も共に殺害された』とする。しかし、洞院公賢の日記「園太暦」や今川了俊の「難太平記」などに『よると、ここでも時行は脱走し、その行方を晦ましたとある。足利氏としては、未だ蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実をつくりたかったのであろう、とする説がある』。『以上のように』彼は『処刑されたことになっているが、時行の末路については、不明瞭な点が多い』とある。

「諏訪〔の〕祝部(はふり)」「太平記」では「はぶり」とルビする。諏訪神社の神官。

「建武元年」建武二年の誤り。一三三五年。

「劫略(ごふりやく)」古くは「こうりゃく」とも読んだ。脅して奪い取ること。

「嫡子萬壽殿」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。ウィキの「北条邦時」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は御内人五大院宗繁の妹(娘とする系図もある)』。『邦時の死後、中先代の乱を起こした北条時行は異母弟』。『元徳三年/元弘元年(一三三一年)十二月十五日に元服した時は七歳であり、逆算すると』、『生年は正中二年(一三二五年)となるが、同年十一月二十二日付の金沢貞顕の書状によれば、「太守御愛物」(高時の愛妾)である常葉前が同日暁、寅の刻に男子を生んだことが書かれており、貞顕が「若御前」と呼ぶこの男子がのちの邦時であったことが分かる。同書状では高時の母(大方殿・覚海円成)や正室の実家にあたる安達氏一門が御産所へ姿を現さなかったことも伝えており、嫡出子ではない(庶長子であった)邦時の誕生に不快を示したようである』。『翌三年(一三二六年、四月嘉暦に改元)三月十三日に高時が出家。その後継者として安達氏は高時の弟・泰家を推したが、泰家の執権就任を阻みたい長崎氏(円喜・高資など)によって邦時が後継者に推される。但し、当時の邦時は生後三カ月(数え年でも二歳)の幼児であって得宗の家督を継いだとしても』、『幕府の役職に就くことはできず、邦時成長までの中継ぎとして同月十六日に』、『長崎氏は連署であった貞顕を執権に就けるが、安達氏による貞顕暗殺の風聞が流れたこともあって貞顕は僅か十日で辞任(嘉暦の騒動)、代わって中継ぎの執権には赤橋守時が就任した』。『この後』、『元徳元年(一三二九年)の貞顕(法名崇顕)の書状には「太守禅閣嫡子若御前」とあって最終的に高時の後継者となったようであり、慣例に倣って七歳になった同三年(一三三一年)十二月に元服が行われた。儀式は幕府御所にて執り行われ、将軍・守邦親王の偏諱を受けて邦時と名乗った』。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月、 元弘の乱で新田義貞が鎌倉を攻めた際、邦時は父が自刃する前に伯父である五大院宗繁に託され』、鎌倉御府内に潜伏したが、『北条の残党狩りが進められる中で、宗繁が褒賞目当てに邦時を裏切ろうと考えた。邦時は宗繁に言いくるめられて別行動をとり、二十七日の夜半に鎌倉から伊豆山へと向かった。一方、宗繁がこれを新田軍の船田義昌に密告したため、二十八日の明け方に邦時は伊豆山へ向かう途上の相模川にて捕らえられてしまった。邦時はきつく縄で縛られて馬に乗せられ、白昼』、『鎌倉へ連行されたのち、翌二十九日の明け方に処刑された。享年』僅か九歳であった。『「太平記」では、連行される邦時の姿を見た人やそれを伝え聞いた人も、涙を流さなかった人はいなかった、と記している』。『ちなみに、宗繁は主君であり自身の肉親でもある邦時を売り飛ばし、死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され』、新田『義貞が処刑を決めたのち』、『辛くも逃亡したものの、誰一人として彼を助けようとはせず、時期は不明だが』、『餓死したと』される。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。「五大院高繁」とも呼ばれる。ウィキの「五大院宗繁」を一部、引いておく。元亨三(一三二三)年十月二十六日に『円覚寺で行われた九代執権北条貞時の十三回忌供養では禄役人の一人として名を連ねる』。『元弘の乱における幕府滅亡時に、妹婿である北条高時から嫡男の邦時(宗繁の甥にあたる)を託された』。「太平記」『巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によると、宗繁は高時から長年にわたり』、『恩を受けてきた人物であり、邦時を託される際に高時は「いかなる手段を使っても匿って守り抜き、時が来れば立ち上がって亡魂の恨みを和らげてほしい」と頼んだとされる』が、前の引用にあるようにそれを裏切って、邦時は処刑されてしまう。而して、先の通り、新田義貞の処刑命令を受けて逐電したが、『旧友らにも一椀の飯すら与えられず』、『見捨てられ、最期は乞食のようになり果てて』、『路傍で餓死したとされる』とある。

「長崎〔の〕二郎高重」(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)は北条氏得宗家被官(御内人)。かの最後の幕府の権力者、内管領長崎高資(長崎円喜の嫡男)の嫡男である。私には「太平記」の鎌倉合戦の中でも、最も忘れ難い、ヒップな武将である。同書巻第十の十四項目にある「長崎高重最期合戰〔の〕事」は途轍もなく凄い(「面白い」というよりも確かに「凄い」のである)。かなり長いが、私は七年前の二〇一一年十二月二十六日、私の新編鎌倉志卷之七の「崇壽寺舊跡」の条の注で、掟破りに全文電子化し、注と現代語訳まで附している。本「北條九代記」の鎌倉合戦の粗雑さを補うためにも、是非、お読みあれかし!!!

「源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり」言わずもがなであるが、北条氏は平氏であり、北条義時以降、その意のままに幕政が続いてきた。頼朝開幕以来、源氏を奉じてきた源氏を出自とする新田氏や足利氏らにとっては、まさに長年の「蟄懷」(ちっかい:心中の不満。潜在的な恨み)が、この一日(いちじつ)にして晴れたのである。]

2018/06/20

北條九代記 卷第十二 足利高氏上洛 付 六波羅沒落

 

      ○足利高氏上洛  六波羅沒落

 

鎌倉には、先帝宮方軍兵、駈付けて、京都を攻むべき由、聞きて、相摸〔の〕入道、評定有りて、名越尾張守を大將として、外樣の大名二十人を催さる。その中に、足利治部大輔高氏は父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て、しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず、上洛の催促、度々に及びしかば、心中に憤(いきどほり)を含み、『先帝の御味方に參り、六波羅を攻亡(せめほろぼ)さん』とぞ思立(おもひた)たれける。相摸入道、この事は思寄(おもひよ)らず、一日に兩度の催促をぞ致されたる。足利殿、異義に及ばず、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」と聞えしかば、長崎入道圓喜、怪(あやし)み思ひて、「相模入道に心を入れつゝ、起請文を書きて、別心なき旨、不審を散(さん)ぜらるべし」と申遣す。高氏、愈(いよいよ)欝胸(うつきよう)しながら、舍弟民部大輔直義(なほよし)に意見を問はれければ、直義、思案して、「御臺は赤橋殿の御娘なり。公達は御孫なれば、自然の事もあらんには、見捨て給ふべからず。又、その爲に郎從を殘置(のこしお)かれ、隱し奉るに難(かた)かるべからず。先(まづ)、相摸入道の不審を散じて、御上洛有りて、大義をも思召立ち給へかし」とあり。高氏、「實(げに)も」とて、子息千壽王殿と御臺とを赤橋相州に預け、起請文を相摸入道に參らせらる。相摸入道、不審を散じ、高氏を招請し、御先祖累代の白旗(しらはた)あり、錦の袋に入りながら參らせらる。足利殿兄弟・吉良・上杉・仁木(につき)・細川・今川以下の一族三十二人、高家(かうけ)の一類四十三人、その勢三千餘騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立ちて、名越尾張守高家に三日さきだちて、四月十六日に京著し、次の日、船上(ふなのうへ)へ潛(ひそか)に使を參らせ、綸旨をぞ賜りける。名越尾張守は、大手の大將として、七千六百餘騎、鳥羽の作道(つくりみち)より向はる。足利治部大輔高氏は搦手の大將として、五千餘騎、西郊(にしのをか)より向はれけり。八幡・山崎の官軍、是を聞きて、三手に分けて待掛けたり。尾張守高家、その出立(いでたち)、花(はなやか)に人目に立ちて見えけるが、官軍の中より、佐用(さよの)左衞門三郎範家とて、の精兵(せいびやう)、步立(かちだち)に成りて、畔(くろ)を傳ひ、籔(やぶ)を潛(くゞ)り、狙寄(ねらひよ)りて、一矢、射ければ、高家の甲(かぶと)の眞甲(まつかふ)の端(はづれ)、眉間の眞中に中(あた)りて、腦、碎け、骨、烈(さ)け、項(うなじ)へ、矢鋭(さき)、白く射出しける間(あひだ)、馬より落ちて、死に給ふ。官軍は鬨を作りて攻掛(せめかゝ)る。名越殿の七千餘騎、大將を討(うた)せて、狐河(きつねがは)より、鳥羽の邊迄、皆、伐干(うちほさ)れて臥(ふ)しにけり。足利殿は桂河の西の端に下居(おりゐ)て軍(いくさ)をも初(はじめ)ず、「大手の大將、討たれたり」と聞えしかば、「さらば」とて、山崎を外(よそ)に見て、丹波路を西へ、篠村(しのむら)を差して赴き給へば、軍兵、馳付きて、二萬三千餘騎になる。同五月七日、官軍、「既に攻べし」とて、三方に篝(かゞり)を焚きて取囘(とりまは)す。東山道一方計(ばかり)ぞ開(ひら)けたる。足利殿、篠村を出でて、右近馬揚(うこんのばゝ)に至り給へば、軍兵五萬餘騎に及べり。六波羅には六萬餘騎を三手に分けて差向けらる。赤松入道圓心は、三千餘騎にて、東寺に押寄せけるに、内野も東寺も軍に打負けて、皆、六波羅に逃籠(にげこも)る。四方の官軍、五萬餘騎、六波羅を圍みつ、態(わざ)と東一方をば、開(あ)けたり。城中、色めき立ちて、夜に紛れて落失せければ、僅に千騎にも足らざりけり。主上・上皇・國母・女院、皆、步跣(かちはだし)にて城を落出で給ふ。六波羅の南の方、左近將監時益、行幸の御前(みさき)、仕り、北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら、城を出でて、十四、五町にして、顧みれば、敵、早、六波羅の館に火を懸けて、雲煙と燒上(やきあが)る。苦集滅道(くすめぢ)の邊にして左近將監時益は、野伏(のぶし)の流矢に頸の骨を射られて死ければ、力なく、その日、漸(やうや)う篠原の宿に著き、是より千餘騎の軍兵、落ちて、七百騎にも足らず。龍駕(りうが)、已に番馬の峠を越(こゆ)る所に、數千の敵、峠に待掛けたり。後陣も續かねば、麓(ふもと)の辻堂に下居(おりゐ)て、進退此所に谷(きは)まりつゝ、越後守仲時、自害せらる。是を初として、佐々木隱岐前司淸高父子・高橋〔の〕九郎左衞門・隅田(すだの)源七左衞門を宗(むね)として、一族郎從、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切りにける。主上・上皇は、忙然としておはしましけるを、五〔の〕宮の爲に囚はれて、都へ皈(かへ)り上らせ給ふ。楠正成が籠りし千劍破(ちはや)の城の寄手、「六波羅、沒落す」と聞きて、南都を差して落行きけるが、野伏共(ども)に討たれて、大將計(ばかり)ぞ辛じて遁れける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第九の巻頭「足利殿御上洛〔の〕事」から、同巻の八項目「越後守仲時以下於番馬(ばんばにおいて)自害事」の拠るとする。

「先帝宮方軍兵」先の後醍醐天皇と護良親王方の軍兵。

「相摸〔の〕入道」元執権北条高時。

「名越尾張守」北条(名越)高家(?~元弘三年四月二十七日(一三三三年六月十日)。ウィキの「北条高家」によれば、名越流北条時家の子。『「尾張守」の官途名は文保元』(一三一七)年三月三十日付の関東御教書(みぎょうしょ:鎌倉幕府の発給文書の一つで、一般政務や裁判などの伝達を行った奉書形式のもの)に『おいて見られ、これ以前の任官であると考えられている』。嘉暦元(一三二六)年には『評定衆の一員となっている』。この四月、謀反鎮圧部隊として足利高氏(後の尊氏)ともに派遣されたが、「太平記」巻第九「山崎攻事付久家繩手合戰事」によれば、『久我畷(京都市伏見区)において、宮方の赤松則村、千種忠顕、結城親光らの軍勢と激突するが、赤松の一族で佐用城主の佐用範家に眉間を射抜かれ、あえなく戦死を遂げた(久我畷の戦い)』とし、「太平記」の描写によるならば、ここにある通り、『その余りに華美に過ぎるいでたちによって大将軍であることを敵に覚られ、集中的に攻撃を受けることとなった』結果ともされる。『没年齢は不明だが』、「太平記」には『気早の若武者』と記されていることから、二十代『前後と推定される』。『そもそも生誕年が分かっていないが、諱の「高」の字は』、『得宗の北条高時から一字拝領したものである』『ことから、元服の時期は高時が得宗の地位にあった』一三一一年から一三三三年の『間と推定できる』。「難太平記」に『よると、今川氏の祖である今川国氏の娘である妻との間に高範という遺児がおり、中先代の乱の際に伯父である今川頼国に保護されて養子となり』、『今川那古野家を名乗ったという。安土桃山時代の武将で歌舞伎の祖とされている名古屋山三郎はその子孫とされており、その末裔は加賀藩に仕えた』とある。

「足利治部大輔高氏」後の室町幕府の創設者で初代将軍となる足利尊氏(嘉元三(一三〇五)~延文三/正平一三(一三五八)年)の初名。源頼朝の同族の名門として鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流に生まれた。現在、生地は栃木の足利ではなく、母の実家丹波国何鹿(いかるが)郡八田郷上杉荘(現在の京都府綾部市)とされる。父は貞氏(因みに、貞氏の祖父頼氏は足利泰氏と北条時氏(第三代執権泰時の長男であったが、病気のために執権職を継がずに早世(二十八歳)した)の娘との間に出来た北条氏と足利氏のハイブリッドである。ここは私が補足した)、母は上杉清子。元応元(一三一九)年十月十日に十五歳で従五位下・治部大輔となり、同日、元服、得宗北条高時の偏諱を受けて、「高氏」と名乗ったとされる。十五歳での叙爵は北条氏であれば、得宗家や赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば、圧倒的に優遇されていたと言える(下線部はウィキの「足利尊氏に拠る)。妻は最後の執権北条守時の妹登子(とうし/なりこ 徳治元(一三〇六)年~正平二〇(一三六五)年:幕府滅亡時は数え二十八歳)。元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、高氏は天皇軍討伐の幕命を受けて上洛、事件が落着して、一旦、鎌倉に帰っている。後、この醍醐軍の再起によって、再び、出兵を命ぜられると、ここにある通り、丹波で、突如、反幕の旗を揚げ、京都の六波羅探題を急襲、殲滅した。その半月後、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐は京都に帰還して建武新政を開始し、高氏は討幕の殊勲者として天皇の諱である尊治の一字を与えられて「尊氏」と改名、高い官位と莫大な賞賜を得たばかりでなく、鎌倉に嫡子義詮(よしあきら)を留めて、関東制圧の拠点を固めた。後醍醐は尊氏に破格の待遇を与えた半面、その実力と声望を恐れて新政の中枢から遠ざけ、また、北畠顕家に愛児義良親王をつけて奥州に派遣し、関東の足利勢力を牽制しようとした。しかし、尊氏は直ちにこれに対抗、成良親王を鎌倉に下し、弟直義を以って輔佐せしめた。この間、新政の失敗が重なり、武士の輿望が尊氏に集まるにつれ、後醍醐と尊氏の対立が高まり、新政開始から僅か二年後の建武二(一三三五)年七月、北条氏残党の鎌倉侵入(中先代(なかせんだい)の乱:北条高時の遺児時行が御内人諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、ごく一時的(二十日余り)に鎌倉を支配したことから「中先代」と呼ばれる)を転機として尊氏は新たな幕府創建の志を明らかにし、後醍醐の制止を無視して鎌倉に下り、北条氏残党を掃蕩した。次いで、後醍醐の派遣した新田義貞を破って上洛したものの、奥州軍に敗れて九州に逃れ、再挙東上して後醍醐軍を追いつめ、後醍醐より持明院統の豊仁親王(光明天皇)への譲位という条件で後醍醐と和睦するとともに、建武式目を制定し、建武三(一三三六)年十一月、京都に新しい幕府を開いた。二年後、正式に征夷大将軍となっている。他方、後醍醐は吉野に走り、光明の皇位を否定し、尊氏打倒を諸国に呼びかけ、ここに吉野の南朝と京都の北朝の対立が始まる。 尊氏は幕府の運営に当たって、武士に対する支配権と軍事指揮権は自身で握り、裁判その他の政務は弟直義に委ねるという二頭政治を布いたが、この体制は直義を中心に結集する官僚派と、尊氏を頂く高師直ら武将派との対立をひき起こし、やがてはこれが尊氏と直義の対立に発展、さらに南朝が第三勢力として加わったために、直義が死んだ(尊氏による毒殺ともされる)後も、直義党は諸国で根強い反抗を続け、この間、南朝軍や直義党が三度も京都に侵入するなど、争乱は長期化・全国化の様相を呈した。尊氏は三度目の京都侵入軍を駆逐して畿内と周辺地域の鎮定を実現してから、三年後に、京都で病死した。死因は背中の癰(よう:悪性の腫れ物)であったが、晩年の五、六年は、たびたび大病を病み、往年の精彩は失われていた。尊氏は洞察・決断・機敏の才を兼ねた上、その信仰上の師夢窓疎石の評した如く、豪勇・慈悲心・無欲の三徳を備え、人間的魅力に溢れた人物ではあったという。以上は主要部分を「朝日日本歴史人物事典」に拠った。

「父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て」「太平記」に拠っているのであるが(「梅松論」も『今度は當將軍、淨妙寺殿』(「淨妙寺殿義觀」は貞氏の戒名)『逝去一兩日の中なり。未だ御佛事の御沙汰にも及ばず、御悲淚にたへかねさせ給ふおりふしに』(引用は所持する一九七五年現代思潮社刊「新撰 日本古典文庫 梅松論」から)とあるのであるが)、高氏の父貞氏は元弘元/元徳三年九月五日(一三三一年十月七日)で、本時制の二年も前で事実に反する。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『高氏寝返りの原因を高時の難題に求めようとする虚構か』と注されておられる。しかし、どうもこれは当時の素人が読んだとしても、おかしな話で、説得力が、ゼンゼン、ないと私は思う。武将ならば、武将であった父の喪の最中であれ、主君のために戦さに出て、武運を挙げてこそ、なんぼのもんじゃろ! 「しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず」だったのが本音だったんだってか? ところがね、山下氏も注しておられるんだが、「梅松論」には『高氏が当時』、『病に苦しめられていた事は見えない』んだよね。そもそもが、こんな感情的な理由で「心中に憤(いきどほり)を含」んだ上、しかも尊王思想があるわけでもなんでもなく、鎌倉幕府なんか裏切っちゃえ、濃ゆい縁戚の北条氏も亡ぼしちゃおっと、なんて考えたっていうのは、よほどイカれたアブナい男としか思えないんだけど! 「太平記」は言うに及ばず(そちらでは高氏が「俺は北条時政の末孫(ばつそん:末流の子孫)だぜ!? 何で、こんな戦さに行かにゃならんの? 訳判らん!」とかホザイテいる)これで納得してる、本「北條九代記」の筆者の気も知れねえな。寧ろ、先見の明があった高氏が、冷徹に諸状況を勘案して鎌倉幕府の滅亡をいち早く予期していたことを語った方がすっきりするぜ! これじゃ、第二次世界大戦前の「国賊尊氏」と大して変わらない佞人並みだんべ!

「足利殿、異義に及ばず」流石にここまで催促されたからには、異議を差し挟むことは最早せず、出兵を受諾した。ところが、と逆接で続く。しかし、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」というのは、あり得ません! 円喜! 「起請文」如きで、お目出度過ぎだっつう、の!

「相模入道に心を入れつゝ」高時様の御不審・御不安を配慮なさって。

「欝胸(うつきよう)」憂鬱。

「舍弟民部大輔直義(なほよし)」足利直義(ただよし/なおよし 徳治元(一三〇六)年~正平七/文和元年二(一三五二)年)は高氏の実弟で一つ違い。本「北條九代記」の注としては、兄の注で事足りるので、ウィキの「足利直義をリンクさせるに留める。悪しからず。

「赤橋殿」既出既注であるが、悲劇の武将(と私は感じる)なれば、再掲しておく。第六代執権北条長時の曾孫に当たり、第十六代、最後の幕府執権となった北条(赤橋)守時 (永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。

「公達は御孫なれば」御子息(千寿王。後の足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年:後、室町幕府第二代将軍。当時は未だ満三歳未満)は守時様の御甥子(「孫」はおかしい。或いは、赤橋流北条氏の「末孫(ばっそん)」の意で筆者は使ったものかも知れぬ)であられるので。

「自然の事もあらんには」事態が自然の成り行きとして大きく変ずるようなことがあっても。具体的には、ここでは狭義に未だ北条への謀反のニュアンスではあろう。

「その爲に郎從を殘置かれ、隱し奉るに難かるべからず」その万一の時のためにも、逆に配下の者どもを鎌倉に残しておかれれば、いざという事態が生じた折にも、御子息や御台所を安全にお隠し申し上げることは、決して難しいこととは思われませぬ。事実、高氏の妻登子と幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され、鎌倉を脱出、新田義貞の軍勢に保護されている

「吉良」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流』で、現在の『愛知県幡豆(はず)郡吉良町に住んだ』とある。

「上杉」同前の山下氏の注によれば、『藤原高藤(たかふじ)の子孫。足利氏の外戚で、高氏の母もその出身』とある。

「仁木(につき)」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市仁木町に住んだ』とある。

「細川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市細川町に住んだ』とある。

「今川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。三河の守護足利義氏の孫。国氏から今川を号した。西尾市今川町に住んだ』とある。

「高家(かうけ)」同前の山下氏の注によれば、『天武転王の皇子、草壁(くさかべの)皇子の子孫と称する高階(たかしな)氏』とある。

「名越尾張守高家」既注であるが、ここ、直前の「高家」(こうけ)とは関係ないので、注意されたい

「船上(ふなのうへ)」後醍醐の行在所である船上山。

「綸旨」討幕の綸旨(りんじ)。綸旨は蔵人が勅旨を受けて出す奉書形式の文書で、初見は万寿五 (千二十八) 年の後一条天皇のそれであるが、宣旨に代って多く用いられるようになり、特に南北朝時代には頻繁に用いられた。通常は薄墨紙(宿紙(しゅくし)。平安末期に反古 (ほご) 紙を漉き直して作った薄い鼠色の紙で,鎌倉時代以降に綸旨・宣旨 などを書くのに専ら用いられた) が用いられたが、白紙の場合もあった。

「鳥羽の作道(つくりみち)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『九条朱雀(すじゃく)の四塚(よつづか)から鳥羽までの道。京と西国とを結ぶ重要な道として平安遷都の際し』、『造られらので「作道」と言う。現在は残らない』とある。ウィキの「鳥羽作道(つ」によれば、『平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀方面に通じた古代道路』とあり、『平安遷都以前からの道とする説や鳥羽天皇が鳥羽殿が造営した際に築かれたとする説もあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられている』。「徒然草」に『おいて、重明親王が元良親王の元日の奏賀の声が太極殿から鳥羽作道まで響いたことを書き残した故事について記されているため、両親王が活躍していた』十『世紀前半には存在していたとされる(ただし、吉田兼好が見たとされる重明親王による元の文章が残っていないために疑問視する意見もある)』。『鳥羽殿造営後は平安京から鳥羽への街道として「鳥羽の西大路」(この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた)と呼ばれた。更に淀付近から淀川水運を利用して東は草津・南は奈良・西は難波方面に出る交通路として用いられたと考えられているが、その後の戦乱で荒廃し、現在では一部が旧大坂街道として残されているものの、多くの地域において経路の跡すら失われている』とある。以上のウィキの叙述に従うなら、この中央南北附近にあったものと思われる(グーグル・マップ・データ)

「西郊(にしのをか)」「太平記」では「西岡」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『賀茂川と桂(かつら)川が合流する羽束師(はつかし)の西南、淀(よど)の西方一帯を指す』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「八幡」現在の京都府八幡市の北西端であろう。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「山崎」既出既注。現在の京都府乙訓郡大山崎町附近(グーグル・マップ・データ)。八幡からは川筋を隔てた北西。

「佐用(さよの)左衞門三郎範家」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『赤松の一族で『赤松系図』によれば為範の息』子とある。

畔(くろ)」田の畦(あぜ)。

「籔(やぶ)」「藪」に同じ。

「眞甲(まつかふ)の端(はづれ)」兜(かぶと)の真正面のすぐ下。

「烈(さ)け」「裂け」。

大將を討(うた)せて」大将を討ち取られてしまって。

「狐河(きつねがは)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『山崎から八幡へ渡る渡し場。川の流れに変化があるので現在いずれとは定め難い』とある。腑に落ちた。実はネットの「太平記」の複数の現代語訳サイトでは、これを平然と、全くの方向違いである、現在の京都府京田辺市田辺狐川と注しているのだ。古文の誤訳ならまだしも、彼らは地名を考証する手間も惜しむどころか、現在の地図上で少しもそこを確認していないことが、よぅく判った。諸君も騙されぬように気をつけられたい。

「大手の大將」正面の討手の大将名越高家。

「山崎を外(よそ)に見て」合戦の場である山崎の方を遙かに見やったかと思うと、そこを北に大きく迂回して方向違いの丹波路を、と続くのである。

「篠村(しのむら)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『京都府亀岡市の東部、王子・森・浄法寺の辺』とある。この附近(グーグル・マップ・データ。山下氏の挙げる三つの地名はこの区域に現存する。確認済み)。

「既に攻べし」ターゲットは京の両六波羅探題。

「東山道一方」「太平記」では「東一方」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、本文で後に出る『苦集滅道(くすめじ)(六波羅から鳥部野の南を経て清閑寺(せいかんじ)方面へ通ずる道)方面への道』とある。これは渋谷(しぶたに)街道(渋谷通・渋谷越)とも呼び、東山を越えて洛中と山科を結ぶ京都市内の通りの一つであるから、ここは「ひがしやまみち」と読みたくなるが、筆者はやはり広義の「とうさんだう(とうさんどう)」と読んでいようこの国道一号線の部分ルートに近いであろう(グーグル・マップ・データ)。「苦集滅道」は本来は「くじふめつだう(くじゅうめつどう)」で仏教の根本教理を示す語で「四諦(したい)」を指す。「苦」は生・老・病・死の「苦しみ」を、「集」は苦の原因である迷いの心の「集積」を、「滅」は「苦」・「集」が「滅」した(取り払われた)悟りの境地を、「道」は悟りの境地に達する「道」としての修行を指すが、ここにそれが当てられたのは、ここが沢の水が絶えず、落ち葉なども多くあって、非常に滑り易い困難な通りであったことや、古えの葬送の地であった鳥部野との関連が私には想像される。

「右近馬揚(うこんのばゝ)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、内裏の『右近衛府の舎人(とねり)が馬術の練習をした所。西大宮大路の北端、北野神社の東南にあった』とあるから、この中央附近である(グーグル・マップ・データ)。

「内野」京都市上京区南西部の平安京大内裏のあった場所。個人ブログ「ミステリアスな日常」のこちらの地図で旧位置を確認されたい。

「主上」光厳天皇。

「上皇」後伏見院と花園院。

「國母」西園寺寧子(ねいし/やすこ 正応五(一二九二)年~正平一二(一三五七)年。後伏見上皇女御。光厳天皇及び後の光明天皇の実母。広義門院。

「女院」藤原実子(永仁五(一二九七)年~延文五/正平一五(一三六〇)年)は花園院の妃。正親町(おおぎまち)実明の娘。祖父の太政大臣洞院公守(とういんきんもり)の養女として花園天皇の後宮に入った。寿子内親王(徽安(きあん)門院)・源性入道親王・直仁親王・儀子内親王を生んだ。宣光門院。

「行幸の御前(みさき)」天皇以下の御皇族方のお出ましの先駆け。

「北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら」六波羅北探題であった北条仲時(既出既注)も、北の方(ここは奥方の意)との別れを悲しみながら。「太平記」には、このシークエンスが詳しく描かれている。

「十四、五町」一キロ五百二十八メートルから一キロ六百三十六メートル。

「野伏(のぶし)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『農民の武装したゲリラで、敵陣を奇襲したり、敗残の兵などを襲ったりした』とある。

「篠原の宿」同前の山下氏の注によれば、『伊賀健野洲(やす)郡野洲町篠原』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「龍駕(りうが)」「りようが(りょうが)」とも読む。天皇の乗り物を指す。

「番馬の峠」現在は滋賀県米原市番場にあった番場宿の位置と、北条仲時一門が自決した蓮花寺の位置から考えて、航空写真であろう(グーグル・マップ・データ)。

「宗(むね)として」中心に。

「忙然」「茫然」。

「五〔の〕宮」「太平記」もこうなっているが、これだと、後醍醐天皇の皇子で後の後村上天皇、当時の義良(のりよし/のりなが)親王を指すことになってしまうが(増淵氏の現代語訳も義良親王とするのであるが)、この当時、彼は満でも五歳の子どもで如何にもおかしい。調べたところ、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『「五宮」は誤り』とあり、神田本「太平記」に『傍記する「五辻ノ兵部卿親王宮」が正しい。五辻宮は、亀山天皇の皇子、守良親王。四品(しほん)兵部卿で法名覚静』とある。但し、この守良(「もりよし」と読んでおく)は生没年未詳で一応、講談社「日本人名大辞典」を見ると、鎌倉から南北朝時代の皇族で、亀山天皇の皇子とし、母は三条実任の娘。四品(しほん)・兵部卿。後に出家し、法名は覚浄。五辻宮(いつつじのみや)家(初代)と呼ばれたとあって、「太平記」に見える、この北条仲時ら六波羅勢を全滅させた官軍中の「先帝第五の宮」というのはこの守良親王と見られている、とあるばかりで、どうも注の最後なのに、すっきりしない。]

諸國里人談卷之三 妙義

 

    ○妙義

上野國妙義山は岩山にて、岑々(みねみね)、鋭(するど)に尖(とがり)て嵒々(がんがん)とし、鉾を立たるがごとく、樹木なく、たゞ繪にある唐(もろこし)の山に似たり。東の方、厩橋惣社(まへばしさうじや)の邊(へん)より此山を見れば、峰ちかき所に、眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也。土人(さとびとの)云〔いはく〕、「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」と云(いへ)。山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也。或(あるいは)云〔いはく〕、人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事にて、かく峙(そびへ)たる嶮山(けんさん)の滴(したゝり)にて育(そだ)人は、其心、極(きはめ)て劍(するど)也。又、京・奈良などの寬(ゆるやか)なる山の水にて養(やしなは)れたる人の心は、柔和(にうわ)なり。江戸、大坂などの曠野(くはうや)大河(たいが)の流(ながれ)を飮(のむ)人、心は至(いたつ)て廣しといふは、その理(ことわり)、なきにしもあらず。

 ふとん着て寐たるすがたやひがし山   嵐雪

都の山の悠(ゆう)なるすがたを、よく、いひ課(おほ)せたり。

[やぶちゃん注:これは本文の始まるページに「妙義山」とキャプションする挿絵がある(①)。妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に展開する日本三大奇景の一つとされ、赤城山・榛名山と合わせて上毛三山の一つに数えられる山である。ここ(グーグル・マップ・データ)。複数のピークから成るが、最高峰は表妙義の稜線上にある相馬岳で標高千百三・八メートルである(但し、妙義山系全体の最高峰は裏妙義の谷急山(やきゅうやま)で千百六十二・一メートル)。私は登ったことはないが、車窓から見るその山容を、殊の外、愛するものである。私は、また、妙義というと芥川龍之介の「侏儒の言葉――病牀雜記――」(大正一四(一九二五)年十月発行『文藝春秋』初出。リンク先は私の古い注附き電子テクスト。なお、本作は単行本「侏儒の言葉」には収録されていない「侏儒の言葉」である)の一節(『九』)、『室生犀星、碓氷山上よりつらなる妙義の崔嵬たるを望んで曰、「妙義山と言ふ山は生姜に似てゐるね。」』という絶妙な犀星の評言を思い出すのを常としている(「崔嵬」:「さいくわい(さいかい)」と読み、山の様子が岩や石でごろごろしていて険しいさまを言う語である。また、これは、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、大正一四(一九二五)年八月二十三日に避暑に赴いていた軽井沢にて堀辰雄と三人して碓氷峠に登った折りのことされる)。

「岑々(みねみね)」「峰々」。

「嵒々(がんがん)」「嵒」は「岩石・大石・ごつごつして堅い岩」の他に、「山の嶮しいさま」を言う語である。

「厩橋惣社(まへばしさうじや)」「厩橋(まへばし)」は「厩橋(まやばし)」とも読む。平凡社「マイペディア」によれば、上野国の中央の利根川左岸の群馬郡の古地名で、無論、元は「うまやばし」であったものが、「う」が脱落して「まやばし」となり、さらに江戸初期に「まへばし」「前橋」と記されるようになって定着し、現在の群馬県前橋市の名に引き継がれたとする。この古称は東山(とうさん)道群馬駅(くるまのえき)近くにあった川(利根川の前身)に架けられていた橋の名に基づくともされる。戦国時代には厩橋城(前橋城)が築かれ、上杉謙信・武田信玄・北条氏康らが関東の支配権を巡って争った際の拠点の一つとなったとある。従がって、この「厩橋惣社」とは、現在の前橋市元総社町にある上野総社神社(こうずけそうじゃじんじゃ)のことである(ここ(グーグル・マップ・データ))。妙義山は西南西二十八キロほどの位置になる。

「眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也」「山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也」これを読むと、沾涼は穴は実際には存在せず、岩の形状と形状、ハングしたものが距離を隔てて、たまたま重なりあった結果として、ある方向から見ると(「ふりによつて」の「ふり」とは「方位や角度をずらすこと・ずれていること・振(ぶ)れ」の意であろう)、穴が開いているように一見見えるだけであると言っているのであるが、調べてみると、この穴は、実際に、ある「国際山岳ガイド タナハシ TANA-アルパインガイドオフィス」のこのページの「表妙義縦走」の次の「妙義山 星穴岳」を見られたい。そこに『星穴伝説』として『その昔、百合若大臣が今の横川から妙義山に向かって放った矢が、みごとに射抜いたという“射ぬき穴”』及び『そのお供の男がお結びを力いっぱい投げつけて開いたという“むすび穴”』があり、『横川には百合若大臣の足跡と言われている石がある』とし、これは『星穴岳に強弓を射った折り、踏んでいた石が凹んだ』ものと伝え(サイト「バーチャル中山道で、当該の「百合若足跡石」が見られる。なお、後注も参照のこと)、さらに『妙義神社には鉄の弓と矢が奉納されている』とあって、『右がむすび穴、左が射ぬき穴』というキャプションを持った、麓から撮った崖に確かに二箇所の穴の開いた絶壁の写真がある。以下、ロック・クライミングで実際にその穴へ向かう写真が続き、「射ぬき穴」に現着。穴は横幅約二メートル、高さ三メートルほど。その「射ぬき穴」から「むすび穴」へは、「射ぬき穴」南側にある垂壁を四十メートルほど懸垂下降して到達、「むすび穴」の方は横幅十メートル高さ十メートルと、かなりの大きさがあって、『穴から北側を覗くと』、『表妙義の峰々が眺めます』とある。別にサイト日本の奇岩景+」の「穴」でも、より大きな画像で、この巨大な「むすび穴」が見られる(右に人が立っているのでスケールがよく判る)。さても、この挿絵にある丸い穴は想像図に過ぎぬのであろうが、私はこの「むすび穴」こそ、その穴であろうと思う。但し、この穴が前橋から見えるかどうかと言えば、それはちょっと無理だろうかとは思う。

「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」「百合若大臣」は室町後期に形成されたと思しい貴種流離譚の伝説上・語物上の英雄「百合若」のこと。小学館「日本大百科全書」によれば、幸若や説経で「百合若大臣」として呼称されて活躍し、後に浄瑠璃・歌舞伎は勿論、地方の踊り歌にまで脚色された。主たる伝承では、嵯峨天皇の治世(天皇在位:大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年)、長谷観音の申し子として生まれた百合若は、蒙古襲来に出陣し、大勝するが、帰途、玄海の孤島で一休みしている間に、家臣の別府兄弟の悪計で置き去りにされてしまう。兄弟は帰国後、百合若の死を告げ、九州の国司となるが、百合若の形見に残した緑丸という鷹が孤島にきて、妻との連絡もつき、孤島に漂着した釣り人の舟によって帰国し、別府兄弟を成敗して、宇佐八幡宮を修造して日本国の将軍となるというトンデモ話である。この伝説は、本来、山口県以南に分布していて、九州を本貫(ほんがん)とする説話が諸芸能によって全国に分布するようになったものと思われている。伝説には諸種あって、例えば、百合若の足跡石という巨石を伝えたり、別称ダイダラボウシの名をもって祀られた百合若塚などもある。何れも、巨人伝説を踏襲するものであり、その他にも、緑丸の遺跡という鷹に関したものも多く、鷹を神使とする民俗の参与が考えられるという。また、壱岐島には「いちじょー」という巫女が、祭りの神楽として語る「百合若説経」と称するものがあり、これは五十センチほどの竹二本を、黒塗りの弓と「ユリ」という曲物(まげもの)を置いて、それを、叩きながら行うもので、病人祈禱の際にも同じことをする。「百合若」以外の話も語ったらしいが、今は他に残っていない。筋も他の百合若伝説とほぼ同様で、桃の中から生まれたり、壱岐島の鬼を退治したり、桃太郎の話との混交はあるが、宇佐八幡と柞原(ゆすはら)八幡の本地(ほんじ)物となっている。百合若説話の成立には、宇佐の海人(あま)部の伝承と八幡信仰との関係で民俗学的に注目されている、とある。なお、百合若とダイダラボッチについては、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛の本文及び私の注も是非、参照されたい

「或(あるいは)云〔いはく〕……」以下、妙義山から離れてしまい、山水の人格形成に与える何だかなの影響論へと語りが致命的にズレていってしまうのは残念である。しっかり妙義山を語れよ、沾涼さん、よ!!!

「人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事」個人の「人」の「身の上」の「事」柄を「自(みづから)と」呼称するのは、「みづから」=「水柄(みづから)」=「みづがら」で、水=山水(さんすい)の質によって、その人の人「柄」=性質は決定されるという「事」を指す、と謂いたいのであろう。

「峙(そびへ)たる」「峙」は「そばだつ」と訓じ、これは「聳つ」とも書き(「聳」は「そびえる」とも訓ずる)、元は「稜(そば)立つ」の意であて、山や峰が、角張って一際高く目立って嶮(けわ)しく屹立する、聳(そび)えるの意である。

「嶮山(けんさん)の滴(したゝり)」峻嶮なる山岳の齎すところの水。

「ふとん着て寐たるすがたやひがし山」「蕉門十哲」の一人である服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:江戸生まれ。名は治助(はるすけ)。武士から俳諧の宗匠となり、穏健な俳風で、江戸俳壇を其角と二分した)の代表的な句の一つで、京風物句としも人口に膾炙している一句である。句集「枕屛風」所収。

   東山晩望

 蒲團着て寐たる姿や東山

堀切実氏は(一九八九年岩波文庫刊「蕉門名家句選(上)」)、『おそらく元禄七』(一六九四)年冬、師芭蕉の『死の直後に京へ出た時の見聞による吟であろう』とされる。――ほう。なるほど。とすれば、この寝姿には芭蕉涅槃図の影があるのかも知れぬ――

「いひ課(おほ)せたり」「おほせる(おおせる)」は「果せる」或いは「遂せる」が一般的。「言いおおせる」で「美事に句として謂い遂せている」「すっかり表現し尽くしている」の意。]

2018/06/19

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 金線魚 糸ヨリ鯛 (イトヨリダイ)

 

金線魚 此名出閩書

 糸ヨリ鯛

 

Kiitoyoridai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。これはもう、尾鰭上端の糸状に伸びた特異点と、ややくすんでいるものの、体側表面の黄色筋状の模様から(「金線魚」という異名は実は尾の旒状部分に由来するのではなく、恐らくは泳いでいる際、この縦縞模様が金糸を織ったように美しく見えるからである)、

スズキ目スズキ亜目イトヨリダイ科イトヨリダイ属イトヨリダイ Nemipterus virgatus

に同定して間違いない。とても美しい魚である。是非、WEB魚図鑑」の「イトヨリダイ」の画像群を見られたい。

「此名出閩書」は『此の名、「閩書(びんしよ)」に出づ』で、「閩書」とは明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌「閩書南産志」のこと。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 アカサギ (アカイサキ)

 

アカサギ

 

Akazagi

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。これは正直、同定したくなくなるほど、丹洲にしては絵が拙い。全体の形状と「アカサギ」という名称から、何となく、何とはなしにイサキ(スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ亜科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum)っぽいものが臭ってくること、背鰭の棘条部の先端を有意に黒くしようとした跡が窺えることなどが、せめてもの特徴か。「真っ赤なイサキはいねえしなぁ」と思いながら調べてみると、いや! いるんだよ! 「アカイサキ」が!

スズキ目スズキ亜目ハタ科ハナダイ亜科アカイサキ属アカイサキ Caprodon schlegelii

だ。しかも、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「アカイサキ」を見ると、神奈川県三崎での呼び名に「アカイサギ」(「赤伊佐磯」で「伊佐磯」は「イサキ」のことである)があると書かれている。さらに「アカイッサキ」「アカイセギ」もあるとある。こうなると、これ、「アカサギ」への転訛は、もう半歩だ! WEB魚図鑑」の「アカイサキ」を見ると、『胸鰭が長い。尾鰭は湾入しない。雄の体側には黄色斑が多数あ』り、『眼の周辺に黄色線がある』が、『雌は赤みを帯びる。雄の背鰭棘部には黒色斑が』一『つある。雌には数個の黒色斑が背鰭から体側の背部にかけてある』とある。本図の胸鰭は長い。尾鰭の湾入は「WEB魚図鑑」の多数の画像を見ると、本図と同じものはある。本図がアカイサキのならば全体の赤い色は納得出来る(例えば写真と図を比較されたい)。また、解説にある通り、同種は背鰭の棘条部の先の方の間膜が有意に黒くなっている個体が見受けられ、これは本図の微かな特徴と類似しているように私には思われるのである。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 未完の小説、焼かぬ自像

 

     未完の小説、焼かぬ自像

 

 二月三月合併号を出した『ホトトギス』は、創刊以来最初の臨時増刊を発行して、これを補うことになったので、居士はそのために小説「我が病」を草することを思立った。「曼珠沙華」以来三年目の試みである。題名の示す通り、日清戦争従軍を背景にした事実に、多少の小説的色彩を点じたもので、居士の自伝的な意味をなす上からいっても、極めて珍重すべきものであるが、惜むらくは金州の舎営までで筆を投じてある。居士はこの小説において、はじめて写生文の筆法によって事実を描こうとした。「我が病」の本題たる病がまだ顔を出していない位だから、果してどれだけの長さになる予定だったかわからぬけれども、もしこれが完成していたら、恐らく居士の作中第一の長篇になったであろう。居士がこれまでに書いた小説とは、全くその世界を異にするものである。

 『ホトトギス』の増刊は四月上旬に出る予定であったが、都合で六月に延期された。『日本』に出た「週刊記事」の中に

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げ。]

 

  三月二十九日(「我病」を草す)

ともし火のもとに長ぶみ書き居れば鶯鳴きぬ夜や明けぬらん

 

とあるから、この時分執筆にかかっていたものであろう。『ホトトギス』の写生文なるものは、従来短篇に限られていたが、寒川鼠骨(さむかわそこつ)氏の「新囚人」が出るに及んで、漸く長きに向わんとする勢を示した。『ホトトギス』の増刊が殆ど三篇の文章によって埋められている一事を見ても、慥にこの傾向を卜(ぼく)することが出来る。但(ただし)「我が病」はこの号に間に合わなかったため、未完のまま遺(のこ)ることになってしまった。

[やぶちゃん注:「寒川鼠骨」(明治八(一八七五)年~昭和二九(一九五四)年)は正岡子規門下の俳人(子規より八つ年下で同郷)。ウィキの「寒川鼠骨」より引く。『病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした』。『元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)』『の三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという』明治二〇(一八八八)年、番町小学校から県立松山中学校に入』り、六年後、十八で『三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上で』、三『人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた』。三高は明治二七(一八九五)年に中退、『京都日の出新聞の記者になった。子規を慕って上京したり』、『大阪朝日新聞に勤めたりしたが』明治三一(一八九八)年、『陸羯南社長の了承と、子規の勧めで日本新聞記者になった。その時の『最も少ない報酬で最も多く最も真面目に働くのがエライ人なんだ』という子規の教えを座右の銘とした』。翌年、『田中正造を取材で知り、彼の足尾鉱毒事件への取り組みを紙面から支援した』。この明治三三(一九〇〇)年二十五歳の時、『日本新聞の社説が第』二『次山県内閣への官吏誣告罪に問われ、雑誌の署名人だったために、』十五『日間収監された』が、その体験記がここに出る「新囚人」である(翌年、出版。下線やぶちゃん)。明治三五(一九〇二)年九月、『子規の臨終を看取り、その葬儀の執行にも参画した。翌年から俳句の入門書を多く出版した。日本新聞を退いた』。大正二(一九一三)年、『山谷徳治郎の週刊紙『医海時報』の編集者にな』り、翌年には『政教社の客員となり、『日本及日本人』誌を編集した。日本新聞の俳句選者にもなった』。大正七(一九一八)年には本「子規居士」の作者『柴田宵曲を門弟とした。この年』、『ホトトギス社が始めた宝井其角の五元集の輪講会の座長となり、下谷区上根岸』三十八『(現・台東区根岸)の自宅を主会場にした。柴田に筆記・編集させ』、「其角研究」の題名で『ホトトギス』に連載した(大正一〇(一九二一)年終了)。大正一三(一九二四)年、『子規の命日の毎月』十九『日に『子規庵歌会』を催すことに定め、その記事を『日本及日本人』誌に載せ』ている。『前々からの子規庵を保存し、子規の遺業を伝える案件が』、大正一二(一九二三)年九月の『関東大震災後に具体化し、敷地買収や庵の修改築作業』を経て、昭和二(一九二七)年に『落成した。その資金』を得る目的で『アルスから出版した』のが「子規全集」全十五巻であった。『碧梧桐・虚子・香取秀真が編集委員となっているが、実務は鼠骨と宵曲と』が担当している。翌昭和三年には『子規庵の隣に移り住ん』でいる。昭和二〇(一九四五)年(七十歳)、四月の『空襲に自宅も子規庵も焼かれたが、鼠骨が提案し設計して建てた土蔵に保管した子規の遺品・稿本類は守られ』、戦後も十『月には歌会を再開した』翌年の九月に『焼跡に仮宅が建つまで』、子規庵の『斜め向かいの書道博物館に仮寓し』、毎晩、『土蔵を盗難から守った』。『生来虚弱で、直腸狭窄、腎盂炎、蛋白尿、神経痛を病んでいた』が、昭和二六(一九五一)年から『歩行困難となり、子規の行事には臥床のまま』、『参加するようになった』。昭和二九(一九五四)年、九月の『子規忌を気にしながら』、丁度、一月前の八月十八日、『肺炎のために没した』。戒名は鼠骨庵法身無相居士である。]

 

 「我が病」は出来上らなかったが、この時分の居士は、そう病苦が甚しかったわけではない。四月中には粘土を捏ねて自像の首を造り、その首の置物台を造り、湯ざましようの器を造ったりしている。土は秀真(ほつま)氏が今戸から壺に入れて齎(もたら)したものであった。前後三日を費して自像の首を造り上げた居士は、これを缶(かん)に入れて秀真氏の許まで届けさせた。居士の考は窯で焼いてもらうつもりであったが、中が空虚になっていないから焼けにくい。首は焼かずに石膏に取ることになった。この粘土細工に関し、居士は三回にわたって歌の手紙を秀真氏に寄せている。粘土は骨が折れるせいか、画ほど永続(ながつづき)はしなかったけれども、居士はこういうものの上に直に興味を発見し得る人であった。

[やぶちゃん注:残念ながら、この子規遺作の石膏頭部像は現存しない模様であるが、「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」で自作土像(秀真へ)六首が読める。]

 

 病室の前に金網の大鳥籠を据えたのも、やはり四月中の出来事である。或人の庭に捨ててあったのを、浅井黙語(忠)氏の周旋で借りることになったので、亜鉛屋根のついた、円錐形の籠の中には、先ずキンバラの雄一羽、ジャガタラ雀の雌一羽、鶸(ひわ)の雄一羽が放たれた。居士はこの籠の中に五尺ばかりの李(すもも)の木を植え、来年の春花が咲いた時分に、花の中を小鳥の飛ぶ様を見るつもりであったが、小鳥は木の葉を片端からむしってしまうので、希望は全く外れてしまった。この大鳥籠の歴史――最後にカナリヤが矮雞(ちゃぼ)に変り、矮雞の声もまた病牀の居士を悩ますようになって、遂に庭隅に移されるまでの変遷は、「病牀苦語」というものに委しく述べてあるが、この大鳥籠の出現はガラス障子に次ぐ出来事であり、居士の眼を集しませることも少くなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:「浅井黙語(忠)」洋画家。既出既注

「キンバラ」「キンパラ」の宵曲の誤り。「病牀苦語」では子規自身ちゃんと「キンパラ」と書いている。スズメ目カエデチョウ科キンパラ(金腹)属キンパラ Lonchura atricapilla。南アジア及び東南アジアに分布する留鳥で、本邦には棲息しなかったが、明治四三(一九一〇)年頃に、東京都で野生化した群れが見つかって以降、各地で見つかっている外来種である。画像はウィキの「キンパラ」を。

「ジャガタラ雀」スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。

「鶸(ひわ)」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する一部の種群の総称。「ヒワ」という種はいないが、知られた種としてはヒワ亜科カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinus がいる(マヒワの画像ならはウィキの「マヒワ」で)。

「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria

「矮雞(ちゃぼ)」言わずもがなであるが、ニワトリ(キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus)の品種。画像はウィキの「チャボ(鶏)」を。

「病牀苦語」後の『ホトトギス』第五巻第八号(明治三五(一九〇二)年五月二十日発行)に掲載。「青空文庫」のこちらで、新字新仮名であるが、読める。]

 

 四月二十九日、好晴に乗じて本所茅場町に左千夫氏を訪問することになった。左千夫氏が居士の許に来はじめたのはこの年一月の歌会からである。「人々に答ふ」の文中で「あまりの事に答へんすべも知らず」といい、「明治の世に生れてかかる言をいはるゝやうではチト賴もしからぬなり。今少し奮發して勉強せられては如何」と手厳しくやっつけられた春園は、二年後に至って居士の教を乞う人となったのであった。この日先ず到った赤木格堂氏が一足先に行くこととし、居士は秀真氏と共に車をつらねて出かけた。左千夫氏不在のため、三人で亀戸天神に詣で、再び茅場へ引返した。根岸へ帰ったのは夜半過だったらしい。この日の記事が「亀戸まで」「車上の春光」の二篇になっている。

[やぶちゃん注:「左千夫」言わずもがな、かの歌人で名品「野菊の墓」等の小説家としても知られる伊藤左千夫(元治元(一八六四)年~大正二(一九一三)年:子規より三つ年上)である。出生時は幸次郎、養子縁組した川島家から復籍して幸治郎。ここに出る「春園」は左千夫の号の一つ。農家で小学校教員の四男として上総国武射(むさ)郡殿台(とのだい)村(現在の千葉県成東町)に生まれた。明治一四(一八八一)年に政治家を志して上京、明治法律学校(明治大学の前身)に入学するも、眼病を病んで中退し、帰郷。明治十八年、再び上京して牛乳店で働いた後、明治二十二年に独立し、本所区茅場町(現在の墨田区江東橋)に牛乳搾取業を営んだ。三十歳の頃から、同業の伊藤並根に茶の湯と和歌を学び、「春園」と号した。明治三一(一八九八)年の「非新自讃歌論」などで小出粲(にいでつばら)・正岡子規と論争し、この明治三三(一九〇〇)年の『日本』に短歌三首が入選したのを機に子規に入門、師事した。根岸短歌会・万葉論講会などに加わり、写実的手法を学び、子規没後、根岸短歌会機関誌『馬酔木』を明治三十六年に創刊、明治四十一年一月に同誌を廃刊すると、同年十月に創刊された『アララギ』に協力し、翌年には自宅をその発行所とし、編集兼発行者として中心的立場に立った。『アララギ』の基盤を作り、後進の育成に当たった功績は大きい。他に写生文二十四篇・小説三十篇を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「人々に答ふ」国立国会図書館デジタルコレクションの上と同じ画像のこちらで視認出来る。新字であるが、電子化したものなら、「青空文庫」のこちらで読める。「あまりの事に答へんすべも知らず」「明治の世に生れてかかる言をいはるゝやうではチト賴もしからぬなり。今少し奮發して勉強せられては如何」という激烈な一撃は「其十二」の中の一節。

「赤木格堂」(あかきかくどう 明治一二(一八七九)年~昭和二三(一九四八)年)はジャーナリスト・俳人で衆議院議員。ウィキの「赤木格堂によれば、『本名は亀一』(かめいち)。『岡山県児島郡小串村(現在の岡山市南区)出身』で、『東京専門学校(現在の早稲田大学)に在学中、正岡子規に俳句を師事し、『日本附録週報』の代選を任せられた』。明治三五(一九〇二)年に『卒業した後は、『九州日報』の主筆を務め』、『その後、フランスに』三『年間留学し、植民政策学を専攻した』。『さらに雑誌『青年日本』を経営し、『国民新聞』『大阪朝日新聞』に寄稿し』、大正六(一九一七)年、『衆議院議員補欠選挙に立候補し、当選を果たした』。『その後、『山陽新報』主筆に就任し』、『小串村長も務めた』とある。

「亀戸まで」「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」ので読める。

「車上の春光」「青空文庫」ので読める(但し、新字新仮名)。]

北條九代記 卷第十二 先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す

 

      ○先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す

正慶二年閏二月、隱岐判官淸高、近國の地頭・御家人等を催し、宮門を警固し、先帝後醍醐を嚴しく守護し奉る。同下旬、佐々木富士名(ふじなの)判官義高、竊(ひそか)に心を寄せ奉り、「楠正成、伊東〔の〕大和二郎・赤松圓心・土居・得能、皆、御味方に參り候。聖運(せいうん)の啓(ひら)けん事、近きにあり。君、願(ねがは)くは配所を忍び出で給ひて、千波湊(ちなみみなと)より御舟に召され、出雲・伯耆の方へ赴き給ひ、 然るべき武士を御賴(おんたのみ)あるべし。義綱も軈(やが)て御味方に參り候はん」と申す。是より、富士名、竊に鹽冶(えんやの)判官高貞・名和〔の〕太郎長年を語(かたら)ひ、 朝山(あさやまの)八郎が禁門の當番の夜(よ)、是に心を合せて忠顯(たゞあきの)卿に申入れ奉りければ、君、卽ち、忍びて配所を出(いで)給ひ、 千波湊より御舟に召して、伯老國名和湊に著きたまふ。六條少將忠顯一人、名和又太郎長年が館(たち)に行(ゆき)て、頼思召(たのみおぼしめ)す由を宣へば、一族二十餘人一同に御請(おう)け申して、御迎(おんむかひ)に參り、船上山(ふなのうへさん)へ入れ奉り、兵粮五千餘石を用意して、その勢、百五十騎にて、船上(ふなのうへ)の皇居を守護し參(まゐら)せけり。隱岐〔の〕判官淸高・佐々木彈正左衞門尉、三千餘騎にて押寄せ、一戰に利を失ひ、佐々木は射殺され、淸高は小舟に乘りて風に任せて、越前の敦賀に吹寄(ふきよ)せせられ、六波羅沒落の時に、江州番馬の辻堂にて自害したり。その後、鹽冶・富士名、一千餘騎、淺山二郎八百餘騎、金持(かなぢ)の一黨三百餘騎、大山(だいせん)の衆徒七百餘騎、其外、出雲・伯耆・因幡・石見・安藝・美作以下、四國・九州の軍兵、殘(のこり)なく馳付(はせつ)けけり。六渡羅には、是を聞きて、「さらば先(まづ)、赤松を退治せよ」とて、佐々木判官時信・常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)に五千餘騎を差副(さしそ)へて、摩耶(まや)の城へ向けらる。求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)より押寄せけるが、城兵五百餘人、打て出でたるに追崩(おひくづ)され、僅(わづか)に、千騎計(ばかり)に討ちなされて、京都にぞ引返しける。六波羅より、又、一萬餘騎にて討手を向けらる。赤松城を出でて、久々知(くゝち)・酒部(さかべ)に出向ふ所に、尼崎より、舟を上りける、阿波の小笠原が三千餘騎と、赤松、僅に五十騎にて戰ひて、父子六騎に打(うち)なされ、小屋野(こやの)の宿に控へたる味方三千餘騎が中に馳入り、虎口の死をぞ遁(のが)れける。六波羅勢は瀨河(せがは)の宿に陣を取る。赤松、三千餘騎が中より子息筑前守貞範以下、只、七騎にて南の山より、散々に射る。寄手、多く射落されて色めく所を、赤松が軍兵七百餘騎、掛出でて戰ふに、寄手、崩れて、大半、討たれ、僅に京都に引返す。赤松、追ひ縋(すが)うて攻上(せめのぼ)る。三月十二日、淀・赤井・山崎邊、三十餘ヶ所に火を懸けたり。兩六波羅、驚きて、隅田・高橋に左京の武士二萬餘騎を相副へ、西朱雀に向けらる。兩陣、桂川を隔てて、矢軍(やいくさ)に時を移す。赤松が子息帥律師則祐以下、只、五騎にて桂川を渡しければ、父圓心を初(はじめ)て、三千餘騎、打渡す。六波羅、勢氣を吞まれて、引立ちしかば、赤松が勢、追掛り、大宮・猪熊・七條邊に火を掛けたり。主上持明院殿は、六波羅へ臨幸なる。兩六波羅は七條河原に打出でて、敵を相待ち、隅田・高橋に三千餘騎を副へて、八條口へ向けらる。河野・陶山(すやま)は二千餘騎にて蓮花王院へ遣(つかは)す。赤松、前後の敵に揉合(もみあ)うて、備(そなへ)亂れて打負け、僅の勢に成りて、山崎へ引返す。同十五日、六波羅勢、五千餘騎にて山崎に差向ふ。赤松、三千餘騎を二手に分けて、善峯・岩倉に出向うて、散々に射る。向明神(むかうのみやうじん)の邊にて、赤松が軍勢百騎、二百騎前後より蒐出(かけい)でしに、京勢、捨鞭(すてむち)を打ちて、引返す。同四月三日、赤松、又、京都に押寄せしかども、一族郎從八百餘騎、討たれて、又、山崎へ引返す。

[やぶちゃん注:標題の「先帝船上皇居軍」は「せんてい ふなのうへくわうきよ いくさ」で「後醍醐天皇、船上山行在所に於ける戦さ」の意。清湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第七の六項目「先帝船上(ふなのうへへ)臨幸〔の〕事」から巻第八の六項目「四月三日合戰事 付 妻鹿(めが)孫三郎勇力事」に拠るとある。

「正慶二年」元弘三年。一三三三年。

「隱岐判官淸高」隠岐守護佐々木清高(永仁三(一二九五)年~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十日))。ウィキの「佐々木清高」によれば、『宇多源氏流佐々木氏の一族で父は佐々木宗清』。『治承・寿永の乱で源氏方として活躍した佐々木秀義の』五『男義清の末裔で、義清-泰清-時清-宗清-清高と至る。この家系は代々隠岐守護を相伝(世襲)する家柄であった。船上山の戦いで清高と敵対した塩冶高貞』(後注参照)『は、時清の兄弟である塩冶頼泰の孫であり、清高とは又従兄弟(はとこ)の関係にあたる。また、後の南北朝時代において婆沙羅大名として著名な佐々木道誉(高氏)をはじめとする京極氏一族や、室町時代に近江守護として君臨した六角氏一族は義清の兄定綱の末裔で清高と同族(遠戚関係)である』。『鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)内の前半には『元服し、その高時と烏帽子親子関係を結んで偏諱(「高」の字)を受けた』『とみられている』。『父から受け継いで』、『隠岐守護、更には引付衆となり』、正中二(一三二五)年十二月には『幕府の使者として入京した』。元弘二/正慶元(一三三二)年、『鎌倉幕府転覆計画を企てた後醍醐天皇が捕らえられ』、『隠岐国に流されると(元弘の変)、同国守護をしていた清高』『は隠岐へ下向し』、『領内の黒木御所に天皇一行を幽閉した。当時は西日本を中心に悪党と呼ばれる武士達が反幕府活動を続けていたため、清高も有志による後醍醐天皇奪還を警戒し、御所を厳しく監視』したが、この時、『天皇一行は突如として黒木御所から姿を消し、隠岐を脱出してしまった』。『天皇は伯耆の武士名和長年一族に迎えられ、伯耆船上山にて挙兵』、『これに対し、焦った清高は隠岐の手勢を率いて船上山に攻め寄せ』、『長年らと戦うが、寄せ手の将佐々木昌綱が流れ矢を受け戦死し、同族(はとこ)で出雲守護の塩冶高貞が寝返って天皇方につくなど』、『悪条件が重なり、結局』、『攻めきれずに敗退してしまう(船上山の戦い)』。『その後、敗戦の責任から隠岐を追われ』、『海路で北国に逃れ』、『六波羅探題北条仲時の軍に合流し』、同年五月九日、『近江番場の蓮華寺にて仲時らと共に自害した』。享年三十九。『子の泰高も父と共に自害したと伝えられる』。

「佐々木富士名(ふじなの)判官義高」富士名雅清(永仁四(一二九六)年~建武三(一三三六)年)は若狭守護。ウィキの「富士名雅清」によれば、「太平記」では富士名義綱・富士名判官の古称で知られる。『富士名氏は佐々木氏から出た湯氏の支流で、出雲八束郡布志名(富士名)の地頭』であった。『後醍醐天皇が隠岐へ流刑とな』ると、『雅清は、北条氏の命により』、『後醍醐の警固役の一人となったが』、『翻意し、後醍醐の隠岐脱出を計画』(「太平記」巻第七「先帝船上臨幸事」)、『脱出に向けて雅清は、同族で出雲守護塩冶高貞の助力を請おうと出雲へ帰還するが、高貞により幽閉された』、しかし、翌年のこの時、『雅清の帰島を待たず』、『隠岐を脱出した後醍醐は、名和長年に迎えられ』、『船上山に築いた行宮へ入り、追跡してきた隠岐守護佐々木清高と交戦する(船上山の戦い)。この情勢を知り、腹を括った高貞は雅清と共に後醍醐の元へ馳せ参じた。その後も、後醍醐に随行し』、『上洛するなど』、『宮方として倒幕に貢献し』、『建武政権では若狭守護に補任された』。『南北朝の争乱が起こると、南朝側として足利尊氏ら北朝方と各地で戦い』、建武三(一三三六)年正月、『京都で二条師基軍の武将として北朝方と戦うも戦死した』。

「千波湊(ちなみみなと)」「ちぶりみなと」が正しい。隠岐諸島の南端にある知夫里島の、恐らくは、南側の現在の知夫漁港或いはその東の姫の浦港ではないかと推定するが、実際には後醍醐の行在所(配流場所)は島後の現在の西郷町池田にあった国分寺内であり、これは「太平記」による創作ではないかと思われる。

「鹽冶(えんやの)判官高貞」(?~興国二/暦応四(一三四一)年)は出雲守護。ウィキの「塩冶高貞」によれば、前の「隱岐判官淸高」の引用で見た通り、当初は幕府方に与しようとしたが、結局、時局を計って、『後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献する。建武の新政ののちは、足利尊氏に味方し、南朝方制圧に力を奮ったが』暦応四年三月、『京都を出奔』し、それを謀反とされて『北朝に追討され、同年翌月』、『出雲国で自害した』。『生誕年は不明だが、鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)『内に元服』『して、高時と烏帽子親子関係を結んで』、『その偏諱(「高」の字)を受けた』『人物とみられる』。鎌倉幕府滅亡後、建武二(一三三五)年に起こった『中先代の乱後、関東で自立した足利尊氏を討つべく東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣』したが、『箱根竹ノ下の戦いでは道誉と共に新田軍から足利方に寝返り、室町幕府においては出雲国と隠岐国の守護となった』。しかし、『高師直の讒言』により、『謀反の疑いをかけられたため』、『ひそかに京都を出奔し』、『領国の出雲に向かうが、山名時氏らの追討を受けて、妻子らは播磨国蔭山』『で自害した。高貞は』辛うじて『出雲に帰りついたものの、家臣らに妻子の自害した旨を聞』いて、『出雲国宍道郷の佐々布山で自害』『したという。これにより、高貞の子弟殆ど』は『共に討ち取られるか』、『没落した』が、『息子の塩冶冬貞』『(ふゆさだ)が家督および出雲守護を引き継いだとされ』、『冬貞は足利直冬・山名時氏ら南朝勢力と結び(「冬」の字も直冬から偏諱を受けたものとみられる)、一時的に塩冶郷を支配する立場にあったが、叔父(高貞の弟)の時綱(ときつな)と家督を巡』っての抗争をしてから後は、『時綱およびその子孫が新たな惣領となった』。『この家系を後塩冶氏と呼ぶことがあり』、『将軍の近習として存続した』。なお、『出雲守護となった近江佐々木氏流の尼子経久は、時綱の子孫の貞慶(さだよし)を攻めて追放し、経久の三男興久に塩冶氏を継がせ』ている。因みに、「塩冶判官」というと、誰もが「仮名手本忠臣蔵」を思い出すが、あれは、赤穂事件を描きつつ、筋書きを「太平記」の世界に仮託することで、公儀の咎めを回避しているため、『播州赤穂藩主・浅野長矩は「塩谷判官」』『として(播州の名産品「赤穂の塩」からの連想)』あるのであり(『幕府高家肝煎吉良義央を「高師直」としたのは「高家」からの連想である)、『物語の発端が赤穂事件の実情とは異なる色恋沙汰となっているのも、塩冶判官の妻・顔世御前に対する師直の横恋慕という伝承を』、『そのまま』、『物語に取り入れているからである』とある。

「名和〔の〕太郎長年」(?~延元元/建武三(一三三六)年)初名は長高。伯耆守。父行高の代までは伯耆国長田に居住して長田氏を名乗っていたが、長高の時、同国汗入(あせり)郡名和(鳥取県名和町)に移って名和氏を称した。良港名和湊を領有し、日本海沿岸の商業活動によって富を蓄えた。この時、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆に上陸すると、長高は天皇を迎えて船上山に布陣し、佐々木清高の率いる幕府軍の攻撃を退けた。この功により、天皇から「年」の字を与えられて、長年と改名、同時に家紋をも賜ったと伝えられている。同年五月二十三日、天皇が船上山を出発して京都に向かうと、長年も天皇軍に随従した。建武政権下では、記録所・雑訴決断所の寄人などに任命され、天皇の身辺警護に当たるなど栄耀を極め、世人はその栄華を「三木一草」(後醍醐の忠臣四人の称)と称して羨んでいる。子義高も戦功により肥後国八代荘を与えられた。建武元(一三三四)年十月、天皇の命令により、護良親王を清涼殿で捕縛し、鎌倉へと送った。建武の乱では、一旦、足利尊氏軍を破って九州へと敗走させたが、勢力を盛り返した尊氏軍が入京するや、天皇を奉じて叡山に避難した。建武三/延元元(一三三六)年六月三十日、京中へ打って出たものの、大宮通り一条の合戦(「梅松論」では「三条猪熊の合戦」とする)で戦死を遂げた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「朝山(あさやまの)八郎」不詳。この名は「太平記」にも出ないようである。そもそも、後醍醐の隠岐脱出自体には、前に述べた通り、「太平記」でも義綱は関与出来なかった。以下に、後醍醐に与して馳せ参じた「淺山二郎」の同族か。

「六條少將忠顯」既出既注

「船上山(ふなのうへさん)」現行では「せんじょうさん」と読み、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高六百八十七メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「佐々木彈正左衞門尉」「昌綱」とも。諸本、不詳とする。佐々木清高の一族であろう。

「江州番馬の辻堂」既出既注。現在の滋賀県米原市番場の蓮花寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淺山二郎」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『大伴氏の子孫で、現在の島根県出雲市朝山町に住んだ武士』とする。

「金持(かなぢ)」前掲書に、『島根県日野郡日野町金持(かもち)に住んだ武士』とある。

「大山(だいせん)の衆徒」鳥取県西伯郡大山町伯耆大山中腹にある天台宗角磐山(かくんばんざん)大山寺(だいせんじ)の僧兵。当時は修験道場として知られ、ここの『座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場』であった、とウィキの「大山寺」にある。

「佐々木判官時信」六角(佐々木)時信(徳治元(一三〇六)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は近江国守護。佐々木氏嫡流六角氏第三代当主。ウィキの「六角時信」によれば、『佐々木頼綱(六角頼綱)の子として誕生』、『廃嫡された長兄・頼明や早世した他の兄達に代わって』、『嫡子となり』、延慶三(一三一一)年の父の死後、『家督を継ぎ、近江守護となった』。正和三(一三一四)年)に元服して『時信と名乗』る。『朝廷との関わりは深く』、元徳二(一三三〇)年の『後醍醐天皇の石清水行幸の際には橋渡を務めているが』、元弘元(一三三一)年の「元弘の乱」では『鎌倉幕府方につき』、同年八月の『近江唐崎にて後醍醐天皇に応じた延暦寺衆徒と戦い敗れる』『ものの、後醍醐天皇が内裏を脱出して笠置山に挙兵した際(笠置山の戦い)には鎮圧に加わり、六波羅探題軍に加勢して山門東坂本に攻め寄せた。戦後は、捕縛された尊良親王(後醍醐天皇の皇子)の身を預かっている』。元弘三(一三三三)年の『後醍醐天皇流罪後も続いた反乱軍鎮圧では摂津国天王寺に参陣している。しかし、六波羅探題が宮方についた足利高氏(尊氏)によって陥落されると、探題北条仲時が近江で討死したという誤報を受けて宮方に投降した』。『幕府滅亡後の建武の新政では雑訴決断所の奉行人、南海道担当の七番局を務め、尊氏の新政離反にも従うが、室町幕府においては近江守護職を一時庶流の京極氏当主佐々木道誉に奪われるなど』、『不遇をかこつことになり、出家して家督を子・氏頼に譲り』、四十一『歳で死去したという』。

「常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)」六波羅の頭人(とうにん)であった小田時知。サイト「南北朝列伝」によれば、『常陸国に拠点を置く小田一族の一人だが』、『傍流で』、『代々六波羅探題に勤めた系統である。父の知宗も弟の貞知も六波羅探題で引付頭人を務めている。名の「時」は得宗の北条貞時の一字を受けたとみられるが、「貞」字は弟が受けており、弟の方が嫡流とされていたようである』。『後醍醐天皇の討幕計画が発覚(正中の変)すると、時知は二階堂行兼と共に六波羅探題の使者として北山の西園寺邸を訪れ、事件の首謀者として日野資朝・日野俊基の二名を引き渡すよう朝廷に要請している』。元徳三(一三三一)年八月二十四日、『後醍醐が倒幕挙兵を決意して未明に宮中を脱出したが、その夜に時知が兵を率いて宮中の捜索、乱暴に騒ぎたてた様子が』「増鏡」に『描写されている』。二十七日には、『時知は貞知らと共に琵琶湖東岸の唐崎浜に出陣し、比叡山の僧兵と戦っている。その後の笠置攻撃にも参加し、後醍醐に同行して捕虜となった東大寺東南院の僧・聖尋の身柄を時知が預かり、のちに鎌倉に護送している』。本詩クエンス時(三月一日)には『時知は佐々木時信と共に六波羅勢を率いて、摂津の摩耶山にこもった赤松円心を討ったが』、『敗退』し、『勝ちに乗って京へ攻め込んできた赤松軍と京で攻防戦を繰り広げている』。『このように六波羅軍の主力として戦った時知だが、同年』五『月の六波羅勢の逃亡、近江番場での集団自決には同行しておらず、六波羅陥落前後に後醍醐方に投降したとみられる』とあり、さらに「尊卑分脈」の『小田氏系図を見ると時知の子・知貞の母について「実父大納言経継卿云々」と注があり、時知が公家の中御門経継の娘を妻に迎えていたことを推測させる。時知はあるいは』、『そのつてを頼って』、『後醍醐方に投降したのではないか』とサイト主は推理されておられる。事実、『建武政権では時知は弟の貞知と共に雑訴決断所の職員に名を連ねている』、但し、『その後の詳しい動向は不明である』とある。

「求塚(もとめづか)」現在の兵庫県神戸市灘区都通附近(グーグル・マップ・データ)。私の偏愛する、かの「菟原処女(うないおとめ)」の伝承が残る地である。

「八幡林」灘区八幡町附近。求塚の東北。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「久々知(くゝち)」尼崎市久々知(くぐち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「酒部(さかべ)」尼崎市上坂部(久々知の北に接する)・下坂部附近(久々知の北東に接する)。ここ(グーグル・マップ・データ)・

「阿波の小笠原」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、甲斐長房(かいながふさ)が阿波の国(徳島県)守護に任じてから阿波の豪族となった』とする。

「父子六騎に打(うち)なされ」筆者は「太平記」をコンパクトに圧縮するあまり、ここではリズムが崩れている。この父子とは赤松円心とその子息則祐のことで、二人を含めて、たった六騎までに小笠原㔟に討たれて減ってしまったというのである。

「小屋野(こやの)の宿」現在の兵庫県伊丹市昆陽(こや)にあった山陽道の宿場町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「瀨河(せがは)」現在の大阪府箕面瀬川。ここ(グーグル・マップ・データ)。昆陽の東北、猪名川を隔てた位置。

「子息筑前守貞範」(徳治元(一三〇六)年~文中三/応安七(一三七四)年)円心の次男。ウィキの「赤松によれば、嘉暦元(一三二六)年頃は『摂津国長洲荘の荘官を兄・範資と共に務め、父が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った』。建武二(一三三五)年には『中先代の乱を平定するため』『、関東に向かう足利尊氏軍に加わり、戦後に尊氏が反新田義貞を主張して挙兵した時も従う。箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は』三百『騎で脇屋義助』七千『騎に突撃を敢行した。これを見て』、『義貞方の大友貞載』(さだとし/さだの