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2018/06/21

北條九代記 卷第十二 相摸太郎邦時誅せらる 付 公家一統

 

      ○相摸太郎邦時誅せらる  公家一統

 

新田〔の〕小太郎義貞、鎌倉を攻干(せめほし)て、その威、遠近に輝く。東八國の諸將・諸侍、隨ひ屬(つ)く事、風に靡く草の如し。平氏恩顧の者共は降人(かうにん)になり、遁世すといへども、枝葉(しえふ)を枯(から)して殺さるる者、數知らず。五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)は、相摸〔の〕入道の重恩の侍にて、入道の嫡子相摸〔の〕太郎邦時は、宗繁が妹の腹の子なれば、甥(をひ)なり、主(しゆ)なり、何れに付けても、「貳心(ふたごゝを)あらじ」と深く賴みて、邦時を預けられけるを、「子細候はじ」と領掌(りやうじやう)して、鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ。平氏、滅亡して、その枝葉の殘りたるをば、皆搜し出(いだ)して誅しければ、宗繁、思ふやう、「果報、盡はてたる人を隱置(かくしお)きて、我が命を失はんよりは」とて、邦時は討手向ふ由を語り、「伊豆の御山(おやま)の方へ落ち給へ」とて、五月二十七日の夜半許(ばかり)に鎌倉を忍出(しのびいだ)し、中間(ちうげん)一人に太刀持(もた)せて、編笠・草鞋(わらんぢ)にて、足に任せて行き給ふ。宗繁は船田〔の〕入道が許(もと)に行きて、相模〔の〕太郎の訴人(そにん)を致しける。二十八日の曙に、相摸河の端(はた)に立ちて、渡し舟を待たれたり。討手の郎從、宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へけるに任せて、透間(すきま)なく、三騎まで走寄(はしりよつ)て、邦時を生捕(いけど)り、馬の乘せて、白晝に鎌倉に入れ、翌朝(よくてう)、竊(ひそか)に首を刎(は)ね奉りけり。宗繁は源氏に忠あるに似て、重恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし。因果歷然の道理は、踵(くびす)を囘(めぐ)らさず、と惡(にく)まぬ人は、なかりける。都には五月十二日、千種(ちくさの)忠顯・足利高氏・赤松圓心等(ら)、追々に早馬を立てて、六波羅滅却の由、船上(ふなのうへ)へ奏聞(そうもん)す。同二十三日、先帝、既に船上を御立ち有りて、山陰(さんいん)の東に催(うなが)されけり。播州書寫山より、兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)に入御ありけるに、新田義貞の早馬三騎、羽書(うしよ)を捧ぐ。相摸、沒落して、相摸〔の〕入道以下の一族、從類、不日(ふじつ)に追討し、東國靜謐(せいひつ)の由を注進す。主上を始め奉り、上下、喜悦の眉をぞ拓(ひら)き給ふ。楠多門兵衞正成、七千餘騎にて兵庫に參向し、是より、楠、前陣(せんぢん)として、六月五日の晩景に東寺まで臨幸あり。此所にて行列を立てられ、禁門にぞ入り給ひける。同七日に、菊池・小貳・大伴が早馬、同時に來り、「九國の探題英時を退治し、九州の朝敵、殘る所なく伐干(うちほ)し候」とぞ奏聞(そうもん)しける。束西南北一統して、公家の政道に皈(かへ)りけり。先帝重祚(てうそ)の後、「正慶の年號は廢帝(はいだい)の改元なり」とて捨られ、本(もと)の元弘にぞなされたる。同二年の夏、天下、賞罰・法令、悉く、公家の政(まつりごと)に出でしかば、諸方の流人を召返(めしかへ)され、諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し、太平の世とぞ響に成りにける。

 

  旹延寶三乙卯年冬吉旦

 

         書林

           梅林彌右衞門

 

鎌倉北條九代記卷第十二

 

[やぶちゃん注:最後の奥書部分は早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原典延宝三(一六七五)年板行本)こちらの画像で翻刻した。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十一巻頭の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎(相摸太郎を賺(すか)す)事」(「賺す」は「騙(だま)す」の意)、及び、「将軍記」巻五の「義貞」「廿七日」、及び、「日本王代一覧」巻六を元としているとある。本章を以って「北條九代記」は全篇が終わっている。私が「北條九代記」の電子化注を始めたのは、二〇一二年十月二十九日のことであったから、実に完遂に五年七ヶ月余りがかかったことになる。「和漢三才図会」のようなものを除き、単品の作品電子化注では今までは最も時間がかかった(しかもこれは教師を辞めてからの完全野人となってから仕儀である)。サイト版の作成を巻第一と巻第二で断念したが、残念な気はしていない(サイト版は誰からも讃辞は寄せられなかったし、その割にルビ付け作業が異様に大変だったこと、しかも理由不明(ソフトのバグと推定される)の突然の不具合によるルビ・タグ書き換えによる修正作業が死ぬほど辛かった(二日徹夜した)からである)。ともかくも最後に、最もお世話になった(特に「吾妻鑑」を元とした前半で)先の論文を書かれた湯浅佳子氏に改めて御礼を申し上げたい。また、ほぼ毎回、実に全二百五十四回の連載を読んで呉れた古い教え子にも心から感謝するものである。「ありがたう」。なお、標題の「公家一統」とは、本来の在り方であるべき朝廷・公家に政権が戻って天下が統一された、という謂いらしい。直に、武家に奪還されちゃうんだけどねぇ。

「相模太郎邦時」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。前章で既出既注

「平氏」平氏である北条氏。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。前章で既出既注

「子細候はじ」逐語的には「異議は御座らぬ」だが、まあ、「ご安心召されよ」「畏まって存ずる」の意。

「領掌(りやうじやう)」受諾。承知。

「鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ」「太平記」巻第十一の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎事」の「と領掌して、降人とぞなつたりける」という叙述を変質させている「太平記」のそれは、恐らく、宗繁は北条一党自害の前に、高時の懇請通り、東勝寺から邦時とともに鎌倉御府内のどこかに連れて行って隠した上で、自らは新田軍にわざと降伏した、というのである。それは、当初は邦時を今後、何とかもっと安全な所へ逃すための、自分がある程度は自由に動ける身にしておくための方途であったのであり、それは「情けな」い行為ではないのである。しかし、取り敢えず命は助かって、ある程度、身の自由な積極的投降者を演じながら、それとなく様子を見ていると、滅亡直後から厳しい北条の残党狩りが行われ、そうした者を新田軍に差し出した「捕手(とりて)は所領を預かり、隱せる者は忽ちに誅せらるる事多」(「太平記」の記載。次も同じ)きを見るにつけ、「五大院右衞門、これを見て、『いやいや果報盡き果てたる人を扶持(ふち)せんとて、たまたま遁れ得たる命を失はんよりは、この人の在所を知つたる由、源氏の兵(つはもの)に告ぐて、ふたごころなきところを顯はし、所領の一所をも安堵せばや』と思」ったからこそ、ここにある通り、「情な」くも、邦時を騙し、結局、新田義貞に密告するのである。そうした人の微妙な心の揺らぎを筆者は無視している。最後に至って、私はここを読んで、やや不快になった。多分、私が郷土鎌倉に強い愛着を持っていることと(私は荏柄天神の境内に生まれ、六地蔵の側で育った)、後醍醐が大嫌いなことと無縁ではあるまい。

「伊豆の御山(おやま)」現在の熱海市の伊豆山。伊豆山神社を中心に、頼朝が流人時代から崇敬していた伊豆山権現を祀り、その峻嶮な地勢と僧兵らを以って一つの勢力を形成していた。

「五月二十七日」既に見た通り、幕府滅亡は元弘三(一三三三)年五月二十二日である。

「船田〔の〕入道」。新田義貞の執事船田義昌(?~建武三(一三三六)年)。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、執事は『武家にあって、その家政に従事する者の長』とし、この船田は『群馬県山田・勢多(せた)両郡の地の豪族』で『義貞が去就に迷っていた時の相談相手になっていた』とある。後も義貞に仕え、義貞が足利軍に制圧された京都の奪還を目指した戦いの最中、戦死している。

「訴人(そにん)」ここは「訴え出ること」を指す。「太平記」は、

   *

五大院右衞門は、かやうにして、この人をば賺し出だしぬ。

『われと打つて出ださば、「年來(としごろ)、奉公の好(よしみ)を忘れたる者よ」と、人に指を差されつべし。便宜(びんぎ)好からんずる源氏の侍(さぶらひ)に討たせて、勳功を分けて知行せばや。』

と思ひければ、急ぎ、船田入道がもとに行きて、

「相摸の太郎殿の在所をこそ、くはしく聞き出でて候へ、他の勢を交へずして、打つて出でられ候はば、定めて勳功、異に候はんか。告げ申し候ふ忠には、一所懸命の地を安堵つかまつるやうに、御吹擧(ごすゐきよ)に預り候はん。」

と云ひければ、船田入道、心中には、

『惡(にく)き者の言ひやうかな。』

と思ひながら、

「まづ、子細非じ」

と約束して、五大院右衞門尉もろともに、相摸太郎の落ち行きける道をさへぎつてぞ待たせける。

   *

とある。ここで既に、船田でさえ、宗繁の欲絡みの慇懃無礼な物の言い方に不快を覚えている。しかし、ここまで来れば、まさに毒を喰らわば皿まで、である。以下、その辺の悲惨のリアルな映像を、ちゃんと見よう。

「討手の郎從」船田の郎等である。

『宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へける』「太平記」は、

   *

相摸太郎、道に相ひ待つ敵ありとも思ひ寄らず、五月二十八日曙に、殘ましげなる窶(やつ)れ姿にて、

『相摸河を渡らん。』

と、渡し守を待つて、岸の上に立ちたりけるを、五大院の右衞門、餘所(よそ)に立つて、

「あれこそ、すは、件(くだん)の人よ。」

と教へければ、船田が郎等三騎、馬より飛んで下り、透き間もなく、生け捕りたてまつる。

 にはかの事にて張輿(はりごし)なんどもなければ、馬に乗せ、舟の繩にて、したたかにこれをいましめ、中間二人(ににん)に馬の口を引かせて、白晝に鎌倉へ入れたてまつる。これを見聞く人ごとに、袖を絞らぬはなかりけり。この人、未だ幼稚の身なれば、何程(なにほど)の事かあるべけれども、朝敵の長男にておはすれば、

「さしおくべきにあらず。」

とて、則ち、翌日の曉(あかつき)、潛かに首を刎ねたてまつる。

   *

この処刑された時、「北条系図」では邦時は数え十五とするが、現在の推定される誕生日からは未だ満八歳であった。

「宗繁は源氏に忠あるに似て」宗繁は平氏北条を滅ぼしたる源氏(新田ら)に忠義を尽くしたかのように見えながら。

『恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし』「太平記」は前章の注で示した通り、

   *

年來(としごろ)の主(しゆ)を敵に討たせて、欲心に義を忘れたる五大院右衞門が心のほど、

「希有なり。」

「不道なり。」

と、見る人ごとに、爪彈(つまはじ)きをして憎みしかば、義貞、

「げにも。」

と聞き給ひて、

「これをも誅すべし。」

と、内々、その儀、定まりければ、宗繁、これを傳へ聞いて、ここかしこに隱れ行きけるが、梟惡(けうあく)の罪、身を譴(せ)めけるにや、三界廣しと雖も、一身を置くに所なく、故舊(こきう)と雖も、一飯を與ふる人無くして、遂に乞食(こつじき)の如くに成り果てて、道路の岐(ちまた)にして、飢死(うゑじ)にけるとぞ聞えし。

   *

と終わっている。

「踵(くびす)を囘(めぐ)らさず」踵(かかと)をくるっと回すほどの僅かの時間もない、の意で、ここは「瞬く間」の意。応報迅速であること。

「播州書寫山」現在の兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗書寫山圓教寺(えんぎょうじ)。、康保三(九六六)年に性空(しょうくう)が創建したと伝える。中世には比叡山・大山(だいせん)とともに、『天台宗の三大道場と称された巨刹で』あり、『京都から遠い地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』とウィキの「圓教寺にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)」現在の兵庫県神戸市兵庫区門口町にある臨済宗巨鼈山(こごうさん)福厳寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「福厳寺」によれば、『開創年代は不明。開山は仏僧国師約翁徳倹』。「摂津名所図会」に元弘三(一三三三)年五月『晦日に後醍醐天皇が』『京へ戻る途中に入り』、六『月朔日、大般若経を転読させたとある』。『赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎が』後醍醐をこの寺で『出迎えた』という。

「禁門」皇居。宮中。

「菊池」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、かの道長の長兄『藤原道隆の子孫、菊池二郎武時の息、武重か』とある。

「小貳」(読みは「せうに(しょうに)」)同前の山下氏の注によれば、『源平時代、藤原(武藤)頼兼が太宰少弐に任ぜられ』、『この地に土着したことから』、『これを称する。大友氏とともに鎮西奉行を世襲。貞経(法名妙慧(みょうえ))がその息頼尚(よりなお)とともに英時討伐に参加している』とある。

「大「大友」の誤り元鎌倉幕府鎮西奉行であった大友貞宗(さだむね ?~元弘三/正慶二(一三三四)年)。同前の山下氏の注によれば、『藤原秀郷(ひでさと)の子孫、親時(ちかとき)の息貞宗。鎮西奉行として、九州の御家人を支配した』とある。ウィキの「大友貞宗によれば、大友氏第六代当主。『「貞」の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる』。応長元(一三一一)年、『兄の貞親が死去したため、その後を継いで当主となる。幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時に仕えて』、元弘三/正慶二(一三三三)年三月、菊池武時が『後醍醐天皇の密命を受け』、『攻め寄せた』時には、『英時や少弐貞経らと』とも『敗死させ』ている。『その後も九州における討幕軍の追討に務めたが』、同年五月、『足利尊氏らによって京都の六波羅探題が攻略され、討幕軍優勢が九州にまで伝わると、貞宗は貞経や島津氏らと』ともに、『英時から離反し』、逆に『これを攻め滅ぼした。その功績により』、『豊後国の守護』『を与えられたが、同年十二月三日、『京都で急死した』。『その突然の死には、英時の亡霊による祟りという噂もあった』とある。

「九國の探題英時」北条(赤橋)英時(?~正慶二/元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日)。父は、北条長時の曾孫北条久時。幕府最後の執権となった北条守時の弟。既出既注

「先帝重祚(てうそ)」親後醍醐の筆者にしてこれは甚だ誤った言い方である。後醍醐は光厳天皇の皇位を全否定して、親政(建武の親政)を開始するのであって、後醍醐は、あくまで自身の譲位を認めていないのであり、溯る十五年前の文保二年二月二十六日(一三一八年三月二十九日)の即位からずっと継続して在位していると、この時、主張したのである。従って当然、自らの「重祚」(復位)という言い方自体を後醍醐は認めないのである。

「廢帝(はいだい)」光厳院。

「同二年」元弘三年の誤り

「諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し」旧幕府や親幕派公卿によって不当に官職を追われていた公家の方々は、それぞれ以前の官職に戻り。

「旹」「時」の異体字。「ときに」と訓じていよう。

「延寶三乙卯」「乙卯」は「きのとう」。グレゴリオ暦一六七五年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「初冬」陰暦十月の異称。

「吉旦」「吉日」。

「書林」書肆。出版元。

「梅林彌右衞門」京都の本屋であること以外は不明。]

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