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2018/06/07

諸國里人談卷之二 名號石

 

    ○名號石(めうがうせき)

相模國足柄下郡國府津、眞樂寺(しんらくじ)に、高〔たかさ〕七尺二寸、幅三尺斗〔ばかり〕の石に、親鸞上人、指にて書給ふ、十字八字の名號、二行にして、其蹟(あと)、自(をのづから)窪入(くぼみ〔いり〕)て、文字、鮮(あざやか)なり。是石は、嘉祿元年、中華(もろこし)より一切經を鎌倉に渡す。其船に此石あり。石面(せきめん)、鏡のごとし。上人、是を見給ひ、「是石は天竺の石也。」と指を以〔もつて〕書(かき)給ふ所の名號、彫(ほり)たるがごとし。其後(そののち)、覺如上人、囘國の時、茲(こゝ)に來り給ひ、筆を加へ給ふ。

 其文

 右志者爲鏡空行光第一向專修念佛舍等

  建武元戊十一月十二日自敬白

或時、疾人(ねたむひと)有つて、此石を海中に沈む。夜(よな)々、海の面(おもて)に光明を放つ。其発(おこ)る所を考へ、水練の者を入〔いれ〕て、これを見るに、則(すなはち)、此石なり。よつて、引上(ひきあげ)、堂を造り、茲に安置とす。

[やぶちゃん注:「相模國足柄下郡國府津、眞樂寺」神奈川県小田原市国府津(こうづ)にある浄土真宗(親鸞(承安三(一一七三)年~弘長二(一二六三)年)の来訪によって天台宗から改宗)の寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高〔たかさ〕七尺二寸」二メートル十八センチ。

「幅三尺斗〔ばかり〕」約九十一センチ。

「十字八字の名號、二行にして」サイト「親鸞聖人御旧跡めぐり」の「一切経校合逗留の地2 ~国府津真楽寺~」にこの名号石の写真がある(但し、個人サイト「東国真宗研究所」の「神奈川と親鸞 第三十四回 筑波大学名誉教授 今井雅晴 国府津の真楽寺⑶ 帰命石」によれば、これはレプリカで、現物は地中に埋められているという。なお、この時、この近くに庵を結んだ親鸞は、鎌倉幕府主催の、鎌倉での一切経校合のためにここから鎌倉へ通っていた)。そこには、右手に、

 歸命盡十方无㝵光如来

 南无不可思議光佛

のそれぞれ十字と八字の名号が記されてあり、(今はそれぞれの下に蓮台が彫られてある)、それぞれの左右に本文で覚如の附文とされるものが、小さく彫られているのが、概ね現認出来る。但し、左の最後の部分は「自敬白」ではなく、「同心敬白」と読める。「歸命盡十万无㝵光如来」は「帰命尽十方無碍(或いは「礙」)光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい:現代仮名遣。以下、同じ)」、「南无不可思議光佛」は「南無不可思議光仏(なむふかしぎこうぶつ)」で、これらは孰れも「南無阿弥陀仏」、則ち、阿弥陀如来への無条件の礼讚とその無辺の大慈悲心への投企と同義のものである。親鸞は実は、正式な本尊としては具象的な木像阿弥陀仏などを用いず、この「歸命盡十方無礙光如來」「南無不可思議光佛」の名号を本尊とし、またそれを教化の中でも勧めたのであった。親鸞は「顯淨土眞實教行證文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)」(略称「教行信証」)の「行巻」で、「正定(しやうぢやう)の業(げふ)とは、卽ち、是、佛の名を稱するなり」として、「南無阿彌陀佛」(先に述べた通り、上記二種も全く同じである)と称名(しょうみょう)することこそが正行(しょうぎょう)の中で阿弥陀仏の願に順じた一番重要な行(「正定の業」)であると述べている。

「嘉祿元年」一二二五年。親鸞、数え五十三。親鸞は建保二(一二一四)年(長岡への流罪の赦免から三年後)に常陸国に向い、この後、二十年余りに亙って東国で布教活動を行っていた。

「覺如」(文永七(一二七一)年~観応二(一三五一)年)は本願寺第三世。実質上の浄土宗(本願寺派)開祖。親鸞は師法然上人の浄土宗の教えの真(まこと)を志すものの謂いで「浄土真宗」という語を用いていたのであって、親鸞は開祖ではないし、彼自身、そのような認識を持っていなかった。

「右志者爲鏡空行光第一向專修念佛舍等」少々手古摺ったが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像新編相模國風土記稿」原石探し出出来ので、それをもとに翻刻し直しておく。同図画像(前後の解説を含めて)もトリミングして併せて載せておく。

 

Myougouseki

   *

△歸命堂(きみやうだう) 寬永十三年[やぶちゃん注:一六三六年。]本山宣如上人の造建なり、名號石【高七尺、幅三尺。】を安置せり。その圖、左の如し。

 

            念佛舍等

 右志者爲鏡空行光門一向專修

 歸命盡十方无㝵光如來

 南无不可思議光佛

    建武元戊十一月十二日

           同心敬白

 

此名號は、親鸞當所居住の頃、勸堂(すすめだう)[やぶちゃん注:真楽寺のこと。「勸」は山号で勧山(すすめさん)。本項では冒頭に『○眞樂寺 勸山【須々女左牟。】信樂院と號す』とある。]の下へ一切經を積(つみ)し唐船、着岸す[やぶちゃん注:先に示した幕府主催の鎌倉での一切経校合用の南宋からのそれであろうか。但し、大型の渡来船が近づき、多量の荷を降ろせる施設が、この鎌倉時代前期に、この国府津にあった事実を私は知らない。但し、親鸞が関東布教のために常陸に入ったのは建保二(一二一四)年であり、現存する日本最古の築港跡である鎌倉由比ヶ浜の東の和賀江島(わかえのしま)の築港は貞永元(一二三二)年のことであるから、或いは、そうした荷下ろしが、この附近で成されていた可能性がないとは言えない]。船底に石八枚を積めり。親鸞歸絡の時[やぶちゃん注:親鸞が関東布教から京へ帰ったのは、嘉禎元(一二三五)年頃(数え六十三歳)である。]、末世道俗の爲に、其一石に指頭(しとう)を以て、二名號を書(しよ)せり【或説に此石に怪異の事共ありければ、土人、親鸞に請(こひ)て、二名號を書せしめしかば、怪異、忽ち止まれりと云(いふ)。[やぶちゃん注:沾涼が記すそれとは異なる怪異がこの石にはプレに存在し、それを封じることが一つの書記の経緯だとする説である。面白い。その怪異も、ここに書いて欲しかった。]】。建武中、本山三世覺如上人、巡國の時、拜覽し、則(すなはち)、左右の傍記を加へしと云【後、其文字を直(ぢき)に鐫入(せんにふ[やぶちゃん注:彫り刻み入れること。])す。】。本山門主江府參向の時は、必(かならず)、參拜あり【此時、門主を饗應するに、黍、稗、米の三品を團子に製し、且、砂蕎麥(すなそば)と號し、製方の麁(そ)なる蕎麥切(そばぎり)を進め、又、土地にて釀(かも)せる野酒(やしゆ)を捧ぐるを例とす。是(これ)、古(いにしへ)の宗祖の難苦を知(しら)しめんが爲めなりといへり。】。堂前に石燈臺一對あり【寬永九年仲秋寄附、本多彌左衞門藤原正友[やぶちゃん注:不詳。家康の参謀として知られる本多正信の傍系の者か。]と彫る。】

   *

しかし、それでも、この覚如の添書きは読めん。無理矢理にでも読んでみるか。

   *

右、志ある者は、空を鏡とし、光りに行き、一向(だいいつかう)に[やぶちゃん注:何より只管に。]專修念佛舍(しや[やぶちゃん注:「舎弟」のように念仏を唱えようとする浄土門を信ずる者の意か。]等(ら)と爲(な)すべし。

   *

正しい読みの判る方は、是非、お教え願いたい。

「建武元戊十一月十二日自敬白」先に見た通り、「自」は「同心」の誤り。でも意味は「自」(おのづから)で腑に落ちる気がする。「建武元戊十一月十二日」建武元年は南朝の元弘四年で甲戌(きのえいぬ)。十一月十二日はユリウス暦十二月八日。なお、同月、護良親王が鎌倉将軍府にあった足利尊氏の弟直義の監視下に軟禁されている。

「疾人(ねたむひと)」嫉む人。浄土真宗を嫌う他宗の者。僧の肉食妻帯を許しているから、結構、多かった。]

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