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2018/06/29

諸國里人談卷之三 白峰

 

    ○白峰(しろみね)

讃岐國河野郡(かうのこほり)也。人王七十五代崇德院(しゆとくゐん)を祠(まつ)る。今以〔いまもつて〕、靈氣つよくましまし、種々の奇特(きどく)多し。崇德院、此松山に左迷(さまよひ)給ひし時、松が浦にて御つれづれに貝を拾はせ給ひて、

 松山の松が浦風吹〔ふき〕よせばひろひてしのべ戀わすれ貝

と詠じ給ひしより、此浦の貝に、「松」の字、「山」の字を現(あらは)す、と也。これを「戀忘貝(こひわすれかひ)」と号す。長寬二年に御寶算四十六歳にして、此所にて崩御し給ひし也。西行法師、參詣しける時、陵(みさゝぎ)、鳴動す。于ㇾ時(ときに)、和歌詠じて納めければ靜(しづま)りける、となり。

 よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん跡は何にかはせむ

[やぶちゃん注:第七十五代天皇崇徳天皇(元永二(一一一九)年~長寛二(一一六四)年)/在位:保安四(一一二三)年~永治元(一一四二)年)は保元元(一一五六)年七月の「保元の乱」で後白河方に敗れて讃岐へ配流と決まり、同月二十三日、鳥羽から船で讃岐国へ下った。参照したウィキの「崇徳天皇」によれば、『天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ』四百『年ぶりの出来事』で、『同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけ』で、『その後、二度と京の地を踏むこと』なく、八年後の長寛二年八月二十六日(一一六四年九月十四日)、四十六歳で崩御している。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされる』。「保元物語」に『よると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(『法華経』・『華厳経』・『涅槃経』・『大集経』・『大品般若経』)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしい』、『と朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って』、『写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け』、『夜叉のような姿になり、後に生きながら』、『天狗になったとされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めているのにも関わらず』、『血が溢れてきたと言う』。一方、「今鏡」の『「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても』、『怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である』。『崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の綾高遠の娘との間に』一男一女を『もうけている』。「保元の乱」が『終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。それは後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命』『にも表れている。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった』。ところが、安元三(一一七七)年になると、状況が『一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった』。公卿三条実房の日記「愚昧記」の安元三(一一七七)年五月九日の条には『「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようにな』り、同「愚昧記」の五月十三日の条に『よると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという』。前年安元二年には『建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去し』、『後白河や忠通に近い人々』も『相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については』、権大納言藤原経房の日記「吉記」寿永三(一一八四)年四月十五日の条には『藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長が』、『その形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し』、同年八月三日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈され』ている。同年四月十五日には、「保元の乱」の『古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された』(この廟は「応仁の乱」後に衰微し、天文年間(一五三二年~一五五五年)に平野社に統合されている)。また、『崩御の直後』、『地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても』、『官の保護が与えられたとされている』。『怨霊としての崇徳院のイメージは定着し』、近世、上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年上梓)の巻頭を飾る怪談の傑作「白峯」や、滝沢馬琴の「椿説弓張月」(文化四(一八〇七)年)から同八年(一八一一年)にかけて刊行)などでも『怨霊として描かれ、現代においても』、『様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い』(但し、本「諸國里人談」の刊行は、それらよりも前の寛保三(一七四三)年)。しかし、『その一方で後世には、四国全体の守り神である』、『という伝説も現われるようになる』。「承久の乱」で『土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が』、『途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際』、『その霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われ』、『上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際』も、『崇徳天皇の菩提を弔って』後に『四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている』。『明治天皇は』慶応四(一八六八)年八月十八日に、『自らの即位の礼を執り行うに際し』、『勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建し』ており、私の知る限りでは、太平洋戦争勃発直後、昭和天皇は崇徳天皇陵に勅使を遣わし、崇徳の霊が連合軍へ加担せぬように祈請しているはずである。陵(みささぎ)は「白峯陵(しらみねのみささぎ)」として香川県坂出市青海町(おうみちょう)にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「松山の松が浦風吹〔ふき〕よせばひろひてしのべ戀わすれ貝」これは崇徳院の詠歌なんぞではなく、百年以上前の藤原中納言定頼(長徳元(九九五)年~寛徳二(一〇四五)年)の「後拾遺和歌集」の「巻第八 別」に載る一首で(四八六番)、

   讚岐へまかりける人につかはしける

 松山の松の浦風吹きよせば拾ひて忍べ戀忘れ貝

である。「松山の松の浦」は歌枕であるが、「まつ」に恋人(ここは都を擬人化したか)を「待つ」を畳みかけて掛けた。「戀忘れ貝」は、「その貝を拾えば、恋の苦しさを忘れさせる」という伝承によるもので、「土佐日記」にも出るが、私は特定の貝を指すとは思われない。標準和名の斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ワスレガイ亜科ワスレガイ属ワスレガイ Cyclosunetta menstrualis があるが、貝類蒐集をする私にとっては全く「忘れ貝」のイメージとは程遠い無骨なものであり、同種を古典の「恋忘れ貝」とするのには大いに抵抗がある。しかしまた、一方で、しばしばピンク色の「桜貝」、代表種ではマルスダレガイ目ニッコウガイ科サクラガイ属サクラガイNitidotellina hokkaidoensis のことだとして、ご丁寧に写真まで添えてまことしやかに解説している国語の諸先生もいたりするのであるが、これは浅薄なロマン主義的趣味であって、それも逆に、私には全く従えない。寧ろ、恋を忘れられる呪物(類感呪術)としてのそれは、万葉以来の、ぴったりと合うべき(逢うべき)二枚貝の殻の片方が失われてしまったそれに他ならない。

「此浦の貝に、「松」の字、「山」の字を現(あらは)す」貝殻の表面に、ということ。ありがちなシミュラクラ(Simulacraとしては判らぬではない。

「寶算」天子を敬ってその年齢をいう語。聖寿。聖算。

「西行法師」(元永元(一一一八)年~文治六(一一九〇)年)は、保延六(一一四〇)年(二十三歳)に出家するが、それから二十八後の仁安三(一一六八)年(満五十歳)に四国への旅立ち、讃岐国善通寺(現在の香川県善通寺市)に一時、庵を結んだとされ、この折り、旧主崇徳院の白峰陵を訪ね、その霊を慰めたと伝えられている。「參詣しける時、陵(みさゝぎ)、鳴動す。于ㇾ時(ときに)、和歌詠じて納めければ靜(しづま)りける」はただの伝承。

「よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん跡は何にかはせむ」「山家集」の「下 雜」に載る(一三五五番)が、「山家集」のこの前の二首も含めて、以下に示す(一九六一年岩波古典文学大系版に拠る。前書はブラウザでの不具合を考え、恣意的に改行した)。

   讃岐に詣でて、

   松山の津と申(まうす)所に、

   院おはしましけん御跡(おんあと)

   たづねけれど、

   形(かた)も無かりければ

 松山の波に流れて來し舟のやがて空しく成(なり)にける哉

 松山の波の景色は變らじを形無(かたな)く君はなりましにけり

   白峯と申(まうし)ける所に

   御墓(みはか)の侍りけるにまゐりて

 よしや君昔の玉の床(ゆか)とてもかからん後は何にかはせん

   *

「玉の床」は皇居のこと。]

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