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2018/06/23

諸國里人談卷之三 立山

 

    ○立山

立山は越中國新川郡(にゐかはのこほり[やぶちゃん注:ママ。「新川」の正しい歴史的仮名遣は「にひかは」。])なり。祭神、伊弉諾尊(いさなみのみこと)。力尾社(ちからをのやしろ)は手力雄命(たちからのみこと)也。是、麓(ふもと)の大宮(おほみや)也。此より絶頂まで三里余、其間、旧跡多し。此嶽(たけ)は佛尊の貌(かたち)に似たり。膝を「一の越(こし)」とし、腰腹(こしはら)を「二の越」、肩を「三の越」、頭を「四の越」、頂上佛面(ぶつめん)を「五の越」とす。市の谷(や)へ行道に、「小鏈(こぐさり)」[やぶちゃん注:「鏈」は「鎖」に同じい。]・「大鏈(おほぐさり)」とて、鏈(くさり)に縋(すが)りて登る所、有〔あり〕。此鏈は三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)が作る所なり。「地獄道(ぢごくみち)」に地藏堂あり。每年七月十五日の夜、胡蝶(こてふ)、あまた、此原に出〔いで〕て舞遊(まひあそぶ)ぶ。これを「精霊市(しやうりやういち)」といふ也。「一の越」より「五の越」まで、各堂あり。一宇一所づゝに、暖(あたゝか)なる地あり。これを「九品(くほん)」といふ也。行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也。

「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。

云、此山にして願へば、思ふ人の亡霊、影のごとくに見ゆる、となり。

元祿のころ、江戸牛込、小池何某、同行〔どうぎやう〕三人、禪定(ぜんぢやう)しけるに、歸路に趣く時、行(ゆき)くれて、道の邊(ほとり)の木陰に一夜(や)をあかし、夜すがら、念佛して居たるに、誰人(たれひと)ともしらず、

「これこれ、同者衆、食事、まゐらせん。」

と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す。

「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」

と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしなひ、

「かほど近くに人家あらば、宿(やど)せんずるに、しらざれば、是非なし。」

など、いひて、夜、明(あけ)たり。

「かの椀を歸さん。」

と、邊(あたり)を見れども、人倫たへたる[やぶちゃん注:ママ。]所にて、人家、なし。

やうやうにして、一里ばかり下(くだ)りて、五、七軒の里、あり。或家に入〔いり〕て、湯茶を設け、夜中(やちう)の事をかたるに、

「その邊には、中々、人里、なし。」

となり。

件(くだん)の椀を出〔いだ〕し、見せければ、主(あるじ)、興をさまし、

「これは。向ふなる家の息(むすこ)が椀也。頃日(このごろ)、死(しゝ)て、今日、則(すなはち)、一七日〔ひとなぬか〕なり。」

と、かの家に伴ひ行て、しだいを語りければ、兩親、大に悲歎し、朝餉(あさがれひ)をすゝめて饗應しける、と也。

[やぶちゃん注:最後の「俗云、此山にして願へば……」以下の部分は原典では改行がないが、直接話法が多く、特異な怪奇談なれば、恣意的に改行を施した

「立山は越中國新川郡なり」現在は富山県中新川郡の立山町芦峅寺(あしくらじ)内である。標高は雄山(おやま)が三千三メートル、大汝山(おおなんじやま)が三千十五メートル、富士ノ折立(ふじのおりたて)が二千九百九十九メートルの三峰から成る総山体を「立山」と呼ぶ(或いは雄山と大汝山に南側の浄土山(二千八百八十七メートル)と北側の別山(べつさん:二千八百八十二メートル)を加えたもの)。立山はいずれも古期の花コウ。雄山のみを立山と呼ぶのは厳密には誤りである。立山連峰に「立山」という名の単独峰は存在しないからである。私は後に出る剣岳(二千九百九十九メートル)を含め、総て登攀した。

「祭神、伊弉諾尊」まずは、現在の雄山神社。霊峰立山自体が神体であり、立山の神として伊邪那岐神(江戸時代までは立山権現雄山神で本地阿弥陀如来)・天手力雄神(あめのたぢからおのかみ:同じく太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀ったもので、神仏習合の時代は神道よりも仏教色が強い、立山修験の神聖な道場であった。現行では、峰本社(みねほんしゃ)・中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)・前立社壇(まえだてしゃだん)の三社を以って雄山神社とする。各社の位置などは「立山大権現 雄山神社」公式サイトを見られたい。

「力尾社(ちからをのやしろ)」原典は①も③も確かに「力尾社」なのであるが、どうも読んだ当初から、魚の骨が咽喉に刺さったような違和感があったのだ。沾涼は後で「麓(ふもと)の大宮(おほみや)也」と言ってしまっているから、「ここは大きな前立社壇(ここ(グーグル・マップ・データ))を指していると読んで、何の不都合がある?」と文句を言われそうなのだが、しかし、やはり、どうもすっきりしないのだ。実はもっとおかしいこともある。それは、沾涼は後で「此より」本社のある雄山「絶頂まで三里余」と言っている点である。この短い距離では、中宮祈願殿でさえも遠過ぎるのである(地図上の直線でも二十キロメートルを超えてしまう)。思うに、沾涼は立山に実際には行ってないのではないか? 誰彼からの不確かな情報を無批判に繫ぎ合わせてしまったのが、この解説なのではないか? という疑惑である。しかも、この私の猜疑心の火に油を注ぐのは、本条の記載の幾つも箇所が、またしても、先行する寺島良安の「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」との有意な一致を見るのである。確かに雄山神社は本殿で天手力雄神も祀りはする。しかし、「雄山神社前立社壇」や「中宮祈願殿」が江戸以前は「力尾社」と呼ばれていたというのであれば引き下がるが、調べた限りではそのような事実はないようである。そうして彼の別名は前注で見る通り、太刀尾天神剱岳神である。則ち、私はこの「社」とは、雄山神社の併祀する彼を指しているのではなく、天手力雄神=太刀尾天神剱岳神を主祭神として祀っている神「社」を指しているのではないか? という疑義であり、最初に思ったのは本当に「力尾社」なのか? という疑いだったのである。そう、これは実は「刀尾社」なのではないか? という、謂わば〈烏焉馬の誤り〉的推理だ。調べてみると、あるのだ! 「刀尾神社」が! 「たちおじんじゃ」と読み、場所は芦峅寺内ではないが、富山市太田南町で、立山参りのアプローチ地点に当たる位置にあり(ここ(グーグル・マップ・データ))、サイト「北陸物語」の青木氏の記事「刀尾神社」によれば(写真有り。今は田舎の静かな社といった感じ)、立山の開山者である慈興上人が雄山神社の『前立の神としてこの地に社殿を作ったと言い伝えられて』おり、『手力男命(たぢからおのみこと)を主祭と』しつつ、その権現化されたところの『剱岳の地主神刀尾天神 (刀尾権現)を祀』っているとあり、しかも『昔は、西国方面からの立山参詣者は必ず立ち寄ったと言われてい』いるとあるのである。なお、他にも「刀尾宮」はありはする(例えばここ(グーグル・マップ・データ))。最後に極めつけと思しいものを掲げておく。沾涼が秘かに引いたのであろう「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」の頭の部分には、原典では確かに、

   *

力尾權現社手力雄命(タヂカラヲノミコト)也

   *

とあるのだが、東洋文庫版現代語訳では、ここがわざわざ、

   *

『刀尾(たちお)権現社の祭神は手力雄命(たぢからおのみこと)である。

   *

と訳してあるのである。東洋文庫の訳者が、今度は、「力」を「刀」に見間違えたんですかねえ? わざわざルビまで振ってですよ? 如何? さても大方の御叱正を俟つものである。

「三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)」平安時代の名刀工三条宗近(むねちか 生没年未詳)の通呼称。永延(九八七年~九八九年)頃、京都三条に住したと伝え三条小鍛冶。現存作は極めて少なく、御物の「宗近」銘の太刀と、「三条」銘の名物「三日月宗近」の太刀がよく知られる。ことに後者は室町以来、天下五剣の一つに挙げられており、細身で小切先、反りの高い太刀姿は日本刀の中では、最も古雅にして品格があるものと評される。因みに、能の「小鍛冶」で、白狐を相槌に、太刀を鍛える刀工は、この宗近である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「地獄道(ぢごくみち)」地獄谷(ここ(グーグル・マップ・データ))に向かうルートであろう。

「地藏堂」「和漢三才図会」では、「立山」の概説部の『○室堂』の条の中で、現在の「ミクリガ池」らしき『神池』の後に、

   *

地獄道追分地藏堂毎歳七月十五日夜胡蝶數多(アマタ)出遊於此原生靈市髙率塔婆(タカソトバ)無緣菩提

   *

とあり、後の「地獄谷」の項の下にも割注で『有地藏堂』とあるから、確実にこの地蔵堂は地獄谷の中にあると読める。万葉の昔より、蝶は虚空を舞う奇体なもの、魂のシンボルとされていたと思われる。また、花同様に死体に群がることもある点で、蝶は美しいものとしてよりも、古くは忌まわしいものとしての認識が強かったと推察される。因みに、以上の引用からも、沾涼が、性懲りもなく、またまた「和漢三才図会」を丸ごと引用していることが、よぅく判る

「精霊市(しやうりやういち)」「市」は意味有り気に群集することを指すのであろう。

「九品(くほん)」五箇所の地熱の高い温まれる場所(或いは名数として九箇所あったのかも知れない)を、仏教に於ける往生の仕方の階級様態(下品下・中・上生から上品上生に至る九階梯)である「九品往生」に擬えたのであろう。「雄山神社」公式サイト白鷹伝 立山開山縁起(略記)にも『阿弥陀如来と不動明王の二尊』の御告げの中に『我、濁世の衆生を救わんが為、十界をこの山に現し、幾千万年の劫初より山の開ける因縁を待てり。この立山は峰に九品の浄土を整え、谷に一百三十六地獄の形相を現し、因果の理法を証示せり』という一節が出る。

「行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也」それぞれの参詣登山をする者は、それぞれ自身の様子を見計らって、これらの各堂のどこかで、それまで身を助けた杖や草鞋を置いて山上の本社に参るのである。

『「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ)たり』「和漢三才図会」に、

   *

○地獄谷【有地藏堂】八大地獄【各有十六別處】共百三十六地獄血池【水色赤如ㇾ血】處處猛火(キヤウクハ)燃起(モヘタチ[やぶちゃん注:ママ。])罵言(メリ[やぶちゃん注:ママ。])號泣(ガウキウ)ノ如ク人潰(ツブ)ㇾ肝(キモ)劔(ツルキ)【山腰石塔不思儀石塔】岩石峙(ソバタ)鋒過刃(キツサキ)嶮岨不ㇾ可ㇾ言

   *

とある。沾涼、流石にマズいと思うたか、ちょこちょこっと言い方を変えているところが、セコいね。

「俗云、此山にして願へば、思ふ人の亡霊、影のごとくに見ゆる……」以下の話は沾涼のオリジナルか。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「江戸牛込」現在の東京都新宿区神楽坂周辺。

「禪定(ぜんぢやう)」この場合、一般には「修験道の行者が霊山に登ってする修行」を本来は指すのであるが、転じて、単に霊山の参詣登山を言っている。

「趣く」「赴く」。

「行(ゆき)くれて」下山が遅かったために、歩いているうちに日が暮れてしまい。

「同者衆」これは「同じ修験参詣のお方衆」という謂いではなく、恐らく「道者衆」のことと思われる立山では禅定登山には「道者衆(どうしゃしゅう)」と「参連衆(まいれんしゅう)」と二つの区別があったのである。こちらのむかしあったとぉ~(立山のちょっと昔の話) 道者衆と参連衆についてというページ(家が古くからの立山の「日光坊」という宿坊であった方の少年期の回想である)によれば、『宿坊に来られた人達は、道者衆と参連衆に分けることができました。宿坊の衆徒たちが、毎年各地の檀那場に出向き、立山曼荼羅を掛けて絵解き(解説)を行い』、『布教します。信者の方々が感動して』、『ぜひ』、『現地で体験したいと、少人数のグループで立山においでになります。この人達のことを道者衆(どうしゃしゅう)と言います』。『道者衆は、白装束で「立山禅定」と書かれた網代笠をつけ、布教を受けた衆徒の宿坊に』、『特別に村の講社の事務所を通さず』、『直接』、『宿泊ができます。子供の頃、父に「○○様お迎え」と書いた西洋紙をもらって』、『駅の待合室で電車を待ち、その紙をはにかみながら』、『顔の前に差し上げたことを覚えています。すると』、『向こうから「私です」と声がかかり、「お迎えに来ました」と先頭に立って、途中簡単な説明をしながら「ここが日光坊です」と、家まで案内しました。道者衆は、敷台(来客専用玄関)で草鞋を脱ぎ、足を洗って家に入り、衆徒と対面し、久しぶりの挨拶を交わします』。『一方、檀那場以外(担当布教地区外で師壇関係のない地区)から来られた人達を参連衆(まいれんしゅう)と言い、身につける衣類も』、『黒か紺の生地で、上着とズボン(タッツケ)に分けられ、笠も「立山登拝」と書かれた普通の笠をつけます。参連衆は、講社の事務所に宿泊を届け出、そこで指定された宿に行き、前の小川で足を洗って広間に入ります』。『食事は、道者衆が、宿代無料で』、『朱塗りのお椀とお膳でサービス付きであったのに、参連衆は、有料で』、『黒塗りのお椀とお膳でセルフサービスと接待の差があったことが脳裏に浮かんできます』とある。ここで、無賃で「食事、まゐらせん。」「と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す」のを、その通りに、「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」「と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしな」ったとあるのは、まさに「道者衆」ならではと思うのである。

「人倫」ここは単に「人間」の意。

「一七日〔ひとなぬか〕」「いつ(いち)しちにち」とも読む。初七日のこと。]

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