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2018/06/21

北條九代記 卷第十二 新田義貞義兵を擧ぐ 付 鎌倉滅亡

 

      ○ 新田義貞義兵を擧ぐ  鎌倉滅亡

 

新田(につたの)太郎義貞は去ぬる三月十一日、先帝後醍醐の綸旨を賜はり、千劍破(ちはや)より虛病(きよびやう)して本國へ皈り、竊(ひそか)に一族を集めて、謀叛の計略を囘(めぐ)らさる。相摸〔の〕入道、舍弟四郎左近大夫泰家入道に、十萬餘騎を差副へて、京都へ上せらる。軍勢兵粮の爲とて、近國の莊園に臨時の夫役(ふやく)をぞ課(か)けらる。中にも新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)へ、「五日の中に六萬貫を沙汰すべし」と下知して譴責(けんせき)す。義貞、怒(いかつ)て使を討殺(うちころ)す。相撲入道、大に憤(いきどほり)て、武藏・上野の勢に仰せて、「新田太郎義貞、舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)を討つべし」と下知せらる。義貞、聞きて、當座の一族百五十騎、同五月八日に旗を擧げ、利根河に打出でしに、越後の一族里見・鳥山・田中・大井田の人々、二千餘騎にて來りたり。豫(かね)て内々相觸れける故なれば、甲・信兩國の源氏等、五千餘騎にて馳來る。東國の兵共、悉く來付(きたりつ)きて、その日の暮方には、二十萬七千餘騎にぞ成りにける。同九日、鎌倉より、金澤武藏守貞將に五萬餘騎を差し副へて、下河邊へ下され、櫻田治部〔の〕大輔貞國に六萬餘騎を副へて、入間河へ向けらる。同十一日より、軍、初り、鎌倉㔟、度々(たびたび)打負けて、利を失ふ。相摸入道、驚きて、四郎左近入道惠性(ゑしやう)を大將として、十萬餘騎を下さる。義貞、分倍(ぶんばい)の軍に打負け給ひしが、同十六日には鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す。東國の勢、新田に馳付く事、六十萬七千餘騎とぞ記しける。是より、三手に分けて鎌倉に押寄せて、藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘所に火を掛け、三方より攻入りけり。鎌倉にも、三手に分けて防がせらる。同十八日巳刻より合戰始り、互に命を限に攻戰ふ。萬人死して一人殘り、百陣破れて一陣になるとも、何(いつ)終(はつ)べき軍(いくさ)とも覺えす。今朝、洲崎へ向はれし赤橋相摸守は、數萬騎ありつる郎從も討たれ落散りて、僅に一、二百餘騎に成る。侍大將南條左衞門高直に向ひて仰せけるは、「この軍(いくさ)、敵、既に勝(かち)に乘るに似たり。盛時は足利殿には女性方の緣者たり。相摸人道も、その外の人々も、心を置き給ふらめ。我、何の面目かあらん」とて、腹切りて臥し給ふ。同志の侍九十餘人、同じ枕に自害しける。この手より、軍、破れて、義貞の官軍、山内まで入りにけり。すはや、敵は勝に乘りて、深く攻入りたりと云ふ程こそあれ。鎌倉勢諸手、皆、勢を失ひけり。極樂寺の切通へ向はれし大館(おほだちの)二郎宗氏は、本間(ほんまの)山城左衞門に討たれて、軍勢、片瀨へ引きけるを、義貞、二萬餘騎にて、同二十日の夜半に極樂寺坂にうち望む。稻村崎、道狹く、兵船を浮べ、櫓を搔きて、數萬の軍兵、防ぎけるが、鎌倉の運の盡(つく)る所、潮(うしほ)、俄に干瀉となり、二十餘町は平沙渺々たりし。漕浮(こぎうか)べし兵船は、潮に隨(したが)うて、遙の沖に漂へり。大將義貞、大に悦び、軍兵を進めらる。濱面(はまおもて)の在家に火を掛けたりければ、濱風に吹布(ふきしか)れ、二十餘所、同時に燃上る。相模〔の〕入道、千餘騎にて、葛西谷(かさいがやつ)に引籠(こも)られしかば、諸大將の兵共、東勝寺に充滿(みちみち)たり。大佛陸奧守貞直、三百餘騎にうちなされ、極樂寺の切通(きりどほし)にして、鎌倉殿の御屋形(やかた)に火の掛りしを見て、「今は是までなり」とて、郎從共は自害す。貞直は脇屋〔の〕義助の陣に蒐入(かけい)り、主從六十餘騎、皆、討たれ給ひけり。金澤武藏守貞將も、山〔の〕内の軍(いくさ)に手負ひければ、東勝寺に皈り、相摸〔の〕入道に暇乞ひし、大勢の中に掛入りて、討死せらる。普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)は、假粧坂(けはいざか)の軍に、二十餘騎に打なされて自害せられけり。鹽田陸奥入道道祐(だういう)、子息民舞〔の〕大輔俊時も自害し、鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)、子息三郎左衞門忠賴も腹切りて果てらる。相摸入道は諏訪(すはの)三郎盛高に向ひ、二男龜壽(かめじゆ)殿を預けらる。盛高、抱きて信濃に下り、諏訪〔の〕祝部(はふり)が本に隱置(かくしお)きけるが、建武元年の春、關東を劫略(ごふりやく)し、天下の大軍を起し、中前代(なかせんだい)の大將相模二郎と云ふは、是なり。嫡子萬壽殿をば、五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)、預りて、落行きたり。長崎〔の〕二郎高重、大剛武勇(だいがうぶよう)の名を現(あらは)し、東勝寺に立皈り、相摸〔の〕入道の前に來りて、「今は是迄候。早々(はやはや)御自害候へ。高重、先(さき)を仕る」とて腹切りて臥したり。長崎入道圓喜も死す。相摸入道も腹切り給へば、一族三十四人、惣じて門葉二百八十三人、皆、悉く自害して、屋形に火を掛けしかば、死骸は燒けて見えねども、殘る人は更になし。元弘三年五月二十二日、軍家北條九代の繁昌、一時(じ)に滅亡して、源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり。

[やぶちゃん注:遂にカタストロフがやってくる。但し、後醍醐の謀反以降の描写で判るように、筆者は平板な尊王年表的直線的記録の先端にぶら下がっている〈当然の終結展開の一事件〉としてしかこれを捉えておらず、修羅の鎌倉の惨状は、正直、呆れるほどにストイックにしてドライで、血の匂いもしない、パノラマ館の小さなジオラマのようにしか見えない。「平家物語」のような風情感懐的余韻を伴った文学的香気もなく、「太平記」のようなカット・バックを多用した講談的活劇の面白さも、一切、ない。真実、年代記として本書が書かれたものならば、それは寧ろ当然と言えるのであろうが、しかし、あの頼朝の奥州攻めでの、「吾妻鑑」を自在にマルチ・カメラに変えたリアリティに富んだ活劇性や、時頼を屋上屋で得宗の理想的権威者として塗りたくった狂信的パワーに比し、終盤、高時をテツテ的に愚昧な偏狂者として堕(だ)し、幕府滅亡の薄っぺらい罪状高札として掲げている辺り、残念乍ら、こと、ここに来たって、筆者の筆力の衰退或いは飽き性を物語っていると言えるように私は思う。特に「主上笠置御籠城 付 師賢登山 竝 楠旌を擧ぐ」以降の本文が、進むにつれて、恥も外聞もなく、「太平記」の〈貼り交ぜ日記〉調となっているのは誰が見ても明らかで、正直、ここまで電子化注を進めて来て、あと一章を残すのみ、という段になって、かなり、私は、内心の淋しさを感じざるを得ないのである。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十の二項目の「新田義貞謀叛事 付 天狗催越後勢(えちごぜいをもよほする)事」から「高時幷(ならびに)一門以下於東勝寺自害事」及び「将軍記」巻五の「同八日」、「保暦間記」や「日本王代一覧」を元としているとある。

「新田(につたの)太郎義貞」(正安三(一三〇一)年~延元三/暦応元(一三三八)年)の正式な名は源義貞。河内源氏義国流新田氏の本宗家八代目棟梁。新田朝氏の長男。以下、主に小学館「日本大百科全書」によって記す(但し、本シークエンス部分は、詳しいウィキの「新田義貞」から引く)。上野(こうずけ)国新田荘(しょう)(旧新田郡。現在の群馬県太田市・伊勢崎市・みどり市の各一部。郡域はウィキの「新田郡を参照されたい)を拠点とする豪族新田氏の惣領であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらも持たぬほどの、鎌倉幕府からは冷遇された一御家人に過ぎなかった。元弘の乱では「太平記」によれば、当初、幕府軍の一員として千早城攻撃に加わったが、その途中、帰国したとされる。ウィキの「新田義貞」によれば、『義貞は』鎌倉幕府『大番役として在京していたが』、『河内国で楠木正成の挙兵が起こると』、『幕府の動員命令に応じて、新田一族や里見氏、山名氏といった上野御家人らとともに河内へ正成討伐に向かい、 千早城の戦いで』『河内金剛山の搦手の攻撃に参加していたが』、この元弘三/正慶二(一三三三)年三月、『病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう』。ところが「太平記」では、この河内出兵中に、『義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している』のであるが、歴史学者『奥富敬之は、「護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい」、「文章の体裁が綸旨の形式ではない」などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない』。歴史学者山本隆志も、「太平記」の『記述にある義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している』。一方で、『義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる』。しかし、「太平記」には『後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はなく、綸旨の文章で書かれた令旨であったということになっている』とある。さて、ここで『義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使者との衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった』。『楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した』。同年四月、『新田荘には金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の淵名荘から赴いた』。『金沢と黒沼は「天役」を名目として』、六『万貫文もの軍資金をわずか』五『日の間という期限を設けて納入を迫ってきた』。『幕府がこれだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである』。『両者の行動はますます増長し、譴責の様相を呈してきたため、義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を笠に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で』、『世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で』は、『一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は』、『長年』、『世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった』。『また、長楽寺再建の完了時に幕府が楠木合戦の高額な軍資金を要求したことは、多額の再建費用を負担した義貞や世良田の住民にとっても許容しがたい行為であった』。『そのため、遂に義貞は憤激し、金沢を幽閉し、黒沼を斬り殺した』。『黒沼の首は世良田の宿に晒された。金沢は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると』、『幕府を刺激する』、『と義貞が懸念したとも考えられている』。『これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を、挙兵した日である』五月八日付で『長楽寺に寄進する文書を発給した』。『これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった』。『この文書が長楽寺にもたらされたのは義貞』が兵を進発させた『数日後であったと考えられている』とある(ウィキ引用はここまで)。ともかくも、こうして北条氏に背いて義貞は挙兵し、上野・越後に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら:現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら:現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、五月二十二日、鎌倉を攻め落とし、幕府を滅亡させたのであった。その功によって建武政権下では重用され、越後などの国司・武者所頭人、さらに昇進して左近衛中将などに任ぜられたが、やがて足利尊氏と激しく対立するようになり、建武二(一三三五)年、関東に下った尊氏を追撃するも、「箱根竹の下の合戦」で大敗、しかしその直後、上洛した尊氏を迎撃して「京都合戦」で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とした。延元元/建武三(一三三六)年、再挙した尊氏と摂津湊川・生田の森(現在の兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐天皇方は楠木正成らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金ヶ崎(えちぜんかながさき)城(現在の福井県敦賀市在)を拠点に再起を図ったが、翌年、これを失い、嫡男義顕(よしあき)も自刃した。その後、越前藤島(現在の福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉寺(へいせん)の衆徒の軍と合戦中、伏兵の急襲を受けて戦死した。義貞は、鎌倉攻めのために上野を出た後、遂に一度も故地上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義を中心に一族が纏まって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さも勿論だが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、僅かに弟脇屋義助(わきやよしすけ)・大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏ら、本宗系の庶子家しか動員し得なかった点に、既に義貞の非力さが存在した。にも拘らず、義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路を辿ることになったのであった。

「虛病(きよびやう)」仮病。

「舍弟四郎左近大夫泰家入道」北条泰家(?~ 建武二(一三三五)年?)。第九代執権北条貞時の四男で、第一四代執権北条高時相摸入道の同母弟。既出既注であるが、再掲しておく。ウィキの「北条泰家」によれば、『はじめ、相模四郎時利と号した』。正中三(一三二六)年、『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が』、『泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』。その後、翌年の二月に『南朝に呼応して信濃国麻績』(おみの)『御厨で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には建武』二『年末に野盗によって殺害されたとも言われて』おり、事実、「太平記」にも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。

「新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)」現在の群馬県太田市世良田町附近(グーグル・マップ・データ)。

「舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)」(嘉元三(一三〇五)年~興国三/康永元(一三四二)年)新田朝氏の次男で新田義貞の弟。ウィキの「脇屋義助」によれば、兄義貞に従い、『鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した』。『長じた後は脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから』、『名字を「脇屋」と称した』。『兄義貞が新田荘にて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵すると、関東近在の武家の援軍を受け』、『北条氏率いる幕府軍と戦う。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、上洛。諸将の論功行賞によって』、同年八月五日、『正五位下に叙位され、左衛門佐に任官した』。『また、同年、一時期、駿河守にも補任され、以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任した。また、この』頃に『設置された武者所では兄の義貞が頭人に補せられたのに伴い、義助も武者所の構成員となり、同所五番となった』。『その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した』。延元三/建武五(一三三八)年、『義貞が不慮の戦死を遂げると』、『越前国の宮方の指揮を引き継いだ。兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局室町幕府軍に敗れて越前から退いた』翌年九月には『従四位下に昇叙』している。興国三/康永元(一三四二)年、『中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡り、伊予の土居氏・得能氏を指導し、一時は勢力をふるったが、伊予国府で突如』、『発病し、そのまま病没した。享年』三十八であった。

「里見」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県群馬郡榛名町里見』(現在は高崎市上里見町)『の武士』で『新田の一族』とあり、『以下孰れも新田の一族』とする。

「鳥山」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県太田市鳥山の武士』とある。

「田中」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県新田郡新田町田中の武士』とある。現在は太田市内。

「大井田」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『新潟県十日町市の武士』とある。

「下河邊」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、利根川の『下流、埼玉県』北葛飾郡『の地の総称』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「櫻田治部〔の〕大輔貞國」北条(桜田)貞国(弘安一〇(一二八七)年?~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十一日)或いは同年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条氏一門。ウィキの「桜田貞国」によれば、『得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる』が、『その後の貞時・高時政権期の活動は不明である』。この時、『新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたった』『が、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れ』、『大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った』後、同月二十二日に『北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した』。『しかし、以上』は「太平記」に『見られるものであり、実際の史料ではそれより前の』、五月九日、『北条仲時らと共に』遙か離れた滋賀で『自害したとされる』。『いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである』とある。

「分倍(ぶんばい)の軍」五月十五日の一戦で「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」の第一次戦。分倍(ぶんばい)は現在の東京都府中市分梅(ぶばい)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。分倍河原(ぶばいがわら)はそこに含まれる。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)には、この日の敗退について、以下のようにある。幕府はこの前哨戦である小手指原及び久米川での幕府軍の『敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく』先に出た通り、『北条高時の弟北条泰家を大将とする』十『万の軍勢を派遣』して、『分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した』が、実は『義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた』。五月十五日、二日間の『休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始』したが、『援軍を得て』、『士気の高まっていた幕府軍に迎撃され、新田軍は堀兼(狭山市堀兼)まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き』、撤退している。『もし、幕府軍が』そのまま彼らを『追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている』。『しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した』とある。

「同十六日には、鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す」同第二次戦。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)によれば、前日に『敗走した義貞は、退却も検討していた』。『しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢』六千『騎で義貞に加勢した』。『大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した』もので、『また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている』とある。ともかくも、『義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる』ため、『忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌』十六『日早朝、義勝を先鋒として義貞は分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した』とある。

「藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘ケ所に火を掛け」「太平記」巻第十「鎌倉合戰〔の〕事」によれば、この「鎌倉合戦」緒戦を予告する狼煙ともいうべき包囲放火は「五月十八日の卯の刻」(午前六時前後)とする。

「三方より攻入りけり」北の巨福呂坂切通(現在の北鎌倉の山内(やまのうち)の建長寺門前から東山上を抜ける旧切通。現在は中間部が保存されておらず、通行も出来ない)・西中部からの化粧坂(けわいざか:洲崎・梶原を経て源氏山から扇ガ谷へ抜けるルート)・極楽寺坂(南西。稲村ヶ崎の要害で鎌倉合戦の最大の激戦地の一つ)の三方。

「同十八日巳刻より合戰始り」鎌倉幕府は、

元弘三年五月十八日から同月二十二日まで

の五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で

一三三三年六月三十日から七月四日

に当たる。因みに時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、

一三三三年七月八日から七月十二日

に相当する。「巳刻」は午前十時前後

「赤橋相摸守」最後の執権北条(赤橋)守時。

「南條左衞門高直」御内人であった武将南条左衛門尉高直(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)はサイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『南条氏は伊豆・南条を名字の地とする一族で、北条得宗被官(御内人)のうち重要な地位を占めたものと考えられている。得宗専制が強まるとともに幕府内で頭角を現したとみられ、「太平記」でも鎌倉末期の情勢の中で「南条」一族が何人か登場している。だが』、『その系図はまったく不明である』。『「太平記」で南条高直が初登場するのは巻二、二度目の討幕計画が発覚して逮捕された日野俊基が鎌倉に送られてきた時で、鎌倉に到着した俊基を受け取り、諏訪左衛門に預けさせた人物として「南条左衛門高直」の名が明記されている。なお、北条貞時の十三回忌法要』(元亨二(一三二二)年)『のなかに「南条左衛門入道」の名があるので、これが高直ではないかとする推測もある』。この鎌倉攻めの火蓋が切られた五月十八日、『執権・赤橋守時は巨福呂坂から洲崎(鎌倉北西部、山を越えた地域と思われる)へ出撃して新田軍と交戦、激戦の末に自害して果てた。「太平記」では自害の前に守時は南条高直を呼び寄せ、「妹が足利高氏の妻だから、高時どの以下、みな』、『私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と語った。守時の自害を見とどけた高直は「大将がすでにご自害された上は、士卒は誰のために命を惜しもうか。ではお供つかまつろう」と言ってただちに腹を切った。これを見て』、その場にあった九十『余名の兵たちも一斉に腹を切ったという』。『「梅松論」でも赤橋守時と同じ場所で命を落としたとして「南条左衛門尉」の名を挙げている』とある。本文の守時の述懐はその通りである。

「大館(おほだちの)二郎宗氏」(正応元(一二八八)年~正慶二/元弘三年五月十九日(一三三三年七月一日)は新田氏の支族の武将。ウィキの「大館宗氏」によれば、『祖父は新田政義、父は大舘家氏』。『鎌倉時代末期、岩松政経の代官である堯海と田嶋郷の用水を巡り』、『争論となり、控訴されて敗れる。この折りは『総領である新田家を無視し、大舘・岩松両家は幕府に直接裁定を申し出ている』。この時は『義兄弟にもあたる新田義貞を旗頭に、子息らや他の新田一族と共に鎌倉幕府に対し』、挙兵した。『宗氏は極楽寺切通しから突入する部隊の指揮を任され』、五月十八日、『稲村ヶ崎の海岸線から』『鎌倉市街突入を敢行しようとし』、一『度は北条軍を破って突破したが』、『大仏貞直が態勢を立て直すと』、『その配下の本間山城左衛門との戦闘で討死した』。「梅松論」に拠れば、同十八日『未明に稲村ヶ崎の海岸線から鎌倉にいったん進入するも、諏訪氏、長崎氏らの幕府方との戦闘となり、宗氏らは稲瀬川付近で戦死し、新田軍はいったん退却した、と記されている』。五月十八日を討ち死にの日とするのは「尊卑文脈」に『よるものだが』「太平記」は『死去の日時を』五月十九日としている。享年四十六。『宗氏の討死によって』、『この方面軍の指揮系統が消失したため、一旦』は『息子の氏明が軍を率いたが、宗氏討死の報を聞いた義貞が化粧坂方面を弟の脇屋義助に任せ』、二十一日に『極楽寺方面へ布陣してきたため、義貞が以降の指揮を取ることとなった』。『その後、義貞は防御の堅い極楽寺切通しの突破ではなく』、「梅松論」が『伝えるところの宗氏の突入と同じルート、すなわち稲村ヶ崎の海岸線から』二十一『日未明に鎌倉市街に突入したとされている』。『戦死した宗氏ら十一人は当初、御霊神社の付近に葬られ十一面観音が祭られたが、のちに改葬され、現在の稲村ヶ崎駅付近にある「十一人塚」に葬られているとされる』とある。

「本間(ほんまの)山城左衞門」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『村上源氏か』とある。日野資朝を処刑した佐渡守護「本間山城入道」の名が見えるが、彼は資朝処刑直後に死去しているとする系図資料があり、同一人物かどうかは不明。

「二十餘町」二十町は約二キロ百八十二メートル。

「平沙渺々」平らな砂浜が広々と広がるさま。

「濱面(はまおもて)」由比ヶ浜の正面。

「葛西谷(かさいがやつ)」現在の宝戒寺境内の南の、滑川(流域呼称は青砥川)を越えた東南の谷。山下に臨済宗青龍山東勝寺(北条泰時創建。この後、廃寺となり(次注参照)、現在は遺跡の一部の発掘後、埋め戻されて当該発掘地は平地(立入禁止)となっている)があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東勝寺」この時、建造物は焼失したが、直ちに再建されており、暫くは存続した。貫達人・川副武胤著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、『当寺がいつ廃したかは明らかではない。けれども永正九年(一五一二)五月二十日、古河公方足利政氏は妙徳を東勝寺住持に任じており(「東山文庫記録」)、この時まで存在していたことがわかる』とある。

「大佛陸奧守貞直」北条(大仏(おさらぎ))貞直(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は大仏流北条宗泰の子。ウィキの「北条貞直により引く。『得宗・北条貞時より偏諱を受けて貞直と名乗る』。『引付衆、引付頭人など要職を歴任して幕政に参与した』。元弘元(一三三一)年九月、貞直は『江馬越前入道(江馬時見)、金沢貞冬、足利高氏(のちの尊氏)らと共に大将軍として上洛し』、同月二十六日には『軍を率いて笠置に向けて進発し』、二『日後に攻め落とした(笠置山の戦い)』。十月の『赤坂城の戦いに勝利して戦功を挙げたことから、遠江・佐渡などの守護職を与えられ』ている。元弘二/正慶元(一三三二)年九月には、再び、『北条高時が派遣した上洛軍に加わり』、翌年二月から勃発した『千早城の戦いにも参加している』。『このとき、貞直は寄せ手の軍勢が大打撃を受けたことを見て、赤坂城攻めの経験から水攻め、兵糧攻めの策を講じている』。この時、『新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込んでくる(鎌倉の戦い)と』、『極楽寺口防衛の大将としてその迎撃に務め』、『新田軍の主将の一人である大館宗氏と戦い』一『度は突破を許したが』、『態勢を立て直して宗氏を討ち取り』、『堅守し』た。しかし、力及ばず、五月二十一日深夜、『攻防戦の要衝である霊山山から撤退するが、この時に残っていた兵力は』三百騎にまで減っていた。翌二十二日、『宗氏に代わって采配を取った脇屋義助(義貞の弟)の攻撃の前に遂に敗れて戦死した』。この時、『弟の宣政(のぶまさ)や子の顕秀(あきひで)らも共に戦死している』。彼は『武将としての能力だけでなく、和歌にも優れた教養人であったと伝わる』。『「太平記」でも北条一族の主要人物のひとりとして登場しており、鎌倉防衛戦においては巨福呂坂の守将・金沢貞将と共に最期の様子が描かれている』とある。

「金澤武藏守貞將」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。既出既注

「普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)」北条基時(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。普恩寺(ふおんじ)基時とも呼ぶ。「信忍」は法名。既出既注

「鹽田陸奥入道道祐(だういう)」北条(塩田)国時(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条一門の武士。ウィキの「北条国時」によれば、『父は極楽寺流の分流で塩田流の北条義政』(六波羅探題北方や連署を務めた北条重時(北条義時の三男)の五男。鎌倉幕府第六代連署(在任:文永一〇(一二七三)年~建治三(一二七七)年)。信濃国塩田荘に住したことから、義政から孫の俊時までの三代は塩田北条氏と呼ばれる)。徳治二(一三〇七)年、『二番引付頭人に就任』、応長元(一三一一)年、『一番引付頭人に就任』したが、二年後に辞任している。『元弘の乱における鎌倉幕府滅亡の際には鎌倉に駆けつけて宗家』北条氏『と運命を共にし、子の藤時・俊時らと共に自害した』。なお、元弘三(一三三三)年五月、『国時の子と見られる「陸奥六郎」が家人と共に籠城していた陸奥国安積郡佐々河城で宮方の攻撃を受けて落城している。また』建武二(一三三五)年八月一四日、『駿河国国府合戦では、国時の子と見られる「塩田陸奥八郎」が生け捕られている』とある。

「子息民舞〔の〕大輔俊時」(?~~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条国時の嫡男。ウィキの「北条俊時」によれば、元徳元(一三二九)年に『評定衆に任じられ、同』三年には『四番引付頭人に就任し』ている。「太平記」巻十「鹽田父子自害事」に『よると、父・国時の自害を促すため、自分の腹を掻き切り』、『自害して果て』ている。

「鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)」塩飽聖遠(しあくしょうえん/しょうおん ?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))は北条得宗家被官(御内人)。「太平記」の「鹽飽入道自害事」によれば、東勝寺で北条氏に殉じて、聖遠も自刃している。『自刃の際、嫡男である忠頼』(本文の「子息三郎左衞門忠賴」)『に出家をして生き延び』、『自身の弔いを促すも、忠頼は拒絶し』、『袖の下から抜いた刀で』、即座に『自害した。忠頼の弟である四郎も兄に続こうとするが』、『聖遠が制止し、自らの辞世の漢詩を書き付けた後、四郎に首を落とさせたと』ある(引用はウィキの「塩飽聖遠」)。この「太平記」の一章は短い章であるが、一読、忘れがたい

「諏訪(すはの)三郎盛高」「太平記」によれば、「諏訪左馬助入道が子息諏訪三郎盛高」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、この「諏訪(左馬助入道)」は『諏訪下社の神主家』とある。次注も参照されたい。

「二男龜壽(かめじゆ)殿」「中前代(なかせんだい)の大將相模二郎」北条高時の次男北条時行(?~正平八/文和二(一三五三)年)。当時は、兄(後注参照)の生年から考えると、満七歳以下である。以下、ウィキの「北条時行」から引く。この時、『時行は母』二位局『によって鎌倉から抜け出し、難を逃れていた。兄の邦時も鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣の五大院宗繁の裏切りによって新田方に捕らえられ』、『処刑されている』。『時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。時行を庇護した諏訪氏は代々諏訪大社の神官長を務めてきた家柄であり、頼重は時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていた』。幕府滅亡の二年後、『北条一族である北条泰家や鎌倉幕府の関係者達が北条氏の復興を図り、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立つ。泰家は得宗被官(御内人)の諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた』。「太平記」に『よれば、盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ』て『処刑された兄邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅し』、『二位局らを困惑させている隙に』、『時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後、二位局は悲観して入水自殺したという』。建武二(一三三五)年七月、『成長した時行は、後醍醐天皇による親政(建武の新政)に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった』。『建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し』、七月二十二日には女影原(おなかげはら:現在の埼玉県日高市)で『待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見(横浜市鶴見区)で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へ進軍』、『ついに尊氏の弟である足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破』って、七月二十五日に『鎌倉を奪回した』。その二日前、『直義は鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺害しているが、時行が前征夷大将軍である親王を擁立した場合には、宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった』。『鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか』という『議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった』。『直義と合流した尊氏は西進してくる時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび』に『破れ』、『退却を余儀なくされた』。『そして、ついには鎌倉にまで追い詰められ、時行軍は壊滅』、八月十九日に『諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら』四十三『人は勝長寿院で自害して果てた』。『自害した者達は皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと思われた』(事実は生き延びた)。『時行が鎌倉を占領していたのはわずか』二十『日ほどであるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に位置し、武家の府である鎌倉の一時的とはいえ』、『支配者となったことから、この時行らの軍事行動は「中先代の乱」と呼ばれる』。『また、この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与えるなどしたため、後醍醐天皇の勘気を被った。両者の亀裂は次第に深みを増してゆき、ついに尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり(延元の乱)、南北朝時代の幕開けとなった』。延元二(一三三七)年、時行は姿を現わし、『後醍醐天皇方の南朝に帰参し』て『勅免の綸旨を得ることに成功した』。『足利尊氏にとって、時行の挙兵は帝の疑心を招き、新田義貞や弟・直義との関係を悪化させるなどしたが、勝長寿院で自害したと思われていた時行が実は今だ生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を赦免され、南朝と結託したことは、さらに尊氏を驚かせた』。『時行が朝廷の許しを得るための交渉過程は詳しく判明していないが、後醍醐天皇より南朝への帰属を容認された上、父高時に対する朝敵恩赦の綸旨も受けている。時行による高時の朝敵撤回に関しては、後世に時行の子孫を自称した横井小楠から「この上ない親孝行である」と礼賛されている』。『時行が鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝、いわば仇敵と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだといわれるが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説もある。これに対し』、もともと、『時行は持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、中先代の乱後に上皇が足利尊氏と結んで持明院統を復活させる方針に転換し、尊氏と戦ってきた時行はこれを上皇の裏切り・切り捨てと解して、南朝と結んで尊氏と戦う道を選んだと解』する見解もある。『朝廷への帰参を果たした時行は、今度は南朝方の武将として各地で転戦した。時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を称揚した』。『南朝へ帰順した時行は東国へ向かい』、『北畠顕家の征西遠征軍に加わり、美濃青野原の戦いなどで足利軍と闘う。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた形の新田義貞と連携を取らず、足利方の諸軍との連戦で疲弊した末に和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。総大将の敗死により、北畠征西遠征軍は結果として瓦解してしまった』。『顕家が戦死したことにより』、『北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れし、今度は義貞の息子新田義興の軍勢に加わるなど、足利方に執拗に挑み続け』、正平七/文和元(千三百五十二)年には、『南朝方の北畠親房は北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる』。同年閏二月十五日には、『時行は新田義興・新田義宗、脇屋義治らとともに、上野国で挙兵し』、『また、同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵』、三日後の閏二月十八日、『時行や新田義興・脇屋義治らは三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉に入り占拠した(武蔵野合戦)』が、『別に戦っていた新田義宗が敗れて旗色が悪くなると』、三月二日に『鎌倉を脱出し、再び姿を晦ました。水面下でなおも尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていたとも伝わっている』。そして、「鶴岡社務録」などの『史料によれば、鎌倉を逃げた時行は遂に足利方に捕らえられ』、正平八(一三五三)年五月二十日、『鎌倉龍ノ口で処刑されたと伝わる。このとき、彼に付き従っていた長崎駿河四郎、工藤二郎も共に殺害された』とする。しかし、洞院公賢の日記「園太暦」や今川了俊の「難太平記」などに『よると、ここでも時行は脱走し、その行方を晦ましたとある。足利氏としては、未だ蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実をつくりたかったのであろう、とする説がある』。『以上のように』彼は『処刑されたことになっているが、時行の末路については、不明瞭な点が多い』とある。

「諏訪〔の〕祝部(はふり)」「太平記」では「はぶり」とルビする。諏訪神社の神官。

「建武元年」建武二年の誤り。一三三五年。

「劫略(ごふりやく)」古くは「こうりゃく」とも読んだ。脅して奪い取ること。

「嫡子萬壽殿」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。ウィキの「北条邦時」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は御内人五大院宗繁の妹(娘とする系図もある)』。『邦時の死後、中先代の乱を起こした北条時行は異母弟』。『元徳三年/元弘元年(一三三一年)十二月十五日に元服した時は七歳であり、逆算すると』、『生年は正中二年(一三二五年)となるが、同年十一月二十二日付の金沢貞顕の書状によれば、「太守御愛物」(高時の愛妾)である常葉前が同日暁、寅の刻に男子を生んだことが書かれており、貞顕が「若御前」と呼ぶこの男子がのちの邦時であったことが分かる。同書状では高時の母(大方殿・覚海円成)や正室の実家にあたる安達氏一門が御産所へ姿を現さなかったことも伝えており、嫡出子ではない(庶長子であった)邦時の誕生に不快を示したようである』。『翌三年(一三二六年、四月嘉暦に改元)三月十三日に高時が出家。その後継者として安達氏は高時の弟・泰家を推したが、泰家の執権就任を阻みたい長崎氏(円喜・高資など)によって邦時が後継者に推される。但し、当時の邦時は生後三カ月(数え年でも二歳)の幼児であって得宗の家督を継いだとしても』、『幕府の役職に就くことはできず、邦時成長までの中継ぎとして同月十六日に』、『長崎氏は連署であった貞顕を執権に就けるが、安達氏による貞顕暗殺の風聞が流れたこともあって貞顕は僅か十日で辞任(嘉暦の騒動)、代わって中継ぎの執権には赤橋守時が就任した』。『この後』、『元徳元年(一三二九年)の貞顕(法名崇顕)の書状には「太守禅閣嫡子若御前」とあって最終的に高時の後継者となったようであり、慣例に倣って七歳になった同三年(一三三一年)十二月に元服が行われた。儀式は幕府御所にて執り行われ、将軍・守邦親王の偏諱を受けて邦時と名乗った』。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月、 元弘の乱で新田義貞が鎌倉を攻めた際、邦時は父が自刃する前に伯父である五大院宗繁に託され』、鎌倉御府内に潜伏したが、『北条の残党狩りが進められる中で、宗繁が褒賞目当てに邦時を裏切ろうと考えた。邦時は宗繁に言いくるめられて別行動をとり、二十七日の夜半に鎌倉から伊豆山へと向かった。一方、宗繁がこれを新田軍の船田義昌に密告したため、二十八日の明け方に邦時は伊豆山へ向かう途上の相模川にて捕らえられてしまった。邦時はきつく縄で縛られて馬に乗せられ、白昼』、『鎌倉へ連行されたのち、翌二十九日の明け方に処刑された。享年』僅か九歳であった。『「太平記」では、連行される邦時の姿を見た人やそれを伝え聞いた人も、涙を流さなかった人はいなかった、と記している』。『ちなみに、宗繁は主君であり自身の肉親でもある邦時を売り飛ばし、死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され』、新田『義貞が処刑を決めたのち』、『辛くも逃亡したものの、誰一人として彼を助けようとはせず、時期は不明だが』、『餓死したと』される。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。「五大院高繁」とも呼ばれる。ウィキの「五大院宗繁」を一部、引いておく。元亨三(一三二三)年十月二十六日に『円覚寺で行われた九代執権北条貞時の十三回忌供養では禄役人の一人として名を連ねる』。『元弘の乱における幕府滅亡時に、妹婿である北条高時から嫡男の邦時(宗繁の甥にあたる)を託された』。「太平記」『巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によると、宗繁は高時から長年にわたり』、『恩を受けてきた人物であり、邦時を託される際に高時は「いかなる手段を使っても匿って守り抜き、時が来れば立ち上がって亡魂の恨みを和らげてほしい」と頼んだとされる』が、前の引用にあるようにそれを裏切って、邦時は処刑されてしまう。而して、先の通り、新田義貞の処刑命令を受けて逐電したが、『旧友らにも一椀の飯すら与えられず』、『見捨てられ、最期は乞食のようになり果てて』、『路傍で餓死したとされる』とある。

「長崎〔の〕二郎高重」(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)は北条氏得宗家被官(御内人)。かの最後の幕府の権力者、内管領長崎高資(長崎円喜の嫡男)の嫡男である。私には「太平記」の鎌倉合戦の中でも、最も忘れ難い、ヒップな武将である。同書巻第十の十四項目にある「長崎高重最期合戰〔の〕事」は途轍もなく凄い(「面白い」というよりも確かに「凄い」のである)。かなり長いが、私は七年前の二〇一一年十二月二十六日、私の新編鎌倉志卷之七の「崇壽寺舊跡」の条の注で、掟破りに全文電子化し、注と現代語訳まで附している。本「北條九代記」の鎌倉合戦の粗雑さを補うためにも、是非、お読みあれかし!!!

「源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり」言わずもがなであるが、北条氏は平氏であり、北条義時以降、その意のままに幕政が続いてきた。頼朝開幕以来、源氏を奉じてきた源氏を出自とする新田氏や足利氏らにとっては、まさに長年の「蟄懷」(ちっかい:心中の不満。潜在的な恨み)が、この一日(いちじつ)にして晴れたのである。]

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