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2018/06/16

諸國里人談卷之二 神石窟

 

     ○神石窟(しんじやくのいはや)

出羽國秋田の北、男鹿嶋(おがしま)は、五、六里がほど、海へさし出たる所にて、窪田よりは陸路十余里、舩路(ふなぢ)は五里ばかりなり。本山(ほんざん)・新山(しんざん)、兩山(りやうざん)の間に男鹿村といふ湊あり。此山の麓、海崕(うみぎは)に岩窟あり。「神石窟」といふ。俗に「鬼(おに)が窟(いはや)」といふ。方十間ばかりの洞(ほら)にて、上は、五色の大石、洞の口に復(おほ)ひたり。舩にて入事、一町餘り、奧に少しの平地あり。左に、方、八、九尺の穴あり。先年、山伏の行者兩人、此穴に入。松明(たいまつ)にて、凡(およそ)一里がほども行けるが、猶、その奧、はからずして皈(かへ)りたり、といひつたへたり。○取上岩(とりあげいは) 大石のうへに、ひとつの石、かさなりて、海岸にあり。風波はげしき時は、上の石を、浪にて打落す也。程經て、また、前のごとくに、をのれと、石のうへに上事、奇也。土人(ところのひと)の言葉に、「此ほどの嵐は、よほどの事なり。取上岩の落(おち)たり」など云へり。○舩隱窟(ふなかくしのいはや) 此洞に舩を入れば、出事、あたはず。よつて、此所へ船をちかづけず。打つ浪の強き所なるゆへなり。○蝙蝠窟(かうもりのいはや) 蝙蝠、おびたゞしく、あり。此窟にて、七、八人、叫(さけべ)ば、數(す)百人の樹神(こだま)す。○大山橋(おほさんきやう) 小山橋(こさんきやう) 鳥居のごとく、大石、水上に出たる所、凡(およそ)高さ、四間ばかり、その間を舩にて潛(くゞ)る也。其外、二十間、三十間、大岩の嶋々、三十三嶋あり。風景、松島・象潟(きさがた)に越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。嶋𢌞(めぐ)りの舩路、三里半。○本山は興福寺と云。天台宗也。女人結界(けつかいの)地。此山の鹿、男(お)は峰(みね)へ登れども、女(め)は登らず。

[やぶちゃん注:これは山名・地名などから総合して考えるに、男鹿半島の西南の海岸(南磯海岸)にある、現在の男鹿国定公園の一部である秋田県男鹿市船川港(ふながわみなと)本山門前(ほんざんもんぜん)祓川(はらいかわ)の海食洞「孔雀の窟(こうじゃくのいわや)」(孔雀ヶ窟(こうじゃくがくつ/くじゃくがくつ)」とも呼び、「孔雀」を「蒿雀」とも書くようだ。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」も参照されたい。写真の他、本窟に纏わる神話も紹介されてあるが、それによれば、この「窟」の元の名は「空寂(くうじゃく)の窟」とする。これは「孔雀」(くじゃく/こうじゃく)が当て字である可能性が格段に高まり、されば「神石」(こうじゃく)アリ! ということにもなろう。後文参照を中心とした海食洞群を指しているのではないかと推定する。なお、北西部の戸賀の海岸線から、この辺りにかけては多数の海食洞があり、各個同定は出来ないが(私はそもそも行ったことがない)、それらもこの記載の中に含まれているのではないかと思われる。国土地理院の地図を見ると(中心に孔雀窟。南北に図を動かして見て貰いたい)、無数の有名・無名の島(岩礁)があることが判り(「大岩島々、三十三島」に合致、また、北から「カンカネ洞」・「棧橋」(本文の「大山橋」と推定)などとづけられた、海食洞や海食台を認めることが出来る。なお、「男鹿市観光商工課」公式ブログ「男鹿ブロ」の「男鹿半島 海岸線めぐり」も見られたい。そこではここでは私は挙げなかった、男鹿半島北方部の戸賀周辺の海岸線の奇岩景勝が判る)。

 なお、ここで私がかく限定的に同定したのは、現在の「こうじゃくがくつ」という呼称にある。「神」は「神々(こうごう)しい」などの用例で判る通り、「コウ」と読め、また、「石」は「盤石(ばんじゃく)」のように「ジャク」とも読める。則ち、「神石窟」は「孔雀窟」と同じく「コウジャククツ」と音読み出来るからである。

 小学館の「日本大百科全書」他によれば、「孔雀窟」は、幅八メートル、奥行三十メートル、高さ十五メートルで、天井からは鍾乳石が垂れ下がり、洞内には数千匹のコウモリ(キクガシラコウモリ(哺乳綱獣亜綱翼手(コウモリ)目コウモリ亜目 Rhinolophoidea 上科キクガシラコウモリ科キクガシラコウモリ亜科キクガシラコウモリ属キクガシラコウモリRhinolophus ferrumequinum)とユビナガコウモリ(コウモリ亜目ヒナコウモリ科ユビナガコウモリ属ユビナガコウモリMiniopterus fuliginosus))が棲息するとある(「蝙蝠窟」の叙述と一致する)。戸賀から遊覧船が出るが、小舟でないと中には入れない、ともある。

「窪田」現在の秋田市。かつて秋田は羽後国秋田郡久保田と呼ばれた(秋田藩は藩庁のあった場所から久保田藩とも呼ばれた)。孔雀窟まで実測してみると、確かに五十キロメートル(「陸路十余里」)はある。「舩路は五里ばかり」とあるのはやや短めであるが、凡そ、秋田から直線で三十キロメートルほど航行すれば、対象海域に到達出来る。

「本山(ほんざん)・新山(しんざん)、兩山(りやうざん)の間に男鹿村といふ湊あり」男鹿半島の西海岸寄りには、ドーム状に、主峰「本山」(ほんざん:標高七百十五メートル)を中心として、北に「真山」(しんざん:標高五百六十七メートル)、南に毛無山(けなしやま:標高六百七十七メートル)が連なる(ここ(国土地理院地図))。これは「男鹿三山」と呼ばれ(但し、男鹿市では三つ目は「毛無山」ではなく「寒風山」とするようである。(グーグル・マップ・データ))、古くから、赤神権現を祀る信仰の山として知られ、平安末以来、修験者の道場として栄えた。ここでこの窟に入った山伏たちもその修行者であったのであろう。但し、「男鹿村といふ湊あり」とあるのは、やや不審で、現在の「男鹿」の中心は、秋田県男鹿市船川港船川(ふながわみなとふながわ)で、男鹿半島の南東の内側であり、ここを「本山・新山、兩山の間」とは言わないだろうし、孔雀窟の辺りに幾つかの集落があるからそれも当時は「男鹿村」村内ではあったとは思うが、これもそうは表現出来ない。不審。

「海崕(うみぎは)」「崕」は「崖」に同じ。海食崖である。

「鬼(おに)が窟(いはや)」先に示したサイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」には、『この窟には鬼が住んでいるので船を入れるとき』舷(ふなばた)『を叩く』とある。

「方十間」十八・一八メートル四方。

「上は五色の大石、洞の口に復(おほ)ひたり」サイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」の左画像を見られたい。言っている意味が腑に落ちる。

「一町」百九メートル。

「方、八、九尺」二メートル四十三センチ~二メートル七十二センチ四方。

「はからずして」探索することを断念して。果て知れぬ様子だったからであろう。

「をのれと」ママ。「己と」「自と」。自然と。

『土人(ところのひと)の言葉に、「此ほどの嵐は、よほどの事なり。取上岩の落(おち)たり」など云へり』これはそのまんまなら、つまらぬ平凡な記載であるが、私はこの言葉(言いかけ)にある呪的な意味が含まれているのではないかと推理する。或いは、こうした謂いをすることで落ちていない「取上岩」は「落ちた」ことになり、そう認識された上で、落ちていないそれを見て「岩が登った」と考えることで、奇瑞譚が形成され、伝承されるのではなかったか?

「此洞に舩を入れば、出ル事、あたはず」「打つ浪の強き所なるゆへなり」だったら、他にも同じような海食洞は無数にあるはずなのに、ここにのみそう付けられているのは、やはり、ここだけにそうした現象が特異的に起こるからである。海食洞の奥の潮下帯下の岩礁に海側へ向けて曲折した海中隧道が存在し、それが、洞の入口直下の海底に開口して、内側に向かって常時、循環性の海流が生じているか、或いは、海食洞の途中に、他の海食洞と通底した穴があり、それらに入った波が輻輳してこの洞の奥に流れ込むのかも知れない。或いは、洞の形状から、左右の壁面に当った波が中心に向かって強く干渉波を起こすのかも知れない。

「樹神(こだま)」木霊(こだま)に同じい。

「大山橋(おほさんきやう) 小山橋(こさんきやう)」先ほど地図から拾った以外にも「立岩」などという岩礁もあった。しかし、「鳥居のごとく、大石、水上に出たる所、凡(およそ)高さ、四間ばかり、その間を舩にて潛(くゞ)る」(「四間」は七メートル二十七センチ)というのは、先に挙げた「男鹿市観光商工課」公式ブログ「男鹿ブロ」の「男鹿半島 海岸線めぐり」の七枚目の写真の「大棧橋(だいさんきょう)」の写真とその説明、『まぁるい大きな穴がポッカリ空いて、橋のようになっていることから大棧橋と呼ばれています。戸賀の遊覧船に乗ってくぐることも出来るんですよ!』とあるのと美事に一致するように思う。対照スケールがないので写真ではよく判らないのだが、それなりの観光船がくぐることの出来るアーチは七メートル四方は必要だから、名前の類似性だけでなく、その大きさからも、ここに同定してよいだろう。

「二十間」三十六メートル三十六センチ。

「三十間」五十四メートル五十四センチ。

「大岩の嶋々、三十三嶋あり」ここはもう、北の戸賀からこの南海岸までの海岸線全体と考えてよいであろう。

「嶋𢌞(めぐ)りの舩路、三里半」既にこの時代、観光船が出ていたことが判る。しかも、「三里半」(十三キロ七百四十七メートル)とあるからには、現在の男鹿ではあり得ない(片道だけで二十キロかかってしまうからである)。その出航先は、現在のように、北の戸賀ではなかったか?

「興福寺」「天台宗」このような名の天台宗寺院は現在は本山にはない。近くの「男鹿三山」の一つ、真山には現在、真山神社(しんざんじんじゃ)があるが、ウィキの「真山神社によれば、『社伝によれば、景行天皇の御代、武内宿禰が北陸地方諸国視察のため男鹿半島へ下向の折、涌出山(わきいでやま、現在の男鹿真山・男鹿本山)に登り』、『使命達成と国土安泰・武運長久を祈願して瓊瓊杵命・武甕槌命を祀ったのが始源とされる。平安時代以降』、『仏教の伝播が男鹿へも至り、貞観年中』(八五九年~八七七年)『には慈覚大師』が『涌出山を二分し、北を真山、南は本山としたと伝えられる。以来修験の信仰が昂り、天台僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。南北朝時代には真山別当光飯寺は真言宗に転じ、支配も東北豪族の安部氏・清原氏・藤原氏と移りながらも、その庇護のもとに修験霊場として一山繁栄を誇った。江戸時代には国内十二社に指定され、佐竹候の祈願所として数々の寄進崇敬とともに、幾多の堂塔伽藍が営まれてきた。明治維新後は神仏分離令によって元の神域に復し、名も赤神神社から真山神社と改められた』とある。さて慈覚大師円仁は天台宗の僧である。彼が『涌出山を二分し』て『北を真山』とし、『南は本山としたと』するなら、それぞれに寺或いは堂が設けられたと考えるのが自然であり、だからこそ、『南北朝時代には』一方の『真山別当光飯寺は真言宗に転じ』と読めるわけで、この本山には天台宗の寺院或いはその仏教祭祀施設が廃仏毀釈まで存在したと考えるのが、これまた、自然である。しかし、いくら調べても本山にあったという天台宗の「興福寺」は見当たらない。現地の郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。

「此山の鹿、男(お)は峰(みね)へ登れども、女(め)は登らず」読み違える人はいないと思うが、老婆心乍ら言っておくと、「女人結界(けつかいの)地」だから、この山の「鹿」(本物のシカである)の雄のシカは峰を登って駆けるけれども、雌のシカは山の一定以上から上へは登らない、というのである。]

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