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2018/06/20

北條九代記 卷第十二 足利高氏上洛 付 六波羅沒落

 

      ○足利高氏上洛  六波羅沒落

 

鎌倉には、先帝宮方軍兵、駈付けて、京都を攻むべき由、聞きて、相摸〔の〕入道、評定有りて、名越尾張守を大將として、外樣の大名二十人を催さる。その中に、足利治部大輔高氏は父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て、しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず、上洛の催促、度々に及びしかば、心中に憤(いきどほり)を含み、『先帝の御味方に參り、六波羅を攻亡(せめほろぼ)さん』とぞ思立(おもひた)たれける。相摸入道、この事は思寄(おもひよ)らず、一日に兩度の催促をぞ致されたる。足利殿、異義に及ばず、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」と聞えしかば、長崎入道圓喜、怪(あやし)み思ひて、「相模入道に心を入れつゝ、起請文を書きて、別心なき旨、不審を散(さん)ぜらるべし」と申遣す。高氏、愈(いよいよ)欝胸(うつきよう)しながら、舍弟民部大輔直義(なほよし)に意見を問はれければ、直義、思案して、「御臺は赤橋殿の御娘なり。公達は御孫なれば、自然の事もあらんには、見捨て給ふべからず。又、その爲に郎從を殘置(のこしお)かれ、隱し奉るに難(かた)かるべからず。先(まづ)、相摸入道の不審を散じて、御上洛有りて、大義をも思召立ち給へかし」とあり。高氏、「實(げに)も」とて、子息千壽王殿と御臺とを赤橋相州に預け、起請文を相摸入道に參らせらる。相摸入道、不審を散じ、高氏を招請し、御先祖累代の白旗(しらはた)あり、錦の袋に入りながら參らせらる。足利殿兄弟・吉良・上杉・仁木(につき)・細川・今川以下の一族三十二人、高家(かうけ)の一類四十三人、その勢三千餘騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立ちて、名越尾張守高家に三日さきだちて、四月十六日に京著し、次の日、船上(ふなのうへ)へ潛(ひそか)に使を參らせ、綸旨をぞ賜りける。名越尾張守は、大手の大將として、七千六百餘騎、鳥羽の作道(つくりみち)より向はる。足利治部大輔高氏は搦手の大將として、五千餘騎、西郊(にしのをか)より向はれけり。八幡・山崎の官軍、是を聞きて、三手に分けて待掛けたり。尾張守高家、その出立(いでたち)、花(はなやか)に人目に立ちて見えけるが、官軍の中より、佐用(さよの)左衞門三郎範家とて、の精兵(せいびやう)、步立(かちだち)に成りて、畔(くろ)を傳ひ、籔(やぶ)を潛(くゞ)り、狙寄(ねらひよ)りて、一矢、射ければ、高家の甲(かぶと)の眞甲(まつかふ)の端(はづれ)、眉間の眞中に中(あた)りて、腦、碎け、骨、烈(さ)け、項(うなじ)へ、矢鋭(さき)、白く射出しける間(あひだ)、馬より落ちて、死に給ふ。官軍は鬨を作りて攻掛(せめかゝ)る。名越殿の七千餘騎、大將を討(うた)せて、狐河(きつねがは)より、鳥羽の邊迄、皆、伐干(うちほさ)れて臥(ふ)しにけり。足利殿は桂河の西の端に下居(おりゐ)て軍(いくさ)をも初(はじめ)ず、「大手の大將、討たれたり」と聞えしかば、「さらば」とて、山崎を外(よそ)に見て、丹波路を西へ、篠村(しのむら)を差して赴き給へば、軍兵、馳付きて、二萬三千餘騎になる。同五月七日、官軍、「既に攻べし」とて、三方に篝(かゞり)を焚きて取囘(とりまは)す。東山道一方計(ばかり)ぞ開(ひら)けたる。足利殿、篠村を出でて、右近馬揚(うこんのばゝ)に至り給へば、軍兵五萬餘騎に及べり。六波羅には六萬餘騎を三手に分けて差向けらる。赤松入道圓心は、三千餘騎にて、東寺に押寄せけるに、内野も東寺も軍に打負けて、皆、六波羅に逃籠(にげこも)る。四方の官軍、五萬餘騎、六波羅を圍みつ、態(わざ)と東一方をば、開(あ)けたり。城中、色めき立ちて、夜に紛れて落失せければ、僅に千騎にも足らざりけり。主上・上皇・國母・女院、皆、步跣(かちはだし)にて城を落出で給ふ。六波羅の南の方、左近將監時益、行幸の御前(みさき)、仕り、北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら、城を出でて、十四、五町にして、顧みれば、敵、早、六波羅の館に火を懸けて、雲煙と燒上(やきあが)る。苦集滅道(くすめぢ)の邊にして左近將監時益は、野伏(のぶし)の流矢に頸の骨を射られて死ければ、力なく、その日、漸(やうや)う篠原の宿に著き、是より千餘騎の軍兵、落ちて、七百騎にも足らず。龍駕(りうが)、已に番馬の峠を越(こゆ)る所に、數千の敵、峠に待掛けたり。後陣も續かねば、麓(ふもと)の辻堂に下居(おりゐ)て、進退此所に谷(きは)まりつゝ、越後守仲時、自害せらる。是を初として、佐々木隱岐前司淸高父子・高橋〔の〕九郎左衞門・隅田(すだの)源七左衞門を宗(むね)として、一族郎從、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切りにける。主上・上皇は、忙然としておはしましけるを、五〔の〕宮の爲に囚はれて、都へ皈(かへ)り上らせ給ふ。楠正成が籠りし千劍破(ちはや)の城の寄手、「六波羅、沒落す」と聞きて、南都を差して落行きけるが、野伏共(ども)に討たれて、大將計(ばかり)ぞ辛じて遁れける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第九の巻頭「足利殿御上洛〔の〕事」から、同巻の八項目「越後守仲時以下於番馬(ばんばにおいて)自害事」の拠るとする。

「先帝宮方軍兵」先の後醍醐天皇と護良親王方の軍兵。

「相摸〔の〕入道」元執権北条高時。

「名越尾張守」北条(名越)高家(?~元弘三年四月二十七日(一三三三年六月十日)。ウィキの「北条高家」によれば、名越流北条時家の子。『「尾張守」の官途名は文保元』(一三一七)年三月三十日付の関東御教書(みぎょうしょ:鎌倉幕府の発給文書の一つで、一般政務や裁判などの伝達を行った奉書形式のもの)に『おいて見られ、これ以前の任官であると考えられている』。嘉暦元(一三二六)年には『評定衆の一員となっている』。この四月、謀反鎮圧部隊として足利高氏(後の尊氏)ともに派遣されたが、「太平記」巻第九「山崎攻事付久家繩手合戰事」によれば、『久我畷(京都市伏見区)において、宮方の赤松則村、千種忠顕、結城親光らの軍勢と激突するが、赤松の一族で佐用城主の佐用範家に眉間を射抜かれ、あえなく戦死を遂げた(久我畷の戦い)』とし、「太平記」の描写によるならば、ここにある通り、『その余りに華美に過ぎるいでたちによって大将軍であることを敵に覚られ、集中的に攻撃を受けることとなった』結果ともされる。『没年齢は不明だが』、「太平記」には『気早の若武者』と記されていることから、二十代『前後と推定される』。『そもそも生誕年が分かっていないが、諱の「高」の字は』、『得宗の北条高時から一字拝領したものである』『ことから、元服の時期は高時が得宗の地位にあった』一三一一年から一三三三年の『間と推定できる』。「難太平記」に『よると、今川氏の祖である今川国氏の娘である妻との間に高範という遺児がおり、中先代の乱の際に伯父である今川頼国に保護されて養子となり』、『今川那古野家を名乗ったという。安土桃山時代の武将で歌舞伎の祖とされている名古屋山三郎はその子孫とされており、その末裔は加賀藩に仕えた』とある。

「足利治部大輔高氏」後の室町幕府の創設者で初代将軍となる足利尊氏(嘉元三(一三〇五)~延文三/正平一三(一三五八)年)の初名。源頼朝の同族の名門として鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流に生まれた。現在、生地は栃木の足利ではなく、母の実家丹波国何鹿(いかるが)郡八田郷上杉荘(現在の京都府綾部市)とされる。父は貞氏(因みに、貞氏の祖父頼氏は足利泰氏と北条時氏(第三代執権泰時の長男であったが、病気のために執権職を継がずに早世(二十八歳)した)の娘との間に出来た北条氏と足利氏のハイブリッドである。ここは私が補足した)、母は上杉清子。元応元(一三一九)年十月十日に十五歳で従五位下・治部大輔となり、同日、元服、得宗北条高時の偏諱を受けて、「高氏」と名乗ったとされる。十五歳での叙爵は北条氏であれば、得宗家や赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば、圧倒的に優遇されていたと言える(下線部はウィキの「足利尊氏に拠る)。妻は最後の執権北条守時の妹登子(とうし/なりこ 徳治元(一三〇六)年~正平二〇(一三六五)年:幕府滅亡時は数え二十八歳)。元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、高氏は天皇軍討伐の幕命を受けて上洛、事件が落着して、一旦、鎌倉に帰っている。後、この醍醐軍の再起によって、再び、出兵を命ぜられると、ここにある通り、丹波で、突如、反幕の旗を揚げ、京都の六波羅探題を急襲、殲滅した。その半月後、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐は京都に帰還して建武新政を開始し、高氏は討幕の殊勲者として天皇の諱である尊治の一字を与えられて「尊氏」と改名、高い官位と莫大な賞賜を得たばかりでなく、鎌倉に嫡子義詮(よしあきら)を留めて、関東制圧の拠点を固めた。後醍醐は尊氏に破格の待遇を与えた半面、その実力と声望を恐れて新政の中枢から遠ざけ、また、北畠顕家に愛児義良親王をつけて奥州に派遣し、関東の足利勢力を牽制しようとした。しかし、尊氏は直ちにこれに対抗、成良親王を鎌倉に下し、弟直義を以って輔佐せしめた。この間、新政の失敗が重なり、武士の輿望が尊氏に集まるにつれ、後醍醐と尊氏の対立が高まり、新政開始から僅か二年後の建武二(一三三五)年七月、北条氏残党の鎌倉侵入(中先代(なかせんだい)の乱:北条高時の遺児時行が御内人諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、ごく一時的(二十日余り)に鎌倉を支配したことから「中先代」と呼ばれる)を転機として尊氏は新たな幕府創建の志を明らかにし、後醍醐の制止を無視して鎌倉に下り、北条氏残党を掃蕩した。次いで、後醍醐の派遣した新田義貞を破って上洛したものの、奥州軍に敗れて九州に逃れ、再挙東上して後醍醐軍を追いつめ、後醍醐より持明院統の豊仁親王(光明天皇)への譲位という条件で後醍醐と和睦するとともに、建武式目を制定し、建武三(一三三六)年十一月、京都に新しい幕府を開いた。二年後、正式に征夷大将軍となっている。他方、後醍醐は吉野に走り、光明の皇位を否定し、尊氏打倒を諸国に呼びかけ、ここに吉野の南朝と京都の北朝の対立が始まる。 尊氏は幕府の運営に当たって、武士に対する支配権と軍事指揮権は自身で握り、裁判その他の政務は弟直義に委ねるという二頭政治を布いたが、この体制は直義を中心に結集する官僚派と、尊氏を頂く高師直ら武将派との対立をひき起こし、やがてはこれが尊氏と直義の対立に発展、さらに南朝が第三勢力として加わったために、直義が死んだ(尊氏による毒殺ともされる)後も、直義党は諸国で根強い反抗を続け、この間、南朝軍や直義党が三度も京都に侵入するなど、争乱は長期化・全国化の様相を呈した。尊氏は三度目の京都侵入軍を駆逐して畿内と周辺地域の鎮定を実現してから、三年後に、京都で病死した。死因は背中の癰(よう:悪性の腫れ物)であったが、晩年の五、六年は、たびたび大病を病み、往年の精彩は失われていた。尊氏は洞察・決断・機敏の才を兼ねた上、その信仰上の師夢窓疎石の評した如く、豪勇・慈悲心・無欲の三徳を備え、人間的魅力に溢れた人物ではあったという。以上は主要部分を「朝日日本歴史人物事典」に拠った。

「父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て」「太平記」に拠っているのであるが(「梅松論」も『今度は當將軍、淨妙寺殿』(「淨妙寺殿義觀」は貞氏の戒名)『逝去一兩日の中なり。未だ御佛事の御沙汰にも及ばず、御悲淚にたへかねさせ給ふおりふしに』(引用は所持する一九七五年現代思潮社刊「新撰 日本古典文庫 梅松論」から)とあるのであるが)、高氏の父貞氏は元弘元/元徳三年九月五日(一三三一年十月七日)で、本時制の二年も前で事実に反する。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『高氏寝返りの原因を高時の難題に求めようとする虚構か』と注されておられる。しかし、どうもこれは当時の素人が読んだとしても、おかしな話で、説得力が、ゼンゼン、ないと私は思う。武将ならば、武将であった父の喪の最中であれ、主君のために戦さに出て、武運を挙げてこそ、なんぼのもんじゃろ! 「しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず」だったのが本音だったんだってか? ところがね、山下氏も注しておられるんだが、「梅松論」には『高氏が当時』、『病に苦しめられていた事は見えない』んだよね。そもそもが、こんな感情的な理由で「心中に憤(いきどほり)を含」んだ上、しかも尊王思想があるわけでもなんでもなく、鎌倉幕府なんか裏切っちゃえ、濃ゆい縁戚の北条氏も亡ぼしちゃおっと、なんて考えたっていうのは、よほどイカれたアブナい男としか思えないんだけど! 「太平記」は言うに及ばず(そちらでは高氏が「俺は北条時政の末孫(ばつそん:末流の子孫)だぜ!? 何で、こんな戦さに行かにゃならんの? 訳判らん!」とかホザイテいる)これで納得してる、本「北條九代記」の筆者の気も知れねえな。寧ろ、先見の明があった高氏が、冷徹に諸状況を勘案して鎌倉幕府の滅亡をいち早く予期していたことを語った方がすっきりするぜ! これじゃ、第二次世界大戦前の「国賊尊氏」と大して変わらない佞人並みだんべ!

「足利殿、異義に及ばず」流石にここまで催促されたからには、異議を差し挟むことは最早せず、出兵を受諾した。ところが、と逆接で続く。しかし、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」というのは、あり得ません! 円喜! 「起請文」如きで、お目出度過ぎだっつう、の!

「相模入道に心を入れつゝ」高時様の御不審・御不安を配慮なさって。

「欝胸(うつきよう)」憂鬱。

「舍弟民部大輔直義(なほよし)」足利直義(ただよし/なおよし 徳治元(一三〇六)年~正平七/文和元年二(一三五二)年)は高氏の実弟で一つ違い。本「北條九代記」の注としては、兄の注で事足りるので、ウィキの「足利直義をリンクさせるに留める。悪しからず。

「赤橋殿」既出既注であるが、悲劇の武将(と私は感じる)なれば、再掲しておく。第六代執権北条長時の曾孫に当たり、第十六代、最後の幕府執権となった北条(赤橋)守時 (永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。

「公達は御孫なれば」御子息(千寿王。後の足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年:後、室町幕府第二代将軍。当時は未だ満三歳未満)は守時様の御甥子(「孫」はおかしい。或いは、赤橋流北条氏の「末孫(ばっそん)」の意で筆者は使ったものかも知れぬ)であられるので。

「自然の事もあらんには」事態が自然の成り行きとして大きく変ずるようなことがあっても。具体的には、ここでは狭義に未だ北条への謀反のニュアンスではあろう。

「その爲に郎從を殘置かれ、隱し奉るに難かるべからず」その万一の時のためにも、逆に配下の者どもを鎌倉に残しておかれれば、いざという事態が生じた折にも、御子息や御台所を安全にお隠し申し上げることは、決して難しいこととは思われませぬ。事実、高氏の妻登子と幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され、鎌倉を脱出、新田義貞の軍勢に保護されている

「吉良」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流』で、現在の『愛知県幡豆(はず)郡吉良町に住んだ』とある。

「上杉」同前の山下氏の注によれば、『藤原高藤(たかふじ)の子孫。足利氏の外戚で、高氏の母もその出身』とある。

「仁木(につき)」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市仁木町に住んだ』とある。

「細川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市細川町に住んだ』とある。

「今川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。三河の守護足利義氏の孫。国氏から今川を号した。西尾市今川町に住んだ』とある。

「高家(かうけ)」同前の山下氏の注によれば、『天武転王の皇子、草壁(くさかべの)皇子の子孫と称する高階(たかしな)氏』とある。

「名越尾張守高家」既注であるが、ここ、直前の「高家」(こうけ)とは関係ないので、注意されたい

「船上(ふなのうへ)」後醍醐の行在所である船上山。

「綸旨」討幕の綸旨(りんじ)。綸旨は蔵人が勅旨を受けて出す奉書形式の文書で、初見は万寿五 (千二十八) 年の後一条天皇のそれであるが、宣旨に代って多く用いられるようになり、特に南北朝時代には頻繁に用いられた。通常は薄墨紙(宿紙(しゅくし)。平安末期に反古 (ほご) 紙を漉き直して作った薄い鼠色の紙で,鎌倉時代以降に綸旨・宣旨 などを書くのに専ら用いられた) が用いられたが、白紙の場合もあった。

「鳥羽の作道(つくりみち)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『九条朱雀(すじゃく)の四塚(よつづか)から鳥羽までの道。京と西国とを結ぶ重要な道として平安遷都の際し』、『造られらので「作道」と言う。現在は残らない』とある。ウィキの「鳥羽作道(つ」によれば、『平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀方面に通じた古代道路』とあり、『平安遷都以前からの道とする説や鳥羽天皇が鳥羽殿が造営した際に築かれたとする説もあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられている』。「徒然草」に『おいて、重明親王が元良親王の元日の奏賀の声が太極殿から鳥羽作道まで響いたことを書き残した故事について記されているため、両親王が活躍していた』十『世紀前半には存在していたとされる(ただし、吉田兼好が見たとされる重明親王による元の文章が残っていないために疑問視する意見もある)』。『鳥羽殿造営後は平安京から鳥羽への街道として「鳥羽の西大路」(この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた)と呼ばれた。更に淀付近から淀川水運を利用して東は草津・南は奈良・西は難波方面に出る交通路として用いられたと考えられているが、その後の戦乱で荒廃し、現在では一部が旧大坂街道として残されているものの、多くの地域において経路の跡すら失われている』とある。以上のウィキの叙述に従うなら、この中央南北附近にあったものと思われる(グーグル・マップ・データ)

「西郊(にしのをか)」「太平記」では「西岡」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『賀茂川と桂(かつら)川が合流する羽束師(はつかし)の西南、淀(よど)の西方一帯を指す』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「八幡」現在の京都府八幡市の北西端であろう。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「山崎」既出既注。現在の京都府乙訓郡大山崎町附近(グーグル・マップ・データ)。八幡からは川筋を隔てた北西。

「佐用(さよの)左衞門三郎範家」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『赤松の一族で『赤松系図』によれば為範の息』子とある。

畔(くろ)」田の畦(あぜ)。

「籔(やぶ)」「藪」に同じ。

「眞甲(まつかふ)の端(はづれ)」兜(かぶと)の真正面のすぐ下。

「烈(さ)け」「裂け」。

大將を討(うた)せて」大将を討ち取られてしまって。

「狐河(きつねがは)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『山崎から八幡へ渡る渡し場。川の流れに変化があるので現在いずれとは定め難い』とある。腑に落ちた。実はネットの「太平記」の複数の現代語訳サイトでは、これを平然と、全くの方向違いである、現在の京都府京田辺市田辺狐川と注しているのだ。古文の誤訳ならまだしも、彼らは地名を考証する手間も惜しむどころか、現在の地図上で少しもそこを確認していないことが、よぅく判った。諸君も騙されぬように気をつけられたい。

「大手の大將」正面の討手の大将名越高家。

「山崎を外(よそ)に見て」合戦の場である山崎の方を遙かに見やったかと思うと、そこを北に大きく迂回して方向違いの丹波路を、と続くのである。

「篠村(しのむら)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『京都府亀岡市の東部、王子・森・浄法寺の辺』とある。この附近(グーグル・マップ・データ。山下氏の挙げる三つの地名はこの区域に現存する。確認済み)。

「既に攻べし」ターゲットは京の両六波羅探題。

「東山道一方」「太平記」では「東一方」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、本文で後に出る『苦集滅道(くすめじ)(六波羅から鳥部野の南を経て清閑寺(せいかんじ)方面へ通ずる道)方面への道』とある。これは渋谷(しぶたに)街道(渋谷通・渋谷越)とも呼び、東山を越えて洛中と山科を結ぶ京都市内の通りの一つであるから、ここは「ひがしやまみち」と読みたくなるが、筆者はやはり広義の「とうさんだう(とうさんどう)」と読んでいようこの国道一号線の部分ルートに近いであろう(グーグル・マップ・データ)。「苦集滅道」は本来は「くじふめつだう(くじゅうめつどう)」で仏教の根本教理を示す語で「四諦(したい)」を指す。「苦」は生・老・病・死の「苦しみ」を、「集」は苦の原因である迷いの心の「集積」を、「滅」は「苦」・「集」が「滅」した(取り払われた)悟りの境地を、「道」は悟りの境地に達する「道」としての修行を指すが、ここにそれが当てられたのは、ここが沢の水が絶えず、落ち葉なども多くあって、非常に滑り易い困難な通りであったことや、古えの葬送の地であった鳥部野との関連が私には想像される。

「右近馬揚(うこんのばゝ)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、内裏の『右近衛府の舎人(とねり)が馬術の練習をした所。西大宮大路の北端、北野神社の東南にあった』とあるから、この中央附近である(グーグル・マップ・データ)。

「内野」京都市上京区南西部の平安京大内裏のあった場所。個人ブログ「ミステリアスな日常」のこちらの地図で旧位置を確認されたい。

「主上」光厳天皇。

「上皇」後伏見院と花園院。

「國母」西園寺寧子(ねいし/やすこ 正応五(一二九二)年~正平一二(一三五七)年。後伏見上皇女御。光厳天皇及び後の光明天皇の実母。広義門院。

「女院」藤原実子(永仁五(一二九七)年~延文五/正平一五(一三六〇)年)は花園院の妃。正親町(おおぎまち)実明の娘。祖父の太政大臣洞院公守(とういんきんもり)の養女として花園天皇の後宮に入った。寿子内親王(徽安(きあん)門院)・源性入道親王・直仁親王・儀子内親王を生んだ。宣光門院。

「行幸の御前(みさき)」天皇以下の御皇族方のお出ましの先駆け。

「北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら」六波羅北探題であった北条仲時(既出既注)も、北の方(ここは奥方の意)との別れを悲しみながら。「太平記」には、このシークエンスが詳しく描かれている。

「十四、五町」一キロ五百二十八メートルから一キロ六百三十六メートル。

「野伏(のぶし)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『農民の武装したゲリラで、敵陣を奇襲したり、敗残の兵などを襲ったりした』とある。

「篠原の宿」同前の山下氏の注によれば、『伊賀健野洲(やす)郡野洲町篠原』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「龍駕(りうが)」「りようが(りょうが)」とも読む。天皇の乗り物を指す。

「番馬の峠」現在は滋賀県米原市番場にあった番場宿の位置と、北条仲時一門が自決した蓮花寺の位置から考えて、航空写真であろう(グーグル・マップ・データ)。

「宗(むね)として」中心に。

「忙然」「茫然」。

「五〔の〕宮」「太平記」もこうなっているが、これだと、後醍醐天皇の皇子で後の後村上天皇、当時の義良(のりよし/のりなが)親王を指すことになってしまうが(増淵氏の現代語訳も義良親王とするのであるが)、この当時、彼は満でも五歳の子どもで如何にもおかしい。調べたところ、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『「五宮」は誤り』とあり、神田本「太平記」に『傍記する「五辻ノ兵部卿親王宮」が正しい。五辻宮は、亀山天皇の皇子、守良親王。四品(しほん)兵部卿で法名覚静』とある。但し、この守良(「もりよし」と読んでおく)は生没年未詳で一応、講談社「日本人名大辞典」を見ると、鎌倉から南北朝時代の皇族で、亀山天皇の皇子とし、母は三条実任の娘。四品(しほん)・兵部卿。後に出家し、法名は覚浄。五辻宮(いつつじのみや)家(初代)と呼ばれたとあって、「太平記」に見える、この北条仲時ら六波羅勢を全滅させた官軍中の「先帝第五の宮」というのはこの守良親王と見られている、とあるばかりで、どうも注の最後なのに、すっきりしない。]

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