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2018/06/15

北條九代記 卷第十二 赤松圓心蜂起 付 金剛山の寄手沒落 竝 千劍破城軍

 

      ○赤松圓心蜂起 付 金剛山の寄手沒落 竝 千劍破城軍

 

播磨國の住人、赤松次郎則村(のりむら)入道圓心が子息、律師則祐(そくいう)は、大塔宮に付纏(つきまと)ひ奉りて、年來、奉公の忠勤あり。しかも近年は、武功の粉骨を盡しけり。宮は南都の般若寺より虎口を遁れて、紀伊國に赴きつ〻、十津河を經て、吉野の大衆を語(かたら)ひ、野長瀨(のながせの)六郎兄弟を賴み給ひ、愛染寶塔(あいぜんはうとう)を城に構へて籠らせられ、赤松圓心が本(もと)へ令旨を下さる。律師則祐、使節として、父圓心が館(たち)に來る。入道圓心、嫡子範資、早く御請(おうけ)申して、佐用莊(さよのしやう)苔繩山(こけなはやま)に城を構へければ、與力同心の軍兵、馳集りて、一千餘騎にぞなりにける。畿内・西國の凶徒、日を逐(おつ)て蜂起せしかば、高時入道、大に驚き、一族・他門の大名、東八ヶ國の軍勢を催促して、差上(さしのぼ)せらる。宗徒(むねと)の大名百三十二人、都合その勢、三十萬七千五百餘騎、元弘二年九月二十日に鎌倉を立ちて、十月八日に京著(きやうちやく)す。その外、西國・九州・北陸(ほうろく)七國、諸國七道の軍勢、我も我もと馳上り、翌年正月晦日に、諸國の軍勢八十萬騎を三手に分けて、吉野・赤坂・金剛山、三(みつ)の城へぞ向ひける。赤坂の城へは、阿曾(あその)彈正少弼、その勢、八萬餘騎、城の四方を取圍みて攻むれども、寄手のみ討たれて、城中には、ものともせず。然る所に、播磨國の住人吉河八郎が思案に依(よつ)て、城中、水の手を取切(とりき)られたり。城の本人平野(ひらのゝ)將監入道は、矢尾(やをの)別當顯幸(けんかう)が甥なり。楠正成、養子として、この城を預けしが、水に渇(かつ)えて堪難(たへがた)く、軍兵二百八十二人、共に降人(かうにん)に成て出でけるを、六波羅より計(はから)ひ、六條河原に引出し、一人も殘らず、首を刎(は)ねて梟(か)けられけり。降者(くだるもの)をば殺さずとこそ云ふなれ、吉野の金剛山に籠りたる兵共、是を聞きて、愈(いよいよ)、心を堅くして、一人も降人に出でんと思ふ者は、なかりけり。正慶二年正月に、大塔宮の罷り給ふ吉野の城へは、二階堂出羽〔の〕入道道薀(だううん)、六萬餘騎を引分て押寄せ、同十八日より軍(いくさ)初(はじま)り、夜晝(よるひる)七日が間(あひだ)、息をもつがず、相戰ふ。寄手八百餘人、討たれたり。城兵も、三百餘人は手負ひ討たれしかども、少も弱る色なし。かゝる所に、搦手(からめて)より吉野の執行(しゅぎやう)岩菊丸(いはぎくまる)、百五十人の足輕を步立(かちだち)になし、後の山より愛染寶塔の上に忍上りて、鬨の聲を揚げ、在々所々に走𢌞(はしりめぐ)りて、火をさしければ、大手の五萬餘騎、三方より攻上(せめのぼ)る。村上〔の〕彦四郎義光、宮の御鎧(おんよろひ)・直垂を賜り、御諱(おんいみな)を犯して自害す。その間に、宮は城を落ち給ひ、高野山に忍入(しのびい)り給ふ。大將二階堂道蘊は、宮を打泄(うちもら)し奉りて、安からず思ひながら、楠正成が籠りたる千劍破(ちはやの)城へぞ向ひける。去程(さるほど)に、楠正成は、赤坂の城を落ちて、一族等(ら)を引率(いんそつ)し、紀伊と河内の境なる金剛山にぞ入りにける。この山に、城郭を構へ楯籠(たてこも)りしかば、東國八十萬騎、陸奥〔の〕右馬〔の〕助を大將として、赤坂、吉野の寄手、是に加り、百萬餘騎に成りて攻寄(せめよす)る。城中は僅に千人にも足らずして、防戰(ふせぎたゝか)ふこそ不敵なれ。寄手、一日の中に、五、六千人討たれしかば、軍勢、戰(たゝかひ)を止めて、陣々をぞ構へたり。度每(たびごと)の軍(いくさ)に寄手のみ多く討たれ、手懲(てごり)してぞ覺えける。この間に、兵粮(ひやうらう)に詰(つま)りて、皆、本國に引いて皈る。初(はじめ)、八十萬餘騎と聞えしかども、今は僅に十萬餘騎にぞなりたり。赤松二郎入道圓心、播磨國苔繩〔の〕城より打ち出でて、その㔟、一千六百餘騎、山里(やまのさと)・梨原(なしはら)に陣取る。三石(みついし)の住人伊東〔の〕大和次郎兄弟、宮方に成りて、三石山に城を構へ、備前の守護加治〔の〕源二郎左衞門を負落す。是より、西國の道、塞(ふさが)りて、西園の軍勢、六波羅へ上る事を得ざりしかば、赤松、又、軍兵を進めて、高田兵庫〔の〕助が城を攻干(せめほ)し、山陽道を差して攻上る。路次の軍勢、馳付(はせつ)きて、七千餘騎にぞなりたる。赤松、大になりて、兵庫の北なる摩耶(まや)と云ふ山寺に城を拵へて、楯籠る。六波羅、聞きて、誰(たれ)をか討手に向へんと、評定する所に、又、伊豫國の住人土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)三郎、宮方に成りて、長門の探題上野〔の〕助時直(ときなほ)を打平(うちたひら)ぐ。四國の勢、皆、土居・得能に屬(しよく)して、六千餘騎、京都に攻上らんとぞ用意しける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻第六の四項目「赤松入道圓心賜大塔宮令旨事」(赤松入道圓心、大塔宮令旨、賜はるる事」)から巻第七の五項目「河野謀叛事」に基づくとする。標題の「千劍破城軍」は「ちはやのいくさ」と読む。

「播磨國」兵庫県。

「赤松次郎則村(のりむら)入道圓心」赤松則村(建治三(一二七七)年~正平五/観応元(一三五〇)年)。円心は法名。播磨国佐用荘の地頭の一族であったが、護良親王の令旨を受け、山陽地方では最も早く宮方(南朝方)につき、ここに出る通り、正慶二/元弘三(一三三三)年一月、苔縄城に挙兵した。次いで、山陽道を攻め上り、五月足利高氏(尊氏)とともに六波羅を攻め落とした。その功により、建武政権で播磨守護職を与えられたが、間もなく、理由なく取り上げられ、新政に不満を抱くようになった。建武二(一三三五)年、尊氏が新政権に反して、関東に向かうと、これに応じ、次男貞範を同行させた。翌年二月、尊氏が京都で北畠顕家らに敗れて九州に西走する際、光厳上皇の院宣を奉じて朝敵となるのを免れたのは、この則村の発案によると言われている。次いで、播磨白旗城に立て籠って、新田義貞率いる尊氏追討軍の進撃を阻み、尊氏の再上洛を助けた。十一月に尊氏が室町幕府を開くと、播磨守護に復帰、長男範資は摂津、次男貞範は美作の守護に任ぜられた。観応元/正平五(一三五〇)年の「観応の擾乱」では、尊氏・高師直方に与し、播備国境の船坂峠を固めて足利直冬の進軍に備えたが、その直後、京都七条の自邸で病死した。禅に深く帰依し、京都より雪村友梅を招いて苔繩に法雲寺を建ている。また宗峰妙超が京都紫野に大徳寺を開くと、最初の檀越となってこれを援助するが、それは妙超が播磨出身であるのみならず、姉の子であったことにもよると考えられている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「律師則祐(そくいう)」(のりすけ 正和三(一三一四)年~建徳二/応安四(一三七二)年)は赤松則村の子。ウィキの「赤松則祐によれば、後醍醐天皇の「元弘の乱」勃発時、『則祐は比叡山延暦寺に入って律師妙善と称しており、その縁によって後醍醐天皇の皇子で天台座主であった護良親王に付き従い、熊野、十津川、吉野城などで転戦した』。ここにある通り、元弘三(一三三三)年、『護良親王の使者として倒幕の令旨を父・円心(則村)に届け、赤松氏は播磨で挙兵、父に従って東上』、『瀬川合戦にも従軍、京都の六波羅探題を攻撃』した。『則祐には武勇伝が多く、『太平記』にも幾つか記されている。熊野や十津川では護良親王を守って善戦。父に従っての高田兵庫輔頼重との戦いにおいては、後方撹乱を実行し、西条山城に突入して勝敗を決めた。また、洛中での桂川の戦いでは、増水した桂川に単騎で踊りこみ、敵陣一番乗りを果たした。京都においても相撲人としての武勇伝があったという(『梅松論』)』。『建武政権下において、足利尊氏が中先代の乱平定後に後醍醐天皇に反旗を翻すと』、『父や兄らと共に尊氏に味方し』、建武三(一三三六)年に『尊氏が後醍醐天皇方の北畠顕家や楠木正成に敗れ、九州へ落ち延びた後は父と共に播磨で待ち構えた』。これは、『後醍醐天皇方を播磨で足止めし、尊氏の再起の時間を稼ぐこと』が目的『で、父は播磨の広範囲に戦線を展開、則祐は感状山城で第二戦線の大将を命じられる。後醍醐天皇方の新田義貞によって坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落するなか、則祐は奮戦し』、『感状山城を守り抜く。白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏の所へ訪れ、東上を促』している。正平五/観応元(一三五〇)年、「観応の擾乱」の最中、『父が没し、長兄・範資が当主及び播磨・摂津守護となるが』、翌年、急死し、その『遺領は分割され、摂津は甥の光範に与えられ、則祐は当主・播磨守護となる』。『この決定の理由については、舅(しゅうと)が幕府の実力者佐々木道誉だったことと、長年』、『父の下で功績を積み重ねてきたことが挙げられる。次兄・貞範が幕府に疎まれていたことも家督相続に繋がった』。同年七月に『護良親王の皇子・陸良親王を推載、南朝に降った。このため』、『尊氏の嫡男・義詮の討伐を受けるが、直後に義詮の叔父・直義が京都から出奔したため、この軍事作戦は謀略で則祐の降伏は偽装ともされるが、真相は不明。翌年の正平一統で南朝が京都を占領、北朝の皇族を連れ去って義詮が諸大名の動員を命じると』、『これに応じて帰順』、正平八/文和二(一三五三)年に『南朝への備えとして城山城を築城した』。正平一〇/文和四(一三五五)年には『松田氏に代わって備前守護に任じられた』。正平一四/延文四(一三五九)年)、第二代将軍『義詮の南朝征討に従軍』、正平一六/康安元(一三六一)年には『幕府執事から失脚した細川清氏が南朝に属して楠木正儀らと京都を占領、則祐は幼い足利義満を播磨の白旗城へ避難させた』。『この時』、『則祐は義満の無聊を慰めるため、家臣に命じ』、『風流踊り「赤松ばやし」で接待した』。『これを大いに喜んだ義満は将軍になった後も毎年』、『赤松屋敷を訪ねてこれを見たという』。翌正平一七/貞治元(一三六二)年には『山名時氏と戦い』、建徳元/応安三(一三七〇)年、禅律方(室町幕府に置かれた禅宗・律宗寺院(個人としての禅僧・律僧も含む)関係の訴訟等を取り扱った機関。室町幕府はこれを設けることで禅律寺院を保護・統制したと推測されている)に任命され、『管領の細川頼之を補佐した』。『死因は肺炎だったとされる』。

「野長瀨(のながせの)六郎兄弟」野長瀬六郎盛忠・七郎盛衡。ウィキの「野長瀬氏」によれば、『赤坂城の戦いに敗れた尊雲法親王(のちに還俗して大塔宮護良親王)が高野山に落ちる途中、玉置庄司に阻まれて危機に陥ったとき』、彼ら兄弟が『軍勢を率いて援けた。危機の連続であった大塔宮護良親王が下赤坂城を逃れて以来』、『はじめて配下に収めた軍勢で、これを機に宮方を一旦離反しかけた十津川も』、『再び』、『大塔宮護良親王に従い、玉置山衆徒も味方につき、大和の宇智、葛城の郷士達も味方し、吉野挙兵および金剛山千早城の後方支援の体制ができあがった。その功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り、以後、横矢氏も称するようになった』。『野長瀬氏はその後も、南朝方として楠木正行らと行動をともにし、南朝滅亡後も後南朝に仕えた』。『その後、室町時代の間に畠山氏(金吾家)の被官となり、紀伊国人衆として存続』したとある。

「愛染寶塔(あいぜんはうとう)を城に構へて」愛染明王の宝塔を槇野の城に建てて。槇野城は現在の五條市にあったが、手狭であったために、後に吉野城に移っている(移転は元弘二(一三三二)年六月二十七日以前。ここはウィキの「吉野城」に拠った)。

「嫡子範資」(?~正平六/観応二(一三五一)年)は赤松則村(円心)の嫡男(則村の弟という説もあるらしい)。赤松氏五代当主。ウィキの「赤松範資によれば、初め、弟貞範とともに摂津長洲荘の代官として派遣されたが、この時、『父が鎌倉幕府討幕のために挙兵した際、父に従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏が行賞で冷遇されたため、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより室町幕府成立後、尊氏から摂津守護に任じられた』。正平五/観応元(一三五〇)年の『父の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では尊氏・師直側に味方して直義軍と戦い、打出浜の戦いに参戦している』が、翌年、『京都堀川七条の自邸にて急死』した。『摂津は嫡男・光範が、家督と播磨は弟・則祐が継いだ。他の子らはそれぞれの所領から改姓して一門衆になったとされる』とある。

「佐用莊(さよのしやう)苔繩山(こけなはやま)」現在の兵庫県赤穂(あこう)郡上郡町(かみごおりちょう)苔縄(こけなわ)にあったとされるが、位置は不明。一応、この中央附近とされるが(グーグル・マップ・データ)、遺構は発見されていない。

「宗徒(むねと)の」主要な。

「阿曾(あその)彈正少弼」北条(阿蘇)治時(文保二(一三一八)年~建武元(一三三四)年)。得宗家の傍流阿蘇家の第四代当主。父随時が二十八歳の時、鎮西で誕生、第十四代執権北条高時の猶子となっている。「太平記」では、この時に差し向けられた鎮圧軍の筆頭に北条一門として彼の名が挙げられており、楠奪還後の第二回の赤坂城攻略戦では、大将として出陣しているが、ウィキの「北条治時」によれば、満十五歳と、『若年であるため、軍奉行として御内人長崎高貞(長崎高資の弟)が補佐。苦戦の末に水源を絶ち、これを陥落させた』とある』。『続いて楠木正成の本拠地千早城を攻めたが(千早城の戦い)、楠木勢の頑強な抵抗に遭って落とせず』、五『月になって京都の六波羅探題が陥落したため、討伐軍は自壊する。治時と高貞は大仏貞宗・高直兄弟らとともに興福寺に篭り』、『抗戦を続けた』が、『鎌倉陥落の報を聞き』、六月五日、『般若寺で出家して降伏するが』、建武元(一三三四)年七月九日、『京都阿弥陀寺で高貞、貞宗、高直らとともに処刑された』。享年十七。

「吉河八郎」「太平記」では「吉川」。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『藤原南家、工藤氏の一門』とする。

「城の本人」城主。

「平野(ひらのゝ)將監入道」同前の山下氏の注によれば、『河内の豪族』とする。

「矢尾(やをの)別當顯幸(けんかう)」八尾城(現在の大阪府八尾市内。正確な位置は不明)を築いて城主として権勢を持ち、後に楠木正成八臣の一の家来となり、大いに南朝方に尽した武士。権僧正でもあった。正成が湊川で戦死した後は和田・恩智両氏とともに正成の子正行を助けたが、延元三(一三三八)年に八尾城で病死したと伝えられる。

「正慶二年」元弘三年。一三三三年。

「二階堂出羽〔の〕入道道薀(だううん)」既出既注

「吉野の執行(しゅぎやう)」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『吉野の金峰山(きんぷせん)寺蔵王(ざおう)堂にあって、事務や法会(ほうえ)をとりしきる官』とある。「吉野」とあるからといって後醍醐方と誤ってはいけない。この「岩菊丸(いはぎくまる)」(事蹟不詳)は立派な鎌倉幕府方である。

「村上〔の〕彦四郎義光」彦四郎。同前の山の注によれば、『清和源氏』『「義日」とも書く』とある。

「御諱(おんいみな)を犯して自害す」御名前を詐称して。親王の装具を著け、身代わりとなって自害したのである。

「千劍破(ちはやの)城」千早城に同じ。現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にあった、四方を絶壁に囲まれ、要塞堅固を誇ったとされる連郭式山城。先の「金剛山」の注でも少し述べたが、四方の殆んどを深いに谷に囲まれ、城の東北後背のみが金剛山の山頂に峰で連絡する要害の地である。ここ(グーグル・マップ・データ)。この時、奇策で幕府軍を嘲弄したそれはウィキの「千早城」に詳しいが、要所を引くと、『上赤坂城で勝利した鎌倉幕府軍は、一気に攻略しようと、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。千早城では櫓より大石を投げ落とし応戦し逃げ惑う兵に矢と飛礫が降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった』とされ、「太平記」には「長崎四郎左衞門尉(ざゑもんのじやう)、軍(いくさ)奉行にてありければ、手負・死人の實檢をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人、夜晝三日が間(あひだ)、筆をも置かず記せり」とある。『鎌倉幕府軍は、上赤坂城の例にならい』、『水源を断ち持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き』三百『もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていた。長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、楠木正成は策をめぐらし』、『わら人形を』二十~三十体『作らせ、甲冑を着せ』、『弓や槍を持たせた。その人形を』、『夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵』五百人を『潜ませ、夜明けになると』、『鬨の声をあげさせた。鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ』、『攻め寄せた』ため、五百の伏兵は『矢を放ちながら』、『徐々に城内に引き上げた。鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大量の大石を投げ落とし』、この一時だけで、三百名が即死、五百名が負傷している。『鎌倉幕府軍の持久戦に対して、同年』三月四日には、『鎌倉より厳しい下知が届き、将士を督励することになった。そこで鎌倉幕府軍は近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上ろうとした。京都より大工衆』五百『余人を呼び集め』、巾十五尺(四・五メートル)、長さ百尺(三百メートル)もの橋を『造り、大縄をつけて城内へ殺到した。楠木正成は、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、それに松明を投げた。城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると』、『橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと』、「太平記」には記載されている。但し、「太平記」『以外の史料に』この『「長梯子の計」の記述が無いことから』、『信憑性に疑問があるが、本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから』、『「太平記には誇張はあるにしても実際に実行されたと考えられる」と』する肯定説もある。

「陸奥〔の〕右馬〔の〕助」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。ウィキの「北条貞将より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は北条時村の娘』。『鎌倉時代末期の倒幕運動の中で幕府軍の将として各地を転戦して活躍したが、新田義貞軍に敗れてこの時、父と同じく壮烈な最期を遂げた』。『兄に顕助がいるが』、『庶子扱いされているので、正室(北条時村の娘)の長男である貞将が嫡子である』。『文保二年 (一三一八年)、評定衆となり、引付五番頭人などを務める。この頃に出自は不明であるが』、『正室を迎えている。また』、『この頃には従五位下の位階と右馬権頭の官位を持っていたとされ、文保二年の六月二十五日に評定衆に列し、官途奉行を兼任した。十二月には引付衆五番頭に就任している』。『正中元年(一三二四年)九月十九日、正中の変が発生すると、十一月十六日に六波羅探題南方となり上洛するが、この時に貞将は五千騎の軍勢を率いて上洛した。貞将は以後、執権探題として京都の動静を探り職務を遂行していった。上洛してわずか三日後に六条坊門猪熊から出火した火事を鎮火している。嘉暦四年(一三二九年)八月一日に越後守から武蔵守に転任する』。『元徳元年(一三二九年)より父・貞顕の根回しもあり、元徳二年(一三三〇年)四月に探題職辞任が決定し、七月十一日に正式に辞任して京都を出発した。鎌倉に帰還した後の七月二十四日に引付一番頭人に任じられ』ている。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月八日、新田義貞が隠岐を脱出した後醍醐天皇に呼応して上野新田庄の生品神社で挙兵すると、十日に幕府軍の大将として防衛のため』、『下総下河辺荘を目指して進発し、六浦庄で軍勢を整えたが、武蔵鶴見川付近(横浜市鶴見区)で義貞に与した従兄の千葉貞胤や小山秀朝の軍勢に敗れて鎌倉に引き返した』。『鎌倉に戻ると』、『鶴見の敗戦』を受けて、『軍勢を再編成していたが、洲崎の戦いで執権の赤橋守時軍が新田軍に敗れて壊滅すると、守時軍に代わって巨福呂坂を防備する。ここには新田氏の一族である堀口貞満に攻められ、戦いは五月二十日から五月二十二日まで激しく攻め続いたという』。『軍記物語「太平記」巻第十の「大仏貞直金沢貞将討死事」では貞将軍は連戦で兵力が八百人にまで減少し、自身も七か所に傷を負ったため、北条一門の篭る東勝寺に撤退して得宗の北条高時に最後の挨拶を行なった。この時に高時からそれまでの忠義を賞されて、六波羅探題の両探題職と相模の守護職を与えられたとしている。だが、当時の貞将は引付頭人一番の職にあり、また六波羅探題職もかつて在職経験があるため』、『逆に左遷に近い恩賞を与えられている事になる(恩賞になるのであれば』、『父・貞顕と同じ連署か執権への就任だけである)。それゆえ、「太平記」記述の両探題職は当時の著「沙汰未練書」の記述から六波羅探題ではなく、もう一つの意味の執権・連署を指し、連署には北条茂時がおり、一方で執権が赤橋守時の戦死によって空席の状況下、武蔵守から執権の殆んどが任官する相摸守への異動により、執権(第十七代執権)に任用されたと解する説がある』。『その後、貞将は「冥土への思い出になるでしょう」と御教書を受け取って戦場に戻り、新田軍に対して突撃を敢行し、嫡男の忠時ら』、『多くの金沢一族と共に戦死した。その最期は「太平記」に壮烈な描写で記されており、高時から与えられた御教書の裏に「棄我百年命報公一日恩」(我が百年の命を捨て、公の一日の恩に報いる)と大文字で書き、それを鎧に引き合わせ(胴の合わせ目)に入れたのち、敵の大軍に突撃して討死にしたという。その姿に敵味方問わず』、『感銘を受けたとされる』。

「不敵」大胆不敵。敵になるものがないかのごとく、大胆にして恐れを知らぬさまを指している。

「この間に、兵粮(ひやうらう)に詰(つま)りて、皆、本國に引いて皈る。初(はじめ)、八十萬餘騎と聞えしかども、今は僅に十萬餘騎にぞなりたり」やや先走るが、ウィキの「千早城」によれば、このように『幕府が千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が』三月二十三日(或いは閏二月二十四日か?)に『隠岐国の配所を脱出、討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた守護が相次いで帰国した。関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなる。鎌倉幕府が滅亡するのは』、ここでの百日戦争『(千早城の戦い)が終了した』、僅か十二『日後のことであった』とある。

「山里(やまのさと)・梨原(なしはら)」の間。「山里」は現在の兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)山野里(やまのさと)。「梨原」は現在の兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原(なしがはら)。この中央附近か(グーグル・マップ・データ)。

「三石(みついし)の住人伊東〔の〕大和次郎兄弟」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の「大和次郎」の注によれば、『吉備(きび)』(吉備国は現在の岡山県全域と広島県東部及び香川県島嶼部と兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部)を含む)『の豪族』とある。

「三石山」現在の岡山県備前市三石(東近くに兵庫県県境)にあるここ(グーグル・マップ・データ)。標高は二百九十七メートルと低い。

「加治〔の〕源二郎左衞門」先の山下氏の注によれば、姓としては「加地」が正しいようである。『宇多源氏の佐々木盛綱の子孫。盛綱が藤戸渡りの功』(「藤戸の戦い」は「治承・寿永の乱」での一戦。備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で、寿永三/元暦元年十二月七日(一一八五年一月十日)に行われた戦いで、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約五百メートルの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かったが、「吾妻鏡」によれば、波濤が激しく船もなかったことから、盛綱らが浜辺に轡を並べて躊躇していたところ、平行盛がしきりに挑発、盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま、郎従六騎を率いて、藤戸の海路三町(約三百二十七メートル)余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたとされる。ここはウィキの「藤戸の戦い」に拠った)『児島を賜ってから、この土地の豪族となった。現在、岡山市に可知の地名が残る』とある。

「高田兵庫〔の〕助が城」同じく山下氏の注によれば、『兵庫県赤穂郡上郡町に古くから高田郷の地名があった。その土地の豪族であろう。苔繩の東方に当る』とある。

「兵庫の北なる摩耶(まや)と云ふ山寺」現在の兵庫県神戸市灘区の六甲山地中央にある標高七百二メートルの摩耶山(まやさん)山頂には、現在、近くに移転している(放火による全焼のため)真言宗佛母摩耶山忉利天上寺があった。

「伊豫國の住人土居(どゐの)二郎」(?~建武三(一三三六)年)は、まず、同じく山下氏の注によれば、『河野氏族で、愛媛県松山市土井町の豪族。土居通益(みちます)』とある。ウィキの「土居通増」によれば(「益」「増」の違いはままある)、『土居氏は河野氏の傍流で、伊予久米郡石井郷南土居に所領を構えていた』。元弘三(一三三三)年閏二月十一日、『鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である得能通綱・忽那重清』(くつなしげきよ 生没年未詳:伊予(愛媛県)忽那諸島を本拠とする水軍。後醍醐に呼応して挙兵、足利尊氏が建武政権に反すると、足利軍の追討に当った。建武三/延元元(一三三六)年、尊氏が九州から京都に向かうと、足利方に転じ、京都・安芸などで戦っている)『・祝安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため伊予へ進軍した長門探題北条時直を、石井浜で敗走させた』。同年三月一日には、『喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃』、『十日余りで陥落させ』その十一日後の三月十二日には、『再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り』、『長門まで撤退させた。また』、五月には『讃岐まで遠征』、『幕府方の勢力を破っている』。『建武政権では、従五位下に叙爵され、伊予権介、続いて備中守に任官。南北朝の争乱が起こると、通増は通綱と共に南朝側に加わり』、『新田義貞に属し』、建武三年二月十日の『摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した』。『また、同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破』っており、五月二十五日の『湊川の戦いにも従軍している』。同年十月十日、『南朝勢力再建のため』、『北国へ赴く義貞に従い、越前へ向かうが、その途中、険しい山路で知られる越前荒乳で斯波高経の襲撃に遭』い、『予想外の降雪による寒波と兵糧の不足する中、高経の攻撃を受け、通増は一族と共に戦死した』とある。

「得能(とくのうの)三郎」(?~延元二/建武四(一三三七)年)まず、同じく山下氏の注によれば、『河野氏族で、愛媛県周桑(しゅうそう)郡丹原(たんばら)町徳能の豪族。得能通綱(みちつな)』とある。ウィキの「得能通綱によれば、『得能氏は伊予の河野氏の一族で、桑村郡得能荘を所領としていた』。この時、『鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である土居通増・忽那重清・祝』(ほうり)『安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため』、以降、殆んど先の土居と同行しているが、煩を厭わず引いておくと、伊予へ進軍した長門探題北条時直を』『石井浜で敗走させ』、同年三月一日には、『喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃』、『十日余りで陥落させ』、『再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り』、『長門まで撤退させた』。五月には『讃岐まで遠征し』、『幕府方の勢力を破っている。また、村上義弘や忽那義範と共に水軍を指揮して幕府の糧道を封鎖する等、倒幕へ貢献した』。『建武政権では、従五位下に叙爵され、備後守に任官。南北朝の争乱が起こると、通綱は通増と共に南朝側に加わり』、『新田義貞に属し』、建武三(一三三六)年二月十日、『摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した。同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破り』、五月二十五日の『湊川の戦いにも従軍した』。『南朝勢力再建のため北国へ赴く義貞に従い』、十月十三日に『越前金ヶ崎城へ入城するが、北朝方の斯波高経に城を包囲される(金ヶ崎の戦い)。通綱は奮戦したが』、翌年三月六日に戦死した。

「長門の探題」鎌倉後期、モンゴルの襲来に備えて、長門・周防防衛のために設けられた幕府の出先機関。長門周防探題とも称し、鎮西探題に準じて設けられた。建治二(一二七六)年に北条得宗家の北条宗頼(時頼の子で、時宗の異母弟)を長門・周防両国の守護として派遣し、敵襲の防衛に当らせたのが、事実上の初めで、以後、北条一族がその地位を相伝し、諸国の守護以上の強力な権限を与えられた。「探題」という称呼は、最後の同職に就いた北条時直在職 (一三二三年~一三三三年) の時に初めて見える。元弘三/正慶二 (一三三三) 年五月、時直が後醍醐天皇に降伏、長門探題は滅びた(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「上野〔の〕助時直(ときなほ)」北条(金沢)時直(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)。金沢流(実質初代。始祖は実時の父実泰であるが、実泰は若くして出家しているため)北条実時の子。ウィキの「北条時直」によれば、嘉禎三(一二三七)年に式部大輔に叙任、寛元四(一二四六)年から建長三(一二五一)年まで遠江守となる。永仁三(一二九五)年から文保元年(一三一七)年まで上野介・大隅守護を務めており、永仁五年には鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐している。元亨三(一三二三)年、周防・長門の守護に任命され、長門探題となった。元弘三/正慶二(一三三三)年閏二月十一日及び三月十二日に、『祝安親・土居通増・得能通綱・忽那重清らが後醍醐天皇に呼応して倒幕の挙兵をすると、これを鎮圧するために伊予へ進軍するが、石井浜・星岡で相次いで敗れ、長門まで後退する。さらに、山陰から宮方に長門を攻められたが、援軍の到着もあって撃退することに成功する』。しかし、五月、『厚東・由利・高津などの討幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れ』たが、海上にあるうちに、『六波羅探題、鎮西探題、鎌倉幕府が相次いで宮方の攻撃によって滅び』、『孤立無援となった』。このため、五月二十六日、『朝廷方の少弐貞経に降伏し、罪を許されて本領を安堵された』が、『程なく没した。死因は病死であったという』。因みに、彼の年齢は、嘉禎三(一二三七)年の式部大輔の叙任から推定して、生年は当然、嘉禎年間(一二三五年から一二三七年)より十年以上は前と考えねばならぬから、亡くなった時は優に百歳を越えていたと考えないと、辻褄が合わない。]

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