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2018/06/29

諸國里人談卷之三 彦山

 

   ○彦山(ひこさん)

豐前國田川郡(たかはこほり)にあり。豐前・豐後・筑前に其(その)根(ね)、跨(またが)りて、大山〔おほやま〕也。「十の谷」・「四十九の窟(いはや)」あり。一の谷(やつ)を「玉谷(たまや)」といふ。霊泉、涌出(ゆうしゆつ)す。是を飮(のめ)ば諸病を治(ぢ)すとなり。又、國家、變ある時は、此水、濁ると云〔いへ〕り。三(みつ)の嵩(たけ)は、鼎(かなへ)のごとく、三神、跡を垂(たれ)給ふ。北岳(ほくがく)は天忍穗根尊(あまのおしほねのみこと)、中岳(ちうがく)は伊弉冉尊(いさなみの〔みこと〕)、南岳は伊弉諾尊(いさなきの〔みこと〕)也。徃古(わうこ)より守護入(しゆごい)らずの山なり。金鳥井(かねのとりゐ)より上る事、六十二町也。祭禮、二月十五日。

[やぶちゃん注:「伊弉冉尊」の「冉」は①が「册」の最終画の上部中央に左右閉鎖(貫かず)で横画が入るもの、③が「冊」で同様の奇体な字体であるが、一般的な「冉」で示した。

「彦山」現在の福岡県田川(たがわ)郡添田町(そえだまち)と大分県中津市山国町(やまくにまち)に跨る英彦山(ひこさん)。標高千百九十九・七メートル(本文に出る「南岳」)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「英彦山」によれば、『羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという』。『この山を根拠とする豊前佐々木氏が領主であり、一族からは英彦山幸有僧という役職も出していたとの記録がある。英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため』、天正九(一五八一)年十月、『敵対する大友義統』(よしむね)『の軍勢による焼き討ちを受け』、一『ヶ月あまり続いた戦闘によって』、『多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという』。『なお、豊前佐々木氏は添田の岩石城を居城としていた。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏方として香春岳城に続いて攻撃され、一日で攻め落とされたが』、『滅ぼされず、細々と生き残っている。巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎は』、『この豊前佐々木氏の出身であり、またその流派・巌流は英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説がある』。『その説によれば、巌流島の決闘自体が、宮本武蔵を利用して当主である小次郎を殺害させることによる、細川氏の豊前佐々木氏弱体化工作であったという』。『山伏集落についての詳細は不明であったが』、平成二七(二〇一五)年、『添田町が行ったレーザー測量によって』、『集落跡地とみられる場所を複数個所、確認した』。『「英彦山三千八百坊」と言われていたが』、『測量結果から』八百『箇所・三千人規模の集落があったと推測される』とある。また、『彦山豊前坊という天狗が住むという伝承があ』り、『豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている』とし、『英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた』とあって、少なくとも戦国時代前半までは、ここが修験道の梁山泊的な道場として治外法権的空間であった雰囲気が伝わってきて、さればこそ後に出る「守護入(しゆごい)らずの山」の謂いも腑に落ちる。なお、私の「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」も是非、読まれたい。

「豐前・豐後・筑前に其根、跨りて」厳密には狭義の英彦山(福岡県田川郡添田町及び大分県中津市山国町)は孰れも旧「豐前」国であるが、「豐後」(宇佐市・中津市除く大分県の大部分相当)・「筑前」(福岡県西部相当)に山塊「の根」が「跨」っているというのは、地図を見れば腑に落ちる。というより、ウィキの「英彦山」によれば、そもそもが英彦山『山域は』今も『福岡県と大分県の県境未確定地域』なのである。

「玉谷(たまや)」「霊泉、涌出す」とは玉屋神社(般若窟)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる御夫妻のサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「玉屋神社(般若窟)」によれば、ここにある「般若岩」の説明版には(リンク先の画像から翻刻)、『この岩穴の中には、不増不滅の清水をたたえ』、『世の中にもしも事変がある時は、水がにごると言われています。ここで法蓮上人』(弘仁(八一〇年~八二四年)の頃の英彦山を中興した僧)『が祈って如意の玉を得たという伝説があり、大和の金剛山、近江の竹生島の水と共に日本の三霊水だとも言われています』とある。同神社の祭神は猿田彦大神で、この神社が英彦山開山の地とされる。

「北岳」千百九十二メートル。ここ(国土地理院図)。

「天忍穗根尊(あまのおしほねのみこと)」現行の英彦山神宮の主祭神としての表記は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)である(同神宮公式サイトで確認)。ウィキの「アメノオシホミミ」によれば、「古事記」では、天照大神と素戔嗚命の誓約の際、素戔嗚が天照の勾玉を譲り受けて生まれた五人の皇子の長男で、勾玉の持ち主である天照の子としている。「日本書紀」の一書では次男とされ、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の娘で萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)との間に天火明命(あめのほあかりみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を儲けた。『葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるよう』、天照から『命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう』。建御雷神(たけみかづちのかみ)らに『よって大国主から国譲りがされ、再び』、忍穂耳命に『降臨の命が下るが』、彼は『息子の』瓊瓊杵尊にそれを負かすように進言し、結局、瓊瓊杵尊が「天孫降臨」することになるのである。『名前の』「正勝吾勝」は『「正しく勝った、私が勝った」の意』であり、「勝速日」は『「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる』。また「忍穂耳」は『威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意である』とある。言っておくが、本邦の神話の神の名は勿論、民俗学で村を「ムラ」としたり、「晴」「褻」を「ハレ」「ケ」とやらかして学術用語だと思い込んでいるお目出度い輩や、日本語なのに沖繩方言をカタカナ表記するのが当たり前と思っている大衆を、私は甚だしく嫌悪する人種である

「中岳」千百八十メートル。英彦山神宮の本社上宮があるピーク。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「南岳」既に述べた最高峰。ここ(国土地理院図)。

「金鳥井(かねのとりゐ)」「銅(かね)の鳥居」で、現在の福岡県田川郡添田町大字英彦山に現存する、寛永一四(一六三七)年に佐賀藩主鍋島勝茂によって建立された、英彦山神宮にある青銅製の鳥居(二の鳥居。一の鳥居は現存するが、通行出来ない)。柱の周囲は約三メートル。鳥居正面の「英彦山」の扁額は享保一四(一七二九)年に霊元法皇によって下賜されたもの。国指定重要文化財。

「六十二町也」約六キロ七百六十四メートル。現在の登山サイトの記録データを見ると、「銅の鳥居」起点で片道実動距離が約六キロメートルであるから、かなり正確である。

「祭禮、二月十五日」現行、少なくとも英彦山神宮ではこの日や旧暦の日時でも、特に祭儀は行われていない。不審。]

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