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2018/06/20

諸國里人談卷之三 妙義

 

    ○妙義

上野國妙義山は岩山にて、岑々(みねみね)、鋭(するど)に尖(とがり)て嵒々(がんがん)とし、鉾を立たるがごとく、樹木なく、たゞ繪にある唐(もろこし)の山に似たり。東の方、厩橋惣社(まへばしさうじや)の邊(へん)より此山を見れば、峰ちかき所に、眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也。土人(さとびとの)云〔いはく〕、「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」と云(いへ)。山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也。或(あるいは)云〔いはく〕、人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事にて、かく峙(そびへ)たる嶮山(けんさん)の滴(したゝり)にて育(そだ)人は、其心、極(きはめ)て劍(するど)也。又、京・奈良などの寬(ゆるやか)なる山の水にて養(やしなは)れたる人の心は、柔和(にうわ)なり。江戸、大坂などの曠野(くはうや)大河(たいが)の流(ながれ)を飮(のむ)人、心は至(いたつ)て廣しといふは、その理(ことわり)、なきにしもあらず。

 ふとん着て寐たるすがたやひがし山   嵐雪

都の山の悠(ゆう)なるすがたを、よく、いひ課(おほ)せたり。

[やぶちゃん注:これは本文の始まるページに「妙義山」とキャプションする挿絵がある(①)。妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に展開する日本三大奇景の一つとされ、赤城山・榛名山と合わせて上毛三山の一つに数えられる山である。ここ(グーグル・マップ・データ)。複数のピークから成るが、最高峰は表妙義の稜線上にある相馬岳で標高千百三・八メートルである(但し、妙義山系全体の最高峰は裏妙義の谷急山(やきゅうやま)で千百六十二・一メートル)。私は登ったことはないが、車窓から見るその山容を、殊の外、愛するものである。私は、また、妙義というと芥川龍之介の「侏儒の言葉――病牀雜記――」(大正一四(一九二五)年十月発行『文藝春秋』初出。リンク先は私の古い注附き電子テクスト。なお、本作は単行本「侏儒の言葉」には収録されていない「侏儒の言葉」である)の一節(『九』)、『室生犀星、碓氷山上よりつらなる妙義の崔嵬たるを望んで曰、「妙義山と言ふ山は生姜に似てゐるね。」』という絶妙な犀星の評言を思い出すのを常としている(「崔嵬」:「さいくわい(さいかい)」と読み、山の様子が岩や石でごろごろしていて険しいさまを言う語である。また、これは、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、大正一四(一九二五)年八月二十三日に避暑に赴いていた軽井沢にて堀辰雄と三人して碓氷峠に登った折りのことされる)。

「岑々(みねみね)」「峰々」。

「嵒々(がんがん)」「嵒」は「岩石・大石・ごつごつして堅い岩」の他に、「山の嶮しいさま」を言う語である。

「厩橋惣社(まへばしさうじや)」「厩橋(まへばし)」は「厩橋(まやばし)」とも読む。平凡社「マイペディア」によれば、上野国の中央の利根川左岸の群馬郡の古地名で、無論、元は「うまやばし」であったものが、「う」が脱落して「まやばし」となり、さらに江戸初期に「まへばし」「前橋」と記されるようになって定着し、現在の群馬県前橋市の名に引き継がれたとする。この古称は東山(とうさん)道群馬駅(くるまのえき)近くにあった川(利根川の前身)に架けられていた橋の名に基づくともされる。戦国時代には厩橋城(前橋城)が築かれ、上杉謙信・武田信玄・北条氏康らが関東の支配権を巡って争った際の拠点の一つとなったとある。従がって、この「厩橋惣社」とは、現在の前橋市元総社町にある上野総社神社(こうずけそうじゃじんじゃ)のことである(ここ(グーグル・マップ・データ))。妙義山は西南西二十八キロほどの位置になる。

「眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也」「山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也」これを読むと、沾涼は穴は実際には存在せず、岩の形状と形状、ハングしたものが距離を隔てて、たまたま重なりあった結果として、ある方向から見ると(「ふりによつて」の「ふり」とは「方位や角度をずらすこと・ずれていること・振(ぶ)れ」の意であろう)、穴が開いているように一見見えるだけであると言っているのであるが、調べてみると、この穴は、実際に、ある「国際山岳ガイド タナハシ TANA-アルパインガイドオフィス」のこのページの「表妙義縦走」の次の「妙義山 星穴岳」を見られたい。そこに『星穴伝説』として『その昔、百合若大臣が今の横川から妙義山に向かって放った矢が、みごとに射抜いたという“射ぬき穴”』及び『そのお供の男がお結びを力いっぱい投げつけて開いたという“むすび穴”』があり、『横川には百合若大臣の足跡と言われている石がある』とし、これは『星穴岳に強弓を射った折り、踏んでいた石が凹んだ』ものと伝え(サイト「バーチャル中山道で、当該の「百合若足跡石」が見られる。なお、後注も参照のこと)、さらに『妙義神社には鉄の弓と矢が奉納されている』とあって、『右がむすび穴、左が射ぬき穴』というキャプションを持った、麓から撮った崖に確かに二箇所の穴の開いた絶壁の写真がある。以下、ロック・クライミングで実際にその穴へ向かう写真が続き、「射ぬき穴」に現着。穴は横幅約二メートル、高さ三メートルほど。その「射ぬき穴」から「むすび穴」へは、「射ぬき穴」南側にある垂壁を四十メートルほど懸垂下降して到達、「むすび穴」の方は横幅十メートル高さ十メートルと、かなりの大きさがあって、『穴から北側を覗くと』、『表妙義の峰々が眺めます』とある。別にサイト日本の奇岩景+」の「穴」でも、より大きな画像で、この巨大な「むすび穴」が見られる(右に人が立っているのでスケールがよく判る)。さても、この挿絵にある丸い穴は想像図に過ぎぬのであろうが、私はこの「むすび穴」こそ、その穴であろうと思う。但し、この穴が前橋から見えるかどうかと言えば、それはちょっと無理だろうかとは思う。

「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」「百合若大臣」は室町後期に形成されたと思しい貴種流離譚の伝説上・語物上の英雄「百合若」のこと。小学館「日本大百科全書」によれば、幸若や説経で「百合若大臣」として呼称されて活躍し、後に浄瑠璃・歌舞伎は勿論、地方の踊り歌にまで脚色された。主たる伝承では、嵯峨天皇の治世(天皇在位:大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年)、長谷観音の申し子として生まれた百合若は、蒙古襲来に出陣し、大勝するが、帰途、玄海の孤島で一休みしている間に、家臣の別府兄弟の悪計で置き去りにされてしまう。兄弟は帰国後、百合若の死を告げ、九州の国司となるが、百合若の形見に残した緑丸という鷹が孤島にきて、妻との連絡もつき、孤島に漂着した釣り人の舟によって帰国し、別府兄弟を成敗して、宇佐八幡宮を修造して日本国の将軍となるというトンデモ話である。この伝説は、本来、山口県以南に分布していて、九州を本貫(ほんがん)とする説話が諸芸能によって全国に分布するようになったものと思われている。伝説には諸種あって、例えば、百合若の足跡石という巨石を伝えたり、別称ダイダラボウシの名をもって祀られた百合若塚などもある。何れも、巨人伝説を踏襲するものであり、その他にも、緑丸の遺跡という鷹に関したものも多く、鷹を神使とする民俗の参与が考えられるという。また、壱岐島には「いちじょー」という巫女が、祭りの神楽として語る「百合若説経」と称するものがあり、これは五十センチほどの竹二本を、黒塗りの弓と「ユリ」という曲物(まげもの)を置いて、それを、叩きながら行うもので、病人祈禱の際にも同じことをする。「百合若」以外の話も語ったらしいが、今は他に残っていない。筋も他の百合若伝説とほぼ同様で、桃の中から生まれたり、壱岐島の鬼を退治したり、桃太郎の話との混交はあるが、宇佐八幡と柞原(ゆすはら)八幡の本地(ほんじ)物となっている。百合若説話の成立には、宇佐の海人(あま)部の伝承と八幡信仰との関係で民俗学的に注目されている、とある。なお、百合若とダイダラボッチについては、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛の本文及び私の注も是非、参照されたい

「或(あるいは)云〔いはく〕……」以下、妙義山から離れてしまい、山水の人格形成に与える何だかなの影響論へと語りが致命的にズレていってしまうのは残念である。しっかり妙義山を語れよ、沾涼さん、よ!!!

「人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事」個人の「人」の「身の上」の「事」柄を「自(みづから)と」呼称するのは、「みづから」=「水柄(みづから)」=「みづがら」で、水=山水(さんすい)の質によって、その人の人「柄」=性質は決定されるという「事」を指す、と謂いたいのであろう。

「峙(そびへ)たる」「峙」は「そばだつ」と訓じ、これは「聳つ」とも書き(「聳」は「そびえる」とも訓ずる)、元は「稜(そば)立つ」の意であて、山や峰が、角張って一際高く目立って嶮(けわ)しく屹立する、聳(そび)えるの意である。

「嶮山(けんさん)の滴(したゝり)」峻嶮なる山岳の齎すところの水。

「ふとん着て寐たるすがたやひがし山」「蕉門十哲」の一人である服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:江戸生まれ。名は治助(はるすけ)。武士から俳諧の宗匠となり、穏健な俳風で、江戸俳壇を其角と二分した)の代表的な句の一つで、京風物句としも人口に膾炙している一句である。句集「枕屛風」所収。

   東山晩望

 蒲團着て寐たる姿や東山

堀切実氏は(一九八九年岩波文庫刊「蕉門名家句選(上)」)、『おそらく元禄七』(一六九四)年冬、師芭蕉の『死の直後に京へ出た時の見聞による吟であろう』とされる。――ほう。なるほど。とすれば、この寝姿には芭蕉涅槃図の影があるのかも知れぬ――

「いひ課(おほ)せたり」「おほせる(おおせる)」は「果せる」或いは「遂せる」が一般的。「言いおおせる」で「美事に句として謂い遂せている」「すっかり表現し尽くしている」の意。]

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