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2018/06/06

諸國里人談卷之二 ※石(さゞれいし) [「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」(下)]

 

    ○※石(さゞれいし)

[やぶちゃん注:「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」(下)。]

安藝國加部庄(かべのしやう)金龜山(きんきさん)福王寺の什貲(じうし)の奇石あり。むかし、淸和天皇貞觀五年の春、紀伊國千里(ちり)の濱に、夜な夜な、光明を、はなつ。浦人、その所を需(もとむ)るに、ひとつの※石(さゞれいし)あり。同八年、右大臣良相(よしすけ)卿の百華亭に御幸ありける。是を「大御幸(〔おほ〕みゆき)」と稱せり。此ために、紀伊國より、とりよせ給ふなりける。此事、「伊勢物語」に云〔いはく〕、

 

三條のおほみゆきせし時、きの國千里の濱にありける、いとおもしろき石、奉しかば、ある人の、みさうしのまへのみぞにすへたりしを、

「嶋、このみ給ふ君なり。此石を奉らん。」

と、の給ひて、みずいじん、とねりして、とりにつかはす。いくばくもなくて、もてきぬ。此石、きゝしより、見るは、まされり。

「これをたゞに奉らんはすゞろなるべし。」

とて、人々、歌をよませ給ふ。右の馬のかみなりける人のを、なん、あをき苔をきざみて、まきゑのかたに此歌を、なん、つけて、たてまつりける。

 あかねどもいはにぞかふる色見えぬ心を見せんよしのなければ

 

此石、其後(そののち)、二條后(きさき)に給はりしなり。後醍醐天皇、觀應二年に中納言公忠(きんたゞ)に賜ふ。その冬、勅勘によつて、安藝國へ左遷せられける。安藝の守護武田伊豆守氏信、頻りに望むによつて、伊豆守に傳ふ。氏信、よろこび、城中へ納めければ、光り物して、晝夜、鳴動、やまず。故(かるがゆへ)に福王寺へ納めける也。其後、また、大江輝元、城中へ入〔いり〕けるに、雷(らい)のごとくに鳴動す。一夜(や)止(とゞめ)て、福王寺へ返す。持行〔もちゆ〕く時は人夫八人をして、やうやう運ぶ。皈〔かへ〕る時は、一人して、かろし、となり。又、福島正則、此寺に來りて、石を一見して、「奇特〔きどく〕をあらはせ」と扇を以〔もつて〕扣(たゝ)きければ、俄に、雨、車軸、雷電して、大洪水してげり。今以〔もつて〕、當寺の什寶(じうほう)とす。

[やぶちゃん注:読み易さを考え、「伊勢物語」の引用部を改行し、前後を一行空けた。本条の挿絵が後に別にここに載る(左上。千里の浜からの移送図であろう。リンク先は「早稲田大学図書館古典総合データベース」の①)。因みに、吉川弘文館随筆大成版は「苔」を『筆』と翻刻している。単純に読んでも、「筆」では意味が通じまい。崩し字もよく調べれば「苔」であることは疑いない。というより、「伊勢物語」に当っていれば、こんなおかしな判読は逆立ちしても出ようがない。頗る不審極まりないことである。こんないい加減な校訂をしておいて、無断複写・複製を禁じている(だから、私はその綺麗な挿絵を当該書から採らず、リンクで我慢している)のはちゃんちゃらおかしい

「※石(さゞれいし)」(「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」))一般には「細石」と書く。「さざれ石」は、もともとは一般名詞で単に「小さな石」のことを指す語であるが、自然界に於いて一定の条件下、長い年月をかけて、小石群やその欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が自然に埋めてゆく(充填してゆく)ことによって、一つの大きな岩塊に変化した石塊を指すようにもなった。こうして出来た岩石は学術的には「石灰質角礫岩」などと呼称される。石灰岩が雨水で溶解して生じた乳状液(粘着力が強い)が、少しずつ、小石を凝結してゆき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まって生ずる。なお、「君が代」の「さざれ石」は、この特異な形成を経て出来る岩石を知っていて確信犯で詠んだものではなく、単に、小石が巨石となるような、気の遠くなるような非常に永い永い年月の比喩表現に過ぎない(以上はウィキの「さざれ石」に拠った)。ここも、その「小石が大石となる奇石」としての「さざれ石」のことを指している

「安藝國加部庄(かべのしやう)金龜山(きんきさん)福王寺」現在の広島県広島市安佐北区可部町大字綾ケ谷にある真言宗の寺。

「什貲(じうし)」「貲」は「宝」に同じであるから、家宝として秘蔵する器物・什物のこと。「福王寺」公式サイトのこちらに、「芸藩通志」(文政八(一八二五)年に、「福王寺にあり。高一尺三寸、長二尺八寸、上、圓(まどか)に、中、高く、下、平(たひら)にして、色は演鐡の如く、玲朧として愛玩すベ」きもので、「淸和天皇の時、紀伊の千里濱より出で、伊勢物語にのせられしは、此石なり」とあるものである(一部、疑問があるので操作を加えた)が、昭和五二(一九七七)年の落雷による火災で燃燬(しょうき:焼くこと。焼き払うこと。)している、とある。しかし、『「さざれ石」(客殿に保管)』として、写真が載るので、現存することが判る。

「淸和天皇貞觀五年」八六三年。

「紀伊國千里(ちり)の濱」現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)にある千里(せんり)の浜。太平洋に面しており、長さ約二キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。古くは白砂清松の浜として熊野参詣道の一部であった。東直近の反対側の岬を見下ろすところにある「小目津公園(こめづこうえん)」にこの石があり、その解説板に、『「伊勢物語」に』、貞観五年に『千里の浜で発見された「おもしろき石(さざれ石)」と記され、歴代天皇が愛好』したもので、『「さざれ石」は「万葉集」や「古今和歌集」にも見え、玉に次ぐ美石(大漢和辞典)、小石・細石(広辞苑)などと称され』、約七、八百万年前に『堆積した「目津礫層(めづれきそう)」が崩れた石』とある、ということが、そこにある「さざれ石」の写真とともに、麻巳子氏のブログ「癒しの和歌山」の「☆さざれ石と「小目津公園」☆」にあった。

「右大臣良相(よしすけ)」藤原良相(弘仁四(八一三)年~貞観九(八六七)年)は公卿。藤原北家。左大臣藤原冬嗣の五男。官位は正二位・右大臣。文徳天皇の外叔父。ウィキの「藤原良相」にもあるが、その他の信頼出来るデータとも照合すると、貞観八(八六六)年三月二十三日良相の西三条邸(「百花亭」(=「百華亭」)と号した)に清和天皇が行幸し、四十人もの文人を参加させた、詩歌会を伴った大規模な花見の宴が開催されており、これが後の「伊勢物語」に出る「大御幸(おほみゆき)」であることが判明した。

「此ために、紀伊國より、とりよせ給ふなりける」「伊勢物語」を読むに、これは「ある人物」が主語で、藤原良相に献上するために取り寄せたということが判る。しかし、それはこの清和天皇の「大御幸」には実は間に合わなかったという、かなり捩じれた複雑なシチュエーションである。しかし、ここで沾涼はそれを巧妙にカットされてしまっており、それを読み取ることは不可能になってしまっている。以下の「伊勢物語」の引用を参照されたい。

『此事、「伊勢物語」に云……』「伊勢物語」第七十八段。

   *

 むかし、多賀幾子(たかきこ)と申す女御おはしましけり。うせ給ひて七七日(なななぬか)のみわざ、安祥寺(あんしやうじ)にてしけり。右大將藤原の常行といふ人、いまそかりけり。そのみわざにまうで給ひて、かへさに、山科の禪師の親王おはします、その山科の宮に、瀧、落し、水、走らせなどして、おもろしく造られたるにまうでたまうて、

「年ごろ、よそには仕うまつれど、近くは、いまだ仕うまつらず。今宵は、ここにさぶらはむ。」

と申し給ふ。

 親王、喜びたまうて、夜(よる)の御座(おまし)の設(まう)けせさせ給ふ。

 さるに、かの大將、いでて、たばかりたまふやう、

「宮仕へのはじめに、ただ、なほ、やはあるべき。三條の大御幸(おほみゆき)せし時、紀の國の千里(ちさと)の濱にありける、いとおもしろき石、奉れりき。大御幸の後(のち)、奉りしかば、ある人の御曹司(おほんざうし)の前の溝(みぞ)にすゑたりしを、

『島このみたまふ君なり。この石を奉らむ。』

とのたまひて、御隨身(みずいじん)・舍人(とねり)して、取りにつかはす。いくばくもなくて、持(も)て來(き)ぬ。この石、聞きしよりは、見るは、まされり。

『これを、ただに奉らば、すずろなるべし。』

とて、人々に歌よませ給ふ。右の馬の頭(かみ)なりける人のをなむ、靑き苔をきざみて、蒔繪(まきゑ)のかたに、この歌をつけて、奉りける。

 飽(あ)かねども岩にぞかふる色見えぬ

   心を見せむよしのなければ

となむ、よめりける。

   *

以下、上記の注を附す(新潮日本古典集成の渡辺実校注「伊勢物語」(昭和五一(一九七六)年刊)を参考にした)。

・「多賀幾子(たかきこ)」前に出た藤原良相の娘で、文徳天皇の女御。生年未詳。天安二(八五八)年十一月十四日薨去

・「七七日(なななぬか)のみわざ」四十九日の法要。

・「安祥寺」現在、京都市山科区御陵平林にある(応仁の乱で廃絶し、江戸時代に場所を移して寺の一部が再興されたもの)真言宗吉祥山安祥寺朝廷所縁の定額寺の一つ。

・「右大將藤原の常行」藤原良行(承和三(八三六)年~貞観一七(八七五)年)は藤原良相の長男。官位は正三位・大納言。多賀幾子の兄(異母兄か)。渡辺実氏は恐らくはこの多賀幾子の法要の主催者であろうとされる。

・「みわざ」「御業」。御法要。

・「かへさに」帰り道に。

・「山科の禪師の親王」仁明天皇の第四皇子人康親王(さねやすしんのう 天長八(八三一)年~貞観一四(八七二)年)第五十五代文徳天皇の異母弟で、後の第五十八代光孝天皇の同母弟。貞観元(八五九)年に病気を理由に出家し、法性と号した(少年期より出家の意志があったともされる)。ウィキの「人康親王」によれば、『出家後は諸羽山の麓、現在の京都府京都市山科区四ノ宮に山荘を造営して隠棲し、山科』禅師『宮と称した。この山荘は川を走らせ』、『滝を造るなど』、『趣深く造られていたという』(「伊勢物語」の本段に拠る)。『なお、四ノ宮の地名も親王が仁明天皇の第四皇子であった事に因むとする説がある』とある。但し、以上の太字部を見て貰っても判る通り、渡辺氏によれば、『多賀幾子の法事はもっと早いはずで、史実と物語とが一致しない。だから別人だという説もあるのだが、窮屈に考える必要はあるまい』と言い添えておられる。

「年ごろ、よそには仕うまつれど、近くは、いまだ仕うまつらず。今宵は、ここにさぶらはむ。」永年、よそながら(直接ではなく、間接的に)お仕えして致しておりましたが、御側近くには、未だ嘗て伺候致いたことが御座いません。今宵は一つ、ここで御側近く、お相手申し上げましょう。

・「夜(よる)の御座(おまし)の設(まう)け」常行のための夜の寝所の用意。

・「さるに」その間。

・「いでて」(一時、)親王の御前より下がって(席を外して)。

・「たばかりたまふやう」常行を客人扱いして下さる親王に対し、常行が、ただその厚意を受けるわけには行かないから、それに対する御礼として、「あれこれ、趣向をお考えなさることには」の意。

・「宮仕へのはじめ」かく、初めて直(じか)に御側へ伺候致すに際し。

・「ただ、なほ、やはあるべき」反語。ただ、何の献上品も差し上げぬということが、あってよいものか、いや、大いによろしくない。

・「三條の大御幸(おほみゆき)せし時」先に示した通り、清和天皇が良相の西三条にある自邸「百華亭」に行幸したのは、貞観八(八六六)年三月二十三日のことで、『この行幸も史実としてはこの法事の七年ほど後のことで、物語とは前後が一致しない』と渡辺氏の注にある(太字やぶちゃん)。

・「大御幸の後(のち)、奉りしかば」良相にその石(残念ながら、「伊勢物語」にはどこにも「さざれ石」とは書かれてはいない)を献上した人物は清和天皇の大御幸に合わせて、献上しようとしたのであるが、手筈が狂って、大御幸が終わって後に持ち込まれたために。

・「ある人の御曹司(おほんざうし)」渡辺氏の頭注に『女房の局(つぼね)であろう』とある。無論、西三条邸(百華亭)の中にある、の意である。

・「溝(みぞ)」溝(どぶ)の意ではなく、坪庭に引き込んだ小流れのことであろう。

・「島」『池野中の島を、庭園の中心として言ったもの』(渡辺氏頭注)。「庭」に言い換えてよい。

・「御隨身(みずいじん)」弓矢を背負い、帯剣して、貴人の外出に随従した近衛府の武装した舎人(とねり:雑役を担当する召使)。護衛役。ガードマン。

・「これを、ただに奉らば、すずろなるべし。」これをなんの添え事もなく、そのまま差し出すというのでは、いかにも無風流に過ぎるというものだ。

・「人々」以上の随身や舎人といった供人たち。

・「右の馬の頭なりける人」この場合、渡辺氏によれば、「伊勢物語」のモデルである在原『業平を指すつもりであろう』とある。

・「靑き苔をきざみて」『親王に献上する岩には青い苔が一面に生えていて、その苔に刻むように、次の歌を印したものか』(渡辺氏頭注)。

・「蒔繪(まきゑ)のかたに」蒔絵の模様のようにして。

・「飽(あ)かねども岩にぞかふる色見えぬ心を見せむよしのなければ」渡辺氏の注によれば、『こんなものでは満足でないのですが、私の志』(こころざし)『を岩に代えてお贈り申します。色となって現れない私の真心をお目にかける方法がありませんので』の意で、『今まで「近く仕うまつらず」』じまいで御座いましたが、『よそながら敬慕して』おりました、『という気持ちを、花のような目立つ色彩を持たぬ岩に託したもの。常行の気持』ち『になってよんだ代作』とある。

「二條后(きさき)」第五十六代清和天皇の女御(後に皇太后)藤原高子(こうし/たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)。藤原基経(清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代に亙って朝廷の実権を握った人物(陽成天皇を暴虐として廃し、光孝天皇を立てている)。日本史上初の関白就任者)の同母妹。

「觀應二年」南朝は正平六年。一三五一年

「中納言公忠(きんたゞ)」三条公忠(貞和二/正平元(一三四六)年~永徳三/弘和三(一三八四)年)北朝の公卿で歌人としても知られる。近衛中将・権中納言・権大納言を歴任し、延文五/正平一五(一三六〇)年、内大臣。有職故実に精通し、公家の中で公忠を師と仰ぐ者が多かったという。書にも優れ、願文等の清書の依頼も多く、絵巻物「暮帰絵詞」の詞書筆者の一人としても知られる。日記「後愚昧記」を残しており、南北朝期の社会・歌壇史研究上、有用な重要史料となっている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。「その冬、勅勘によつて、安藝國へ左遷せられける」とあるが、ウィキの「三条公忠」の非常に詳細な経歴記載を見ても、「勅勘」の内容は不明。この場合の「勅勘」は北朝の当時の天皇崇光天皇ということにはなる(但し、翌年、後光厳天皇に践祚)。但し、沾涼の記載が正確なら、ウィキの記載から、その後、文和四/正平一〇(一三五五年)八月に正二位に昇叙し、延文五/正平一五(一三六〇)年九月には内大臣に任ぜられているから、勅勘は解かれている

「武田伊豆守氏信」南北朝及び室町初期の守護大名武田氏信(応長二(一三一二)年~天授六/康暦二(一三八〇)年)。甲斐源氏の流れを汲む安芸武田氏初代当主。甲斐武田氏第十代当主で北朝方についた武田信武の次男。

「城中」佐東銀山城(さとうかなやまじょう)であろう。現在の広島市安佐南区にあった山城。

「大江輝元」中国九ヶ国に百十二万石を領した、豊臣政権の五大老の一人である毛利輝元(天文二二(一五五三)年~寛永二(一六二五)年)。

「城中」広島城。

「福島正則」(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)は当初、豊臣秀吉に仕え、「賤ケ岳の戦い」(「七本槍」の一人)・「小牧・長久手の戦い」及び朝鮮出兵などで活躍、文禄四(一五九五)年には尾張清洲城主となったが、「関ケ原の戦い」で徳川方につき、安芸広島藩主となった(慶長六(一六〇一)年三月入封。以上の怪奇談はその時(後述するように移封される十八年後までの閉区間)のものと考えられる)。しかし、広島城の無断修築を咎められ、領地没収となり、元和五(一六一九)年、信濃川中島に移されて高井野に蟄居した(主に講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「奇特〔きどく〕」神仏などが持っている人智を越えた超自然的能力。霊験。]

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