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2018/06/10

北條九代記 卷第十二 主上笠置御籠城 付 師賢登山 竝 楠旌を擧ぐ

 

      ○主上笠置御籠城  師賢登山  楠旌を擧ぐ

 

元弘元年八月、關東の使、兩人、三千餘騎にて上洛し、近國の武士、我も我もと、六波羅に集る。「是、主上を遠島に移し、大塔宮を斬罪に行ひ奉らん爲なり」と聞えたり。宮より仰遣(おほせつかは)されければ、同二十二日の夜、主上は女車に召して、陽明門より出で給ひ、三條河原より御輿(おんこし)にて笠置(かさぎ)の石室(いはや)に臨幸なる。花山〔の〕院大納言師賢(もろかた)、萬里小路中納言藤房・同舍弟季房、三、四人、御供あり。源中納言具行(ともゆき)・按察(あぜちの)大納言公敏(きんとし)・六條少將忠顯(たゞあき)は、三條河原にて追付き奉りけり。大納言師賢卿は主上の御衣(ぎよい)を賜り、車に乘りて登山(とうざん)して、大衆の心を伺はん、と計られたり。四條大納言隆資・二條〔の〕中將爲明(ためあきら)・中院(なかのゐんの)左中將貞平(さだひら)、供奉の躰(てい)にて從へり。西塔(さいたふ)の釋迦堂を皇居と定む。主上、山門を御賴(たのみ)有りて臨幸なりたる由、披露せしかば、山上・坂本は云ふに及ばず、大津・松本・戸津(とづ)・比叡辻(ひえつじ)・和爾(わに)・堅田の者共まで、我も我もと馳參(はせさん)じけり。六波羅、大に驚き、四十八所の篝(かゞり)に畿内五國の勢を差添(さしそ)へて、都合、五千餘騎にて山門に押寄(おしよ)せ、散々に攻(せめ)けれども、山門の御勢、六千餘騎になりて、防戰(ふせぎたゝか)ふ。寄手、多く討(うた)れて、仕出(しいだ)したる事もなし。この間に、師賢、既に露(あらは)れて、主上にはあらず、と知れければ、軍兵共、皆、散々に成りて落失せたり。師賢も忍落(しのびお)ちて、笠置の皇居へぞ參られける。大塔宮も山門を落ちて、南都に赴き給ふ。主上、竊(ひそか)に楠多門(くすのきたもん)兵衞正成(まさしげ)を笠置へ召されて、武將の祕策を委(まか)せて御賴ありければ、正成、赤坂の城を構へて、旗(はた)を舉げたり。關東勢、押寄せて、攻めけるに、俄(にはか)の事にて、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)かりければ、叶はずして、正成、竊に城を退きたり。兩六波羅の軍勢、七萬五千人、笠置に取掛(とりか)けて攻めたりしに、大塔宮、師賢以下、皆、この城に集り居給ふ。陶山(すやまの)藤三義高、小見山次郎某(なにがし)、夜討(ようち)して、後(うしろ)の嶺より攻入りければ、城中亂れて、八方に落失せたり。主上は城を迷ひ出給ひ、山城國多賀郡まで落させ給ひけるを、深須(みすの)入道、松井〔の〕藏人、御輿(みこし)を奉り、南都の内山へ入れ奉る。其より宇治の平等院に成(な)し參らせ、關東の兩大將、主上を守護して、白晝に六波羅へぞ成し奉りける。大塔宮は十津川の邊に落隱(おちかく)れ給ふ。一〔の〕宮尊良親王以下の皇子(わうじ)、藤房、季房等の近臣は、皆、悉く捕(とらは)れ給ひ、敵の手に渡され、諸大名に一人づつ預置(あづけお)きたり。同九月に光嚴院(くわうごんゐん)を天子の位に卽(つ)け奉る。この君、御諱(いみな)をば量仁(かずひとの)親王とぞ申しける。後伏見院第一の皇子、御母は西園寺左大臣公衡(きんひら)公の御娘、廣義門院とぞ申しける。先帝後醍醐御卽位の後、關東より計(はから)ひて、東宮に立て參らせけり。今、卽位に即(つ)き給ひしが、御在位二年にして、正慶(しやうきやう)二年六月に、後醍醐帝、二度(ふたたび)、都に入り給ひ、復位ありける時に、又、御位を下居(おりゐ)させ給ひけり。一榮(えい)一枯(こ)、誠に定(さだめ)なき浮世の有樣、貴賤、皆、斯の如し。

[やぶちゃん注:標題の「楠旌を擧ぐ」は「くすのき、はたをあぐ」と読む。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、これ以降、最後まで、筆者は本格的に参考底本のメインを「太平記」に置いているとあり、本項は「太平記」巻第二の七項目の「天下怪異(けいの)事」から巻第四の最後(七項目)の「備後三郎高德(たかのりが)事 付 呉越(ご・ゑつ)軍(いくさの)事」

が利用されているとある。なお、本書では語られていないが、この「元弘の乱」が未然に発覚したのは、実は後醍醐帝の側近であった吉田定房(「渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆」に既注)が後醍醐のことを慮って六波羅探題に倒幕計画を密告したためである。

「笠置」現在の京都府相楽郡笠置町にある標高二百八十八メートルの笠置山。ここ(グーグル・マップ・データ)。山上を境内地とする真言宗鹿鷺山(しかさぎさん)笠置寺(かさぎでら)がある。

「師賢」花山院(藤原)師賢((正安三(一三〇一)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は花山院師信の子。参議・権中納言を経て、大納言となる。「元弘の乱」では後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山に登ったが、発覚、笠置で幕府方に捕らえられて出家、後に下総の千葉貞胤にお預けとなり、三十二で病死した。先の「後醍醐帝御謀叛」に既出既注。

「楠」楠正成(?~延元元/建武三(一三三六)年)。この元弘元/元徳三(一三三一)年に後醍醐天皇の召しに応じ、笠置山の行在所に参向、河内赤坂城にて挙兵し、六波羅勢の攻撃を防いだが、落城。翌年、千早城を築いて籠城し、幕府軍の猛攻に耐え、諸国の反幕勢力の挙兵を促した。建武中興の際その功により、河内・和泉の守護及び河内の国守に任ぜられた。建武二 (一三三五)年に足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと、新田義貞らとともにこれを討ち、一旦は撃退したが、翌年、尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際、摂津湊川にこれを迎撃して敗死した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。実は三つ前の「渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆」で、鎌倉幕府の命によって、渡邊右衞門尉一党の反乱、安田荘司の謀反を鎮定した人物としてさりげなく既に登場している。実は近年では一部の歴史家によっては彼は本来は北条得宗被官で、鎌倉幕府御家人であったとする説も有力な一説となっている(詳しくはウィキの「楠正成」を見られたい)。

「旌」単に「旗」の意でも用いるが、ここは旗竿のさきに旄(ぼう)という旗飾りを附け、これに鳥の羽などを垂らした旗で、天子が士気を鼓舞するのに用いた正規の勅許を得た官軍のシンボルとしてのそれを指す。

「關東の使、兩人」増淵勝一氏は『陸奥守北条』(大仏)『貞直ら』とされるが、これは翌九月の鎮圧部隊であって(他に江馬越前入道時見・金沢貞冬・足利高氏(後の尊氏)ら)、違う。諸資料では錯綜しているが、事実上の東使は後醍醐帝の内裏脱出(同年八月二十四日夜。本文の「二十二日の夜」は誤り)の後の九月十八日に着いた安達高景・二階堂道蘊(どううん)であろう。諸資料に載る八月二十二日東使到着というのは、実は「太平記」の記載を無批判に受け入れたもので、一次史料にそれを裏付けるものはない(ここは岡見正雄校注「太平記(一)」(昭和五〇(一九七五)年角川文庫刊)に拠った)。

『「是、主上を遠島に移し、大塔宮を斬罪に行ひ奉らん爲なり」と聞えたり』という風聞が倒幕準備のためにそこにいた(彼はこれまでに二度、天台座主に就任していた)大塔宮護良(もりなが)親王のいた比叡山に伝わったのである。

「石室(いはや)」笠置寺には岩盤を刳り抜いた道場がある。無論、後に出る通り、別に行在所はじきに造られた。

「萬里小路中納言藤房」(?~永仁四(一二九六)年)「萬里小路」は「までのこうじ」(現代仮名遣)と読む。非常に詳しいウィキの「万里小路藤房」から引く。『公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。藤原藤房とも言う』。『江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の』一『人に数えられている』。文保二(一三一八)年二月の『後醍醐天皇践祚に際して、蔵人に補任。以後、弁官として累進し、中宮亮・記録所寄人・相模権守などを兼ねる』。元亨三(一三二三)年一月、『蔵人頭に補されたが、同年に弟季房も弁官となったため』、『「兄弟弁官例」と称された』。同四年四月、『参議に任じられて公卿に列し』、正中三(一三二六)年春、従三位・権中納言に叙任』、その後、『左兵衛督・検非違使別当を兼ね』、元弘元/元徳三(一三三一)年、『中納言に転正し、正二位に叙された』。しかし、『同年』、『天皇の倒幕計画が露見したため(元弘の変)』、この八月、『四条隆資・北畠具行とともに天皇に供奉して笠置へ逃れた。行在所では、天皇が夢告により』、『楠木正成を召し出した時、その勅使を務めたという』。一『か月に及ぶ幕府軍との攻防の末』、九月二十八日に『笠置が陥落し、藤房は天皇を助けて敗走するも、翌日』、『有王山で捕捉され』、『すぐに解官』となり、十月、『宇治平等院から六波羅に移送され、武蔵左近大夫将監』『の許へ預けられた』翌年四月、『幕府から遠流の処分が伝えられると』、五月、『京都を発って常陸国に下り、小田治久(高知)の藤沢城に籠居。この間、治久に対する与同勧誘が功を奏したのか、鎌倉幕府滅亡後の』元弘三/正慶二(一三三三)年六月には『治久を伴って上洛し、復官を果たした』。『建武政権下では初め、洞院実世の後任として恩賞方上卿となるが、「忠否ヲ正シ、浅深ヲ分チ」』『公平な処理を行おうとしたところ、内謁により不正に恩賞を獲得する者が多かったため、病と称して辞退したという。ただ』、建武元(一三三四)年五月の『恩賞方改編に際しては三番局(畿内・山陽道・山陰道担当)の頭人に任じられており、この他、雑訴決断所の寄人を務めた。一方、後醍醐天皇に直言を呈することのできた硬骨漢としても知られ、出雲の塩冶高貞から駿馬が献上された際、洞院公賢がこれを吉兆と寿いだのに対し、藤房は凶兆と論じ、以下の点を挙げて政権を指弾したと』される。それは、①『為政者は愁訴を聞き、諫言を奉るべきであるのに、それを怠っていること』、②『恩賞目当てに官軍に属した武士が未だ恩賞に与っていないこと』、③『大内裏造営のために、諸国の地頭に二十分の一税を課したこと』、④『諸国で守護の権威が失墜し、国司・在庁官人らが勢力を振るっていること』、⑤『源頼朝以来の伝統がある御家人の称号を廃止したこと』、⑥『倒幕に軍功があった諸将のうち、赤松円心のみ』、『不当に恩賞が少ないこと』であったとされる。一方で、『藤房は武家の棟梁の出現を危惧し、再三諫言を繰り返すも、天皇に聞き入れられないまま』、同年十月五日、『岩倉で出家。天皇は慌てて宣房に命じて藤房を召還させたが、既に行方を晦ましていたため、再会は叶わなかったという。その後の消息は不明で、相国寺に住したと伝える』『他、各地に伝承が散見する』という。

「同舍弟季房」万里小路季房(?~元弘三(一三三三)年)は公卿で前の藤房の弟。ウィキの「万里小路季房」によれば、『子は仲房。季房は後醍醐天皇の倒幕運動に関わったが、子の仲房は北朝に仕え、万里小路家は北朝政権と足利将軍家で重きをなしていくことになる』(以下、任官が細かに記されるが省略する)。元徳二(一三三〇)年四月七日に『参議に任ぜられ』たが、『間もなく、元弘の乱に関わって』元弘元(一三三一)年十月五日に『参議を辞し』、同月十六日『には出家し』、その翌十七日、『武家に出頭し』で『幕府に捕縛され』、『その後、常陸に流罪とな』り、元弘三(一三三三)年五月二十日、『配所で殺された』(「東勝寺合戦」によって鎌倉幕府が亡ぶ二日前である)。『兄の藤房は京都に帰還できたが、季房のみが殺され』、『父宣房と母が嘆き悲しんだと『増鏡』にも記述がある』とある。

「源中納言具行(ともゆき)」北畠具行(正応三(一二九〇)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は公卿。村上源氏北畠家庶流の北畠師行の次男。ウィキの「北畠具行より引く。『北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家』四『代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった』。元弘元(一三三一)年、『後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)』翌年、『京極高氏(佐々木道誉)により』、『鎌倉へ護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の滋賀県米原市)で処刑された』。『「ばさら」と呼ばれた道誉は、公家である具行の事を嫌悪していたが、死に臨んでの具行の態度に道誉も感服し、柏原宿の徳源院に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが』、『叶わず、その別れを惜しんだと伝』え、六月十八日『夜、二人は暫く談笑し、翌』十九日、『具行は剃髪後に処刑されたが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の言葉を述べたと伝わる』。『「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」』とされる。

「按察(あぜちの)大納言公敏(きんとし)」洞院公敏(とういんきんとし 正応五(一三九二)年~観応三/正平七(一三五二)年)であろう。例のサイト「南北朝列伝」のこちらによれば、妹守子と娘が後醍醐天皇妃となっている。官位は按察使弾正尹・権大納言(正二位)洞院実泰の二男。「増鏡」は「公俊」と表記する。応長元(一三一一)年五月に参議となり、また、『按察使弾正尹に任じられたので「按察(あぜち)大納言」と呼ばれることが多い』『早くから後醍醐天皇に接近していたらしく』、元弘元(一三三一)年八月に『後醍醐が挙兵を決意して京を脱出する時に同行して一緒に笠置山に立てこもった。笠置陥落時に捕えられ』、『直後に出家し「宗肇」と号した。出家しても罪は許されず、小山秀朝に預けられ』、『下野国に流刑となった』(「太平記」は配流先を上総『とする)。「新後拾遺和歌集」に載る「思ひねと知りてもせめて慰むは都にかよふ夢路なりけり」という歌は配流先で詠んだものとされる』。『鎌倉幕府崩壊後に帰京し』、『政界に復帰したが、後醍醐天皇が吉野に入って南朝を開くのには同行しなかった』。『息子の実清は南朝に仕えたとされる』とある。

「六條少將忠顯(たゞあき)」公卿千種忠顕(ちぐさ ただあき ?~延元元/建武三(一三三六)年)。ウィキの「千種忠顕」によれば、『権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議』。正応三(一二九〇)年当時は、『東宮権大進として胤仁親王(後伏見天皇)に仕えていた』が、『その後は後醍醐天皇の近臣となり、皇太子邦良親王の早期即位を画策する父の六条有忠と敵対した。学問よりも』、『笠懸や犬追物など武芸を好み、淫蕩、博打にかまけていたため』、『父から義絶されている』。この「元弘の乱」の後、後醍醐天皇が隠岐流罪に『処されると、これに随従し』、『翌年、天皇とともに隠岐を脱出』、『伯耆の名和長年を頼り、船上山に挙兵した。頭中将に任じられ、山陰の軍勢を率いて』、『足利高氏や赤松則村らとともに六波羅探題攻めに参戦している他、奥州白河の結城宗広、親朝親子をはじめ』、『各地の豪族に綸旨を飛ばすなど、後醍醐天皇による倒幕運動に寄与した』。『建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと』ともに、『権勢を振るった。従三位参議や雑訴決断所寄人となり、佐渡国など』三『ヶ国の国司職と北条氏の旧領』十『ヶ所を拝領したものの、万里小路宣房らとともに出家した』。当時、未だ若年であったと思われる忠顕の『出家は新政への批判が集まる中で』の、『詰め腹を切らされる形となったものと考えられている』。建武二(一三三五)年十一月、『足利尊氏が新政から離反すると』、翌年一月には『新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ駆逐した』が、同年六月七日、『再び京都へ迫った尊氏の軍と対戦し、山城国愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の京都府京都市左京区修学院音羽谷)で足利直義と戦って戦死した』。なお、『建武の新政の功により、後醍醐天皇から莫大な恩賞を得て、忠顕は家臣らとともに日夜酒宴に明け暮れた。宴に集う者は』三百『人を数え、費やされる酒肴の費用は膨大な額に上った。数十間もある厩で肥馬を』五、六十『頭も飼育し、興が乗ると』、『数百騎を従えて』、『上京や北山へ繰り出し』、また、『犬追物や鷹狩に没頭した。狩りの際は豹や虎の皮を装着し、金襴刺繍や絞り染めの直垂を着用していたとされる』とある。

「大納言師賢」既出既注であるが、再掲しておく。花山院(藤原)師賢(正安三(一三〇一)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は花山院師信の子。参議・権中納言を経て、大納言となる。「元弘の乱」では後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山に登ったが、発覚、笠置で幕府方に捕らえられて出家、後に下総の千葉貞胤にお預けとなり、三十二で病死した。「大納言師賢は主上の御衣(ぎよい)を賜り、車に乘りて登山(とうざん)して、大衆の心を伺はん、と計られたり」は以上の注でお判り頂けるものと思う。

「四條大納言隆資」(正応五(一二九二)年~文和元/正平七(一三五二)年)は公卿。父は左中将隆実。後醍醐天皇の信任を得た南朝の公卿として知られる。「正中の変」(一三二四年)に関与したが追及を逃れ、嘉暦二(一三二七)年に参議、元徳二(一三三〇)年には権中納言。本「元弘の変」では後醍醐天皇の笠置臨幸に供奉したが、一度、消息を絶ってしまう。しかし、正慶二/元弘三(一三三三)年の後醍醐天皇の帰京に際し、再び、姿を見せ雑訴決断所・恩賞方などに名を連ねた。南北朝分裂後は、天皇とともに吉野に赴いた。文和元/正平七(一三五二)年の男山八幡での足利義詮軍との戦いで戦死した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「二條〔の〕中將爲明(ためあきら)」(永仁三(一二九五)年~貞治三(一三六四)年)は公卿で歌人。歌壇の中心人物として活動し、後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の撰集を命ぜられたが、撰の途中で死去した。歌は「続千載和歌集」などにある。正三位・権中納言(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「中院(なかのゐんの)左中將貞平(さだひら)」(生没年不詳)公家で武将。村上源氏。左少将、後に右中将。「太平記」によれば、当初より、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐運動に加わり、同天皇の隠岐配流中は護良親王の側近として、さらに建武新政下では天皇配下の武将として活動。建武三/延元元(一三三六)年五月の「湊川の戦い」で足利軍に敗れた後、同十月河内(大阪府)へ隠れて以降、消息不明である(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「皇居」行在所(あんざいしょ)。

「山門」比叡山延暦寺を指す。以下が「比叡山合戦」。

「披露」公表。

「坂本」比叡山東麓の、現在の滋賀県大津市坂本ここ(グーグル・マップ・データ)

「松本」現在の大津市内、松本石場附近。ここ(グーグル・マップ・データ)

「戸津(とづ)」現在の『大津市下阪本』(ここ(グーグル・マップ・データ))『の浜の古名』と新潮日本古典集成「太平記 一」(山下宏明校注・昭和五二(一九七七)年刊)の注にある。以下の山下氏注とするのは総てそれに基づく。こちらは「阪本」なので注意が必要

「比叡辻(ひえつじ)」現在の『大津市下阪本比叡辻(ひえつじ)町』(山下氏注)とする。現在の滋賀県大津市比叡辻(下阪本北部分も含むか)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)

「和爾(わに)」「太平記」の「師賢登山之事 付 唐崎濱合戰之事」では「和仁」。ここは現在の『滋賀郡志賀町内の地名』(山下氏注)とあるが、現在は大津市内の和邇(わに)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)

「篝(かゞり)に」洛中の警固所に常駐していた武士に、の意。

「仕出(しいだ)したる事もなし」当の目的である後醍醐天皇(実はここにいないが、いると思って六波羅軍は攻めている)を始めとする謀反一党を捕えることが出来ずにいる。

「赤坂の城」現在の大阪府南河内郡千早赤阪村森屋にあった下赤坂城。の附近(グーグル・マップ・データ)。現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったらしい。ウィキの「下赤坂城」によれば、『熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策』(糞尿を撒いたとも聞く)『を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城』(本文の「俄(にはか)の事にて、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)かりければ、叶はずして、正成、竊に城を退きたり」に相当)、『正成は金剛山に潜伏し』、翌元弘二(一三三二)年には、『正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けた。この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、全国的に倒幕の気運が高まったとされる』とある。

「陶山(すやまの)藤三義高」(生没年不詳)は例のサイト「南北朝列伝」のこちらによれば、『笠置山を陥落させた殊勲者』とし、『備中国陶山(現・岡山県笠岡市』金浦『)の武士』で、「太平記」の『巻三には』「陶山藤三(たうざう(とうぞう))義高」『として現れる』。『後醍醐天皇が笠置山に挙兵すると、それを攻める幕府軍に加わって』いた。『笠置山は難攻不落の要害で、幕府の大軍相手に後醍醐方はよく善戦し』、二十『日間以上も抵抗を続けた』が、『陶山義高は同じ備中武士の小宮山次郎と語らって抜け駆けの功名を狙い』、九月二八日の夜、五十人ばかりの『兵を率いて』、『風の中をおして』、『笠置山裏手の絶壁をよじ登り、後醍醐の行在所に火を放って』、『後醍醐方を混乱におとしいれた。この混乱をみて』、『正面から幕府軍も突入』、『笠置山は陥落、後醍醐らは逃亡したが』、『間もなく捕えられた。笠置山が背後の断崖からの奇襲で陥落したことは他資料でも確認できるが、陶山・小見山の名については』「太平記」のみが記しており、確認は不能である、とある。『その後、赤松円心軍が後醍醐側で挙兵して京都を攻めた』際、『「陶山次郎」なる者がこれを破り、その功績によって「備中守」となるが、足利高氏の寝返りによって六波羅探題が攻め落とされ、北条仲時以下』、『探題の一行が近江・番場で集団自決した時に、この陶山次郎も運命を共にしている。これを陶山義高のこととする人も多いが』、「太平記」では別人扱いされているようである、とある。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、姓は大江氏とする。

「小見山次郎某(なにがし)」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『小見山(岡山県井原市)の土豪』とする。

「山城國多賀郡」現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町多賀。(グーグル・マップ・データ)

「深須(みすの)入道」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『京都市伏見の西、三栖(みす)の土豪』とする。

「松井〔の〕藏人」同じく山下氏の注によれば、『綴喜郡田辺町松井の土豪』とする。

「南都の内山」同じく山下氏の注によれば、『奈良県天理市杣之内(そまのうち)にあった内山永久寺。第五寺の末寺で、修験道(しゅげんどう)の寺』とある。廃仏毀釈によって明治初期に廃寺となった。(グーグル・マップ・データ)

「其より宇治の平等院に成(な)し參らせ」増淵氏の現代語訳には、この平等院に入った日付を『九月三十日』と補足してある。

「關東の兩大將」南都本「太平記」は北条(大仏)貞直と金沢貞将と明記する。これは関東から派遣された謀反討伐軍の大将で他にもいたことは前にも注した。

「十津川」奈良県吉野郡十津川村。奈良県の最南端の山間部。(グーグル・マップ・データ)

「一〔の〕宮尊良親王」(延慶三(一三一〇)年~延元二/建武四(一三三七)年)は後醍醐天皇の皇子で、母は二条為世の娘為子。宗良親王の同母兄。ウィキの「尊良親王」によれば、『幼少時は吉田定房に養育された』。嘉暦元(一三二六)年に『元服し、中務卿に任じられた』。元徳三(一三三一)年一月には『一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された』。『元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。しかし脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した』建武二(一三三五)年に『足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた』。延元二/建武五(一三三七)年一月、『尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き』、三月六日、『義顕や他の将兵と共に自害した。自害の寸前、義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶したという』とある。

「同九月に光嚴院(くわうごんゐん)を天子の位に卽(つ)け奉る」光厳天皇(正和二(一三一三)年~正平一九(一三六四)年)は持明院統の天皇(在位:元弘元年九月二十日(一三三一年十月二十二日)~元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日))。ウィキの「光厳天皇によれば、『後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が』、『自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇』百二十五『代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた』二代十五年の『間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った』とある。建武の親政の失敗以後の事蹟はリンク先を見られたい。

「後伏見院」(弘安一一(一二八八)年~延元元(一三三六)年)。

「西園寺左大臣公衡(きんひら)」

「廣義門院」西園寺寧子(ねいし/やすこ 正応五(一二九二)年~正平一二(一三五七)年)。後伏見上皇の女御で、光厳天皇及びその弟で北朝第二代の光明天皇の実母。参照したウィキの「西園寺寧子によれば、『北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室』の出自でないのに『治天の君となったのも、日本史上で』、『広義門院西園寺寧子が唯』一人である、とある。

「正慶(しやうきやう)二年」元弘三年。一三三三年。

「六月」五日。ユリウス暦七月十七日。]

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