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2018/06/07

諸國里人談卷之二 姨石

 

    ○姨石(おばいし)

信濃國姨捨(おばすて)山は更科(さらしな)郡にあり。尤(もつとも)高山なれども、なだらかなる芝山なり。中腹に姨石あり。かの姨を捨(すて)たる所なりとぞ。此巖(いはほ)、高さ六丈五尺、横三十丈に過(すぎ)たり。石屛(せきへい)のごとくにして、一面の一石、類ひ稀なる石也。うしろ左右は山につらなれり。石の前に放光菴といふ草堂、觀音を安置す。左のかたの小茂りの徑(こみち)をつたひ登れば、姨石のうへに至る。これより、十三景、見えて、絶景也。所謂、十三景は、

 姨石

 冠着嵩(かむりきがだけ)

 有明山

 一重(ひとへ)山

 鏡臺山(きやうだいさん)

 寶池(ほうち)

 姪

 甥

 小帒(こぶくろ)石

 椿木(つばきのき)

 更科川

 千曲川

 田每(たごとの)月

等也。「大和物語」に云〔いはく〕、信濃の國更科の里にすむ男、姨(おば)をやしなひておやのごとくかしつきしに、その女房、つらくにくみて、夫にさかしらをいひふくめて、終に、ふかき山の奧に捨させけり。されども、此男、かぎりなくかなしくて、かの山のみねより出〔いで〕たる月をながめ、一夜、目もあはず、かなしみ入〔いり〕、つくづくと哥〔うた〕をよみ、又、いきて、むかへ、もてきにけり。それより「おばすて山」と云〔いへ〕り。

「古今」

 我心なぐさめかねつ更科やおばすて山にてる月を見て

予(よ)、一とせ、おばすて山へまかりける時、

  姨捨は晝でも夜のこゝろ哉  沾凉

同行の孤凉(こりやう)云〔いはく〕、「此句は季なし。」。よつて、季なし発句(ほつく)の事を語れば、諾(だく)す。

[やぶちゃん注:「十三景」は、それぞれ一字空けで本文に連続しているが、改行した。本条は伝承として各地に見られる棄老伝承としての「姥捨て山」(おばすてやま・うばすてやま)の中で、最も知られた長野盆地南西端の、長野県千曲市と東筑摩郡筑北村に跨る冠着山(かむりきやま:標高千二百五十二メートル。本文の「冠着嵩(かむりきがだけ)」)をロケーションとしている(ここ(グーグル・マップ・データ))。ウィキの「冠着山」によれば、この山には『幾つかの呼び名があり、「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも言われる。俗称は姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)』とある。『冠着山の呼称は「天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」と日本神話により伝えられている事による』とする。今はすっかり「おばすて山」の比定地のようになっているが、しかし実は『江戸時代の作製と見られる』「川中島合戦陣取り図」や嘉永二(一八四九)年に名古屋で刊行された「善光寺道名所図会」(豊田庸園(ようえん)著・小田切春江画)『(いずれも長野市立博物館所蔵)には冠着山(冠着嶽)と姨捨山は明らかに別の山として描かれているものがあ』り、古い『峠を通る古代の街道(東山道支道)を使用した官人や衛士・防人など』の『旅人(作者不詳)によって』「古今和歌集」に『歌われたオバステヤマは冠着山だ、と主張した麓の更級村初代村長の塚田雅丈による内務省(現在の国土地理院)への請願活動で「冠着山(姨捨山)」の名で一般的になったのは明治期以後と言われる』という、驚きの解説がある。『姨捨山の呼称は、一説には奈良時代以前からこの山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎し』、『その料地管理等に従事したとされる名代部「小長谷(小初瀬)部氏」が広く住していたことによるらしい』。『この部民』である『小長谷部氏の名から「オハツセ」の転訛』『が麓の八幡に小谷(オウナ)や、北端の長谷(ハセ)の地名で残り』、『南西部に「オバステ」で定着したものとされている』。『別名の更級山の呼称は』、『更級郡の中央に位置することから、坊城は山容が坊主頭のようであり』、『狼煙城でもあったとの伝説があることから』という。『江戸時代の街道に近く猿ヶ馬場峠、一本松峠や古代からの東山道支道の古峠にも近い。これらの難路脇には行き倒れた旅人の屍が放置されていて、それらの骸を集めて弔った所「初瀬」とする説』もあるとする(「初瀬」は「終瀬(はてせ)・果て瀬」で、人が果てる場所、「こもりく」の別称であるからである)。他にも、『水が地表に湧き出してせせらぎとなって川が流れ始める所を初瀬と言うことからとする説』など『「オバステ」の地名の言われは数種あるとされる』。以下、「棄老伝説」の項(但し、この節には執筆者の独自研究が含まれている疑いがある)。「大和物語」百五十六段(天暦五(九五一)年頃までに成立)が『姨捨説話の初見であり、謡曲』(十四『世紀には存在)にも取り上げられているほか』、「更級日記」(康平二(一〇五九)年最終記載)・「今昔物語集」(平安末期成立)、江戸時代の松尾芭蕉の「更科紀行」(元禄元(一六八八)年から翌年にかけて成立)『でも言及されている。このように往古から全国に知られた山であったが、更級郡に位置するという記述があるなど、特定された山ではなく、長野県北部にある山々の総称という見解もある』とある。また、伝説としてのそれを別に纏めたウィキの「うばすてやま」を見ると、『姥捨ての実際については、はっきりしたことは分かっていない。少なくとも古代~近世までにおいて、姥捨てやそれに類する法令などがあったという公的記録はないが、民間伝承や姥捨て由来の地名が各地にのこっている』。『物語としては、親子の情愛や、「灰縄千束」、「打たぬ太鼓の鳴る太鼓」、「七曲りの竹に糸を通す」など難題の奇抜さ、それをこともなく解決してしまう老親の知恵などが主題となっている』(大別すると、「枝折り型」と「難題型」の二種があるが、それはリンク先を見られたい)『難題型の物語自体はインドに起源があり、アジアやヨーロッパに古くから見られるものだが』、「枕草子」に『蟻通明神の縁起として、「複合型」の完成された形での記述があり、日本でもかなり古い時代に成立した物語であることがうかがえる』。『一方で』、『姥捨て伝説の一部には』、『その信憑性を疑われるものも存在』し、『長野県の冠着山は俗称を「姨捨山」といい深沢七郎が』「楢山節考」(昭和三一(一九五六)年)で『姥捨て伝説を結び付けた。しかし、日本思想史学者の古田武彦は地元の放光院長楽寺への現地調査の結果などから』、『この地に姥捨て伝説はなかったと結論付けている』ともある。

「尤(もつとも)高山なれども」頂きは非常に高い山ではあるが。

「姨石」現在の長野県千曲市八幡にある天台宗姨捨山(おばすてさん)放光院長楽寺(ここ(グーグル・マップ・データ))境内にある。ウィキの「長楽寺」によれば、「姨石(姨岩)」は高さ約十五メートル・幅約二十五メートル・奥行約二十五メートルある大きなもので、『頂上からは長野盆地を一望でき、月の眺めも別格である。江戸時代後期の紀行文作家であった菅江真澄は』、『夥しい人々がこの岩の上からの月見をしている様子を絵(秋田県立博物館所蔵)に残している。なお、この岩が姨捨山縁起から伝説の姨捨山』『だと伝えられている』とある。個人ブログ「北海道でノンビリと」の姨石おばいしに・・・・立ちもせずが写真も豊富でよい。

「高さ六丈五尺」十九メートル三十三センチ。やや高過ぎ。

「横三十丈に過(すぎ)たり」「三十丈」は九十メートル八十九・九センチであるから、九十一メートル超えとなってしまう。ただ、この寺、近世でも事蹟がはっきりしないウィキの「長楽寺」によれば、江戸末期の「善光寺道名所図会」には『八幡の武水別神社神宮寺の支院と説明されて』おり、『明治初年の神仏分離令により』、『一時』は『無住になったこともあって』、記録が失われてしまい、現在では『この寺の創建年代等については不詳である』とする、但し、「古今和歌集」に『記されていることなどから』、十世紀には』土地自体は『姨捨山として知られていたと考えられている』とある。さらに、境内上方の、この姨石の傍らに建つ観音堂は、元禄四(一六九一)年に『再建されたとあるが、虹梁の絵様の様式から宝暦・明和年間』(一七五一年~一七七一年)『の再建と推定されている』とあり、本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年の刊行であるから、この観音堂再建の前に沾涼はここを訪れていることが判り、そもそもが長楽寺らしき寺への言及が全くないところから、或いは当時の姨岩は、二回り以上大きな、丘陵状の土山の中に埋もれていたものかも知れない

「石屛(せきへい)」石の屏風。

「放光菴といふ草堂、觀音を安置す」前に出した通り、現在の長楽寺の院号は放光院であり、これが後の観音堂の前身なのであろう。

「十三景」「放光院長楽寺十三景之図」は先に出した通り、嘉永二(一八四九)年刊の「善光寺道名所図会」に載るが、本書はその約百年前の刊行であるから、この名数はかなり古くからあることが判る。出版年未詳であるが、早稲田大学図書館古典総合データベースに「信州更級郡姨捨山十三景図」があるので、リンクさせておく。そこでは「長樂寺」の名があり、「觀音堂」も、その名で描かれているから、かなり後のものと推察される。時代によって名数には変化があるらしい。長楽寺の案内板を見ると、そこには、境内にある姨石・桂の木・宝ケ池を初めとして、近景の姪石(めいいし)・甥石・小袋石(こぶくろいし)・田毎の月・更級川、遠景の千曲川・冠着山(かむりきやま)・鏡台山(きょうだいさん)・有明山(ありあけやま)・一重山(ひとえやま)を挙げ、『時代によっては、更級川に架かる雲井橋(くもいばし)や更級の里なども数えてい』るとある。

「有明山」長楽寺の東北四キロ半ほど東北にある、長野県千曲市打沢の有明山であろう。標高六百五十一・七三メートル。ここ(国土地理院地図)で、次の「一重(ひとへ)山」はその北西直近にある、四百五十八メートルのピークである。

「鏡臺山(きやうだいさん)」長楽寺から真東九・五キロほどの長野県上田市真田町傍陽にある標高千二百六十九メートルの山。

「寶池(ほうち)」旅行サイトに載る、こちらの現地の観光案内を見ると、姥石の、観音堂の反対側にあることが判る。同じ画像で切れているが、写真の右手に「甥石」(本文の「甥石」)と思われるものがあり、左手の「棚田」(これが知られた「田每(たごとの)月」の棚田)の下方に「姪石」(本文の「姪石」)が、中央下に「小袋石」(本文の「小帒(こふくろ)石」)を、それぞれ確認出来る。

「椿木(つばきのき)」原典は総てこうなっているが、これは或いは宝池の側にある大樹の「桂の木」の沾涼の誤記かも知れない

「更科川」先の観光案内図で、長楽寺と棚田地区の間を貫流している。

『「大和物語」に云……」「大和物語」は平安中期の歌物語。作者未詳。天暦(九四七年~九五七年)頃に成立した後、増補されたと推定される。恋愛・伝説などを主題とする百七十余編の説話を収録するが、全体は大きく二部に分かれており、主として宇多上皇を中心とする廷臣や女房たちに関する和歌説話を集めた部分と。蘆刈説話・菟原処女(うないおとめ)説話などの伝承的な和歌説話を集めた部分から成っている。当該部分は第百五十六段の「姨捨」。所持する小学館「日本古典文学全集」版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。

   *

  信濃の國に更級といふ所に、男、すみけり。若き時に、親は死にければ、をばなむ、親のごとくに、若くより、あひそひてあるに、この妻(め)の心、いと心憂きこと多くて、この姑(しうとめ)の老いかがまりてゐたるを、つねに憎みつつ、男にも、この姨(をば)の御心(みこころ)の、さがなくあしきことをいひ聞かせければ、むかしのごとくにもあらず、おろかなることおほく、このをばのために、なりゆきけり[やぶちゃん注:この「をば」に対して、おろそかににしることが、これ、多くなっていったのであった。]。このをば、いといたう老いて、ふたへにてゐたり[やぶちゃん注:腰が激しく曲がってしまっていた。]。これをなほ、この嫁、ところせがりて[やぶちゃん注:邪魔者に思って。]、

『今まで死なぬこと。』

と思ひて、よからぬことをいひつつ[やぶちゃん注:夫へ、ありもせぬ姨についての悪しき告げ口をしながら。だから男は腹を立てて、姨捨てを実行してしまうのである。]、

「もていまして、深き山に捨てたうびてよ。」

とのみ責められければ、

『さしてむ。』

と思ひなりぬ。

 月のいと明かき夜、

「媼(おうな)ども[やぶちゃん注:婆(ば)あさま。「ども」は複数ではなく、軽い呼び掛けの接尾語。]、いざ給へ。寺にたうときわざ[やぶちゃん注:法会。]すなる、見せたてまつらむ。」

といひければ、かぎりなくよろこびて、負はれにけり。

 高き山のふもとにすみければ、その山にはるばると入りて、高き山の峰の、おり來べくもあらぬに、置きて逃げて來ぬ。

「やや。」

と言へど、いらへもせで、逃げて、家に來て思ひをるに、いひ腹立(はらだ)てけるをりは、腹立ちて、かくしつれど、年ごろ、親のごと、養ひつつ、あひ添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。

 この山の上より、月も、いと限りなく、あかくいでたるをながめて、夜(よ)ひと夜(よ)、いも寢られず、悲しくおぼえければ、かくよみたりける。

 わが心なぐさめかねつさらしなや姨をばすて山に照る月を見て

とよみてなむ、また、いきて、迎へもてきにける。

 それよりのちなむ、「をばすて山」といひける。「なぐさめがたし」とは、これがよしになむありける[やぶちゃん注:今、慰め得ぬ心が盛んになった際、そこで「姨捨山」を引き合いに出すのは、こうしたいわれがあるのであるよ。]。

   *

我心なぐさめかねつ更科やおばすて山にてる月を見て」「古今和歌集」巻第十七「雜歌上」にある詠み人知らずの一首(八七八番)。

 わが心なぐさめかねつ更科(さらしな)やをばすて山にてる月を見て

先の「大和物語」の末尾部分で出るニュアンスと同じものを受けると考えてよいが、「姨捨て」というおどろおどろしい名を引き合いに出しただけで、姨捨伝承自体は歌意に影響していない、というより、同伝説は、この「古今和歌集」成立より後に形成された可能性が高い。

「孤凉」不詳。沾涼(沾凉)の一字を用いているからには、彼の弟子であろうか。無季の句は芭蕉などにもあり、それを知らぬというのは沾涼よりも句歴が短いことを意味しているように思われる。

「季なし発句(ほつく)」芭蕉は「季の詞(ことば)ならざるものはなし」と言っている。近代以降の季語を詠み込むことに汲々とすることで文芸性を致命的に堕している俳句の多い中、私は芭蕉の言葉にこそ、真実(まこと)があると思っている。]

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